『江戸町触集成』第一巻~第二十巻・近世史料研究会編・塙書房・1994年~2006年刊
『御触書寛保集成』高柳真三、石井良助編・岩波書店・昭和三十三年(1958)刊
『幕末御触書集成』第五巻・石井良助、服藤弘司編・岩波書店・1994年刊
『撰要類集 第2』「撰要類集三 御触書並町触之部」辻達也校訂・続群書類従完成会・1979年刊
(『未刊史料による日本出版文化』第三巻・ゆまに書房・昭和六十三年刊
彌吉光長著『江戸町奉行と本屋仲間』の「史料編」『撰要類集』を参照した)
『徳川禁令考』前集-第五・石井良助校訂・創文社・昭和三十四年刊
『大日本近世史料』「市中取締類集」十八~二十一「書物錦絵之部」
東京大学史料編纂所編・東京大学・1992年刊
『徳川幕府時代書籍考』牧野善兵衛編 東京書籍商組合事務所 大正元年(1912)刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 者=は 与=と 江=え 而=て メ=貫 〆=そのままか「締」として 而已=のみ
☆ 寛文十三年(1673)
◯ 五月〔『徳川禁令考』前集第五p255「諸商勧業及濫資征権法度」(文書番号2953)〕
〝寛文年中渡辺大隅守様被仰渡写
一 軍書類
一 歌書類
一 暦類
一 噂事人善悪
一 好色本類
其外何ニ不依疑敷板行ハ、御番所え御窺申上、御意次第ニ可仕候事、
此以前も板木屋へ如被仰付候、御公儀之義ハ不及申、諸人迷惑仕候義、其外何ニても珍敷事を新板ニ開
候ハ、両番所え其趣申上ケ、御差図を受、請候へ共、御意次第ニ可仕候、若隠候て新板開候之者於有之
は、御穿鑿之上急度可被仰付候間、此旨板木屋とも并町中之者共少も違背仕間敷候事〟
〈軍書、歌書、暦、噂や人の善悪、好色本、そのほか何であれ、疑わしい板行の注文が来たら、町奉行に伺いを立てて
その指示に従えという、板木屋への通達である。疑わしいものとは、幕府に関するのこと、諸人が迷惑する事柄、珍
しいもの。これらを新規に開板する場合は、町奉行に届けてその差図を受けよ命じたのである。さて「噂事人善悪」
とは何であろうか。これは世間の噂や人の善悪を題材にしたものという意味であろうから、いわゆる「読売(かわら
版)」であろう。また「好色本」とはこの時代どのような作品をいうのであろうか。この当時、井原西鶴はまだ登場
していない。従って『好色一代男』(天和二年(1682)刊)に代表される「浮世草子」ではない。それより前の時代の
「仮名草子」の中の「好色本」である。具体的にはどんな作品だろうか。時代がだいぶ後になるが、参考までに大田
南畝(文政六年(1823)歿)の「南畝文庫蔵書目」をみてみると、『犬つれ/\』(承応二年(1652)刊)と『錦木』
(寛文元年(1661)刊)が「好色本」としてあがっている。やはり男色とか男女間の密書といった風俗に関わる題材・
内容が問題にされたのである。ここでは板本の挿絵が問題になっている様子はない〉
☆ 貞享元年(1684)
◯ 十一月〔『御触書寛保集成』p990(触書番号2014)〕
〝町中ニてむさ仕たる小哥はやり事勿論、当座之替りたる事致板行、売候もの有之、家主致吟味、何方に
ても左様之もの一切板行仕間敷候、尤辻橋ニて売候者有之候ハヽ、其町ニて相改、捕候て番所え可申来
候、穿鑿之上、売候ものハ不及申、致板行候ものまで急度可申付候、近日改ニ廻し候間、其旨可相心得
者也〟
〈これは読売に対する出版販売禁止令である。疑わしい場合、町奉行の差図を受けよというのではない。一切禁止であ
る。これと同じ読売禁止令は、元禄十一年(1698)同十六年(1703)にも出ているから、町奉行として看過できない読
売が折にふれて出回っていたのであろう。さて「町中ニてむさ仕たる小哥はやり事勿論、当座之替りたる事致板行、
売候もの」とは何者であろうか。元禄三年(1690)刊『人倫訓蒙図彙』に〝世上にあらゆるかはつたる沙汰、人の身の
上の悪事、万人のさし合をかへりみず、小哥につくり浄瑠璃に節付てつれぶしにてよみたる也〟という記事があり、
それには「絵草紙売」とあった。まさに「絵草紙売」に対する通達なのである。繰り返し出ているということは、そ
れを望むものがいて十分商売になるから、リスクを負ってでも出版するのである。小野秀夫著『かわら版物語』によ
ると、貞享・元禄期の読売は心中絵草紙の全盛時代であったという。ところで、この絵草紙売りは絵本を売り歩いた
わけではない。世上の事件・風聞を読み売るのである。それをなぜ「絵草紙売」と呼んだのであろうか。いずれにせ
よ、この「絵草紙」は江戸の地本問屋が取り扱う「草双紙」「絵草紙」とは別ものである〉
『人倫訓蒙図彙』「絵双紙売」蒔絵師源三郎画(京都大学附属図書館「貴重資料画像」)
☆ 享保六年(1721)
◯ 七月〔『御触書寛保集成』p1017(触書番号2091)〕
〝一 惣て新規之儀、器物織物之類一切仕出候事可為無用候、
〈異本に「着物」とあり〉
一 書物草紙之類是又新規ニ仕立候儀無用、但不叶事候ハヽ、奉行所え相伺候上可申付候、尤当分之儀
早速一枚絵等に令板行、商売可為無用候、
右之品々、有来物にても、最初ハ其仕形之品軽ク候ても段々仕方を替、花美をつくし潤色を加へ、甚費
なる儀に成候間、最初之質朴を用候様ニ可仕候、但御役筋之儀ニ付て之儀にてハ無之候、見せ物等之儀
ハ新規之事不致候てハ如何候間、此段ハ可為格別事〟
〈新規出版の禁止令である。この「草紙類」とは「八文字屋本」などの「浮世草子」をいうのであろうか。また当今の
事柄を直ちに板行する「一枚絵」とはどのようなものをいうのであろうか。山東京伝の『骨董集』(文化十年(1813)
成る)に〝板行の一枚絵は延宝天和の比始れる歟。朝比奈と鬼の首引、土佐浄瑠璃の絵、鼠の嫁入り。芝居の絵は坊
主小兵衛をゑがけるなど、其始なるべし〟というくだりがある。また享保の頃の一枚絵を売る若衆の図も引用されて
いる。その図の中に「風流紅彩色姿絵」「吉原」の文字が見え、若衆が棒に吊し売る絵柄も遊女になっている。触書
にいう「一枚絵」はこうした役者絵や遊女絵の一枚絵をいうのであろう〉
臙脂絵売(べにゑうり)(山東京伝著『骨董集』所収)
◯ 七月〔『御触書寛保集成』p1017(触書番号2092)〕
〝今度諸色新規仕出し申間敷旨、御折紙御書付之通被仰出候間、堅相守可申候、就夫、右諸色并書籍仮名
草子て至迄、世上之為にも成候儀、新規ニ仕出し度事も有之候歟、又は京都、大坂其外所々より新規之
品差越候ハヽ、少分之物たり共、自今奉行所え訴出、差図を請、商売可仕候、縦何方より誂候共、諸色
新規之類ハ、右同前に相心得可申事、
附、只今迄有来物ニ候共、前々より一通りニて事済候儀を、彼是物数寄を致候類品多ク有之由、自今
は吟味之上、段々相止させ申ニて可有之候間、兼て其旨相心得可申候
一 時之雑説或は人之噂を板行いたし、猥ニ触売候儀自今一切可為無用候、相背候之もの有之ハ召捕、
先々遂吟味、板行いたし候もの迄急度可申付事、
右、自今堅く相守可申候、名主、家主、五人組遂吟味、相背候もの有之は、早々可申出候、若其通ニ仕
置、後日ニ相知レ候共、当人は勿論、名主、家主、五人組迄越度可申付候〟
〈新規出版の禁止に加えて、京・大坂等から送られてくる新刊本についても、必ず奉行所に申し出てその差図に従うよ
うにという通達である。「仮名草子」とあるが、これは現在云うところの「浮世草子」のことだろう。また「時之雑
説云々」は「触れ売る」とあるから、いわゆる「かわら版(読売)」に対する禁止令であろう。なお、頴原退蔵氏の
「「うきよ」名義考」によると、「浮世草子」の名称が登場するのは宝永四年(1707)からという。しかし、触書上で
この名称が使われた形跡はない。お上は「浮世」という言葉に付着する色と金といった極めて世俗的なイメージを嫌
ったものと思われる〉
◯ 閏七月〔『撰要類集』第三「新規物并書物類之部」p50〕
(これは触書ではなく、町奉行・中山出雲守と大岡越前守の連名で老中に提出した覚書で、触書の原案に
あたるもの)
〝一 狂言本并浄瑠璃本
右芝居ニて狂言ニいたし候事、浄瑠璃座ニてあやつりニいたし候事を、其儘板行いたし候儀ハ不苦候
事
一 慰本
右狂言にも不致儀を狂言之様ニ作成し、筋なき事を草紙に綴り、二三冊或は四五冊物ニいたし、近来
京都より差下し、江戸ニても綴り申候、此等之類、向後無用にいたし、若京都より差出シ候歟、新規
ニ致板行候ハヽ、奉行所え可訴出事
一 子共翫之くさ双紙并一枚絵
右子共翫一通ニいたし候草紙、又ハ人形、草花之類、一枚絵、半切等に板行いたし候儀ハ不苦候事
一 読売
右当前世上ニ有之儀、又ハ小歌、時行事板行いたし候儀ハ勿論、読売いたし候事、自今一切御停止之
旨被仰付、若御触以後読売等いたし候もの有之ハヽ、召捕候て可致吟味候事、右之通書物屋并絵草紙
屋え可申聞哉
以上 中山出雲守
享保六年丑閏七月 大岡越前守〟
〈芝居狂言や人形浄瑠璃で上演されたものをそのまま板行する場合はお構いなし、これはいわゆる「絵入り狂言本」と
呼ばれるものであろう。しかし上演されてないものを狂言仕立にした草紙については今後禁止、読売は出版も販売も
一切厳禁と、前記七月の触書と同じである。ただ、子供向けの草双紙や一枚絵はお構いなしという、江戸の地本問屋
向けの一条が加わっている。この草双紙はいわゆる「赤本」であろうが、子供の翫ぶ一枚絵とはどんなものをいうの
であろうか。ともあれ、地本問屋も書物問屋同様、町奉行の視野の中に現れ、規制の対象に入ったのである〉
◯ 八月三日〔『撰要類集』第三「新規物并書物類之部」p53〕
(これも町奉行・中山出雲守と大岡越前守の覚書。御側用人有馬兵庫頭経由で老中に宛てた上申書である)
〝 覚
新規ニ仕出シ侯諸色、此度御停止ニ被仰付候ニ付、面立候商売物之内、世話役申付侯儀、諸色新規ニ仕
出シ候えは、其砌多ク世上ニ取扱候間、左様之節、右世話役之者差留メ、不用之者をは奉行所え訴出候
様ニ可仕、致し方相談仕候処、左之通二御座候
(貼り紙あり。その文面は「此世話役と申儀は出来不申候」となっている)
呉服屋
菓子屋
諸道具塗物屋
小間物屋
書物屋
右商売仕候者之内、世話役弐三人宛可申付候、然共請合候て、情ニ入相勤可申哉、其段難計奉存候
一 右世話役之者と別ニ相極り侯ては、世話役之者ニ計、万事打任せ置可申哉、縦隠シ売仕候もの、又
ハ新規之もの売出し候ても世話役之者えハ、遅く相知れ候儀も可有御座哉と奉存候
一 年寄共申候は、唯今迄商売体ニより、仲ケ間を定置候儀も御座候間、自今弥申合、相互ニ吟味仕、
新規之品相知らへ、自然左様之筋も御座候ハゝ、早速訴候様ニ仕、尤仲ヶ間之内にて、月行事弐三人
も相定【此所下ケ札 此月事ハ代りニ仕候】相糺し候ハヽ、切々仲ヶ間寄合等不仕候ても相済可申候、
乍然商売体により、唯今仲ヶ間を相定置不申候も御座候間、自今仲ヶ間を相定、改様右之通ニ仕候ハ
ヽ、結句〆リ可申哉、若新規之品商売仕候ニおゐてハ、仲ヶ間之者不念申付候ハヽ、互ニ吟味可仕儀
と奉存候
一 右商売人共ニも相尋候処、仲ヶ間ニて相互ニ吟味可仕旨申候
草双紙屋 絵草紙屋
右之問屋共え世話役申付、自今新規之板行物仕候節は、右之問屋共方え参、写本を見せ、子共持遊ひ
一通り之儀御座候歟、又ハ浄瑠璃本、狂言番附之類ハ、右問屋共ニ極判仕候様ニ申付、若紛敷事も御
座候ハヽ、問屋共より相糺し、奉行所え訴、差図を請候様ニ可仕候、尤判賃問屋共え為出可申候
一 只今迄有来候子供持遊び一通之類、浄瑠璃本、狂言番附之類ニは、右古板木ニ極メ判此度為仕可申
候、右之通致し方奉伺候、
以上
享保六年丑八月 中山出雲守
大岡越前守
右之書付、丑八月三日、有馬兵庫殿え、同日中山出雲守より上る〟
〈江戸の書物問屋の仲間結成と世話役(行事)による検閲に関する覚え書である。物の本(和漢の学問書や医学書)を
扱う書物問屋だけでなく、草双紙屋と絵草紙屋に対しても、世話役を設けて新規出版のものはその検閲を受けるよう
にというのである。そしてこの構想に関連して、八月二十三日には次のような具体案が、御側用人有馬兵庫頭に上が
っている〉
◯ 八月二十三日〔『撰要類集』第三「新規物并書物類之部」p55〕
〝唯今迄江戸商売人方ニ有之候双紙、壱枚絵、并自今新規ニ出候新板之草紙、壱枚絵、問屋とも吟味之上、
商売いたし不苦分、新古共、双紙ハ外題紙之所に極判仕、一枚絵ハ見合絵之障リに不成所え極判為仕可
申候〟
〈行事が改(アラタメ)(検閲)をして問題ないものについては、改印を押すというもの。草双紙は外題紙の処に、一枚絵に
ついては絵の障りにならないところと、なかなか具体的な提案であった。これらを踏まえて、十一月、次のような町
触れが出た〉
◯ 十一月〔『御触書集成』p1019(触書番号2096)〕
〝今度被仰出候呉服物、諸道具、書物類ハ不及申、諸商売物菓子類ニても、新規之事御停止之儀、先達て
申渡候通ニ候、就夫、諸色商売之者共仲ヶ間を究メ、月行事を相定、新規之品若拵出シ候ハゝ、互致吟
味、新規之品も有之は、相止させ可申候、万一子細も候ハゝ、可訴出候
但、新書物之儀は追て可申聞候
一 京都、大坂其外所々より心得違、新規之物差越侯ハゝ、元々え相返し、無拠子細も候ハゝ、是又可
訴出候、右之通仲ケ間を究メ、月行事を定メ、互ニ致吟昧侯上、自然新規之物も有之、隠シ売仕、後
日相知侯共、其商売一組之仲ケ間之もの、不吟昧之筋を以、急度過怠可申付候、月行事之者、別て入
念相糺し、違犯無之様ニ可仕候〟
〈八月、町奉行、中山出雲守と大岡越前守によって提案されたもののうち、商売仲間を作り世話役(月行事)を定めて、
新規のものを取り締まらせるという案は制度化されたが、草双紙や一枚絵の改印については見送られたのである。では
この制度、実際のところどの程度機能したのであろうか。今田洋三著『江戸の本屋さん』によると、この時仲間が結成
されたのは、物の本を扱う書物問屋であって、一枚絵や草双紙を扱う地本問屋の方の結成はずっと遅く寛政期に入って
からとある。また、世話役(行事)を設ける件にしても、寛政二年十一月十九日付の触書に〝壱枚絵草紙問屋共、是迄
行事無之ニ付、以来両人ツヽ行事相定候様申渡候〟〔『江戸町触集成』第九巻 p68・触書番号9624〕とあるから、
改印同様、この時点では見送られたのである。してみると、この年の出版統制令、地本問屋に限っては、これまで通り
で支障なしであったようだ。中山・大岡の町奉行によって検討された草双紙・一枚絵対策、行事による改(アラタメ)めが実
行されるのは、寛政二年(1790)以降である。
ところで、両町奉行連名の覚書に「草双紙屋」と「絵草紙屋」とあるが、この二つはどう違うのだろうか。「草双紙屋」
の方は、上記閏七月の覚書をみると〝子供向けの草双紙〟とあるから、当時子供向けとされた「赤本」などを取り扱う
のだろう。では「絵草紙屋」は何を扱うのはであろうか。やはり上記閏七月の覚書、「読売」のくだりに「当前世上ニ
有之儀、又ハ小歌、時行事板行いたし候儀ハ勿論、読売いたし候事、自今一切御停止之旨被仰付、若御触以後読売等い
たし候もの有之ハヽ、召捕候て可致吟味候事、右之通書物屋并絵草紙屋え可申聞哉」などとあること、またすこし時代
はさかのぼるが、元禄三年(1690)刊『人倫訓蒙図彙』の「絵双紙売」項目の「世上にあらゆるかはつたる沙汰、人の身
の上の悪事、万人のさし合をかへりみず、小哥につくり浄瑠璃に節付てつれぶしにてよみたる也、愚なる男女老若の分
(ワカチ)なく辰巳(タツミ)あがりのそゝり者、是をかい取て楽(タノシミ)となす、誠に游民のしわざ、なきに事かゝぬ商人也」と
いう記事を参考にすると、この頃の町奉行のいう「絵草紙屋」とは「絵双紙売(読売)」と指すものと思われる〉
☆ 享保七年(1722)
◯ 十一月〔『江戸町触集成』第四巻 p131(触書番号5827)〕
〝一 自今新板書物之儀、儒書仏書神書医書歌書都て書物類、其筋一通り之事ハ格別、猥成儀異説等を取
交え作り出し候儀、堅く可為無用事
一 只今迄有来候板行物之内、好色本之類ハ風俗之為にもよろしからざる儀ニ候間、段々相改、絶板可
仕事
一 人之家筋先祖之事抔を、彼是相違之儀共、新作之書物書顕、世上致流布候儀有之候、右之段自今御
停止ニ候、若右之類有之、其子孫より訴出候ニおゐてハ、急度御吟味有之筈ニ候事
一 何書物ニよらず、此以後新板之物、作者并板元之実名、奥書に為致可申候事
一 権現様の儀ハ勿論、惣て御当家之御事板行書本、自今無用可為候、無拠仔細有之ハ奉行所え訴出、
指図を請可申事
右之趣を以、自今新作之書物出候共、遂吟味、可致商売候、若右定ニ背候者有之ハ、奉行所え可訴出候、
数年を経相知候共、其板元問屋共急度可申付候、仲ヶ間致吟味、違犯無之様可相心得候〟
〈これがこれから以降、出版に関する基本法令となってゆく。猥褻なものや異説を取り交えたものの禁止。好色本は風
俗に拘わるので絶板処分。他家の家柄や先祖に関する書物は停止。すべての新板書物は作者名・板元名を明記するこ
と。徳川家康に関する書は勿論、徳川家に関するものも一切禁止。なお、ここに云う好色本とは、具体的には江島
其磧の「八文字屋本」など、いわゆる「浮世草子」をいうのであろうか〉
◯ 十二月十日〔『江戸町触集成』第四巻 p138(触書番号5835)〕
〝一 当前世上ニ有之無筋噂事并男女申合相果候類を心中と申触、板行致し読売候儀、前々より御停止之
所ニ、此間猥ニ売あるき候段相聞、不届ニ候、自今捕方之者相廻召捕、急度曲事可申付候、ヶ様之
類之者見当次第、其町々ニても捕置、月番之番所え可申来候、若見遁にいたし、捕方之者召取候ハ
ゝ、其町々名主月行事まで越度可申付候間、此旨可相守者也〟
〈これは心中ものを記事にした「読売」に対する取締令である〉
☆ 享保八年(1723)
◯ 二月十九日〔『江戸町触集成』第四巻 p145(触書番号5849)〕
〝葵御紋付之儀、衣類諸道具ハ不及申、守袋、鼻紙袋、たばこ入、楊枝指、櫛笄其外何ニても、御紋付候
品、其侭ニて一切所持不仕様、町々え急度可申渡旨、樽屋藤左衞門殿年番名主へ被申渡候〟
〈葵の御紋使用禁止の御触書は、これに先だって二月上旬にも出されている。ただ、それには但し書きがあって〝御三
家并御紋御免之大名より誂候ハ格別候〟とあり、尾張・紀州・水戸の徳川御三家と御紋を許された大名からの注文は
お構い無しであった〉
◯ 二月二十日〔『江戸町触集成』第四巻 p145(触書番号5850)〕
〝男女申合ニて相果候者之儀、自今ハ死骸取捨、一方存命候ハヽ下手人申付、尤死骸弔候事停止可付候、
且又双方存命候ハヽ、三日さらし候上、非人手下ニ可申付候事
一 惣て此類、絵草紙并かふき狂言ニ作候事、堅仕間敷候、若相背候ハヽ急度可申付事〟
〈心中を絵草紙や歌舞伎狂言にすることを禁じたものだが、ここに云う絵草紙とは読売のことである。元禄三年(1690)
刊『人倫訓蒙図彙』から「絵双紙売」を引いておく。「世上にあらゆるかはつたる沙汰、人の身の上の悪事、万人の
さし合をかへりみず、小哥につくり浄瑠璃に節付てつれぶしにてよみたる也、愚なる男女老若の分(ワカチ)なく辰巳(タ
ツミ)あがりのそゝり者、是をかい取て楽(タノシミ)となす、誠に游民のしわざ、なきに事かゝぬ商人也」とあり、絵草紙
の作り手に対しても買い求める層に対しても、その評判は宜しいものではない〉
『人倫訓蒙図彙』「絵双紙売」蒔絵師源三郎画(京都大学附属図書館「貴重資料画像」)
☆ 享保十五年(1730)
◯ 二月四日〔『江戸町触集成』第四巻 p319(触書番号6146)〕
〝 奈良屋ニて町中名主え被申渡
一 道中双六其外右筋之双六ニて銭かけ置、取やり致候事、畢竟博奕同前ニ付、今度御停止被仰付候、
依之筋悪敷双六之類絶版被仰付、絵双六ハ御取上ニ相成候、右ニ付町々ニ双六類板行致候もの并絵双
六請売等致候者有之候ハゝ、明五日板行絵双六共ニ不残、同所え差出可申候、無之町々ハ其断書、明
後六日同所え月行事可致持参旨被申渡候〟
〈奈良屋は江戸の町年寄三家の筆頭。天保五年から館市右衛門と改称した。この絵双六の出版禁止令は博奕禁止の一
環として出されたもの〉
☆ 享保二十年(1765)
◯ 五月〔『御触書寛保集成』p995(触書番号2026)〕
〝軽キかな本等之類、只今迄之通、権現様奉始、御代々様、御名御噂事、御身之上之儀、御物語等之類、
都て書入申間敷候〟
〈「軽キかな本」とはどのような本をさすのであろうか〉
☆ 寛政二年(1790)
◯ 五月〔『御触書天保集成』下809(触書番号6417)〕
〝書物草紙之類、新規ニ仕立候義無用、但不叶事ニ候ハヽ、相伺候上可申付候、尤当分之儀早速壱枚絵等
ニ令板行商売可為無用候、右之品々有来物ニても、最初は其仕方之品軽候ても、段々仕形を替、花美を
尽し、潤色を加へ、甚費成儀ニ成候間、最初之質朴を用候様可致候、且新板書物其筋一通之事は格別、
猥成儀異説を取交作り出候儀、堅可為無用候、只今迄有来候板行物之内、好色本の類は、風俗之為ニも
よろしからざるニ付、段々相改、絶板可致、又は書物ニよらず、以後新板之物作者并板元之実名奥書ニ
致可申旨、其外品々享保年中相触候処、いつとなく相ゆるミ、無用之書物作出、令板行、并子供持遊草
紙絵本類ニ至迄、年々無益ニ手を込メ、高直ニ仕立、甚費成事ニ候間、前々相触通弥相守、猶又左之趣
ニ可相心得候、
一 書物類古来より有来通ニ事済候間、自今新規ニ作出申間敷候。若無拠儀ニ候ハヽ、奉行所え相伺、
可受差図候
一 近年子供持遊び草紙絵本等、古代之事ニよそへ、不束成儀作出候類相見候、以来無用ニ可致候
但、古来之通質朴ニ仕立、絵様も常体ニいたし、全子供持遊びニ成候様致候儀は不苦候
一 浮説之儀、仮名書写本等ニ致し、見料を取、貸出し候儀致間敷候、
但、浄瑠璃本は制外之事、
一 都て作者不知書物類有之は、商売致間敷候
右之通ニ候間、以来書物屋共相互ニ吟味いたし、触ニ有之品隠候て売買いたし候もの有之は、早速奉行
所え可申出候、若見遁し、聞遁しニ致候置候ハヽ、当人は勿論、仲間之もの迄も咎可申付候、制禁之書
物類、若国々より差越候儀も有之は、是又奉行所え申出、可請差図候〟
〈寛政の改革の一環として出てきた書物および草紙類の新規出版禁止である。禁じたものは、当世のものを一枚絵等に
すること、異説を題材にすること、風俗に拘わる好色本、無用の手を加えた高価なもの、古代を装ってよからぬこと
を作りなす草紙絵本、浮説を写本にして貸し出すこと。義務付けられたのは、華美贅沢にならないよう質朴を守るこ
と。奥書には作者と板元の実名を記すこと。また新規出版の場合は、奉行所へ伺いを立てること等である。無論、杓
子定規に規制するわけではないという。しかし今後、書物・草紙屋は、相互に吟味して禁制の書物類が出回らないよ
う努めること、手許に送られてきた場合は、必ず奉行所へ届け出てその差図を受けるよう命じられた。ここで言う一
枚絵とは明らかに錦絵を指し、また草紙絵本とはいわゆる青本・黄表紙などをいう。(子供持ち遊びとなっているが、
朋誠堂喜三二作、喜多川行麿画の黄表紙『文武二道万石通』などは、寛政改革を諷刺したとされ、当時は大人の読む
にたえる草双紙になっていた)つまり江戸生まれの錦絵や草双紙が初めて触書に登場したのである。このことは、浮
世絵が、当局の視野の中に、もはや無視できないものとして入ってきたことを物語るのであろう。ところで、この取
締り方針は基本的には享保七年十一月の触書を踏襲している。こうした前例踏襲はこれ以降も繰り返され、次の天保
改革の時にもやはり同様に、この通達を含めた寛政改革時の規制がそのまま引き継がれている〉
◯ 十月二十七日〔『【未刊史料による】日本出版文化』第三巻『江戸町奉行と本屋仲間』
「第五章 錦絵地本問屋仲間と板木仲間」〕
〝寛政二戊年十月廿七日初鹿野河内守様御番所ニ被仰渡
一 其方共儀草双紙、壱枚絵等商売致来候処、毎々より仲間行事ハ不相立候旨ニ付、己来行事二人宛相
立商売筋取締可致候
右之通被二仰渡奉畏侯、仍て如件
寛政二戊年十月廿七日〟
〈初鹿野河内守は当時の北町奉行。今まで行事を制度化してこなかった地本問屋に対して、今後は二名の仲間行事を立
てるよう命じた。行事に改(アラタメ)(検閲)させて取締りを強化しようというのである〉
「諸問屋名前帳」地本問屋名
〔『【未刊史料による】日本出版文化』第三巻・『江戸町奉行と本屋仲間』「第五章 錦絵地本問屋仲間と板木仲間」〕
◯ 十月〔『御触書天保集成』下810(触書番号6418)〕
〝書物類之儀、前々より厳重ニ申渡候処、いつとなく猥ニ相成候、何ニよらず行事改之絵本草双紙之類迄
も、風俗之為ニ不相成、猥りがはしき事等勿論無用ニ候、壱枚絵之類は、画のミニ候ハヽ、大概は不苦
候、尤言葉書等有之候ハヽ、能々改之、いかゞなる品々は板行ニいたさせ申間敷候、右ニ付、行事之改
を不用もの候ハヽ、早々可訴候、又改方不行届か、或は改ニ洩候儀候ハヽ、行事も越度たるべく候、
右之通相心得可申候、尤享保年中申渡置候趣も、猶又書付候て相渡候間、此度申渡候儀等相含、改可申
候〟
〈地本問屋の行事に対して絵本草双紙への改(アラタメ)(検閲)を一層徹底するよう求めたものである。一枚絵の方は、絵
のみであれば問題なし、しかし言葉書きがある場合は、十分に検閲して疑わしいものは版行禁止。改を受けないもの
があれば看過せず訴え出ること。また改に不行き届きや洩れがあれば、行事に責任が及ぶというのである〉
◯ 十一月十九日〔『江戸町触集成』第九巻 p68(触書番号9624)〕
〝書物之義は前々より厳重ニ申渡置候処、いつと無猥ニ相成候ニ付、此度書物屋共并壱枚絵草紙問屋共え
改之義申渡、且壱枚絵草紙問屋共、是迄行事無之ニ付、以来両人ツヽ行事相定候様申渡候処、右書物屋
共之外ニ、貸本屋世利本屋と唱、書物類致商売候者有之、壱枚絵双紙問屋之外ニも同様之商売致し候者
有之候趣ニ候間、前書之書物屋共草双紙屋え此度申渡候趣相心得、以来新板之書物同断、草双紙壱枚絵
之類取扱候節は、書物屋共并草双紙屋之内行事共え其品差出、改受候上商売致、猥成義無之様可致候、
尤素人より壱枚絵草双紙時之雑説等板行致候を買取商売致候義、堅致間敷候、若相背候者有之候ハヽ、
急度可申付候、右之通不洩様可相觸候
戌十一月十九日〟
〈一枚絵草双紙問屋(地本問屋)の出版物は今度制度化された仲間行事二名で改(アラタメ)(検閲)を行うこと。また最近、
地本問屋同様の商売をしている貸本屋や世利(セリ)本屋(糴(セリ)売りの本屋=行商の本屋)も、同様に行事の改を受け
るよう命じた。地本問屋の草双紙・一枚絵が検閲の対象となったことは、それらの市民に対する影響力が看過できな
いレベルになっていることを示すのであろう。また貸本屋・世利(糶)本屋などの動向も幕府には気になりだしたので
ある。いずれにせよ幕府は江戸市民が興ずる出版物をコントロールしようというのである。ところでこの触書と同じ
文書が『徳川禁令考』にあるのだが内容に違いがあるので、次に載せておく〉
〔『徳川禁令考』「諸商勧業及濫資征権法度」(文書番号2948)〕
〝(上略)
貸本屋世利本屋と唱、書物類商売致し候者有之、壱枚絵双紙問屋之外ニも同様之商売致し候者有之候
趣ニ候間、前書物屋共草双紙屋共え、此度申渡候趣相心得、以来新板之書物同断、草双紙壱枚絵之類
取扱候節、書物屋并草双紙屋之内、行事共え其品差出之儀堅致間敷、若相背候者有之候ハゝ、急度申
付候事〟
〈こちらでは貸本屋や糴売りの品は地本問屋の行事に差し出すことを禁じている。行事が改(アラタメ)(検閲)を受け付け
ないということは、一枚絵や草双紙の新規出版は地本問屋以外には認めないということになる。どうしてこんな違い
があるのか分からない。ただ糴売りが板元に企画を持ち込んで制作を依頼するといった例もあるから、表向き地本問
屋以外の新規出版は認めないというのも肯ける。(天保十三年七月頃の「川中嶋合戦大錦絵三枚続」の件参照)〉
☆ 寛政三年(1791)
◯ 二月〔『【未刊史料による】日本出版文化』第三巻
『江戸町奉行と本屋仲間』「史料編 諸問屋名前帳」〕
〈この書付は嘉永四年三月の「団扇問屋名前帳」の冒頭にあったもの〉
〝寛政三亥年二月被仰渡候私共商売体団扇絵之儀、以来新板もの猥成異説、時々雑説、又は当前世上ニ有
之無筋之噂事、其外男女風俗ニ拘(カカワル)如何敷(イカガワシキ)儀等絵板行類不致、是迄仕来之外新規ニ花美
之儀致間敷趣、弥以相守、絵柄等是迄之通絵双紙懸名主中え差出改請実直ニ渡世可仕候〟
〈前年十一月の地本問屋に続く団扇問屋への出版統制令である。但し「絵柄等是迄之通絵双紙懸名主中え差出改請」の
件(クダリ)は、この書付の年月、嘉永四年三月時点のもの。新板絵入読本類の改(アラタメ)懸り名主が任命されたのは文
化四年(1807)からである。なお「史料編 諸問屋名前帳」に団扇問屋名前帳はない〉
☆ 寛政五年(1793)
◯ 八月六日〔『江戸町触集成』第九巻 p323(触書番号9977)〕
〝重キ御役人御替有之候ハゝ、最早宜敷抔と心得違仕、如何成絵草紙類巧ニ拵出候事致間敷、且又紺此節
相摺之如何識一枚絵抔摺出候分相見候処、右奉行所より御沙汰有之申渡候ニてハ無之、此方共心得ヲ以
申渡置候段、板木屋絵草紙屋問屋行事共え申渡候間、此段為心得申渡候、組合えも申通候様可致事
八月六日〟
〈松平定信の老中職解任は七月二十二日、「重キ御役人御替有之」とはそれをさすのであろう。確かに定信は去った。
しかし定信派は依然として幕政の中心にいた。もう宜しいだろうというような心得違いや心の緩みを牽制したのであ
る〉
◯ 八月十三日〔『江戸町触集成』第九巻 p326(触書番号9982)〕
〝 奈良屋市右衛門殿ニて年番名主え申渡
近頃世間之噂事又は火事之節類焼場所付抔、売歩行候者間々有之処、右之板木は板木屋共ニて彫不申、
仲間外ニて彫板行仕立、本屋仲間改印も不請売歩行候段不埒之至り候、向後板木屋家業望之者共仲ヶ間
加入致、仲間之申合ヲ相守渡世可致候、若相背仲ヶ間外ニて猥ニ板行彫立売歩行候者は急度可申付候右
之趣従町御奉行所被仰渡候間、組合町々不洩様早々可申通事
八月十三日〟
〈奈良屋市右衛門は町年寄。世間の噂や火事の被害状況を報ずる類焼場所付、いわゆる「かわら版」には、これまで町
奉行の目が十分に及んでいなかったようである。今後は、本屋仲間に加入させてコントロール下に置こうというので
ある〉
◯ 八月二十三日〔『江戸町触集成』第九巻 p327(触書番号9987)〕
〝 申合
如何敷絵草紙類たくみ拵出候事致間敷候、并如何敷紅摺壱枚絵抔摺出し候義、若御奉行様より御沙汰有
之候ては如何ニ付、町年寄衆心得ヲ以板木屋絵草紙屋共え申渡も有之段、当月六日奈良屋市右衛門殿南
北年番え被申渡候所、今以右躰之紅絵商売候者有之哉ニ相見、右は一躰之風義と相抱り不宜義ニ付、絵
草紙之類取拵候者共、当時流行之如何敷紅絵不売出候様相心得可然事
右之通御組合御同役え早々可被仰通候、以上
丑八月廿三日 月番肝煎〟
〈これは八月六日のお触れのさらなる徹底を図ったもの。紅摺・紅絵とあるが、これは錦絵出現以前の紅絵・紅摺と同
じものなのであろうか、判然としない〉
☆ 寛政七年(1795) 春画摘発
◯ 九月晦日〔『江戸町触集成』第十巻 p45(触書番号10266)〕
〝先達て取調候絵双紙問屋之内、番ひ(ツカヒ)絵并板木共今日取集、当人為立合、絵并双紙分水腐致、板木
分削落相渡候、先相済候得共、右ハ度々被仰渡も有之、猶以厳敷相咎候も可在之儀ニ候間、急度相心得、
此上右躰之絵類聊ニても仕出し取扱等致間敷候、且又婦人絵之内、尾籠之躰を画候絵柄も在之、是迚も
追々致増長候てハ御咎可在御座義ニ付、已来右躰之絵柄仕出并取扱申間敷候、此分先達て改置候分、今
日反古ニいたし銘々相渡候事
右之外錦絵之分、先年より追々高情(ママ)ニ相成、直段相増候間、錦絵壱枚廿銭已上之品摺立有之分、其
外所持之分画数銘々書出置、其数限売払、此上売直段壱枚十六文十八文已上之品致無用候様、相心得候
様可申付候
右之通申談候間、右両様共御承知之上、猶又御心付御取計ひ、廿銭已上有来画数御組合限為御書出、其
品限売払候段御聞届可被成候
寛政七年卯九月晦日〟
〈「番ひ絵」とは枕絵(春画)のこと。絵と双紙は水に漬けて処分、そしてその板木は削り落しになった。また「婦人
絵之内尾籠之躰を画候絵柄」の方は反故処分、つまり売り物にならないようにされた。ところで「尾籠之躰を画候絵
柄」とは猥褻な絵柄という意味だろうが、枕絵でないとすればどのような美人画を指すのでのであろうか。いずれも
今後取り扱わないように警告したのだが、寛政十二年八月の触書をみると、「男女たわむれ居候体之一枚絵見世売等
ニ致、如何ニ付差留候所今以同様之品売出、不埒之至ニ候」というくだりもあるから、依然として出回っていたので
ある。さて、錦絵の売値についても通達があり、一枚の二十文以上の錦絵は在庫限り、今後は一枚十六文から十八文
までの直段設定とし、それ以上は無用だとしたのである〉
☆ 寛政八年(1796) 女の一枚絵取り締まり
◯ 八月十四日〔『江戸町触集成』第十巻 p86(触書番号10343)〕
〝絵草紙類之儀ニ付、前々申渡候趣有之所、四年以前丑年、如何敷一枚絵摺出し候儀相聞、其節町年寄共
心付ヶ申渡候品も有之、一枚絵之内女之名前等有之分は、名前を削取候筈ニ相成候処、又々女一枚絵之
上、名前を絵様ニ認売買致候由相聞候、肝煎名主共之吟味行届候ハゝ、右躰之儀は有之間敷儀ニて、不
言ニ相聞候間、女一枚絵之上ニ名前を絵様ニ認候分は、早々削取売買可為致候、以来町方女芸者其外茶
屋女等之名前ヲ顕候儀は勿論、絵様抔ニ認候類之儀も有之候ハゝ、当人は勿論、名主共迄も急度可申付
候、尤遊女之儀は不苦候、且又直段之儀次第ニ高直ニ相成候ニ付、一枚廿文以上摺立有之分は、其品限
り為売払、此上売直段一枚十六文拾八文以上之品は可為無用旨、去年九月中申渡候処、其頃仕込置候廿
文以上之分は、最早此節迄は可売仕廻儀、若売銭有之候迚も、際限は無之候間、以来は一枚十八文より
高直成品、決て売出間敷候、若心得違、右直段より高直ニ売候もの有之候ハゝ、急度可申渡候
右之趣商売人共え其方共より申渡、外名主共え不洩様可申通候
右之通被仰渡奉畏候、仍如件
辰八月十四日〟
〈「四年以前丑年」は寛政五年(1793)。この年、女の一枚絵が出回ったとき、名前入りのものは名前を削り取って売り
だすよう通達が出されたようである。今度はその禁じられた名前を判じ絵にした女絵の登場である。これまた判じ絵
を板木から削って販売すること、もし違犯した場合、女芸者・茶屋女本人は勿論、名主にまで罪科が及ぶとする通達
である。但し遊女の場合はなぜか「不苦候」と例外扱いにしている。また一枚絵の値段についても、昨年寛政七年九
月の通達を再確認している〉
☆ 寛政十一年(1799) 千社札・華美なる一枚絵・大小(暦)取り締まり強化
◯ 七月二十一日〔『江戸町触集成』第十巻 p339(触書番号10728)〕
〝近頃神社仏閣え千社参と唱、講中抔を極申合参詣致、札を張歩行候もの有之由、神仏を尊信致候迚も、
講中抔を立、茶屋抔え寄合、千社参詣之札を為取替、右之内ニは世話人等有之、右講中之者より銭抔取
集、手広千社之札を張候ヲ名聞之様ニ心得候者も有之由、宜からぬ事ニ候、右類之義は無之様、町役人
共より堅相制、向後心得違之もの有之ハ、其段早々奉行所え可申立候〟
〈千社札に関する関連記事は本HP「浮世絵用語」所収の「千社札」を参照〉
◯ 十二月二十五日〔『江戸町触集成』第十巻 p371(触書番号10786)〕
〝花美成壱枚絵并大小を翫ニ拵候板行、右之品板木彫刻候者、書もの屋草双紙 屋其外商売人より誂候も、
素人より誂候も、其名前相認、下絵ニ彩色を加へ、摺上候形ニ致、右下絵を以、御奉行所様え其度々訴
出、御一覧相済候上ニて彫刻可致候、已来無伺彫刻致間鋪候〟
〈大小とは、大の月・小の月を配した絵柄を摺物にして配ったもの。鈴木春信の錦絵はこの大小の制作に興ずる中から
生まれてきた。この触書は板木師宛に出されたもので、一枚絵及び大小の彫り注文を受けた場合、注文主が商売人か
素人かを問わず、すべからく下絵に彩色を加え、摺り上がりの状態が分かるようにして奉行所へ差し出し、その許可
を受けた上で彫刻せよというのである。幕府は大小という好事家の私的な出版まで統制下に置こうというのである。
なおこれ以降、大小に関する触書は、寛政十二年(1800)、文化十一年(1814)に出ている〉
◯ 十二月二十六日〔『江戸町触集成』第十巻 p372(触書番号10786)〕
〝来春売出し候壱枚絵 并大小之類、当時摺出来有之分、未板行ニ取り掛り居候分共不残御奉行え差上、御
下知請可申旨被仰渡候、尤書物屋地本問屋板木屋等は仲間も相立有之義故、壱人別ニ差上候ては混雑致
シ可申ニ付、此分は仲間之内行事共え取集、一手ニ御伺奏申上候得共、其外仲間ニも不加右渡世致候も
の、且素人ニて大小之板行を拵候分も有之由ニ付、是等之儀相洩候ては如何ニ付、一統不洩様名主支配
限取調御伺申上候様、尚又樽御役所ニて被仰渡候ニ付、此段御達申候、已上
壱二四番組 肝煎〟
〈これは前日の奉行所からの通達を受けて、名主がその対応を示したもの。来春売り出す一枚絵・大小、摺り上がった
ものも未だ板行に至っていない分もすべて奉行所へ差し出し、その指示に従えという通達である。もっとも書物屋・
地本問屋・板木屋等については、個別に差し出しては甚だ混雑するので、仲間内の行事のもとに集めたうえ一括して
伺いをたてよというのである。また仲間に入っていない素人の出版については、名主が取り調べて伺いをたてよとい
うのである。樽御役所とは町年寄・樽与左衞門の役所〉
☆ 寛政十二年(1800) 二月、一枚絵・大小(暦)の改掛りとして四名の肝煎名主が任命される
◯ 正月十一日〔『江戸町触集成』第十巻 p376(触書番号10795)〕
〝 以書付申上候
旧臘廿五日花美成壱枚絵并大小翫拵候板行、右之品板木彫刻候もの、書物屋絵双紙屋其外商売人より誂
候者、素人より誂候も其名前相認、下絵ニ彩色を加へ摺立候形に致シ、右下絵ヲ以御奉行所え其都度々
御訴申上、御下知請彫刻可仕旨御役所ニて被仰渡候所、旧蝋之儀は及月迫当春売出候壱枚絵并絵双紙大
小之絵類、商売人は勿論素人より誂置候分、過半板行も出来、銘々奉伺候ては結句混雑も可仕趣ニ付、
絵双紙屋并板木屋共義も、内々は最寄ニて仲間も相極有之候ニ付、右仲間行事共より一手ニ御番所え御
伺ニ罷出、御下知奉請候、尤已来之儀は銘々当人共より直々御伺ニ罷出候様仕度奉存候、且又右御伺ニ
罷出候儀は、時々数多有之故、町役人共罷出候様ニてハ迷惑仕候儀も可有御座ニ付、当人ニ家主壱人差
添、御月番之御番所え斗罷出候様、御手軽ニ被成下候ハヽ一統難有奉存候、此段御聞済被成下候様仕度
申上候、已上
申正月十一日 南北小口肝煎名主共
樽御役所
右旧臘被仰渡候絵双紙類伺之儀ニ付、絵双紙屋并板木屋共より申聞候義も有之候間、前書伺書樽与左衞
門殿え差出候所、今日拙者共御同所え御呼、書面之通以来銘々当人ニ家主差添、御月番御番所え斗伺ニ
罷出候様、尤当人家主ニ候ハヽ、五人組壱人差添可罷出旨被申渡候間、此段御達申候
(中略)
正月廿一日 組合肝煎〟
〈昨年末、板元自身がそれぞれ下絵を持って直接奉行所へ出版の伺い出すよう命じられたが、来春に向けて既に彫りあ
げたものも過半にのぼるし、また個々に伺っては混雑するので、内々仲間行事で極め(検閲)を行い、それを一括し
て奉行町に提出した。しかし今後は年末の通達通り板元自らが奉行所へ伺いをたてねばならない。ところが出版伺い
の件数は大変多いし、その度に町役人(名主)が対応しなければならないとなると、甚だ煩雑である。従って、板元
自身と家主の二人が奉行所に出頭してことが済むようにして頂ければ有り難いと、名主達が町年寄・樽屋を通して奉
行所へ要望したのである。これに対して町奉行は、板元が家主の場合、五人組から一人添えよと付け加えて、要望を
認めた〉
◯ 正月二十一日〔『江戸町触集成』第十巻 p378(触書番号10797)〕
〝先達て度々御達申候一枚絵大小之類、伺之上御差留ニ相成候も有之、且御免之上商ひ候も有之所、右壱
枚絵之内女大絵ニ認候絵類有之、是は強て御差留と申義ニは無之候得共、何と歟目立候絵様ニて先ツハ
如何ニ可有之趣も御沙汰ニ付、以来右躰女の壱枚絵相止させ可然旨、寄々猶又可申合旨樽与左衞門殿御
申聞ニ御座候、右は急度及御達候と申儀ニは無之趣ニ付、此段御差含、御組合限り御取計可被成候右御
達申候、以上
申正月廿一日〟
〈どのような一枚絵が差し止めになったのであろうか。また今回禁止に至らなかったものの、何かと目立つて疑義も生
じた「女大絵」とは何であろうか。下記八月十一日付の触書を見ると「去冬、女面躰を大造ニ画」とあるから大首絵
のことと考えられる。「去冬」寛政十一年末から目立ち始めたようである〉
◯ 二月一日〔『江戸町触集成』第十巻 p382(触書番号10806)〕
〝壱枚絵并翫ニ拵候大小之類、都て出板いたし候分ハ、其都度々御番所え可奉伺旨旧臘被仰渡候ニ付、当
人共直ニ御伺申上候儀ニ御座候、然ル処絵草紙問屋共之儀ハ、前々より内仲間相極、都て絵草紙之儀
ハ毎月両度宛仲ヶ間行事共立合、下絵相改出板仕来候義ニ付、右御伺之儀も右之通月々行事共下改仕候
上、行事共より一手ニ御伺申上候方、却て取締宜御座候間此段御聞済被成下度段、右行事共一同申立候、
勿論是迄之儀も都て仲間改印仕来候ニ付、是又仕来之通仕度、尤素人より誂候歟、其外差掛り候板行は、
一枚限りニも仲間行事より其都度々御伺申上候様仕候、依之此段御聞済奉願上候、以上
申二月朔日 壱弐四番組 肝煎り名主共
樽御役所
右之通昨朔日樽与左衞門殿え伺書差出候処、絵草紙問屋之儀ハ毎月行事より一手に相伺、尤素人より誂
候分、并差掛り候板行は、是又行事より其都度々伺ニ罷出候様、御同所ニて即刻被仰渡候間、此段御達
申候、以上
二月三(ママ)日 一・二・四番組 肝煎〟
〈絵草紙問屋は以前から月二回、仲間行事立ち合いのもと、下絵の改(アラタメ)(検閲)を行っていた。従って、奉行所へ
の出版伺いの方も改に立ち合った行事が一括して行った方が良いのではないかという、名主たちの要望である。これ
は昨年末緊急避難的に行った方法と同じである。正月の要望時になぜこの方法を提案しなかったのかよく分からない
が、ともかく名主に続く、板元及び家主の負担軽減である。これも聞き届けられた。やはり板元自身が個別に奉行所
に伺いを立てるのは、板元はもちろんその都度同行せねばならない家主等にとっても煩雑・迷惑だというのが、本音
なのである。名主側もこの意を汲んで上申したのであろう〉
◯ 三月一日〔『江戸町触集成』第十巻 p386(触書番号10814)〕
〝地本問屋一枚絵并摺物類、壱番組弐番組四番組肝煎懸ニ相成候ハヽ、寛政十二年申年二月廿七日、樽与
左衞門殿南北小口肝煎え被申渡候、一枚絵并摺物之類地本問屋より伺之義ニ付已来取計方之義、右ニ付
壱番組弐番組四番組肝煎ニて申合等有之、右申合等は同三月朔日小船町新道相模屋庄八方ニて寄合之上
取極候由、多田内氏控を借請左ニ留置
当二月廿七日、壱番組二番組四番組肝煎名主并地本問屋行事通旅籠町橋本屋吉兵衛、馬喰町弐丁目西む
ら屋与八、樽与左衞門殿え被相呼、壱枚絵并翫ニ拵候大小之類、都て新ニ出板いたし候絵品、其度々絵
草紙問屋行事共より一手ニ御月番御番所え伺済之上摺出売買仕度趣、当二月樽与左衞門殿え壱番組二番
組四番組肝煎より伺書差出候処、即刻伺之通可致旨被申聞候、然ル処右度々御番所え行事共伺ニ出候て
も、彼是迷惑も可致、且元来翫之品ニも有之、乍併伺ニ不及申訳ニは無之候得共、已来右新板之絵類可
相伺品も有之候ハヽ、先ツ掛り肝煎之内え差出見極を請、肝煎方ニて許容致候程之絵類ハ摺出可申、尤
肝煎ニて難見極類は肝煎より月番町年寄衆え相伺、否は絵双紙問屋え申聞可遣候、尤右一同呼出し有之
候地本問屋行事吉兵衛与八えも、右之趣委細被申渡、且右問屋之外、素人直々ニ何ソ如何敷新板類差出
候ヲ及見聞候ハヽ、先々取調為差留候様、問屋共ニて可取計、乍併此度被仰渡有之取計候抔、御権威ヶ
間敷儀決て無之様、乍去其義は差含勘弁致シ取計可申候
右区々ニ不相成様、掛り肝煎ニて申合候趣、樽与左衞門殿被申聞候事
但、書面一枚絵之内、此節御差留ニ相成候分は不洩様取集メ、地本問屋より差出し、板木削取絶板い
たし候上ハ、已来右之絵売買可致様曾て無之候、乍去差留之外ニも絵類、右ニ準候類も数多相見候ニ
付、若右之絵、見世売致候者共方ニ取錺置候得は、御差留之分、等閑之様ニも重て御沙汰有之候ては
以之外の義ニ付、縦令御差留無之候とも相慎申義ニ付、向後右ニ準し候絵様は望人有之節斗致売買、
平日は見世抔え錺置候義決て不致様、地本問屋より小売之者共方へ申遣、猥無之様申合可被致事
申二月
右之通被申渡候上は、一番組二番組四番組肝煎ニて取計候義ニ付、右三組ニて月番相立、右行事共より
新板下絵を以、月番方迄伺差出候ハヽ、非番両組之肝煎え相廻し、存寄区々ニ候ハヽ寄合ヲ掛評義可申
候、たとへ出板不苦絵品と相見え候共、三組肝煎一同為心得相廻し可申事。
右之通申合候、以上
寛政十二申年三月朔日
(下ヶ札)本文之通絵草紙一枚絵取計候上ハ、板木師迚も同様ニ付、素人より摺物類誂候ハヽ、是又右
板木師より下絵ニ彩色を加え差出、改を請彫刻可致事〟
〈新板の一枚絵・摺物(大小)の改(アラタメ)(検閲)および出版伺いの方法がまた変わった。今までは地本問屋の行事が
下絵の改を行った後、それらを一括して奉行所に提出し、その上で町奉行の許可を求めるという方法をとっていた。
しかしこれでは行事がその都度奉行所に出向かねばならず甚だ煩わしい。恐らく奉行所にとっても負担なのであろう。
そこで今後は改掛り名主を月番で設け、それに下絵を提出させ、そこで検閲させることにしたのである。改掛り名主
は自ら見極めたうえで、問題のないものはその時点で許可を出し、見極め難いものに限って町年寄経由で奉行所に上
げるという方法にかえたのである。許認可の権限を月番の改掛り名主にも与えたのである〉
◯『物之本江戸作者部類』p104(蟹行山人(曲亭馬琴)著・天保五年(1834)成立)
〈上掲町触が言及する出版手続きの変更を、馬琴は次のように記録していた〉
〝臭草紙はさら也、都て作り物語はその稿本を両御番所へ差出し、伺ひの上行事等その板元に売買を許す
べしと命ぜられしかは、像(カタ)のごとくとり行ひしに、いまだいくばくもあらず御用多なればとて、町
年寄三人にその義を掌らせ給ひしに、町年寄も亦御用多にて事不便也とまうすにより、文化の年に至り
て肝煎名主四人【岩代町名主山口庄左衛門、常盤町名主和田源七、上野町名主佐久間源八、雉子町名主
斎藤市左衛門等是也】に草紙類の改正を命ぜられしなり【此改正名主没したるもあり、今は七人になり
たる】〟
〈黄表紙(臭草紙)など地本問屋の出版物は、稿本の段階で奉行所(番所)に差し出すこととなったが、間もなく多忙を理
由に提出先が三人の町年寄に変わった。ところがこれも多忙ということで、今度は月番の名主にその任がまわり、改
正(あらため)はその名主が行うこととなった。そして文化四年九月には、四名の肝煎(選任)名主が改掛(あらためか
かり)に任命され検閲の任に当たった〉
◯ 八月十一日〔『江戸町触集成』第十巻 p411(触書番号10867)〕
〝一枚絵之儀、八年以前丑年如何敷品摺出し候趣相聞候ニ付、町年寄心付申渡候品も有之、其後五年已前
ニも、女芸者其外茶屋女等之名前等顕し摺出し候義、仕間敷旨申渡、猶又去冬、女面躰を大造ニ画、其
外男女たわむれ居候体之一枚絵見世売等ニ致、如何ニ付差留候所、今以同様之品売出、不埒之至ニ候、
以来右様之品々并男女之面躰、衣裳も花美大造認、惣て風俗拘候如何成絵様認候るい、以来決て売出申
間敷候、若相背候もの有之候ハヽ、聊無用捨咎可申付候条、其旨相心得急度相守可申候
八月
右之通従町奉行所被仰渡候間、右商売筋之ものハ勿論、家持地借店裏々迄、不洩様入念為申聞、右前書
之趣為相守可申候、此旨町中不残可相触候、已上
八月十一日 町年寄役所〟
〈度重なる通達にも拘わらず「女面躰を大造に画」いた絵や「男女たわむれ居候体」の絵が売りに出されていたのであ
る。大首絵が出回り始めたのは「去冬」とあるから寛政十一年の末と思われる〉
☆ 享和二年(1802) 正月、洒落本四十五種絶版。二月、好色物の絵草紙・読本の開板・貸本禁止
◯ 二月三日付〔『江戸町触集成』第十一巻 p9(触書番号11030)〕
〝新規開板致候絵草紙読本類之義ニ付、先年より度々触置候趣も有之所、近比売出候絵草紙読本類之内、
遊興放埒之躰のみをあらわし并好色本と唱如何成絵草紙、世上風俗ニ不宜品売買取扱候もの共有之候ニ
付、此度吟味之上夫々咎申付、右草紙類は勿論、板木共取上申付候、以来右躰放埒を導引候様成猥ヶ間
鋪書もの開板は勿論、書写シ本ニても売買并貸本ニ致候ハヽ厳敷咎可申付者也
戌二月〟
〈ここに云う「遊興放埒之躰」のみ表す「絵草紙読本」とは具体的には何であろうか。文化四年(1807)、山東京伝及
び曲亭馬琴が和田源七宛に提出した口上書にいう「私共廿年来草紙読本類著述仕来候」の「草紙読本」と同じだと
すると、草双紙(黄表紙)・洒落本・読本のうちで、吉原・その他岡場所を扱ったものをいうのであろう。また、
吟味の上、宜しくないとして板木を没収された好色本とは何であろうか。宮武外骨の『筆禍史』を見ると、この年
『婦足鬜』という「蒟蒻本(洒落本)」が絶板になったとある。すると「好色本唱如何成絵草紙」とは絵入りの洒
落本を云うのであろうか。この蒟蒻本の作者と画工は、「日本古典籍総合目録」によると、成三楼酒盛作、口絵は
子興(栄松斎長喜)の画。作者と画工に罪科は及んだのであろうか。なお、この『婦足鬜』には「通気多志」の角
書きがあり、これをあわせて「日本古典籍総合目録」は「つけたしふたりかむろ」と読んでいるが、『筆禍史』は
「つきだしふたりかぶろ」とする。「突きだし」も「禿(カムロ)」の吉原言葉、本HPは『筆禍史』の読みをとりた
い〉
◯ 二月四日〔『江戸町触集成』第十一巻 p10(触書番号11031)〕
〝二月四日付
奈良屋市右衛門殿ニて年番名主え申渡
絵草紙読本類之内遊興放埒之躰のみをあらハし、并好色本世上風俗不宜品売買取扱候もの共、此度御咎
被仰付、右ニ付以来右躰放埒を導引候様成猥ヶ間鋪書もの開板は勿論、書写之本ニても売買并貸本等致
間鋪趣、昨日町触有之候処、右御触之趣町々末々迄行届候様ニと、尚又被仰渡候間、支配々入念相触候
様組合早々可申通事
二月〟
〈二月三日付の町触と同じ内容。こちらは町年寄・奈良屋市右衛門が年番名主に出したもの〉
◯『江戸町触集成』第十一巻 p246(触書番号11501)参照)
〝享和二戌年於南御番所絶板
「小冊物 四拾五通」
右小冊類不残絶板被仰付候砌、仲間内之者壱人内々ニて板行仕候者有之、御吟味之上商売御差留、住
所御構被仰渡候
〈これが上掲二月の町触にいう「世上風俗ニ不宜品」の「小冊物」(洒落本)のこと。商売禁止・追放処分になったのは、下
掲、曲亭馬琴の『物之本江戸作者部類』の記事によると、再犯の罪を犯した上総屋利兵衛である〉
◯『物之本江戸作者部類』p91(蟹行山人(曲亭馬琴)著・天保五年(1834)成立)
〝寛政八九年の比、当年洒落本の新板四十二種出たり、この故にその板元を穿鑿せられしに、多くハ貸本
屋にて書物問屋ハ二人あるのみ。みな町奉行所へ召れて吟味ありしに、その洒落本の作者ハ武家の臣な
るものもあり、御家人さへありけれバまうし立るに及バず。皆板元の本屋が自作にて、地本問屋の行事
に改正を受けず、私に印行したる不調法のよしをひとしく陳じまうしゝかバ、件の新板の小本四十二種
ハさら也、古板も洒落本と唱る小冊ハこの時、みな町奉行所へ召拿られて遺なく絶板せられ、その板元
の貸本屋等ハ各過料三貫文にて免ざれけり。そが中に馬喰町なる書物問屋若林清兵衛ハ貸本屋等とおな
じかるべくもあらず、享保以来の御定法を弁へ在りながら、制禁の小本を私に印行せし事、尤不埒也と
て身上半減の闕処にて、その罪を宥められ、又日本端四日市なる書物問屋上総屋利兵衛ハ先年もかゝる
事あり、今度ハ再犯たるにより、軽追放せられけり【是より石渡利助と変名したるが数年を歴て赦にあ
ひけれバ、先のかづさや利兵衛になりかへりて旧町に在り】こは根岸肥州の裁許にぞありける〟
〈馬琴は洒落本摘発事件を寛政七八年頃とするが、どうやらこれは馬琴の記憶違いで、下掲の触書によれば、享和二年
(1802)のことらしい。なお、今田洋三著『江戸の本屋さん』(NHKブックス・昭和52年刊)も「寛政八九年の比」
は馬琴の記憶違いで享和二年のこととしている〉
☆ 文化元年(1804)
◯ 五月十六日〔『天保撰要類集』(『日本出版文化』第三巻「史料編」p387〕
〝 文化元子年五月十六日落着
馬喰町三丁目 久次郎店 忠助
其方儀一枚絵草双紙問屋いたし、書物双紙類新規ニ仕立候儀、無用之旨町触之趣、弁罷在、太閤記時代
之武者一枚絵草紙ニ致候は新規之儀ニ候え共、売口多可有之と一枚絵ニ為認、名前紋所等其儘認、又は
似寄紛敷様ニも認、軍場之地名等書入候も有之、板行いたし候処、右之内其家筋より断受、絶板候も有
上、然ル上は残之分右ニ可准義ニ候え共、其儘売捌、尚又異形之ものニ、右時代之紋所等附候草双紙を
も板行いたし売出、且新板之品は行事共え差出改請候上売買可致旨之町触をも相背、右一枚絵之内ニは、
行事共不差出分も有之、旁不埒ニ付、絵並板木共取上身上ニ応シ、重過料申付之
堀江町弐町目 利右衛門店 豊国事 熊吉
其方儀一枚絵認渡世いたし、書物双紙類新規ニ仕立候義、無用之旨町触之趣相弁罷在、太閤記時代之武
者一枚絵にいたし候は、新規之儀ニ候え共、一枚絵商売之者より相頼候ニ任セ、名前紋所其儘相記、又
は紛敷様ニも認、軍場之地名等も書入遣シ候段、不埒ニ付手鎖申付之〔朱書、百日〕〟
◯ 五月十六日〔『天保撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「資料編」p387〕
(天保十五年八月、絵双紙懸(カカ)り名主・平四郎の「川中島合戦」図に関する調書より)
〝文化三(ママ)寅年中ニ候哉、橋本町四丁目絵草紙屋辰右衛門、馬喰町三町目同忠助板本ニて太閤記之内、
絵柄不知三枚続錦絵売出候処、右板元並画師歌丸(麿)、豊国両人ニも北御番所え被召出御吟味之上、
板元は所払、画師は過料被仰付候義有之〟
◯ 五月十七日〔『江戸町触集成』第十一巻 p119(触書番号11269)〕
〝子五月十七日
奈良屋市右衛門殿ニて被申渡
絵草紙問屋 行事共
年番名主共
絵草紙類之義ニ付、度々町触申渡之趣有之候所、今以如何成品商売致、不埒之至ニ候ニ付、今般吟味之
上、夫々咎申付候、以来左之通可相心得候
一 一枚絵草双紙類、天正之頃以来之武者等、名前を顕し画候義ハ勿論、紋所合印名前等紛敷認候義も
決て致間識候
一 一枚絵ニ和歌之類并景色之地名、又ハ角力取、歌舞伎役者、遊女之名前等ハ格別、其外詞書一切認
間敷候
一 彩色摺致候絵本双紙等、近来多く相見へ不埒ニ候、以来絵本草紙等は黒斗ニて板行致、彩色を加え
候事無用ニ候
右の通相心得、其外前々触申渡候趣堅相守、商売致、行事共入念可相改候、此度絶板申付候外ニも、右
申渡ニ違候分ハ行事共相糺、早々絶板いたし、已来等閑之義無之様可致候、若相背ニおゐてハ絵草紙取
上、絶板申付、其品々ニ寄、厳敷咎可申付候〟
〈大田南畝の『半日閑話』に〝文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元に被仰渡、江戸にて右太
閤記の中より抜き出し錦画に出候分を不残御取上、右錦画書候喜多川歌麿、豊国など手鎖、板元を十五貫文過料の
よし〟(本HP「浮世絵用語」の「太閤記」の項参照)とある。この触書はその翌日、町年寄奈良屋市右衛門から絵草紙問
屋行事及び年番名主に向けて出されたもの。
享保七年の触書以来、徳川家康(権現様)は無論のこと当家のことすら板行は厳禁とされてきたが、この文化元年
の触書ではさらに厳しくなって、天正以降の武者の名前及びそれに紛らわしい名前・紋所・合印も禁じられてしま
った。また一枚絵に載せる詞書にも制禁が新たに設けられ、和歌、景色の地名、相撲取・歌舞伎役者・遊女の名前
はお構いなしだが、それ以外は一切禁止になってしまった。そして絵本草紙の彩色も禁ぜられ墨一色にせよという
通達である。ところで、なぜ相撲取・歌舞伎役者・遊女の名前は特別で「女芸者其外茶屋女等之名前」は厳禁なの
であろうか〉
◯ 十二月二十四日〔『江戸町触集成』第十一巻 p136(触書番号11307)〕
〝一枚絵之内ニ大顔之絵売出申間敷旨、先達て御沙汰有之、右大顔之絵、見世え飾置売不申候様御達申置
候、然ル所此度地本問屋共より来春売出候一枚絵之分、不残樽役所え差出候様被仰付候所、右大顔之絵、
問屋共方ニ当時仕入之分無之旨申立候得共、未ダ見世売之方ニは売残之大顔絵飾置、売候も有之、又は
調ニ参候ものえは仕廻置、売遣し不申ものも有之候ニ付、早々右大顔之絵売不申候様、御組合限御取調
之上、右大顔売出為相止候様、御取計可被成候、此段御達申候、已上
十二月廿四日 壱番組二番組四番組 肝煎〟
〈「大顔之絵」とは、寛政十二年正月二十一日付の触書にいう「女大絵」および同年八月十一日付の「女面躰を大造に
画」と同じく、現在云うところの「大首絵」のことと思われる。当時はまで「大首絵」という言い方はしなかったの
だろうか。それとも世上では通用していながら町奉行がそれを採用しなかったというのであろうか〉
☆ 文化四年(1807) 九月、絵入読本改掛肝煎名主四名任命される(検閲主体が仲間行司から名主に移る)
◯ 九月十八日〔『江戸町触集成』第十一巻 p219(触書番号11455)〕
〝卯九月十八日
絵入読本改掛始て被仰付候節
樽ニて被申渡肝煎通達有之
上野町肝煎名主 源 八
村松町同見習 源 六
鈴木町同 源 七
雉子町同 市左衞門
右は近年流行絵読本同小冊類年々出板致候分、行事共立合相改、禁忌も無之候得は、伺之上出板いたし
来候処、以来は改方申渡候間、入念禁忌相改、差合無之分は以来伺ニ不及、出板并売買共為致可申候
但、新板書物奈良屋市右衛門え相伺、差図請来候分は、都て是迄之通取計候様、書物問屋行事共え申
渡候間、可得其意候
右之通被仰渡奉畏候、下本草藁永留候ては出板之手後レニも可相成候間、成丈ヶ出情致し相改遣可申旨
被仰渡奉畏候、為御請御帳ニ印形仕置候、以上
文化四卯年九月十八日 右四人連印
書物問屋行事共
右は是迄新板絵入読本類草案差出候ニ付、伺之上差図仕来候処、今般右本改方懸り申付候間、已来当役
所え申出候ニ不及、行事とも立合相改候上、右改方名主え差出改を請、差合無之分ハ売買可致候
但、是迄奈良屋市右衛門方え差出、差図請候書物之儀ハ、都て是迄之通取計可申候
右之通被仰渡奉畏候、為御請御帳ニ印形仕置候、以上
文化四卯年九月 書物問屋 須原屋善五郎
西村源六
右之通樽与左衞門殿ニて被申渡候ニ付、喜多村奈良屋二軒并南北御用掛り、同定廻り方臨時廻方えも相
届候事
但、西之内四ッ切半切
今日拙者共儀樽【与左衞門方へ被相呼/御役所へ被相呼】近来絵入読本同小冊類年々致出板候分、改メ
方掛り被仰付候間、此段為御届申上候、
卯九月十八日 四人名前
月番肝煎えも申遣候事
一 行事名前付三ヶ月目ニ拙者方え可被差出候事
一 新板草案之儀は不及申、板行出来候分共、最寄々ニて行事宅より都合宜所え可被差出事
一 書物屋惣名前書、当月中ニ拙者共え銘々可差出事
一 書物屋増減又行事替候ハヽ、是又其時々銘々え可被相届候、以上
卯九月六日 絵本改掛り 肝煎名主
書物問屋九月掛り行事
一 書物屋行事より草案差出候ハヽ、入念早遂一覧、幾日差出シ幾日順達いたし候と申儀、廻状を以致
順達、留りより行事を呼、相渡可申旨申合候事
右之通申合候事
〈改(アラタメ)(検閲)担当の名主を絵入読本改掛りと名付け、佐久間源八・和田源七・村松源六・斎藤市左衞門の四名が
任命された。地本問屋の行事が自主的な改めを行った後、これら四名の「改掛」に出版伺いをたてよというのである。
これは寛政十二年の通達と同じ改方法なのだが、文面に従来のやりかた「行事共立合相改、禁忌も無之候得は伺之上
出板いたし来候」とあるところを見ると、徹底されていなかったので、今度は専任を設けて徹底させようということ
なのだろう〉
以書付申上候
絵入読本同小冊類、是迄仲間行事改来、樽御役所え御伺御差図を請板行仕来候処、此度右役所ニて各方
改方掛り被仰付候ニ付、別て此上共禁忌は不及申、風俗ニ拘り候義ハ改仕、仲ヶ間中ニては不沙汰之品
一切売捌候儀無御座候得共、近来御当地糶本屋貸本屋共、私共え押隠出板流布仕、改方相洩、別て上方
ニて出板之絵入読本類は、私共仲ヶ間外之者え直ニ積送り候ゆへ、仲間改も不仕、不沙汰ニ売捌申候、
尤私共仲間規定ニて、仲ヶ間外之者共え上方より直積付取引決て致間敷旨、上方書物屋え前々より申談
置候、然処近来猥ニ相成、仲ヶ間外之者え直積致取引候得は、右躰之絵本読本は、私共吟味も行届不申、
且ハ問屋株之規模も無之、家業ニ相障難渋仕候、依之恐多義ニは御座候得共、私共仲間外之者共、猥ニ
出板改も不申受流布為仕候儀義は勿論、別て上方より荷物直積引請不申様御触被成下、且又上方書物屋
共えも、江戸仲間外之者えは決て荷物積送取引不致様、御慈悲を以被仰渡被下置候様、御願被成下候ハ
ヽ取締方宜義ニ奉存候、此段偏御願申上候、以上
文化卯四年十月 書物問屋九月掛り行事
六人連印
絵本改掛り 肝煎名主衆中
絵本読本同小冊類、御当地糶本屋貸本屋共方ニて、書物問屋行事共えも押隠し、内々出板流布仕候分も
御座候趣、別て上方筋へ前書糶本屋貸本屋共、其外え猥積下し勝手ニ売出、一統流布仕候分は数多ニて、
右躰之絵入読本ハ改方ニ相洩、其分禁忌御座候て、万一御察斗有之候ては奉恐入候旨、書物問屋行事共
別紙私共方え差出候間、則右書付写相添此段申上置候、已来右躰之義無之様、書物問屋行事共より御当
地糶本屋貸本屋共ハ不及申、別て上方筋積下候書物屋共えも、得と為及掛合候様申含置候得共、此已後
行届不申義も御座候ハヽ、其節申上候様仕度、此段兼て申上置候、以上
卯十月 絵入読本改懸り 肝煎名主共
(朱筆)書物屋より出候書面写は半紙竪帳、此方共より出候添書は西之内半切ニ認メ、和田斎藤両人
樽与左衛門え十月十五日致持參候へは、千次郎受取置候事
一札之事
絵入読本同小冊類、私共仲ヶ間外之者共え上方筋より荷物直積并御當地仲間外ニて出板之品、行事改を
不請、近来猥ニ取引致候義有之、取締不宜ニ付、此上右躰之儀無之様仕度、右は御触流も有之候様仕度、
此段各方より御願被成下候様、此度私共より書付差出候処、右一条は先規仲間内規定も有之候ニ付、上
方筋并御当地仲ヶ間外糶本貸本屋共えも能々及懸合、得と取極メ可申、其上ニても行届兼候儀有之候ハ
ヽ、其節は御取計方も可有之段被仰聞候ニ付、此上我侭成取計不仕、新板物之儀ハ逸々私共方へ差出候
上、各方御改を請可申旨夫々申合セ、則別紙之通、仲ヶ間外御當地糶本屋貸本屋共、并上方直荷引受候
者共より私とも方迄一札取置候間、右写し差出申候、尤上方筋書物問屋えも直荷物積送申間敷段、追々
及懸合候間、是又取極次第書面写シ差出可申候、然上は向後行届可申奉存候得共、尚又私共精々心付、
紛敷絵入読本無之様可仕候、此段為御届申上候、以上
文化四卯年十月 九月懸り行事 六人連印
改懸り名主衆中
〈書物問屋の仲間行事から改(アラタメ)懸り(検閲担当)名主宛に出された上申である。仲間以外の糴売業者や貸本屋が
無届けの出版をしたり、上方から仕入れた板本を勝手に売り捌いているので、それを取り締まるようにとの要望であ
る。書物問屋から見ると、糴(セリ)売業者や貸本屋の動向が脅威になってきたということなのだろう。彼らは商売がら
直接顧客を相手にするから読者の嗜好を掴みやすい。つまり売れ筋の絵入読本を制作しやすい立場にいるのである〉
内々以書付申上候覚
一 私共廿年来草紙読本類著述仕来候ニ付、少々宛之作料所得も御座候て、傍生活ニも相成候ニ付、是
迄毎年板元之書林共より被相頼候得は新作仕遣し申候、然処今般御四ヶ所様、右読本類禁忌御改之蒙
仰候ニ付、京伝被召呼、著述仕方御内意被仰聞難有奉存候、依之私共両人平生心得罷在候後、御内々
達御聞置申度、左ニ口上書を以申上候
一 草紙読本類之義ニ付、先年町御触有之候後堅相守、猶又其時々之流行風聞等之儀ハ決て書著し不申、
第一ニ勧善ン懲悪を正敷仕、善人孝子忠臣之伝をおもに綴り、成丈童蒙婦女子之心得ニも可相成儀ヲ
作り設可申と心掛罷在候、尤前広ニ著述仕候本類、板元え相渡し程経候て、書林行事共より伺ニ差出
候砌、不斗著述後之流行風聞ニ合候義有之、此義ハ不用〔本ノマヽ〕ニて暗合仕候故、不及申候得共、
是以心付候分は早速相改メ申候、併猶以心付不申義も可有之と、毎度恐入奉存候事
一 禁忌御附札之趣第一ニ相守、従板下認候ても其板元え精々申談、写本不及申、入木直しニ至迄職人
を私共宅え相招差図仕候て、急度為改申候、尤売得ニ迷ひ、私共申候儀を相用不申板元御座候得は相
断、翌年より著述之藁本相渡不申様ニ申談置候事
一 私共両人は年来相互ニ申合、不行届所は無腹蔵申談候、此義先年京伝蒙御咎候ニ付、当人ハ不及申
馬琴義も同様相慎ミ罷在候得共、外作者共ハ行届不申も有之候哉。近来別て剛悪之趣意を専一ニ作設
ケ、殺伐不詳之絵組て巳を取合候類有之、右は先々売捌方も格別宜由及承、私共成丈ケ右躰之書入絵
組相省キ候て著述仕候本類は、却て売方不宜由ニも御座候間。無拠少々宛右躰之絵組等差加え候儀ニ
御座候、然共勧善懲悪之趣意は取失ひ不申様心懸ヶ申候、然処先日京伝被召呼。御内意之趣、近来草
紙読本之作風兔角剛悪殺伐不詳之絵組等多候て不宜候間、私共両人申合セ、右作風変候様ニ仕可然旨
被仰聞、御尤ニ奉存候、乍併前書申上候通、絵組書入等剛悪不詳之類多、草紙読本ハおのつから売捌
も宜敷候ニ付、著述仕候者共一同右之風義を似セ候事ニ御座候間、私共両人のみ相慎候ても、中々右
躰之作風変候義は有之間敷奉存候、依之何卒渡世仕候作者共并画師共被召呼、向後草紙読本類右格別
剛悪之儀、甚敷不詳之儀、格別殺伐之儀道ニ外れ候天災火難之絵組等堅相慎み、書著不申様一統え被
仰渡被下度奉存候、左様無之候て、私共両人御内意之趣を以諷諫仕候ても、執用申間敷奉存候、右一
統え被仰渡候ハヽ、私共并渡世ニ仕候作者画師共寄合仕来、秋より出板之作風殺伐不詳之儀成丈相省
キ候様ニ申談、一同相慎候様ニ可仕候、右一同ニ相慎候様ニ相成候ハヽ、乍憚私共両人平生之心掛ニ
も相応仕、剛悪殺伐不詳之絵組等差加不申候ても外之並ニ売捌可申と難有奉存候、依之内々口上書を
以申上候、以上
文化四卯年十一月廿八日 京伝事 京屋傳蔵
馬琴事 瀧澤清右衛門
和田源七様
右書面差出候由尤印形ハ無之候〟
〈「剛悪殺伐不詳之絵組」の「不詳」が別本では「不祥」となっている。山東京伝、曲亭馬琴の口上書。近年は「剛悪
之趣意を専一ニ作設ケ、殺伐不詳之絵組のみを取合候類」の読本が売れ行きがよい。私共はそうした作風にならない
ように著述しているが売れ行きが宜しくない、そこで生活のためやむを得ず少しばかり取り入れたが、それでも勧善
懲悪は心がけている。ところが、そこにこの度のお咎め、我々は慎んで作風を変えるつもりだが、他の著者たちまで
が売れ行きのよいそのような作風を変えることはあるまいと思う。従って我々ばかりでなく、他の作者や画工全体に
自制を求めるよう周知徹底してほしいという内容である。お上が取り締まるべき対象は我々ではなく我々以外にいる
のではないかというのである。取締りの鉾先を自分たちから著者・画工全体に向けようという作戦であろうか〉
☆ 文化五年(1808)
◯ 四月〔『江戸町触集成』第十一巻 p246(触書番号11501)〕
「寛政三亥年已来、書物并小冊類絶板売止被仰付候品書付」
〈寛政三年から文化三年までの絶版および発禁本リスト〉
筆禍(寛政三年~文化三年・1791-1806)
◯ 文化五年九月二十日(『著作堂雑記』211/275)
〝去る九月二十日【文化五年】蔦屋重三郎より文通之写
合巻作風心得之事
一 男女共兇悪の事
一 同奇病を煩ひ、身中より火抔燃出、右に付怪異之事
一 悪婦強力の事
一 女并幼年者盗賊筋の事
一 人の首抔飛廻り候事
一 葬礼の体
一 水腐の死骸
一 天災之事
一 異鳥異獣の図
右之外、蛇抔身体手足へ巻付居候類、一切【この間不明】、夫婦の契約致し、後に親子兄妹等の由相知
れ候類、都て当時に拘り候類は不宜候由、御懸り役頭より、名主山口庄左衛門殿被申聞候に付、右之趣
仲ヶ間申合、以来右体の作出版致間敷旨取極置候間、御心得にも相成可申哉と、此段御案内申上候
九月二十日 蔦重
著作堂様〟
〈この蔦屋重三郎は二代目。絵入読本等の改め担当名主が地本問屋へ通達した合巻の禁忌事項である〉
☆ 文化十一年(1814)
◯ 八月〔『江戸町触集成』第十一巻 p363(触書番号11649)〕
〝花美成一枚絵、翫ニ拵候大小摺物類、拙者共え改ニ差出来候処、右之内花会摺物配方等之儀ニ付、去々
申年四月中南廻方より被仰渡有之候間相慎、諸芸師匠其弟子共実々浚ひ会摺物等迄誂受不申候処、家業
手薄ニ相成難儀致候ニ付、諸芸師匠弟子共実々浚ひ会摺物誂候節は、摺立遣度旨右商職之者申立候間、
絵柄之儀は拙者共方ニて改遣候、右会合等取調方之儀は、兼て御廻り方被仰渡之通、御組合限り各様御
取計之義ニ付、此段為御心得御達申候、以上
八月
右肝煎通達〟
〈「去々申年」とは文化九年。諸芸の集まりに会主が摺り物を配る習わしだが、その摺り物が金銭を集めることだけを
目的とする「花会」にも配られたらしい。それが同年四月、南廻りの同心に摘発された。以来、地本問屋や彫り・摺
りの職人たちは摺り物の注文を断ってきた。ところがやはり家業には差し支えが生じる。そこで、彼らは、再び仕事
をしたいので、改(アラタメ)(検閲)を再開して欲しいと、改懸りの名主を通して要望したのである。これは認められた〉
☆ 文化十四年(1817)
◯『金曾木』遠桜主人(大田南畝)著(『大田南畝全集』10巻p290)
(欄外注として次の記事あり)
〝文化十四丁丑の暮より、合巻物外題の色ずりよろしきを禁ぜられて、合巻物やむ。もとの草双紙の如く
なれども、半紙ずりにて、一冊十六文づゝにうりて、絵もやはり合巻物のごとし〟
☆ 文化十五年(文政元年)(1818)
◯ 三月付、四月十日付〔『江戸町触集成』第十一巻 p434(触書番号11768)〕
〝諸芸名弘浚会等相催候節、摺物絵柄有之分は私共方え申出相改候上、催主并席貸遣候者組合肝煎共方ニ
て得と取調候上、支配名主共より御届申上候間、紛敷会集無御座候処、絵柄無之都て口上摺斗之分は何
方えも不申出、御届等も不仕勝手ニ取計候間、是迄既ニ不正之会集致候者間々有之不取締ニ付、已来取
締方之儀勘弁仕申上候様被仰渡奉畏候、右ニ付名改弘等摺物之儀ハ前々より有来候間、仕来之通取計、
浚会之儀摺物不為致、且又都て口上摺之外、是迄催主より彫刻之儀、其職分之者え誂候節、何方ニても
改遣者無之段不取締ニ付、絵柄無之口上摺之分も、向後摺物同様、其度々誂請候職分之者より私共方え
届出候上、催主并席貸遣候者居町組合肝煎名主共え掛合得と取調、不正之儀無之分は、其段支配名主并
其組合肝煎名主共より御届申上候様仕候ハヽ、取締ニも可相成哉ニ付、惣組々区々不相成様可仕奉存候、
依之此段奉伺候、以上
寅三月 絵類改掛り 肝煎名主とも
右は取締方之義、南北三御廻り方御尋ニ付書面之通相伺候処、両御奉行様え被仰上御聞置相成候旨、神
田酒右衛門殿小川平兵衛殿被申渡候間、御達申候、已来会事口上摺之分も改差出候節可及御掛合間、其
時々得と御取調之上、支配御同役御書取え各様御添書被成、是迄之通南北三御廻り方え御届可被成候、
此段御組合行事持場所共不洩様御通達可被成候、以上
寅四月十日 絵草紙改掛り 肝煎〟
◯ 十月十一日〔『江戸町触集成』第十一巻 p442(触書番号11788)〕
〝一 諸芸人書画活花詩歌連俳等致候者、芸名為披露其道之者え摺物又は口上書相配、料理茶屋水茶屋等
借受集会致候儀、其時々届出候ハヽ絵板有之分は相改、其絵様善悪相極遣し、絵柄無之分共、当人并席
貸遣し候茶屋共居町組合肝煎名主え相掛合、右会事之正不正取調、三御廻り方御届等、催主支配名主組
合肝煎ニて取計可申儀達可遣事
但、催主当人御支配違之分ハ引合不申、席貸遣候茶屋を当人之目当ニいたし、本文之通り取計可申事
一 右集会之儀、其支配名主組合肝煎方ニて取調候事ニ候得共、猶入念催主当人席貸候茶屋、摺物ニて
も口上摺ニても板元并芸事師匠有之分は、其師匠等一同より紛敷義無之趣、且大行之義無之様申談、請
印取極(置カ)可申、催主御支配違之分は当人相除、万事席貸遣候茶屋共方ニて為承、右茶屋共より請印
取置可申事
一 都て何事ニよらす諸芸会集ニ席貸遣候節ハ、譬摺物口上書等無之分共、日限延引不致様茶屋共より
届出候迄(上カ)夫々取調、居町支配組合肝煎等え及懸合候儀ニ付、届無之集会之分ハ厳敷差留可申、尤
得と相調、紛敷儀不相聞候ハヽ追て日限引替、前文之通取計遣、其筋之渡世之者迷惑不相成候様ニ可致
遣事
一 会集無之共、絵入候摺物之分一枚絵改同様、下絵差出改請候上、摺り立見極可遣、若不沙汰摺物扱
候ハヽ相調、仕来之通取計可申事
一 諸芸春秋四季月並浚共、無懈怠相届可申事
右之通集会之儀ニ付申合、席貸候者共えも申合置候処、中ニハ届ケ不出者有之、其内ニは紛敷会集有之
候ても不相知候間、可申談と呼ニ遣候ても不罷越儀等有之節、其侭差置候ては、外茶屋共取締方自ラ相
崩末々行届申間敷、已来右様心得違之者有之節は、其組合肝煎名主方え懸合、会集之席ニ限為相休申度、
左候ハヽ銘々等閑之儀も無之様相成可申間、其段樽吉五郎殿え申立候、御聞置ニ相成候ニ付、前書取計
方区々ニ不相成様、為御心得御達申候、以上
十月十一日 絵草紙掛り 肝煎〟
〈諸芸のお浚い会や名弘め会に配られる摺物について、絵柄のあるものはもちろん、口上書だけのものも改(アラタメ)
(検閲)の対象とする旨の通達である。無届の集会が依然として続いているようである。通達が中々徹底しない
のだろう。文政三年にも同様の触書が出ている。『江戸町触集成』第十二巻(触書番号11980)〉
☆ 文政三年(1821)
◯ 五月十二日付〔『江戸町触集成』第十二巻 p28(触書番号11913)〕
〝 申 渡
馬喰町弐丁目 喜兵衛店 治兵衛
其方義地本問屋渡世致来候処、山王御祭礼并神田明神祭礼ニ付、祭番附是迄定候板元無之素人ニて売出
候故、多分間違等有之候間、此度其方板元ニ相成売出度旨願出候ニ付遂吟味候処、一躰素人共問屋行事
改をも不請出板致候義ニ付、此度其方板元相成、是迄年々売来候者売子ニ致候旨申立、引請売出候もの
も難儀いたし候義も無之趣相聞、問屋仲間之もの共も差障候筋無之旨申立候間、願之通申付之、尤已来
手込彩色等致高直ニ売出候義致間敷候
文政三辰年五月十二日
右ハ拙者共之内壱人并書物問屋行事地本問屋両組合行事主計様御番所え被召出、治兵衛え被仰渡、右之
趣組々年番え可申通旨、御懸三好助右衛門殿被仰渡候間御達申候、早々行届候様御取計可被成候、以上
五月十二日 絵類改懸肝煎〟
〈日枝神社の山王祭と神田明神の祭礼、いわゆる天下祭の番付に対する出版を認める通達である〉
☆ 文政四年(1821)
◯ 五月九日〔『江戸町触集成』第十二巻) p72(触書番号12016)〕
〝町々ニて唄浄瑠璃其外音曲活花之類、師匠より芸名貰請候節、名弘又は浚会等いたし候趣、摺物世話人
を頼、知ル人ニも無之者え押て相配り、摺物世話人を頼、知ル人ニも無之者え押て相配り、花会ニ紛敷
儀ニ付、芸人共其門弟限り摺物相配、人頼致シ、先々え相配候儀ハ致間敷旨、先達て相達置候処、此節
追々相弛み、世話人共立入、不正之摺物相配候者口々有之由相聞候ニ付、右躰致世話いたし候迄ニて、
不正之筋も不相聞候間、先此度ハ不及御沙汰候得共、已来正道之名弘会致候者共、銘々其門弟限り自身
摺物相配候義は格別、世話人等相頼、知ル人ニも無之者え相配候義は決て不致候様御申渡、此上名弘会
等申出候ハヽ、支配限入念厳敷相糺、聊不正之儀無之様御取計、其度々拙者共え御申聞可有之候、若不
正之儀相聞候ハヽ当日見廻り、時宜ニ寄る召捕候間、猶取締方組合限り精々御申合セ可有之候事
右は今九日南御番所三御廻り方より肝煎え御口達之趣書取り被仰含候
但、会摺之儀、其支配名主其組合肝煎名主申合、入念取調ハヽ、世話人等立携紛敷儀も相聞申間敷候、
勿論会数も多く有之間敷儀ニ付、已後取締方入念申合候様被仰含候
右之通ニ付肝煎寄合評議之上一同申合、已来芸人共名弘メ等会摺物之儀、其町名主え申出候ハヽ、其組
合肝煎申合、人別帳を以名前取調、并師匠元之名主え懸合調之上、摺物差遣候同門之者等名前人数取調、
委細書付取置、且又兼て最寄世話等可致者携不申段相糺、其者共より其旨書付取置、全正道之儀ニ候ハ
ヽ、右委細御廻り方え申立候様可致事
但、絵双紙掛り肝煎并会場所支配名主ニて取調之儀ハ是迄之通致候事
一 是迄御廻り方え申立候節、摺物相添出候得共、已後ハ正道之筋取調候上、書取御廻り方え差出候上、
子細無之分猶又摺物致出来候節、御廻り方え差出可申事
一 此度会摺物世話候趣相聞、御廻方ニて御調被成候名前之者ハ勿論、其外所々ニて若者之世話等致シ、
所々つき合いたし候もの組合限名前相調、火消人足頭取共右御調之者え被仰含候趣相守、已後万一外々
より内々ニても摺出配り参候共、相互ニ受取不申様可致旨申聞、組合限肝煎より書付取置可然事
前書之通并申合ヶ条之趣共、組合限入念申合、依怙之儀等無之様可致事
右之通一同申合候、以上
五月九日 惣肝煎
南北見廻り方え都て御届有之分、今以半切ニ認御届之向も有之候間、一同半紙竪帳ニて表紙ニ不及、仮
綴ニて御届書御差出可被成候
此段御達申候、以上
五月九日〟
〈金銭集めの花会に紛らわしい名弘めの会やお浚いの会が相変わらず行われている。昨年に引き続きの通達である。今
回のは、世話人などを通して摺り物を不特定の他人に配ることを禁ずるなど、こと細かな通達になっている〉
☆ 文政七年(1824)
◯ 八月〔『江戸町触集成』第十二巻 p200(触書番号12266)〕
〝諸芸人絵入摺物之儀、私共改来候処、花会ニ紛敷儀の有之趣ニ付、取締方之儀五ヶ年已前辰年九月中、
当御役所え御伺申上候処、伺之通可取計旨被仰渡候段被仰渡候、尤其已前寅年三月中、南北御組三御廻
り衆より右会集取締方之儀御尋ニ付、絵柄無之口上摺之分改ニ洩不取締ニ付、口上摺之儀も向後絵入摺
物同様取計候ハヽ、取締方宜相成可申段相伺御被聞置候段被申渡候、然ル処、会主共手を替、口上書致
シ又は口上摺え扇子烟草入等其外品物添相配、花会ニ紛敷、右様之儀致増長、卑劣風俗ニ押移り、品物
請候者は摺物口上摺斗申請候挨拶向ニは致兼、及迷惑候儀有之由、且又板木屋共え口上摺誂候得は、私
共え申立、其催主組合肝煎名主え申遣、支配名主倶々調請候故、自ら不正之催難致候間、取締申合等ニ
振候彫刻之者抔え誂、或ハ団扇抔え摺物同様画口上摺加え相配候得共、私共相届不申、調ニ洩、勝手侭
ニ相成、右躰不正之取計候向も有之趣ニ付、仲間相立取締方有之板木屋えは誂不申、且席借請候義も、
兼て取締申合致シ候茶屋向ニは相催不申、何れえも届等不致候者方ニて会集致候有之、自然と不取締相
成、却て取締申合候渡世之者、家業手薄ニ相成候旨相歎候間、已来右躰押隠会集メ相催候者有之候節は、
及見聞次第三廻り方え申立、御差留メ有之候ハヽ取締宜可相成、私共は絵柄之手続を以、板木摺物職人
より誂請候節々早速届参候間、是迄催主有之肝煎名主え通達等仕、取締方申合候得共、会集不正之義は
催主支配名主肝煎名主相調候上、御廻り方え御届仕来、私共方え改ニ出候会集メ不相洩取調行届可申哉、
依之猶又取締方別紙ヶ条書を以奉伺候、以上
文政七年申八月 絵類改掛り肝煎 名主 三郎右衛門
同 源 七
同 新 助
同 庄右衛門
同万之助後見 惣左衞門
同 惣 蔵
一 諸芸人、師匠より初て芸名貰請候弘会集之節、同門之者等え遣候絵入摺物之儀は已前之通調請、不
正之筋無之様可致事
一 歌舞伎役者之類、会集等不致紛敷義も無之間、改名追善等摺物之義、是迄之通絵柄調請可申事
一 浄瑠璃床開、新造船開、神仏参餞別等申紛、或は商職見世其外都て口上書口上摺え品物相添配候儀
致間敷候
但、諸商職見世開之節、其商品直段為知候迄之引札、或ハ当日并日限を限り景物差出候儀、且食類商
人共品優劣直段高下等、客え為知度口上書配候義は仕来之通
一 浚会之節、摺物は勿論、似寄候分も致間敷候、尤日限為知候迄之口上書口上摺は相届、調請可申事
一 諸芸人会集催主御支配違之分は仕来之通、摺物口上書共誂請候板木摺物職人并席貸遣候者より相届
調請、万一不正之会集は誂請候板木屋摺職、席貸遣候者を差留可申事
右ヶ条取締方奉伺候、以上
申八月 絵類改掛り 肝煎名主共
右之通樽吉五郎殿え伺書差出候処、両奉行所え被申上、伺之通為取計可申旨被仰渡候段被申渡候間、為
御心得御達申候、御組合限月行事持場所共不洩様御通達被成、右会事摺物絵様有之分は勿論、口上書口
上摺共拙者共方え相届可申、并料理茶屋水茶屋其外共集会席貸遣候度々、日限前広無異失届出候様、兼
て御支配限御申付置、尤右会事催候者、正不正之儀は、其御支配御同役中組合肝煎同役中御立合御取調、
御廻り方え御届等、是迄仕来之通御取計可被成儀ニ付、其節拙者共月番へ届出候様、催主御支配違之分
は席貸遣候者より申出候様御心添、何レニも不沙汰会事無之様御取計可被成候、以上
申八月廿八日 絵類改掛り 樽屋三郎右衛門
和田 源七
多田 新助〟
〈この御触書は文政十三年十月十一日にも再通達されている。金銭集めが目的の花会に紛らわしい諸芸の会が依然とし
てやまない。会の主催側も巧妙になっているようで、改(アラタメ)(検閲)を受けない団扇を摺物同様にして配ることも
行われているらしい。団扇は絵草紙改掛りの管轄外なのであろう〉
☆ 文政八年(1825)
◯ 九月十一日〔『江戸町触集成』第十二巻 p236(触書番号12347)〕
〝此度歌舞伎芝居役者甲乙給金付一枚摺、地本問屋行事改不請、素人ニて出板いたし、右株板主差障、殊
ニ不取締之段、地本問屋行事より申立候間、如先例板元売捌人方より板木摺溜メ取上、板木は削、摺溜
裁切、其段御掛り樽藤左衞門殿え相届置候、然ル処小売絵草紙屋見世先へ釣し置候義如何ニ付、早々各
さま御組合御支配御同役中へ御取集、水腐可被成候、此段御組合月行事持場所共御通達可被成候、以上
九月十一日 絵類改掛り 肝煎〟
☆ 天保三年(1832)
◯ 十月十六日〔『天保撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「資料編」p326)〕
〝 申渡
芝松本町弐丁目 伊左衞門店 平右衛門
上野北大門町 作兵衛店 助三郎
其方共儀此度琉球人参府ニ付、行列附絵図板行にいたし売弘度旨、願出候ニ付、遂吟味処、松平大隅守
屋敷えも出入致シ、殊同人家来よりも願之通致シ度旨申立、相違も無之間、願之通申付之〟
〈江戸に参府する琉球人の行列絵図の出版許可である。薩摩藩・松平大隅守(島津斉興)のお墨付きがあってのことで
ある。天保十三年の参府の時も許可願が出されたが、薩摩藩の許可を受けてない版元は不許可になっている〉
◯ 十月二十七日〔『天保撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「資料編」p327)〕
(町年寄の地本問屋行事宛通達)
〝右は此度琉球人参府ニ付、右人物彩色絵ニ摺立売買仕度、尤文化三年寅年参府之砌摺立候古板取交彫刻
仕度旨、絵類改懸り名主方え申出、則名主共相改候処、絵柄禁忌之儀は相見不申候え共、文化三年寅年
之頃ハ未名主共え絵類改懸り不被仰付以前ニ付、如当時改受之品々は無之、地本問屋手限ニて摺立候哉、
勿論右問屋方ニ古板木も有之、其頃売買仕候ニは無相違相聞申候間、此度可摺立下絵相添奉伺候旨、懸
り名主共申立之。
但古板之儀、多く焼失仕候由ニて、残り拾壱枚有之候内、抜差致シ、古板之内六枚相止、新刻五枚彫
足、都合絵数拾枚差出申度奉願候、尤琉球人通行之見世先えは、当日差出申間敷旨申之候(以下略)〟
〈文化三年の参府の際にも彩色摺が出たが、その時の改(アラタメ)(検閲)は問屋仲間の行事による裁量であった。しか
るに、現在は改懸り名主による改である。文化三年時の古板と新板と取り混ぜて出版したいというのであるが、新
板はもちろんのこと古板の方も改めたいと、担当の名主が申し出ているので、その通りにするよう、行事宛に指示
した文書である〉
☆ 天保五年(1834)
◯ 二月三十日付〔『江戸町触集成』第十三巻 p44(触書番号12805)〕
〝町々女芸者其外隠売女ニ紛敷稼致候者、去巳年中御吟味之上夫々厳敷御咎被仰付、右女之儀は新吉原町
え被下置候処、当春中右女共誰事誰と相記、其外新吉原町遊女を角力番附ニ致、売出候者有之候間売止
為致、地本問屋行事為立合、右板木為相削候処、其後住所名前等不相知右番附重板致、床見世等え売歩
行候者有之間、小売見世ニて見当次第取集、地本問屋行事為立合、水腐為致候様仕度、右様行事改も不
申受、隠出板致候者町方之分は私共取計相成候得共、近頃手を替候て板元多分御武家方、或は近在百性
名前ニ致、然と板元名前違取拵候間、以来右躰之品御支配違之者出板致候ハヽ、其時々可申上候、依之
右摺物相添此段為御伺申上候、以上
午二月 絵類読本取扱懸り 名主共
右之通当月七日申上候処、書面伺之通相心得可取計旨、北御町奉行所差図を以被仰渡奉畏、以上
天保五年午二月晦日 絵類読本取扱懸 堺町 名主 五郎兵衛
呉服町同 三郎右衛門〟
〈文政四年、市中の女芸者や岡場所の遊女を売春の咎で一斉検挙した。いわゆる警動(けいどう)である。その時検挙
された者たちは吉原送りになったが、その遊女たちの元の住所と名前を角力番付仕立てにして売り出した者がいた。
早速、それは販売禁止にされ板木削除の処分が下った。ところが今後は住所名前を落とした版が出回った。これには
手当たり次第回収して水で腐らせて対処したいという内容である。また最近武家方や百姓の名前で出版する者も見受
けられる。彼らは我々「絵類読本取扱懸り」の管轄外ではあるが、見付けた場合は連絡したいともいう。奉行所はこ
れらを認めた〉
◯ 三月朔日〔『江戸町触集成』第十三巻 p45(触書番号12808)〕
〝去ル七日神田佐久間町、同九日桧物町、同十日松平伯耆守殿より及出火候処、右三ヶ所焼失場所絵図面、
又は方角場所付等認、凡廿枚程板行致、町々売歩行、且絵草紙屋ニても見世売致候、右は重キ御役人其
外諸家名前を顕シ、殊ニ時之雑説を板行致間敷旨、前々より町触も有之候処、右を不相用、不埒之至相
聞候間、絵草紙屋は勿論、町々売歩行候者共早々被差止可被申事
午二月 北三廻り
(中略)
右之通北三御廻方御談有之候間、町々売歩行候分は御支配町々え被仰渡御差留、絵草紙屋床見世等ニ有
之分は御支配限り御取上、御組合世話番え御預り置可被成候、右申合候、以上
午三月朔日〟
〈市中焼失場所絵図面・及び方角場所付「かわら版」の差し止めである〉
◯ 十月〔『江戸町触集成』第十三巻 p73(触書番号12862)〕
〝 乍恐以書付奉申上候
一 書物問屋行事奉申上候、当春売出仕候江戸名所図絵十冊、右は御伺済ニ相成候品ニ候哉之旨御尋被
遊、則左ニ申上候
右書之儀ハ寛政十午年五月中、通壱丁目書物問屋茂兵衛、浅草茅町二丁目同伊八、板行仕度旨草稿本ヲ
以其節之行事へ改ニ差出、写本改相済、則写本改帳ニ控置候品ニ付、去々年辰年十二月彫刻出来、行事
方へ改ニ差出候節御伺不仕、行事限ニて相改売買仕候、御尋ニ付此段も上候、以上
天保五午年十月 書物問屋行事 両国吉川町 喜兵衛店 佐助
同 通三丁目 武助店 平介
(下ヶ札)
奈良屋御役所様
寛政十午年五月 書物問屋行事 神田鍛冶町弐丁目 善五郎
通三丁目 平助
通油町 喜右衛門
佐内町 平助
当時退転 権兵衛
藤兵衛
新板写本改帳
寛政十午年五月
江戸名所図絵 全八冊
丁数 凡五百丁程
作者 長秋先生 願人 須原屋茂兵衛
画工 北尾重政 同伊八〟
〈長秋先生著・北尾重政画の『江戸名所図会』は、寛政十年(1798)五月、仲間行事による写本改(アラタメ)(検閲)は済ん
だものの直ちに出版とはいかなかった。天保三年(1833)十二月、板木が出来、売り出しは同五年春である。著者長秋
先生の松濤軒斎藤幸雄は寛政十一年(1799)に死去しているから、これを目にすることはなかった。また、どういう事
情があったのだろうか、挿画は北尾重政ではなく長谷川雪旦に替わっている。結局、日の目を見たのは斎藤幸雄の孫
・月岑の代になってからである。しかしながらそれも出版手続きに不備があった。行事に提出したとき出版伺いを立
てず、行事改のみで出版してしまったのである。斎藤月岑は名主である。手続きは重々承知のはずである。どうした
ことのなのであろうか。行事は寛政十年の改帳を写して許可済みであることを示そうしたのであろうが、さてどのよ
うな決着を見たのであろうか〉
☆ 天保六年(1835)
◯ 六月二十三日付〔『江戸町触集成』第十三巻 p107(触書番号12921)
〝近来書物地本両問屋仲間外素人共、猥ニ出板絵草紙小売古本屋床見世並本屋せとり共え売捌候もの有之、
甚不取締ニ罷成候間、向後取締可申合旨、南定廻り方被仰含候間、請印取置候義ニ付、右当人家号家主
町銘共御組合限り、月行事持場所共不洩様御取調、半紙横帳ニ被成、御組合限り当月中之内拙者共之内
源七方え可被遣候、以上
但、柳原土手所々馬場橋台往還え並べ商候分、居町ニて御取調可被成候
六月廿三日 絵本改懸 肝煎
半紙横帳
何町誰店 居付古本屋 誰
何町誰店 出張商ひ床見世 古本屋 誰
何方え罷出申候
何町誰店 本類せとり 誰
何町誰店 並本屋 誰
右之通御座候
月 日 何番組 肝煎〟
◯ 八月二十一日 p119(触書番号12943)
〝一 諸芸人名弘メニ付、摺物同門弟子内え配り集会催候儀は、是迄之通取調之上、南北定廻り方え御届
可被成候事
一 歌舞伎役者、浄瑠璃太夫追善摺物等、配り捨候義ニ紛敷義も無之候間、是迄仕来之通取計可申事
一 浚会口上摺口上書門弟え配り、全浚会ニ相違無之分ハ、仕来之通御廻り方え御届等不及、集会茶屋
より申継、板木屋行事より掛り名主え相届、尤口上摺口上書え外品を添、無沙汰ニ相配り、花会ニ紛敷
分ハ御差留、不取用分ハ取調、委細書取、南北三御廻り方え御届可被成候
但、御支配違之分ハ、口上摺受候板木屋、席貸遣候者共より掛り名主え相届可申、尤不正之催は前文
同様取計可申事〟
☆ 天保九年(1838)
◯ 十二月二十五日付〔『江戸町触集成』第十三巻 p303(触書番号13230)〕
〝 小口年番名主
近来往還え取散、好色本絵類商ひ致候もの有之趣、御沙汰有之候、是迄度々絵草紙懸りえも申聞、右様
之本絵類取上ケ、猶去ル丑年白粉、歯磨等之袋迄取調、板木削潰し、并摺溜水腐為致候処、右躰御制禁
之品不相弁、往来ニて取扱候ものも有之由、以之外不束至ニ候、此已後若右躰心得違之もの於有之は、
厳敷御沙汰可被及条、自今聊心得違之もの無之様、支配町々不洩様急度可申付候、勿論支配内之義は、
見当次第其品可取上候、尤絵草紙掛り名主えも申付、見当候品有之は取上ケ候筈ニ付、得其意、組々支
配町々取示方可致候
右之趣御奉行所御沙汰ニ付、申渡候条、組々不洩様申通急度可相心得候
絵草紙掛 名主
近来往来え取散候好色本絵類、商致候もの有之趣御沙汰有之、前書之通小口年番名主え申渡、組々支配
町々不洩様取示方申付候間、此旨地本問屋行事えも為相心得、猶又問屋共商ひ向之儀は、行事共可相改
旨可申含候、自今万一往来は勿論、問屋見世売共、右躰之品見当り候ハヽ、早々取上ヶ其段可相届候
右之趣町奉行所御沙汰ヲ以申渡候間、精々心付可取扱候
戌十二月
右之通戌十二月廿五日館一右衛門殿被申渡候ニ付
組々え通達
右之通被仰渡奉畏候、為御請帳え印形仕候、以上
天保九戌年十二月廿五日 南北小口年番 絵草紙掛り 連印
前書之通、今日館市右衛門殿え拙者共被相呼被申渡候間、町々絵本類渡世之者、并往還ニて売々いたし
候もの共、取扱申間敷旨厳敷被仰付、其上往来等ニて取広売々致候者共義は、御支配御同役御心付、御
見当有之候ハヽ其当人品持参被相呼、得と御申諭、証文御取置可被成候、此段御達申候、尤品御取上之
分、御年番御同役方より最寄絵草紙掛え御文通ニて可被仰遣候
但、御同役御名代抔え取扱がさつ等有之候ては不宜候間、右等之義御組合限申合可被成候
南北小口年番 鷲雄左衞門
外弐人
絵草紙懸り 樽屋三郎右衛門
外六人
右御達申候、以上
戌十二月廿六日 組合年番〟
〈ここにいう「好色本」は春画のこと。後出、『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」天保十二年
十二月の市中取締三廻り同心の調書参照〉
☆ 天保十二年(1841)
◯ 十月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」一「市中取締之部」第一〇件・p240〕
(天保十二年丑十月「市中取締掛上申書」)
〝一 合巻・絵草紙・人情本と唱候絵入読本之事
此儀、文化元子年五月、館市右衛門方ニて申渡候趣は、絵草紙類之儀ニ付、度々町触申渡之趣有之
候処、今以如何成品商売致し不埒之至り候、今般吟味之上、夫々咎申付候、以来左之通可相心得候
一 一枚絵草紙類、天正之頃以来武者等名前を顕し書候儀は勿論、紋所・合印・名前等紛識認候儀も、
決て致間敷候
一 一枚絵和歌之類并景色之地名、又は角力取・歌舞妓役者・遊女之名前は格別、其外詞書一切認間敷
候
一 彩色致し候絵本双紙等、近来多く相見、不埒ニ候、以来絵本草紙等は墨計ニて板行致し、彩敷色を
加候儀無用候
右之通相心得、其外前々触申渡之趣堅相守商売致し、行事共入念可相改候、此度絶板申付候外ニも、右
申渡ニ違候分は行事共相糺、早々絶板致し、以来等閑之儀無之様可致候、若於相背、絵双紙取上絶版申
付、其品ニ寄厳敷咎申付べく旨申渡有之候処、近来合巻・絵草紙と唱候もの、殊之外絵柄入組、表紙は
彩色摺、㝡上之仕立ニ致し、其外人情本と唱候本有之、右は好色情死之類を趣向ニ致し淫風甚敷、以之
外風俗ニ拘り候儀有之、掛り名主共も有之候処、何故其儘ニ差置候哉難心得奉存候、一躰絵双紙之類、
文化之頃迄は四五枚を一冊ニ致し、五冊続位ニて全部ニ相成、仕立方も麁末ニ候処、其後は合巻ニ相成、
次第ニ絵組等手を尽し候、紙之価ニも拘り、全く無用之者ニ御座候、表紙ぇ彩色を加候儀は、文化度申
渡之通厳敷御制禁被仰付、人情本之儀は絶板被仰付可然哉奉存候〟
◯ 十一月二十九日〔『江戸町触集成』第十三巻 p436(触書番号13420)〕
〝凧之義、近来絵柄粉色等無益ニ手を込、高直之品も有之趣相聞候、此節仕込候時節ニ付、右躰之品決て
拵申間敷候、尤兼て申渡置候通、大キ成凧仕込申間敷候、右渡世(衍カ)之ものいたし候者共え、急度可
申渡置候
但、大凧八枚張之上之分は仕込間敷候
右之通申渡候間、不洩様一同え早々可申通、已来違失無之様可致候
右之通被仰渡奉畏候、為後日仍如件
天保十二丑年十一月廿九日
安針町 名主 雄左衞門〟
〈凧の絵柄、大きさ、高直なるものに対する規制である〉
◯ 十二月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p92)
〝去〈天保十二年〉十二月中、仲ヶ間・組合御差止〟
〈地本問屋の仲間・組合が解散させられた。しかしこの解散はその後、次ぎのような弊害をもたらした。以下の文面は
絵本類改(アラタメ)掛り名主から町奉行宛に出されたもの。なお解散時期については天保十三年三月とする文書もある。
天保十三年十一月、町年寄・館市右衛門の「絵双紙団扇改方之儀并壱枚絵彩色直段等相調申上候書付」という伺書の
中に〝当三月、仲間・組合相止候以来〟とある〉
〝諸芸人名弘・浚会等口上摺絵柄有之分、是迄地本問屋共より草稿を以申出候間、絵柄子細無之分ハ数百
枚を限り、社中之外知人ニも無之世話人相頼、花会紛鋪儀不仕様、催主并席貸候茶屋共支配名主・組合
肝煎・世話掛り等へ相達、如何之儀も無之分ハ、南北三御廻り方へ御届之上、相催候仕来ニ御座候処、
仲間・組合御差止以後は、素人共勝手次第に誂請、地本問屋共同様之稼方仕候(以下略)〟
〈名弘め会やお浚いの会に配られる摺り物についてはこれまで取り締まりに手を焼いてきたのだが、仲間・組合の解散
によって、参入しやすくなった素人が勝手に注文を取り始めるなど、かえって統制が取れなくなってしまったようだ。
中には地本問屋同様の稼ぎ方をするものまで現れ始めたのというのである〉
◯ 十二月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p7)
(町奉行の市中取締り懸(カカ)りの三廻(隠密廻り・定廻り・臨時廻り)同心によって摘発され没収された
人情本・好色本のリスト)
〝天保十二丑年十二月
絵草紙并人情本好色本等風俗ニ拘候儀三廻調書
絵草紙并人情本好色本等之義ニ付申上候書付 市中取締懸り 三廻り
合巻絵草紙并人情本と唱候絵入読本之義ニ付、人情本之義は当十月申上候処、合巻絵草紙来春売出来仕
候分、表紙彩色摺遍数少々減候趣ニ御座候得共、格別遍数目立へり候様子共不相見候、且近年田舎源氏
氏と申小冊物も、年々出板売出申候。
人情本之義は、滑稽本になぞらへ色情之義を専ニ綴、好色本ニ紛敷淫風之甚敷、婦女子等えは以之外風
俗ニ拘り候処、読本掛名主共改之詮無之、追年数十篇出板差出候趣相聞候ニ付、当年迄差出候表題并来
春売出候分共荒増左ニ申上候。
〔頭注 合巻ノ表紙彩色摺遍数格別ニハ減ラズ。田舎源氏年々出板サル。人情本ハ婦女子風俗ニ拘ハル、
毎年数十篇出板サル。本年並ニ来春出板書目〕
人情本・好色本摘発リスト(天保十二年(1841)十二月 町奉行摘発)
☆ 天保十三年(1842)
◯ 六月四日付〔『江戸町触集成』第十四巻 p127(触書番号13642)〕
〝自今新板書物之儀、儒書仏書神書医書歌書都て書物類、其筋一ト通之事は格別、異教妄説等を取交え作
出、時之風俗人之批判等を認候類、好色画本等堅可為無用事
一 人々家筋先祖之事抔を彼是相違之儀共、新作之書物ニ書顕し、世上致流布候義弥可為停止事
一 何書物ニよらす、新板もの作者并板元之実名、奥書ニ為致可申事
一 只今迄書物ニ、権現様御名出候儀相除候得共、向後急度致たる諸書物之内押立候儀は、御名書入不
苦候、御身之上之儀、且御物語等之類は相除、御代々様御名諸書物ニ出候義も、右之格ニ相心得可申旨、
享保度相触置候所、都て明白ニ押出し世上ニ申伝へ、人々存居候義は、仮令御身之上御物語たり共、向
後相除候ニ不及候
但、軽キかな本等之類は只今迄之通り可相心得候
右之外暦書天文書阿蘭陀書籍翻訳物は勿論、何之著述ニ不限総て書物板行致候節、本屋共より町年寄館
市右衛門方へ可申出候、同人より奉行所え相達、差図之上及沙汰候筈ニ付、紛敷儀決て無之様可致候、
且又彫刻出来之上は一部宛奉行所え差出候、若内証ニて板行等致ニおゐては、何書物ニ不限板木焼捨、
懸り合之者共一同吟味之上、厳重之咎メ可申付候
右之通町中不洩様可触知もの也
六月
右之通従町御奉行所被仰渡候間、町中家持借家店借裏々迄不洩様早々可相触候
六月四日 町年寄役所〟
〈町奉行の基本方針は享保七年の触書と同じだが、問屋仲間の解散もあって、出版の手続きが変更になった。行事を介す
ことができなくなったので、板元は直接町年寄・館市右衛門へに申し出て、奉行所の許可を受けよというのである。町
触には「本屋共より町年寄館市右衛門方へ可申出候」とあるが、言うまでもなく、実際に検閲するのは書物と絵草紙の
改(アラタメ)懸り名主であるから、名主を経由して町年寄へということになる。そして許可された場合は、版木の彫刻が出
来次第、見本を奉行所へ差し出して、再チェックを受けること、もし無断で摺って出版した場合は、板木を焼き捨て関
係者を厳罰に処すとした〉
◯ 六月四日付〔『江戸町触集成』第十四巻 p128(触書番号13643)〕
〝錦絵と唱、歌舞伎役者遊女女芸者等を壱枚摺ニ致候義、風俗ニ拘り候筋ニ付、以来開板は勿論、是迄仕
入置候分共決て売買致間鋪、其外近来合巻と唱候絵双紙之類、絵柄等格別入組、重モニ役者之似顔狂言
之趣向等ニ書綴、其上表紙上包等え彩色を相用ひ、無益之儀ニ手数を懸ケ、高直ニ売出候段如何之儀ニ
付、是迄仕入置候分共決て売買致間敷候、向後似顔又は狂言之趣向等は相止、忠孝貞節等を元立ニ致、
児女勧善之ためニ相成候様所綴、絵柄も際立候程ニ省略いたし、無用之手数不相掛様急度相改、尤表紙
上包等ニ彩色相用ひ候義は堅く可致無用候、尤新板出来之節は町年寄館市右衛門方え差出、改請可申候
右之通被仰渡奉畏候、仍如件
天保十三寅年六月四日
絵草紙懸り 品川町 名主 庄右衛門
堺町 同 五郎兵衛
鈴木町 同 源七外御用ニ付 代 権四郎
南伝馬町 同 新右衛門煩ニ付 代 新七郎
高砂町 同 庄右衛門
小網町 同 伊兵衛
新両替町 同 佐兵衛外御用ニ付 代 福次郎〟
〈天保改革の進行に伴い、浮世絵に対する規制がさらに厳しいものとなった。市中の女芸者は言うまでもない、それが
これまでお墨付きを得ていた役者・遊女の一枚絵にまで及んだ。新規の出版はもちろん既刊のものも含めて、今後は
一切売買禁止。風俗に拘わるというのである。団扇絵もまた同断。合巻については、芝居の趣向取りや登場人物を役
者の似顔にすることも禁止。役者似顔を触書で禁ずるとしたのはこれが初めてであろうか。一枚絵の役者似顔はどう
なっているのだろうか。草紙類だけ不許可というわけではないだろうから、一枚絵の役者似顔絵も同様に禁止された
ものと思う。天保十五年(1844)の三月の触書には「役者似顔遊女絵并人情本彩色表紙草双紙等、都て売買仕間敷品々」
とあり、一枚絵の役者似顔を明確に禁止する文言になっている。また表題・上包の色摺も禁止。そして新板は町年寄
・館市右衛門に提出して改(アラタメ)(検閲)を受けよという通達である。以降、これが改懸りの検閲指針となっていく〉
◯ 十一月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p69〕
(町年寄・館市右衛門の町奉行宛伺書)
〝絵双紙団扇改方之儀 并 壱枚絵彩色直段等相調申上候書付 館市右衛門
当六月、壱枚絵其外合巻絵双紙之類、御取締被仰渡、新板出来之節々、私方え差出、改請可申旨、絵双
紙懸り名主共え被仰渡、右名主共精々取調候得共、当三月、仲間・組合相止候以来、心得違之者共、更
ニ懸り名主共え不申出売出候類、并自今新規右渡世相始候もの取示ニも拘り、懸り名主申立候趣を以、
取扱向左ニ奉伺候
一 錦絵と唱候壱枚絵之義、花美不相成様、以来彩色七八篇限り、并売直段壱枚拾六文限り被仰付候ハ
ゝ、改方目当正敷、且高価御制度ニ相成可然哉
是は、当時絵柄ニ寄、彩色拾篇余摺立、直段之儀も壱枚ニ付、弐拾四文位売捌候由、先年彩色六七篇
限り、直段壱枚拾八文限り売出候旨、古老之名主相覚候段申之候処、篇数之儀は聢と書留相知不申、
直段之儀ハ、寛政度、小田切土佐守殿、於御番所、売直段壱枚拾六文、拾八文以上之品可為無用旨、
肝煎名主共え被仰渡侯写差出、殊ニ当時諸色直段御調中ニ付、拾八文売之廉相除、彩色之儀ハ商ひ見
付ニも相成、七八篇位迄ハ苦間敷哉、御見合旁々、兼て名主共絵柄彩色大意伺出候品々相添奉伺候、
一 右壱枚絵之儀三枚続より余慶之継合ハ難相成旨、改取極り可申渡哉、
是ハ、是迄懸り名主共改方、三枚続以上ハ差留候旨ニ候処、心得違之もの此節四五枚続、又ハ拾枚続
之品売出し候旨、懸り名主共取上ケ来申候、本文之通申渡、三枚以上続板木ハ、支配名主え為削取候
様可仕奉存候、
一 団扇屋共仕入候絵柄之儀も、同断右絵双紙懸り名主共え改方可申渡候哉、
是ハ、団扇仕入候もの共多分堀江町ニ罷在、是迄右町組合名主五郎兵衛、重もニ取扱来候得、禁忌改
方之儀、壱枚絵同様為取扱候方可然奉存候、本文之通申上候
(以下略)〟
◯ 十一月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p98〕
(町年寄・館市右衛門提出の北町奉行宛伺書)
〝子供踊尽五枚
役者絵ニ紛敷旨を以、絵双紙掛品川町名主(竹口)庄右衛門差出し申候
全役者似顔ニハ無御座、此位之絵柄は差置可申哉、且ヶ様之絵組ハ壱枚立ニ見極候ても可然、彩色ハ
七八遍限可相改旨可申渡奉存候〟
(この伺いに対する町奉行所・市中取締掛り与力の指示)
〝書面館市右衛門伺之通被仰渡、可然哉ニ奉存候 市中取締掛り〟
〈禁制に役者絵に紛らわしいとして、絵双紙改(アラタメ)掛りの名主・竹口庄右衛門が町年寄の館市右衛門に「子供踊尽」
の錦絵を差し出した。これに対して、館は、これは全く役者似顔絵には当たらないし、これくらいの絵柄は咎め立て
るまでもない、また尽(ツクシ)となっているものの、一枚立(それぞれ一枚一枚が一つの作品という意味か)と見なし
得るので三枚以上の続絵とも違う、従って出版に支障はない、ただ彩色の方は七八遍摺を限りとする、これで出版許
可を与えてはどうかと伺いを立てたのである。町奉行は館の伺いをそのまま認めた。以下、同様の伺いと奉行所の裁
定が続く〉
〝懸り名主鈴木町(和田)源七より差出申候
子供踊尽 五枚
同長唄尽 四枚
此類壱枚立ニ見極候ても可然、但言葉書入念相改候様、遍数七八遍限り仕候ハゝ、絵柄ハ差置可申哉〟
〈和田源七からは「子供踊尽」の他に「子供長唄尽」なるものも差し出された。館は前記同様、これらは「一枚立」と
見なして差し支えない旨を以て許可を求めた。但し画中の言葉書きを入念に改めるよう注文を付けている〉
〝懸り名主鈴木町源七より差出申候
子供踊尽 拾枚
内、禿絵ハ差止メ、其外ハ壱枚立ニ見極候儀可然、尤彩色ハ、何れも七八篇限り可相改旨、申渡奉
存候
蚕家織子之絵 拾枚
是ハ全十枚続ニ付、三枚以上ノ廉ニ差止候〟
〈「子供踊り尽」十枚のうち、禿(かぶろ)絵は不許可。それ以外は一枚立と見なせるので許可してどうか。色数の制
限は勿論守ること。「蚕家織子之絵」これは三枚続以上の続絵であるから不許可。これも与力はそのまま町奉行に上
申した〉
〈そして十一月晦日、最終的には、以下のような裁断が下された。これらは町年寄・館市右衛門の具申を奉行所側がす
べてそのまま受け入れたかたちだ〉
〝子供遊踊尽 五枚
子供遊長唄尽 四枚
子供踊尽 拾枚
内、禿絵ハ差止
右品ハ、板木等継セ不相見、壱枚立ニ見極候も可然哉
但し、芝居ニて興行致居候事を、同時ニ右子供絵差出候類有之候ハゝ差止置、下絵ニて可相伺候
蚕家織子之図 拾枚
右ハ、一品之次第ニ続キものニ付、三枚以上之廉見極可然候
雅六芸之内 壱枚
是ハ、前ヶ條之格を以見極可然候
忠臣蔵五段目之仕組絵 壱枚
右ハ、役者・狂言絵と紛鋪候間、差止可申候〟
〈「子供遊踊尽」「子供遊長唄尽」は許可。「子供踊尽」のうち禿絵は不許可。但し芝居興行と同様と見なしうる絵柄
の場合は下絵の段階で伺いを立てること。「蚕家織子之図」「画六藝」は三枚以上の続きものなので不許可。「忠臣
蔵五段目之仕組絵」は狂言絵に紛らわしいので不許可。もっとも「蚕家織子之図」や「画六藝」は現存が確認されて
いるから、下掲のように三枚続の体裁にしたりあるいは一枚絵仕立てにして売り出されたようである。これら作品の
絵師について、岩切友里子氏は、種々の作例がある「子供遊踊尽」を除いて、以下のように特定している。(「天保
改革と浮世絵」(『浮世絵芸術』143・2002年刊)
「子供遊長唄尽」 一勇斎国芳画・若狭屋与市板
「子供遊踊尽」英泉画・和泉屋市兵衛板
これが「子供踊尽 拾枚」に相当するという。奉行の通達では禿の絵は禁止であったが「羽根の禿」という作品が
あるという
「蚕家織子之図」一勇斎国芳画・佐野屋喜兵衛板
「第一」から「第十」までの番号の入る十枚続きの作品と「松・竹・梅」「天・地・人」に直した三枚続の体裁を
取った作品がある由
「雅六芸之内」国貞画・上州屋金蔵板
なおこれらの作品には全て改印がないという。しかし町年寄・館市右衛門は「全役者似顔ニハ無御座」としている
のだから、改に出していたわけで、無断出版ではない。ただなぜ絵草紙掛の名主たちは改印を捺さなかったのであ
ろうか〉
◯ 十一月三十日〔『江戸町触集成』第十四巻p257(触書番号13807)〕
〝天保十三寅年十一月晦日
組々世話掛 名主共
当六月壱枚摺絵其外合巻絵双紙之類取締方、絵草紙掛名主共え被仰渡候処、右商売人之内心得違之もの
も有之哉、懸り名主共不改請売出、其外彩色手ヲ込高直之品有之段相聞、以之外之義ニ付、已後彩色并
直段等左之通被仰付候
一 壱枚絵之義ハ已来彩色七八編摺を限、売直段壱枚拾六文已上之品可為無用
一 右壱枚絵三枚続より余慶ニ継合売出候儀、難相成候
右之趣相心得、此外都て当六月中被仰渡通堅相守、絵双紙屋共新板絵類は勿論、合巻絵双紙之類都て草
稿ニて、懸り名主月番之者え申出改印を請、出板之刻突合差出売買可致旨、名主支配々不洩様申付、月
行事持場所は最寄名主より心付、勿論以後新規右渡世相始候者えも、其節々前条之趣申含、心得違無之
様可申付候
附、団扇屋共仕入候絵柄之儀も同断、下絵を以右絵双紙懸り名主共え差出、可改請旨可申付候
右之通北御奉行所御差図を以申渡之、此上心得違之者有之候ハヽ急度可仰付候条、其筋商売人共え不洩
様具ニ可申含候
寅十一月 絵双紙掛 名主
〈六月の通達にも拘わらず、懸り名主の改(アラタメ)(検閲)を受けず、しかも手の込んだ色摺にして高値で出版する心得
違いがいるので、具体的に規制しようというのである。摺り数は七八遍まで、小売値は一枚十六文以上無用。寛政七
年にも似たような通達があったが、摺り数に言及はなかったし、小売値も十六文十八文以上無用と二文ほど緩やかで
あった。参考までに天保十三年当時、一枚絵はどれくらの値段であったかというと「当時絵柄ニ寄彩色拾篇余摺立、
直段之義も壱枚ニ付貳拾四文位売捌候由」(『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」)すなわち
摺り十遍余りの一枚絵が二十四文くらいであった。それを八文下げて十六文にせよというのである。今回の規制はそ
ればかりでない。さらに一枚絵は三枚続までという制限が加わった。規制は団扇絵にも同様に及んだ〉
◯ 十二月〔『江戸町触集成』第十四巻p258(触書番号13807)〕
〝天保十三寅年十二月
町々絵双紙屋共見世え並べ釣置候心得方
左之通
一 賭事勝劣を争ひ候絵本堅無用之事
一 壱枚絵団扇絵共、拾六文以上は無用之事
一 絵本一枚摺共、標題上袋は巻摺ニ限り、彩色は堅無用之事
一 絵入読本同小冊書物類両面摺、都て下絵草を以拙者共月番方え伺之上、差図を請可申事
一 三枚已上は堅無用之事
但、南海道絵図 十哲
七賢人 八景
十二景 角力絵共
六部選
向後三枚宛差出、壱枚毎ニ、一二三、上中下、天地人、雪月花と譬は十枚続之内三枚宛三度ニ差出、
全残壱枚ハ壱枚絵と彫付、四枚已上御差止之儀明白ニ相分り候様、且又摺も七八偏ニ相直候ハヽ、
売買拙者共月番方え伺出可申事
一 子供踊子尽し是又三枚宛ニ限、四枚已上は前書ニ準シ、上中下、天地人と彫付、二タ分ニ売出可申
事
一 都て女絵大人中人堅無用、幼女ニ限り可申事
一 見世ニ釣置候儀、上中下三段共四枚已上堅無用之事
前書之通御組合御同役御支配限、書物屋絵双紙屋共え御申渡有之候様、月行事持場所共不洩様御通達可
被成候
寅十二月 書物絵双紙改掛り〟
〈絵双紙屋への通達である。賭け事や優劣を争う絵本は販売禁止。一枚絵・団扇絵とも十六文まで。表題や上袋の彩色
禁止。出版物はすべて草稿を書物絵双紙改(アラタメ)掛りに提出し、その差図を受けること。続きものは三枚まで、それ
以上は禁止。但し十哲や七賢人などは格別、しかしたとえ十枚続であっても、三枚ずつ三度に分けて提出し、残りの
一枚は一枚絵と彫り付け、四枚以上は禁止ということが明確に分かるようにすること。子供踊子尽も三枚まで。四枚
以上は続き物と同じ。また女絵については大人・中人(娘か)は禁止、幼女のみ認める。見世先の吊るし方まで上下
三段四枚までと規制が及んだ〉
☆ 天保十四年(1843)
◯ 三月二十九日〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p104〕
(「卯三月廿九日、佐兵衛月番之節画師共相呼、近頃絵柄風俗不宜候ニ付厳敷申渡、証文取置候事」)
〈佐兵衛に「村田、新両替町、絵草紙掛名主」の添え書きあり〉
〝(昨年、天保十三年六月四日付の触書と同文あり、省略)
右之通、去寅年六月四日、遠山左衞文尉様御番所於御白洲、各方え被仰渡御座候ニ付
〈以下、錦絵草双紙の作画を主にしている画師、連名の請書になる〉
私共儀錦絵・艸双紙絵類重立相認候ニ付、今般左之通被仰渡候
一 禁忌・好色本之類
一 歌舞妓役者ニ似寄候類
一 遊女・女芸者ニ似寄候類
一 狂言趣向紛敷類
一 女子供踊大人ニ紛敷類
一 賢女烈婦伝・女忠節之類
右の廉々、其筋渡世之者又ハ素人より頼請候共、賢女烈婦伝之類、絵柄不相当今様姿ニ一切書申間敷候、
其外都て男女入交り風俗ニ拘り候絵は勿論、聊ニても役者・女芸者ニ紛敷躰無之様、厚心附可申旨被仰
渡奉畏、為後日仍如件
天保十四年卯三月廿九日
坂本町壱丁目 太右衛門店 英泉事 画師 善次郎(印) 家主 太右衛門(印)
田所町久兵衛店 国芳事 画師 孫三郎(印) 家主 久兵衛 (印)
亀戸町友三郎店 国貞事 画師 庄 蔵(印) 家主 友三郎 (印)
同町金蔵店 貞秀事 画師 兼次郎(印) 家主 金 蔵 (印)
大鋸町長七店 広重事 画師 徳兵衛(印) 家主 長 七 (印)
柳町鉄右衛門店 亀次郎伜 芳虎事 画師 辰二郎(印) 家主 鐵右衛門(印)
〈以下は次ぎのような「下ヶ札」付いている〉
〝錦絵類并団扇絵共近頃不宜風俗画候間、当三月、私月番節画師共相呼、本文之通證文取置申候、然ル
処、当四月月番品川町名主(竹口)庄右衛門・同五月月番高砂町名主(渡辺)庄右衛門改済之絵柄不
宜候間、掛り名主共一同申合売買差留、右掛り館市右衛門方え差出置申候 名主 佐兵衛〟
〈好色本や役者や遊女・芸者の似顔絵など風俗に拘わるものはもちろん、賢女烈婦伝や女忠節の類も当世風に画かない
ことを誓約した、英泉・国芳・国貞・貞秀・広重・芳虎、六人連名の証文である。しかし「下ヶ札」をみると、四月、
五月の改(アラタメ)(検閲)済みのものにも依然として絵柄の宜しからざるものがあり、それらを売買禁止にしたとある。
『大日本近世史料』の頭注に〝前ニ請書ヲ取ルモナホ宜カラザル品〟とあり、絵師を咎めるような文面であるが、改
を通した名主側にも軽率な判断があったのではないだろうか。あるいは絵柄が巧妙でなかなか見抜けないということ
かもしれない〉
◯ 五月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p107〕
(町年寄・館市右衛門の上申書「似顔絵等御取締之趣申上候書付」)
〝去寅年(天保十三年)六月四日、遠山左衞門尉殿被仰渡、
錦絵と唱、歌舞伎役者・遊女・女芸者等を壱枚絵ニ致候儀、風俗ニ拘り候筋ニ付、致間敷旨、其外合
巻ト唱候絵草紙之類、似顔・狂言之趣向は相止メ、忠孝・貞節を元立ニいたし、表紙・上包等彩色相
用候儀可致無用、新板出来之節ニ私方え差出可改旨、別紙写之通絵草紙掛り名主品川町庄右衛門外七
人え被仰渡候、
右之通御座候、役者紋所之儀ニ付、別段被仰渡等無御座候、依之申上候、以上、
卯五月 館市右衛門〟
〈依然として昨年六月の通達が守られていないようで、町年寄・館市右衛門が町奉行に取締りの徹底を求めたのである。
また役者の紋所についても禁止にするよう上申したのである〉
◯ 五月二十二日〔『江戸町触集成』第十四巻 p363(触書番号13941)〕
〝 市中取締掛 名主共
絵草紙掛 名主共
錦絵と唱、壱枚摺ニ致し或は双紙之類、絵柄格別入組無益ニ手数を掛、高直ニ売出間敷旨、去寅六月中
申渡置候次第も有之候処、近頃子供踊抔と名付、歌舞伎狂言ニ紛敷彩色絵等相見、不埒之至ニ候、向後
団扇絵其外都て右形容ニ不似合様、弥絵柄改正いたし、成丈手数不相懸様摺立、篇数其外之儀先達て申
渡之通堅可相守、名主共も入念相改、万一不改受売出し趣及見聞候ハヽ其段早速可申出
一 総て商物其外、不依何品ニ、歌舞伎役者之名前紋所を附候儀不相成候間、名主共支配限不洩様右之
趣可申通、若相背候もの於有之は、吟味之上急度咎可申付
右之通被仰御奉畏候、為後日仍如件
天保十四卯年五月廿二日 市中取締掛請印
絵草紙掛請印
右は甲斐守様於御白洲被仰渡候〟
〈歌舞伎狂言に紛らわしい「子供踊」と称する錦絵を規制するとともに、すべての品物に対して役者名・紋所の使用を
禁止した〉
◯ 六月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p109〕
(町年寄・館市右衛門の町奉行宛伺書)
〝此度被仰付候絵双紙懸六人書物掛り兼帯之儀奉伺候書付 館市右衛門
【書物懸り/絵双紙懸り】名主 南伝馬町(高野新右衛門)
外三人
右は、錦絵・団扇絵改方之儀ニ付、先達て奉伺候処、今般神田佐久間町名主(吉村)源太郎外五人、絵
双紙懸り被仰付、私共申合可相勤旨被仰渡奉畏候、右ニ付、是迄私共儀、書籍懸り兼帯相勤来侯間、前
書源太郎外五人之者共、同様書物掛り兼帯被仰付被下候様仕度段、申上侯
(朱書)此書物掛り之儀は、去々丑年(天保十二年)遠山左衛門尉殿御勤役中、伺之上絵双紙掛り七
人之内より三人初て書物懸り被申渡候処、去寅年(天保十三年)書物之儀、不残伺出候御仕法ニ相成
候ニ付、猶又御同人え伺之上、同年十一月絵双紙懸り之者不残書物懸り兼帯申渡仕候
右書面之通ニて、是迄書物懸り・絵双紙懸兼帯相勤候ニ付、此度被仰付候源太郎外五人儀も、書物懸り
兼帯申渡候様仕度、依之此段奉伺候、以上
卯(天保十四年)六月〟
〈書物懸りと絵双紙懸りの兼任は天保十二年に始まり、この年、絵双紙懸りの名主七名の中から三人が任命された。翌十
三年十一月には、同年六月の検閲体制の変更に伴い、三名では不足だとして、七名全員が兼任することになった。そし
て今年十四年六月、更に吉村源太郎外五人都合六人が絵双紙懸りに任命されるともに、書物懸りを兼任することになっ
た。天保十二年は高野新右衛門・大塚五郎兵衛・普勝伊兵衛の三名。天保十三年十一月、竹口庄右衛門・和田源七・渡
辺庄右衛門・村田佐兵衛が加わり七名となる。そして今回六名が絵双紙懸りに任命され直ちに書物掛り兼任となる。そ
の六名うち一人は神田佐久間の名主吉村源太郎であるが、その他の五人が分からない。参考までに石井研堂の『錦絵の
改印の考証』を見ると、名主の単印の時代(天保十四卯年(1843)~弘化四未年(1847))の改(アラタメ)(検閲)懸りの名主
の名が出ているので参照したい。
◯普勝伊兵衛 小網町一丁目 村田平右衛門 浅草平右衛門町 ◯竹口庄右衛門 品川町
田中平次郎 加賀町 衣笠房次郎 白山前町 村松源六 村松町
浜弥兵衛 浅草茅町一丁目 米良太一郎 麻布町 ◯高野新右衛門 南伝馬町
◯吉村源太郎 神田さくま町四丁目 福島儀右衛門 新乗物町 馬込勘解由 大伝馬町二丁目
◯渡辺庄左衞門 高砂町
◯印のない名主の中に「外五人」に該当するものがいるのだろう〉
◯ 十月二十三日〔『天保撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p345〕
〝天保十四年十月廿三日、町年寄館市右衛門より絵双紙掛名主共え申渡
向後狂歌、発句、怪談、遊話之類、香、茶、挿花、碁、将棋、包丁料理等之書冊、新刻之義は草稿書冊
え御奉行所押切印被成下候段、其外去ル十三日御差図之趣、書物懸りえ申渡追々御取締相立候ニ付ては、
是迄絵草紙懸り之方ニて相改候心得之廉々(カドカド)、以来左之通相心得可申候、
草書本類
一 和漢絵本・軍書之類
但、冊数多く、且認方ニ寄書物之廉ニ相心得候趣、兼て申出有之候え共、自今は全く草双紙は絵双
紙懸り名主手限改ニ仕、都て綴本ニ仕立候分は伺出御差図受可申候、尤下改いたし如何ニ被存候品
は、伺不及差止可申候
〈今後、すべての草双紙は、改(アラタメ)懸りの名主の「手限」に任せる。手限(テギリ)とは、上の裁断を仰がず、自己の
責任で判断すること。無論判断をつかないものについては、町年寄に伺いを立て奉行所の裁定を仰ぐことになるの
であるが、検閲の権限が名主に委ねられたのである。綴本はすべて伺いを立てその差図を受けることとあるが、綴
本とは何かよく分からない。また下改めの段階で如何(イカガ)と判断した場合は伺うまでもなく禁止にすること〉
一 戯作物
綴本著述之類、都て怪談、遊話之廉ニ候ハゝ、可伺出、候様申渡、尤風俗等ニ不拘類ハ是又伺不及
差止候
〈怪談や遊話は伺いを立てること、尤も風俗に拘わる本は伺うまでもなく禁止。なお「遊話」がよく分からない〉
一 絵入狂歌類
去ル十三日申渡候廉有之候ニ付、可伺出候
〈絵入狂歌は伺を立てること〉
一 壱枚摺絵図之類
是は国図又は格別細密ニ認候品は可伺出候、一ト通道中記、江戸絵図之如キ品は懸り名主手限改ニ
て可然哉
〈一枚摺の絵図の内、国図や特別細密に認めたものは伺いを立てること。普通の道中記や江戸絵図のようなものは改
(アラタメ)懸り名主の判断に任せる〉
一 都て手本・往来物等之類 絵本名所之類
此分凡有来之類ニ候はゝ、懸り名主手限ニて改可申候
〈ありきたりのものは、これまた改懸り名主の自己判断に任せる〉
一 絵双紙 壱枚絵 都て草双紙と唱候品
是は、追々被仰渡候趣相心得、懸り名主手限ニて相改可申候
〈絵双紙・一枚絵も改懸り当名主の手限となった〉
右之通相心得、絵双紙掛り月番之者取調、勿論都て何品ニよらず、見極難決品は可伺出候
右之通町奉行所御差図を以、申渡候、此旨相心得可取扱候
卯十月〟
◯ 十月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p139〕
(絵草紙掛り名主の市中及・諸色掛り名主宛通達案)
〝 南伝馬町弐丁目 源四郎店 絵草紙屋(辻屋) 安兵衛
家主 源四郎
米沢町壱丁目 政吉店 絵草紙屋(加賀屋)吉兵衛
家主 政吉
当七月、長谷川町定次郎店絵草帋屋(具足屋)嘉兵衛より掛り名主月番小網町(普勝)伊兵衛え差出
し、改済相成候将棋合戦三枚続錦絵、此節武家方家来内職板行致し候由之品、安兵衛買取、右之内吉
兵衛えも分ヶ遣、売買致し候趣相聞候、右は名主改印相違之品、取上候間早々可差出、安兵衛儀、重
て右躰不束之儀於有之は商売可差止候條、吉兵衛儀も心得違致間識候、孰れも開板致し度品有之は、
掛り名主え差出し改受候様可致候、
右之通、御奉行処え伺之上申渡之
卯十月〟
〝 一 将棋合戦三枚続錦絵
右は、長谷川町定次郎店絵草紙屋(具足屋)嘉兵衛開板之品ニ有之候処、武家方藩中内職類板出来、市
中絵屋共ニて取扱候趣ニ有之、右は紛敷品ニ付、一切売買不仕様(云々、以下略)〟
〈三枚続の錦絵「将棋合戦」が二種類出回った。一つは国芳画で板元・具足屋嘉兵衛のもの。これはこの七月、絵草紙
掛り名主・普勝伊兵衛の改(アラタメ)(検閲)を受けている。もう一つは武家の家来が内職で拵えた類板のもので、これ
は改済みとは相違する品物であった。当然無届け出版と同じことであるから問題になった。これを買い取って商売し
た絵草紙屋の辻屋と加賀屋が摘発を受け、その品物は押収された。町年寄・館市右衛門の書付によると、類板「将棋
合戦」の方は、辻屋が百枚引き受け、糴(セリ)売りの太助なるものは市中の絵草紙屋に八百枚ほど売り捌いたとある。
(この時、辻屋は百枚の内残り二枚を差し出した。つまり九十八枚は摘発される以前に売れたのである)処分はこの
没収のみで、今後は武家内職の品は取り扱わないこと、また次に事を起した場合には商売禁止処分にすること、そし
て開板する場合は必ず改を受けること、以上三点の確認で済んだ。なお『藤岡屋日記』天保十五年正月記事によると、
同十四年末に売り出された芳虎画春画板「土蜘蛛」が摘発を受けた時、やはり辻屋安兵衛がこれを小売りした廉で逮
捕されている〉
☆ 天保十五年(弘化元年・1844)
◯ 正月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p174〕
(書物・絵草紙改め懸り名主の町年寄宛伺書)
〝書物・絵草紙・小冊物之内、書物之分ハ一々館市右衛門(町年寄)え申立、御伺済之上同所ニて願之通
被申渡候、草双紙・一枚絵・手遊替絵・双六之類は、私共手限ニて見改、如何之儀無之分ハ摺立売買為
致候処、私共えも不申立勝手儘ニ摺立候絵本、又は双六之類、并武家方等ニて内職卸売致歩行候族も有
之、何れも改受不申品、此節市中本屋・絵草紙屋等ニて見世売致罷在、尤差向何之絵柄も相見え不申候
得共、此儘売買為致候ハゝ、追々勝手儘ニ売方売徳のみを心掛、人情本・笑絵等ニ紛敷分も出来致可申
候間、前書手続通り御伺済、又は私共手限ニ候共、改方無之品は勿論、前々より売来候古板之内ニも、
絵柄其外不宜分は板木削取、以来売買不為致、其上私共申合寄々見廻り、不取締之宜無之懸かり様仕度、
此段奉伺候、以上
辰正月 書物・絵草紙改掛り 名主共〟
〈書物は町年寄・館市右衛門に出版伺いを立て、草双紙・一枚絵等については、絵草紙改(アラタメ)懸りの名主が「手限(テ
ギリ)=上の裁断を仰がず、自己の責任で判断すること」によって許可を与えることになっているのだが、最近、改
(検閲)を受けない絵本や双六、あるいは武家の内職によって仕立てたものが、市中の本屋・絵草紙屋に出回ってい
る。現在のところいかがわしいもの見当たらないが、このまま放置しておけば、利得に惑わされて、人情本や笑絵等
に紛らわしいものも出てこよう。従って、改印のない品はもちろん、以前から売ってきた古板であっっても、絵柄の
宜しからざる品はすべて板木を削り取り、売買を禁じてはどうかという、改を担当する名主たちの提案である。これ
は認められた〉
◯ 一月三十日〔『江戸町触集成』第十五巻 p20(触書番号14088)〕
〝 申渡
書物掛り名主
去ル寅六月新板書物之儀ニ付、町触以後新規開板又は素人蔵板もの引受売弘願等、町年寄館市右衛門方
え申出候儀、重板之差別不相立候ては追々混乱致候ニ付、以来左之通可相心得候
一 前板有之を不存躰ニ致成不願出、後日相顕ニおゐては、急度可被仰付候
一 板木摩滅或は焼失等有之、持主え示談を遂願出候分ハ、重板ニても不苦候
一 他之者著述致し置候草稿を以、草稿主えは不断板刻願出候様成儀は有之間敷候得共、猶以心得違之
儀無之様可致候
一 同シ書類ニても、加除致候は類板ニ付、異同書顕し可願出
右之趣其筋商売人共心得違無之様可申含もの也
右之通町御奉行所御差図を以申渡候間、其筋商売人共え不洩様可申付候
右之通被仰渡奉畏候
辰正月晦日
右は館市右衛門殿被申渡候間、御組合限書物屋共え被仰渡、半紙竪帳え請印取置、来月四日迄南御腰掛
ケえ御持寄可被成候、尤書物絵草紙之儀ニ付別断被申含候儀御座候間、書物屋名前外ニ別冊ニ絵草紙屋
名前小前ニ候共不洩様御調、家号御書加え、是又御持寄可被成候、以上
正月晦日 【書物/絵草紙】 掛り〟
◯ 三月十八日〔『江戸町触集成』第十九巻 p180(触書番号・追119)〕
〝 絵双紙改掛より達
辻商人共、役者似顔遊女絵并人情本彩色表紙草双紙等、都て売買仕間敷品々並売致、且貸本屋共儀は好
色本人情本其外御制禁之本類、今以内々貸歩行候趣ニ付、各様御組合限右渡世之者、向後御制禁之品、
往還売并貸本等仕間敷旨精々被仰含、早々行届候様御取計可被成候、尤兼て被仰渡も有之事故、此節猶
又右被仰渡有之様ニ心取違不仕、事立不申様無急度御取計可被成候、已上
辰三月十八日 絵双紙改掛〟
〈これは辻商人及び貸本屋に対する禁令。いわゆる糴(セリ)売りに対する規制である〉
◯ 七月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p238〕
(町年寄・館市右衛門の町奉行宛伺書)
〝川中嶋合戦三枚継絵之儀ニ付奉伺候書付
一 川中島合戦 三枚継絵
右品、当五月中、芝三島町長兵衛店、絵双紙屋(佐野屋)喜兵衛より、其節絵双紙掛り月番名主加賀
町(田中)平四郎え差出改之上、彩色八編摺、其外猥ヶ間敷儀も無之ニ付、一旦為売出セ候処、先年
川中島合戦絵柄ニ付、御調等有之候由、此節及承侯ニ付、先つ不取敢右品売買差留置、如何可仕哉之
段、名主平四郎伺出申候
右依之相調候処、先年川中島合戦絵御調御座候程は、御番所御直調ニ有之候哉、私共書留相知不申候得
共、文化元子年五月、絵双紙問屋並組々年番名主え取締申渡候内、壱枚絵、草紙類、天正之頃以来之武
者等名前を顕画候儀は勿論、紋所・合印・名前等紛敷儀も、決て致間敷旨有之、然は、此度差出候川中
島合戦絵出板可為致品ニは無之、早々絶板申付、摺立侯品は不残取上ヶ可焼捨旨、申渡候様可仕候哉、
則差出候三枚継并文化度申渡写相添、此段奉伺候、以上
辰七月 館市右衛門〟
〈この五月、三枚続「川中島合戦」は彩色・絵柄に問題なしとして、絵双紙掛り名主・平四郎の改(アラタメ)(検閲)が済
んで売り出された。ところが川中島合戦の絵柄には先年取り調べがあったことが分かったので、懸りの名主・平四郎
はとりあえず販売を差し止めにして、町年寄・館市右衛門の判断を仰いだのである。館は先年の取り調べがあったこ
とのほかに、天正以降の武者絵を禁じる触書が文化元年に出ており、川中島合戦はこれに抵触するとして、板木は絶
板、錦絵は焼却にすべきかと、失脚直前の南町奉行・鳥居甲斐守(耀蔵)に伺いを立てたのである。鳥居の判断は
〝川中島合戦錦絵之義ニ付、被遣候書面一覧致シ候処、永禄時代之武者絵ニ付、売買苦かるまじく〟(p239)とい
うもので、問題なしであった。ところで、先年取り調べが行われた「川中島合戦絵」とは、天保十三年刊の一猛斎芳
虎画「信州川中嶋大合戦」五枚続をさすものと思われる。町年寄・館市右衛門はその時の記憶があって、あるいは慎
重を期したのかもしれない。この芳虎画に関する文書を下記に載せたので参照のこと〉
〈町奉行から正式に下された裁定は以下の通りである〉
〔『天保撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p381)
〝天保十五辰年十月 川中島合戦継絵、館市右衛門取調書差出候ニ付、絵柄、御当家え拘り候筋無之ニ付、
不及沙汰、以来天正以前ニ候共、其頃之絵柄ニて、弁別紛敷分は館市右衛門方え差出、改受候様、可申
渡旨同人え申渡之事〟
〈徳川家に拘わるような絵柄もないから取り上げるまでもない〉
〈「川中嶋合戦」については、日付を欠くが、以下のような文書もあるので、併せて載せておく〉
〔『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」p214〕
(板元・万屋、上総屋、販売元・三河屋鉄五郎、絵師・芳虎の絵草紙掛り名主宛請証文)
〝一 川中嶋合戦大錦絵三枚続 山下町 茂兵衛店 板元 万屋 十兵衛
画師(歌川)芳虎
一 右同断二枚続 通四町目 専吉店 板元 上総屋常次郎
右錦絵、下絵を以当七月中改印申請、摺立売出し仕候処、絵双紙屋見世にて五枚続ニ致し売買仕候ニ
付、右始末御調ニ御座候、此儀、右川中嶋合戦錦絵之義は、元大工町三河屋鉄五郎より被相頼、十兵
衞・常次郎両人は、板元名前ニ願候迄ニ有之、芳虎儀も御調御座候処、是又鉄五郎より相頼候ニ無相
違旨相訳(ママ)候得共、三枚続・二枚続両人名前ニて改印申請、五枚続ニ仕立紛敷売捌方仕候段御察斗
受、可申立様無御座奉恐入候、以来右体紛敷取計方仕間敷旨、且又、前書川中鴫合戦絵五枚続ニ不相
成様、別々ニ売捌可申旨被仰聞、難有奉畏候、為後日仍如件
山下町 茂兵衛店 板元 万屋十兵衛
家主 茂兵衛
通四町目 忠兵衛 板元 上総屋常次郎
家主 忠兵衛
元大工町 十兵衛店 三河屋鉄五郎
家主 十兵衛
具足町 亀五郎店 亀次郎悴 芳虎事
画師 辰五郎
家主 亀五郎〟
〈この「川中嶋合戦」は五枚続が問題になった。七月の下絵の改(アラタメ)(検閲)段階では、三枚続(万屋十兵衛板)
と二枚続(上総屋常次郎板)とそれぞれ別の作品として申請し、出版許可が下りた。しかし売買するときは五枚
続のようにして売り捌いた。並べてみれば一目瞭然、紛れもなく一つの作品である。これがために察斗(咎め)
を受けることになった。改印の申請方法と五枚続が問題にされたのであろう。そこで万屋十兵衛以下五名は、今
後は五枚続でなく別々に売り捌く旨の証文を入れる羽目に陥ったのである。さてこの文書には日付がないが、以
下の理由から、天保十三年の七月以降であることが分かる。国会図書館所蔵の芳虎画に「信州川中嶋大合戦」と
いう五枚続がある。それを見ると、左の三図に万屋の板元印があり、右の二図に上総屋の板元印があるから、こ
の証文にある「川中嶋合戦」と国会図書館蔵の「信州川中嶋大合戦」が同一のものだということが分かる。また
そこにあった改印も手がかりである。「信州川中嶋大合戦」の改印は「極」の単印、この様式は天保十三年まで
のもので、翌十四年からは絵草紙掛り名主の単印時代になる。従って「信州川中嶋大合戦」は天保十三年以前の
ものと言うことが出来る。それともう一つ、天保十五年七月の佐野屋板「川中嶋合戦三枚継絵」に関する文書に
ある「先年川中島合戦絵御調御座候」という文言もヒントになる。天保十五年の文書が天保十三年のものを「先
年」とするのは極めて自然だからである。さらにこの年の十一月晦日付の触書に、一枚絵は三枚続まで四枚以上
は無用とする文言があるが、これは五枚続が問題にされた芳虎画「信州川中嶋大合戦」の取り調べと関連して明
文化されたように思えるからだ。芳虎画の改印申請は同年七月中頃であった。その一月前の六月四日には、天保
の改革にともなって大変厳しい出版取締り令が出たばかり。しかしその触書の中には続きものに関する枚数制限
等の文言はなかった。企画制作した三河屋はそこをついたようにも思える。だが五枚続ではなく、三枚と二枚に
分けて別の作品のようにして改印申請したところをみると、枚数制限を意識していたとも受け取れるから、六月
の時点で四枚以上は無用という規制が何らかのかたちで伝えられていたのかもしれない。ともあれこの日付なし
の証文が天保十三年(七月以降)のものであることは間違いあるまい。ところで、これ以降、町奉行の取り調べ
の対象に何度も登場してくる三河屋鉄五郎であるが、連名のところをみると、三河屋の家業だけがないが、本の
糴売り(行商)である。(のち嘉永四年には地本双紙問屋仮組に板元として名を連ねる)この三河屋、町奉行の
取り調べの対象になったのはこれが最初であろうか。芳虎、これまた初めてである〉
◯ 十二月九日付〔『江戸町触集成』第十五巻 p107(触書番号14256)〕
〝 申渡
書物掛り 小網町 名主
組々世話掛り 名主
去々寅六月中新板書物之儀ニ付町触以後、新規開板又は素人蔵板物引受売弘メ願之者は、館市右衛門方
え申出候儀ニ有之候処、京大坂ニて出板致候類は不伺出哉ニ相聞、心得違ニて候、以来京大坂開板たり
共、御当地之者引受候新刻之儀、不洩様市右衛門方え可伺候。勿論京大坂ニ限らす何れニて出来候共、
御当地之者引受は前同様心得べく候
右之趣書物絵草紙商売人共不洩様可申付者也
右之通従町奉行所被仰渡候間、早々其筋商売人共え触達可致候
辰十二月
右之通被仰渡奉畏候、以上
天保十五辰年十二月九日
書物掛り 小網町 名主 伊兵衛
外八人
組々世話掛り 壱人宛印
右之通館市右衛門殿ニて被被申渡候間、御組合限其筋商売人共え精々被仰付、御支配限り御受印御取置
可被成候、尤拙者共方ニても厚心付様被仰論候間、右受印半紙竪帳ニ被成、北方は伊兵衛方、南方は佐
兵衛方え来ル十五日迄、無相違可被遣候、尤是迄京大坂は勿論、其余他国ニて引受置候書物絵草紙之類
所持之者は、早々伊兵衛方え右品持参罷出候様、御組合限不洩様御取計可被成候、此段御達申候、以上
但、右商売人共無之御組合は、其段同日迄御断書可被遣候
辰十二月九日 書物掛〟
☆ 弘化二年(1845)
◯ 四月十二日〔『江戸町触集成』第十五巻 p141(触書番号14311)〕
〝歌舞伎役者紋所付候品類売々致間敷旨、兼々被仰渡も有之候処心得違致、紋所付候品売々致候処御察斗
請、重々奉恐入候、以来右躰之品々売々仕候ハヽ、何様ニも可被仰立候、為後日御請印形仕置候処、仍
て如件
四月十二日〟
◯ 十一月二十七日〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p335〕
(絵草紙掛り名主の好色本類取締りに関する伺書)
〝壱枚摺錦絵・絵本類取締方、組々市中取締懸名主え心付之儀被仰渡度段、先月中奉伺候所、右は兼て
懸り之儀ニ付、私共限り精々心付、其上ニも増長致候ハゝ可相伺旨、被仰渡奉畏候、壱枚絵・草双紙
之類板下ニて相改、絵柄子細無之分は改印致し遣候得は、衣服模様等は、色板無之下絵ニては密細(マ
マ)相分不申、摺立候上紋所其外禁忌有之は、其時々為相直候得共、自然相弛ミ、色摺遍数も相増候様
ニも相見え候間、此上心得違無之様、猶又其筋渡世之ものえ申諭、請印取置申候、
一 市中古本屋又は往還莚敷等ニて見受候無改禁忌之品は取上ケ、元方取調板木削取、証文取置候仕
来ニ御座候、然処、私共限り取扱仕候儀と見居、追々増長仕、別て好色本・右絵類之義は、前々御
制禁之品ニ有之処相弛ミ、私共差当り見請候好色本五冊、折本壱冊、たとふ入絵三品取上、元方取
調候所、左之名前之もの共彫刻売買仕候旨相分候得共、今般之儀は、右絵類は裁切、板木削取、証
文取之相渡遣、此上及再度ニ候者共は、被為遂御吟味候様仕度、差向御仁恵之程難有可奉存、尤可
相成御儀ニ御座候ハゝ、此節改好色本・絵類前々より御制禁之品ニ付、一切売買不仕様市中一統被
仰渡御座候様仕度、左候ハゝ、猶以跡取締方相附可申奉存候
〈以下、没収品の表題と板元〉
一 表題 文のはやし 全一冊 板数十四枚
一 同 水かゝみ 折本一冊 同 拾八枚
一 同 花結 小本一冊 同 拾五枚
右 浅草福井町壱丁目宇右衛門店 本綴職 岩松
一 同 閨中覗からくり 全一冊 同 六枚
一 同 黄素妙論 全一冊 同 拾枚
右 飯倉方町 七兵衛店 糴本渡世 三次郎
一 同 和合珍開 拾弐枚たとふ入 同 弐拾五枚 但、色板とも
右 浅草西仲町 勝蔵店 糴本渡世 半次郎
一 同 宮弁慶 拾弐枚たとふ入
一 同 風流玉手箱 同 右板数合三拾枚 但、両面
右 小嶋町定八店 古道具屋 八兵衛
右之通、取計方奉伺候、以上
巳(弘化二年)十一月廿七日 絵双紙懸 名主共〟
〈古本屋や露店で禁制品を発見した場合、品物は没収し、板木は削り取り、証文を取る仕来りになっているが、最近、改
(アラタメ)懸り名主のみの検閲と見透かして増長するやからが出てきた。特に好色本・右絵類(春画か)での弛みが目立つ。
差し当たって見かけた好色本五冊、折本一冊、たとう入りの絵三品を没収した。これらについては、絵は裁断、板木は
削り取り、証文を取り、この上再犯したものは吟味にかけたい。以上が絵双紙懸り名主たちの伺書の内容である。これ
に対して、市中取締掛りの与力たちの中には〝見世先売買致し候儀とも不相聞候間、此度之儀は御宥免を以、別段不被
及沙汰方ニも可有御座哉〟つまり店先での売買ではないから大目に見てもよいのではないか、という見方もあったが、
最終的には〝書面之絵本其外は仕来之通取計、以後等閑之儀有之候ハゝ、急度沙汰可有之〟と絵双紙懸り名主の〉
◯ 十二月二十二日〔『江戸町触集成』第十五巻 p189(触書番号14397)〕
〝市中古本屋又は往還莚敷干見世等ニて、御制禁之好色本類相見え候ニ付、此度拙者共見受相伺候品も御
座候得は、今般之義格別之御宥免を以拙者共手限取扱、此上心得違之者有之、本屋共見世先ニて有之候
分は勿論、往還莚敷等ニても右躰之絵本類見留次第取調可申上候、急度可被仰付旨御沙汰付、向後心得
違不仕様、其筋渡世之もの共え、御組合限り不洩様御通達可被成候、尤御同役御支配限り精々御心付、
以後御見留之分は御取調、拙者共之内え日仰聞候様仕度、此段御達申候、以上
十二月廿二日 絵本類改懸り〟
☆ 弘化三年(1846)
◯ 二月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p2〕
(町年寄・館市右衛門の出版許可に関する町奉行宛伺書)
〝一 一勇画譜 壱冊 通弐町目多吉店 書物屋(須原屋)
江戸新和泉町 絵師 孫三郎(一勇斎国芳) 願人 新兵衛
右画譜、大坂心済橋博労町書物屋(河内屋)茂兵衛方ニて出板仕、御当地売弘之儀、私引受売買仕度旨、
則板本差出御差図奉伺候、
此品、大坂表出板物ニは候得共、古代勇者画譜之義ニ付、御手限ニても可然哉、但、兼て表紙・上包
等え彩色無用之義被仰渡候間、右画本之内、色取無之候て相分り候処は、成丈彩色相除候様可申渡候
哉〟
〈町年寄・館の伺いは通った。『一勇画譜』は絵草紙掛り名主の「手限(テギリ)=上の裁断を仰がず、自己の責任で判断す
ること」で改(アラタメ)(検閲)を行うことになった〉
◯ 四月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p5〕
(絵草紙掛り名主の町年寄・館市右衛門宛伺書)
〝錦絵と唱、歌舞伎役者・遊女・女芸者等を壱枚摺ニ致候義、風俗ニ拘候筋ニ付、以来決て売買致間敷旨、
去ル寅年(天保十三年)六月中、被仰渡有之、猶又、去々卯年(天保十四年)五月中、総て商ひ物其外
何品ニよらず、歌舞伎役者名前・紋所ヲ付候義不相成旨被仰渡候、然ル処、猿若町役者共名前書顕シ候
絵図、内分ニて摺立売買致候趣承り候間、密々為買取候処、人呼子鳥若三町と申標題ニて、役者共名前
・住所等巨細ニ書顕彩色入ニ摺立、帙上包え役者紋所是又彩色入ニ有之候間、元方取調候処、左之名前
者共彫刻・売買仕候趣相分り候間、板木・摺溜取上ヶ置申候、今般之儀は、仕来り之通り私共立合板木
削取、以来右体無改之品彫刻・売買致間敷旨申渡、証文取置候様可仕哉
坂本町壱丁目 太左衞門店 善次郎事 浮世画 英泉
浅草茅町弐丁目 平八店 狂言作者 露助
右之者共儀、懇意之者え当正月年玉ニ相配り候心得ニて彫刻致候趣申立候得共、絵草紙屋其外之者共
え売捌候趣ニ御座候
小石川富坂町代地 利八店 古本糴売 半兵衛
鎗屋町 勇蔵店 古本糴売 忠蔵
右半兵衛儀は、右絵図買取重板彫刻致、忠蔵儀、絵草紙屋其外え売捌候趣ニ御座候
堺町家主 板摺 喜三郎
元大坂町代地 彦右衛門店 絵草紙屋(上州屋)重蔵
右喜三郎儀は、前書露助より被相頼摺立候節、下之方狂歌ヲ抜キ自分摺致シ、重蔵其外之者え売捌候
趣ニ御座候
右は、市中絵草紙屋其外素人え手広ニ売捌候趣ニ相聞申候、無改之品と乍存重板致、又は抜摺等致候は、
全私共手限取扱候儀と見居、此上外品迄も追々増長可仕哉奉存候、依之右摺立絵図三枚相添、此段法伺
候、以上
(弘化三年)午四月 絵草紙掛り名主共〟
〈禁じられている歌舞伎役者の名前・紋所を使用した「人呼子鳥若三町」なる錦絵が、改(アラタメ)(検閲)を受けない無断出
版の咎で摘発された。画工は英泉、作者は露助。当初、これを正月の年玉として配るつもりで制作したというのだが、実
際には絵草紙屋等に売り捌いた。それを古本糴売りの半兵衛が買い取って重板を作り、他の糴売りや絵草紙屋に、これま
た売り捌いた。一方、板摺の喜三郎なるものは、作者の露助に摺りを頼まれた時に、狂歌を抜いた異板を摺って上州屋重
蔵ほかに売った。とりあえずこの板木と摺溜めを没収した掛りの名主は、制禁を破ったうえ改を経ずして出版したとして、
慣例通り、名主立ち合いのもと板木は削り取り、今後改印のないものは彫刻および売買しない旨の証文を取りたいと、伺
いを立てた〉
〈この絵草紙掛り名主の伺いを受けて、町年寄・館市右衛門は次のような「ヒレ(添え書き)」を付けて、町奉行所の判断
を仰いだ〉
〝書面之通絵双紙掛り名主共申立候、去ル寅年(天保十三年)八月、猿若町割絵図売板相願候者有之候節、
役者共名前書顕シ、番附之類とは差別有之難成旨可申渡段、北御役所ニて被仰渡、下絵相下ケ候、此度
之品、兎の角も其筋掛之者改も不受彫刻・売買仕候段、不束ニ付、名主共申立候通取計候様可申渡哉ニ
奉伺候
午四月 館市右衛門〟
〈この手の出版には前例があった。天保十三年(1842)八月、「猿若町割絵図」なるものの出版許可願いが出されたが、
これは結局取り下げられた。役者の名前を書き表すなど、出版を禁じられている役者番付と同様のものと見なされ
ことがその理由である。ともあれ無断出版であるから、名主たちの提案通りにしてはどうか、という内容である。
この伺いが受け入れられた。ところで、この名主の伺書には次のような「下ケ札」がついていた〉
〝本文英泉義、去十二月類焼後、当時千住小塚原町旅籠町ニて、若竹屋と申者方ニ罷在候趣ニ御座候〟
〈この「十二月類焼」とは十一日の坂本町および茅場町の火事であろう。斎藤月岑の『増補浮世絵類考』(天保十五年
成立)に〝居住・坂本一丁目〟あり、曲亭馬琴の日記、嘉永元年八月三日付に英泉の死亡記事があり、そこには〝居
宅、茅場町ニあり〟とある。一時的に千住小塚原に避難したのであろうが、関根黙庵の『浮世絵画人伝』によれば、
英泉はかつて若竹屋理助の名で根津の妓楼の主人をしていたというから、避難先の若竹屋は縁者なのであろう〉
◯ 四月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p8〕
(猿若町一丁目名主の町年寄・館市右衛門宛伺書)
〝今般歌舞妓役者菊五郎并弟子共改名致候ニ付、別紙摺物彫刻致度旨申立候間、得と取調べ候処、右は売
買は勿論、外々え相配候儀ニは無御座、御当地并上方面同家業之者ニ限相配り度段申立候、併、右絵柄
似顔とは相見え不申候得共、歌舞妓狂言様之絵柄ニ付、其段利解申聞候得共、何卒一応相伺呉候様強て
申立候間、不得止事右之趣申上候、右絵柄は為相除、句集のみニ相直候様為仕候ハゝ、如何可有御座哉、
奉恐入候得共、別紙草稿相添、此段奉伺候、以上、
午(弘化三年)四月 猿若町壱丁目 名主(濱)弥兵衛
同 (吉村)源太郎〟
◯ 五月〔『大日本近世史料』「市中取締類集一」「市中取締之部一」p486〕
(町奉行、隠密廻り「市中風聞書」)
〝浮世絵之儀、絵之具色取偏数多き品、又ハ三芝居役者似顔等厳敷御察斗有之、一ト先不目立絵も相見候
得共、浮世絵師(歌川)国芳と申者、種々出板之内、其頃猫之絵を書候而も矢張役者似顔ニ認、其外之
出板役者誰々と申名前ハ無之候得共、何れも役者似顔ニ仕立差出し、同職之内ニも、国貞事当時(歌川、
三世)豊国と申者儀ハ、一体極尊大ニ相構、麁末成絵ハ書ざる抔と申趣ニも相聞侯得共、右等之儀ハ差
置、先御改革之頃ハ勿論、去秋頃迄ハ相慎候哉、格別目立候絵も相見不申、然処当時ニ至り候而ハ、悉
く色取偏数多く掛り候絵而己相見、前書国芳儀ハ厳敷御察斗をも恐怖不致体ニ相聞、且浮世絵之儀ハ既
懸名主ニも出板之節、右絵之内調印も致し候由之処、其侭出板為差出候儀ハ如何之訳柄ニ有之候哉、厚
く世話方等も被仰渡候上ハ、名主共ぇ御察斗有之侯歟、多くも無之絵師共ニ而、国芳儀是迄恐怖不致次
第、同人ぇ御察斗有之候而も可然儀と沙汰仕侯
此儀、前々より之御触面ニハ何れも相背、武者絵等風俗ニ不拘分も、彩色ハ手を込候続絵有之、当時
ハ歌舞妓役者之名前ハ顕シ不申候得共、似顔ニ致し、此節三芝居狂言之姿を二枚続等ニ致し、追々出
板致し候様子ニ付、超過不致様、掛り名主共より程能相制可申旨、被仰渡候方ニ可有之候哉、且国芳
・豊国と申絵師、多分之絵工代等受取候趣ニも相聞候得共、誂候もの無之候得ハ、自然相止候儀ニ付、
別段御沙汰不被及候共可然哉ニ奉存候〟
◯ 閏五月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p12〕
(南町奉行所、隠密廻り同心風聞書)
〝錦絵改方之儀ニ付申上候書付 隠密廻
錦絵・草双紙之儀ハ、禁忌之絵柄・文段等無之為メ、名主共之内御用立候もの相撰、絵双紙懸被仰付、
銘々申合月番相立置、板元等下絵持参候得は、見改候上禁忌之儀無之候得は改印いたし、彫刻為致候仕
来ニて、御改革ニ付歌舞妓役者似顔絵は御差留有之候処、近来男伊達抔と名付多分似顔絵有之、其上流
行之儀は認申間鋪処、当時流行之事のみ錦絵ニ差出、絵草紙掛之詮も無之、右故自ラ風聞等受候次第ニ
も成行、改方等等閑之儀ニ付密々取調候処、右懸名主共之内高砂町渡辺庄右衛門儀は、両三年以来より
中風之様子ニて、役用之儀若年之悴え任せ置候間、禁忌之改之無之、下絵持参候得は望之場所え改印致
遣候間、板元共多分庄右衛門月番を相待下絵差出、既里雀ねくら之仮宅より申絵ニは、衣類之紋所ニ改
印相用、戯レ同様之儀ニて御取締ニ相成不申、右等を其侭被差置候ハゝ、外名主共えも押移、都て役用
向杜撰ニ可相成奉存候、依之、庄右衛門改印有之歌舞妓役者似顔ニ紛敷品并流行之絵類相添、此段申上
候、以上〟
〈最近、禁忌の役者似顔に紛らわしいものや、現在流行のものを題材にした錦絵が出回ってる。検閲が等閑になっ
ているせいである。特に高砂町の名主・渡辺庄右衛門の改(アラタメ)には問題がある。当人中風を患っているため伜
に改を代行させているが、禁忌のものを検閲する様子もない。また改印も下絵の望む箇所に押してくれるので、
たくさんの板元連中が渡辺の月番を待っているくらいだ。「里雀ねくらの仮宅」なる錦絵では改印を衣類の紋所
にするなど戯れて一向に取り締まらない。この報告書を受けた町奉行は早速渡辺庄右衛門を更迭した〉
◯ 六月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p15〕
(町年寄・館市右衛門の「唐船」三枚続に関する町奉行所宛上申書)
〝此節売買仕候唐船三枚継絵之儀相調申上候書付 館市右衛門
此節売買いたし候唐船三枚継絵、名主改印も有之風評如何ニ付、早々取調可申上旨申上旨被仰渡、右絵
三枚御下ヶ被成候、
一 依之、絵双紙掛り名主共え申渡、右絵摺立并売先相知候分取調候処、売捌人ハ宇田川町文次郎店絵
双紙屋(丸屋)清次郎より申者ニ有之、同人相糺候処、凡三千枚程摺立候内、九百枚余ハ売散ニ相候恐
入候旨申之、残弐千四拾四枚差出し
此内【弐千拾七枚 墨摺/弐拾七枚 彩色摺】
一 右は、絵草紙掛り之内小石川白山前町(衣笠)房次郎改小印ニ付、心得方相尋候処、右唐松絵之儀
は、四ヶ年以前卯年(天保十四年)十月、同人月番之節、通四町目絵双紙屋細田千之助より申者より、
彩色八遍入改ニ差出候処、故事認候錦絵ニ付改印いたし遣候旨申立、其後板木譲引仕候由は、当人共
相対之儀ニ有之候段、房次郎申之候、
一 右ニ付、宇田川町清次郎再応呼出し、右絵板元印【細千】と有之、然処此節清次郎売捌候段、板元
粉敷旨察斗仕候処、全く右絵開板之儀は、先ン持主細田屋千之助、去ル卯年掛り名主改済彫刻仕候処、
去巳年(弘化二年)十二月、同人絵双紙渡世相止候節、右板木清次郎方え買取候旨、則別紙受取書差
出し申候、右品此節売先宜、何心付も無之多分墨摺ニ仕売捌候段相答候間、左候ハゝ、板木ハ去十二
月買取候共、板元印も不相直差置、畢竟時之雑説を見込、俄ニ摺出し候儀ニ可有之、心底ニおゐてハ
新刻いたし候も同様、且元来彩色摺錦絵ニ候処、多分墨摺売買いたし、元改方ニも相触レ、彼是不束
之段察斗仕候処、重々奉恐入偏御憐愍之御沙汰奉願候旨、清次郎并家主文次郎差添申立之候、
右相調候処、書面之通御座候、掛り名主房次郎改印之儀は、四ヶ年以前卯年、開板主千之助より差出、
故事認候錦絵ニ付、無子細改印いたし遣候旨申之、同人不調法之儀は相聞付申候、此節売捌人宇田川町
清次郎儀、新規板刻候品ニは無之、兼て買取候板木ニは無相違相聞候得共、絵柄時之雑説ニ紛敷を見込、
俄摺出し売買仕候心底不底不宜奉存候、乍去、今般新規板刻仕候品ニ無之ニ付、此上御吟味之儀ハ御宥
恕被成下、右差出候摺立絵・板木共御取上ヶ申渡、時之雑説見込売捌候ハ、新刻いたし候ニ等敷不束ニ
付、以後日数百日之間、清次郎儀絵類・絵双紙共新規開板物不相成段申付候ハゝ恐縮仕、自然同渡世之
ものえも相響キ、惣躰之取締方可相成哉と奉存候、依之、御下ヶ被成候絵三枚返上仕、差出候板木拾八
枚・摺立絵弐千四拾五枚相添、此段申上候、以上、
但、糺ニ付差出候先板元千之助板木売渡請取書壱通、奉入御覧候、
午(弘化三年)六月〟
〈細田屋千之助の板木代金請取書〉
〝 覚
一 金壱両也 【唐船三枚続/色板共十八枚】
右は、我等所持板木、前書代金ニて慥売渡申候、以上、 細田千之助
巳(弘化二年)ノ十二月
丸屋清次郎殿〟
◯ 七月十九日〔『大日本近世史料』「市中取締類集」二十「書物錦絵之部」p135〕
(町年寄・館市右衛門より絵双紙掛り名主に申渡した達し書)
〝絵類之内、時之雑説又は絵柄不分様相認、人々ニ為考、買人を為競候様之類、間々有之、右は懸名主共
心附候得は、不取締之儀は無之訳ニ付、下絵改方等弥入念、弁別紛敷分は此方え可申聞候
右、北御奉行所御沙汰以申達〟
〈六月、時の雑説を見込んで出版された三枚続の「唐船」が摘発されたのを受けて、町奉行は、町年寄経由で絵双
紙掛り名主たちに、一層入念なる改(アラタメ)(検閲)を求めるとともに、紛らわしきものについては町年寄に伺う
よう命じたのである〉
◯ 九月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p36〕
(書物掛り名主の一枚摺番付「本朝英雄鑑」関する町年寄・館市右衛門宛申立書)
〝本朝英雄鑑 壱枚摺 麹町六町目 善蔵店 絵草紙渡世 板元(尾張屋)清七
元大工町 平次郎店 本糴売 (三河屋)鉄五郎
元大坂町代地 彦次右衛門店 絵草紙渡世(上州屋)重蔵
右壱枚摺番付前書重蔵見世ニて見受候間、買取取調候処、清七板元にて、鉄五郎儀重蔵其外絵草紙屋共
え売捌、帙表題ニ応仁より元亀ニ至候と有之候得共、御武家方御苗字紛敷認有之候得共、御先祖様方御
名前御実名等書顕シ、御役人様方御名前等も御座候間、私共手限り取扱仕、万一御沙汰御座候ては、奉
恐入、且、右之外壱枚摺番附類其外無改之品彫刻・売捌いたし候族相増、一体私共手限取扱より見居追
々増長可仕、以後一統之御取締ニも罷成間、何卒御賢慮之御沙汰被成下置候様、乍恐奉願上候、依之右
壱枚摺番附相添、此段申上候、以上、
午(弘化三年)九月 書物懸名主共〟
〈書物改(アラタメ)掛りの名主が問題視したのは二点。ひとつは応仁から元亀年間とあるから、天正以降の武者絵を禁
じた通達には抵触しないものの、武家の苗字や先祖の実名などが使われているのは問題ではないかというもの。
もうひとつは改(アラタメ)(検閲)を受けず無断で出版したこと。これを受けて町名主・館市右衛門は次のような伺
書を町奉行宛に出している〉
〝書面番附一覧仕候処、品柄ニおゐて禁忌ニは不奉存候得共、自ラ武家先祖勝劣附候義可然共難申、且、
右品名主改ニも、不差出売買いたし候上は、品柄可否ニ不寄不埒ニ付、板木之義掛名主共方え取上候様
可仕候哉、以後一統之御取締御賢慮奉願候趣ハ、猶勘弁仕追て可申上候
午九月 館市右衛門〟
〈絵柄に問題はないが、武家の先祖の勝劣を付けるのは良いとは言い難い、その上、改を受けず売買したのは不埒
である。よって板木は没収してはどうかという提案である。以下は町奉行の判断〉
〝改も不受板木摺立売買致し候段は不埒ニ候得共、素より厳禁之品彫刻致し候儀ニも無之候ニ付、御吟
味之御沙汰不及〟
〈改(アラタメ)を受けず売買したのは不埒だが、絵柄には問題がないので吟味には及ばないとした〉
◯ 十一月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p42〕
(町年寄・館市右衛門の町奉行宛伺書)
〝兼て掛り名主共相願候ハ、一体絵双紙・壱枚絵共改方之儀、下絵ニて改印いたし遣し、猶又彫刻摺立候
品差出し、見届受売捌可申処、近来右渡世筋之者下潜したし、名主共え見本絵不差出以前売散し、日数
過キ差出、其品ニ寄下絵違ひ等為相直候内、最早市中売出し候儀間々有之、名主共手限と見掠候仕成ニ
も被存、取示方甚心配仕候、去ル寅年(天保十三年)六月、絵類・絵双紙御取締被仰出、歌舞妓役者・
遊女・女芸者等開板致間鋪段、於北御役所被仰渡、猶又翌卯年(天保十五年)五月、子供踊遊と名付歌
舞妓狂言ニ紛敷、向後団扇絵其外都て右絵組ニては捌ケ方不宜より右躰下潜売出し候者等可有之哉、全
役者似顔・遊女・女芸者・其外風俗ニ可拘品ニ無之其余踊形容認位之処は、掛り名主共改印致し遣し候
ハゝ、渡世向も行立下潜商ひ等不仕、却て取締方可然哉、御賢慮奉願候旨兼て申立候
右之通ニ付、猶勘弁仕候処、絵草紙、壱枚絵共自然潤色趣安く、右名主共差略御沙汰難被及哉、是迄改
方手心も可有之、寅年以来取締候絵双紙屋共渡世向、今更難行立儀ニも有之間鋪奉存候、且又、右掛り
名主共之義最初七人、其後明跡等有之、去ル卯年六月、鳥居甲斐守殿(忠耀、南町奉行)御差図以都合
拾人申渡候処、右之内猶又三人明跡出来、且、是迄月番壱人改印仕候趣ニ候得共、多端之内過失無之共
難申、此度左之者共御差加え
(下札 去ル卯年六月、掛り拾人申渡候内、同年十一月、南伝馬町名主(高野)新右衛門退役、
去巳(弘化二年)二月、加賀町同(田中)平四郎掛り役御取放、
当午五月、高砂町同(渡辺)庄右衛門右掛り御差免、都合三人相減申候)
三番組 浅草平右衛門町 名主(村田)平右衛門
四番組 青物町 名主(曽我)小左衞門
拾壱番組 雉子町 名主(斎藤)市左衞門
右三人共組合世話掛相勤、出精仕候者ニ付、今般明跡絵双紙掛被仰付、右掛り都合拾人ニ相成候上は、
以来月番両人宛相立、下絵改印可仕旨被仰渡候ハゝ、猶更取締向可相成と奉存候、
但、是迄絵双紙掛り名主共書物掛り兼帯被仰付相勤候間、此度三人共同様書物掛り兼帯被仰付度、且、
書物之儀は都て私え差出、御月番御役所え奉伺候ニ付、名主共書物掛月番之方は、只今之通壱人つゝ
為相勤、可然奉存候、
右、依之此段奉伺候、為御見合当時掛り之者名前書、別紙相添申上候、以上
午(弘化三年)十一月 館市右衛門〟
〝当時相勤候【書物掛/絵双紙掛】名主名前書
一番組 小網町 (普勝)伊兵衛
二番組 村松町 (村松)源六
三番組 浅草茅町 (浜)弥兵衛
六番組 新両替町 (村田)佐兵衛
拾番組 麻布谷町 (米良)太一郎
拾弐番組 神田佐久間町 (吉村)源太郎
拾四番組 小石川白山前町(衣笠)房次郎〟
〈これは町年寄館市右衛門の町奉行宛上申書。改(アラタメ)方法に関する提言である。絵草紙・一枚絵とも、下絵の段
階と彫り摺りのなった見本絵の段階を経て販売されることになっている。ところが、最近、見本絵を提出する前
に売り始め、その後数日して提出するものがいる。下絵と違う所を直させる前に既に売っているのである。これ
は検閲が懸り名主の裁量次第と見て、ごまかそうというやり口とも思われ、甚だ心配であるという内容である〉
☆ 弘化四年(1847)
◯ 二月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」二「市中取締之部」二 第二三件 p4〕
(「市中風聞書」)
〝哥舞妓役者共似顔絵之儀ハ御制度之品ニ候処、昨年之春頃より役者共之名前ハ認不申候へ共摺出し、去
年秋之頃より甚敷相成、新狂言之似顔を商ひ候而より、当春抔ハ通例之絵ハ三四分ニ而、六七分ハ役者
絵を商ひ候よし、勿論近年紙価値貴く候間、其儀可有之候へ共、御改正以前よりも高料之品有之、勿論
色摺之篇数も多く手込ミ候品共ニ有之、且春画之儀草紙ニ綴候分ハ勿論四ッ切・八ツ切抔と唱、大奉書
を裁候而、早春世上ニ而交易等いたし候儀之処、春画ハ御政革以前迚も厳敷御制禁ニ候処、昨年春頃よ
り次第ニ多く相成、天道干しと唱へ路傍ニ莚を布、古道具等並へ置候向ニ多く有之、八ツ切之方ハ当春
抔大分ニ世上ニ相見へ、是ハ錦絵と違ひ猶又遍数も多く金銀摺も有之候由、其内ニも六哥仙と唱へ候春
画は金銀多く遣ひ有之候由〟
◯ 六月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p131〕
(絵草紙屋の絵草紙掛り名主宛願書)
〝以書付奉申上候
壱枚摺錦絵之儀、各方御見届印無之品売買仕間敷旨、兼て之被仰渡相背、湯嶋六町目文助店(太田屋)
多吉外拾六人、今般南御番所え被召出御吟味相成、於私共も奉恐入候、絵類之儀、遊女・芸者・歌舞妓
役者之類不相成は勿論、子供踊抔と唱候分も不宜旨、御沙汰有之相守罷在候処、女絵又は名所風景等之
絵柄のみニては売捌方不宜、難渋仕候趣被及御聴、各方御相談之上、絵柄次第ニ寄、踊形容姿絵之類は
御改相済候様相成、一同渡世致能罷成候所、右ニ付、御改正相弛ミ候抔と心得違仕候者も有之哉、当時
狂言座興行中之狂言似寄之絵追々差出、世評も不宜以之外之儀ニ付、向後は前々之通り、踊形容之類も
御改メ被成間鋪旨被仰聞、左候ては一同難渋仕候間、私共御歎願申上候上は、何様ニも同渡世之儀ニ付
厚く世話仕、私共最寄々ニて平生心付可申、尤、御改請彫刻摺立候ハゝ、売出し已前下絵草稿違之品も
打交り、不締之趣被仰聞候間、此後は、後引合不相済候絵柄売出候ハゝ、右絵類売留メ被仰付候積り堅
く申合、勿論御見届印無之品見せ売致候類、其外風儀不宜商ひ致候者、及見聞次第早速申上候様仕、何
れニも不取締之儀無之様可仕候間、是迄之儀は何分ニも御宥免被成下、御調方御猶予奉願上候、以上
弘化四未年六月 芝三嶋町家持 くに後見(和泉屋)市兵衛
同町 長兵衛店(佐野屋)喜兵衛
南伝馬町壱丁目 勝五郎店(蔦屋) 吉蔵
堀江六軒町 家主 (山本屋)平吉
馬喰町弐丁目 久助店(山口屋)藤兵衛
吉川町 伊兵衛店(大黒屋)平吉
瀬戸物町 庄三郎店 喜兵衛
上野元黒門町 家主 (上州屋)金蔵〟
◯ 十一月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p148〕
(絵草紙掛り名主の上申書)
〝一 七福神曽我之初夢 錦絵五枚 元大工町 平次郎店 板元 三河屋鉄五郎
右錦絵、当十一月中草稿を以改請此節出板、絵草紙屋共之内見せ釣し売致候者有之候間、取上取調候処、
右鉄五郎儀おろし売致候砌、釣し売致候ても不苦旨相断候由ニ候得共、先達て踊形容ニ紛敷錦絵釣し売
致間鋪旨申渡、証文取置候処、卸売之者申聞候迚釣シ売致候は、絵草紙屋共心得違ニ付、釣売致候分取
上ケ、板元鉄五郎儀は、釣売可致旨絵草紙屋共え申聞候段、以之外心得違ニ付、板木取上ケ削取、右錦
絵売買差留申候、依之取上ケ絵相添、此段申上候、以上
(弘化四年)十二月廿日 絵草紙掛り名主共〟
〈この文書には別紙の添付あり、三河屋に関して、絵双紙掛り名主による次のような文書が載っている〉
〔『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」p219〕
〝 元大工町 糴売渡世 三河屋鉄五郎
右之もの方え、絵双紙屋共板元より扣絵相渡候得共、相配不申品も多分有之、殊ニ去年(弘化四年)中、
踊形容絵之内釣し売致し候ても宜趣杯申触候義も有之、証文取之其節は相済セ候得共、一体志不宜もの
二御座候間、同人義差出候絵類ハ、御一統改収不申候様仕度、此段及御相談候、右之通、去申(嘉永元
年)九月六日、松之尾二御相談申上候事〟
☆ 嘉永二年(1849)
◯ 五月〔『嘉永撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p411〕
(町年寄・館市右衛門の「伊勢遷宮図」に関する調書)
〝江戸通油町藤岡慶次郎、坂本町川口と申家ニて、両宮遷幸之図書顕し候別紙錦紙売出し候ニ付、両長官
宇治年寄山田三方共申立候間、御糺之上相違無之候ハゝ、御差留有之候様致度旨、長官其外より差出候
錦絵弐通り、此余ニも有之趣、書面写相添、尤是迄右体之儀有之節は、其筋へ掛合之上、差留ニ相成候
儀ニ有之候段、山田奉行衆より御掛合ニ付、取調可申上旨被仰渡候、此儀絵双紙掛り名主共相調候処、
去申十一月以来伊勢御遷宮之図、別紙抜渡之錦絵通油町絵双紙屋藤阿屋慶次郎、坂本町川口屋宇兵衛よ
り下絵差出候処、祭礼行列ニ等敷(ヒトシキ)彩色六編、ヌは八編擢ニて禁忌等相見不申候間、其節之月番掛
り名主改印仕売出し申候、乍去右は其筋差障之儀有之候ハゝ、御下知次第之儀、且右絵弐通り其外売出
し候右之慶次郎板元、たて図三枚継伊勢名所図絵、同断馬喰町弐町目森屋次郎兵衛板元御遷宮三枚継、
中橋広小路町山田屋庄兵衛、同六ッ切式(ママ)枚継横絵共入御覧候旨申之候
右取調候処、書面之通、掛り名主共申之、尚右絵一覧仕侯処、神事之儀名主共其改方不念等も無之奉存
候え共、其筋より相願、且山田奉行衆御書面之内、是迄右体之儀有之節は其筋え掛合之上差留ニ相成候
儀ニ有之段、被仰越候上は、長官等申立斗ニも無之、右遷宮図売買御差留可被仰付方ニ可有御座哉(下
略)〟
〈板元・藤岡屋慶次郎、川口屋宇兵衛の「伊勢遷宮之図」は、前年の嘉永元年十一月、絵双紙掛り名主の改(アラタメ)(検
閲)を通って売買されていた。ところが、この五月、伊勢の山田奉行・河野対馬守から江戸の町奉行・遠山左衞門尉、
牧野駿河守宛に、この「伊勢遷宮之図」の売買を禁止するよう要請があった。これは伊勢の内外両宮長官および宇治
年寄・山田三方の訴えを請けてのものである。この遷宮図では〝子供弄様之品え両宮之御儀書顕候様ニては神慮無勿
体奉恐入候儀ニ御座候間〟つまり子供のおもちゃのような画き方であり、これではもったいなくも恐れ多いと、彼ら
は訴えていたのである。遠山は早速町年寄・館市右衛門に調査を命じた。上記の調書で、館は名主の改め方に問題は
ないとした上で、山田奉行が言うように掛け合い(談判)によって禁止した例があるというのであれば、売買禁止に
すべきかと上申した。これを受けて遠山・牧野の両町奉行が山田奉行・河野対馬守に示した回答は次の通り。日付は
六月九日である〉
〝(上略)絵草紙掛名主共並町年寄等相糺候処、前書藤岡屋慶次郎、川口屋兵衛等より兼て下紙(ママ絵?)
差出侯節、見改候処、素祭礼行列之図ニ等敷、且前々より神社仏閣等之図書顕候儀有之、禁忌之廉(カド)
見不申候ニ付、売弘させ候儀ニて、既文政十三寅年中馬喰町弐町目山口屋藤兵衛外壱人方ニて、遷幸之
図売買致候儀も有之候由、絵草紙屋共申之侯旨をも申立侯え共、御掛合之趣も有之候間、差止可申付之
処、右体先年も売買致候儀之旨等申立候上は、此儘差留候ハゝ、一事両様ニ相心得可申、然ル処、是迄
其筋え掛合之上、差留相成候儀有之候由ニ付、先役共え之御掛合等も可有之哉と取調侯え共、差向書留
相見不申(下略)〟
〈「遷幸之図(遷宮之図)」は祭礼行列図と同じであり、また神社仏閣の図は禁忌の対象になっていないので、改(アラタメ)
に問題はない。前例に就いてみると、文政十三年(1830)、板元・山口屋藤兵衛等から同図が売買されていた。従ってこ
れを禁止にすると「一事両様」になって具合が悪い。それに其筋の掛け合いによって差し止めになった先例を調べたが、
今のところ見当たらない。つまり売買禁止にはしないという結論になったのである。なお文政十三年の図とはどのよう
なものかとういうと「下ヶ札」には次のようにある〉
〝弐拾ヶ年以前、文政十三寅年、右御遷宮之節、馬喰町弐町目山口屋藤兵衛、板元三枚継絵並大長と唱、
伊予奉書弐ツ切壱枚絵、池之端仲之町越後屋長八板元中と唱、同断三ッ切壱枚絵売買仕候趣ニは御座候
え共、年数相立候儀ニ付、扣絵無之絵組等相知不申候間、押立申立候儀ニは、至兼候旨申之候〟
〈手許に控えの絵がなく絵組み等が分からないので断言できないが、山口屋から三枚続と大長と称する大きさの一枚絵、
越後屋からは一枚絵が売買されたという書留である〉
◯ 五月〔『嘉永撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p419〕
〔『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」p210〕
(絵草紙掛り名主の町年寄宛伺書)
〝 元大工町 平次郎店 板元 三河屋鉄五郎
右鉄五郎儀仙台萩と名附侯三枚続錦絵、手を込メ摺立高価ニ売捌候儀入御聴、御内沙汰被為在候趣ニ付、
取調候処、右は当正月中下絵を以、私共之内弥兵衛、勘解由両人月番之節、改ニ差出し、絵柄子細無之
改印いたし遣、私共方え差出候控絵は、外並一通之彩色ニて摺立、絵草紙屋一統見世売仕候、然ル処、
外ニ彩色遍数を掛ヶ摺立侯は、懇意之絵草紙屋のみえ内々相頼、一枚ニ付銀壱匁程ニて内証売仕、尤、
見世先えは差出シ置不申、及承買求メニ罷越候ても、買人之様子見計ひ、容易ニは売渡不申趣ニ御座侯、
右板元鉄五郎儀は、是迄度々無改之錦絵内証売いたし候間、其度々証文取置侯え共、又候此度遍数相掛
内証売仕、於私共奉恐入候
一 錦絵之儀ニ付ては、毎度御沙汰も有之候間、絵草紙屋並絵師、板木師等ニ前々被仰渡之趣申聞、御
趣意相守候様、度々諭方仕、請印取置候え共、今以右様心得違之もの有之、右之外、是迄無改之品又
は改遺し候後、絵柄模様を替摺立侯も有之、及見次第取調、其度々板木削去売留申付、事立候分は申
上置、御沙汰伺中之向も御座候、一体無改之品売捌候え共、厳重之御沙汰は無之儀と見居候哉、何分
ニも相止ミ不申、私共ニおゐても深く奉恐入候、精々取締方打寄談判仕候処、先達て四谷太宗寺閣魔
王之絵浮説有之、殊ニ無改ニ付、売捌候もの御吟昧相成、一同過料被仰付候え共、其当座のみニて、
此節は忘却心弛ミいたし候様子、右様無改之品出板いたし候ものは、重モに絵草紙取次商ひ致、俗ニ
せりと唱候もの、又は板摺等多く、畢寛身軽之ものニて、利欲ニ泥ミ勘弁も無之、乍併、其度々申上
御吟味為請候様ニては、手荒ニ相聞、御仁恕之御趣意ニも相戻り、此儀心痛仕候、依之、無改之品開
板いたし候ても売捌不相成様仕法仕候ハゝ、仕入損毛相立候間、素より利欲ニ拘り候もの共故、自然
手懲仕、相止ミ可申哉と奉存候、右ニ付、以来無改之品は仕来之通、板元より板木摺溜為差出、取次
商ひいたし候絵草紙屋共は、無改之品乍心得取扱候退怠ニ、取調中両三日位、見世先釣し売之錦絵不
残下ニ置商ひ為致候ハゝ、商ニ留いたし趣意ニは無之候え共、当人共外聞不宜、向後絵草紙屋共無改
之品売捌不申様之仕法相立可申哉、乍恐存寄候趣奉申上候、御賢慮之上、御沙汰被成下置度、御内慮
奉伺候、以上
酉五月 絵草紙 名主共〟
〈三河屋鉄五郎板の三枚続「仙台萩」は正月、絵草紙懸り名主・浜弥兵衛と馬込勘解由の改(アラタメ)(検閲)を通って売
りに出された。ところが改に出したものとは違うもの、密かに彩色摺数を増やした異板が出回っているというのであ
る。それも懇意の絵草紙屋に頼んで店先には出さず客を見定めてから一枚銀一匁の高値で売っている由。今、1両=
64匁=6500文で換算すると、三枚続で約100文、一枚当たりでは33文になる。天保の改革では16文以上は禁止であっ
たから約倍の直段である。三河屋は改とは違うものを出版する常習者のようで、その度に証文を取っているが、効き
目はない様子。改(アラタメ)懸りの名主はいう、この頃は、それに加えて改に提出した下絵と違う絵柄のものさえ出回っ
ている。その都度板木を削り落とし売買を禁じているが、どうせ重い処分にはならないだろうと見積もっているのか、
一向に止まない。先般も四ッ谷太宗閻魔王の絵に関して浮説が流れ、その咎で過料に処せられたものがいたが、その
当座こそ慎しむものの、しばらくするとまたぞろ弛みが生じる。中でも絵草紙を取り次ぐ商売のせり売りと板摺はそ
れが甚だしい。そこで今後、無届けのものあるいは改めた後に手を加えたものについては、板元から板木および摺溜
めを差し出させる、またそれを承知で商った絵草紙屋の方は、取り調べ中の間、店での釣るし売りを禁じるようにし
てはどうかという、改懸り名主の要望である。「四谷太宗寺閣魔王之絵浮説有之」は弘化四年四月の項参照。
三河屋は弘化四年十二月「七福神曽我之初夢」で摘発(筆禍史弘化四年の項参照)〉
〈これに対する、町奉行・遠山左衞門尉の回答次の通り〉
〝(上略)向後不改請出板或は改済之上、手入等いたし候分は、板元より板木摺溜共為差出、右を乍弁
売買いたし候絵双紙屋ともは、為過怠取調中絵類一式移し売不為致儀、当分之内名主共見込之趣ニ為
取斗、右は奉行所より可及差図次第ニ無之、名主共書面の趣、廻同心共まで届置、取斗候積ニて、取
締方一先ッ為相掛可申哉、右をも不取用候ハゝ、過怠之筋背候事ニは不拘触申渡、相背候廉を以、及
吟味候様ニもいたし候上は、不都合之儀も有之間鋪哉〟
☆ 嘉永三年(1850)
◯ 五月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p292〕
(絵草紙掛り名主の伺書)
〝 浅草茅町弐丁目 為五郎店 絵草紙屋(高野屋)友右衛門
此者は、角団扇絵、当三月中、私共之内え草稿差出改請、四月三日、摺立絵見合ニ差出候後、言葉書自
侭ニ彫入、売買致し候もの
〈改(アラタメ)(検閲)済みの団扇絵に言葉書きを彫り入れて売買〉
浅草並木町 弥七店 絵草紙屋(湊屋)小兵衛
此者は、大錦弐枚続之絵、当三月中、私共之内え草稿差出改請、四月六日、摺立絵見合ニ差出候後、言
葉書彫入売捌候ニ付取調候処、右板木、同月中左之鉄五郎え相譲、彫足候儀は相弁不申旨申聞候得共、
板木鉄五郎え譲渡候節私共え届不仕、小兵衛板元之名印も相改不申、且、一般ニ絵草紙屋共ニて彫足有
之絵売捌候を不心付罷在候趣申之、申立方紛敷もの
〈三月、湊屋小兵衛は大錦二枚続の改(アラタメ)を受け出版許可を取得した。ところが四月になると、その錦絵には改の時
にはなかった言葉が書き足してあった。湊屋を喚んで訊いたところ、これはこの四月三河屋鉄五郎へ譲渡したもので、
書き加えた言葉書きについては関知しないと申し立てた。しかし湊屋にも不審なところがある。第一に板木の譲渡を
当方に届けなかった。第二に版権が移ったにも拘わらず、湊屋の版元印をそのままにしている。第三に、彫り足した
ものが出回っていることを知らなかったというのは不審である。と、改掛りの名主は判断している〉
〝 元大工町 平次郎店 絵草紙類糴売 鉄五郎
此者は、小兵衛より板木譲上候上、自侭ニ言葉書彫入、摺立候もの、
右錦絵之儀ニ付ては、毎度御沙汰も有之候間、絵草紙屋并絵師・板木師等え前々被仰渡之趣申聞、御趣
意相守候様度々諭方仕、請印取置候得共、今以右様心得違之者有之、此者共儀は、何れも私共改印致遣
候後、絵柄模様を替又は摺足等致、兼て之被仰渡ニ相振候仕成致候間、先達御内慮奉伺候通、右弐人之
もの店先釣し絵之分不残為取除、追て沙汰致候迄其侭ニて商売可致旨、其支配名主立合申談書面取置、
日数之儀は猶摸様見定メ、差免候以前ニ申上候様仕、右調中釣し売不為致儀、商方見体ニ拘り候間、自
然取締ニ相成可申、尤、右仕法此度始て之儀ニ付、一応奉伺候、且、前書名前之内鉄五郎儀は絵草紙屋
ニ無之、下々にて糴と唱年来中次渡世致、是迄品々不宜所業有之、既ニ去酉(嘉永二年)五月中、仙台
萩と申錦絵手を込摺立、高価ニ内証売致、其度々証文取置候得共相用不申、尤、見世売致候ものニ無之
候間、釣し売差留候と申事ニも難致、乍併、其侭ニ捨置候も如何奉存候間、此者糴売致候絵類当分買取
不申候様、市中絵草紙屋共え無急度相達候ハゝ、過怠ニも相当り、程合見計勘弁致遣候ハゝ、外々響ニ
も相成、且は、外聞旁一統之取締ニも相成可申哉、御賢慮被成下候様仕度、此段申上候、以上、
戌(嘉永三年)五月、 絵草紙懸名主共〟
◯ 七月十七日〔『藤岡屋日記 第四巻』p158「絵双紙屋への通達」〕
〝七月十七日、通三丁目寿ぇ絵双紙懸名主八人出席、絵双紙屋へ申渡之一条
去ル丑年御改革、市中取締筋之儀、品々御触被仰渡御座候処、近来都て相弛、何事も徒法ニ成行候哉、
畢竟町役人之心得方相弛候故之義と相聞候旨御沙汰ニて、此上風俗ニ拘り候義ハ不及申、何ニ不限新工
夫致候品、且無益之義ニ手を込候義ハ勿論、仮令誂候者有之候共、右体之品拵候義は致無用、事之弛ニ
不相成様心付、其当座限ニ不捨置様致世話、此上世評ニ不預、御咎等請候者無之様、心得違之者共ハ教
訓可致旨、先月中両御番所ニて、各方ぇ被仰渡御坐候由、絵(一字欠)之義ハ前々より之御触被仰渡之趣、
是迄度々異失不仕様御申聞有之、御請書等も差出置候処、近来模様取追々微細ニ相認候故、画料・彫工
・摺手間等迄差響、自然直段ニも拘、近頃高直之売方致し候者も有之哉、右ハ手を込候と申廉ニ付、勿
論不可然、銘々売捌方を競、利欲ニ泥ミ候より被仰渡ニ相触候義と忘れ候仕成ニ至、万一御察斗(当)請
候節ハ、元仕入損毛のみニハ無之、品ニ寄、身分之御咎も可有之、錦絵・草双紙・無益之品迄取締方御
世話も被成下、御咎等不請様、兼て被仰論候は御仁恵之至、難有相弁、此上風俗ニ可拘絵柄は勿論、手
を込候注文不仕、篇数其外是迄之御禁制(二字欠)候様、御申論之趣、得と承知仕候、万一心得違仕候
ハヾ、何様ニも可被仰立候間、其印形仕置候、以上
錦絵壱枚摺ニ和歌之類并草花・地名又ハ角力取・歌舞妓役者・遊女等之名前ハ格別、其外之詞書認申
間敷旨、文化子年五月中被仰渡御坐候処、錦絵ニ歌舞妓役者・遊女・女芸者等開板仕間敷旨、天保十三
寅年六月中被仰渡之、已来狂言趣向之絵柄差止候ニ付、手狭ニ相成差支候模様ニ付、女絵のみニては売
捌不宜敷、銘々工夫致、狂画等之上ぇ聊ヅヽ詞書書入候も有之候得共、是迄為差除候ては難渋可仕義と、
差障ニ不相成程之詞書ハ其儘ニ被差置候処、是も売方不宜敷趣ニ付、踊形容之分、御手心を以御改被下
候ニ付、売買之差支も無之、前々より之被仰渡可相守之処、詞書之類も追々長文ニ相認、又は天正已来
之武者紋所・合印・名前等紛敷認候義致間敷之処、是又相弛ミ候哉、武者之伝記認入、右伝記之武者は
源平・応仁之人物名前ニ候得共、内実ハ天正已後之名将・勇士と推察相成候様認成候分多相成、殊ニ人
之家筋・先祖之事相違之義書顕し候義御停止、其子孫より訴出候ハヾ御吟味可有之筈、寛政度被仰渡有
之、仮令天正已前之儀ニ候共、伝記ニハ先祖之系図ニ至り候も有之、御改方御差支ニも相成候間、其者
之勇略等、大略之分ハ格別、家筋微細之書入長文ニ相成候ては、御改メ被成兼候段承知仕、向後右之通
相心得、草稿可差出候〟
〈天保十二(丑)年以来の改革で強化した市中取締に緩みが生じているので、改(アラタメ)懸りの名主と絵草紙屋に対して、
もう一度趣旨を確認し徹底させようという通達である。時の風俗に拘わる絵柄は勿論、彫り・摺りに手間のかかる高
直のもの、そして是まで禁制であったもの、これらを再度禁じたのである。そのうえ万一おとがめを受けた場合には
原材料の損ばかりでなく、身分上の処罰も覚悟せよという圧力まで加えた。文化元年(1804)五月、錦絵・一枚摺に和
歌の類、草花・地名・力士・歌舞伎役者・遊女等の名前を除いて、それ以外の詞書きを禁止。天保十三年六月、歌舞
伎役者・遊女・女芸者の出版を禁止して統制を強化した。商売に差し支えが生じた板元達は銘々工夫して、詞書き入
りの狂画などを出してみたがあまり売れ行きがよくない、それで歌舞伎と言わず「踊形容」として、手心を加え許可
したところ商売が持ち直しのはよいが、今度は、詞書が長くなるなど、また緩み始めた。特に武者絵の緩みは甚だし
く、天正年間以降の武士の紋所・合印・名前等の使用を禁じられているのに、それらと紛らわしいものが出始め、伝
記絵に至っては、表向き源平・応仁時代の名前にして、内実は天正以降の名将・勇士に擬えるのものまで出回ってい
る。もっと検閲を強化せよというのである。当時『太閤記』を擬えた武者絵が、国芳・貞秀・芳虎等によって画かれ
ている。いうまでもなく、この通知は、こうした出版動向と改懸り名主たちの緩みに対する牽制である〉
◯ 八月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p326〕
〝嘉永三戊年八月
錦絵之内、人物不似合紋所を付、時代違之武器其外取合紛敷儀ニ付調
乍恐以書付奉申上候
一 私共儀錦絵板下認来候処、今日被召呼、右絵類認方御尋之上、一体絵類之内、人物不似合之紋所等
認入、又は異形之亡霊等紋所を付、其外時代違之武器取合、其外ニも紛敷、兎角為考合、買人ニ疑察
為致候様、専ラ心掛候哉ニ相聞、以之外之儀、縦令板元注文有之候共、絵師相慎候得は、如何之絵出
板は不相成道理、全私共心得方不宜故之旨、厳重御察斗受可申上様無之、殊ニ総師共之内、私共別て
所業不宜段入御聴、重々奉恐入候、今般之御沙汰心魂ニ徴し恐縮仕、向後右体世評ニ拘候儀は勿論、
板元より注文請候共、如何と心付候廉之下絵決て相認不申、厚相慎候様可仕候間、是迄之儀は格別之
御憐愁を以、御仁恕之御沙汰被成下置候様、一同奉願上候、尤、今般御沙汰有之候迚、板下頼受候節
及断、為差支候様之取計決て仕間敷、何分ニも御聞済奉願上候、以上
嘉永三戌年八月五日 新和泉町 又兵衛店 国芳事 孫三郎 印
同人方同居 芳藤事 藤太郎 印
家主又兵衛煩ニ付代 五人組 伝兵衛 印
同 安兵衛 印
南鞘町 六左衞門店 芳虎事 辰五郎 印
家主 六左衞門 印
五人組 宇兵衛 印
本町弐丁目 久次郎店 清三郎弟 芳艶事 万 吉 爪印
亀戸町 孫兵衛店 貞秀事 菊次郎 印
家主孫兵衛煩ニ付代 五人組 常 吉 印
同 友三郎 印
南 隠密御廻
定御廻 御役人衆中様〟
〈国芳・芳藤・芳虎・芳艶・貞秀連名による南町奉行隠密廻・定廻同心宛願書である。具体的は作品名は明らかではな
いが、彼等の画く人物や亡霊の紋所、あるいは時代違いの武器などが、買う人にあらぬ疑念を抱かせるという理由で
召喚となったようだ。上掲国芳の「【きたいなめい医】難病療治」は六月発売、その重板を作った廉で三河屋鉄五郎
などの版元が罰せられたのが同七月、そして八月、その判じ物には依然としてさまざまな浮説が取り沙汰されていた。
そんな中での召喚である。当局の念頭に国芳の「【きたいなめい医】難病療治」があったことは間違いないだろう。
彼等は、以後、そうした絵柄の注文が版元からあっても決して画かない旨を誓約することで、お上の温情ある沙汰を
願った。結果は彼等の願い通りになったようである。彼等が処罰された形跡がない。重板のようにれっきとした物的
証拠があれば別だが、浮説の発生源を絵師に特定することは難しいからであろう。ところで、上掲『藤岡屋日記』に、
国芳がろくろ首の絵柄について尋ねられたとき、三馬の作品と答えた云々の挿話が載っているが、あるいはこの召喚
時のことかもしれない。それにしても、国芳が奉行書あてに文書を提出するはこれが二度目。一度目は天保十四年三
月で、このときは好色本や役者や遊女・芸者の似顔絵など風俗に拘わるものはもちろん、賢女烈婦伝や女忠節の類も
当世風に画かないことを誓約させられていた。こんどは判じ物に対してである。なお、芳虎・貞秀も国芳同様二度目
である〉
◯ 十月〔『嘉永撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p430〕
(芝三島町、板元若狭屋与市より出された「琉球人行列付出板売弘願」に対する、遠山・井戸両町奉行の
老中・松平伊賀守宛、伺書である)
〝 芝三島町 六兵衛店 与市
右之もの相願候は、此度琉球人参府仕候ニ付、右行列附絵図彫刻半紙三枚継墨摺並彩色入三編摺ニ致し、
両様共板行売弘度旨、願出候間、吟昧仕候処、兼て松平大隅守屋え出入仕、殊ニ同人家来よりも願之通
致し度旨申立、然ル処去ル寅年琉球人参府之砌、同町七左衛門店甚八後家ちせ後見平蔵外弐人より右行
列附墨摺並錦絵売弘願出伺之上、錦絵は差留、墨摺之分計り売弘申付候儀ニ御座候間、今般相願候彩色
入之儀も、乍聊手数相掛無益之儀ニ付差留、墨摺板行売弘之儀は願之通可申付哉、此段奉伺候
但琉球人参府之節、行列附板行願人有之節は、其度々伺之上板行売弘申付候儀ニ御座候〟
〈寅年とは天保十三(1842)年のこと。今回もその時と同様錦絵は認められず、墨摺のみ。町奉行がこの件で老中に伺い
を立てたのは、この出版には松平大隅守(薩摩の島津家)のお墨付きがあったからであろう〉
☆ 嘉永四年(1851)
◯ 三月(「諸問屋名前帳」『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p512〕
〝諸問屋名前帳
此度問屋組合之儀、文化以前之通再興被仰付、御調之上地本双紙問屋現在人数名前帳奉差上候、已後月
行事を立、兼て被仰渡候風俗等ニ拘候絵物合巻双紙類無之様急度相守、開板取締向之儀は是迄之通相心
得掛り名主中改請可申候、向後加入並譲為休業共、其時々奉願御差図受可申候
嘉永四亥年三月〟
〈天保十二年(1841)十二月、改革によっって解散させられた地本問屋の組合の再興である。月行事を立て、風俗等にか
かわる出版をしないようにすること。改(アラタメ)(検閲)については絵草紙掛りの名主がこれまで同様行うとした。な
お再興された地本問屋名は以下の通り〉
〈『諸問屋名前帳』57巻〔50〕「団扇・草紙・煙草入・花松」及び『諸問屋仮組名前帳』4巻〔2〕「書物問屋・
地本双紙問屋」の翻刻は国立国会図書館デジタルコレクションに拠る〉
諸問屋名前帳
〝寛政三亥年二月被仰渡候私共商売体団扇絵之儀、以来新板もの猥成異説、時々雑説、又は当前世上ニ有
之無筋之噂事、其外男女風俗ニ拘(カカワル)如何敷(イカガワシキ)儀等絵板行類不致、是迄仕来之外新規ニ花美
之儀致間敷趣、弥以相守、絵柄等是迄之通絵双紙懸名主中え差出改請実直ニ渡世可仕候
嘉永四亥年三月〟
〈こちらは団扇問屋名前帳の冒頭にあった書き付けという〉
◯『徳川幕府時代書籍考』牧野善兵衛編 東京書籍商組合事務所 大正元年(1912)刊
(嘉永四年三月の問屋株仲間再興記事)
〝天保十二年、問屋及び株式の廃せらるゝや、書物問屋組合も瓦解せしも、此の再興に由て、又合して一
の組合となれり【当時は組合とは云はずして仲ヶ間と云へり】依て年行事なる者、再び興り【是を仲ヶ
間の再興と云ひ、是より以後、天保十二年問屋株式廃止発令前の書林を古株と云ひ、再興後加入せるも
のを新組と云へり】仲ヶ間中出板をなさんとする者は、年行事へ草稿と願書を出す【私宅】行事は月数
回行事の集会をなす、之を行事の寄合と云ふ(従前三組なりしを此時より一組となる)行事の任期は三
ヶ月にして、春夏秋冬の四期に分ち春行事夏行事と云ふ、何れも仲ヶ間内の門閥家又は功労ある人【何
れも古組の人】此の任に充つ(正副二人、副を添と云ふ)其の席にて草稿を検査し、且つ同業者中に類
似の書なきやをも調査し、若し類似の書あるときは、出願前甲乙をして示談せしむ、示談の上、先板主
へ出板の上百部又は二百部を無代にて与ふるの約をなす、之を分け立てと云ふ【分を立つるの意なり】
甲乙示談済の上は行事願書に奥書して出願す【町年寄館市右衛門役所へ】町年寄より是を町奉行所へ進
達し、奉行所之を学問所へ出す手続なり、諸藩は其の藩より、旗下の士は直接又其の頭支配より、諸藩
士又は旗下の士にても、書林を出板者となすときは書林行事の手を経るものとす、又書林仲ヶ間外に地
本問屋組合と称するものあり、是は書林組合と別にして錦絵を専業とし外地本【地本とは子供の持遊も
の、昔話桃太郎・猿蟹合戦又は敵物等の小品類】及び袋入と唱ふる田舎源氏の如きものを扱ふものなり、
此地本問屋と書物問屋と区別【江戸絵図又は日本絵図の如きは書林に続せり】錯雑し、嘉永年間大争
論起りしも書林勝を得たりと【地本問屋より書物屋を兼ぬる者はあれど、書物屋より地本屋を兼ぬる
者なし】而して学問所は差支なきものへは草稿の表紙に図の如き印を捺し、又図の如き附箋をなして
下附せらる、医学館後の蕃書調所も又是に同じ故に略す【印の寸法、附箋の寸法大略図の如し】
印「学問所改」 付箋「出板差許候刻成之上壱/部学問所エ可相納候」
右の許可を得たる上出板に着手し刻成の上出人より一部を行事に出す、行事之を館役所へ出し、役所よ
り奉行所を経て学問所へ納まる、此に至り行事より出板人へ西の内紙三分一の用紙へ書名を記し、末へ
右相改候間商売可被成候【寛政度の触書に照応せり】と記して附与す、出板人は此時又別に入銀帳なる
ものを持参す【此帳は式様なし各自の随意】之へ新板書籍の書名と定価を記し行事へ出す、行事此帳に
記せる書名の上へ行事改と云ふ印を押捺して附与す、出板人は此帳と見本とを以て、同業中へ新板の披
露をなし、買入を求む入用者は此帳へ買入部数を記載す、是新板発売の手続なり、此時行事は一定の伺
入用の外、其書一部の定価を取りて、之を組合の入費に充つ【行事は無給名誉職】此の制は維新後町年
寄は廃せられたるも行事は存続し、行事より地方庁へ出し地方庁は文部省【其の前は史官】へ出す手続
きは幕府時代と異ならざりき【行事に少し異例を生じたるも】明治八年、始て板権條例出づるに及び、
内務省の所管となり出板人より直接同省へ出すことゝなり、行事は終に用なきに至り廃絶せり、是徳川
時代より明治八年に至る書籍出板の手続なり〟
◯ 十二月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」二十「書物錦絵之部」p178〕
(町年寄・館市右衛門の伺書)
〝俳諧玉葉集外拾弐品彫刻売弘願奉伺候書付
小倉百人一首姫文庫 壱冊 薄彩色入 芝三嶋町家持 くに後見
南鞘町車名 芳虎事 辰五郎抄録并画 願人 書物屋(和泉屋)市兵衛〟
〈出版の許可は下りた。しかし国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」にも「往来物倶楽部」を主宰する小泉吉永
氏の「往来物データベース」にも「小倉百人一首姫文庫」の書名は見当たらない〉
☆ 嘉永六年(1853)
◯ 八月〔『嘉永撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p464〕
(北町奉行・井戸対馬守が南町奉行・池田播磨守宛に出した相談文書)
〝絵草紙改方之儀ニ付ては、度々申渡置候趣も有之候処、近頃取締向相弛候哉と相聞、既此程浮世又平名
画奇特と題号いたし候二枚継錦絵仕、如何之浮説を唱流布致し候由、伊勢守殿より御沙汰有之候ニ付、
組廻之者共え申付、風聞為相礼候処、掛名主とも改済之品ニて、板元並画工等も相分り候え共、素深意
有之儀とも不相聞侯間、兼て及御相談候通、吟昧ニは不取掛、名主共限先ツ売捌差留、板木摺溜之分共
取集置候様組廻之者より為及沙汰候、一体絵類之内、時之雑説又は絵柄不分様相認、人々ニ為考、買人
を為競侯様之類、間々有之、右は掛名主共心附候えは、不取締之儀は無之訳ニ付、下絵改方等弥入念弁
別、紛敷方ハ館市右衛門え可申聞旨、去ル午年同人より為申渡置候処、如今般不分明之絵柄ニ有之を名
主共改印いたし、殊ニ彼是浮説を生し候ても差留候心付も無之段、掛申付置候詮無之、甚等閑ニ付、此
上改方之規則申渡侯のみニては、取締相定問敷候間、一同掛引替候方ニも可有之哉、以後取締方等之儀
をも勘弁いたし可申聞も旨、別紙之通、館市右衛門え可申渡候哉と存候、依之錦絵其外風聞等相添、此
段及御相談候
丑八月〟
〈時の老中阿部伊勢守から、国芳画「浮世又平名画奇特」について、怪しげな噂が流布している由の指摘があったので、
町奉行・井戸対馬守は隠密同心等の廻り方を使って調べさせた。これは絵双紙懸り名主の改(アラタメ)(検閲)も通って、
板元・画工とも分かっているが、深意があるとも聞かないので、吟味には及ばなかった。改の名主の権限で売買禁止、
板木と摺り溜めの分は集めさせた。このところ時の雑説や絵柄を分からないように画いて、人々に考えさせ、買う側
を競わせるような類の絵が時々ある。午年(弘化三年)、下絵の改を入念にして、紛らわしいものは町名主の館市右
衛門に申し出るよう改掛りの名主へ通達しているが、今回、このような不分明の絵柄に改印を押し、さらに浮説が生
じても制止しようともしないのは甚だ職務に怠慢である。これは改め方の規則を通達するだけでは厳しい取締りが出
来ないので、絵双紙改掛りの入れ替えを行ってはどうかという相談であった。早速、隠密廻り同心による国芳の身辺
調査と絵草紙掛り名主の風聞および代替名主に関する調査が行われた。以下はその報告〉
◯ 八月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」p129)
〝 新和泉町画師(歌川)国芳行状等風聞承探候義申上候書付 隠密廻
新和泉町画師国芳義、浮評等生候絵類板下認候旨入御聴、同人平日之行状等風聞承探可申上旨被仰渡候
間、密々探索仕候風聞之趣、左二申上候、
新和泉町南側 又兵衛地借
浮世画師 芸名 歌川国芳事 孫三郎 五十六才
妻 せゐ 三十八才
娘 とり 十五才
よし 十二才
母 やす 七十二才
外ニ人別ニ無之弟子 三四人
右国芳事孫三郎義は、亀戸町友三郎地借、浮世絵師、芸名歌川豊国事庄蔵先代之弟子ニて、歌舞妓役者
共似顔板下重も之稼方有之候処、天保十二丑年以来、絵類御取締廉々之内遊女・歌舞妓役者似顔御制禁
之御沙汰ニ付、武者・女絵又は景色之絵類類等板元注文受候得共、右絵類ニては、下々市中之もの并在
方商ひ高格別ニ相減候故、国芳義は画才有之者ニ付、奇怪之図板下認候絵類売出し候得は、種々推考之
浮評を生候より、下々之ものとも競買求候間、板元絵双紙屋共格別之利潤相成候ニ付、国芳え注文致シ
候もの多相成候処、右絵類之内ニハ浮評強絶板いたし候へは、猶望候もの多相成、内々摺溜置候絵類高
直ニ競ひ売買いたし候人気ニ至り、板元絵双紙屋共存外之利潤有之仕癖ニ成行候間、兎角異様之絵類を
板元共注文いたし候様相成候ニ付、書物絵双紙懸名主共踊形容之絵柄は為売捌、此踊形容と申立候は、
歌舞妓役者共狂言似顔之図二候得共、名前・紋所を不印売出し候間、奇怪之絵柄ハ凡相止候、然処、踊
形容之似顔絵は豊国筆勢勝レ候ニ付、国芳えは板元より之注文相減、又通例之武者絵・景色等之絵類ニ
ては商ひ薄、旁国芳職分衰候ニ付、図柄工風いたし絵類売出し候へは、下々にて何歟推考之浮評を生シ
候より望候もの多、商高相増候様ニ図取いたし候て、職分衰微不致様ニ仕成し候由、
一 浮世画師は惣体職人気質之者にて、其内国芳義は弟子も多ク、当時は重立候ものニ候得共、風俗は
野卑ニ相見、活達之気質ニて、板元共より注文受候砌、其身心ニ応候得は、賃銀之多少ニ不拘受合、
又不伏之注文ニ候得、賃銀多談合候ても及断、欲情ニは疎キ方之由、尤、図取之趣向等国芳一存ニは
無之、左之佐七え相談いたし候由
神田佐久間町壱丁目 喜三郎店
明葉屋 左七
此ものは狂歌を好、狂名は梅の家と申候由
右佐七は、茶番或は祭礼踊練物類之趣向功者之由、同人は国芳え別懇ニいたし候間、同人義板元より注
文受候絵類、図取を佐七え相談いたし候間、浮世絵好候ものは、図取之摸様にて推考之浮評を生し候由、
一 国芳居宅は、新和泉町新道間口二間半・奥行六間、自分家作ニ住居、家内八九人程之暮方ニ付、妻
子ハ相応之衣類も着候得共、其身ハ着替衣類等之貯も薄、注文受候画類賃銭相応ニ受取候得共、弟子
共之内えも配当いたし、其上欲情には疎キ方ニて暮方等ニは無頓着、借財等も有之候者之由、且、前
書佐七義、当六月廿四日、下柳原同朋町続新地家主、料理茶屋河内屋半三郎方借受、雅友共書画会催
候節、国芳義同所へ参り、畳三十畳敷程之紙中え、水滸伝之人物壱人みご筆ニて大図ニ認、隈取ニ至
り手拭え墨を浸シ隈取いたし候得共、紙中場広にて手間取候迚、着用之単物を脱墨を浸、裸ニて紙中
之隈取いたし候間、座輿ニも相成、職人之内にては、下俗之通言きおひもの杯と申唱候由、
一 此節絵双紙屋共売買いたし候二枚続浮世又平名画奇特と題号国芳板元左之通、
浅草東岳寺門前 嘉兵衛店
地本草紙問屋仮組 越村屋平助
右之もの板元ニて売買いたし居候大津画之図柄ニ付、浮評を生候処、右二枚続大津画は、当六月六日、
草稿ヲ以懸名主共立会席え持参いたし候ニ付、禁忌之義も無之候間改印いたし、六月中旬より出板いた
し候由、右大津絵は、相画師浮世又平認候大津絵之画勢抜出候趣向ニて、表題傾城反魂香と申浄瑠璃文
句を取合候由、紙中人物似顔左之通、
歌舞妓役者之内
浮世又平 市川小団次
雷 浅尾 奥山
若衆 中村翫太郎
福禄寿 坂東佐十郎
座頭 市川広五郎
鬼 嵐 音八
但、音八は大柄ニ付、紙中えも大振認候由、
奴 中村 靏蔵
弁慶 中山 市蔵
猿 中山文五郎
娘 中村 相蔵
大黒 嵐 翫五郎
右之外、流行逢都絵希代物と題号いたし候、画師国芳、絵双紙屋仮組浅草並木町弥兵衛店(湊屋)小兵
衛板元にて、三四ケ年以前売出候大津絵も、画勢抜出候趣向之図ニ候処、此錦絵売出之節より浮評等生
し不申候処、当六月中売出し候前書二枚続錦絵之分、浮評相生し候由、
右、密々承糺候風聞之趣、書面之通り御座候、且、孫三郎義前書之外不正之所業等可有之と探索仕候得
共、差当如何之所業等相聞不申候、依之右絵類相添、此段申上候、以上、
丑(嘉永六年)八月 隠密廻り〟
◯ 八月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」p124〕
〝 絵草紙懸名主風聞井人撰仕候儀申上候書付 隠密廻
書物絵草紙掛名主共、勤方井人撰仕候様、被仰渡候問、承糺候風聞之趣、左ニ申上候、
書物絵草紙掛 村松町 名主(村松)源六
同 弓 町 同 (渡辺)源太郎
同 大博馬町 同 (馬込)勘ケ由
同 新乗物町 同 (福嶋)三郎右衛門
同 浅草茅町 同 (浜) 弥兵衛
同 麻布谷町 同 (米良)太一郎
同 小石川白山前町 同 (衣笠)房次郎
同 新両替町 同 (村田)佐兵衛
右は、絵草紙懸相勤居候もの共之内、源六儀は年来相勤、書物絵草紙之儀、古来より之御触被仰渡并取
締方等精細ニ相心得居、入組候儀ニ至候ては重ニ取計、惣体之締方も致し候得共、生質内端故、地本草
紙問屋仮組之内、下々人気六ケ敷もの共取締方迄は届兼候由、
一 源太郎儀は、右掛取調向等之節御用弁之者ニ候得共、品ニ寄同勤え打合不申、一己之取計も有之哉
ニて、懸同役共之内ニは、間柄不平之ものも有之由、
一 勘ケ由・三郎右衛門儀は、近年懸被仰付候ものニ御座候処、勤向古役等え談合精勤之由、此内三郎
右衛門は活達之生質ニ付、当座急場之儀は行届候由、
右、源六・源太郎・勘ケ由・三郎右衛門は、引続掛り可被仰付哉、
一 弥兵衛・太一郎・房次郎之内、弥兵街儀は右掛急場調筋等不得手之由ニて行届兼、太一郎・房次郎
儀は御用立候ものニは候得共、地本草紙問屋共住居之場所と懸隔罷在候間、不弁之由、
一 佐兵衛儀は年来相勤、前々は右掛之儀ニ付、取締向重ニ心付罷在候処、長病ニて同勤之ものえ長々
頼合居、掛勤方行届不申候由、
右、弥兵衛・太一郎・房次郎・佐兵衛儀は、不弁之儀も御座候間、今度右掛り御免可被仰付哉、
壱番組 新革屋町 名主(木村)定次郎
拾壱番組 雉子町 同 (斎藤)市左衞門
右定次郎・市左衛門は、神田辺内外共地本草紙問屋多ク住居致し候ニ付、右最寄前書勘ケ由壱人ニては
届兼可申哉ニ付、御差加相成候ハゝ、取締も相届可申由、
四番組 坂本町 名主 新助後見 新右衛門
六番組 西紺屋町 同 (坂部)六右衛門
七番組 南八町堀町 同 (島崎)清左衞門
八番組 宇田川町 同 (益田)弥兵衛
右、新右衛門・六右衛門・清左街門・弥兵街は、御組屋敷最寄芝神明町辺地本草紙問屋多住居致し候内、
別て仮組之内には、異様之図無改重板等致し候小前之もの多、右扱向は急場手早之ものニ無之候ては届
兼候処、当時前書源太郎壱人ニては行届不申候間、御差加相成候ハゝ、取締方も相届可申由、
三番組 浅草西仲町 名主(関口)吉左衞門
右は、浅草寺最寄無改異様之図絵類等立商ひ致し候もの多ク入込候場所に付、為心付方御差加相成候ハ
ゝ、行届可申由、
右、書物地本絵類等善悪板元致し候ものは、何れも下タ町ニ多罷在候間、是迄懸名主共之内四人御免、
跡前書定次郎・市左街門・新右衛門・六右衛門・清左衛門・宇田川町弥兵衛・吉左衛門、都合七人新規
右懸可被仰付哉、
一 是迄右懸役一旦被仰付候得は、外役と違年限も無之候間、自ラ心得方之弛ミニも可相成哉、此上勤
方ニ寄、年々御差替等御座候ハゝ、一際心付方入念可申哉、
右、密々承合候風聞并人撰仕候趣、書面之通御座候、此段申上候、以上、
丑(嘉永六年)八月 隠密廻〟
◯ 十一月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」p152〕
(町年寄・館市右衛門の町奉行宛上申書)
〝 絵草紙掛名主共之儀ニ付申上候書付 館市右衛門
絵草紙改方之儀ニ付ては、度々被仰渡候趣も有之、絵類之内時之雑説又は絵柄不分様相認、人々ニ為考
買人を為競候様之類間々有之、去ル午年(弘化三年)、下絵改方等弥入念、弁別紛敷分は私方え可甲聞
旨被仰候処、近頃取締向相弛候哉、既今般御沙汰之次第も有之、一体掛り名主共下絵改方いたし候節、
得と事実相札改印致候後、若彼是浮説等申唱候ハゝ、早速売留等可取計処、御沙汰有之候迄其心附も無
之段、心得方等閑之至、掛り被仰付置候詮無之候候間、不残御引替被仰付候方ニも可有之哉、以後改方
之規則格別巌重ニ行届候様、勘弁仕可申上旨被仰渡候、
此段、於私恐入勘弁仕候処、掛り名主共心得方等閑至極ニ候得共、全数多改候下絵墨書見込違ひ仕候
哉、且、板元仕候もの共心体も不宜、彼是勘弁仕候趣左ニ申上候、
一 掛名主共不残御引替之御沙汰重ニ奉恐入候得共、不残新規不案内ニては、取用不弁利 之儀も有之、
左候迚、此節抜ニ御免相成候時は、気配ニ拘り可申哉、可相成儀ニ御座候ハゝ、最早格別之月数も無
之、当十二月迄是迄之もの被差置、取締之ため堀江町名主熊井理左衛門・長谷川町同鈴木市郎右街門、
右両人当分御差加被成下、当暮ニ至り、再応人撰加除被仰付候ハゝ、差向取締相立改方可行届儀と奉
存候、
但、是迄書物掛り・絵草紙掛り兼帯伺之上私より申渡、年限無御座相勤申候、勿論書物之方は、都
て新刻物私方え差出、伺之上取計候ニ付、名主共手数無御座、絵草紙之儀は、名主共手限改差引肝
要之主役ニ付、廻り方よりも申候由、右掛之儀は、当十二月より世話掛り・諸色掛等同様壱ケ年詰、
勤方ニ寄重年被仰付候御主法ニ相成可然哉、
一 前段申上候板元地本双紙問屋共心得方も如何と奉存候、尤、去ル午年(弘化三年)被 仰渡之頃は、
問屋仲問無之砌ニ付、名主改方のみ御取示相成候得共、去々年問屋再興之上は、前々被仰渡候花美風
俗ニ拘り候儀は勿論、時之雑説并絵類不分様相認、買人為競候類決て出板仕間敷旨、今般御抄汰之趣
私より相示候ハゝ、一卜廉立直り可申哉、右之趣御勘考被成下、此節定世話掛り名主両人御差加、絵
草紙掛り被仰付、并地本双紙問屋共取示候ハゝ、彼是行届可申哉と奉存候、依之別紙申渡案相添、此
段申上候、以上、
丑(嘉永六年)十月
(下ケ札) 当時 絵草紙掛書物掛兼帯
村松町 名主(村松)源六
小石川白山町 同 (衣笠)房次郎
浅草茅町 同 (浜) 弥兵衛
麻生谷町 同 (米良)太一郎
新両替町 同 (村田)佐兵衛
大伝馬町 同 (馬込)勘解由
新乗物町 同 (福島)三郎右衛門
弓町 同 (渡辺)源太郎〟
◯ 十一月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」p167〕
(絵草紙掛り名主の町年寄宛伺い書)
〝 絵双紙之儀ニ付伺書
地本草紙問屋去々亥年(嘉永四年)中再興被仰付、前々手広手中之仕癖未タ立直兼候二付、当十月中、
右行事共え売買品取締方之儀、御沙汰被為在候ニ付、篤と私共取締方談判仕候趣、左ニ申上候
一 絵草紙壱枚絵之類、時之雑説又は絵柄不分之様相認買人を為競候類、其外従古来禁忌之絵柄売買不
致様、寛政二戌年中(十月)地本双紙問屋行事え被仰渡、文化四卯年中迄、此者共限ニて下々改方仕
候儀ニ有之、今般再興被仰付候得は、此仲間当時問屋弐拾九人、仮組百拾七人之売買品は、厚取締方
可仕廉々私共より猶申聞、書付取置申度候、
一 板木職人共之儀は、貞享元子年より寛政四子年迄被仰渡触之内ニも、仲間え加入不致右板行彫立間
敷旨、取締方被仰付候処、此板木職人今般再興被仰付候ニ付、町方住居町人身分之者は取締行届候得
共、御武家方身分ニて内職之衆多人数有之、此内職之衆え彫刻相頼候て、無改ニて禁忌之絵類・書類
等致隠売候儀麤漏ニて、此侭ニては取締相立不申候間、右内職之衆御身分之高下ニ不拘、板木屋仲間
弐百弐拾人之もの共より先々性名為取調、板木屋行事迄性名承り、板木彫刻直請職は不相成事ニ取極
候得は、板木屋職法も寛政度御触之通相立候得共、当時内職之衆多人数、殊ニ小身之衆も多有之様子
ニ付、差向候所ニて直請職差留、板木屋之内下職一方ニ仕法相立候ハゝ、小身之衆内実苦情を生候も
難計、又隠彫可有之哉ニ付、当分之内町人身分ニ候得は、仮組え差加候扱方ニ准、板木屋共手元限ニ
て内職之衆性名・身分柄取調置、職分筋ニ付候御触・被仰渡可相守段取極書為請取置、万一職法相背
候分は御糺願上候様仕度、此儀聢と内極不仕候ては、諸職手広中麤漏之仕癖立直不申候、
但、松平越中守様御家来田中伊三郎儀、細撰記と申中本隠彫致し、当時御吟味中之者、表御台所人
村瀬正五郎方同居川嶋近吉儀、好色画等猥ニ隠彫致し候、此外多端ニ御座候、
一 板行摺職并糴と唱絵草紙絵類中次商ひ致し候者、禁忌之絵柄小本類・壱枚絵等、無改ニて隠売買致
し候ニ付、右無改之品密々買取申上候儀も度々御座候得共、多端之儀此侭ニては取締行届兼候問、板
行摺職人并糴と唱候中次之者共、無改之品隠摺・隠売致し候ものは、以来書物問屋・地本双紙問屋并
両仮組之者方ニて一切注文相禁、中次えは代呂物取引差留候儀ニ取締為仕可申哉、
但、本郷春木町壱町目源太夫店板行摺万次郎、歌舞伎役者助高屋高助致病死候錦絵、無改之品致隠
摺候、南槙町弥八店同為次郎儀、好色絵致隠摺候、
一 地本草紙問屋仮組之内、禁忌之品無改ニて隠売買致し候もの有之候間、以来此もの共総て無改之品
仕入隠売買致し候品、仲問行事共・私共取調申上候ハゝ、以来仕入御差留、仮組引除被仰付被下置候
様仕度、此取締方厳重ニ相立不申候由ては、一統右ニ相泥麤漏ニ成行可申候、
当時仮組之内 浅草新旅籠町代地(佐野屋)貞吉
此貞吉儀、小本日蓮記標題ニて絵柄不宜、并絵本太閤記ニ類候絵柄認、無改売買致し候
橋本町弐丁目 安兵衛店(園原屋)正 助
此正助は、七嶋全図隠仕入売買致し、当時御吟味中ニ御座候、
長谷川町 甚蔵店 (笹屋)又兵衛
此もの儀は、当時突留候品は無之候得共、好色本致隠売候、
霊岸嶋川口町 忠次郎店(志摩屋)鉄 弥
此鉄弥儀は、当時突留候品は無之候得共、時之雑説致隠売候、
八町堀水谷町壱丁目 新吉店(松坂屋)金之助
此金之助儀は、大日本一之宮記と申中本ニて、当時御吟昧中ニ御座候、
小伝馬町三町目 弥兵衛店 (本屋)久 助
久助儀は、御大名席順付ニて、当時御吟味中ニ御座候、
北嶋町 和吉店 (松坂屋)菊次郎
諸家陪臣鑑・御鎗早見・御大名席順早見ニて、当時御吟味中之上、御大名御行列付隠彫売買仕候、
甚左衞門町 弥七店 (佐野屋)富五郎
此富五郎儀ハ、江戸砂子細撰記と申小本出板致し、当時御吟味中ニ御座候、
新右衛門町 惣兵衛店(八幡屋)作次郎
此作次郎儀、乗合船雑説を可生絵柄之下絵差出候間、当十月中被仰渡後、右体不心得ニ付、私共方え留
置申候、
地本草紙問屋 馬喰町弐町目 久兵衛店(山口屋)藤兵衛
此藤兵衛儀は、旧来之問屋ニて、此度大江山之錦絵下絵差出候処、異形之図ニて買人を為競候様成絵柄
ニ付、私共方え留置申候、当十月被仰渡も有之処、余不心得ニ御座候、
寛政二戊年十月、被仰渡御文言之内、時之雑説・人之噂板行、猥ニ触売候儀一切可為無用、相背候もの
は召捕遂詮議、致板行候もの迄も急度可申付、右被仰渡有之候間、凡拾ケ年程以前迄は、往還壱枚摺親
孝行之次第、又は銭相庭・米相場・算法早見杯麤摺ニ致し、世上え不障類を売歩行候処、拾ヶ年程以前
より甚敷猥ニ相成、当時は異国船渡来之噂・御台場之図・武鑑・暦又ハ御触御文言、此外禁忌之絵類差
留候得ハ重板致し、大勢往遺を売歩行、寺杜縁日又は橋上等ニて商ひ罷在、所々え一時ニ罷出候間、差
留方等手ニ及兼候得は、他国之旅人共も往還行逢ニて買取候次第ニて、余市中不取締之様於私共ニ奉恐
入候、乍併、下々之内ニても別て身軽之者ニて、全其日々之稼迄之儀ニ付、巌重御抄汰相成候ては、是
又不便ニも奉存候間、右雑説・御触御文言・御台場図其外御場所柄之儀、又御役人様方御性名等認、狼
ニ往還・広場等売歩行候儀致間敷、此上相背候ものハ、町々町役人共見掛次第売歩行候板行不残取上、
名・住所承置候様御沙汰被成下置候様奉願上候、町役人共召捕板行取上候節及異議候ハゝ、当人取押置
其住所町役人え相渡、住所町役人より召連、御訴申上候儀ニ御主法被成下置候ハゝ、取締力相立可申候、
但、右責歩行候品、私共買取置候分差上申候、
右、地本絵草紙取締方廉々奉伺候、以上、
丑十一月 絵草紙掛名主
館 御役所〟
◯ 十二月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」p164〕
(町年寄・館市右衛門の町奉行宛上申書)
〝 絵草紙取締之儀掛名主共伺書勘弁仕申上候書付 館市右衛門
絵草紙取締之儀二付、懸名主共伺書差出申候、依之一覧仕候処、初ケ條、地本草紙問屋井仮組之もの共
売品取締廉々申付、書付取置候儀、役前相振レ候義無御座奉存、伺之通申渡候様可仕哉、
一 二ケ條目、板木彫刻内職ニいたし候輩内極之儀、身分違如何ニ相聞、素より内職之義ニ付、不被及
御沙汰旨可申渡哉、
一 三ケ條目、板行摺職人并糴と唱候中次之もの共、無改并隠売いたし候者、以後書物問屋・地本草紙
問屋両仮組共、一切右之者へ注文相禁、中次えは代呂物取引差留候仕法、 一ト廉は右体厳敷作法相
立不申候ハゝ、是迄相乱候仕癖立直シ申間敷哉、尤、兼て右之趣其筋之ものえ相示可置段、申渡候様
可仕候哉、
一 四ケ條目、地本草紙問屋仮組之内、前同断無改・隠売之もの有之候ハゝ、是又直仕入差留、仮組御
引除可相成段、急度申付置可然哉、
但、此節地本草紙問屋之内馬喰町弐丁目藤兵衛義、大江山之錦絵下絵異形之絵柄有之差留候旨、ケ
様之品彩色ニ寄買人為競候義も可有之、当十月中、伺之上問屋共心得方申渡し候時日不移不将ニ付、
同人義は私方え呼出シ、急度抄汰可仕哉、
一 五ケ條目、雑説又は其時之御普請場等認、往還売歩行候もの共取締、何様ニも被仰付度へ共、彼等
別て小前之者、其日稼之所業ニ付、厳格ニ町役人共取押候義、却て不穏間敷哉、此義は今一応勘弁仕
可申立旨、申渡候様可仕哉と奉存候、
右、則別紙伺書え夫々附札仕、并差出し候絵類・中本奉入御覧、此段奉伺候、以上、
丑十二月〟
☆ 安政四年(1857)
◯ 十月十三日付〔『江戸町触集成』第十七巻 p213(触書番号15998)〕
〝此度亜人参府ニ付、書物類地図類其外、見世先え差出置候儀差留可申旨被仰渡候ニ付、禁忌之品佐之通
諸国地図絵図 同地理之書(図) 軍書兵書 都て怪談異説同絵 武鑑之類
好色絵同本類 草双紙類 地震之絵 此外都て事替候本類 絵図之類
右亜人逗留中市中売買禁忌之品ニ付、書物問屋地本双紙問屋は勿論、小売見世或は往還広場橋台床見世
干見世等差出置不申様、受印取置可申旨、十月十三日書物懸絵草紙掛より通達
右亜人逗留中市中売買禁忌之品ニ付、書物問屋地本双紙問屋は勿論、小売見世或ハ往還広場橋台際、又
ハ辻々床見世干見世ニて小売之もの共ハ、別て右禁忌之品々は、見世先え差出置、又は釣置候義は決て
不相成候間、各様御組合限り、売禁之品見世先え差出申間敷旨、別て御心付可被成候、且御支配限受印
御取置可被成候、此段御達申候、已上
巳十月十三日 書物掛
双紙掛〟
〈十月二十一日、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスは、将軍・徳川家定に拝謁して、米国大統領の親書を手渡す
ことになっていた。この触書はそれを受けてのもので、アメリカ人の滞在中、諸国地図絵図、軍書兵書、武鑑之類、
好色絵・本、草双紙、地震絵などの禁制品を、書物問屋、地本問屋はもちろん辻々の床見世・干見世に至るまで、一
切店頭に置かぬよう命じたのである。幕府はこれらの流出をよほど警戒したらしく、同月二十五日にも同じ趣旨の触
書を出している〉
◯ 十月二十五日付〔『江戸町触集成』第十七巻 p215(触書番号16002)〕
〝一諸国地図絵図地理之書 一軍書兵書都て怪談異説絵
一武鑑之類好色絵同本 一草双紙類地震之絵
右品々其外共同様之類、亜墨利加人逗留中、町方武家方寺院えも手堅く売々致間敷旨、書物問屋地本問
屋本類糶売之もの、并往還床見世商ひ大道干見世店々限り、精々行届候様、御支配限り取締密々御申合
可被成候、不行届之義有之、外より相知候ては不相済義ニ付、厚御心得、早々御達可被成候、依之再御
達申候、以上
十月廿五日 小口取締掛 月番〟
☆ 万延元年(1860)
◯ 十二月十一日付〔『江戸町触集成』第十七巻 p475(触書番号16500)〕
〝江戸一覧名所双六と題名いたし候双六、売買いたし候趣相聞候、右は江戸絵図ニ紛敷如何ニ候条、絶板
申付候、早々仲間内仮組とも相糺、板木売(イ「摺」)溜共可差出、以後右様之品彫刻は勿論、当時右類之
品有之候ハヽ、売買差留候条、板木不残行事共へ取集可差出
組々世話掛 名主共
右之通書物問屋地本問屋共え申渡候条、猶名主支配々取調、右江戸一覧名所双六は勿論、右之類有之候
ハヽ早々取上可差出
但、月行事持之場所は最寄名主相心得同様可取計
右南御奉行所依御差図申渡候、情々取調、夫々早々答書可差出
申十二月
右之通被仰渡奉畏候、以上
万延元申十二月十一日
書物問屋行事 芝神明町 岡田屋嘉七
外五人
地本双紙問屋行事 上野黒門町 上州屋金蔵
横山町弐丁目 伊勢屋喜助
五番組世話掛 南伝馬町 名主 新右衛門煩ニ付 忰新七郎
外組々
右館市右衛門殿ニて被申渡候
今館殿ニて申渡有之候江戸一覧名所双六儀、床見世往還莚敷等ニて商候分ハ、書物問屋地本双紙問屋行
共方ニて取計不行届趣ニ付、右之分ハ別て御同役御支配限、本文被仰渡通り御取計、御壱組限御答書、
来ル廿日迄ニ差出可被成候、此段御達申候、以上
十二月十一日 小口 世話掛
右御達申候、御支配小売絵双紙屋共ニ至迄、右渡世之ものは勿論、古本屋床見世大道莚敷商人共、不洩
様入念御取調、所持之者有之候ハヽ不残御取上ケ、来ル十六日迄ニ拙宅へ可被遣候、尤御答書差出候間、
有無共半紙竪帳ニ御認メ、同日迄ニ無間違御申聞可被成候、以上
十二月十二日 組合 世話掛〟
☆ 慶応二年(1866)
◯ 四月二十日〔『江戸町触集成』第十八巻 p356(触書番号17044)〕
〝錦絵と唱、歌舞伎役者芸者等ヲ一枚摺ニ致し候義、風俗ニ拘り候筋ニ付、以来開板は勿論、是迄仕入置
候分共決て売買致間敷旨、其外絵双紙類、無益之手数不相懸様、天保十三寅年申渡置候処、近来歌舞伎
役者似顔絵開板致、其外高直之錦絵売出候由相聞以外之事ニ候、是迄仕入置候分共売買共差留、都て絵
双紙類彩色摺方等手数相懸、高直ニ売買候義致間敷旨、名主共支配限り其筋渡世之もの共へ不洩様申聞、
急度取締相立候様可致
右之通今日南御番所え被召出被仰渡奉畏候、仍如件
寅四月十八日 組々世話懸 壱人ツヽ受印
右之通駿河守様於御白洲、播磨守様御立会日仰渡候〟
☆ 慶応四年(明治元年・1868)
◯ 六月五日〔『幕末御触書集成』第五巻「暦書其外書籍并板行等之部」〕
〝町触
近来新聞紙類、種々之名目ニて陸続発行致し、頗ル財利を貪り、大ニ人心を狂惑、動揺せしめ候条、不
埒之至ニ候、以来官許無之分は一切被禁候間、屹度取糺可申旨御沙汰候事、
六月
右之通被仰出候間、板木并摺溜之分御取上相成候ニ付、来ル十日迄、不残町役人共方え取揃、市政北裁
判所え差出可申、若隠し置候もの有之おゐてハ、可為曲事もの也〟