Top 『古画備考』浮世絵文献資料館
「浮世絵師伝」前書き ☆ 嘉永四年(1851)以降 ◯『増訂古画備考』三十一 朝岡興禎編 嘉永辛亥四月十七日起筆 〝浮世絵師伝大和絵 漆絵 金泥又ハ墨ニテ塗シ画浮世絵 浮絵 小説本絵入 一枚摺 紅画又江戸画トモ云草双紙 【赤本 唐紙表紙初メ萌黄表紙故青本ト云。黒本 今ハ黄表紙ナレドモ青本ト云】吾妻錦絵 摺物絵 〈この分類は、享和二年(1802)、近藤正斎が写した『浮世絵類考』〔大田南畝撰・神宮文庫本〕の分類に「小説本絵入」を加えたもので、 大田南畝の分類を踏襲している〉 寛闊平家物語 【宝永年板】ニ云、 板行の浮世画を見るにつけても、むかしの庄五郎 が流を、吉田半兵衛 学びながら、一流つゞまやかに書いだしければ、京 大阪の草紙は半兵衛一人にさだまりぬ。江戸には、菱川 大和画師の開山とて、坂東坂西此ふたりの図を、写しけるに、近 き頃鳥羽画といふ物、扇服紗にはやり出ぬるを見れば、貌形手足人間にあらず、化物尽しに似たり。宗達流又をかし、こ れらは皆一流を建立せし、巧妙手にして、気を加へたる、いたり詮義なるべし。〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は『寛濶平家物語』の刊行を宝永七年(1710)とする〉 浮世絵類考 跋云、 延宝天和の頃の、一枚絵を蔵せる人ありて、見るに、西の内といふ紙、一枚ほどの大きさ有て、多くは武者画にて丹、緑 青、黄土にて、ところ斑に色どりて、大津絵の今少し不手際なるもの也。されども、絵は皆上古の土佐風にて甚よし。画 者の名はしるさず。もとより歌舞伎役者、遊女の姿を書(注1) 、始めて丹こずみといふものにて色どり、宝永正徳の頃 まで専らあり。享保の始め、同朋町和泉屋権四郎と云者、紅彩色絵を売はじめ、是を紅絵 といふ。夫より色々に工夫し、 墨の上に、にかはを塗り、金泥などを用ひて、うるし画 といふて、大に行はる。寛延の頃より、彩色を板刻にする事を、 仕はじめて、紅、藍、黄、の三返摺なり。明和のはじめ、吾妻錦絵 と云もの、いでき始めて、今に至り益美を尽せり。或 人云、寛文の頃は板刻画なく、大津絵のごとく、色々の武者画を、かき画にして売りぬ。板刻になりしは、延宝の頃が始 なるべし。しかるやいなやしらず。享和二年壬戌冬十月記、近藤正斎〈この「浮世絵類考」は大田南畝の撰になるもので寛政十二年以前に成ったもの。それを、享和二年十月、近藤重蔵正斎が写した。これは 神宮文庫本として伝わる。さらに、嘉永辛亥四年、朝岡興禎はその近藤正斎系統の写本を使用して『古画備考』の前書きとした。本HP 「浮世絵類考」参照。(注1)『古画備考』のこの箇所には脱文があり、神宮文庫本では 〝もとより歌舞伎役者、遊女の類の姿をかゝず。 元禄のはじめより歌舞伎役者の姿をかきはじめて丹こずみといふものにていろとり〟 となっている〉 おもひで草紙 【享和二年孟春板、牛門西隅東随舎】四に云、 (上略)昔は漆絵 とて、幅広き紙に、歌舞伎役者の、狂言なす体を画て、黄土、紅がら、丹などを以て色どり、漆の如く 膠を引て、艶を出したるが、早宝暦の頃は、紅摺 の画の見事成に替りて、浮世画師北尾重政 などいふが、その頃の風を、 よく写して書たり。然るに、安永年中、一筆斎文調 と云もの、芝居役者の似顔 と云ものを、書出したり。名誉の筆勢、よ く其顔色形まで写したり。(略)今や浮世絵盛にして金岡に増り、芝居役者の似顔、生写に書ぬるもの多し。勝川春信、 春章 が類ひ、風流なる娼婦が写し画、当世の姿、貴賤男女の、四季遊興の気色、歌麿豊国など、筆意を争ひ、わきてかれ よく、当世の人物を摸すに、妙なる筆意、余の浮世絵書く物の、及所にあらず、其門に連りし、宗理北馬 がたぐひ、其数 かぞふるにいとまなし。いづれも当世の流行人性に至らざる事なし。素人には、栄之、永梨 など、いづれも浮世絵に其名 高く、うるはしく摸しなしたる、浮世絵を、五遍摺、七遍摺など綾羅の彩色、錦繍の模様、さながら糸もてぬひたる如く、 極彩色の美麗、手を尽したるにより、東錦画 といふもむべなり。又草双紙 といへる小冊も、昔は金平、朝比奈の類の画尽 し、桃太郎嶋渡り、舌切雀、花咲せ爺、狐の嫁入などいふ、赤表紙の本ばかりにして、其書入の洒落といふも、しきのや のあんころか、でんがく、四方のあかでのみかけ山のかん烏、大木のはへぎはふとゐの根などいふ事計也しに、恋川春町、 喜三二などいふ、作者の趣向は、更に児童の翫びものにあらず。其外題も高慢斎行脚日記、安永七郎戌福帳、喜三二夢物 語よりして、年々歳々珍敷趣向にて、書入も、廓中の方言、岡場所と名付る、遊里の時花(ハヤリ)詞にて、片田舎の土産物 などにせば、通辞なくては、一向分り兼べし。それに続て、洒落本と名付たる、袋入小冊、青楼の席、客の対座、酒宴の 体、芸者の応対、閨中の睦言にいたるまで、その席を見るが如く、戯作なしぬる作者多く此道の知識ともいふべし。山東 京伝 が妙作かぞへ尽し難く、是に限らず、男女の衣裳品形、髪の結ひやう、品々の方言など、斯も替り行ものなるかと、 過越方を思ひつゞくれば、別世界の如し。今を思ふ事、又末の世もかくの如くならん。〈勝川春信は鈴木春信の誤記か。金岡は巨瀬金岡。「素人には、栄之、永梨」の「素人」は職業絵師ではないという意味か。永梨は未詳。 東随舎著の「おもひで草紙」には他にも浮世絵に関する記事がある。それを「日本随筆大成」第三期第4巻所収『古今雑談思出草紙』に 拠って、以下に示す。なお『古画備考』は「おもひで草紙」を「享和二年孟春板」とするが、「日本随筆大成」の解題は〝本文中、年記 のある話のもっとも新しいものは享和元年のことであるが、その自序は天保十一年のものであり、その頃になったものらしく、時に著者 は六十余歳であった〟とある。また、国文学資料館の「日本古典籍総合目録」には写本とあり、享和二年板の記載はない〉 参照 『古今雑談思出草紙』「画難坊、絵を難ずる事」 『古今雑談思出草紙』「浮世絵、昔に替りし事」 骨董集 云、 板行の一枚絵 は、延宝天和の頃始まれるか。朝比奈と鬼の首引、土佐坊浄瑠璃の画、鼠の嫁入の画の類也。芝居の画は、 坊主小兵衛をゑがけるなど、其始なるべし。当時は、丹、緑青などにて、まだらに彩色したり、菱川師宣、古山師重等 、 これを画けり。元禄のはじめより、丹、黄汁にて、彩色す。是を丹画 といふ。元禄の末つ頃より、鳥井清信 、其子清倍 等、 是を画けり。宝永正徳に至りて、近藤清春 出たり。紅絵 と云は享保のはじめ、創意(ミイダセシ)もの也。墨に膠を引て、光 沢を出したるゆゑに、漆絵 ともいへり。奥村政信 、もつはら是をゑがけり。〈『骨董集』は岩瀬醒(山東京伝)の考証・著作、喜多武清・歌川豊広・岩瀬京山の挿画。文化十一年~十二年(1814~5)刊〉 近代世事談 【享保十九年板】云、 浅草御門同朋町、何某といふ者、板行の浮世絵、役者画を、紅彩色にして、享保のはじめ比より、これを売、幼童のもて あそびとして、京師大坂諸国にわたる。これ又江戸一ッの産となりて江戸画 といふ。〈享保十九年(1734)板『近代世事談』は菊岡沾凉の随筆〉 塩尻 第二編九、云、 享保七壬寅年、此冬関東の令にて(中略)又京都、難波、東都に令して、春画 (マクラヱ)楽事(カウシヨク)等、凡当時の俗書板行 を禁じ給へり。近世大坂にて、西鶴と云し俳林、戯書多く作りて板せし後、これに効ふて、よしなき事を作り、世の費、 人心の害とも、なれるゆゑとぞ。〈『塩尻』は天野信景(享保十八年(1733)没。享年七十三)の随筆〉 燕石襍志 三云、 錦絵は、明和二年の頃、唐山の彩色摺にならひて、板木師金六といふもの、版摺某甲を相語、版木へ見当 を付る事を工夫 して、始めて四五遍の彩色摺を、製し出せしが、程なく所々にて、摺出す事になりぬと、金六みづからいへり。明和已前 は、皆筆にして彩色したり。これを丹画 (タンヱ)といひ、又紅画 といへり。今に至ては、江戸の錦画 、その工を尽せる事、 絶て比すべき物なし。さはれ近属は、紅毛の銅版さへ、こゝにて出来、陸奥なる会津の人すら、彼錦画を摸してすなれば、 世人既に眼熟して奇とせず。彼金六は、文化元年七月みまかりぬ。当初彩色摺といふもの、はじめて行はれし時、其の美 なること、錦に似たりとて、世挙て錦画の名をば負しけん。武江年表云、蜀山翁、此説非なり、見当を付る彩色摺は延享 元年、江見屋吉右衛門工夫を始とすといへり。〈大田南畝の『一話一言』第三十六の欄外注に「此説非ナリ、見当ハ延享元年江見屋上村吉右衛門工夫也。故ニ今ニ見当ノコトヲ上村ト云」 とあり。「大田南畝全集」十四巻・p402(文化八年四月頃記)〉 奇跡考 云、 大津画、或は追分絵といふ、何れの時代よりはじめしにや、始詳ならず。元禄三年板本、海道画図に、大津大谷の辺、仏 画色々ありとしるす。又芭蕉の句に、大津画の筆のはじめは何ほとけ、かゝれば元禄の比、仏画を専に書しとおぼし。本 朝俗諺志、飛州の山中に、毛頭坊といふ者あり、俗体にて常業木樵し、人死すれば、導師となりて是を葬る。本尊は、大 津絵の十三仏也云々。世に伝へて、浮世又兵衛 は越前の産、本姓は荒木、母の姓岩佐を冒す。よく時世の人物を画くによ りて、時の人、浮世又兵衛と称す【世にいはゆる浮世絵は、こゝに起りたり】。又平といふは誤なり。享保四年、傾城反 魂香といふ浄瑠璃に、土佐の末弟、浮世又平重おき、といふもの、大津に住て、画を書きたるよしを、作れるより、妄説 を伝ふる歟。或は別に大津に又平といふもの有て、書始るか。享保の頃まで、其子孫有しといふ。予がをさむるふるき大 津絵には、八十八歳又平久吉とかきて花押あり。前の説のごとく、大津に又平いふ者有しを、浮世又兵衛が事にして、浄 瑠璃に作りしより、虚説を伝へしならんとはいへど、支考が本朝文鑑に、浮世又兵衛は大津画の元祖といふ。文鑑は享保 三年の板にて、彼の浄瑠璃より一年前なれば、其前より云伝し事かも知れず。とまれかくまれ、好古日録にしるす、又兵 衛が伝を見るに、大津にて、売画をかきし事、ありべしともおぼえず。予又考るに、古土佐の風味、はつかに残るやうに おもはる。児童の玩ぶ切り組燈籠画 は上方下りの物也。夫故始は、京の生洲、大阪の天満祭の図抔を、重板せり。寛政享 和の頃、蕙斎政美 多く画き、又北斎 も続いて画けり。文化にいたり、歌川国長、国久 、此伎に工夫をこらし、数多く画き 出せり。其梓今にありて年々摺出せり。武江年表 〈「奇跡考」は『近世奇跡考』。山東京伝考証・著作、喜多武清画で文化元年の序をもつ〉 風流鏡が池 【宝永六年正月板】 (上略)うき世又兵衛 と云し絵師、小町を書たりしに、小町が笑貌の姿をかきて、口をあき、黒き歯を、律義に見せて、 貌にゑくぼを書たりし程に、今の画にくらべては、人形にありし、おとくじやうに、よく似たるあく女、これ人のごとく に、書たるゆゑに、不出来なりし。近代大和画の開山、菱川 と云し名人、書出したるうつし姿、なりから、ふりから、去 とては、妙なりし筆のあや。(略)今の鳥井、奥村 などが、后、女、むすめ、遊女の品を、書わけて、太夫、格子それよ り下つかた、その風俗をうつし画は、さりとは、画とは思はれず。生れたる人の如くなりしを、(略)さて菱川が画の風 は、其姿しつかりと、かたく書て、ぬれたる色すくなく、おもざしいづれもけんして、目もとにいろなし。只筆勢を第一 に書しゆゑに、しやんと見えて、ぼっとりとせし、風流すくなしと、(略)菱川世をさりて、あまねく浅草、湯島、下谷、 神明前、うつくしく色をこめて、思ひ/\の筆のたくみ、詞にも及ばず。さりとては妙なりし。中にもわけて、鳥井清高 は老筆のめづらかにも、風流なりし秘伝の筆。その門弟に庄兵衛 【清信ノコト歟】こまやかなるしきをかへて、なげ島田 を書出して、画にもまなぶ女の風、これ名人に名取川、にくからぬ筆故に、近代芝居の姿画は、どこの画馬の額にも、あ るが中にも、ある社に、中村源太郎が、紫や小源になりし、おもかげにて、恋させ給ふ、七匁(ママ正しくは「様」) にうらみ の数をふくみける、その面ざしを、書たりしは、近代まれなる出来島絵と、皆立どまる色画とこそ、うけたまはり候なれ。 扨奥村は取わけて、京と難波の色をよく、おむくに立し娘のふう、さりとてはかわゆらしく、かず/\多き其中に、とし ま遊女を、うつくしく、禿に灸をすゑける所を書たりしに、禿手をにぎりぢうめん作り、貌は紅葉の色てりて、たへかね たりしを、姉女郎、灸を中ゆびにのせて、灸箸を紙にてなでのぞきて、あつさをとひたりしを、動くばかりの筆勢、どう 共たくみとやと、見る人門に市をなす。独遊軒梅吟撰〟〈『風流鏡か池』独遊軒好文の梅吟著、奥村政信画、宝永六年(1709)刊〉
参照 『風流鏡か池』 独遊軒好文の梅吟作奥村政信画