第5日目(7月29日 日曜日) 本庄宿〜新町宿〜倉賀野宿〜高崎宿


★本庄宿中心部 / 移設された本陣門 / 旧本庄警察署(市立歴史民俗資料館)

今日はJR本庄駅から歩き始める。駅から北にまっすぐ行くと中山道にぶつかる。
中山道をしばらく歩くと、道の右側に埼玉県信用金庫の建物があるが、ここに田村本陣があったという。このあたりが宿の中心だったのだろう。しかし、現在では、跡を示す碑すら建っていない。この先を右に曲がって100mくらいのところに消防署があり、その裏にこの本陣の門だけが移設されている。ここには明治時代の本庄警察署の建物が残されており、市立歴史民俗資料館として活用されている。ただし、日曜、休日休館とのことで見学できなかった。


★金鑚(かなさな)神社本殿 / 同境内のオオクスノキ

市立の一般向けの資料館が日曜、休日休館とはせっかくの施設が生かされていないなあ、などと考えながら先に進む。
本庄宿は江戸からの宿場の中では最も大きい規模を誇ったというが、街道沿いには石碑、道標、説明板の類は全くない。先ほどの資料館の中に説明があるのかもしれないが、多くの人に伝える機会を逸している。惜しいことだ。
宿場のはずれに金鑚(かなさな)神社がある。この境内には大きなクスノキがあり、埼玉県指定の天然記念物になっている。寛永16年(1639年)に神社社殿改修のおり、本庄城主・小笠原氏が献木したものという。北関東でクスノキがこのように巨木になったのは大変珍しいそうである。


★神保原町付近の旧中山道 / 神流(かんな)川橋とミニ灯篭 / 神流川

この後、道幅は広いが交通量のあまり多くない旧道が坦々と続いている。この日は快晴で日差しが強かったが、湿度が低かったのか暑さに参ったという記憶はない。
やがて道は神流(かんな)川に差し掛かる。旧道は橋の手前で国道に合流し、国道の神流川橋を渡る。この川は普段は川幅が狭く徒歩または土橋で渡ったが、増水すると両岸に綱を引いてそれを手繰って渡す綱操渡船になった。また、川の流れがよく変わるので、目印として両岸に常夜灯を置いた。これは「見通し灯篭」と呼ばれたが、現在は神流川橋の両端にミニチュア版が復元されている。


★神流川古戦場跡碑 / 新町宿入口の常夜灯(復元)

橋を渡りきってすぐのところに神流川古戦場跡碑が建っている。説明板によると、天正10年(1582年)織田信長の臣、滝川一益と小田原北条氏の先兵、北条氏邦がこの地で大激戦を繰り広げた。一益は本能寺の変を聞いて京都に向かおうとし、北条氏は好機到来とばかりに兵を送り合戦となった。近くには戦死者の首塚、胴塚なども残されているという。
この碑の少し先に大きな常夜灯が立っている。旧道はここで右に分かれていく。新町宿の入り口である。なお、この常夜灯は先ほどの「見通し灯篭」が実物大に復元されたものらしい。


★新町宿中心部の行在所公園 / 新町宿旧道風景

新町宿の成立は中山道の多くの宿場よりだいぶ遅い。承応3年(1654年)落合村と笛木村に伝馬役が課せられ、享保9年(1724年)に二つを合わせて新町宿と呼んだ。現在の街並みはあまり賑やかではないが、中心部と思われるところに行在所公園というのがあった。明治11年に明治天皇が北国巡幸の折ここに泊まられたという。このあとしばらく旧道の風情が残る道を歩く。


★烏川沿いのサイクリングロード / 烏川 / 柳瀬橋

道は関越自動車道の下をくぐるが、中山道旧道はこの先あたりから消失して部分的にしか分からないという。烏川沿いにサイクリングロードがあるのでこれを歩く。烏川は利根川の支流で大きな川である。昔は船渡しであったが、今は柳瀬橋で川を渡る。


★日光例幣使街道と中山道の分岐点 / 同所の道標と常夜灯

橋を渡ってから国道17号線、JR高崎線の線路を越えると、中山道と日光例幣使街道との分岐点が近い。
徳川家康の命日4月17日に、京からの勅使が日光東照宮に幣帛(へいはく)を奉納する行事があった。一行は京から中山道をとおり、ここで分かれて日光に向かう。ここからの道を例幣使街道という。
分岐点には「従是右江戸道 左日光道」(京側から見て)の道標と常夜灯が立っている。そのうしろに阿弥陀堂も残されている。


★倉賀野宿中心部(本陣跡) / 脇本陣跡 / 高札場跡

道は倉賀野宿中心部に入ってゆく。道沿いには古い家もちらほら見える。倉賀野宿本陣は道の左側に碑だけが建っている。その少し先には脇本陣跡が残されている。門は当時のもので、建物は明治時代に再建されたが、その頃も旅籠屋をやっていたという。すぐ近くには高札場跡もあり、復元されている。


★倉賀野河岸跡 / 倉賀野城址碑

高札場の先で旧道を左に曲がってまっすぐ行くと烏川にぶつかる。往時、この近くには河岸があり、大いに栄えた。利根川、江戸川を利用する船運はここ倉賀野が最上流で、信州、越後、甲斐の米はここから船で江戸に運ばれたという。しかし、明治17年の高崎線の開通によって急速に衰えた。
川に向かって右手は小さな公園になっており、倉賀野城址の大きな石碑が建っている。また、左手には八幡神社とその森がある。



歩行距離  約22Km   歩数 36,800歩

★倉賀野神社 / 旧中山道の道路標識


旧道に戻って先に進む。少し行くと左に倉賀野神社がある。倉賀野町の総鎮守であり、古い由来をもっている。この少し先には安楽寺がある。この付近に上の木戸があって倉賀野宿は終わりとなる。道はこの先から広くなり旧道らしくなくなるが、道路わきには「旧中山道」の道路標識が立っている。国道17号線の下をくぐり、上信電鉄の踏切を越えると道の両側には商店、ビルの並ぶ高崎市街となる。高崎新町の交差点を右に曲がるとJR高崎駅である。今日の旅はここまで。