ーファミリー版ー かねさはの歴史                P 4

                    参考文献;集英社「図説日本の歴史」
                                                               旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃          「金沢ところどころ・改定版」
                                 和田大雅「武州金沢のむかし話」 
 杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

・・・B弥生時代・・・

 
一万年も続いた縄文時代も朝鮮半島を伝わってきた大陸文化によって終わりを告げ、弥生時代を迎えることになります。この時代の特色は稲作がはじまったこと、金属器の使用、階級社会が芽生えたことです。

  日 本  で は
か ね さ は  で は
略 年 表

弥生式土器








 

 東京都文京区弥生町で発見されたことから名づけられた弥生式土器は良質の粘土を使い高温で焼かれているため縄文土器よりも固く、薄手になって色も赤みがかった褐色のものが多く、模様も単純になっています。
 用途も単なる煮炊き用の「甕(かめ)」から米をむす「こしき」、貯蔵用の「壷」、食物を盛るための高杯、鉢など広く使われました。


 金沢区に隣接する磯子区の三殿台遺跡からは150を超える弥生時代の住居跡や土器、石器、金属器などが発見され、当時の人々の生活を知る手がかりを与えてくれます。


かねさは付近の主要遺跡(縄文・弥生時代)





弥生式土器(三殿台遺跡)


指輪や腕輪と思われる青銅器製品
(三殿台遺跡)

 金沢区内では現在の能見台3丁目付近から弥生時代の住居跡20戸ほどが見つかりましたが、丘陵の続くこの地域では農耕に向かない地形であったため大規模な米づくりは行われなかったようです。


弥生時代の住居跡(三殿台遺跡)
 
竪穴式住居の平面は円形(縄文)、楕円形(弥生時代)、四角形(古墳時代)と変化していきます

 
 弥生時代
(BC400頃〜
   AD300頃)

BC400
 
米づくり始まる

 金属器の使用

BC100 
この頃
 クニは100
国く
 らいに分かれて
 いた

AD57 奴国後漢
 に使いを出し金
 印をさづかる

107 倭国後漢
 に使者(奴隷)を
 献上する

200 この頃ク
 ニは30
国にま
 とまる

239邪馬台国
 の卑弥呼、魏に
 使いを送る



 Topics
 2003年5月国立歴史民俗博物館は水田耕作が日本に伝わったのはBC1000年頃とする研究結果を発表しました。  

 従来米作についてはBC500〜400年頃中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちによってもたらされたと考えられてきており、考古学会には慎重論もありますが、この発表により日本の古代史は大幅な修正を迫られる可能性もあります。

稲作のはじまり


 弥生時代のはじめに米は朝鮮半島を通り大陸から入ってきました。
 米づくりはやがて北上しBC2世紀頃には東北北部まで達したようです。
 米づくりはムラ(集落)の人々の共同作業として行われ収穫物もムラ全体のものでした。
 静岡県の登呂遺跡は弥生時代の代表的な遺跡ですがここからは約7万uにもおよぶ田んぼが見つかっています。
 登呂遺跡からは木製の杓子やお椀、木製の鍬、鋤、田げたなど大量の米づくりに関する遺物が出土しています。

青銅器と鉄器

 米についで青銅器と鉄器は殆ど同時に渡来しました。
 青銅器ははじめ武器として入ってきましたが、やがて国内でも生産されるようになり銅鐸なども作られ祭具に使われるようになったり装身具に用いられました。
 鉄器は材質が固いので農具の鍬、鋤、鎌、工具の斧、やりがんな等でしたが貴重品で少なかったため武器のほかは、木製農具を作るための工具として使われることが多かったようです。

小国家の出現

 米づくりがはじまると田んぼや農具の差により収穫高もまたムラごとに差がでてムラの中に身分差がでると共に、大きな力を貯えたムラが土地を広げ、弱いムラの人々を従え、次第にムラは一つのクニにまとめられ、クニに中には上下の身分もでてきます。
 紀元前一世紀ころには日本は百あまりのクニに分かれていたようです。
 二世紀の後半になるとクニ同士が争い次第に日本全体が一つにまとまる方向へと動き出します。



 金  印 

 
 1784(天明4)年福岡県の志賀島で金印が発見されました。
 金印には「漢委奴国王」と刻印されていますが、中国の歴史書「後漢書」の”東夷伝”の巻には倭(当時の日本の呼び名)の奴国(小国家の一つ)からやってきた使者に光武帝(当時の中国の皇帝)が金印を授けたことが記されており、当時漢に服属していた倭の奴国の国王として認め、そのしるしとして金印を与えたものと考えられます。
 このように当時の日本は中国に従い、貢ぎ物をもって行った様子は「前漢書」の”地理志”にも次のように記されています。
 
 「それ楽浪の海中に倭人あり。わかれて百余国をなす、歳時をもって来り、献見するという」 (注、楽浪とは朝鮮半島西北部の郡)

邪馬台国
(
やまたいこく)

 「魏志倭人伝」によると三世紀の日本には邪馬台国という国があって約三十のクニを従えていました。
 邪馬台国には卑弥呼という女王がいて239年に中国・魏の皇帝に使いを送り「親魏倭王」という名と金印や絹織物、銅鏡などを授けられたことが記されています。
 邪馬台国の所在地については北九州地方か近畿地方(大和)かで長い間争われてきましたが、次につづく遺物の出土状況などから大和地方説がやや有力とみられているようです。

前ページへ

次ページへ

トップページへ