第15日(9月16日 月曜日)  妻籠宿〜馬籠宿〜落合宿〜中津川宿


民宿「下嵯峨屋」を8時頃出発した。今日は、馬籠宿まで妻と一緒に歩き、妻はそこからバスで帰途につく。私はさらに中津川まで歩く予定である。
宿を出て、道を少し戻ったところからスタートする。本陣などのあるメインの道は枡形で折れ曲がり、寺下地区に入ってゆく。枡形を過ぎてすぐの右側に、旅籠「松代屋」がある。連子格子の窓、大きな「妻籠宿 松代屋」の看板、古い暖簾など、まさに江戸時代そのままの形で建っている。もちろん、今でも宿泊できる。私も予約しようとしたが、満員で断られてしまった。私達が宿泊したのは、松代屋と細い路地ひとつ隔てた向かい側の民宿「下嵯峨屋」である。これも通りに面して古い建物が残されている。民宿は、この古い建物の裏側に建てられており、新しい建物の普通の民宿である。
寺下地区は、このような比較的小規模な旅籠などの建物が軒を連ねる町である。まだ朝早いので、昨日のような雑踏はなく、静かな、しっとりとした宿場風景が見られた。


★中津川宿高札場跡 / 中津川宿内の中山道風景

中山道旧道が宿場内に入る位置に、高札場跡が残されている。この先は宿場に入る。中津川の町は、これまでの木曽の町や村に比べると大きな町である。妻籠、馬籠を歩いてきたその足で中津川宿内を歩くのは何か違和感を感じた。というか少々疲れただけかな。JR中津川の駅が近いので、中津川宿の見学は次回にしよう。
中津川駅には14:50頃到着し、15:08の電車に乗れた。東京の自宅には19:20頃帰りついた。


★落合宿街道風景 / 落合宿標識 / 与坂立場跡












落合宿は小さな宿場である。旧道に沿って古い町並みが少し続くが、すぐに普通のどこにでもある商店街になる。落合宿の先の旧道は分かりにくい。これは国道19号線の工事などで旧道が消滅してしまったためである。地図、標識を見ながら、国道19号線の下をくぐって、何とか本来の旧道にたどり着いた。これから先の旧道はほぼ一本道でわかりやすい。少し先に与坂立場跡があり、ここからはかなり急な坂道になっている。どんどん下り、再び国道19号線を渡り越し、尾張藩白木改番所跡を左手に見て通り過ぎると中津川市街はもう近い。


★十曲峠・落合の石畳 / 下桁橋

碑の少し先で旧道は、山道に入ってゆく。十曲峠の下り道である。道の脇に「落合の石畳」という標識が立っている。中津川方面からくるとかなりの登りで難路だったのだろう。石畳が800mくらい敷かれているという。どんどん下ってゆくと、やがて下桁橋を渡る。この橋も昔からよく流され、何回も架け替えられたという。
この先、少し歩くと落合宿に入って行く。いよいよ美濃路の始まりである。


★「是より北 木曾路」碑 / 一里塚碑

さらに進むと新茶屋というのがあり、近くに「是より北 木曽路」碑が建っている。これは藤村の筆によるものである。ここから贄川の先の「是より南 木曾路」碑までの間が木曾路ということか。この碑が建っている辺りがちょうど長野県と岐阜県の県境のようである。
楽しかった木曾路歩きもいよいよ終点に達した。中山道は別名木曽街道とも言われたが、中山道全体に占める木曾路の割合は、距離上の比率以上に大きいと昔の人も感じたのだろう。
道の向かい側には「一里塚古跡」碑が建っている。


★正岡子規の句碑 / 句碑付近から中津川方面を望む

旧道はバス通りを横断し、ゆるい下りとなって続いている。途中に正岡子規の句碑があり、そこからは中津川方面を望むことができた。この景色を見ると、馬籠は経済的には木曽方面よりも、美濃の中津川のほうが影響力が強いだろうことは容易に察しがつく。
このような地形から、昭和32年に神坂村を岐阜県中津川市に合併しようという動きが起きた。大論争の結果、元の馬籠村を隣村の山口村(長野県)に編入、旧湯舟沢村地区は中津川市(岐阜県)となった。一時は「信州の藤村」ではなくなるというので大騒ぎだったという。


★土産物屋、食べ物屋が並ぶ道筋 / 清水屋資料館

ゆっくりと見物していたら、12時近くなってしまったので、近くの食堂で昼食をとることにした。ここでバスの時間を調べると、中津川方面は割合と本数があるようで、妻も安心したようだった。
おなかもいっぱいになり、また、元気に歩き始める。少し歩くと、清水屋資料館というのがある。ここは、藤村の作品「嵐」に登場する「森さん」の家で、藤村の書簡、掛け軸、写真などをはじめ宿場関係の遺品の数々が展示されているという。残念ながら、ここはバスの時間の関係などで省略した。
少し先が枡形になっており、それを過ぎるとバスの通る県道に出る。妻はここからバスに乗るので、お別れである。


★藤村記念館入口 / 藤村記念館(藤村生家跡) / 本陣隠居所

大黒屋の隣が、藤村記念館である。島崎藤村の実家で、馬籠宿の本陣屋敷である。島崎春樹(藤村)は明治5年にここで生まれ、明治14年には勉学のために東京に出てきている。東京に嫁いだ姉がおり、それを頼って上京したのである。
建物は明治28年の大火で類焼し、母屋は全焼、祖母の隠居所のみが焼け残った。この建物には、「春樹少年勉強部屋」と書いた看板がかけてあった。
展示館には、「夜明け前」の原稿をはじめ、ゆかりの品々が多数展示されている。












★馬籠宿街道風景 / 脇本陣資料館 / 大黒屋

やがて、道は馬籠宿に入ってゆく。道はまだ坂を下りきっていないので、建物は坂道の途中に石垣で地面を平らにして建築されている。馬籠宿は、明治28年の大火で大部分焼失したので、オリジナルの建物はほとんどない。
少し行ったところに馬籠宿脇本陣資料館がある。脇本陣は蜂谷家が務めていた。ここでは、「上段の間」を当時の場所に復元してある。また、焼失をまぬかれた脇本陣の什器や衣服などのほか、「夜明け前」の資料となった馬籠宿役人の記録なども展示されている。
その隣が大黒屋で、現在は郷土民芸品店などになっている。この家は、「夜明け前」では伏見屋金兵衛として登場する。













★峠の集落 / 水車塚の碑

峠を下って少しゆくと、峠の集落がある。宝暦12年(1762年)に大火があった後、火災がないことから、この集落の家屋は江戸中期以降の姿を今にとどめている。江戸時代、この集落の人々は民間の荷物を運搬する「牛方」を稼業としていた。この牛方と中津川の問屋の間に起きたストライキは、藤村の「夜明け前」にも詳しく登場する。
さらに下ると、水車小屋があり、その脇に水車塚の碑が建っている。明治37年7月、水害のためここにあった家屋は一瞬にして押し流され、一家4人が惨死した。難を逃れた家族の一人、蜂谷義一は、たまたま藤村と親交があったことから、後年に供養のため藤村に碑文を依頼して建てたのがこの水車塚である。「山家にありて水にうもれたる蜂谷の家族四人の記念に 島崎藤村しるす」とある。


★馬籠峠の峠道 / 一石栃の白木改番所跡 / 馬籠峠頂上

旧道は、やがて本格的な山道になってゆく。馬籠峠への登りである。小雨が降っているが、石畳が敷いてあり歩きやすくなっている。途中に男滝、女滝という滝があった。さらに登ると、一石栃の白木改番所跡というのがある。白木改番所は、木曽から移出される木材を取り締まるために設けられたもので、ヒノキの小枝に至るまで、許可を示す刻印を焼いてあるかどうか調べるほど厳重であったといわれている。木曽の森林資源は、領主の尾張藩にとって、それほど重要なものだったのである。
10:00頃、標高801mの馬籠峠頂上に着いた。頂上は県道となっており、近くにバス停もあった。ここを通って妻籠と馬籠を結ぶバスの便があるが、本数はかなり少ないようである。また、峠の茶屋という建物があったが、閉じていた。












★在郷地区、旧道沿いの町家風建物

やがて、宿場の町並みは途切れる。昔はこの辺りは尾又(おまた)といい、木曽路から伊奈道が分岐していたという。中山道旧道は川を渡り、山道となる。
県道になっている旧道沿いには、宿場時代の古い建物がぽつん、ぽつんと残されている。もちろん、妻籠地区の伝統的建造物群保存地区内であり、これらの建物も保存対象である。古い看板、建物の外観など、宿場内の建物に比べても遜色ないほど整備され、それぞれに商売、民宿などを営業しているようである













★昔の木賃宿「上嵯峨屋」 / 同 内部の様子 

ゆっくりと町を歩いてゆくと、少し先に「上嵯峨屋」がある。こちらは朝早いが既に開けられ、中を見学できるようになっている。「この建造物は、昭和44年の解体復原によって江戸中期(18世紀中期)の建物と推定される。建造当初の形式をよくとどめ、庶民の旅籠(木賃宿)としての雰囲気をうかがうことができる」との説明板があった。先ほどの「下嵯峨屋」も同じような造りで、やはり同じような木賃宿だったのだろう。
ちなみに、木賃宿とは食事のつかない宿のことで、自炊のための燃料代(木賃)を取ったことからこのように呼ばれた。

★ 妻籠宿旅籠・松代屋 / 妻籠宿・寺下地区の町並み

歩行距離  約20Km    万歩計 32,200歩