Top         「土蜘蛛」その他資料         浮世絵文献資料館
      源頼光公館土蜘作妖怪図 一勇斎国芳画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
    著作 -読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「「源頼光公館土蜘作妖怪図」 加藤好夫著     ◯『井関隆子日記』下巻(勉誠社・昭和56年刊)   (天保十四年(1843)十一月五日付)   〝かの御咎(みとがめ)有し司いちはやき政(まつり)事申されつる中に、錦(にしき)絵あるは団扇    (うちは)などにわざをぎ共の似顔書ことを厳(きび)しう制(せい)ありき。近きころ豊国、国貞、    今も国芳など其名聞(きこ)えたり。此似顔なりかはるわざの度(たび)ごとに書変(かふ)れば、筆    おく間もまれなりしを、止(とゞ)められつればいたう生業(なりはひ)にこうじためり、此春のころ    あやしき絵を南書出たる。されど其初は人こゝろ付ざりしが、ある人画書国芳に間(とひ)しに、是は    誰(た)そ、かれは何ぞと、絵解(ゑとき)聞しより次々いひつぎしかば、世の人珍らしみいみじく求    めてもて遊びぐさとなしぬ。此沙汰あまねかりしかば、此絵うる事を止められ、今は秘(ひめ)置て売    (うら)ざれば、求めがたしと聞(きゝ)しを、ある人のつてもて童(わらべ)どもの得てしを見るに、    稚児のもて遊びの文(ふみ)などにみゆる、源ノ頼光(みつ)朝臣の土蜘になやまされたる様(さま)、    はたかの四天王とか聞ゆる猛(たけ)きをのこどもの宿直(とのゐ)する様(さま)書て、其かしらの    上に土蜘はさる物にてえもいはぬ変化(へんぐゑ)どもいとあまたあらはれたるが、それが顔(かほ)    形ち世の常とかはりて百鬼夜行などいふ古き鬼(おに)共の様(さま)ならず、今様(やう)めきたる    筆づかひあやしともあやし。さるは近きころ罪せられたる公(おほやけ)人はさら也法師のたぐひわざ    をぎども、あるは町々を追(おは)れてたつぎにこうじたる男女(をんな)ら、大方かの司に恨みある    者ども数しらず書出たれど、判じ物とかいふらむやうにて、ふと打見るにはえも解(とけ)がたきなむ    多かる。かつ定光、金時などがともがら其面影かのいちはやき司はさら也、ほかも似たるがありとか。    はたそが着たる衣(きぬ)のあやなど、おふな/\其紋どもを、あらはにはあらで紛(まぎ)らはしつ    けなど、げにたゞならぬ絵の様也。此絵書いましめられぬなど聞えしが、よさまにいひのがれけむ、許    (ゆる)されぬともきこゆ。其ころいみじうきびしかりしかば、わざをぎどもの顔こそかゝね、中/\    にの有様(さま)をまねび出けむ、えもあるまじきわざながらあまねく世にゝくまるゝ人なれば、今は    憚(はゞか)りもなうをかしうなむ〟    〈先頃免職になったあの首班格の方は過酷な政令を出しましたが、その中でも錦絵や団扇絵に役者似顔を禁じたのは厳     しい仕打ちでした。最近では豊国、国貞、今は国芳などが役者似顔の名手、彼らは興行のたびに画き替えるので、筆     を置く間もないくらい忙しかったのですが、禁じられてからは仕事にも困ってしまったようです。それがこの春の頃     怪しい絵が出ました。しかし最初は誰も気にしなかったようです。ある人が画かきの国芳に尋ねたところ「これは誰、     あれは何」と絵解きしたそうで、これが噂となって次々に広がると、世上でも珍しく思って競って買い求め、もてあ     そんだようです。それであちこちで評判になって、遂に絵の販売は禁じられ、今では隠し置いて売らないので、入手     しがたいとか。ある人のツテで子供たちが手に入れたものを見ますと、子ども向けの話にあるような、源頼光朝臣が     土蜘蛛に悩まされる様子や、その四天王とかいう勇ましい男たちが宿直する様子が画いてあって、その頭上には、土     蜘蛛はもちろん、何とも言いようもない化け物がたくさん画かれています、ところがその顔かたちが、古画にある百     鬼夜行の鬼などと違って、当世風に画かれているものですから、いよいよ怪しげな感じがします。実は、最近罰せら     れた役人はもちろん、僧侶や役者、あるいは町を追われて生活に窮した男女など、おそらくあの役人に恨みをもつ人     たちを沢山画いたらしいのですが、判じ物とかいうらしく、ちょっと見ただけではとても解きがたいものも多いよう     です。一方、定光、金時などの顔つき、あの酷い役人は言うまでもなく、他にも似ているものがあるとか。また、着     ている衣裳の模様などに、それぞれに応じた紋様を目立たないように忍ばせるなど、実に風変わりな様子の絵でした。     この絵かきが逮捕されたなどという噂も聞きましたが、うまい具合に言い逃れしたのでしょうか、許されたとも聞き     ます。今は(役者似顔絵)を厳しく禁じているので、役者の似顔こそ画きませんが、それがかえって逮捕された人の     様子をよく伝えているともいいます。まったくもってあってはならないことですが、市中のすべてに憎まれた人なの     で、(罷免された)今は遠慮もなく打ち興じています」     「かの御咎有し司」は天保十四年の閏九月老中を失脚した水野忠邦。「あやしき絵」は「源頼光公館土蜘作妖怪図」     「いましめられたる人」とは市川団十郎を指すのだろう。出版は天保十四年の春であった〉     ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥145(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   (「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」天保十三年(ママ)の記事)   〝いとおかしきは国芳が書る、頼光病床に在て四天王の力士らの夜話する処、上に土蛛の化物顕れたる図、    俗に有ふれたる画也、夫を何者か怪説を云ひ出し、当時の事を諷しある物とて、此絵幸に売たり、此内    おかしと云るは、彼土蛛いかにも画工の筆めかぬ不調法なるが、却て怪くみゆ、是は本所表町、俗に小    産堀と所に提灯屋有り、初めは絵かく事を知らぬ者にて、凧を作りて猪熊入道とやら云て、髑髏の様な    る首をかき、淡墨と藍にて彩る、其辺の子供ら皆是を求めしが、国芳此をかたどりて書たりとみゆ〟    〈記者・喜多村信節は怪説が如何なるものか記していないが、「当時の事を諷しある物」と云う。おそらく、怪説・諷     刺内容の当否というより、そうした風評を喚起すること自体が、為政者には看過できない問題なのであろう。ところ     で、喜多村信節はこの天保十四年刊とされる「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」をなぜ天保十三年の項目に記たのであろ     うか、不審である〉     ◯『五月雨草紙』〔新燕石〕③59(栗本鋤雲著・慶応四年七月成立)   (「天保十四年(1843)」記事)   〝爰に世の中大評判は、浮世絵師国芳なるもの、頼光朝臣の不例の図は、子供遊の双紙にある土蜘蛛の妖    物になぞらへ、当世滅亡せし矢部駿州を始め、諸家の面々より、下々に至りては、株持、地主の損毛、    岡場所、茶屋、小屋、富興行の山師ども、いろ/\さまざまに化けたる姿、如何にも正しく四天王は碁    を囲居たる図なるが、此錦絵を誰か見付出したるか、気がつきたるや、厳敷買上げ、板木は滅却して仕    まいたる由、世に恐るべき人智の機妙にて、聊の絵虚事なりとも、事理を推て勘考する時は、遂に画書    の当人も心付ざる所迄に至なり〟    〈巷間に物議を醸し出すという予想のようなものが、国芳にはあったのかもしないが、こんな大騒ぎになるとは、思い     もよらぬことだったのではないか。「源頼光公館土蜘作妖怪図」は、もはや国芳の思惑を超えて、読まれはじめてい     ったと、栗本鋤雲は理解したのである〉     ◯『続泰平年表』p217(竹舎主人編・天保十四年十二月二十六日記事   〝戯絵に携候者共御咎一件、(堀江町二丁目弥助店)久太郎・重蔵・(貞秀事)兼次郎・(神田御台所町五    人組)長吉、右過料五貫文ツヽ、(室町三丁目絵双紙屋)桜井安兵衛(売徳代銭取上ヶ過料三貫文 右    は(歌川)国芳画、(源)頼光四天王之上ニ化物在之、絵ニ種々浮絵を書合候、彫刻絵商人共、売方宜    敷候二付、又候右之絵ニ似寄候中、錦絵仕置候ハヽ、可宜旨久太郎存付、最初四天王・土蜘計之下絵を    以、改を請相済候後(貞秀と)見考之申談、四天王之上土蜘を除き、種々妄説を付、化物ニ仕替、改を    不請摺上売捌候段、不埒之次第ニ付、右之通過料申付)〟      ◯『藤岡屋日記 第二巻』p413(天保十五年(1844)正月十日)   (記事は天保十五年のものだが、国芳の「頼光土蜘蛛」の出版は天保十四年のことである)   〝同(正月)十日      源頼光土蜘蛛の画之事     最早(ママ)去卯ノ八月、堀江町伊場屋板元にて、哥川国芳の画、蜘蛛の巣の中に薄墨ニて百鬼夜行を書    たり、是ハはんじ物にて、其節御仕置に相なりし、南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・隠売    女・女浄るり、女髪ゆいなどの化ものなり、その評判になり、頼光は親玉、四天王は御役人なりとの、    江戸中大評判故ニ、板元よりくばり絵を取もどし、板木もけずりし故ニ、此度は板元・画師共ニさわり    なし。     又々同年の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、絵    双紙懸りの名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋見    せ売には化物のなき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚続    百文宛ニ売たり。是も又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり。     廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ      板元過料、三貫文也      画師貞秀(過脱)料 右同断也     其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘    蛛のわらいを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也。     板元松平阿波守家中  板摺内職にて、                              高橋喜三郎     右之品引請、卸売致し候絵双紙屋、せりの問屋、                        呉服町      直吉     右直吉方よりせりニ出候売手三人、右品を小売致候南伝馬町二丁目、                        絵双紙問屋 辻屋安兵衛 〟     今十日夜、右之者共召捕、小売の者、八ヶ月手鎖、五十日の咎、手鎖にて十月十日に十ヶ月目にて落     着也。    絵双紙や辻屋安兵衛外売手三人也。板元高橋喜三郎、阿波屋敷門前払、卸売直吉は召捕候節、土蔵之内    にめくり札五十両分計、京都より仕入有之、右に付、江戸御構也。画師芳虎は三貫文之過料也〟
    一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」・玉蘭斎貞秀画「土蜘蛛妖怪図」    (『浮世絵と囲碁』「頼光と土蜘蛛」ウィリアム・ピンカード著)       〈国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は天保十四年(1843)春の刊。これはその判ずる内容が幕政を諷したものではないか     と評判をよんだが、お上を警戒した板元伊場屋が絵を回収し板木を削るという挙に出たため、お咎めはなかった。次     に、貞秀の画く「土蜘蛛妖怪図」が同年冬(十月以降)に出回った。これは店先にはお化けのない絵をつるし、内々     にはお化けの入ったものを売るという方法をとった。が、やはりこれも噂が立ち、今度は板摺で板元を兼ねた久太郎     と絵師の貞秀が三貫文の過料に処せられた。そして、天保十四年の暮れか翌十五年の正月早々に、芳虎の「頼光土蜘     蛛のわらいを添」えた画が「たとう(畳紙)」入りの組み物として売り出された。今回は、板摺兼板元の高橋喜三郎     以下、卸問屋・小売り・絵師芳虎ともども、咎を免れえなかった。ところで、貞秀画の板元も芳虎の板元もそれぞれ     板摺となっている、板摺とは板木屋か彫師をいうのであろうから、国芳画の板元・伊場屋とは違い、板元は一時的な     ものであろう。高橋喜三郎の場合は松平阿波守家中のものとある。内職にこのような危ない出版も請け負ったものと     見える。あるいは改めを通さない私家版制作に深く関わっていたのであろう。(「源頼光館土蜘作妖怪図」の刊行を     これまで『藤岡屋日記』の記事から天保十四年八月としてきたが、『井関隆子日記』の天保十四年十一月五日の記事     「此春のころあやしき絵を南(ママ)書出たる」から天保十四年春と訂正した。2012/04/14追記)     さて、国芳画の「源頼光館土蜘作妖怪図」は「判じ物」とされる。絵は読み解く対象になる。読み手は画中の人物を     自分のもつ情報と想像力を駆使して、現実に存在する者となんとか対応させようとする。しかしそれにしては読み解     く根拠も確証も画中にはみつからない。国芳に意図があるとすれば、画中のものを現実のものと特定できるような可     能性は画くが、特定できるような根拠は画きこまないということではないだろうか。それは一つにはお上から嫌疑が     かかった時の弁明というか、逃げ口上にもなりうるし、また判者の自由な想像力をも保証することにもなるからだ。     為政者からすれば、その判じ物が事実を擬えているかどうかという以上に、憶測や風評が燎原の火の如く広がり、秩     序・風紀が乱れてコントロール不能になることが恐ろしいのであった。国芳や板元・伊場仙にそうした紊乱の意図が     あるとは思えない。しかし放っておけば制作側の意向を越えて混乱を招く恐れはあった。絵の回収と板木を削るとい     う処置は、為政者に向けて発した恭順のポーズである。     「兎角ニむつかしかろと思ふ物でなければ売れぬ」世の中とは、弘化五年(1848)、将軍家慶の鹿狩りを擬えた「富士     の裾野巻狩之図」(王蘭斎貞秀画)に対する、藤岡屋由蔵の言葉であるが、判じものがあるはずなのに、それを具体     的に案ずることが難しいもの、あるいは改めを通るのが難しそうなもの、そうしたものを敢えて画かないと売れない     時代になっていたのである。処罰されるたびに謹慎の姿勢を示すのであるが、難しいものを求める世の欲求に応えよ     うとすると、どうしてもきわどい画き方をしてしまうのである。         ところで、鏑木清方の随筆「富士見西行」(岩波文庫本『明治の東京』所収)という文章を読んでいたら、次のよう     なくだりに出会った。「七めんどうで小うるさい、碁盤の上へ網を張って、またその上へ蜘蛛の巣を張ったような世     の中」。碁盤・網・蜘蛛の巣という組み合わせには「七めんどうで小うるさい世の中」という意味合いがあったのだ     ろうか。これを使って判じてみると、七めんどうで小うるさい世の中をもたらしたのは頼光と四天王、つまり為政者     側だ。ところがその為政者側がそんな世相に悩まされて病んでいる、ということなろうか。もっとも国芳が碁盤と蜘     蛛のもつ意味合いを清方同様に共有していたかどうか、これまた確証がない。知らないはずはないだろうという想像     をめぐらすことは可能だが、それを国芳に押しつけることは出来ない。国芳には、お上をもってしても、幕政批判の     意図を持って画いたはずだと断ずることは出来まいという自覚はあったように思う。2009/7/26記〉     〈2010年1月23日追記。「板摺」を「板木屋=彫師」から「摺師」に訂正した〉     ◯「流行錦絵の聞書」(絵草紙掛り・天保十五年三月記)『開版指針』(国立国会図書館蔵)所収   〝天保十二丑年五月中、御改革被仰出、諸向問屋仲間組合と申名目御停止ニ相成、其外高価の商人并身分    不相応驕奢(ヲゴリ)のもの、又は不届成もの御咎被仰付、或ハ市中端々売女の類女医師の堕胎(ダタイ)    【俗に子をろしと云】御制禁ニ相成、都て風俗等享保寛政度の古風ニ立戻り候様被仰渡候処、其後同十    四卯年八九月の比、堀江町壱丁目絵草(ママ)屋伊波(バ)屋専次郎板元、田所町治兵衛店孫三郎事画名歌川    国芳【国芳ハ歌川豊国の弟子也】画ニて、頼光(ヨリミツ)公御不例(レイ)四天王直宿(トノヒ)種々成不取留異形    の妖怪(ヨウカイ)出居候図出板いたし候、然る処、右絵ニ市中ニて評到候は、四天王は其比四人の御老中    【水野越前守様、真田信濃守様、堀田備中守様、土井大炊頭様】にて、公時(キントキ)渡辺両人打居候碁盤    は横ニ成居、盤面の目嶋なれば、此両人心邪(ヨコシマ)に有之べし。扨妖怪の内土蜘は先達て南町御奉行所    御役御免ニ相成候矢部駿河守様の【但定紋三ツ巴也】由、蜘の眼巴ニ相成居候、又引立居候小夜着は冨    士の形ち、冨士は駿河の名山なれば駿河守と云判事物の由、飛頭蛮(ヒトウバン/ロクロクビ)は御暇ニ相成候    中野関翁【播磨守父隠居なり】にて、其比世上見越したると申事の由、天狗は市中住居不相成鼠山渋谷    豊沢村え引移被仰付候修験、鼻の黒きは夜鷹と【市中明地又は原抔え出候辻売女也】申売女也、長ノ字    の付候杓子を持、鱣(ママ鰻?)にて鉢巻いたし候坊主は芝邊寺号失念日蓮宗にて鱣屋の娘を囲妾ニいたし、    其上品川宿にてお長と申飯売と女犯ニて御遠島に相成候ものゝ由、筆を持居候は御役御免ニ相成候奥御    祐筆の由、頭に剱の有るは先達て江戸十里四方御構に相成候歌舞妓者市川海老蔵、成田不動の剱より存    付候由、頭に赤子の乗居候は子おろし、當の字付候提灯は当百銭の由、纏に相成居候鮹は足の先きより    存付高利貸、分銅は両替屋、象に乗候達磨は先達て貪欲一件ニて遠島に相成候牛込御箪笥町真言宗ニて    歓喜天守護いたし候南蔵院の由、其外家業御差留御咎等ニ相成候もの共の恨ミに有之由、専ら風聞強く    候故、内密御調ニ相成候。右ニ付市中好事の者調度絵草屋(ヱソウシ)屋え、日々弐三人宛尋参候得共、絵    草紙屋にても、最早売々(ママ)不仕候、右は全下説ニ程能附会(コジツケ)風評致候共恐入候事ニ有之候、乍    併諺にいふ天ニ口なし人をもつて云わしむると申事あれバ、若自然右を案じ、又乍承夫を紛敷画候ハふ    とゞき至極のもの共也〟    〈憚ってか、この「聞書」は頼光が暗示するものを記さない。四天王は水野忠邦以下当時の四老中。碁盤の目は坂田金     時(堀田備中守)と渡辺綱(真田信濃守)両人の心が邪(ヨコシマ=横縞〉であることを暗示。土蜘蛛は巴と富士の模様     から前町奉行矢部駿河守。飛頭蛮(轆轤首)はもと小納戸頭取中野碩翁。天狗は修験僧・鼻の黒い女は夜鷹・鯰の鉢     巻き坊主は女犯の罪で流罪になったもの(日啓・日尚父子)・長の字のある杓子をもつ女は飯盛女(私娼)・筆を持     つ総髪は奥右筆(奥儒者成島図書司直かあるいは奥御右筆組頭大沢弥三郎か)・頭に剣のあるものは江戸払いに処せ     られた市川団十郎・頭に赤子は子堕ろし婆・當百銭は天保通宝百文銭(発行は水野忠邦の発案)・柄の先が蛸の纏は     高利貸し・分銅は両替商・象に乗る達磨は流罪僧の南蔵院等々。書留は巷間の風聞を伝える。要するに、これらの妖     怪は、水野が主導する改革によって、家業を禁じられたり処罰されたりした人々を暗示するというのである。(詳し     くは上掲の「「土蜘蛛」解釈(浮説)一覧」参照のこと)     巷間では、苛酷な改革を断行したお上(将軍・四老中)とその被害者・犠牲者(矢部駿河守等々)という図式で、こ     の国芳の判じ物を捉えていると、この「聞書」はいう。またこうした浮説は所詮牽強付会に過ぎないとするものの、     もし承知の上で紛らわしく画いているとすれば不届きだともいう。やはり制作側の意図に疑念を拭いきれないのであ     る。しかしそれでも当局は国芳と板元伊場屋を摘発しえなかった。以上のような浮説と同様の意図をもって、国芳や     伊場屋がこの「源頼光公館土蜘作妖怪図」を制作したかどうか、見極められなかったのであろう。     天保の改革は浮世絵の大黒柱である役者絵と女絵(遊女・芸者等)の制作を禁じたが、生業に窮した浮世絵界はその     代わりに判じ物を考えだした。言わば天保の改革は判じ物の生みの親なのである。皮肉なことに、これ以降、検閲担     当の名主たちは、制作側の意図を特定できないよう巧妙に作られた判じ物に直面しては、思案投げ首、頭を悩ますこ     とになっていく〉      〝其頃風評を消んと四天王并保昌五人ニて土蜘蛛退治の絵、同画ニて出板いたし候得共、蜘の眼に矢張三    ッ巴を画候なり、然れ共四天王直宿(トノヒ)妖怪の絵は人々望候共、土蜘退治は売れも不宜候由〟    〈「源頼光公館土蜘作妖怪図」から生ずる浮説をかき消そうとして、国芳は今度は四天王に平井保昌を加えて、葛城山     の土蜘蛛退治を作画したようだ。蜘蛛の目は「妖怪図」同様三つ巴にしたようだが、これは売れ行きが良くなかった。     伝説を単に絵解きするだけでは、もはや市中の人々の興味に応えることが出来なくなっていたのである〉      〝同年閏九月中の由、間錦(アイニシキ)と唱候小さき絵ニて、四天王直宿頼光公御脳(ノウ)の図、最初と同様ニ    て後◎一図土蜘居候図ニて、堀江町【右は里俗おやじ橋角と申候】山本屋久太郎板本、本所亀戸町画師    歌川貞秀事伊三郎【貞秀は歌川国貞の弟子ニて前出国芳より絵は筆意劣り候なり】右は下画にて御改を    受、相済候上出板いたし候、右へ二重板工夫いたし、土蜘を除き其跡に如何の妖怪を画、二様にいたし    売出し候、右化物は前書と少々書振を替、質物利下げハ通ひ帳を冠り、高利貸は座頭、亀の子鼈甲屋、    猿若町に替地被仰付候三芝居は紋所、高料の植木鉢、其外天狗は修験、達磨は南蔵院、富百銭の提灯、    夜鷹子おろし等、凡最初は似寄候画売ニいたし候処、好事の者争ひ買求候由、右も同様の御調ニ相成、    同年十月廿三日、南番所に【御奉行鳥居甲斐守也】御呼出の上、改受候錦絵え増板いたし候は上を偽候    事不届の由ニて、画師貞秀事伊三郎、板元山本屋久太郎手鎖御預ケ被仰付、御吟味に相成候。春頃或屋    敷方ニて内証板ニ同様の一枚摺拵、夫々手筋を以て売々致候由に候得共一見不致候〟    〈天保十四年閏九月中、歌川貞秀の「四天王直宿頼光公御脳(ノウ)の図」なるものが二種類出回る。ひとつは改(アラタメ=     検閲)を経た土蜘蛛入りのもの、もう一つは土蜘蛛を削除して代わりに妖怪の図様を画き入れたもの。折から国芳の     「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」が判じ物としてさまざま取り沙汰されていたところなので、この貞秀の妖怪図様も判     じ物としてまた大いに持てはやされた。ところが、十月二十三日、南町奉行鳥居甲斐守耀蔵は、絵師貞秀と板元山本     屋久太郎とを突然召喚する。そして、検閲済みのものに手を加えて変更するとはお上を偽る行為、不届き千万だとし     て、手鎖・家主預けに処し、その上でなお吟味を命じた。この件の落着は同年十二月、『続泰平年表』によれば、絵     師貞秀と板元山本屋久太郎は過料五貫文とある。     「春頃或屋敷方ニて内証板(云々)」も国芳の「土蜘蛛」の余波で、歌川芳虎の春画版「土蜘蛛」のこと。上掲『藤     岡屋日記』参照〉  ◯『江戸風俗総まくり』筆者未詳 天保十四年以降(『江戸叢書』巻の八p29「草双紙と作者」)   〝厳政の中にも人々公事を評するはくせにして、白川侯の頃春町が作に鸚鵡返し文武の二道と題して、代    は延喜の帝とし摂政を菅家とし、当世を比喩したるにおなじく、此頃芝居役者を絵に書を禁じられ、武    者絵多く国貞が書く中に四天王の宿直の蜘の絵は、又是越州の厳政をおし移し執政の姿を謎としたるが    流行する〟    〈「厳政の中にも人々公事を評するはくせに」だとし、その例として、寛政の改革時の『鸚鵡返文武二道』(恋川春町     作)と天保改革時の「四天王の宿直の蜘の絵」すなわち国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」をあげている。いずれも     当時の幕政を評したものという位置づけである。国芳の「土蜘蛛」図の出板は天保十四年だから、この記事はそれ以     降のもの〉     ◯『事々録』〔未刊随筆〕③307(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (記事は天保十五年冬。しかし国芳の「土蜘蛛」の絵が出板されたのは天保十四年八月である)   〝流行年々月々に替るはなべての世の習ひなるに、御改正より歌舞伎役者は皆編笠著、武士は長刀に合口    の風俗をよしとす。江戸錦絵は芝居役者の似顔、時の狂言に新板なるを知らしめたるが、役者傾城を禁    ぜられ、わづか美人絵のみゆるされてより、多く武者古戦の形様を専らとする中に、去年は頼光が病床、    四天王宿直、土蜘蛛霊の形は権家のもよふ、矢部等が霊にかたどるをもて厳しく絶板せられしにも、こ    りずまに此冬は天地人の三ツをわけたる天道と人道地獄の絵、又は岩戸神楽及び化物忠臣蔵等、其もよ    ふ其形様を知る者に問ば、是も又前の四天王に習へる物也、【是は其物好キにて初ははゞからず町老の    禁より隠し売るをあたへを増して(文字空白)にはしる也】〟    〈「御改正」は天保の改革。「頼光が病床~」は一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」。「矢部」は水野忠邦の改革     に反対の立場で対抗した矢部駿河守定兼。しかし、天保十三年十二月、水野の配下・鳥居耀蔵の策謀のため町奉行を     罷免される。翌十四年三月には改易に処せられ、伊勢の桑名藩へ永のお預けとなる。同年絶食して憤死したとも伝え     られる。『事々録』の記者・大御番某の目には、国芳の「土蜘蛛」の画が「権家のもよふ、矢部等が霊にかたどる」     故に「厳しく絶版せられし」と映っていたのである。すると、頼光や四天王が水野忠邦・鳥居耀蔵等の「権家」、そ     して土蜘蛛以下の魑魅魍魎が矢部駿河守をはじめとする改革のいわば犠牲者という読みなのであろう。国芳は表向き     はそんな意図はございませんと言うに決まっているが、「土蜘蛛」の絵を天保改革の絵解きとして、捉えることが出     来るように意図的に画いていることは確かであろう。画中に確証はないが、容易にそれと連想できるように画いてい     るのである。『事々録』に従えば、土蜘蛛はおそらく矢部駿河守の怨霊を擬えているものと思われる。その矢部が改     革の圧政に虐げられた他の怨霊を従えて、水野たち「権家」を大いに悩ませているというのであろうか。     さて、今年の冬もまた昨年の「土蜘蛛」にならって「兎角ニむつかしかろと思ふ」(嘉永元年九月『藤岡屋日記 第     三巻』「右大将頼朝卿富士の牧(巻)狩之図」の記事)錦絵が出た。「天道と人道地獄の絵」は歌川貞重画の「教訓三     界図絵」とされる。「岩戸神楽」「化物忠臣蔵」は未詳。そして、これらは始めは憚ることなく売られ、町老(改め     掛り名主か)の禁止(差し止め)で出てからは、隠して高値で売られたようである〉    〈「岩戸神楽」は「国貞改二代豊国画」の署名のある「岩戸神楽乃起顕」。「化物忠臣蔵」は一勇斎国芳画。この記事     によれば、天保十五年(弘化元年)の出版ということになる。2011/03/25追記〉      ◯『事々録』〔未刊随筆〕⑥356(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (「弘化五年(1848)(嘉永元年)」記事)   〝錦絵欲といふ獣名つけ、杭につなぐ、此絵、先年土蜘蛛の絵、水野越州、矢部駿河等の事をひゆせしに    なぞらへ、当時青山野州をかたどるといつて多く売たり〟    〈天保十四年刊行の国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は、この『事々録』を書き留めている幕臣の目には、水野越前守     忠邦とそれに対立して憤死を余儀なくされた矢部駿河守等の事を譬喩的に画いたものとして、捉えられていたのであ     る。国芳は、そのような想像も可能なように自覚的して画いていることは明白である。さて、この弘化五年の「錦絵     欲」という名の獣とされる青山野州は、老中青山下野守忠良であろう。ただ、なぜ「錦絵欲」という獣とされ、しか     も杭につながているのかよく分からない〉     ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③187(浅野梅堂著・安政二年頃成る)   〝天保ノ末、浜松相公罷政ノ時、頼光土蛛退治図三枚ツヾキノ錦絵出板シ、頼光ハ曲彔ニ倚テ居眠リ、青    海波ノ模様ノ素袍キタル季武、水車ノ模様キタル六曜ノ星ヲ裏銭ヲ并べタル如ク模様取タル四天王ノ輩、    肱ヲ張空ヲ脱ルモアリ、碁盤ニ凭テ眠ルモアルガ、大キナル土蛛ノ頂ノ斑ハ暗ニ矢部駿河ガ紋所ニ似タ    ル黒点ヲナシ、妖魔ノ眷属坊主アリ、山伏アリ、梵天ノ旗ヲタテ、ソロ盤ノ甲ヲ着、岡場所ノ売女、十    組ノ問屋、女髪結ノ類、異類異形ノ怪物ヲ画キタリ。コレハ国貞ノ門人国芳後【後ニ二代目国貞トナル】    卜云モノカケリ。殊ノ外ニハヤリテ、金ヲ以テコレヲ購ニイタル。絶板ニナリテハ、愈狩野家ノ名画ヨ    リ尊シ。コレヨリ事アル度ニ、何トモワカラヌ怪シゲナルモノヲ画タル錦絵ハヤリテ、観者サマザマニ    推度シ、牽強附会シテコレヲ玩ブ〟    〈浜松侯は老中水野忠邦。天保十四年春の出版、一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」(大判三枚続・伊場屋板)     である〉     ◯『筆禍史』「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」(天保十四年・1843)p146(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝一勇斎歌川国芳が画ける錦絵に、頼光病臥なして四天央是を守護し、様々の怪物頼光をなやますの図は、    当時幕政に苦しむの民を怪物なりとし四天王を閣老なりと、誰いひふらしけるとなく、其筋の聞く所と    なりて、既に国芳は捕縛せられ、種々吟味せられしが、漸くにして言訳、からくも免罪せられしといふ    とは『浮世絵師系伝』の記事なるが『浮世絵画人伝』には左の如くあり     天保十四年の夏、源頼光土蜘蛛の精に悩まさるゝ恠異の図を錦絵にものし、当時の政体を誹毀するの     寓意ありて、罪科に処せられ、版木をも没収せられたりき、其寓意と云へるは、頼光を徳川十二代将     軍家慶に比し、閣老水野越前守が非常の改革を行ひしを以て、土蜘蛛の精に悩まさるゝの意に比した     りといふにありき(浮世絵画人伝)    当時玉蘭斎貞秀も亦国芳の頼光四天王図に模倣したるものを描きて出版せしがため、貞秀及び版元等関    係者四名は過料五貫文宛に処せられ、販売せし絵草紙屋は売得金没収の上、過料三貫文に処せられたり    と『浮世絵編年史』にあり     天保十四年十二月二十六日、歌川貞秀等戯画の事にて罰せらる(中略)右は国芳画頼光四天王の上に     化物有之絵に種々浮説を書含め彫刻絵商人共売方宜敷候に付、又候右の絵に似寄候錦絵仕立候はゞ可     宜旨久太郎存付最初は四天王土蜘蛛の下絵を以て改を請相済候後貞秀に申談四天王の上の土蜘蛛を除     き種々妄説を付化物に仕換改を不請摺立売捌候段不埒の次第に付右の通り過料申付           〔頭注〕摸倣絵と縮刻絵    『源頼光公館土蜘蛛作妖怪図』が売行よかりし事は、貞秀等に対する刑罰申渡書中にもある如くに、当    時類似の物も数種出たるなり、同じ一勇斎国芳の筆にても、頼光が土蜘蛛を退治するの図もあり、いづ    れも彩色ある大錦絵形三枚続なり     雨花子の寄書に曰く    頼光土蜘蛛の錦絵に付きては、『黄梁一夢』に左の記事あり     (上略)解者曰、其四天王暗指当時執政、群鬼中分得意者、与失業者、為甲乙、又皆有暗符歴々可徴、     一時流伝、洛陽為之紙貴、巳而官停其発行    なほ当時の落首等の中、耀甲斐(鳥居耀蔵)咄し中「手下の化物には一ッ目小僧(長崎与力小笠原貢三    のことを指すなりとぞ)小菅小僧(普請役小菅幸三郎)金田小僧(勘定組頭金田郁三郎)云々」とあれ    ば是等も右の錦絵中にあるならんか〟
    「源頼光公館土蜘作妖怪図」「土蜘蛛妖怪図」 一勇斎国芳画・玉蘭斎貞秀筆      (「浮世絵と囲碁」「頼光と土蜘蛛」図版6-4・6-6 ウィリアム・ピンカード著)     ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「錦絵と諷刺画」p54   〝『泰平年表』天保十四年十二月廿六日の条に「戯画に携り候者共御咎一件、堀江町一丁目弥吉店久太郎、    重蔵、貞秀事兼次郎、神田御台所町五人組、室町六丁目長吉、右過料五貫文宛、絵双紙屋桜井安兵衛売    徳代銭取上げ過料三貫文、右者国芳画頼光四天王の上に化物有之絵に種々浮説を書含め、彫刻画商人共    売方宜敷候に付、又候右之絵に似寄錦絵仕立候はゞ、可宜旨久太郎存じ付、最初は土蜘蛛四天王ばかり    の下絵をもて、改めを請け相済候後、貞禿に申し候て四天王の上土蜘蝶を除き種々妄説を付け、化物に    仕替改めを不請摺立売捌き候段、不将の次第に付右之通過料申し付る」とある〟    〈改めに提出した下絵と違うものを摺って売り捌く手法、摘発されるまでが勝負。過料を払ってなお余りある売り上げ     に賭けるのである〉
      Top    著作 -読む浮世絵「判じ物」-                一勇斎国芳画「「源頼光公館土蜘作妖怪図」 加藤好夫著