★「寝覚めの床」を見下ろせる臨川寺の境内 / 寝覚の床全景

「たせや」と「越前屋」の間の細い道を下ってゆくと国道にぶつかる。ここに先ほどの越前屋が大きな蕎麦屋を営業している。
国道を渡った向かい側は、景勝「寝覚の床」への入口となっている。寝覚の床は、臨川寺の中にあり、拝観料を払う必要がある。
臨川寺には浦島太郎伝説がある。浦島太郎は、竜宮城から帰って後、晩年をこの地で過ごしたのだという。ある日のこと、思いついたように土産にもらってきた玉手箱をあけたら、一遍に300歳のおじいさんになってしまい、ビックリして目が覚めた。目を覚ましたというのでここを寝覚めという。その後、彼の行方はわからなくなり、その跡に弁才天の尊像や遺品があったので小祠に納め、寺を建てたのが臨川寺の起源とされている。
奥の大きな岩の上に、小さな浦島堂というのがある。その手前の岩に腰掛けて昼食のおにぎりを食べた。下を覗くと、お尻がむずむずする。

★御嶽山への分岐点 / 国道から望む御嶽山

代官屋敷を出た後、中山道に戻り先に進む。2、3Km歩くと民家がまばらとなり、旧道はやがて国道19号線と合流する。これから先、上松宿まで国道に並行して旧道が残っている部分もあるが、無視してすべて国道を歩くことにする。国道をしばらく行くと、御嶽山方面に向かう県道が右に分かれてゆく。ここからは御嶽山は見えない。ところが、ここから10分ぐらい歩いて、何気なく後ろを振り返ったら、思いがけず御嶽山が見えた。今までで一番間近で、かつ、見える部分が多かった。木曾の御嶽山というが、なかなか木曾の谷からは見えない。中山道を歩いていて、一番よく見えるのはこの辺ではないだろうか。私はうれしくなって、しばし見とれた。来年は、御嶽山に登りたいなあ。

★木曾の桟(かけはし)周辺風景 / 木曾の桟跡

さらに20分ぐらい歩くと、木曾川と赤い橋を望む景色のよい場所に出る。この近くに木曾の桟の跡があるはずである。はじめはあの赤い橋が関係あるのかなと思ったが、どうも違うようである。
木曾の桟跡は、あの赤い橋を渡った対岸から眺めることができる。
左の写真に見るように、木曽川のすぐ近くまで山が迫っている。昔の中山道はこの断崖絶壁に川に沿って木の桟道が作られた。これが火災で消失したので、1648年(慶安元年)に中央部を木橋とした長さ56間(102m)に及ぶ石垣を作った。
昭和41年の国道19号線の改修工事で、史跡として石垣の一部が残されることになった、国道の上部には、平成11年に完成した落石崩壊防止の最新工法の擁壁が見られる。

第13日目 (9月14日 土曜日) 福島宿〜上松宿〜須原宿


今回の旅は、3連休を利用して福島宿から中津川宿まで、3日かけて歩く予定である。2日目には、南木曽駅で後からくる妻とデートし、妻籠宿、馬籠宿は妻と一緒に歩くこととした。第1日目の今日は、木曽福島駅からのスタートである。 今日は、前回見逃した山村代官屋敷を見学したいので、駅から中山道を少し戻る。


★山村代官屋敷 / 隣接する福島小学校

山村氏は、関ヶ原に向かう徳川秀忠の先陣を承って活躍し、勝利を得たことから、木曾谷の徳川直轄支配を任される木曾代官となった。以後、明治にいたる274年間木曾谷を支配し、関所を守っていた。その権力は強大で、屋敷は豪壮を極めたものだったという。
本邸の跡は、隣接する福島小学校の敷地となっている。現在残っている建物は、13代当主の書斎を中心にしたもので、1723年の建築である。これは、庭園とともに一般公開されている。山村家ゆかりの古文書類、生活用具、木曾五木など木曾谷に関するもの等の展示説明もある。




 

★上松宿入口(十王橋) / 上松宿の町並み

国道に戻り、先に進む。2Kmくらい歩くと十王橋というのがあり、旧道はここから左に分かれてゆく。ここには、「中山道上松宿入口」の標識が立てられている。
上松宿は、たびたびの火災に遭い、特に昭和25年の大火後すっかり新しい町に変った。先ほどの宿場入口の標識から100mの町並みだけが焼け残り、古い家並みが昔の面影を伝えている。旧道はこの部分だけで、また、すぐに国道に合流してしまう。国道沿いに新しい町並みが続く。
木曾谷の人々の生活は木材によって支えられてきた。中でも上松はその中心であった。尾張藩は木曾谷の支配を直轄とし、この地に材木役所を設けた。1721年にはヒノキ、サワラ、アスナロなどを禁樹五木として統制することとなった。
現在でも、上松は木材の一大集散地であり、駅の付近には木材がうず高く積まれている。


★民宿「たせや」 / 越前屋

旧道は国道に合流した後、また、すぐに分かれる。これから3Kmくらいは旧道が残っており、こちらを歩く。道沿いの上松小学校の中に島崎藤村の文学碑。近くに斎藤茂吉の歌碑がある。この辺、道の右側には上松材木役所御陣屋があったというが、それらしい遺構は見られなかった。
さらに進むと、大きな古い建物が2軒並んで建っているのが見えてくる。昔の茶屋「たせや」と「越前屋」である。いずれも、現在は民宿として営業中である。



★小野の滝付近の国道 / 小野の滝

旧道に戻り少し行くと、大きな桂の木がある。幹の周りが4mもあるという。その先に木曾古道の案内標識があったが、ガイドブックには載っていないので、道なりに進む。やがて、旧道は国道に合流する。
国道を少し行くと、小野の滝がある。国道のすぐ脇で、上には中央線の鉄橋が通っている。周囲の環境はすこぶる悪いのだが、滝そのものはそんなことはお構いなしに、堂々と流れ落ちている。時折乗用車が止まり、滝を眺めてまた去ってゆく。
この後、国道に並行して旧道が一部残っている区間もあるが、かまわずに国道をひたすら歩く。


★JR須原駅 / 脇本陣跡(西尾酒造店) / 水舟と正岡子規の歌碑












小野の滝から8Km近く国道を歩き、ようやく須原宿の入口に到着する。すぐ近くにJR須原駅があり、ここから、旧道の須原宿内になる。駅の少し先に西尾酒造店があるが、これが脇本陣の跡である。この店では銘酒「木曾のかけはし」を製造販売している。道の向かい側に水舟があり、脇に正岡子規の歌碑が建っている。旧道沿いは、昔の宿場の面影が残る静かな佇まいである。


★須原宿内で最も古い水舟 / 民宿「すはら」

須原宿では、裏山から豊富な湧水を引き、宿内の道端17ヶ所に「井戸」と呼ぶ水場を設けた。下水道も考案され、宿場用水に流しこんでいた。現在でも、豊富な水が宿場内のいたるところから湧出し、大木をくりぬいた水舟が道端に置かれている。
古くからある水舟には屋根がかけられ、説明板とコップが置いてあった。私も飲んでみたが、つめたくておいしかった。
中山道沿いに、今日の宿泊場所である民宿「すはら」がある。到着は17時頃だった。この宿の前にも水舟が置かれている。がんぎり格子の古い家で、部屋には囲炉裏があり、奥のほうには箱階段も残っている。昔の民家の見本のような家だった。
本日の同宿者は、私を含めて男性3人。夕食は、同じテーブルなので話がはずんだ。皆、中山道を歩いている。東京と埼玉の方で、いずれも52歳だという。東京の方は昨年東海道を完歩し、今年は京都から中山道を歩いているのだという。埼玉の方は、今年初めて中山道歩きをはじめ、日本橋からここまで到達したという。ここで、お互いに街道の情報を交換する。特に東京の方は、川に沿って歩くのも好きだということで、私もうれしくなってしまった。私が街道歩きのHPを作っているといったら、川歩きのHPも作ってくださいよ、といわれた。私も川歩きのデータ(デジタル画像)はかなり持っているので、来年はこれを活用してHPを作ってみようかな。


歩行距離  約 22Km    万歩計  41,800歩

★木曾宿本陣跡(木曽福島町役場) / 町を流れる木曽川

木曽福島は、木曾地方では最も大きな町である。国道19号線はバイパスで町の中を通らないが、旧中山道を中心として歴史を感じさせる賑わいのある商店街が続いている。中山道沿いの少し奥まったところに木曽福島町役場がある。この場所に福島宿本陣があった。
町の真中を木曽川が流れている。町は川の両側に細長く続いている。昔からの橋は、関所橋、大手橋、行人橋であるが、今はその他にも多くの橋がかけられている。大手橋を渡ってすぐのところに山村代官屋敷跡がある。