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『風流鏡か池』浮世絵記事Top
   ☆ 宝永六年(1709)    ◯『風流鏡か池』独遊軒好文の梅吟の作・奥村政信画・平野屋吉兵衛板 宝永六年刊〈梅吟は政信の別号〉         出典:『風流鏡可池』六巻 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ      ※ 原文に漢字と送り仮名および濁点・句読点を適宜補った        ( )のかなは原文にあるルビ     『風流鏡か池』序   〝かゝみが池序    いそのかみ ふるとしの憂世草 霜雪の諸分は 西の湖(うみ)へさらりと おめでたいは 若恵比寿の    御慶に 永々しき江都の初あら玉の よせ太鼓の音もおさまる 御世の声をひゞかし 二揚(にあがり)    の引そめも柳の糸も 春の調子(しらべ)をうつすとり/\ 今様の伊達すがた 芸男の美景 艶女の風    流 あらたまりゆく 新草(わかくさ)の浅茅が原の霞をわけて 誰も心をうつし絵に 万代の鏡が池と    題するものなり      宝永六己丑年正月上々吉日  独遊軒好文の梅吟選〟   〈梅吟は奥村政信の別号とされる。本作の目的は「あらたまりゆく、今様の伊達すがた、芸男の美景、艶女の風流」を「う    つし絵」にすること、つまり年ごとに更新される、現代最先端のお洒落な様相、芸人の美しさ・あでやかな女の優雅な    趣き、これらを写すことにあるとする。これは浮世絵奥村政信の作意でもあるといえよう〉   『風流鏡か池』巻一のあらすじ   〈才色兼ね備えた深窓の娘・おしも、たまには気散じにと、親のはからいで中村座の芝居見物に行く。ところが案に相違    して、役者中村七三郎に一目惚れ。以来、七三郎のおもかげが目前を立ち去らず、明け暮れ恋い焦がれては、独り身も    だえするばかり。せんかたなくも何とかして心を通じたいと、密かに護国寺の観世音に願掛けまでして恋の成就を願っ    た。ところが、想いが届かぬまま、宝永五年二月、その中村七三郎が急逝してしまう。叶わぬ恋に終わった娘・おしも、    手も足もくだけるような激しい歎きにうち沈むが、しかし、届くことのなかった我が恋文の山を見て、つくづくと無常    を感じる。そして追善供養。(その追善文は「中村七三郎生霊蓮妙伝南無妙法心鏡院」という法名まで入った長い文字    を折句仕立てにしたもの。文才にも長けたおしもにもさすがにこの折句は無理とみえ代作であった)そしてさらに、生    前のおもかげを彷彿とさせるべく、七三郎の「すがたゑ(姿絵)」を画かせて、それをせめてもの心の慰めにしようと    思い立つ〉    ◯『風流鏡か池』巻一「雨夜の品定め」   〝何とぞ鳥井か奥村か両人の大和絵師に、かの人の昔のすがたをうつくしく、極彩色にかゝせ、せめても    のわすれ草、心にふかきねがひのわけも候へば、これも気色のなぐさみ、いづれの絵師やすぐれ候はん〟    〈「かの人」が中村七三郎。こうして姿絵を頼む絵師を決めるために、『源氏物語』「雨夜の品定め」よろしく、当世     絵の品定めを始める〉    ◯『風流鏡か池』巻二「夢はすゞりのうみ」   〝絵のさま/\は花鳥風月、虫尽、草づくし、百花百獣、四季にさへ其の品々を書わけ、かしこき唐の筆    多し、大和(日本)に名高たかき家々の、其の名秘伝の色々毎に、墨絵のさいしき色の筆、命毛尽ぬ大    く◯に、ふくも水いろ◯霞、湖景八ッの筆ほそく、近江鎌倉修学寺の、あらゆる和国の八ツ景、古へを    うつせし筆の妙、見ぬもろこしには、呂記(ママ)王一清其の外に筆にもつきぬ名人は、硯の海のそこふか    く、和国にはかな岡あり、其の外に狩野一流かうなりの墨色たへに、ことの葉つき、今夜もあすもかた    りつくされ候はず    先、うき世絵の品さだめ、昔歳(そのかみ)物の其の形を紙にうつせし其のはじめはいづれの時にや、    月影のもれて障子にうつりし影たくみて、絵とはなれりと聞きまいらせ候なり。夫より次第に人の風、    世々にかわりしおもかげを、人は絵をまなび絵には人をまなびて、その時々にかきわくる。     中むかし土佐流の人、ゑとてありしは筆かれ過て、人丸の顔骨(がんこつ)はなれしを見るやうに、    先袖ちいさくかほちいさし、これ人と同じやうにりちぎにかきしゆへなるべし。絵は人ににて又人にあ    わず、かほを人の一鉢(ママ)のごとくかきては、さらに不出来なる風俗。     うき世又兵衛と云し絵師、小町をかきたりしに、小町が笑かほのすがたをかきて、口をあき黒き染歯    (ば)をりちぎに見せて、かほにゑくぼをかきたりしほどに、今の絵にくらべては人形にありしおとく    じやう〈本HP注、お多福〉に、よく似たるあく女、これ人のごとくにかきたるゆへに不出来なりし。     近代やまと絵の開山、菱川(ひしかわ)と云し名人かき出したるうつし姿、なりからふりから、さり    とてはたへなりし筆のあや、昔(むかし)元弘の王子扇の絵合に、うばそくの宮(本HP注『源氏物語』    源氏の異母弟・宇治八の宮)の月を詠め給ひ、琵琶を引さし給ひしうつしゑに、御心をなやまされし絵師は    いかにあるらん。     今の鳥井奥村などが、きさき、官女、むすめ、娵(よめ)、遊女の品をかきわけて、大夫、格子(か    うし)それより下つかた、そのふうぞくをうつし絵は、さりとは絵とはおもわれず、生たる人のごとく    なりしを、一の宮に御めにかけたきと、むかしの事もおもわるれ。     扨ひし川が絵のふうは、そのすがたしつかりとかたく書て、ぬれたるいろすくなく、おもざしはいづ    れもけんして、めもとにいろなし、只筆勢を第一に書しゆへに、しやんと見えてぼっとりとせし風流す    くなしと、梅の君かたり給ひしは、いづれさやうにも候べし。ひし川世をさりて、あまねく浅草、湯島、    下谷、神明前ニ、うつくしく色をこめて、おもひ/\の筆のたくみ、ことばにも不及。さりとてはたへ    なりし。     中にもわけて鳥井清高は、老筆のめづらかにも風流なりし秘伝の筆、その門弟ニ庄兵衛、こまやかな    りしきをかへて、なげ島田を書出して、絵にもまなぶをんなのふう。これ名人の名とり川、にくらしか    らぬ筆ゆへに、近代芝居のすがたゑは、どこの絵馬の閣にもあるが中にも、あるやしろに、中村源太郎    がむらさきや小源になりしおもかげにて、恋させ給ふ七様〈本HP注、中村七三郎〉に、うらみの数をふ    くみける、そのおもざしを書たりしは、近代まれなる出来島絵と、皆立どまる色絵とこそうけたまわり    候なり。     扨奥村は取りわけて、京と難波の色をよくおむくに立し姫のふう、さりとてはかわゆらしく、かず/\    多き其中に、としまの遊女をうつくしく、かぶろに灸(きう)をすえける処を書たりしに、禿(かぶろ)    手をにぎり、ぢうめん作り、かほはもみじのいろてりて、たへかねたりしを、あね女郎灸(もぐさ)を    中ゆびにのせて、灸ばしをかみにてなでのぞきて、あつさをとひたりしを、うごくばかりの筆せい、ど    うともいわれぬたくみやと、見る人門に市をなす。夫よりあまねくかきひろめしが、そのことくにはあ    らぬよし、こと葉をつくしかたり給へば、おしものかた〈本HP注、娘の名前〉も、すこし心をなぐさみ    て、さてしもたへなる御ものがたり、しからばいづれをわくべくもなき御事、しかし鳥井は恋しき人を    も、幾度かかんばんに書そめてしゆかりもあれば、これにやせん、かれにやと、たがひに相談落つかぬ    せんぎなりしに、おしも、しからばわたくし、宜しくはからいまいらせんと、紙を少く切りて、其の中    に鳥井奥村と書書(本HP注、衍字か)て、こしもとのそのをよび、此の鬮をいづれにても、おつね様    〈本HP注、娘の叔母〉へとらせまいらせよといゝければ、そのはなにともしらねども、こよりにしておつ    ねのかたへ出(いだ)しける。おつねはやくとり給ひて、開きて見れば奥村とあり、さてはなに事もさ    だまりし。くじにまかせて政信に落つきて、絵の注文を定めたりける     一 ◯かつかうよく、せひ高からず、ひきからず、ほつそりと書て       第一のもやう      一 上着のすそに霜よりさきにちりしもみちばやう 金でいにてちらしかき       一 下着きむく    一 上着あさきむくに紅うら      一 袖にくろじゆす  一 おび黒どんす      一 羽おりむらさきかすり もん金ぱくにて      一 むなひも染わけ大角     右之通絹地に極さいしきかゝせ下され候へと、おつねに渡して、宵よりの心つくしに◯どろく◯ける    まゝに、おつねそろりと立て、そのによく/\申つけ、夜ききまいらせ、奥へ行て、兄平次郞を呼び、    おしも様、御なくさみに奥村に絵をかゝせ御覧じたきよし、明日はやく行て、少しもはやく出来候やう    に、ずいぶんねだんにかまわずあつらひ候へのよし、くだんのすがたのうつしを封じ、其の上書にひそ    かにごらん候得のよし、平次郞かしこまり、明朝早々に持参いたすべきよし申て、部やへかへる。おく    ふろ様はまちかね、いかにと◯たづね給ひぬるに、おつねかくしてならぬ事、くはしくかたり給ふにて、    お母◯もがを折給ひて、とかくこのうえへなりとて、まぎるゝよふにいさめ給へとて、みな/\ふしど    に入たまひける   恨 うつゝのおもかげ          出て行すへはまつりの里ちかき恋のおもにの絵すがたを、平次郞はいそぐに、ほどなく奥村がかたに    なりしかば、くだんのはこを封もまゝ渡して、念ころにあつらひける、絵師いかにも◯いそきくつゝ、    此方の絵をやめて、不日に出来いたし候やうにと日を定め、立かへり、おつねのかたに此だんをくはし    く申上けるこそ おしも様のお慶びいつかと其の日を待のみの、あけぬ暮ぬと今日こそはおもふ人のき    まするとてや、朝よりも誠の人をまつごとく、腰元そのにもかくしてならぬ事なれば、くはしくかたり    給ふにてさひ/\ふかきおぼしめし、さそな茶ばのかけんもうけよろこひ給ふらんと、部やのとこをそ    うじして恋のこと葉にかざり物     〟    〈鳥居庄兵衛(初代清信)の絵は、女形中村七三郎を画いた扁額が取り上げられた。その顔立ちが大評判となった。女     形中村源太郎が扮した「むらさきや小源」の顔立ちにうらみを含ませたというもの。世の評価は「近代まれなる出来」     「皆立ち止まる色絵」と非常に高いものであった。対する女絵の奥村政信、京・大坂の娘を無垢なお姫様風に画いた     のはとても可愛らしい。また遊女絵も素晴らしく、なかでも遊女が禿に灸を据える絵柄があったが、禿が手をきつく     にぎって渋面をつくり、顔を真っ赤に染めて耐えかねているところに、姉女郎が灸箸を紙で撫でつつ、のぞき込んで     熱さを問うている様子は、まるで生きているかのようだと、その技倆を称えている。役者絵の鳥居清信と女絵の奥村     政信、甲論乙駁決しがたく、結局籤引きとなって、結果奥村政信に注文することになった〉
    『風流鏡可池』(京都大学電子図書館「貴重資料画像」)      巻二「夢はすゞりのうみ」独遊軒好文の梅吟作 奥村政信画      (後から二行目中程から本文が始まります)