第17日目(11月3日 日曜日)  大井宿〜大湫宿〜細久手宿


★中野村庄屋の家 / 西行硯水公園 

ホテルを7:30頃出発した。道が濡れているが、空は明るくなってきている。今は雨は降っていない。今日はほとんどが峠道のコースなので、雨は降ってほしくない。
旧道に戻り、旅を続ける。しばらく歩くと街道沿いに大きな古い建物がある。中野村庄屋の家だという。やがて道は町はずれになり、西行硯水というのがある。小さな清水があり、東屋のある公園になっている。
文治2年(1186年)西行は二度目の奥州の旅に伊勢を出発した。鎌倉で源頼朝に会い、平泉に1年滞在した後、木曾路を経てこの地を訪れ、3年間暮らしたといわれている。歌人である西行は、多くの歌を詠み、こんこんと湧き出るこの泉の水を汲んで墨をすったと伝えられている。


★峠道への登り口 / 西行塚 / 西行塚より恵那市街方面を望む












硯水公園の先でJR中央線の踏切を渡り、さらに中央高速道を越えると、道はいよいよ峠道になる。この辺の紅葉はきれいだった。この坂を登って少し行ったところに西行塚がある。伝説によれば、西行はこの地で亡くなり、村人達がここに埋葬し五輪塔を建てたという。西行の終焉の地についてはいろいろな伝説があるようだが、これもそのひとつである。塚からは、中央高速や、恵那市街方面がよく見えた。


★峠道に建つ中山道の標識 / 槙ヶ根一里塚

山道の途中に「中山道」の道標が建っていた。その少し先に「槙ヶ根一里塚」がある。この塚は両側とも残されているが、塚の上に植えられていたという榎は残っていない。
大井宿を出て大湫(おおくて)宿までは起伏の激しい山道の連続で、「十三峠におまけが七つ」と呼ばれていた。このようなところだからこそ開発の手も入らず、往時の中山道を偲ぶことができる。その意味で貴重なコースである。


中山道と東海自然歩道との合流点 / 合流後の東海自然歩道(中山道)

中山道は広い自動車道と合流した後、少し先で東海自然歩道と合流する。実は、ここまでの中山道は中部北陸自然歩道にもなっているので、ここで両自然歩道が合流したことにもなっている。合流した後は東海自然歩道として、また、先ほどの山道の姿に戻る。
国(環境庁)も環境の保全には力を入れているので、この先も道は整備され、快適に歩くことができる。


★槙ヶ根立場茶屋跡 / 槙ヶ根追分道標 / 中山道と下街道の分岐点












少し歩くと槙ヶ根立場の茶屋跡に着く。ここには9戸の茶屋があったというが、中山道を利用する人が少なくなるにつれて、山麓の町や村へ移転していった。今は茶屋の跡や古井戸、墓地などを残すのみとなっている。ここは、また、中山道から名古屋方面へ下ってゆく道の分岐点でもあった。中山道を上街道、ここから下って名古屋に至る街道を下街道といった。名古屋や伊勢神宮に行く一般旅行者や商人なども多く利用し、大変賑わったという。今も細い道が残っている。ここには古い道標も建っている。「左 伊勢名古屋 右 西京大坂」と書いてある。


★首なし地蔵 / みだれ坂

やがて「首なし地蔵」というのが見えてくる。この地蔵様にはこんな話が残っている。
昔、二人の武士がここを通りかかった。夏のことで暑く、疲れていたので二人ともここで眠ってしまった。一人が目覚めると、もう一人は首を切られて死んでいた。びっくりして辺りを見回したが誰もいない。怒った武士は「黙ってみているとは何事だ」と地蔵様の首を切り落としてしまった。以来、この地蔵様は首なし地蔵と呼ばれるようになったという。
その先には、みだれ坂、みだれ橋というのがある。この辺は急坂で、大名行列も乱れてしまうために名付けられた。


★中山道四谷休憩所 / 紅坂一里塚

みだれ坂を下ると平坦な道になり、小さな集落になっている。ここには中山道四谷休憩所という建物があり、休憩できるようになっている。ちょっとベンチに腰掛けて休んだ。
道は、また山道になり、紅坂一里塚が見えてくる。


★藤村高札場跡 / 深萱立場跡

さらに行くと、うばが茶屋跡、三社灯篭などがあり、復元された小さな高札場も見えてくる。藤村高札場である。少し先に小さな集落があり、ここに昔は深萱立場があったので、村人も多かったのだろう。
この後、道はまた登りの山道となり三城峠を越え、大久後の集落に入ってゆく。


★権現山一里塚 / 十三峠の巡礼水 / 十三峠の三十三観音












大久後集落を過ぎると、またまた道は登りの山道となる。少し行くと権現山一里塚がある。時計を見たらちょうど12時。お腹もすいてきたので近くに腰掛け、用意のコンビ二弁当で昼食にする。さあ、お腹もいっぱいになり、また元気に歩き始める。
一里塚の少し先には巡礼水の跡がある。わずかな清水だが、8月1日には枯れることはなく、旅人達から「十三峠のお助け清水」として大切にされてきたという。さらに行くと、十三峠の三十三観音がある。この観音仏は人馬の道中安全を祈って建てられたが、石窟の中に安置されている。


★寺坂の途中から大湫(おおくて)宿を望む /  大湫宿の町並み / 大湫宿本陣跡













坂を下ってゆくと、やがて大湫(おおくて)宿の町並みを見下ろせる場所に出る。大湫宿は山間の宿にしては昔から旅籠の数が多かった。これは十三峠やこれから越える琵琶峠を控えて一息つこうという旅人が多かったためと思われる。旅人で賑わった昔とは違い、今は落ち着いた町並みで、昔の面影を残す家もちらほら見られる。昔は広大な本陣があったが、現在は小学校に変っている。


★大湫宿脇本陣跡 / 神明神社の大杉 / 高札場跡












本陣跡の少し先の石段を登った奥に脇本陣跡がある。当時の半分ほどの規模だが、建物も残っている。その少し先に神明神社があり、杉の巨木が立っている。これは周囲11m、高さ約60m、樹齢は約1300年と推定され、県の天然記念物に指定されている。宿のはずれには高札場が復元されている。宿の入口から、はずれの高札場まで3町(約325m)と宿場の長さは短い。


★琵琶峠の石畳 / 琵琶峠頂上の馬頭観音 / 八瀬沢の一里塚












大湫宿を出ると、琵琶峠の登りにかかる。琵琶峠は標高558m、全長約1Km、高低差は西側83m、東側53mである。眺望はよいはずなのだが、残念ながら遠くを展望できる場所はなかった。
昭和45年には500m以上にわたる石畳も確認され、整備、改修されている。箱根などの石畳道にも勝るとも劣らないものである。頂上には馬頭観音が祀られていた。峠を下る途中に八瀬沢の一里塚がある。これも道の両側に残されている立派なものである。


★弁天池・弁天宮 / 奥ノ田一里塚

琵琶峠を越えると八瀬沢立場跡になる。この先で東海自然歩道は北野神社に寄るため大きく迂回してゆく。中山道はそのまままっすぐに細久手宿に向かう。(案内板には「細久手宿近道」と書いてあった)私は、北野神社寄り道(東海自然歩道)コースを取った。ここでは、東海自然歩道のコース案内板のほうが勢力が強く、つい遠回りをしてしまったという感じだ。
いずれにしろ道は一緒になり、弁天池を通る。弁天池には小さな橋があり、その向こうに小さなお宮がある。さらにしばらく歩くと奥ノ田一里塚がある。これも道の両側に残された立派なものである。今日の自然コースには、一里ごとにきちんきちんと立派な一里塚が現れた。ここまでで5つの一里塚を通り過ぎ、昔の旅人気分に浸ることができた。


★細久手宿の町並み / 細久手宿旅籠、大黒屋

やがて中山道は細久手宿に入ってゆく。宿場内には昔の面影はほとんどないが、かつての尾張藩定本陣の大黒屋だけが昔のままの姿で建っている。ありがたいことに、現在も旅館として営業中である。実は、私も今日はここに泊るのだ。15:30頃到着した。
二階の玄関の上の部屋で、いかにも年代を感じさせる部屋であり、調度品類であった。
食事は階下の上段の間(?)で、一人ずつのお膳による料理だった。同宿の方は車で来ているようで、話す機会はなかった。お客の自由ノートを読んでいたらなかなか面白かった。自分も感想を書いて戻しておいた。建物としても、旅館としても貴重な存在で、これからも長く営業を続けてほしいと思った。


歩行距離 約20Km    万歩計  38,000歩