ーファミリー版ー かねさはの歴史 P5
参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
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「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか
・・・C古墳時代(大和時代)・・・
小さく分かれていた国々が大和朝廷によって統一され、やがて朝鮮半島に進出、仏教をはじめ大陸文化が入ってきます。
一方国内では豪族が対立、蘇我氏が政治の中枢になり、天皇家と並ぶ勢力となります。権力の象徴として大きな古墳が作られるようになったのもこの時代の特徴です。
日 本 で は |
か ね さ は で は |
略 年 表 |
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小国家は近畿地方と九州北部を中心に大きくまとめられ、350年頃までには近畿地方から進出した大和朝廷によって一つにまとめられました。 大和朝廷の中心は大和の最大の豪族だった皇室の祖先で、当時は王(きみ)とか大王(おおきみ)と呼ばれ、天皇と呼ばれるようになったのはずっとあとの天武天皇の時代からです。 大和朝廷は氏姓制度や各地に屯倉(みやけ)と呼ぶ朝廷の土地を置いて豪族を支配します。
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武蔵国造から朝廷に献上された屯倉 |
古墳時代 (300年頃〜591) 300 大和朝廷による 国土の統一が すすむ 369 百済王より 七支刀を贈られる 400 古墳最盛期 450頃 文字の 使用はじまる 478 倭王武(雄 略)宋に使いを おくる 527 磐井の乱 534 武蔵国造, 朝廷に屯倉を 献上 (日本書紀) 538 仏教伝来 562 任那の日 本府滅亡 587 蘇我氏が 物部氏を滅ぼす
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古墳の発生 |
古墳は土を盛り上げて作った豪族の墓で国土の統一が進んだ3世紀後半から4世紀にかけて大和地方を中心に発生しました。 古墳を作るには莫大な労働力が必要ですが、葬られた人の後継者として、人々にその力を示すために作られたものと考えられます。 古墳には銅鏡や玉類、呪術用品や刀などの武器が副葬品として埋められ、まわりには埴輪が置かれたり埋められたりしました。 埴輪は古墳の周囲を示すためや死者へのお供として作られたものと考えられています。 |
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朝鮮への進出 |
4世紀の朝鮮半島は北部に高句麗があり南部は百済、新羅、任那に分かれて互いに勢力を広げる争いをしていましたが、大和朝廷は国内統一を成し遂げたあと4世紀後半から5世紀にかけて朝鮮半島に進出して任那を支配下におきました。 朝廷が朝鮮半島に進出した理由は朝鮮に多い鉄資源を手に入れること、進んだ生産技術を持つ人々を日本に移すことでした。 奈良の石上神宮にある七支刀や鴨緑江岸辺の好太王の碑は、当時の大和朝廷の朝鮮への進出を物語っています。 |
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大和朝廷の発展 |
大和から河内へ 米作りに適した奈良盆地の各地には天皇家を中心に物部氏、蘇我氏、巨勢氏などの有力豪族がおり、三輪山のふもとを中心に発展していきましたが、やがて広い平野を求めて河内に移動します。 実在した最初の天皇と思われる応神天皇やつぎの仁徳天皇陵がある河内は、瀬戸内海から朝鮮半島へつながる海路にも通ずる新しい朝廷の本拠地としてふさわしいと考えられたようです。 倭の五王 5世紀は古墳づくりが盛んで大型のものが多い時代ですが、この頃の日本の様子は宋の歴史書「宋書」に記されています。 当時の日本には「倭の五王」といわれる五人の王がいましたが、そのうちの一人「武王」(雄略天皇)が宋の皇帝に贈った文(上表文)によると、当時の天皇は国内では大王(おおきみ)と呼ばれ各地の豪族の上に立つ最大の王として国を治めていたことがわかります。 |
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大和朝廷の動揺 |
任那四県の割譲 当時朝鮮半島の任那は日本の支配下にありましたが、6世紀に入ると百済の要求により西側の四県を割譲、残りの地方も磐井の反乱などで朝鮮への出兵が遅れているうちに新羅に攻め取られ(後記)、大和朝廷も弱体化します。 仏教伝来 538年百済の聖明王は日本に仏像や経典を贈ってきました。 これ以前にも朝鮮からの渡来人によって仏教は日本人の間に伝えられていましたが、百済の国王から大和朝廷に伝えられた公式な伝来で仏教公伝とも云われています。 豪族の対立 仏教の受け入れに賛成したのは蘇我氏であり、反対したのは朝廷で神を祀る仕事をしていた中臣氏と蘇我氏に対立していた物部氏でしたが、やがて蘇我氏と物部氏の政治的対立に発展します。 任那の滅亡 仏教が日本に伝来した頃、朝鮮半島では任那をめぐる争いが激しくなります。高句麗は南へ進出、新羅も領土を広げ圧迫された百済は日本へ救助を求めます。 日本は百済を助け、任那を復興しようとして554年朝鮮に出兵しますが、新羅の反抗にあい562年には任那は新羅に攻め取られてしまいました。 蘇我氏の台頭 朝廷では蘇我氏と物部氏が対立していましたが、蘇我氏は天皇家とも姻戚関係を結び次第に力を伸ばし、587年蘇我馬子の時、物部守屋を破り政権の頂点に立ち、遂には意見の対立した崇峻天皇を暗殺させました。 前のページへ 次ページへ トップページへ
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