歩行距離  約 12Km    万歩計 25,000歩


第16日目(11月2日 土曜日)  中津川宿〜大井宿


★明治天皇行在所跡 / 江戸時代庄屋、古屋家住宅 / 夕暮れの大井宿街道風景












「ひし屋」の先に、明治天皇行在所の碑が建っている古い家がある。天皇が巡幸の折一泊された家で、客室、庭、湯殿などは当時のままの姿で残されているという。その先少し行くと道は枡形となり、曲がってすぐのところに「大井村庄屋古屋家」の古い大きな建物がある。枡形の道を二度繰り返し、また、先ほどの商店街の道に出てくる。この先の阿木川にかかる大井橋には広重の木曽街道六拾九次の図がずらりと掲げられていた。
橋を渡るとJR恵那駅近くのメイン商店街になる。今日の宿泊場所「ビジネスホテル・エナプラザホテル」は駅の近くだ。ホテル到着16:40。もう空は薄暗くなりかけていた。


★大井宿本陣跡(表門) / ひしや資料館

高札場の少し先で道は枡形になる。この二度折れの角に本陣跡がある。本陣建物は昭和22年の火災で焼失してしまったが、表門は焼け残り、傍らの老松とともに昔日の様子を物語っている。「
角を曲がって少し行くと「中山道ひしや資料館」がある。大井宿の有力な商家であった「ひし屋」古山家は、江戸時代中期以降大井村の庄屋を勤めた家柄でもある。その住居は明治初年に改築されているが、大規模で質の良い近世的町屋建築の特色をよく示しており、平成9年に恵那市の文化財に指定された。「中山道ひしや資料館」はこの古山家住宅を改修復元し、平成12年9月に開館した。店蔵を改造した展示室には宿場関係の資料や、「ひし屋」が関わった仕事などが古文書を中心に展示されている。(入館料200円)


★上宿石仏群 / 大井宿高札場跡

さらにしばらく行くと、大井宿が一望できる場所に出る。ここは大井宿のはずれで、宿場の人たちはここに多くの石仏をたてた。これによって悪病や悪人の侵入を防ぎ、宿内の無病息災を祈ったのである。
坂を下って少し行くと、大井宿高札場跡(復元)がある。高札は制札ともいい徳川幕府が、農民や商人を取り締まる基本的な決まりを公示したものである。高札の書換えは、決まりの改正や老中の交代、年号の変るたびに行われたが、あまり頻繁であったため、8代将軍吉宗以降は書換えず、正徳元年(1711年)5月付けの高札が幕末まで維持された。(説明板より)


★中山道の碑 / 甚平坂

篠原家の建物から約1.5Kmほど歩いたところに、立派な中山道の碑が建っている。「是より大井」と書いてあるが、ここがちょうど恵那市との市境となっているようだ。
さらに500mくらい歩くと、急な坂道となる。甚平坂といい、距離は短いが長い間旅人には嫌われていた。明治13年6月、明治天皇がこの坂をお通りになることになり、この地の人たちは総出でこの坂の頂上を2mほど掘り下げて、坂の傾斜を少し緩やかにした。それによって天皇の二頭立ての馬車は無事にこの坂を越すことができたという。現在は頂上は小さな公園になっており、ここからのながめはよい。


★尾州白木改番所跡 / 茶屋本陣篠原家

旧道に戻りさらに進むと、尾州白木改番所跡碑と説明板が立っている。白木改番所はこれまでにも何ヶ所かあったが、こんなところにもあったのだ。木曽の山から伐採した材木の輸送は、重量材(丸太類)は木曽川を利用して流送し、軽量材は牛馬による駄送の方法が採られた。木曽川筋には各所に「川番所」が、中山道には「白木改番所」が設けられ、抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行われていた。そこからしばらく歩いたところに、茶屋本陣篠原家の建物がある。篠原家は中山道通行時の休泊施設として本陣や脇本陣と同様な役割をになっていた。和宮、明治天皇が御小休した建物が現存し、休憩した部屋、表門等は当時のままに保存されている。


★六地蔵石憧(せきどう) / 坂本神社八幡宮

やがて、灯篭のようなものに六地蔵を彫った石憧(せきどう)が見える。これは明暦3年(1633年)に立てられたものだという。地蔵菩薩は、常に六道をめぐって衆生を救い、極楽に行けるように力を貸してくれると信じられていた。さらに、六つの分身を考えて六地蔵としての信仰が平安末期に始まったといわれている。石憧はこの信仰と結びつき、六地蔵を彫ったものが多い。(説明板より)
その少し先に常夜灯があり、右に曲がって少し行くと坂本神社八幡宮がある。由緒書きがあり、創建は大宝2年(702年)で延喜式に記載があるという。


★町はすれから中津市街方面を望む / 上宿一里塚跡

道は中津川を渡り、やがて町外れになる。振り返ると中津市街方面は小さくなり、道も旧道らしくなる。少し歩くと、上宿一里塚跡がある。これは、江戸から数えて85番目のもので、両側とも榎が植えられていた。現在は、南側の塚は消滅し、北側にあった塚が昭和9年に復元されている。規模としては、往時の約1/3の大きさだという。
さらに旧道を歩くと、小石塚立場跡の碑が見えてくる。このすぐ先で旧道は途切れてしまう。これは、国道19号線、中央高速中津川ICへの分岐等の道路工事によるものである。仕方なく、案内に従い、階段を下り付け替え道を歩く。300mくらいで旧道が再び現れ、中山道の旅を続ける。


★中津川村庄屋跡 / 横町の造り酒屋

脇本陣跡(現NTT)の隣が、中津川村旧庄屋宅である。これは、享保3年(1718年)から明治5年(1873年)まで庄屋を勤めた肥田家の屋敷で、建物は当時から続いているものである。現在でも卯建のついた堂々とした構えである。道はこの先で枡形になっている。枡形を出るところにも卯建のついた古い大きな家がある。「恵那山」という造り酒屋である。通りに面した細長い建物で、仕切りのところに卯建が4箇所もついている。こんな建物は、はじめて見た。
ちなみに、卯建とは隣家との間に設けた卯の字形の防火壁のことで、この壁をつけた家は格式の高い家なので、転じて立身する意になったという。「うだつがあがらない」は、その逆の意味である。ただし、これには異説もあるようである。


★中津川宿本陣跡 / 同 脇本陣跡

少し行くとNTTの建物が見えてくる。この建物の脇に、中津川宿脇本陣跡の碑が建っている。さらに、その向かい側には、本陣跡の碑が建っている。この辺が宿場の中心だったのだろう。本陣跡の場所には、最近まで郷蔵(ごうくら)が建っていた。郷蔵とは、年貢米を入れる蔵で、中山道でただひとつ完全な形で残っていたのだが、残念ながら最近になって取壊されてしまったという。


11月ともなると、日が暮れるのも早い。中津川宿から細久手宿までは約30Kmなので歩けない距離ではないのだが、安全のため今日は中津川宿から大井宿まで約12Kmのコースを歩くこととした。東京駅を8:26の電車に乗ると、中津川には11:32に着く。駅の近くで昼食を済ませ、12:20頃から歩き始める。

★中津川宿の町並み / 間家大正の蔵

駅前の広い通りを少し行き、右に曲がると中山道旧道である。商店街となっており、「中山道」の黄色いのぼりと、「姫街道400年」の緑のフラッグが道筋を彩っている。
少し先に、「間家大正の蔵」(旧間家倉庫)がある。これは、大正6年に建てられた鉄筋コンクリート構造の建物で、平成4年に間家から市に寄贈されたものである(市の有形文化財指定)。明治以降の近代的工法と、土蔵造りが混在した建築方法が用いられている。館内には宿場関係の資料も展示されている。(入館無料)
説明板によれば、間家は江戸時代東濃随一の豪商といわれ、明治以降も近代産業や教育の発展に貢献し、常に中津川の経済界をリードしてきたという家である。