第24日目 (2002年12月31日 火曜日)  (野洲)〜守山宿〜草津宿


★野洲の旧道風景 / 野洲川橋から東海道線鉄橋を望む

その先の中山道旧道は、野洲本町商店街として続いている。商店街としては全く活気のない、いかにも旧道筋という感じの道をしばらく歩くと、やがて東海道線の下をくぐる。その少し先が野洲川である。
野洲川は、水量はあまりないが川幅は大変広い。すぐ近くを東海道線の電車が走っている。長い野洲川橋を渡ると、守山市に入る。


「中山道歩き旅」もいよいよ最終日となった。中山道は草津宿で東海道と合流する。私は、草津宿から先、京都三條大橋までは「東海道歩き旅」で既に歩いているので、今回の旅は草津宿で完了とすることにしている。
今日の行程は、野洲から守山宿を経て草津宿に入る。距離的にはあまり長くないので、昼頃には草津に到着してしまう。そこで、草津から電車で石山寺、三井寺に足をのばす予定である。

★茅葺屋根の造り酒屋 / 中山道・野洲道標

今日は時間的に少し余裕があるので、草津のホテルを7:50頃出発した。東海道線で三つ戻り、野洲駅に到着したのは8:15頃。駅前の道をまっすぐに行くと新幹線のガードがあり、この付近で中山道旧道とぶつかる。今日はここからスタートである。この近くに立派な茅葺屋根の造り酒屋がある。また、その少し先には城門のような門を構えた大きな民家があった。さらに少し行った交差点脇に中山道・野洲の碑が建っている。近くに「中山道・外和木の標」の説明板があった。それによると、この付近で朝鮮人街道が分岐していたようである。朝鮮人街道は、ここから近江八幡、彦根を経て鳥居本宿で再び中山道と合流する。


★馬路石辺神社(正月を迎える準備万端整う)  

橋を渡って少し行くと馬路石辺神社の鳥居が建っている。長い参道の両側には「初詣」の赤い幟が立てられている。今日は大晦日、明日は正月元旦だ。長い参道の奥は広くなっており、そこには平成15年の干支の大きな羊の看板が立っていた。この神社は延喜式にもみえる古社であり、この近在の総鎮守となっている。今は人の姿はほとんど見えないが、明日からは大変な人出になるのだろう。一足早い初詣(?)をすませ、中山道旧道に戻る。


★吉身西交差点 / 守山宿中心部の町並み / 古い造り酒屋(宇野本家)












旧道筋は吉身西交差点を渡ると道幅が広くなり、守山宿の中心部に入ってゆく。昔からこの付近の道幅は広く、かつ、屋敷の敷地が稲妻形の段違いになっていた。これは治安維持のための町づくりだったといわれている。現在、古い作りの家もいくらか見られるが、本陣、脇本陣などの遺構は残されていない。古い建物の一つに造り酒屋の宇野本家があり、宿場の面影を残している。また、古い蝋燭屋の建物、古い旅籠の甲屋跡なども見ることができる。


★吉身郷の街道風景 / 源氏蛍の棲む川(伊勢戸川)

先ほどの神社を出たあたり一帯を吉身という。古くは吉身郷と称し、豊かな森林ときれいな水に恵まれた景勝地であったという。少し先に小さな川が流れており、脇に説明板がある。
守山が中山道の宿場に指定されたとき、吉身は西の今宿とともに守山本宿の加宿として宿場の役割を分担した。本宿と加宿の境には川が流されその標とした。この川を伊勢戸川という。川の水は冷たく清らかで、旅人の飲料水としても重宝がられ、防火用水としての役割も果たしてきた。また、源氏蛍の発生の川としても親しまれてきた。近年、この川もかつての清らかさを取り戻し、源氏蛍も再びその華麗な姿を見せるようになった。


★石造道標 / 東門院の仁王門

少し先に石造道標が建っている。「右 中山道 並 美濃路」、「左 錦織寺四五丁・・」と書かれている。どう見ても右左が逆に思えるので、しばし道標の前で考え込んでしまった。どちら側から見るかによって違うので、このような道標の指示はあまり本気に考えないほうが良い。(どちらも同じような道なので一瞬迷ってしまった)
右に曲がってすぐのところに東門院がある。守山の名の由来は、延暦13年(794年)頃、この地に比叡山延暦寺の東の関門として守山寺東門院が創建されたことによる。守山とは比叡山を守るという意味なのである。その門前町として町発展の基礎が固まり、古代東山道の交通要衝ともなった。鎌倉時代には近郷農村の生産物を売る市女の活躍があり、その後商業機能を持つ町として発展しつづけた。


★土橋(守山宿と今宿の境) / 今宿の街道風景 

先ほどの道標に戻り左に曲がって中山道を行くと、少し先に土橋がある。守山宿と加宿の今宿の間を流れる吉川に架けられた橋である。江戸時代には長さ20間もあり、川には屋形船が通行し両岸には旅籠、茶店などが建ち並んでいたという。
江戸時代には、中山道では「京立ち守山泊まり」といわれ、京を立ったほとんどの人が守山宿を1日目の宿泊地とした。そのため多くの旅籠が軒を連ねて繁栄し、隣接して西に今宿、東に吉身が加宿され大宿場となった。今宿の街道筋は道幅も元に戻って狭くなり、古い家もちらほらと見える。


★今宿の一里塚 / 大宝神社本殿

広い通りを渡って少し先に今宿の一里塚がある。規模は小さくなっているが、南塚のみが残り榎が植わっている。先代の榎は昭和中ごろに枯れたが、脇芽が成長して現在にいたっているという。なお、滋賀県下で現存する一里塚はここだけで、滋賀県指定史跡になっている。
これから先も街道の町並みは途切れることなく続き、やがて大宝神社の鳥居が見えてくる。この辺には「近江中山道400年祭」の幟がずらりと立っていた。大宝神社は、社伝では大宝年中(701〜704)に勧請したという古い神社である。広い境内の奥に社殿があり、ここでも初詣の準備をしていた。


★綣(へそ)町の町並み / 陸橋上から草津駅方面を望む

大宝神社近辺の地名を綣(へそ)町という。珍しい名前だが、身体のへそ(臍)ではなく糸を丸める意味だという。近くに東海道線の栗東駅があり、街道沿いは比較的賑やかな商店街になっている。
やがて道は東海道線の線路に近づき、線路に沿って少し歩いた後、線路を陸橋で越える。中山道の旧道はこの線路のために消滅してしまったので、この陸橋を渡るしかない。陸橋からは草津駅が見える。草津宿はもうすぐだ。


★伊砂砂神社 / アーケード付の街道商店街

一旦消滅した旧道は陸橋を下りるとまた現れる。左側には伊砂砂神社がある。境内は広く、奥の本殿は応仁2年(1468年)建立の建物で、一間社流造、檜皮葺で重要文化財に指定されている。ここでも、やはり初詣の準備作業が行われていた
道は少し先で草津駅前の広い通りと交差し、その先はアーケード付の賑やかな商店街になっている。旧街道にアーケードがついているのは東海道には何箇所かあったが、中山道では初めてではないかな。頭上には「2003年 今年もよろしくお願いします」と垂れ幕がかかり、もうすっかり正月ムードである。


★中山道・東海道の合流点(前方まっすぐが中山道、右手が東海道)) / 追分の常夜灯・道標の前にて

アーケードの商店街を抜けるとトンネルがあり、上には草津川が流れている。昔は坂を登って川を渡ったが、現代ははトンネルで川をくぐる。トンネルを抜けた石垣の上にに中山道、東海道の追分道標・常夜灯が建っている。いよいよ今回の旅の終点に到達した。時刻は11:15だった。
東海道のときに一度来ているので、それほど感激的ではなかったが、記念に道標の前で写真を撮ってもらった。
今日はこれから東海道線で石山までゆき、京阪電車で石山寺、さらに三井寺をお参りして京都から帰京する予定である。

かくして中山道の旅も終わった。街道歩きにはまってしまった男は帰りの新幹線車中で、さて次はどこを歩こうかなと思いをめぐらせていた。


歩行距離  約 10Km     歩数  20,000歩 (草津宿まで)