ーファミリー版ー かねさはの歴史                P5

 参考文献;集英社「図説日本の歴史」
                                                               旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃          「金沢ところどころ・改定版」
                                 和田大雅「武州金沢のむかし話」 
 杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

 

・・・C古墳時代(大和時代)・・・

 小さく分かれていた国々が大和朝廷によって統一され、やがて朝鮮半島に進出、仏教をはじめ大陸文化が入ってきます。
 一方国内では豪族が対立、蘇我氏が政治の中枢になり、天皇家と並ぶ勢力となります。権力の象徴として大きな古墳が作られるようになったのもこの時代の特徴です。

 
日 本  で は

か ね さ は  で は

略 年 表

       
 
大和朝廷の成立=国土の統一


 小国家は近畿地方と九州北部を中心に大きくまとめられ、350年頃までには近畿地方から進出した大和朝廷によって一つにまとめられました。
 大和朝廷の中心は大和の最大の豪族だった皇室の祖先で、当時は王(きみ)とか大王(おおきみ)と呼ばれ、天皇と呼ばれるようになったのはずっとあとの天武天皇の時代からです。
 大和朝廷は氏姓制度や各地に屯倉(みやけ)と呼ぶ朝廷の土地を置いて豪族を支配します。

氏姓制度(しせいせいど)

 大和朝廷が国土をを統一して各地の豪族を従える仕組みが氏姓制度です。
 豪族の集団は氏(うじ)と呼ばれ氏は集団の頭(蘇我馬子、物部守屋など)に率いられ朝廷に仕える一方、部(べ)という集団を支配しました。
 部に属する人々は部民(べのたみ)と呼ばれ、氏の所有していた土地を耕し、収穫物を氏に差し出していました。
 部の名には氏の名をつけた大伴部とか天皇の名をつけたアナホ部(安康天皇の生前の名はアナホノミコト)や、部の仕事を名にした錦織部(織物に携わっていた)弓削部(弓を作っていた)犬飼部(犬を飼う仕事をしていた)などがあります。

 朝廷は氏にたいして姓(かばね)をあたえますが中央の有力豪族には臣(おみ)、連(むらじ)、地方の有力豪族には君(きみ)、直(あたい)の姓があたえられました。
 臣と連を名乗る中央豪族のうちもっとも大きな有力な氏の頭は特に選ばれて大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)になり国の政治を担当しました。
 地方では君や直などの氏の頭がその地方の国造(くにのみやっこ・知事)県主(あがたぬし・市町村長)になって地方政治を担当します。
 朝廷は国造や県主を監督し、貢物を納めさせ各地に屯倉を置いて管理させました。


 大和朝廷軍の攻勢により南関東の豪族は大和政権下に組み込まれ、大和朝廷へ貢物をもっていくようになり、東国はもはや大和政権を維持するための労働、経済上の資源供給地としての役割を果たすだけの地域となり、「かねさは」の村々は武家社会の幕が開く鎌倉時代まで歴史の表舞台から遠ざかります。

 日本書紀の安閑元年閏(534)閏12月の条には武蔵国の国造(くにのみやっこ、長官)家の相続者笠原直使主が同族の小杵と国造の地位を争い、朝廷の力でこれを滅ぼし、お礼に朝廷に対して、武蔵の国の一部である横淳・橘花・多永・倉樔の四ケ所の土地を屯倉として献上したことが記載されており、「かねさは」の地に屯倉がつくられていく様子がわかります。
(倉樔はのち「久良岐」となり今の金沢区をはじめ磯子区、中、南、港南区に亘っています)

武蔵国造から朝廷に献上された屯倉


 古墳時代

(300年頃〜591)

300

 大和朝廷による
 国土の統一が
 すすむ

369 百済王より
七支刀を贈られる

400

 古墳最盛期

450頃 文字の
  使用はじまる

478 倭王武(雄
 略)宋に使いを
 おくる

527
 磐井の乱

534 武蔵国造,
 朝廷に屯倉を
 献上
  (日本書紀)

538 仏教伝来


562 任那の日
   本府滅亡


587
蘇我氏が
 物部氏を滅ぼす


 瀬戸神社の祭具
1987(昭和62)年の発掘により瀬戸神社につながる西側の山から5世紀ころの古墳時代の貝塚とともに,勾玉・管玉・鏡形(有孔円板)が発見され、この地が古代から瀬戸の海神を祀る神聖な場所であったことがわかりました。

<瀬戸神社旧境内地から出土した祭祀遺物>





Topics
 2003年6月名大で行われた考古学研究集会で、愛知県の朝日遺跡で出土した土器から古墳時代の始まりが100年ほど溯る可能性のあることが発表されました。
 教科書では3〜4世紀頃からを古墳時代と呼んでいますが、学会では卑弥呼の朝貢(239)頃を境に古墳前期のはじまりとしてさらにそれ以前は古墳時代初頭と呼んで150〜200年頃を古墳時代に含める見方が台頭していますが、今回の発表はそれを更に100年ほど溯るものとして注目されます。


古墳の発生

 古墳は土を盛り上げて作った豪族の墓で国土の統一が進んだ3世紀後半から4世紀にかけて大和地方を中心に発生しました。
 古墳を作るには莫大な労働力が必要ですが、葬られた人の後継者として、人々にその力を示すために作られたものと考えられます。
 古墳には銅鏡や玉類、呪術用品や刀などの武器が副葬品として埋められ、まわりには埴輪が置かれたり埋められたりしました。
 埴輪は古墳の周囲を示すためや死者へのお供として作られたものと考えられています。


 金沢区では横穴墓などを除いては現存する確認された古墳はありませんが、近郊の長柄・桜山古墳群が注目されます(現地案内図は
こちら)。
 長柄・桜山古墳群(1・2号古墳)は1999(平成11)年に携帯電話の中継所工事に伴う森林伐採の際に発見されました。
 1号墳は全長90m、2号墳は全長88mの前方後円墳で4世紀中以降、神奈川県下では最大級の規模のもので、相模湾を見下ろす立地から、海上交通を支配した豪族にものと見られます。
 ともに円筒埴輪、壷形埴輪が出土しています。


長柄・桜山第1号墳(後円部分)


長柄・桜山古墳より出土した壷形埴輪
(横須賀市自然人文博物館蔵)


  参考・古墳のうつりかわり

 古墳には円墳、前方後円墳、方墳、上円下方墳などがありますが、古墳の形や副葬品は時代とともに変わります。
・前期(4世紀)・・・定型化した前方後円墳が発生、大和朝廷の国土統一が窺われる時代です。
 村や水田を見下ろすような丘の上や山の端に造られ、三角縁神獣鏡など銅鏡や玉類などの呪術用品が副葬品として納められています。


箸墓古墳、日本最古の前方後円墳(奈良県桜井市:旺文社・図説、日本の歴史)

・中期(5世紀)・・・墳丘の巨大さによって築造者の力を誇示する動きが頂点に達した時代で、平野や低い台地に造られるようになり、大規模な前方後円墳が主体となり濠をめぐらして周囲から隔絶するように造られています。
 副葬品は武器や馬具、金銀のアクセサリーが増えてきます。


応仁天皇陵、、全長415mの前方後円墳で土量は仁徳天皇陵を超えるといわれます。
(大阪府羽曳野市:旺文社・図説、日本の歴史)

・後期(6〜7世紀)・・・社会体制の変化により墳丘の大きさによる力の誇示が主張されなくなった時代で、全体として規模も小さくなり、小規模な円墳、方墳が比較的狭い地域に密集して分布する群衆墳があらわれ横穴式石室をつくるようになり死者を追送、個人の墓から家族の墓へと変わります。
 副葬品は須恵器や土師器などの土器が多くなります。

 

朝鮮への進出

 4世紀の朝鮮半島は北部に高句麗があり南部は百済、新羅、任那に分かれて互いに勢力を広げる争いをしていましたが、大和朝廷は国内統一を成し遂げたあと4世紀後半から5世紀にかけて朝鮮半島に進出して任那を支配下におきました。
 朝廷が朝鮮半島に進出した理由は朝鮮に多い鉄資源を手に入れること、進んだ生産技術を持つ人々を日本に移すことでした。
 奈良の石上神宮にある七支刀や鴨緑江岸辺の好太王の碑は、当時の大和朝廷の朝鮮への進出を物語っています。
 


大和朝廷の発展

大和から河内へ
 米作りに適した奈良盆地の各地には天皇家を中心に物部氏、蘇我氏、巨勢氏などの有力豪族がおり、三輪山のふもとを中心に発展していきましたが、やがて広い平野を求めて河内に移動します。
 実在した最初の天皇と思われる応神天皇やつぎの仁徳天皇陵がある河内は、瀬戸内海から朝鮮半島へつながる海路にも通ずる新しい朝廷の本拠地としてふさわしいと考えられたようです。

倭の五王
 
5世紀は古墳づくりが盛んで大型のものが多い時代ですが、この頃の日本の様子は宋の歴史書「宋書」に記されています。
 当時の日本には「倭の五王」といわれる五人の王がいましたが、そのうちの一人「武王」(雄略天皇)が宋の皇帝に贈った文(上表文)によると、当時の天皇は国内では大王(おおきみ)と呼ばれ各地の豪族の上に立つ最大の王として国を治めていたことがわかります。


大和朝廷の動揺

任那四県の割譲
 当時朝鮮半島の任那は日本の支配下にありましたが、6世紀に入ると百済の要求により西側の四県を割譲、残りの地方も磐井の反乱などで朝鮮への出兵が遅れているうちに新羅に攻め取られ(後記)、大和朝廷も弱体化します。

仏教伝来
 538年百済の聖明王は日本に仏像や経典を贈ってきました。
 これ以前にも朝鮮からの渡来人によって仏教は日本人の間に伝えられていましたが、百済の国王から大和朝廷に伝えられた公式な伝来で仏教公伝とも云われています。

豪族の対立
 仏教の受け入れに賛成したのは蘇我氏であり、反対したのは朝廷で神を祀る仕事をしていた中臣氏と蘇我氏に対立していた物部氏でしたが、やがて蘇我氏と物部氏の政治的対立に発展します。

任那の滅亡
 仏教が日本に伝来した頃、朝鮮半島では任那をめぐる争いが激しくなります。高句麗は南へ進出、新羅も領土を広げ圧迫された百済は日本へ救助を求めます。
 日本は百済を助け、任那を復興しようとして554年朝鮮に出兵しますが、新羅の反抗にあい562年には任那は新羅に攻め取られてしまいました。

蘇我氏の台頭
 
朝廷では蘇我氏と物部氏が対立していましたが、蘇我氏は天皇家とも姻戚関係を結び次第に力を伸ばし、587年蘇我馬子の時、物部守屋を破り政権の頂点に立ち、遂には意見の対立した崇峻天皇を暗殺させました。

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