ジュニア版 神社仏閣ミニ辞典          P 5
 ー入門篇、神道・民俗信仰の部ー 
        
                                                      参考文献日本の宗教(村上重良)
                                             
               神道の成立(高取正男)
                                                       日本の神々と社(読売新聞社)
                                                                     神道事典(弘文堂) ほか            

・・・近世(安土桃山時代〜江戸時代)の神道(U)・・・


国学の抬頭
 
 江戸時代中期には儒教の古学派の隆盛に刺激されて日本古典の研究が盛んになり国学が生まれました。
 
 本居宣長(1730〜1801)は儒教や仏教の立場によらない国学の立場からの神道理論を展開し、神に対する絶対の信仰を説き神の道、天皇の道をすなおに受けいれることが人間の道であるとし、やがてそれは国学の神道思想として儒家神道にたいする位置を占めるようになります。

国 学
 古事記や万葉集など日本の古典を研究し、わが国の古い時代の生活やこころを明らかにしようとするもので、元禄時代に契沖によってはじめられ荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤(国学の四大人)に受けつがれ発展しました。
 本居宣長は日本人の心は儒教や仏教に影響されないもっと古い日本人固有の精紳であり世界中で最もすぐれており、そのような日本人が生きていた昔の世を理想としてたたえる「古道」という考えをうちたてました。
 平田篤胤は宣長の「古道」を発展させて「復古神道」を唱え、日本は日の神の天照大神の国で天皇は現人神であるから幕府に代わって天皇の国にならなければならないと主張し尊王攘夷の倒幕思想につながります。
 

本居宣長像(本居弥生氏蔵・東大出版会、本居宣長)

復 古 神 道
 
 本居宣長の思想から多くのものを学びながらも独自の神道思想を展開したのが平田篤胤(1776〜1843)の復古神道です。
 復古神道ではアメノミナカヌシノカミを主とする造化三神を万物の生成発展の根源とし、天皇は天照大神の子孫であり、世界は現世と死後の世界から成っており、死後の世界はオオクニヌシノミコトがつかさどる霊魂の世界で神の心がそのまま行われる理想の世界とされます。
 篤胤は祖先の祭祀を重視し祖先をまつる孝行の道はそのまま神をうやまうことであり、天皇への忠義をつくすことであるとしました。
 復古神道は幕末に倒幕王政復古の実践的な理論として諸藩の下級武士、神職、地主、商人などにひろく迎えられ、社会の安定には君臣上下の秩序を厳守せせることが必要と説く藤田東湖(1806〜55)らの後期水戸学とともに,明治維新の指導原理となりました。

平田篤胤像(京都大学蔵・吉川弘文館、平田篤胤)


創唱宗教の成立
 
 人々の間に現世利益信仰が流行するにともない、神は人間と同じような感情をもつ身近な存在とされるようになり江戸後期にはみこ、行者などの職業的なシャーマン(神と交流し神の言葉を聞き神の言葉をつたえる人)にとどまらず、普通の人が神がかり(神がのりうつること)してみづから生き神と名のり民衆の現世利益の求めにこたえる生き神信仰が盛んになりました。
 これらの生き神のなかから、独自のまとまった教えを説いて民衆を組織する創唱者(教祖)が現われ江戸末期から幕末には如来教をはじめとして多くの創唱宗教が出現し、病気なおし等の現世利益をつうじて民衆に救済を約束し大衆の心をとらえました。

如来教
 如来教は尾張国熱田の貧しい農村夫人の一尊如来きのが1802(享和2)年神がかりして開いたもので江戸末期にあいついで成立した創唱宗教の先駆となりました。
 如来教には
金毘羅信仰と日蓮の教えの強い影響がみられますが、金毘羅は天にある全知全能の創造主「如来」が慈悲の心から末法の民衆を救うために遣わした使者で、きのの口をつうじて如来の教えのすべてがはじめて説き明かされるとしました。
 きのはすべての人間は目には見えないが体に恐ろしい角が生えている悪の種であり、如来の慈悲にすがることによってのみ、死後極楽に往生できると説きました。
 如来教は尾張と江戸を中心に1万を超える信者をつくりましたが、きのの没後尾張藩の弾圧にあい、明治維新以後は曹洞宗に属しました。

黒住教
 
つづいて1814(文化11)年岡山近郊の今村宮の禰宜(神主の下の神職)黒住宗忠(1780〜1850)が黒住教をひらきました。
 黒住教では天照大神を宇宙を創造し万物を育てる神とし、人はこの神の分霊で平等であり、すべてを神にまかせ朝日を拝み陽気を吸う修行をすれば、神と一体となり健康をたもち家業が栄えるとし、宗忠は生活上の教えとして、まこと、勤勉、無我、秩序への従順などを説きました。
 宗忠の没後、黒住教は岡山藩の圧迫を受けましたが門人の赤城忠春らは京都に進出して、神楽岡に宗忠神社を創建しました。
 幕末には黒住教は信者10万と称する有力な宗教に発展し、明治維新をへて1876(明治9)年、
教派神道の最初の独立教派として公認されました。

天理教
 1838年(天保9)年、北大和の農村婦人中山みき(1798〜1887)が神がかりして天理教を開きました。
 みきは幕末の安政年間(1854〜59)から出産のたすけと病気なおしを通じて近在の農民や職人などに教えをひろげます。
 天理教では天理王命(てんりおうのみこと)を人間世界を創造した親神とし、創造の聖地を中山家の屋敷の土地とします。親神は時、人、所の三つの因縁によって、みきを神の社(やしろ)として天降り世界を救済するとされ、あらゆる人間に平和で豊かな陽気ぐらし(明るく勇んだ心で日々をおくること)が約束されます。人間は欲などの八つの埃(悪い心)を捨て、自分の体は神からの借り物であることを知って、ひたむきに信仰すれば健康で幸福になるとしています。
 天理教は明治前期に、現世中心、人間本意の救済の宗教として、めざましい発展をとげますが、みき没後の天理教は
国家神道に従属して、弾圧を免れて活動を合法化する道を歩み、1908(明治41)年、教派神道の最後の独立教派として公認されました。

金光教
 
天理教につづいて幕末の1859(安政6)年、備中国の農民金光大神(川手文治郎、赤沢文治、1814〜83)が金光教をひらきました。
 金光は自宅を神殿として毎日神殿に坐り続けて訪れる信者に神の言葉を取り次ぎ、農業や生活などの相談をつうじて、信仰に立つ正しい生き方を説きました。
 金光教では天地金乃神(てんちかねのかみ)を天地の祖神(氏神)とし、人間はすべて神の氏子で平等であるとします。神と氏子はたがいに助け合う関係にあり、人間は欲を捨ててまことの心で丁寧に信仰し家業に励めば、神からおかげ(現世利益)を受けることができるとされます。
 金光の晩年、金光教が全国的に発展するとともに、もっぱら農民、商工民の現世利益にこたえる宗教に変わっていき、1900(明治33)年教派神道の独立教派として公認されました。


  一尊如来きの(1756〜1826)

 如来教の教祖きのは貧しい農民の子として生まれ8歳の時両親と死別し、近くの貧農の叔父に育てられ、13歳で名古屋城下の漢方医の許へ女中奉公に出されます。
 その後この漢方医と親交のあった尾張藩士石河家の隠居に仕え、22歳のとき農民庄次郎と結婚しますが夫の身持ちが悪く、じきに離婚します。
 1802年きのが46歳の時、突然神がかりして如来の教えを説きます。
 きのは貧しい農民の出で無学でありしかも女子であったため、人々から狐つきとか狸つきとか悪口を浴びせられ、尾張藩からも取り調べを受けますが、晩年には如来と一体としてみられるようになりました。


黒住教御日拝修行(神道山・岡山市)
−新宗教辞典・弘文堂より−







天理教 教会本部(奈良市)
−新宗教辞典・弘文堂より−





金光教大祭(本部前広場・岡山県金光町)
−新宗教辞典・弘文堂より−


山岳信仰の発展

 
 江戸中期以降になると民衆の間には先達の山伏にひきいられ富士山、木曾御岳、大峰、立山などに講(団体)をつくって登攀する山岳信仰が盛んになり、やがて明治時代には教派神道へと展開します。
 [富士講]
 富士山は古くから山の神コノハナサクヤヒメの住処として信仰され中世には修験道の道場となって登拝する人が増えましたが、戦国時代には長谷川角行(1541〜1646)が関東で布教、講を組織して富士講の開山といわれました。角行は富士信仰によって天下の泰平と一家の繁栄が得られ病苦が退散すると説きました。
 江戸時代
中期には食行身禄が身禄派を開き富士講は町民の間にひろがります。
 天保年間(1830〜44)には富士講は江戸の商人、職人の組織として「江戸八百八講」といわれるほど栄え、江戸の神社の境内には富士山から運んできた岩で小さい富士がさかんに築かれ、登拝の行事がおこなわれましたが、やがて幕府は富士講が神・儒・仏いずれともつかない教えを説き、民衆の自主的な組織として発展しつつあることを危険視して厳しく禁止しします。
 明治維新後富士講は実行教や扶桑教をつくります。
 
[御岳講]
 
富士信仰と並んで、江戸後期には木曾御岳信仰が発展し、江戸をはじめ江戸からの登拝路にあたる中山道ぞいの農村で御岳講がつぎつぎに組織されました。
 木曾御岳への入山はヒノキ材を独占する尾張藩によって禁止されていましたが、尾張国の僧覚明(1718〜86)は禁をおかして奥宮に登拝して黒沢口を開き、つづいて武蔵国の山伏普寛(1731〜1801)が王滝口を開いて登拝する人がしだいに増えました。
 御岳講は修験道の祈祷と修法(儀式)を中心として江戸では火防に霊験あらたかとされ広い信仰を集め、明治維新後は御岳教を形成しました。

山岳霊場のメッカ・大峰山系(山の宗教、別冊太陽)



 伊藤食行身禄(1671〜1733)

 伊藤食行身禄は江戸の町で油の行商をしながら熱心に布教し享保の飢饉で苦しむ民衆の救済と「みろくの世」(理想社会)の実現をうったえ富士山の烏帽子岩で断食の末、命をたちました。
 生業に励み富士山を信仰することを説いた食行身禄の死は庶民の共感を誘い、富士講がひろがるきっかけとなったといはれます。

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