第14日目(9月15日 日曜日) 須原宿〜野尻宿〜三留野宿〜妻籠宿


★木曾路の名刹・定勝寺山門 / 同 本堂 / 同 庭園

民宿「すはら」を8:00頃出発した。今日は、14:00に南木曽駅で妻とデートの予定だが、時間的には余裕があるのでやや遅い出発となった。同宿の二人は、それぞれに朝早く出発していった。
歩き始めてすぐのところに、「須原柏屋」「三部講」などの古い看板をかけた建物がある。これは、昔の旅籠屋で、今は営業していないが宿場の雰囲気をよく残している。
その少し先に、木曽路の名刹、定勝寺がある。現在の建物は慶長3年(1598年)に再建されたもので、切妻造りの庫裏や方丈形式の本堂などに禅宗寺院の特色が見られる。山門、本堂、庫裏は国の重要文化財に指定されている。庭園も江戸初期の様式を取り入れたものだという。明治13年には、明治天皇の行在所にもなっている。


★岩出観音堂 / 伊奈川橋と岩出観音堂の遠景

定勝寺を出てしばらく行くと鉄道の踏切があり、これを渡るとやがて橋場の集落に入ってゆく。ここには岩出観音堂がある。これは、中山道を左に曲がった懸崖の中腹に建っているのだが、近くから見上げると、まさにミニ清水寺である。ここには、馬頭観音が祀られている。
中山道に戻り、少し行くと伊奈川橋を渡る。昔は、この伊奈川橋は大雨が降ると上流から流れてくる大石によってことごとく流されてしまった。そのため、この橋は橋杭のない反り橋となったという。江戸の浮世絵師、英泉は「木曾街道六拾九次」の中で、伊奈川橋と背後の岩出観音堂を描いている。


★中山道旧道風景 / 地久山天長院

中山道旧道は、木曽川を迂回する形で山側に大きく曲がってゆく。山側に向かって約1Km斜めに進み、頂点で折れ曲がって、今度は約1Km川側に向かう。二等辺三角形の二辺を歩くので、距離的には非常に効率は悪いのだが、川の氾濫を避けるとか、それなりの理由はあったのだろう。旧道沿いには畑が広がり、のどかな山村風景である。
三角形の頂点のあたりに地久山天長院がある。旧道から少しそれた所にあるが、大きなお寺である。文禄年間に定勝寺7代天心和尚により開山され、寛文年間(1662年)に現在地に移転したという。旧道に戻り、今度は方向を変え川に向かって歩く。


★国道風景 / 道の駅大桑(木楽舎)

やがて、旧道は国道と合流する。これから先も、国道は鉄道と寄り添いながら走ってゆく。旧道も国道と一緒である。要するに土地のスペースがそれしかないのだ。木曽川沿いの国道19号全般にいえるが、長距離トラックをはじめ交通量はかなり多いが、道幅は広いし、歩道も完備している。何よりも、景色と空気がよいので、市街地の国道歩きと違い、歩いていても快適である。
しばらく歩くと、「道の駅大桑」がある。10:00頃到着した。ややペースが速いので、少し休憩した。「木曾の特産品がいっぱい木楽舎」という看板がでていたので、店を覗いたが、あまり印象に残っていない。


野尻宿街道風景 / 本陣跡・明治天皇御小休所碑 / 「はずれ」の屋号をもった家












やがて旧道は国道とわかれ、野尻宿に入ってゆく。野尻宿も度重なる大火により昔の面影は薄れているが、がんぎり格子の古い家もちらほら見られる。本陣跡には、明治天皇御小休所碑も建っている。この宿場には「はずれ」という屋号をもった家が、東と西に2軒ある。この間が宿場の町並みになっていたわけだ。西の「はずれ」の屋号をもった家に説明板があった。現在は町の中で、ここが町はずれではない。


★JR十二兼駅 / 柿其橋

野尻宿の家並みがなくなっても、旧道は国道に合流せず鉄道線路に沿って続いている。辺りに人家もなくさびしい道である。3Km近くこのような道が続き、ようやくJRの十二兼駅が見えてくる。駅の近くには家も何もない。ウォーキングのコース案内板が建っているだけである。コース案内を見ると、近くに柿其(かきそれ)渓谷というのがあるらしい。
駅を後に少し行くと、柿其橋がある。先ほどのコースはこの橋を渡ってゆくのである。時間に少し余裕があるので、橋を渡って少し歩いてみた。しかし、そうすぐには渓谷の景色にはならないので、早々に引き返した。


★三留野(みどの)宿街道風景 / 本陣跡(右側空き地) / 本陣跡に残る枝垂れ梅












柿其橋の先で、旧道はまた国道と合流する。これも典型的な木曾路の国道風景である。これを3Kmくらい歩くと、三留野宿に入ってゆく。この宿場も明治14年の大火で焼き尽くされた。本陣も焼失したが、その後再建はされていない。ただ、その跡には見事な枝垂れ梅が残されている。
町の中に「読書小学校」というのがある。面白い名前だが、昔(といっても昭和36年以前だが)、この地域は読書(よみかき)村といったので、その名残なのだろう。現在は南木曽(なぎそ)町となっている。


★JR南木曽駅 / 南木曽からの中山道旧道

中山道旧道は、南木曽駅のすぐ裏側を通っている。南木曽駅は木曽福島駅風のなかなか立派な駅である。やはり、妻籠や馬籠を控えた観光駅なのだろう。13:40頃駅前に到着した。妻は14:03の電車で到着することになっている。
私はまだ昼食をとっていなかったので、駅前の食堂に入った。カレーを注文したのだが、なかなかできてこない。ようやくできてきたら、到着までにあと5分ぐらいしかない。熱いカレーをやっとのことで食べ終わり、駅に駆けつけたら、妻がちょうど改札口から出てくるところだった。2日ぶりの再会である。さっそく旧道に戻り、二人で歩き始める。
北から木曽川に沿って下ってきた中山道は、ここ三留野宿の先で木曽川と別れ、妻籠宿を経て馬籠峠に向かう。峠を越えると木曾路の最後の宿にあたる馬籠宿に達し、美濃路へと下ってゆく。


★「重要伝統的建造物群保存地区、南木曽町妻籠宿保存地区」の説明板

旧道をしばらく進むと、大きな説明板がある。妻籠地区が伝統的建造物群保存地区に選定された時期、理由、説明などが細かく記されている。少々長くなるが、再録してみよう。

選定年月日 : 昭和51年9月4日
選定理由 : 妻籠宿は宿場の建造物を中心に旧中山道に沿った在郷および周囲の自然環境が一体となって歴史的風致を形成しており、江戸時代の宿場の姿をよく伝えている。 
説明 : 妻籠宿は室町時代末期には、すでに宿場として成立していたと考えられ、慶長2年(1602年)幕府が中山道に六七宿を定めたとき妻籠宿もその一つとなった。保存地区は、東西約3.8Km、南北約5.5Kmで、地区内に233棟の伝統的建造物があり、地域的に宿場、寺下、在郷の三地区に分けられる。
宿場は上、中、下町を中心とし、本陣、脇本陣、問屋が置かれた。建物は出梁により二階を張り出した切妻造、平入が特徴で、江戸時代末期から明治にかけて再建されたものが多く、大規模な建物も多い。
寺下は光徳寺の門前町の形態をなし一般に間口が狭く、建物は小規模である。
在郷には、旧中山道に面した町屋風の建物と付近に点在する農家がある。
妻籠宿では、昭和43年から町並み保存事業が行われ、五十三棟の復元を完了し、今後長期にわたり整備を行う予定である。
宿場保存の中心は住民の総意で宣言した「妻籠宿を守る住民憲章」といえよう。
昭和53年3月   文部省   南木曽町


★上久保の一里塚跡 / 妻籠城址

先ほどの説明板は、まだ建物も何も見えないさびしい道の傍らに立てられていた。このときは何でこんな場所に建てられているのだと思ったものだが、いま、この説明をじっくりと読んでみると、保存の対象は建物だけではなく、自然環境も含まれているのだ。この説明板の先には、一里塚跡、妻籠城址など保存の対象になっているものがたくさんある。
上久保の一里塚跡は江戸から78番目のもので、町内で原型を留めている唯一のものだという。
妻籠城址は旧道から外れて結構山道を登るが、妻はまだ歩き始めたばかりで元気なので、行ってみようという。城は典型的な山城で、関ヶ原の戦いの際にも攻防戦があったらしい。見晴らしのよい場所である。


★高札場跡 / 妻籠宿の町並み風景












旧道に戻りしばらく行くと、復元された高札場跡が見えてくる。建物群が見えるとともに人の数が急に増えてくる。これまで歩いてきて人などほとんど見かけなかったのに、「な、なんだこれは」という感じである。
もともと、妻旅宿は明治以降、鉄道からも国道からも見放され、さびれきっていたのだが、保存された町並みを観光資源として年間100万人の人を集める観光スポットになった。この人ごみを見ると、そのすごさが実感として分かる。
ここまでくるには住民の並々ならぬ努力があった。先ほどの説明板にあった「住民憲章」とは、「売らない」「貸さない」「壊さない」の三原則を貫くことを明文化したものである。妻籠宿にとってラッキーだったのは、江戸初期から現在にいたるまで、宿場が全焼したのは寛永16年(1634年)の一度だけだったことである。それだからこそ妻籠には今の町並みが残ったといえるだろう。


★妻籠宿・脇本陣(奥谷郷土館)

少し行くと、「町営奥谷郷土館」というのがある。これは脇本陣であった林家の建物を南木曽町が借り受け、昭和42年に郷土館として開館したものである。当時、建物を解体して都会に持ってゆこうという話が持ち上がっていた。これを阻止することから町並みの保存運動が盛り上がり、以後、この建物は妻籠宿保存運動の核となった。
この建物は、明治10年に新築されたオリジナルのもので、昭和47年には長野県宝に、平成13年には国の重要文化財に指定された。


★妻籠宿・本陣(南木曽町博物館)

さらに少し先に、復元された本陣がある。本陣は島崎氏が務めていたが、明治になり没落してしまった。建物は壊され、跡には御料局(営林署)の建物が建てられた。その営林署も移転し、跡地が南木曽町に払い下げられたので、町では平成4年から6年にかけて昔の図面を基に復元工事を実施し、平成7年に「南木曽町博物館」として開館した。
このように妻籠宿の本陣、脇本陣は、経緯は異なるが昔のままの姿で存在し、町の景観保持のために大きな役割を果たしている。
今日の宿は、寺下地区の「民宿 下嵯峨屋」である。到着は17時頃だった。寺下地区は明日、またじっくりと見学しよう。今日はこれまで。


歩行距離  約 21Km    万歩計 41,600歩