☆ 天保十一年(1840)
◯『古今雑談思出草紙』東随舎著・天保十一年(1840)自序(出典『日本随筆大成』第三期・第四巻)
◇巻之八「浮世絵、昔しに替る事」④97
〝昨日とたち今日とくらしてあすか川ながれて早き月と日に、浮世の海の世話しなく、淵瀬に替る風俗は、
五十年世が程の中、予が幼少の頃よりみれば、天地、ところを替へぬる事、今年驕りは太平の端にして
目出度事にありしか共、貴賎の分に越たる身持たるにより、公儀より豪奢をきびしく制禁ある事、むべ
なる事にこそ。分て幼童のもて遊びける一まひ絵などの花美に成たる事、是を以て衣食住の驕りを思ひ
計るべし。昔はうるし絵とて、幅広き紙に、歌舞伎役者の狂言なす躰を画き、黄土、弁がら、丹などを
以て色取、漆しの如く膠を引てつやを出したるが、はや宝暦の頃は、紅摺の絵の見事なるに替りて、浮
世絵師北尾重政などいへるが、其頃の風を能写して書たり。然るに、安永年中、一筆斎文調といふもの
こそ、芝居役者の似顔といふものを書出したり。名誉の筆勢、能其顔色かたちまでを写せしなり。昔し
巨勢金岡は名誉の画工の聞へあり。或時、節会の折から、参内の公卿殿上人群集せしかば、其供まちせ
し青侍、仕丁の輩、大勢よりつどひたりしに依て、金岡が連たりし家来を呼出さんにもしれ兼しまゝ、
其家来の顔を画書て、懸る顔のなるものを呼てくれよとて、非蔵人に頼みければ、非蔵人尋ねけるに、
果して其画にかきしに、少しも違わざる人ありしまゝ、呼出し連来れるを、世にまれなる名誉なるとの
事、古書にみへたり。今は浮世絵さかんにして、金岡にまさりて芝居役者の似顔生写しに書る者多し。
勝川(ママ)春信おなじく春章が類とし、風流なる傾城の写し絵、当世の姿、貴賎男女の遊興の気しき、四
季ともに歌麿、北斎など筆意を争ふ。わきて一家の風を成して高名なるは、一陽斎豊国といふもの大名
にして、渠よくとふせいの人物を書に妙なる筆意にて、世の浮世絵書くものゝ及ぶ所にあらず。其門に
連なりし国貞が類ひ、其数かぞふるに暇なし。何れも当世の流行情にいたらざる事なく、素人には栄之、
永梨(ママ)など、何れも浮世絵に其名を上て、美わしく書なしたる浮世絵を、五篇摺、七篇摺などゝ、綾
羅の彩色、錦繍の模様、さながら糸を以て縫あげたる如くにて、極彩色の美麗手を尽したるに依て、御
江戸の錦絵といふもむべなり。又草双帋といへる小冊も、昔は金平、朝比奈の類ひの絵尽し、桃太郎が
島渡り、舌切すゞめ、花咲せ爺、又は鼠の嫁入りなどゝいふ、赤表紙の本ばかりにして、其書入のしや
れといふも、ひきのやのあんころがてんか/\、よものあかで呑かけ山のかん烏す、大木のはへきはふ
とひの根などゝいふ事計りなりしが、恋川春町、おなじく喜三二などいへる作者の趣向は、更に児童の
持て遊び物にあらず。其戯題も高慢斎行脚日記、また安永七郎戊福帳、また喜三二夢物語りよりして、
年々歳々珍らしき趣向にて、かきいれも廓中の流行言葉、岡場所と名附る遊里のはやり詞にて、田舎の
土産ものなどせば、通弁なくては一向に分りかぬべし。夫に続きて洒落本と号けたる袋入の小冊あり。
青楼の席、客の対座、酒宴の体に、芸者の応対、国中の拙しに至るまで、其席をみるが如く、戯作をな
しける作者多し。此道の智識ともいふべきは、山東京伝が妙作、かぞへても尽し難し。是冗に限らず、
男女の衣類、品形ち、髪の結びよふ、品々のはやりこと葉など、斯も替りゆくものなるかと、過しこし
かたを能思ひ読くれば、別世界のごとく、今を思ふ事又、末の世も斯の如くならん〟
〈この東随舎の『古今雑談思出草紙』には天保十一年(1840)の自序がある。そうすると「公儀より豪奢をきびしく制
禁」したというのは、寛政の改革時の出版統制をさすことになる。ここには国芳と広重の名がない。してみるとこれ
は文政年間あたりまでの一枚絵と草双紙の変遷を述べたものということが出来ようか〉