ダウラギリへの思い


東壁をバックに 宮川隊員撮影

クライミングを始めて、ある程度登れるようになると誰もが、
“登りたい山”に出会うことでしょう。
そう、登れる山でなく、登りたい山・・・。

「岩と雪」や「Climbing Journal」や山の本を読むことが日課だったあのころ、
気になる記事が掲載されました。
“Himalayan New Alpine Style”。
ダウラギリの東壁を3人で、アルパインスタイルで、冬に、しかもシュラフももたずに・・・。

東壁の初登攀は、W.クルティカらによる、やはりアルパインスタイルによるものだったが、
CJのこの記事には惹かれた・・・。

そして何年か後、今度は岩雪の年鑑に小さな東壁の写真とともに、
東壁のソロを掲載した記事を見つけた。
そうして、ダウラの東壁は、私のFavorite Listに掲載されることになる。

97年夏、K2で高所登山の魅力とスタイルに対する葛藤を経験した私は、
しばらくフリークライミングに傾倒した。

そして、K2の仲間であり、クラブの仲間でもある鈴木幹夫がシシャパンマ南西壁を計画したとき、
忘れかけていたダウラの東壁が脳裏から浮かんだ。
会の先輩である私を立ててか、
シシャパンマ遠征に誘ってくれた鈴木君にダウラに変えるなら行くと即答する。
彼も今回はスタイルにこだわりたいのだろう。
しかし、返事は、ダウラには興味ありません。

結果的には、ぼくは、フリーツアーに出かけ、
鈴木君は、シシャパンマに行ったものの、
南西壁には触れずノーマルルートから全員登頂して帰ってきた。
彼にとっても不本意な面もあったようだが、良い登山だったようだ。


2000年秋、東海支部の田辺さんより2001年冬季ローツェのお誘いを受ける。
手紙に含まれていた計画書案の中に、ダウラギリもしくはチョーオユーでの順応登山という文字を見つけた。

サラリーマンである私にとって、休暇の取得は一番大きな問題である。
ダウラで東壁をトライさせてもらえるなら、参加したい旨電話を入れる。
その時の返事は、無理をしないことを約束できるなら、検討の余地ありということだった。

K2以来久しぶりに東海支部ルームへと出向いた。
しかし、ミーティングでの結論は、順応登山にリスクを負うわけにはいかないので、
比較的登りやすい、チョーオユーに決定すると・・・。
その後翌日まで続いた、ミーティングでの内容は、あまり覚えてはいない。
それじゃあ、自分で企画すればいいさ・・・そんなことを考えながらテント設営用のプレートの組み立てを手伝ったりした。

ローツェの計画書で会社の許可を得ていたので、
少しばかり言い出しにくかったが、守備よくダウラでも休めることになる。


そして、数人の友人に声をかけ、2つ返事で参加の意思表示をしたのが、仕立君だった。
うれしかった。

当初2名で話を進めかけたが、金銭的な問題や1名の調子が悪くなったときのことなどを考慮してあと2名の参加者を探す。

3人目の隊員、すなわち宮川さんは、2月11日、ミーティングを兼ねて3人でいった空木岳の頂上で参加を表明した。
かくして、東壁のアルパインスタイルと60歳による無酸素登頂を目標とした
「京都ダウラギリT峰登山隊」が結成されたわけである。
K2以降、本格的な冬季登攀から遠ざかり、仕事の忙しさも手伝って、
空木での私は、自分でも情けない状態だった。

これから半年でどれだけ自分を高めることができるだろう。


問題はいくつもあった。
仕立君の高所経験、私のトレーニング状況、宮川さんの年齢。
宮川さんは、日々のトレーニングを通して強靭な体を作っているので、なんとかなるだろう。
いや、高所経験・海外経験も豊富で現状では、もっとも頂上に近いかもしれない。
しかし、それは北東稜からのことである。

自分の状態はさておき、3人のチームで隊を分けることには、
躊躇するものがあり、その部分にあまり触れずに計画は進んだ。

計画の概要は、北東コルまでは、シェルパを1名雇い、
荷上げの一部を助けてもらいながら、ルートメンテナンスをしてもらい、
北東コルより上では、3人で行動し、FIXを張りながらC3を建設後、
状況を見て・・・という話だったが、宮川さんからは、
「自分は、東壁は無理だから、東壁を登る条件がそろえば、2名でいってほしい。
僕は、頂上にのぼれなくてもかまわない」との話をいただく。

宮川さんに、8000mのノーマルルートに興味があるとは思えず、
故須藤さんの事故処理や追悼集の作成を通してえた信頼関係から、
あるいは須藤さんの後輩である私の力になるために参加してくれたのだと思う。

それらを考慮して、1名のシェルパは、積極的に使い2パーティでローテーションすれば
なんとかなるかもしれないと思うようになった。


しかし、8000mの頂をアルパイスタイルで狙うには、経験が重要である。
2001年GW前後に仕立君とデナリでトレーニングをすることにする。
メスナークーロワールあたりの1dayは、良いシミュレーションになるだろう。

休暇の関係で20日間(内登山は、11日間)しか取れなかった日程では、
残念ながら登れず、BUSSIN CAMPで3泊して風雪に追い返されることになる。
しかし、シーズン前のアラスカでのトレーニングは、
お金は掛かったものの仕立君にとっても私にとってもいい刺激となった。
そして何より久しぶりの長期の山行が楽しかった。


 7月中旬、一年の歳月を費やして、須藤さんの追悼集が出来上がった。
仲間の手伝いをうけてそれらを発送し、あとは追悼山行である奥又白を除き、
自分のトレーニングに時間を費やすことにする。
しかし、奥又白では、あろうことか1名の滑落による死者を出してしまった。
悔やんでも悔やみきれない出来事だった。

救助に向かいながら、さすがにこの時は、動揺していた。
一緒に雪渓を登っていった三浦君に、「こんな頼りない山田さんは、初めてだ」といわれてしまう。


そして、8月26日、今ひとつモチベーションのあがらぬまま、
宮川さんと関空をあとにした。
今の調子じゃあ、東壁は難しいなと考えずにはいられなかったからだ。

でも、この目で見てから決めよう、そう思うと気持ちが楽になった。
さあ、出発だ。

山田 記