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浮世絵の筆禍史(4)天保十四年(1843)筆禍史メニュー
  ※ 者=は 与=と 江=え 而=て メ=貫 〆=締(〆そのまま使うこともあり) 而已=のみ    ☆ 天保十四年(1843)<三月>      参考史料(英泉・国芳・国貞・貞秀・広重・芳虎連名、草双紙係宛の誓約書)       △『大日本近世史料』「市中取締類集 十八」(書物錦絵之部 第一七件 p105)    「卯三月廿九日、佐兵衛月番之節画師共相呼、近頃絵柄風俗不宜候ニ付厳敷申渡、証文取置候事」     〈佐兵衛は村田佐兵衛、新両替町名主、絵草紙掛り。以下、絵師連名の請書〉   〝私共儀錦絵・艸双紙絵類重立相認候ニ付、今般左之通被仰渡候    一 禁忌・好色本之類    一 歌舞妓役者ニ似寄候類    一 遊女・女芸者ニ似寄候類    一 狂言趣向紛敷類    一 女子供踊大人ニ紛敷類    一 賢女烈婦伝・女忠節之類    右の廉々、其筋渡世之者又ハ素人より頼請候共、賢女烈婦伝之類、絵柄不相当今様姿ニ一切書申間敷候、    其外都て男女入交り風俗ニ拘り候絵は勿論、聊ニても役者・女芸者ニ紛敷躰無之様、厚心附可申旨被仰    渡奉畏、為後日仍如件     天保十四年卯三月廿九日               坂本町壱丁目 太右衛門店 英泉事 画師 善次郎(印) 家主 太右衛門(印)               田所町久兵衛店      国芳事 画師 孫三郎(印) 家主 久兵衛 (印)               亀戸町友三郎店      国貞事 画師 庄 蔵(印) 家主 友三郎 (印)               同町金蔵店        貞秀事 画師 兼次郎(印) 家主 金 蔵 (印)               大鋸町長七店       広重事 画師 徳兵衛(印) 家主 長 七 (印)               柳町鉄右衛門店 亀次郎伜 芳虎事 画師 辰二郎(印) 家主 鐵右衛門(印)     〈以下は「下ヶ札」〉   〝錦絵類并団扇絵共近頃不宜風俗画候間、当三月、私月番節画師共相呼、本文之通證文取置申候、然ル処、    当四月月番品川町名主(竹口)庄右衛門・同五月月番高砂町名主(渡辺)庄右衛門改済之絵柄不宜候間、    掛り名主共一同申合売買差留、右掛り館市右衛門方え差出置申候   名主 佐兵衛〟      〈好色本や役者や遊女・芸者の似顔絵など風俗に拘わるものはもちろん、賢女烈婦伝や女忠節の類も当世風に画かないこ     とを誓約させられた。英泉・国芳・国貞・貞秀・広重・芳虎、六人連名の証文である。しかし「下ヶ札」をみると、四     月、五月の改(アラタメ=検閲)済みのものにも依然として絵柄の宜しからざるものがあり、それらを売買禁止にしたとあ     る。『大日本近世史料』の頭注に「前ニ請書ヲ取ルモナホ宜カラザル品」とあり、絵師を咎めるような文面である〉    ☆ 天保十四年(1843)<五月>      筆禍 錦絵「子供踊り」国貞画       処分内容 ◎板元(不明)板木没収(絶板) 売買禁止            ◎画工(記載なし)〈国貞に対する処罰はなかったようだ〉       処分理由 不明    ◯『藤岡屋日記』第二巻(藤岡屋由蔵・天保十四年記)   ◇②337   〝五月十九日    此節豊国の画、子供踊りの錦絵、絶板ニ相成、其外役者名前紋付候品、同断也〟   〈豊国とあるが、下出の五月廿四日と同じ記事だから、国貞のことであろう〉     ◇②340      〝五月廿四日    子供踊錦絵、国貞画、板行御取上ゲ也、売々(買)御差留、其外役者名前紋付候もの、同様ニ御差留也〟   〈昨年末から子供絵に対する規制が強化されたが、市中には依然として禁制品が流通していたようである。「浮世絵の筆    禍史(3)」天保十三年の項参照〉      参考史料(子供絵規制)     △『江戸町触集成』第十四巻 p363 五月二十二日付(触書番号13941)   〝錦絵と唱、壱枚摺ニ致し或は双紙之類、絵柄格別入組無益ニ手数を掛、高直ニ売出間敷旨、去寅六月中    申渡置候次第も有之候処、近頃子供踊抔と名付、歌舞伎狂言ニ紛敷彩色絵等相見、不埒之至ニ候、向後    団扇絵其外都て右形容ニ不似合様、弥絵柄改正いたし、成丈手数不相懸様摺立、篇数其外之儀先達て申    渡之通堅可相守、名主共も入念相改(アラタメ)、万一不改受売出し趣及見聞候ハヽ其段早速可申出    一 総て商物其外、不依何品ニ、歌舞伎役者之名前紋所を附候儀不相成候間、名主共支配限不洩様右之    趣可申通、若相背候もの於有之は、吟味之上急度咎可申付    右之通被仰御奉畏候、為後日仍如件      天保十四卯年五月廿二日〟     〈歌舞伎狂言に紛らわしい「子供踊」と称する錦絵の禁止、そして役者名・紋所の使用を禁止。子供絵に対する昨年来     の規制、そのさらなる徹底を図った町触である〉    ☆ 天保十四年(1843)<七月>      筆禍 錦絵 類板「将棋合戦」画工名不明       処分内容 ◎板元(武家方家来)不明            ◎絵草紙屋(小売り)辻屋・加賀屋 残部没収            ◎画工(記載なし)       処分理由 無届出版(類板)の売買    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十八」書物錦絵之部 第二六件 p139   (絵草紙掛り名主の市中及び諸色掛り名主宛通達案)   〝                   南伝馬町弐丁目 源四郎店 絵草紙屋(辻屋) 安兵衛                                    家主       源四郎                       米沢町壱丁目  政吉店  絵草紙屋(加賀屋)吉兵衛                                    家主       政吉    当七月、長谷川町定次郎店絵草帋屋(具足屋)嘉兵衛より掛り名主月番小網町(普勝)伊兵衛え差出し、    改済相成候将棋合戦三枚続錦絵、此節武家方家来内職板行致し候由之品、安兵衛買取、右之内吉兵衛え    も分ヶ遣、売買致し候趣相聞候、右は名主改印相違之品、取上候間早々可差出、安兵衛儀、重て右躰不    束之儀於有之は商売可差止候條、吉兵衛儀も心得違致間敷候、孰れも開板致し度品有之は、掛り名主え    差出し改受候様可致候、    右之通、御奉行処え伺之上申渡之        卯十月〟    〈二種類の「将棋合戦」(三枚続錦絵)が出回った。一つは一勇斎国芳画「駒くらべ盤上太平棊」(三枚続・具足屋嘉     兵衛板)これはこの七月、絵草紙掛り名主・普勝伊兵衛の改(アラタメ=検閲)を通っていたので、当然問題にはならな     い。ところが、もう一つが問題あっで、武家の家来が内職で拵えた類板。それを引き取って売ったのが辻屋と加賀屋。     無論、無届け出版であるから、残部は没収となった。この件に関する、町年寄・館市右衛門の書付によると、辻屋は     引き受けた百枚の内九十八枚が売れたので、残り二組(ママ)を町年寄に提出したとある。また、これを取り扱った業者     は辻屋や加賀屋に限らなかったようで、糴(セリ)売り(行商)の太助なるものは、十月三日より所々の絵草紙屋に約八     百枚ほど分けたともある。(上掲「通達案」の前にある館市右衛門の「名主改印相違錦絵組之通達之儀申出候趣奉伺     候書付」)この件は以下の三点を辻屋と加賀屋に誓約させて決着をみた。今後は武家内職の品は取り扱わないこと、     また次に違犯した場合には商売禁止処分にすること、そして開板する場合は必ず改を受けること。しかしこの辻屋安     兵衛、『藤岡屋日記』天保十五年正月記事によると、同十四年末に売り出された芳虎の春画板「土蜘蛛」が摘発を受     けた時、やはり小売りした廉で今度は逮捕されている。けっこうしたたかなのである。(弘化元年(天保十五年)の     筆禍史参照)なおこの件に関して、内職した武家方にどのような影響が及んだのかはよく分からない。ところで、国     芳の「将棋合戦」、出版手続き等に問題はなかったが、巷間には次のような噂が飛び交い、これはこれで取締り当局     の判断を悩ませていた〉      参考史料「駒くらべ盤上太平棊」三枚続・一勇斎国芳戯画・具足屋嘉兵衛板(天保十四年七月刊)       △「流行錦絵の聞書」(『開版指針』所収・国立国家図書館蔵)   〝(天保十四年)九月中(国芳)画ニて将棋之駒の軍絵、出版いたし候所、右の内可見咎処は飛車の成龍    王ト可書処龍口(タチノクチ)ト有之、桂馬ハ雁馬(ガンノウマ)ト有之、其外の駒の文字、何れも寄せ字ニ有之、    角(カク)行、矢を射居、其矢楯にあたり居候、是を下説ニ、惣て物事筋道ニて矢も楯もまならぬと申判事    物の由、評致候由、及承候得共、是は別段お調も無之、其後も将棋の絵草ぞうし等出板いたし候〟    〈飛車成り「龍王」を「龍口(タツノクチ)」と読み「桂馬」も「雁馬」と見た。そして角行の放つ矢が相手方の楯に当たっ     ているところから、ここには「矢も楯もたまらない(気がせいて、じっとしていられない)」の諺も潜んでいるとも     いう。「龍口(タツノクチ)」「雁馬」「矢も楯もたまらない」。そうして見ると、角成り竜馬の駒もなにやら怪しい字面     だ。この絵には何か寓意が隠されているように見える。例えば、「龍口(タツノクチ)」を「辰ノ口」と読みかえれば、江     戸城の辰ノ口、つまり老中や三奉行(町・寺社・勘定)で構成される幕府の評定所(最高裁判所)があったところと     なる。また「雁馬」も「雁の間」と読めば、老中が登城の際に詰める席となる。それに「矢も楯もたまらない」も加     わり、角行成り竜馬の字面も何やら言いたげだ。してみるとまたまだ多くの暗示が潜んでいるのかもしれない。しか     しそれらが果たして何の寓意なのかということになると、なかなか焦点が定まりにくい。にもかかわらず寓意がある     はずだと思いこんでいるから、強引な解釈も浮かんでくる。この「聞書」は町名主のものだから、憚って書かなかっ     たのだろうが、実際には老中や町奉行の具体的な名前、水野忠邦や鳥居耀蔵といった名前も取り沙汰されていたに違     いない。しかしこうした浮説の出所が、板元や絵師の意図によるものかどうかとなると、なかなか決め手になるもの     がないのだろう。結局、取り調べの対象にもならず、この「駒くらべ盤上太平棊」はその後も売り続けられた。検閲     担当の絵草紙掛りは、判じ物とは承知しているが、その制作側の狙いを見極めようにも明確な証拠がないのである。     さて国芳の判じ物について『開版指針』の中から名主の報告をもう一つ見てみよう。これは「将棋合戦」の約一ヶ月     後に出版された「墨戦之図」についての報告〉
   「駒くらべ盤上太平棊」一勇斎国芳戯画    (「錦絵の諷刺画」データベース・ウィーン大学東アジア研究所)     ☆ 天保十四年(1843)<八月>      参考史料「墨戦之図」三枚続・一勇斎国芳戯画・板元未詳(天保十四年八月刊)       △「流行錦絵の聞書」(『開版指針』所収・国立国家図書館蔵)   〝(天保十四年)八月中、禁裏墨塗、一名墨合戦の戯れ絵、国芳画ニて出板致候ニ付、是又如何の絵ニも    有之哉と評議有之候処、右はいまだ内裏、大和の奈良ニ遷都の比、勅命有之、公卿墨を塗合に戯れ、是    を墨合戦と唱へ、其頃画師土佐何某ニ写させ給ふ古絵巻物の写し候由ニて、如何の絵ニハ無之由〟    〈絵草紙掛りの名主たちは国芳の絵だから何か仕掛けでもあるのではないかと、疑ったようである。しかし結局は、奈     良時代の公卿たちが戯れに墨合戦している様子を画いた土佐何某の古絵巻なるものがあって、本図はそれを写しただ     けで怪しい点はないと結論づけた。にもかかわらず。次のような尾ひれがついて評判になった〉     △『浮世の有様』著者不詳(『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」)    ◇「泰平年表など」p881   〝一勇斎国芳頼光土蜘蛛の絵を画ける後に至て、又墨戦の図を画き(中略)其絵の様を見るに、先束帯せ    し両持左右に分れ、各烏帽子狩衣着し者共を従へ、何れも尾籠の有様にて、筆墨持ちなげうちなどせる    中に、坊主有婦人有、一方の大将の側には、彼青海浪の先生有り、婦人は定て御愛妾なるべし、坊主ら    は感応寺本門寺の類にはあらん、誠にこれを判じ見るに、武家大に衰へて、公卿の如く婦人坊主等大に    用ひられ、侫人権勢を振ひて大欲心を放(恣)にし、御忌明を待て直に事を斗り、君明を暗まして、我意    を放にし、慾の算盤より事を起し、諸人を困めて上を恨み奉るやるなる業のみをなし、己れ其功によつ    て利を得んと工む、武摂の上げ地いんばの川堀近江の一揆せしも、みな豪慾なる筆算よりして出しもの    也、其余至て意味有ることに思はる〟    〈この記事および次出の「水野の悪評」の記事は天保十五年に入ってからのもの。(中略)のところに「其絵手に得る     事遅かりしゆへ、此処へ書入置ぬ」とある。本来なら十四年の十月頃書き留めた国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」     (下出参照)の後に続けるべきところだが、入手が遅れてたため、年が明けたここに書き留めたというのだ。     さて「青海浪の先生」とは水野忠邦。「御愛妾」の「婦人」とは徳川十一代将軍家斉の側室お美代の方。このお美代     の方が家斉に懇願して再興なったのが、鼠山の感応寺(この再興再建は同じ日蓮宗の池上本門寺の念願でもあったよ     うだ)その坊主とは、ともに密通女犯の罪で処罰された下総中山法華寺の僧侶日啓・日尚などをさすのだろう(この     日啓は日尚とお美代の方の実父と噂された)家斉の忌み明け直後、水野は感応寺を跡かたもなく破却し、またお美代     方以下の人々をも電光石火で追放した。また「武摂の上げ地・いんばの川堀・近江の一揆」とはそれぞれ、武蔵と摂     津の上知令・印旛沼開削事業・検地をめぐる近江の農民一揆を言う。いずれも水野が改革で推進した施策であった。     このような判じ方は次項の「源頼光公館土蜘作妖怪図」に倣ったもので全く同じ。この大坂の評者は「青海浪」を手     掛かりに水野忠邦を想起しつつ、彼の改革によって生じた被害者・犠牲者を図様の中に求めてゆく。そして最後には     天保改革の総括にまで事は及ぶ。水野が推進する諸改革は、私利私欲から出たことであって、結局は将軍の明を奪う     ことになり、ついには武家の衰微にまで至ると〉      ◇「水野の悪評」p896   〝頭書 江戸土産なりとて、此方へ贈りくれし一勇斎が又画ぬる三枚つゝきのにしき絵有、共図を見るに、    冠装束烏帽子狩衣等を着せし者左右に分れ、其中に坊主婆々等ありて、大取合の有様也。何れも其持て    る物は筆墨にして、上に大成硯を画き、墨戦立図と書記しぬ。これも土蜘蛛同様にして、判事物なるゆ    へ、直に絶板被仰付しと云事なり。試に此図の趣を考るに、何れも衣冠せし姿なるは、武道大に衰へ武    家も公家の如くに柔弱になりて、婦人坊主等大に用ひられて勢を振ひぬるやうになり行、何れも傲に長    する処より勝乎向不如意となり、無法成算盤大に登用せられ、筆の先を以て厘毛をの争をなし、諸人の    利益を奪はんと種々様々の御為御益なとゝ、そろはんと筆先にて世智賢こきやうの事のみをなし、諸人    の恨み憤れるに及ひぬる有様を画きたるものならん。定て算盤を画たきことなるへけれとも、それにて    は余りにしら/\敷事故、これを書記さゞるところは、此判事物の趣向なるへし。図を見て知へし。何    にもせよ古今にこれなき奇怪なることゝ云へし。藤色の素抱に青海浪のもやうにて侍烏帽子にて大将の    かたはらに有る人も、完て子細あることなるへしと思はる、定てかの先生なるへし〟    〈大坂ではこの「墨戦之図」「判事物なるゆへ直に絶板被仰付し」と、町奉行より処罰されたと受け止められていた。     このレッテル張り、高値で売り抜けるために絵草紙屋が意図的に流したのかもしれない〉      〈上掲「流行錦絵の聞書」に「画師土佐何某ニ写させ給ふ古絵巻物」というくだりがある。実はこの「古絵巻物」に     は後日談があった。後年の万延元年(1860)のこと、国芳は「土佐画巻物之写」という画題の大判三枚続を出版し     た。それがこの「墨戦之図」とよく似ており、しかも同様に判じ物。今度は大老井伊直弼の「安政の大獄」を踏ま     えたとされる。改印(アラタメイン=検印)は十月のものだから、芳年の没する文久元年(1861)三月からすると、僅か     五ヶ月前の作品である。最晩年にして国芳はなお判じ物への意欲を失っていないというべきなのであろう。参考ま     でに引いておく〉
   「墨戦之図」一勇斎国芳戯画 (「錦絵の諷刺画」データベース・ウィーン大学東アジア研究所)
   「土佐画巻物之写」一勇斎国芳 (「錦絵の諷刺画」データベース・ウィーン大学東アジア研究所)    ☆ 天保十四年(1843)<春の出版、八月以降>       参考資料「源頼光公館土蜘作妖怪図」三枚続・一勇斎国芳画・伊場屋仙三郎板    〈板元が自主的に回収し板木を削り落としたために、板元・絵師とも処罰なし。もっとも、発禁処分になったという噂     は流れた。詳しくは下出、-読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」参照〉     △『藤岡屋日記』第二巻 ②413(藤岡屋由蔵・天保十五年正月十日記)   〝源頼光土蜘蛛の画之事     最早(ママ)去卯ノ八月、堀江町伊場屋板元にて、哥川国芳の画、蜘蛛の巣の中に薄墨ニて百鬼夜行を書    たり、是ハはんじ物にて、其節御仕置に相なりし、南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・隠売    女・女浄るり、女髪ゆいなどの化ものなり、その評判になり、頼光は親玉、四天王は御役人なりとの、    江戸中大評判故ニ、板元よりくばり絵を取もどし、板木もけずりし故ニ、此度は板元・画師共ニさわり    なし〟    〈国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は天保十四年(1843)春の刊。八月はこの絵が「判じ物」として大評判になり、さま     ざまな浮説が飛び交い始めた時期にあたる。幕政を諷したなどという噂も立ったために、警戒した板元伊場屋が絵を     回収し板木を削り落として、お咎め免れたというのだが、数種の異板はあるし、下出のように京大坂方面にまで流布     したようだから、相当量の数が出ていると思われ、どの程度の自主規制したものか、その実態はよく分からない。昨     年の天保十三年六月、町奉行は町触れを発して役者絵・遊女絵を禁じた。それは浮世絵界から生業の大黒柱を奪うに     等しい仕打ちであった。この判じ物「源頼光館土蜘作妖怪図」は、そうした生業の糧に窮した浮世絵界から生まれき     た苦心の作品なのである。天保の改革は結果として「判じ物」を生み出したともいえようか。皮肉なことに、これ以     降、さまざまな「判じ物」が登場しては浮説が生まれ、その度に改(アラタメ)掛りの判断を悩ませることになってゆく。     それもまた、天保の改革の余波といってよいのであろう。以下、浮説の具体例を江戸と大坂から一つずつ引いておく。     (詳細は下出の拙著「-読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」」参照〉
   「源頼光公館土蜘作妖怪図」一勇斎国芳画     (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
   「土蜘蛛」解釈(浮説)全文 (-読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」所収)
   「土蜘蛛」解釈(浮説)一覧 (-読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」所収)
   「土蜘蛛」その他資料    (-読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」所収)
   -読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」     △「流行錦絵の聞書」絵草紙掛り・天保十五年三月記(『開版指針』国立国会図書館蔵)   〝天保十二丑年五月中、御改革被仰出、諸向問屋仲間組合と申名目御停止ニ相成、其外高価の商人并身分    不相応驕奢(ヲゴリ)のもの、又は不届成もの御咎被仰付、或ハ市中端々売女の類女医師の堕胎(ダタイ)    【俗に子をろしと云】御制禁ニ相成、都て風俗等享保寛政度の古風ニ立戻り候様被仰渡候処、其後同十    四卯年八九月の比、堀江町壱丁目絵草(ママ)屋伊波(バ)屋専次郎板元、田所町治兵衛店孫三郎事画名歌川    国芳【国芳ハ歌川豊国の弟子也】画ニて、頼光(ヨリミツ)公御不例(レイ)四天王直宿(トノヒ)種々成不取留異形    の妖怪(ヨウカイ)出居候図出板いたし候、然る処、右絵ニ市中ニて評到候は、四天王は其比四人の御老中    【水野越前守様、真田信濃守様、堀田備中守様、土井大炊頭様】にて、公時(キントキ)渡辺両人打居候碁盤    は横ニ成居、盤面の目嶋なれば、此両人心邪(ヨコシマ)に有之べし。扨妖怪の内土蜘は先達て南町御奉行所    御役御免ニ相成候矢部駿河守様の【但定紋三ツ巴也】由、蜘の眼巴ニ相成居候、又引立居候小夜着は冨    士の形ち、冨士は駿河の名山なれば駿河守と云判事物の由、飛頭蛮(ヒトウバン/ロクロクビ)は御暇ニ相成候    中野関翁【播磨守父隠居なり】にて、其比世上見越したると申事の由、天狗は市中住居不相成鼠山渋谷    豊沢村え引移被仰付候修験、鼻の黒きは夜鷹と【市中明地又は原抔え出候辻売女也】申売女也、長ノ字    の付候杓子を持、鱣(ママ鰻?)にて鉢巻いたし候坊主は芝邊寺号失念日蓮宗にて鱣屋の娘を囲妾ニいたし、    其上品川宿にてお長と申飯売と女犯ニて御遠島に相成候ものゝ由、筆を持居候は御役御免ニ相成候奥御    祐筆の由、頭に剱の有るは先達て江戸十里四方御構に相成候歌舞妓者市川海老蔵、成田不動の剱より存    付候由、頭に赤子の乗居候は子おろし、當の字付候提灯は当百銭の由、纏に相成居候鮹は足の先きより    存付高利貸、分銅は両替屋、象に乗候達磨は先達て貪欲一件ニて遠島に相成候牛込御箪笥町真言宗ニて    歓喜天守護いたし候南蔵院の由、其外家業御差留御咎等ニ相成候もの共の恨ミに有之由、専ら風聞強く    候故、内密御調ニ相成候。右ニ付市中好事の者調度絵草屋(ヱソウシ)屋え、日々弐三人宛尋参候得共、絵    草紙屋にても、最早売々(ママ)不仕候、右は全下説ニ程能附会(コジツケ)風評致候共恐入候事ニ有之候、乍    併諺にいふ天ニ口なし人をもつて云わしむると申事あれバ、若自然右を案じ、又乍承夫を紛敷画候ハふ    とゞき至極のもの共也〟    〈憚ったためか、この「聞書」は頼光が暗示するものを記さない。四天王は水野忠邦以下当時の四老中。碁盤の目は坂     田金時(堀田備中守)と渡辺綱(真田信濃守)両人の心が邪(ヨコシマ=横縞〉であることを暗示。土蜘蛛は巴と富士の     模様から前町奉行矢部駿河守。飛頭蛮(轆轤首)はもと小納戸頭取中野碩翁。天狗は修験僧・鼻の黒い女は夜鷹・鯰     の鉢巻き坊主は女犯の罪で流罪になったもの(日啓・日尚父子)・長の字のある杓子をもつ女は飯盛女(私娼)・筆     を持つ総髪は奥右筆(奥儒者成島図書司直かあるいは奥御右筆組頭大沢弥三郎か)・頭に剣のあるものは江戸払いに     処せられた市川団十郎・頭に赤子は子堕ろし婆・當百銭は天保通宝百文銭(発行は水野忠邦の発案)・柄の先が蛸の     纏は高利貸し・分銅は両替商・象に乗る達磨は流罪僧の南蔵院等々。書留は巷間の風聞を伝える。要するに、これら     の妖怪は、水野が主導する改革によって、家業を禁じられたり処罰されたりした人々を暗示するというのである。     (詳しくは上掲の「「土蜘蛛」解釈(浮説)一覧」参照のこと)     巷間では、苛酷な改革を断行したお上(将軍・四老中)とその被害者・犠牲者(矢部駿河守等々)という図式で、こ     の国芳の判じ物を捉えていると、この「聞書」はいう。またこうした浮説は所詮牽強付会に過ぎないとするものの、     もし承知の上で紛らわしく画いているとすれば不届きだともいう。やはり制作側の意図に疑念を拭いきれないのであ     る。しかしそれでも当局は国芳と板元伊場屋を摘発しえなかった。以上のような浮説と同様の意図をもって、国芳や     伊場屋がこの「源頼光公館土蜘作妖怪図」を制作したかどうか、見極められなかったのであろう。     天保の改革は浮世絵の大黒柱である役者絵と女絵(遊女・芸者等)の制作を禁じたが、生業に窮した浮世絵界はその     代わりに判じ物を考えだした。言わば天保の改革は判じ物の生みの親なのである。皮肉なことに、これ以降、検閲担     当の名主たちは、制作側の意図を特定できないよう巧妙に作られた判じ物に直面しては、思案投げ首、頭を悩ますこ     とになっていく〉     〝其頃風評を消んと四天王并保昌五人ニて土蜘蛛退治の絵、同画ニて出板いたし候得共、蜘の眼に矢張三    ッ巴を画候なり、然れ共四天王直宿(トノヒ)妖怪の絵は人々望候得共、土蜘退治は売れも不宜候由〟    〈「源頼光公館土蜘作妖怪図」から生ずる浮説をかき消そうとして、国芳は今度は四天王に平井保昌を加えて、葛城山     の土蜘蛛退治を作画したようだ。蜘蛛の目は「妖怪図」同様三つ巴にしたようだが、これは売れ行きが良くなかった。     伝説を単に絵解きするだけでは、もはや市中の人々の興味に応えることが出来なくなっていたのである〉     △「一勇斎の錦画」『浮世の有様』著者不詳・天保十四年(1843)十月記   (『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」p851)   〝其絵京大坂へ二千枚づゝ登せしと云、絵を売れる店毎にこれを出す、江戸にても同様の事なりしが、始    の程は人も心付かざりしが、後には何れも心付、此絵を大に買はやらせ心々思ひ/\にこれを評し、は    んじ物の絵と称して種々さま/\の風説をなすにぞ、上にもやう/\と心付、板元を召捕吟味有りしに、    其作者といへるは麾下に有てこれをしらべぬる時は、大変に及びぬるやうすなるにぞ、板木并にこれま    で仕込有し絵をば悉く御取上にて焼捨となり、板元居町払にて手軽く相済しと云、京摂にてもこれを商    へる事厳しく御停止となる。予は早く心付しゆへにこれを求め置ぬ、其絵を見てこれを弁ふべし、開闢    已来幾度となく乱れぬる世もありぬれども、かゝることを板に彫刻し、上をはづかしめぬることなし、    こはたれがあやまちにてかゝることに至りぬるや、怪むべし恐るべし〟    〈『浮世の有様』は大坂在住の人の書留。噂が箱根を越えて上方に着いた頃にはずいぶん尾ひれが付いた。曰く、板元     は逮捕され吟味に、判じ物の作者は旗本だから取り調べは大ごとになるようだ、板木と在庫は没収のうえ焼き捨て処     分、板元は「居町払(町内から追放)」、売買は禁止等々。いずれも根拠のない噂だが、これは下心をもったものが     意図的に流したフシもある。高値で売り捌くために〉     △『筆禍史』p146「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝一勇斎歌川国芳が画ける錦絵に、頼光病臥なして四天央是を守護し、様々の怪物頼光をなやますの図は、    当時幕政に苦しむの民を怪物なりとし四天王を閣老なりと、誰いひふらしけるとなく、其筋の聞く所と    なりて、既に国芳は捕縛せられ、種々吟味せられしが、漸くにして言訳、からくも免罪せられしといふ    とは『浮世絵師系伝』の記事なるが『浮世絵画人伝』には左の如くあり     天保十四年の夏、源頼光土蜘蛛の精に悩まさるゝ恠異の図を錦絵にものし、当時の政体を誹毀するの     寓意ありて、罪科に処せられ、版木をも没収せられたりき、其寓意と云へるは、頼光を徳川十二代将     軍家慶に比し、閣老水野越前守が非常の改革を行ひしを以て、土蜘蛛の精に悩まさるゝの意に比した     りといふにありき(浮世絵画人伝)      雨花子の寄書に曰く    頼光土蜘蛛の錦絵に付きては、『黄梁一夢』に左の記事あり     (上略)解者曰、其四天王暗指当時執政、群鬼中分得意者与失業者、為甲乙、又皆有暗符歴々可徴、     一時流伝、洛陽為之紙貴、巳(ママ)而官停其発行    なほ当時の落首等の中、耀甲斐(鳥居耀蔵)咄し中「手下の化物には一ッ目小僧(長崎与力小笠原貢三    のことを指すなりとぞ)小菅小僧(普請役小菅幸三郎)金田小僧(勘定組頭金田郁三郎)云々」とあれ    ば是等も右の錦絵中にあるならんか〟   〝〔頭注〕摸倣絵と縮刻絵    『源頼光公館土蜘蛛作妖怪図』が売行よかりし事は、貞秀等に対する刑罰申渡書中にもある如くに、当    時類似の物も数種出たるなり、同じ一勇斎国芳の筆にても、頼光が土蜘蛛を退治するの図もあり、いづ    れも彩色ある大錦絵形三枚続なり〟    〈『黄梁一夢』は木村摂津守茶舟の随筆。刊本は明治16年。「官停其発行」とあるから、後に町奉行が発禁に処したと     いう噂も流れたようだ。ただし国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」の刊本『黄梁一夢』には、このくだ     りは見えない〉     ☆ 天保十四年(1843)<十月>       筆禍 錦絵「四天王直宿頼光公御脳(ノウ)の図」三枚続・歌川貞秀画       処分内容 ◎絵師   歌川貞秀 過料三貫文(『続泰平年表』は五貫文)            ◎板元   山本屋久太郎 手鎖二十日 家主預け 過料三貫文(『続泰平年表』は五貫文)            ◎絵草紙屋 桜井安兵衛 売上げ金没収、過料三貫文(『続泰平年表』)       処分理由 無断出版    ◯「流行錦絵の聞書」絵草紙掛り・天保十五年三月記(『開版指針』(国立国会図書館蔵)   〝(天保十四年)閏九月中の由、間錦(アイニシキ)と唱候小さき絵ニて、四天王直宿頼光公御脳(ノウ)の図、最    初と同様ニて後◎一図、土蜘居候図ニて、堀江町【右は里俗おやじ橋角と申候】山本屋久太郎板本、本    所亀戸町画師歌川貞秀事伊三郎【貞秀は歌川国貞の弟子ニて前出国芳より絵は筆意劣り候なり】右は下    画にて御改(アラタメ)を受、相済候上出板いたし候、右へ二重板工夫いたし、土蜘を除き其跡に如何の妖怪    を画、二様にいたし売出し候、右化物は前書と少々書振を替、質物利下げハ通ひ帳を冠り、高利貸は座    頭、亀の子鼈甲屋、猿若町に替地被仰付候三芝居は紋所、高料の植木鉢、其外天狗は修験、達磨は南蔵    院、富百銭の提灯、夜鷹子おろし等、凡最初は似寄候画売ニいたし候処、好事の者争ひ買求候由、右も    同様の御調ニ相成、同年十月廿三日、南番所え【御奉行鳥居甲斐守也】御呼出の上、改受候錦絵え増板    いたし候は上を偽候事不届の由ニて、画師貞秀事伊三郎、板元山本屋久太郎手鎖御預ケ被仰付、御吟味    に相成候〟    〈天保十四年閏九月中、歌川貞秀の「四天王直宿頼光公御脳(ノウ)の図」なるものが二種類出回る。ひとつは改(アラタメ=     検閲)を経た土蜘蛛入りのもの、もう一つは土蜘蛛を削除して代わりに妖怪の図様を画き入れたもの。折から国芳の     「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」が判じ物としてさまざま取り沙汰されていたところなので、この貞秀の妖怪図様も判     じ物としてまた大いに持てはやされた。ところが、十月二十三日、南町奉行鳥居甲斐守耀蔵は、絵師貞秀と板元山本     屋久太郎とを突然召喚する。そして、検閲済みのものに手を加えて変更するとはお上を偽る行為、不届き千万だとし     て、手鎖・家主預けに処し、その上でなお吟味を命じた〉    ◯『藤岡屋日記』第二巻 ②413(藤岡屋由蔵・天保十五年正月十日記)   〝(天保十四年)の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、    絵双紙懸りの名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋    見せ売には化物のなき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚    続百文宛ニ売たり。是も又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり。廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ      板元過料、三貫文也      画師貞秀(過脱)料 右同断也〟    〈「右土蜘蛛」とは国芳の「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」。同年冬(十月以降)貞秀の「土蜘蛛妖怪図」が出回る。国     芳画の評判に便乗したものである。しかし出版の仕方があくどかった。検閲には妖怪のない図様で出し、通った後、     妖怪入りを密かに制作していた。そして店先には妖怪のない図様をつるして一組(三枚続)36文で売り、妖怪入りは     内密に一組100文で売った。結局は無断出版が発覚して、板摺兼板元の久太郎と絵師の貞秀が三貫文の罰金刑に処せ     られた〉    ◯『続泰平年表』p217(竹舎主人編・天保十四年十二月二十六日記事)   〝戯絵に携候者共御咎一件、(堀江町二丁目弥助店)久太郎・重蔵・(貞秀事)兼次郎・(神田御台所町五    人組)長吉、右過料五貫文ツヽ、(室町三丁目絵双紙屋)桜井安兵衛(売徳代銭取上ヶ過料三貫文 右    は(歌川)国芳画、(源)頼光四天王之上ニ化物在之、絵ニ種々浮絵を書合候、彫刻絵商人共、売方宜    敷候二付、又候右之絵ニ似寄候中、錦絵仕置候ハヽ、可宜旨久太郎存付、最初四天王・土蜘計之下絵を    以、改を請相済候後(貞秀と)見考之申談、四天王之上土蜘を除き、種々妄説を付、化物ニ仕替、改を    不請摺上売捌候段、不埒之次第ニ付、右之通過料申付)〟      〈天保十四年十二月、落着。絵師貞秀と板元山本屋久太郎は罰金五貫文(『藤岡屋日記』は三貫文)。絵草紙屋桜井安     兵衛は売上げ金没収の上、罰金三貫文(一貫文は1000文)前年の八月、幕府が定めた銭相場は1両=6500文であった〉
   「源頼光公館土蜘作妖怪図」「土蜘蛛妖怪図」 一勇斎国芳画・玉蘭斎貞秀筆    (「浮世絵と囲碁」「頼光と土蜘蛛」図版6-4・6-6 ウィリアム・ピンカード著)    以上、天保十四年(1843)の「筆禍」終了(2013/10/28)
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