私が中山道を歩き始めたのは、2001年1月7日のことでした。プロフィールにも書いておいたように、川沿いのウォーキングに代わるものとして旧街道を歩いてみよう、という単純な発想からです。東海道か中山道かどちらを歩くかについても迷いましたが、結局、まずは中山道を歩いてみようと歩き始めました。
しかし、当時詳しいガイドブック(学研版)はまだ発売されておらず、アバウトな本を頼りに歩いたので、かなりいいかげんなコースとなってしまいました。それでも2回ほど歩き、上尾宿まで達しました。しかし、1月のこととて寒い。これから空っ風の吹く上州に向かって歩くのはいかがなものかと考え直し、中山道はここまでで一旦中止し、東海道に乗り換えることにしました。
その後、東海道歩き旅が岡崎に達し、日帰りでは無理になってきたのを機に中山道歩きを再開しました。名古屋近辺の暑さを警戒したこともあります。実際、夏の名古屋は大変暑い。
東海道歩きを中断している間に、中山道歩きは7月27日に軽井沢まで到達し、この年はここまでで終了。
翌2002年4月に再開し、その年の大晦日に全24日の旅を終了ということで、間に東海道の旅をはさみますが、丸2年がかりの旅ということになります。
中山道の道筋
中山道は、五街道のひとつとして江戸日本橋を基点に本郷追分で日光御成道と別れ、武蔵国を縦貫し、上野国、信濃国、美濃国、近江国をとおり草津宿で東海道と合流します。日本橋から草津宿まで67宿、129里10町8間の道のりです。
中山道の現在の道筋と道路名ですが、次に示すようにかなり複雑になっています。東海道がほぼ全線国道1号線に沿っているのとは対照的です。

現代中山道の道路名など
@日本橋〜高崎・・・国道17号線
A高崎〜信濃追分(軽井沢)・・・国道18号線
B信濃追分〜御代田〜小田井〜岩村田〜八幡・・・一般道、県道(主要地方道)
C八幡〜望月〜芦田〜長久保〜和田〜和田峠〜下諏訪・・・国道142号線
D下諏訪〜岡谷〜塩尻・・・国道20号線、国道153号線(途中から)
E塩尻〜奈良井〜木曽福島〜南木曽・・・国道19号線
F南木曽〜妻籠〜馬籠〜中津川・・・県道(主要地方道)
G中津川〜大湫〜細久手〜御嵩・・・一般道
H御嵩〜美濃太田〜岐阜〜大垣〜米原・・・国道21号線、一般道
I米原〜彦根〜野洲〜草津・・・一般道、(国道8号線)

現代の国道は機能が最優先ですから、中山道ルートを1本の国道にするなどという発想はまったく出ないのは当然です。その点東海道は現代でも東京、関西を結ぶ最短ルートとして1本の国道として管理される、というのもよく理解できます。
旧道として古い遺構、景観などが残されているのは国道、県道(主要地方道)ではなく、それ以外の一般道に多いようです。もちろん国道と並行して旧道が残されているというケースも多々ありますが。上の表でいえば、B、F、G、Iなどは旧道が比較的長い区間残されているといえます。それだけに現在の地図からは中山道旧道の道筋推定をしにくいかもしれません。
信濃路・木曽路といえば、私にとっては忘れられない道筋となりました。まず第1には、本文中にも記しましたが、自分のパソコントラブルのために軽井沢〜奈良井宿の間を2度訪問したことです。まあ、それだけ印象が強いということです。そして、2番目にはこの道筋を歩いている中で、同じように街道歩きを楽しんでいる方々に出会って交流がはかれたことです。
まず、1番目のパソコントラブルですが、これは5月末の奈良井宿を歩いた後に発生し、それまでの4月、5月に歩いた分の画像が全て消えてしまいました。一時は愕然としたものですが気を取り直し、次々週には奈良井宿を再訪しました。これはこの時期に平沢の漆器祭、奈良井宿祭があることを前回歩いたときの情報で知っていたからです。結果的には、妻と二人で祭り見物もできてよかったと思っています。
残りの区間については、写真撮影の目的で8月に車で再訪しました。軽井沢から前回歩いた道を車でたどり、和田峠で一泊し、次の日平沢辺りまで行ってその日のうちに東京まで帰っています。4日かけて歩いたところを車で2日間ですべて廻ったのですが、これは前回歩いたところをなぞっているために道に迷うことがなかったということが大きかったと思います。
歩き終わって記録を書こうとするときに、あそこをもっとよく見ればよかったとか、写真を撮っておけばよかったなどということがよくあります。その意味では同じ場所を2度訪問するということは大変メリットがあります。反面、もちろんデメリットもあります。その時期にしか撮れない写真、例えば御代田の満開の枝垂桜、芦田宿本陣内部の貴重な写真などは撮り直しができず残念でした。もちろん、再訪のための費用、時間、労力がかかるのは最大のデメリットです。データのバックアップは必ず取っておきましょう!!。
さて、2番目に忘れられないのは旅の途中で出会った旅人たち、中でも同じ旅籠で食事を共にして情報交換をした方々との出会いです。この方々からは、このHPを見たとのメールも届いています。
また、木曽路の中で最も昔の伝統的な姿が残っている奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿を妻と二人で歩けたのも大変思い出に残っています。
中山道 旅のまとめA  信濃路・木曽路
中山道の歴史
東海道と中山道、同じ京都に向かうのに日本橋から一方は南に、一方は北にと全く正反対な方向に出発します。大体、京都へ行くのに何で高崎なんて廻っていくのだ、などと歩き始めた頃は思ったものです。
中山道を歩き進めるにつれて、歴史的な経緯などもだんだんと興味をもつようになりました。
中山道の前身は東山道ですが、これは7世紀後半(律令制の時代)に七道のひとつとして作られました。武蔵国は当初東山道に属し、畿内からは上野国を通るのが正規のルートでした。その後東海道の武蔵国ルートが整備され、東海道がメインルートとなりましたが、歴史的には東山道が武蔵国から畿内への正規のルートだったことがあるのです。
ちなみに、当初の東海道は相模国から直接武蔵国へは行かず、東京湾を横断して上総、下総に向かっていました。後の東海道のように相模→武蔵→下総→上総となるのは771年(宝亀2年)のことで、このときに武蔵国は東山道から東海道に編入されています。
中山道は、慶長7年(1602年)2月24日付けの美濃国御嵩宿へ出された伝馬朱印状が最も古く、次いで同年6月10日に武蔵国熊谷宿に駄賃定書が出されています。これらをもって中山道の成立は慶長7年とされています。
また中山道の表記については、江戸時代にも「山」の字と「仙」の字が混用されており、正徳6年(1716年)に表記と読み方についての法令が出されています。これによると、「中山道」と表記し、「ナカセンドウ」と読む、と定められました。その理由としては、中山道は昔の東山道の中筋の道であり、東山道は「トウセンドウ」と読んだから、と説明されています。しかし、その後も混用は続き、私の記憶でも10数年前には国道17号線の表記も「中仙道」となっていたような気がします。ただし、現在では公式、非公式とも表記はすべて「中山道」に統一されているようです。
中山道の旅のまとめとして、いくつかに分けて旅の印象などを記しておきましょう。まずは武州路、上州路です。
私は板橋、巣鴨近辺に6年ほど住んでいたことがあるので、この辺の中山道は土地勘のある道筋でした。住んでいる頃は、この道がかつて京都への幹線道路だったなどと考えたことはありませんでしたが、今回の旅でそれを確認したことになります。
●巣鴨の庚申塚は、現在は小さな社の中に碑が収められていますが、「江戸名所図会」を見ると小さな塚があり、その上に碑が建っているのがわかります。付近は中山道の立場(休憩所)になっており、よしず張りの茶屋などが並んで様々な人が歩いています。同じ名所図会には、板橋駅の図も載っています。この図には太鼓橋の板橋が描かれ、付近を通行する人々の姿や、旅籠、料理屋の様子なども細かく描かれています。(「参考書」参照)
●中山道旧道は板橋宿を出たあと、国道17号線の広い通りと一緒なりますが、蕨宿の手前で国道とはわかれ、旧国道(県道)あるいは一般道となります。浦和から鴻巣の先まではずっと旧国道17号線(現県道)で交通量の多い道であまり面白みはありません。古い遺構などもほとんど残っていないようです。熊谷の手前の荒川土手の道は昔の道筋ははっきりしないかもしれないが、歩くのは楽しい道でした。熊谷は空襲が激しかったということで、古いものはほとんど残っていませんでした。
●深谷、本庄と過ぎ、新町に入ると上州路になります。倉賀野宿の手前、日光例幣使街道の分岐点にある常夜灯、道標などは印象に残っています。また、倉賀野の烏川沿いの河岸跡なども栄枯盛衰を物語り、興味深いものでした。高崎は大きな町になりすぎて、面白くない。でも、赤坂通りなど少し旧道のイメージを残しているところもあり、ホッとしました。
●高崎から先は国道18号線になりますが、この国道もだんだんと拡大、新ルート化という方向に進んでいます。ガイドブックに新しくできた国道が記載されておらず、道を間違えたこともありました。
松井田近くなると妙義山ののこぎりのような山の姿が目を楽しませてくれます。坂本宿からはいよいよ碓氷峠にかかり、峠を越えれば信濃国・軽井沢です。
中山道 旅のまとめ@  武州路・上州路
今まで美濃路は私にとっては未知の道でした。岐阜県自体これまでは通過するばかりで一度も降りたことがない、という状況でした。それが今回の旅で東から西へ端から端まで歩いてしまったのですから、もう美濃路通といえるかもしれません。少なくとも、戦国時代に名高い美濃国に親近感を持ったのは確かです。まず、大井宿から御嶽宿に至る山間の道はすばらしかった。そして細久手宿の古い旅籠「大黒屋」で一夜を過ごしたこと。日本ラインの流れと犬山城の遠景。そして、最後の極めつけは関が原の古戦場めぐりでした。
近江路は東海道のときにも歩いていますが、やはり新しい発見がありました。特に今回は近江商人がらみの地域を多くとおり、近江商人についての知識と見聞が広がりました。また、彦根と彦根城、石田三成の佐和山城との位置関係なども歩いてみてわかりました。今回は通らなかった近江八幡方面も機会があったら行ってみたいなという気がしました。
中山道 旅のまとめB  美濃路・近江路
長々と勝手なことを書いてきました。やはり、長い日数をかけて歩いてそれなりの記録をまとめるという作業を繰り返していると、自分なりにも愛着が湧き、ついついだらだらと書き連ねてしまいました。
さあ、これからは新しい旅に出発します。まだ、休日だけの歩き旅という状況は変わりありませんが、のんびり気長に続けるつもりです。当面、甲州街道歩き旅に出る予定です。
なお、今年の11月にネパールのヒマラヤ街道を歩くことがほぼ確定しました。ずいぶんと先の話ですが、今からワクワクしています。この様子もできればHPに載せたいなと思っています。
長い間、お付き合いいただきありがとうございました。


                                 2003.6  尺取虫 記


さいごに
あとがき 

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