ーファミリー版ー かねさはの歴史 P 16
参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか
・・・N江戸時代V(改革の時代)・・・
文治政治が行き詰まり幕府は次第に財政難に陥り享保・寛政・天保と三度の改革を行って幕政の立て直し を図りましたが、傾いた政治を立て直すことはできず、国内では百姓一揆や打ちこわしが頻発し海外からは 外国勢が開国を迫ってきます。
日 本 で は |
か ね さ は で は |
略 年 表 |
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享保の改革 |
<目安箱の設置>1716(享保1)年吉宗が八代将軍に就任し ましたが文治政治のゆるみに加え、物価の 上昇と不景気に庶民の不満がつのってき ました。 吉宗は目安箱を設置して人々の声を政治 に反映させ、あわせて役人の仕事振りの監 視に役立てようとします。 <倹約と武芸> 吉宗は武芸の奨励や質素倹約により武 士の気持ちを引き締めて政治を立て直そ うとします。 将軍としての吉宗の生活も質素でしたが それが大名、旗本から町人に迄強制され、 倹約による消費しめつけの結果の不景気 で庶民の生活は一層苦しくなります。 武芸を盛んにし鷹狩りを奨励しました が狩場となった地元農民は大変な迷惑を 蒙ったようです。 <旗本の救済> 旗本、御家人は幕府からの知行米や俸禄 米を抵当として札差(旗本・御家人が幕府 から支給される米を引き取って金を貸す 業者)から借金をしていましたが、やがて 返済不能となったため「相対済し令」を出 して当事者間の解決に委ねることにしま した。 一方知行米や俸禄米の不足を補うために 大名に対する参勤交代による江戸への滞 在期間を半年に短縮する代わりに1万石 につき100石づづの米を差し出させまし た。(上げ米) この結果滞り勝ちだった旗本、御家人に 対する米の支給も一応順調になりました。 <年貢の強化> 吉宗は新田の開発を進める一方で年貢の 取り立ても厳しく行い、従来の検見法に代 えて定免法を採用、年貢の率も従来の四公 六民から五公五民に増やしました。 更に本田畑以外の畑作にも目をつけ綿、 菜種、ごま、茶、タバコなどの商品作物の税 を引上げたり、新たに課税したりしました。 <人材の登用ほか> 吉宗は足高の制度で財政難の解決と人材 の登用を図り、公事方御定書などの基本法 典を整備しました。 また実学(実際に役立つ学問)を奨励し青 木昆陽を登用して甘藷の栽培を研究させま した。 享保時代は農業技術の発達により生産量 が増加、米の値段も下がり気味だったので これを安定させるために江戸の米商人に株 仲間をつくらせて米の買占めにより値下が りをおさえようとしました。 吉宗の政策は農民などへの年貢負担を強 めるなどの点はありましたが、財政の立て 直しや人材の登用など実際的な改革が多く 「幕府中興の英主」と呼ばれました。 |
<金沢藩(六浦藩)の成立> 1722(享保7)年米倉忠仰が下野国(栃木 県)本皆川から金沢の社家分村に陣屋を移 し、金沢藩が成立しました。 これに伴い多くの家臣が移住し金沢の治 安もよくなり流通の拠点として繁栄する ようになります。 初代藩主の忠仰は移住直後67ヶ条に亘る 規則を定めましたが、以後この規則が領地 支配の基本となりました。 忠仰後の藩主は里矩―昌晴・・・昌言と明 治維新による廃藩置県まで続きます。 江戸時代の大名は幕府から領地を与えら れる一方で幕府に対してさまざまな役(つ とめ)を果たしました。 米倉氏は代々日光祭礼奉行や大坂加番 (大坂城の警備、加番とは人数が不足した 時これを助ける人)などの任務が多かった ようです。 こういった幕府への役負担は金沢藩の財 政を圧迫しましたがまとまった領域を持 たない金沢藩では大規模な産業を興した りは出来ず、負担は領民にかかり金沢藩が 幕府への奉公を励めば励むほど領民の負 担は大きくなりました。 |
江戸時代 V(1716 〜1852) 1716 享保 の改革はじ まる 1733 米価値 上がりによ り江戸に打 ちこわし起 こる 1742 公事方 御定書制定 1771 この頃 諸国でお蔭 まいり流行 1772 田沼意 次、老中に 1774 解体新 書できる 1782〜87 天明の大飢 饉 1787 寛政 の改革はじ まる 1792 ロシア の使節ラッ クスマン根 室に来航 1804 ロシア の使節ロザ ノフ長崎に 来航 1808 フェー トン号来航 1825 異国船 打払令 1833〜36 天保の大飢 饉 1839 蛮社の 獄 1841 天保 の改革はじ まる |
一揆と打ちこわし |
<激しくなる一揆>元禄の頃から全国に商業や貨幣経済が発 達して、生活が豊かになってきて幕府や藩 の支出が増えてくるとその負担が農民の 肩にかかってきて、年貢が次第に重くなり 田畑を手放すものも出て農民の間にも名 主(庄屋)などの富農に対して水呑百姓な どの貧農が増え、貧農たちは広い地域に亘 って一斉に立ち上がり暴動をおこし、封建 制度に立ち向かいます。 農村の百姓一揆と並んで都市では貧民が 大勢で米屋や質屋などを襲う打ちこわし が起こりました。 1733(享保18)年に起こった米騒動は江戸 で起こった最初の打ちこわしといわれて います。 | ||
田沼時代 |
吉宗ののち家重、ついで家治が将軍になり ましたが側用人から老中になった田沼意次 が政治の実権をにぎります。<財政建て直し>年貢収入も横ばいで政府の支出増を賄い きれなくなった幕府の財政難にたいして、 意次は銅、鉄などを幕府の専売として多く の商工業者に組合(株仲間)を作らせて運 上・冥加といった税金を取り立てました。<蝦夷地と長崎>田沼の財政再建の目は蝦夷地(北海道)に も向けられロシアに対する国防上の拠点 と輸出用の海産物の産地として経済開発 を試みました。 長崎貿易でも銅や海産物の輸出を積極的 に行った結果、幕末にかけて輸出向けの産 業が興ってきます。<意次の失脚>田沼の積極政策によって幕府の財政は良 くなりましたが意次・意知父子の政治は賄 賂を取ったり農民や一般町民に厳しく、こ の結果役人の道徳は乱れました。 一方天明の大飢饉、浅間山の噴火などの 天災も次々と起こり、米価が暴騰して人々 の生活は苦しくなり1786(天明6)年将軍家 治の死とともに意次も老中辞任に追いこ まれ領地も没収されました。 | ||
寛政の改革 |
<松平定信の登場> 家治のあとは家斎が将軍につき、松平定 信が老中に就任します。 定信は学問・武芸の奨励や風俗の取り締 まりで幕府の権威を高め、財政の立て直し のために農村を復興し商業を抑えようと します。 ―異学の禁― 武士の精神を引き締めるため朱子学を正 学としそれ以外の学問を異学としして昌 平坂学問所(詳細はこちら)で朱子学以外 を教えることを禁止しました。 ―棄捐令と備荒貯蓄― 定信は旗本・御家人の生活の苦しさを救 うため札差に対する借金に対して棄捐令 を出しました。 一方天災や飢饉にそなえて幕府・諸大名 に貯蔵米を増やすよう義務づけ(囲米の 令)、町民(地主)には七分金積立を実施し ました。 定信はこの外石川島に「人足寄場」を作っ て浮浪者などを収容し技術を教えて正業 に就かせる救済事業も行い改革の成果も 上げましたが、厳格すぎたため武士や町民 の反感を買い在職6年ほどで老中を退きま した。 |
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大御所時代 |
<十一代将軍家斎> 定信がやめた後、家斎は自分の手で政治を 行います。 初めは定信の方針を続けていましたが、18 18(文政1)年水野忠成が老中になると政治 はゆるみ社会はぜいたくになり、役人の収 賄が流行してますます財政は苦しくなりま した。 家斎は文化文政年間を中心に51年在職し ましたが贅沢な生活をおくり政治の引き締 めを行わず江戸・大坂の豪商に御用金をか けたり、貨幣の改鋳で一時しのぎを行うの みでした。 <大塩平八郎の乱>> 1837(天保8)年、大坂東町奉行所の与力から 陽明学者になった大塩平八郎は天保の大飢 饉(1833〜36年)による民衆の苦しみを見て 同士とともに立ち上がり町に火を放ち、豪商 を襲いました。 乱は一日で平定されましたが幕府の直轄地 である大坂での反乱は幕府に大きな驚きを 与えました。 <モリソン号事件> 大塩平八郎の乱の4ヶ月後、アメリカ商船モ リソン号が突然浦賀沖に現れ漂流民を送り がてら幕府に貿易の許可を求めましたが浦 賀砲台は先年の「異国船打払令」に基づいて 砲撃し退去させました。 この事件は「蛮社の獄」(詳細はこちら)の 原因となりますが鎖国に眠る幕府の改革を 外から迫るものとなりました。 |
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天保の改革 |
<水野忠邦の登場> 1841(天保15)年家斎が死亡したあと老中水 野忠邦が文化・文政でゆるんだ幕政を立て直 そうと改革にのり出します。 改革の第一は風俗、道徳を正しくし倹約を 実行すろことで、贅沢の禁止は衣食住のすみ ずみのことから商売、娯楽などのあらゆる事 におよび、江戸の町は火の消えたように淋し くなったと言われます。 忠邦は経済政策にも力を入れ物価を下げさ せるために株仲間を解散させましたが、逆に 混乱を招きました。 天保の大飢饉で荒れ果てた農村を立て直す ため農民の離村を禁じた「人返し」も成果が 上がらず最後に行った「上知令」も大名や旗 本の猛反対で取り下げ、忠邦は老中辞任に追 い込まれました。 <諸藩の藩政改革>> 天保期になると各藩の財政は一層苦しく なりどの藩も財政建て直しに苦しみました が、それに成功してやがて幕末の歴史をリー ドしていったのが雄藩とよばれる長州藩(山 口県)や薩摩藩(鹿児島県)です。 各藩では産業を盛んにして米以外の藩の特 産物の増産を奨励して藩で買い占めて売り 出すという動きが活発になりました。 長州藩では紙、蝋、菜種などを専売にしたり 税をかけるなどして収入を増やし、下関に越 荷方という役所を置きそこを通って大坂に 行く船荷を目当てに資金や倉庫を貸して藩 財政の再建に成功しました。 薩摩藩は奄美大島などの砂糖を専売にし、 琉球との貿易も積極的に行って利益をあげ ました。 長州藩では村田清風が、薩摩藩では調所広 郷が改革の中心になりましたが、これら世 の中の動きを良く捉えている中・下級の武士 が次第に藩を動かすようになり、明治維新へ の道が開かれていきます。 | ||
化政文化 |
江戸時代後期は文化・文政時代を中心に独 自の町人文化が発達します。 学問では社会の矛盾をつき幕政を批判する 傾向が生まれ、新時代の要求に応える洋学や 諸科学が盛んになり、芸術の世界では一層庶 民化して都会的な繊細さを加えたものもあ らわれますが、文化の担い手が都市の豪商だ けでなく庶民をも含み地方に広がったのも この文化の特色です。 <庶民教育のひろがり> 産業や商業の発達につれて都市生活も盛ん になり生活の向上が教育を受けるゆとりを 生み出し寺小屋が発達しました。 石田梅岩が京都で始めた心学は町人の道徳 教育を説き全国的に普及しました。 <国学の隆盛>(関連サイト近世の神道) 元禄時代に始まった万葉集などの古典の研 究は18世紀後半になると古事記や日本書紀 などの歴史書に進み、それらの古典の中に日 本古来の精神「古道」を明らかにしようとす る国学が発達しました。 国学は元禄時代に契沖によって始められま したが本居宣長は「もののあわれ」を主張し 仏教や儒教の影響を受けない日本古来の精 神に帰ることを説きました。宣長の影響を 受けた平田篤胤は日本古来の純粋な信仰を 尊ぶ復古神道を唱え幕末の尊王攘夷運動に 大きな影響を与えました。 <蘭学の発達>> キリスト教禁止の鎖国の時代でしたが長崎 出島のオランダ人などを通じて海外の文化 は実用の学問として医学や科学技術が取り 入れられました。 1774(安永3)年前野良沢や杉田玄白らによ り西洋医学の解剖書「解体新書」が出版され 蘭学はこれを機会に急速に発達します。 <文芸のひろがり>> 江戸時代後期の文芸は一部の知識人層の ものではなく、民衆の間に広まりました。 滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」や「椿説弓張 月」は儒教道徳の教えにも合い当時のベス トセラーとなりました。 俳諧では与謝蕪村や小林一茶が活躍、川柳 や狂歌も盛んになりました。 <浮世絵と文人画>> 絵画では様々な画風が生まれましたが特 に庶民に広く愛好され発達したものが浮 世絵で、喜多川歌麿や葛飾北斎、歌川(安藤) 広重らが人気を得ました。 18世紀半ば以降に中国の南画の影響を受 けた文人画が現れ渡辺崋山が出て全盛期 を迎えました。 <蘭学の弾圧>> 蘭学、洋学の発達で世界の事情や西洋の文 化がわかるようになり、人々の間には社会 改革の考えが出てきます。 幕府はこうした改革の考えを警戒し、シー ボルトの海外追放を行ったり蛮社の獄で幕 府批判の声を抑えようしますが、もはや開 国を迫る世界の歴史の動きを止めることは 出来ませんでした。 |