第23日目(12月30日 月曜日)  鳥居本宿〜高宮宿〜愛知川宿〜武佐宿〜野洲


★武佐(むさ)宿街道風景 / 武佐宿脇本陣跡(武佐町会館) / 本陣門












現在の武佐宿には古い建物はあまり残っていない。宿場に入ってすぐのところに脇本陣跡がある。現在は武佐町会館となっており、入口の門柱に大きく武佐宿脇本陣跡と書かれている。さらに少し行くと本陣跡が、これは門だけ残されている。これは立派なものである。


★旅籠中村屋 / 近江鉄道武佐駅

本陣跡のすぐ近くに旧旅籠の中村屋があり、宿場の面影を保っている。現在も料理旅館として営業している。その少し先の旧道脇に近江鉄道の武佐駅がある。今日歩いた近江路の宿場町、鳥居本、高宮、愛知川、武佐はいずれも東海道線からは離れ、近江鉄道がフォローしている。いずれの町も同じような雰囲気をもっているのはそのせいだろうか。鉄道がないわけではなく、さりとてメジャーでもない。
武佐からは近江八幡が近い。中山道は通っていないが、朝鮮人街道沿いに豪商の町近江八幡の史跡が多いようである。この辺もまた何かの折に歩いてみたいものだ。


★近江鉄道・鳥居本駅 / 鳥居本宿はずれの中山道 

今日は鳥居本から野洲まで歩く予定である。やや距離が長いので、7:10頃にはホテルを出発した。彦根駅から近江鉄道に乗り鳥居本駅に着いたのが7:25。この駅はおもちゃの駅のようなかわいい駅である。駅のすぐ前を国道8号線が走っており、それを渡るとすぐ先に中山道旧道が通っている。今日はここからスタートである。
旧道を歩き始めて約1Kmくらいは昨日通った道なので、写真をとることもなくさっと通り過ぎる。朝早いので人気はほとんどなく、静かな町並みが続いている。やがて町外れになり、旧道とほぼ並行して名神高速と新幹線が走っている。畑にはまだ雪が残っているが昨日よりは暖かく、天気が崩れることもなさそうだ。


高宮宿入口に建つ常夜灯 / 入口付近の高宮宿街道風景

やがて、旧道は狭い谷あいの道を抜け、名神高速、新幹線の線路とも別れてゆく。旧道沿いに人家もだんだんと増えてくる。途中、多賀大社への道標、石清水神社などを見ながら高宮宿の入口に到着する。常夜灯が建っており、すぐ脇を近江鉄道が走っている。近江鉄道は、本線と多賀大社へ行く線がここ高宮で分かれている。
線路を越えると、新しい商店に混じって古い建物が残されているという典型的な旧街道宿場町風景が広がっている。商店街としても比較的活気があるようだし、古い家も手入れが行き届いて説明板もきちんと立っているなど、気持ちの良い町である。


★高宮神社 / 多賀大社一の鳥居

宿場に入って少し行った右手に高宮神社がある。境内は広く、長い参道を行くと奥に本殿が建っている。古くは十禅師宮と称したが、明治になってから高宮神社と改称された。創建は鎌倉時代末期まで遡るという。
高宮宿のほぼ中央、中山道と多賀みちの分岐点に多賀大社一の鳥居が建っている。寛永12年(1635年)に建立されたもので、柱間は約8m、高さは約11mある。滋賀県の文化財に指定されている。多賀大社へはここから約3Km以上あるというので寄り道はしなかったが、古事記にもその名が見えるという古社で、現在でも「お多賀さん」の名で親しまれ参詣者も多いという。彦根から近江鉄道多賀線で行くこともできる。


★高宮布の布惣跡 / 「芭蕉紙子塚」のある家(小林家) / 本陣跡(表門)












高宮は古くから麻織物の産地として知られていた。高宮布は高宮の周辺で産出された麻布のことで、室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていたという。江戸時代になってからも高宮は麻布の集散地として、ますます栄えた。布惣では七つの蔵にいっぱい集荷した高宮布が全部出荷され、それが年12回繰り返されたという。布惣跡では、現在も土産品の販売などをしているようである。
布惣跡の少し先に「芭蕉紙子塚」の説明板を掲げた旧家がある。「たのむぞよ 寝酒なき夜の古紙子」。貞享元年(1684年)の冬、縁あってここ小林家に一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描いてこの句を詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を納めて「紙子塚」と名付けたという。
その少し先に脇本陣の説明板がある。高宮宿には2軒の脇本陣があったが、いずれも遺構としては残っていない。また、その少し先には本陣跡がある。これは現在表門のみが残されている。


★円照寺 / むちん橋地蔵尊

本陣跡のすぐそばに、趣深い山門を構えた円照寺がある。明治天皇が北陸東海巡幸の行き帰りに泊られた。そのとき気に入って名前を付けた松の巨木や「家康腰掛石」、樹齢350年の紅梅などが見所だというが印象にない。
その少し先の川の手前に「むちん橋」のいわれと、むちん橋地蔵尊が建っている。天保のはじめ、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪、藤野四郎兵衛らに橋をかけることを命じた。当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃を取らなかったことから「むちん橋」と呼ばれた。この辺りで宿はずれになるのだろうが、人家はほとんど途切れることなく続いている。


★松並木と中山道モニュメント /  石畑一里塚碑

やがて松並木がちらほらと見え始め、その先に中山道のモニュメントがある。これは北から彦根市に入るときに建っていたものと同じである。今度は南のほうから彦根市に入るところに建っている。ここで彦根市ともお別れである。
その少し先に石畑の一里塚跡碑と説明板が建っている。説明板によると、この石畑の地は江戸時代には高宮宿と次の愛知川宿の間の宿として立場茶屋などがあり、賑わったという。
道の脇に、「豊郷小の破壊を許すな!」というような看板があった。実は、ここには今ホットな話題を提供している豊郷小学校がすぐ近くにある。話題になっていることは知っていたのだが、つい、素通りしてしまった。写真の1枚もとってくればよかった、と今になって悔やんでいる。


★街道沿いの旧家 / 又十屋敷 (藤野家旧宅資料館)

この辺りの旧道沿いには旧家らしき建物が多い。いわゆる近江商人を多く輩出している土地柄である。豊郷小の少し先に丸紅・伊藤忠商事の創始者、伊藤忠兵衛の屋敷跡、その近くに伊藤長兵衛の屋敷跡もある。
さらにその先には、又十屋敷というのがある。松前に漁場を開き、廻船業を営んでいた近江商人、豪商藤野喜兵衛の旧宅を資料館として公開したものである。当時の本屋、書院、文庫倉庫などがほぼそのままに残されたいるというが、残念ながら年末休館で見学できなかった。なお、又十というのは藤野家の屋号である。
その少し先には千樹寺がある。行基が創建した四十九院の一つで、戦国時代に織田信長により焼き払われたが、藤野氏が再建したという。ここには江州音頭発祥地の碑と説明がある。


★愛知川(えちがわ)宿入口アーチ / 愛知川宿街道風景

やがて街道は愛知川(えちがわ)宿に入ってゆく。入口には、「中山道 愛知川宿」のアーチがかけられている。近くに近江鉄道の愛知川駅がある。街道沿いに古い家もいくらか見られるが、宿場らしさはだんだんと失われつつあるようだ。
愛知川宿は中世以来近江商人中心地の一つとして発展し、周辺地域の物産集散地であった。しかし、東海道線から離れているため、近代化の波には乗り遅れてしまった。


★愛知川宿高札場跡 / 脇本陣跡 / 竹平楼(旧旅籠屋)












宿場の中心地には高札場跡の碑、脇本陣跡の碑が建っている。いずれも当時の遺構は残っていない。脇本陣の跡には古い洋館風の建物が建っている。その少し先に竹平楼という料理屋があり、玄関脇には明治天皇御聖跡の大きな碑が建っている。創業宝暦8年(1758年)の旅籠屋であったという。この辺りはもう宿場の出口に近い。


★愛知川を渡る御幸橋 / 旧道を横切る近江鉄道

愛知川宿を出た旧道は国道8号線と合流し、愛知川を御幸橋で渡る。この橋は明治11年に明治天皇の巡幸にあたり車馬の通れる橋に架け替えられ、御幸橋と名付けられた。現在は国道の橋である。橋を渡ると旧道に入り、少し先で近江鉄道の踏切を渡る。すぐ近くに五個荘(ごかしょう)の駅がある。
五個荘町は近江商人発祥の地として広く知られている。近江商人とは近江に本拠地を置く他国稼ぎの商人のことで、近江八幡、日野、五個荘などから特に多く輩出しているという。取扱商品は呉服・太物・麻布などの繊維製品が主であった。


★西沢梵鐘鋳造所 / 古い藁葺き屋根の家 / 「てんびんの里」近江商人像












旧道を少し行くと門の脇に大きな梵鐘をでんと置いた大きな家が目についた。看板などは出ていないのだが、ここは梵鐘の鋳造所で、幕末から3代続いている西沢家である。そこからしばらく行ったところに、藁葺き屋根の家がある。かつてはここで「ういろう」を売っていたという。脇には常夜灯も建っている。このあたりは近江商人の本拠地だけあって立派な旧家風の家が多い。
旧道は少し先で国道と斜めに交差するが、その手前に「旧中山道てんびんの里」の近江商人の像が建っている。近江商人はこのような姿で商品を売り歩いたのだ。近くには五個荘町役場があり、人が集まりそうな界隈だったので食堂を探し、昼食にした。12:30頃だった。


★老蘇(おいそ)の森 / 奥石(おいそ)神社

五個荘町を後にし、旧道は老蘇(おいそ)集落に入ってゆく。旧道の右手一帯は老蘇の森と呼ばれ、古くから歌枕として都人にも知られ、多くの歌に詠まれている。東国に向かう紀行文にもよく登場する。現在は奥石(おいそ)神社の境内になっているが、昔はもっと広大な森だったらしい。旧道の右手には大きな鳥居が建ち、奥石(おいそ)神社の参道となっている。神社は森の奥に建っている。旧道は東老蘇、西老蘇集落、西生来町を経て武佐宿へと入ってゆく。


★国道8号線 / 野洲近くの夕暮れ

武佐宿を出た後は、旧道は国道8号線と合流し、JR野洲駅近くまで約9Km近く国道を歩くことになる。途中、国道沿いに鏡の里跡、義経元服の池など見所もあるが、あまり立ち止まらず、ひたすら歩く。再び旧道に入り、新幹線の線路が見えてきたときにはもう日が傾きかけていた。東海道線の野洲駅に着いたのは17:00頃だった。冬の日暮れは早い。あたりはもう薄暗くなっていた。これから3駅先の草津まで行ってビジネスホテルに泊る予定である。ホテル到着17:25。今日はよく歩いた。


歩行距離  約38Km    万歩計  56,800歩