★板鼻宿街道風景 /板鼻宿本陣跡(板鼻公民館) /古い「てうちん屋」(現在は花屋)











旧道は信越線の踏切を渡り、榛名方面に行く榛名道を分ける。少しゆくと右側に板鼻公民館がある。これが板鼻宿本陣跡で、木の標識が立てられている。すぐ近くには「てうちん屋」という土蔵造りの花屋がある。板鼻宿は天保14年(1843年)には旅籠数54軒で、中山道では多いほうであった。これから先、京までは塩尻以外50軒以上ある宿はなかった。隣宿の高崎、安中に旅籠が少なかった影響かもしれない。現在の街道筋にはそのような面影はほとんど見られない。

第6日目(8月5日 日曜日) 高崎宿〜板鼻宿〜安中宿〜松井田宿〜横川



★新君が代橋(烏川) / 中山道旧道風景(豊岡付近)

旧道はやがて烏川河畔に出、烏川を「新君が代橋」で渡る。中山道旧道は橋を渡って少し先で右に折れ、国道18号線とは分かれる。その先300mくらい行ったところで左に折れてゆく道があるが、これは旧国道18号線であり、中山道旧道はさらに100mくらい先を左に曲がる。曲がらないでまっすぐ行くと榛名町に通ずる榛名道である。


★碓氷川対岸の達磨寺遠望 / 碓氷川

旧道は2Kmくらい続いた後、再び国道18号線と合流する。道幅も広くなり、交通量も多い。国道に沿って碓氷川が流れているので、土手に上って土手沿いに歩く。川の対岸には福達磨で有名な少林山達磨寺が遠望できる。
中山道はこの先、碓氷川に沿うかたちで進んでゆく。


★少林山山門 / 達磨寺本殿 / 達磨堂(達磨資料館)内部












少林山達磨寺に行くには国道18号線の「少林山入口」信号を左折して橋をわたり、川沿いの道を少し下流に戻ればよい。道から少し離れたところに「少林山」の山門が建っている。ここから長い急な石段が本殿まで続いている。正月風景として新聞、TV等でよく目にする「高崎の達磨市」はここで行われているのだろうか。本殿の「だるま納め所」にはお役目の済んだ達磨さんがたくさん置かれていた。なお、本殿の横には「達磨堂」というのがあって、全国の達磨や関連物品が展示されている。中央には達磨さんの像がでんと鎮座している。


★八幡の八幡神社・鳥居/ 同山門/ 同本殿












さて、中山道(国道18号線)に戻り少し歩くと、右手に大きな赤い鳥居が見えてくる。八幡(やわた)八幡神社の鳥居である。八幡神社はここからまっすぐに600mくらいの距離にある。この参道には鎌倉時代から続く杉並木があったが、昭和43年にすっかりかれてしまい伐採されたという。路傍に「杉並木を偲ぶ碑」が建っていた。当社は957年京都岩清水八幡宮を勧請し、一国一社の八幡宮として広く尊崇されたという。なお、本殿は1757年(宝暦7年)の建立である。


★「旧中山道板鼻宿」の標識 

中山道に戻り先に進む。しばらく歩くと「旧中山道板鼻宿」の標識が見えてくる。ガイドブック(学研版「中山道の歩き方・武州路・上州路をゆく」)で見ると、この二又の道は左側を行くようになっている。何の疑問も抱かずにこちらの道を歩いたが、だいぶ行ってからおかしいことに気が付いた。旧道に入るはずなのにこの道は国道18号線そのものである。新しい橋を渡るところで明確に誤りを確認し、もと来た道を引き返した。
結局、この国道18号線はまだ新しく、ガイドブックで使用している2万5千分の1地図には記載されていないのである。よく見るとその部分に赤い点線が描かれているのだが、これが新しい道だとは気が付かない。原本の地図がないのなら、この部分は地図上に注を入れてもらいたかった。いずれにしろ、ここを歩くときには十分な注意が必要である。さて、先ほどの標識のところに戻り、今度は右にゆき、少し先で左にゆるく曲がってゆく。




★原市の杉並木 / 原市高札場跡

旧道は国道18号線と交差するが、このあと旧道沿いには杉並木が続いている。昔は安中・原市の杉並木として有名だったが、だんだんと枯死してしまい、残っているのはこのあたりだけになってしまったという。
原市に入ると左手に原市高札場跡の標識がある。明治天皇御少休所跡の碑も建っている。ここには茶屋本陣もあったという。


★ 八本木の地蔵堂 / 旧立場茶屋 

旧道をさらに歩くと、八本木の地蔵堂が見えてくる。ここのご本尊・延命地蔵菩薩像は「木造の寄木造りで室町時代初期の作と推定され、参勤交代のため中山道を往来する諸大名も下乗下馬して参詣したと伝えられる」と説明板に書いてあった。
このお堂の前には古い立派な建物があり、「八本木旧立場茶屋」の立札がたっていた。大名はここで一休みしてお地蔵様に敬意を表したのかもしれない。さらに進んだ郷原地区には日枝神社、自性寺などがある。

★松井田宿中心部街道風景 / 古い面影を残す辻中薬局

やがて旧道は国道18号線に合流した後またすぐに分かれ、松井田町に入ってゆく。松井田宿には本陣2軒、脇本陣も2軒あったというが、いずれも遺構などは残っていない。旅籠数は14軒と少なかった。
街道筋には古い商店もちらほら見られる。
松井田の町並みを抜け、鉄道の線路にぶつかるとその先旧道の道筋はわからなくなる。そこで、ガイドブックのとおり先に進むことにする。


★五料茶屋本陣門 / 茶屋本陣・お東 / 上段の間(お東)












やがて、旧道は五料に入ってゆく。ここには茶屋本陣のお西・お東がある。街道から少し入ったところにあるが、案内があるので間違えることはない。お西・お東は江戸時代の名主屋敷で、中島家の住宅として使われていたが、茶屋本陣として大名の休憩場所にも利用された。建物は文化3年(1806年)に建てられ、その後大きな改造もされず、当時の面影をよく伝えている。お西・お東ともに松井田町に寄付され、町では保存修理工事を行い、現在は両方とも一般公開されている。(入館料210円。月曜日休館)


★妙義山 / 横川駅前・峠の釜めし荻野屋

この先は国道18号線と合流し、JR横川駅まで歩調を速めて一気に歩く。途中、妙義山が大きく見えた。道は横川町の手前で旧道に入り、JR横川駅に到着した。駅前はなぜか万国旗がかざられている。峠の釜めし・荻野屋も健在であった。
今日の旅はここまで。よく歩いた。


★高崎駅 / 旧中山道(赤坂通り)

今日はJR高崎駅から歩き始める。西口を出て駅前の道をまっすぐ行けば中山道にぶつかる。旧道は本町三交差点で左折する。まっすぐに歩いてゆくと道は旧道の雰囲気を残す細い道になる。ここには旧中山道の標識も立っている。
高崎は城下町であり、中山道の中では最も繁華な宿場であった。中山道随一の人口を誇ったが、宿場町としての高崎には本陣も脇本陣もない。諸大名は城下町の宿泊を敬遠したようである。旅籠の数も少なかった。
高崎城は鎌倉時代初期に和田正信がはじめて築いたと伝えられる。以後、城主は井伊、酒井、安藤、大河内松平・・とかなり替わった。城は明治維新後取り壊されてしまった。

歩行距離 約30Km   歩数 46,500歩

★ 安中宿本陣跡付近 / 旧碓氷郡役所跡 / 街道沿いの古い商店












板鼻宿の町並みが途切れ、碓氷川を鷹の巣橋で渡る。この先JR安中駅付近で先ほどの新しい国道18号線は従来の18号線と合流する。道の様子はガイドブックの2万5千分の1地図とは一変しているので注意が必要である。旧道をしばらく歩くと郵便局が見える。ここが本陣の跡だという。この先を少し行ったところを右に曲がると旧碓氷郡役所の跡がある。周辺一帯が安中城跡だというが、城の遺構は見られない。旧道に戻り歩を進めると道沿いには古い家もちらほら見える。安中は城下町で飯盛女を置くことを禁じたので旅籠の数は少なかった。