第22日目(12月29日 日曜日) 柏原宿〜醒井宿〜番場宿〜鳥居本宿〜彦根


★柏原駅からの風景 / 柏原宿街道風景

2002年の年の瀬もおしつまってきた。できれば今年中に中山道歩きを完了させたいと思っていたので、今日がそのラストチャンスである。
7:03発のひかりで東京駅を出発。名古屋で東海道線に乗り換え、柏原駅に着いたのは10:10だった。関ヶ原付近から車窓風景はだんだんと白くなり、柏原駅の構内も真っ白な雪景色となっている。2日ほど前に雪が降ったようだが、今日は天気がよく暖かい。街道に出てみると、道路の雪はほとんどなくなっている。これなら大丈夫だ。


★伊吹堂亀屋 / 古い造り酒屋の建物

伊吹山の麓にある柏原宿の名産は伊吹艾(もぐさ)であった。もぐさというのは蓬の葉から作る、いわゆるお灸のタネである。柏原宿には、もぐさを商う店は十指に余ったという。その中でも最も有名だった伊吹堂亀屋が、現在も昔のままの姿で残り商売を続けている。当時は、茶店や旅籠も兼業していたという。広重は柏原宿で、この伊吹堂の店の様子を描いている。
道の向かい側には古い造り酒屋の建物があるが、現在は営業していないようだ。本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡などいずれも立札が立っているが、建物自体は残っていない。


★柏原宿歴史館 / 郷宿跡

少し先に古い商家を改造したという「柏原宿歴史館」がある。平成10年オープンである。残念ながら年末ということで閉館しており、見学できなかった。宿場の資料などが展示されているという。
また、その少し先に郷宿跡(加藤家)の建物がある。郷宿とは脇本陣と旅籠屋の中間で、武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用されてきた。


★柏原宿はずれの松並木 / 国道21号線と名神高速

やがて道は宿はずれとなる。周りに畑が広がり、松並木がいくらか残っている。この辺になると道の雪がいくらか残り、少々歩きにくいところもある。防寒の準備はしているので寒さはそれほど感じないが空気は結構冷たく、鼻水が出てきて困った。このような道をしばらく歩くと、やがて小さな集落を通り、この少し先で旧道は国道21号線と合流する。この辺りは両側に山が迫り、国道21号線と名神高速が寄り添うように走っている。
国道を少し行くと旧道は左に分かれ、一色集落を経て醒井(さめがい)宿に入ってゆく。


★ 居醒(いさめ)の清水 / 延命地蔵堂

醒井(さめがい)宿に入って少し行った小高い丘の上に加茂神社がある。雪で滑りやすい階段を上ってゆくと、本殿があり、ここからは町が一望に見渡せる。
加茂神社石垣下の路傍に清水が湧いている。これは居醒(いさめ)の清水といい、次のような話が伝わっている。「むかし、日本武尊が東国遠征からの帰途、伊吹山に荒ぶる神がいると聞き、退治しようと山に登った。山神は大蛇となって尊を惑わし、尊は正気を失って山を降り、泉の水を飲んでやっと正気を取り戻した。そこで、その泉を居醒泉(いさめがい)と名付けた」という。その泉がこの居醒の清水だという。付近には日本武尊の腰掛石、鞍掛石などがある。また、この清水を源流とした川が宿場内街道沿いに流れ、落ち着いた情緒をかもし出している。少し先の川沿いに延命地蔵堂があり、伝教大師作と伝わる石造座像がある。故にこの川は地蔵川と名付けられている。


★醒井宿問屋場跡 / 川の流れる醒井宿街道風景 / 十王水の合流点












醒井宿は名水と伝説のある静かな町である。川のほとりに昔の本陣跡、問屋場跡もあるが、本当に昔からの姿をそのまま残しているのはこの川と、水の清らかさだけだろう。この川には、澄んだ湧水を好む魚「ハリヨ」や沈水植物「バイカモ」が生息している。
醒井の三名水というのがある。一つは居醒の清水であり、ほかに十王水、西行水である。いずれも少し先で地蔵川に合流する湧水である。


★久礼一里塚付近の旧道 / 番場宿碑

醒井宿を出ると旧道は国道と合流し、、またすぐに分かれてゆく。道沿いには民家が続き、長い集落になっている。やがて、北陸自動車道の下をくぐると、久礼の一里塚跡がある。この辺は田園が広がっているが、今日は真っ白な雪景色である。少し行くと、広い県道と交差するが、ここに「中山道番場宿」の大きな標識が建っている。この広い県道は、米原方面に通じている。
番場宿は山間の小さな宿場である。町並みの長さは一町十間(約127m)しかなく、中山道宿駅中で最も短かかった。現在、宿場時代の遺構は何も残っていない。
この山間の小さな宿場、番場の名を有名にしたのは、番場の忠太郎であろう。長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公で、この宿場の旧家で生まれた設定になっている。


★蓮華寺 / 番場宿街道風景

宿場に入ってすぐのところに、蓮華寺の案内標識がある。旧道から左に200mくらい入ったところにあるので立ち寄った。
元弘の変で京都を追われた六波羅探題北条仲時は、北朝の光厳天皇を奉じて番場に着いた。しかし、ここで南朝軍に包囲され、仲時以下432名がこの蓮華寺本堂前庭でここごとく自刃した。元弘3年(1333年)のことである。寺の裏手には彼らの墓碑といわれている無数の五輪塔が建てられているというが、今日は雪で道がふさがれており、見ることはできなかった。また、寺にはこのときの自刃者全員の記録「六波羅南北過去帳」が残され、国の重要文化財に指定されている。旧道に戻り先に進む。東番場地区、西番場地区と街道沿いに人家が続く。


★名神高速の脇を通る旧道 / 磨針峠の旧道 / 「おいでやす彦根市へ」のモニュメント像












やがて旧道は人家が途絶え、名神高速と並行して進む。実際は、名神高速の工事のために旧道は消滅し、高速道路の脇に付替え道路が作られたのだという。番場宿を出てから約4kmくらいは山間の道が続き、道に雪が残り少々歩きにくいところもあった。磨針峠を越えてようやく広い国道8号線に合流したときには正直なところホッとした。国道のすぐ脇を西武線と同じ黄色い電車が走っている。近江鉄道である。旧道が国道と分かれる地点に、「おいでやす彦根市へ」という中山道モニュメント像が建っている。いよいよ彦根市に到着だ。


★鳥居本宿の入口付近 / 「赤玉神教丸」の古い薬屋 

旧道には松並木の名残がいくらか見られ、鳥居本宿に入ってゆく。町並みは南北に約十町(約1.1Km)あった。
宿場に入って右側角に大きな薬屋がある。「赤玉神教丸」を販売する店(有川薬局)である。下痢、腹痛、食傷などに効果のある妙薬で、旅人には重宝がられた。万治元年(1658年頃)の創業で、店舗販売を主に、各地の薬屋と特約して取次販売を行った。こうした店頭販売の賑わいは「近江名所図会」にも描かれるほどだった。現在も営業しており、現存する建物は宝暦年間(1751〜64)の建築と伝えられている。かつて、このような薬屋は宿場内に何軒もあり、鳥居本宿の特産品になっていた。


★国宝 彦根城天守閣 / 彦根城 天秤櫓 / 彦根城より伊吹山を望む












分岐点からの道は途中で国道と合流し、佐和山をトンネルで越える。この山上には石田三成の居城佐和山城があった。彦根市街を抜けて彦根城に到着したのは15:30頃だった。年末の夕方近くとあって城見物の人は多くない。
関が原の合戦で石田三成が敗北すると、徳川家譜代筆頭の井伊氏がその本拠地に配され、石田光成の佐和山城にかえて近くの彦根山に城を築いた。これが彦根城である。現在国宝に指定されている天守閣をはじめ太鼓櫓、天秤櫓など多くの建物がよく残っている。だんだんと薄暗くなってきたが、東の方に夕日を受けた大きな伊吹山を望むことができ感激した。
16:45頃、彦根駅近くのビジネスホテル(ホテルサンルート彦根)に到着した。


★旧家の並ぶ鳥居本宿街道風景 / 「合羽所」の看板を掲げた家 / 「左中山道 右彦根道」の道標












鳥居本宿の本陣、脇本陣などの建物はは残っていないが、街道沿いには立派な旧家が並び、宿場の風情を残している。鳥居本宿のもう一つの特産品は合羽であった。琵琶湖周辺で生育する楮(こうぞ)を原料とする紙に渋柿を塗布して作る合羽で、道中合羽としての需要を次第に拡大していった。文化、文政年間には、この製造販売の店が15軒もあったという。現在も街道沿いに「合羽所」の古い看板を掲げた家があり、当時を偲ぶことができる。
少し先に「左中山道 右彦根道」の立派な道標が建っている。右は、ここから彦根を通って野洲まで通じている道で、江戸時代には朝鮮からの外交使節が定期的に通るようになったので、朝鮮人街道とも呼ばれている。私は、今日は彦根に宿泊する予定なので、この道を通って彦根に出ることにした。


歩行距離  約18Km    万歩計 39,000歩