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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ せったん はせがわ 長谷川 雪旦
浮世絵師名一覧
〔安永7年(1778) ~ 天保14年(1843)1月28日・66歳〕
※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」 〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』
☆ 寛政十年(1798)
◯「絵入狂歌本年表」
〔目録DB〕
◇狂歌
(寛政十年刊)
長谷川雪旦画
『三陀羅かすみ』一冊 重政・雪旦画 千秋庵三陀羅法師撰 千秋庵社中板 ☆ 享和元~二年(1801~02) ◯『一筆斎文調』(「早稲田大学演劇博物館所蔵 芝居絵図録1」・1991年刊)
〈一筆斎文調の七回忌が六月十二日、柳橋の万八楼で行われた。その時の摺物に、当日席書に参加したと思われる絵師 たちの絵が添えられている。絵師は次の通り〉
「豊廣画・堤孫二筆・豊国画・春秀蝶・寿香亭目吉筆・画狂人北斎画・歌麿筆・雪旦・春英画」
〈この摺物には刊年がない。ただ北斎が「画狂人」を名乗っていることから、ある程度推定が可能のようで、『浮世絵 大事典』の項目「一筆斎文調」は「享和元年~二年(1801~02)頃のもの」としている。それに従った。なお摺物の 本文は本HPの「一筆斎文調」か「窪俊満」の項を参照のこと)
☆ 文化七年(1810)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(文化七年刊)
抱亭北鵞画
『千もとの華』狂歌 一帖 洛陽醍醐図 紅翠斎北尾繁昌行年七十二歳画 柳々居辰斎画 抱亭北鵞筆 文悤画
雪旦
北馬画 千首楼序
◯「絵入狂歌本年表」
〔狂歌書目〕
◇狂歌
(文化七年刊)
長谷川雪旦画
『狂歌千もとの草』二冊 重政・雪旦画 千首楼堅丸撰 太鼓側板 ☆ 文化九年(1812)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(文化九年刊)
長谷川雪旦画
『天満宮世家』一冊 長谷川雪旦画 雪舟筆 加倉井忠珍著 和泉屋庄二郎他板 『古画要賢』一帖 長谷川雪旦画 花屋久二郎板 ☆ 文化十一年(1814) ◯『滝沢家訪問往来人名録』上p58(曲亭馬琴記・文化十一年) 〝本郷六丁め伊豆蔵先よこ町日かけ町 絵師
長谷川雪旦
〟 ☆ 文化十二年(1815)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(文化十二年刊)
長谷川雪旦画
『菅原贈太政大臣歌集』一冊 雪旦画 鱸貞治簒 松楓閣板 ☆ 文化十三年(1816)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(文化十三年刊)
長谷川雪旦画
『利運談』初編 巌岳斎雪旦図画 八隅中立著 山田佐助他板 ☆ 文化年間(1804~1817) ◯『増訂武江年表』2p57(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) (「文化年間記事」) 〝画 狩野伊川院法印、同晴川院法印、同素川彰信、抱一君、谷文晁、同文一、依田竹谷、英一珪、長谷 川雪旦、鈴木南嶺、大岡雲峯、春木南湖。 筠庭云ふ、竹谷などを出して雨潭を出さず。其の外も猶あり〟 ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立) 「本郷 浮世画」〝雪旦 長谷川 小笠原佐渡公藩 ヒカゲ丁(姓名空欄)〟 ☆ 文政二年(1819)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(文政二年刊)
長谷川雪旦画
『了誉上人絵詞伝』二冊 量山沙門了道拝画 長谷川雪旦画図 ☆ 文政六年(1823)
◯「絵本年表」
〔目録DB〕
◇絵本
(文政六年刊)
長谷川雪旦画
『百富士之図』一冊 長谷川雪旦画
(写本自筆)
☆ 文政七年(1824)
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
◇狂歌
(文政七年刊)
長谷川雪旦画
『狂歌千もとの華』二冊 重政・雪旦画 千首楼堅丸編
(注記「狂歌集目録」による)
☆ 文政八年(1825)
◯「絵本年表」
〔目録DB〕
◇絵本
(文政八年刊)
長谷川雪旦画
『東海道五十三次略図』一冊 長谷川雪旦画
(自筆写本)
☆ 文政九年(1826)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(文政九年刊)
長谷川雪旦画
『除蝗録』一冊 東都長谷川雪旦図〔岩岡〕大蔵永常著 黄葉園蔵板 ☆ 文政十年(1827)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(文政十年刊)
長谷川雪旦画
『江戸名所花暦』四巻 長谷川雪旦画 岡山鳥著 守不足斎蔵板 ☆ 天保元年(文政十三年・1830)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(天保元年刊)
長谷川雪旦画
『書画帖』一帖 文晁・文一・法橋雪旦・杏斎雪堤・雲峰・為一・其一・武清・蹄斎・崋山等画 大窪詩仏序 ☆ 天保初年(1830~) ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②308(天保初年刊)
〈当時現存の「画家」として名があがる〉
☆ 天保二年(1831)
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
◇地誌
(天保二年刊)
長谷川雪旦画
『北国一覧写』長谷川雪旦画
〈版本ではなく写本〉
☆ 天保四年(1833)
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
◇地誌
(天保三年刊)
長谷川雪旦画
『相模伊豆武蔵秩父根辺常陸 一覧地取』一冊 長谷川雪旦画
〈版本ではなく写本〉
◯『馬琴書翰集成』③142 天保四年十二月十二日 殿村篠斎・小津桂窓宛(第三巻・書翰番号-34) 〝
『江戸名所図会』
の事、かねて御聞及も被成候哉、この書は天明比、内神田佐柄木町の名主斎藤庄左衛 門が思ひ起し候処、不果志て没し候に付、その子庄左衛門、親の稿を続候とて、文化中より折々、鵬斎 がりゆきかひ相談いたし、絵は
雪旦
にかゝせ候。小田原町肴市の図の板下を見候は、二十四五年已前の 事に候キ。此庄左衛門は、冷泉家の歌をよみ候て、生ぬるなる人物なりき。肝煎名主にて、冊子の改役 人の一人なりければ、野老も面識に御座候処、十ヶ年許已前に身まかり、その子庄左衛門、弱冠なれど も、父祖の志を果さんとて、誰やらに相談いたし、稿を続候よし、及聞候処、全部やう/\出来いたし、 明春はうり出し候よしに御座候。勿論、板元は日本橋通壱丁めの須原や茂兵衛也。凡四十年許かゝり候 事故、須原やも久しく元入いたし、及迷惑候へども、名主の事なればせんかたなく、編者の思ひのまゝ にいたし、うち過候よし。出板の節、かふても見んとおもひて聞候処、全部十巻にて、代金壱両二分の よし。是におそれて、沙汰に不及候。名所図会流行の折すら、
『唐土名所図会』
、代金壱両壱分なる故 に、うれず候。況今日、名所図会すたり候。よしや、江戸の名所図会なりとも、かゝる時節に高料の新 本、尤心もとなき事に御座候〟
〈『江戸名所図会』は斎藤月岑編で天保五年から七年にかけて刊行された。この書翰の時点ではまだ出版されていない。 しかし伊勢松坂の殿村篠斎や小津桂窓などの識者の間では、この出版が既に話題になっていたようである。『江戸名 所図会』の出版は月岑の祖父(長秋)・父(莞斎)と三代にわたる宿願であった。馬琴は月岑とは面識はなかったよ うだが、「冊子の改役人」でもあった月岑の父莞斎とは面識があったというから、馬琴にしても無関心ではいられな かったのだろう。『唐土名所図会』とは文化三年(1806)刊の『唐土名勝図会』(木村蒹葭堂発案、岡田玉山編、玉山 ・岡熊岳・大原東野画)のことであろうか。名所図会流行のとき出版された『唐土名勝図会』すら一両一分の高値ゆ えにあまり売れなかったのである。ましてブームの去った現在、『江戸名所図会』の一両二分は高すぎるのではない かと、その売れ行きを馬琴は危ぶんでいたのである。なお文化中より折々相談相談したという「鵬斎」とは亀田鵬斎 (文政九年(1826)没)。参考までに言うと、『江戸名所図会』の序は亀田鵬斎の長子亀田長梓(綾瀬)であった〉
☆ 天保五年(1834)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(天保五年刊)
長谷川雪旦画
『江戸名所図会』一~三巻 十冊 長谷川雪旦図画 松濤軒長秋編輯 須原屋茂兵衛他板 ◯『馬琴書翰集成』③249 天保五年十一月朔日 殿村篠斎宛(第三巻・書翰番号-55) 〝画工
雪旦
ハ老人の事ニて、近頃病死いたし候。雪旦子息、細画をよく致し候故、不足の分画せ候よしニ 御座候。右名所図中、めぐろ比翼塚抔、遺漏多く、且町名抔ニ、あやまりも往々有之とて、わろく申候 ものも多く候へども、本ハ追々捌候故、板元三匁直上ゲいたし、今以下ゲ不申よし、平兵衛噂ニ御座候〟
〈雪旦病死は不審。天保七年(1846)八月十四日の馬琴古稀の賀会に長谷川雪旦は出席している。(『馬琴書翰集成』巻 四参照)当時そんな噂でも流れたのであろうか。雪旦は天保十四年(1843)一月二十八日没、享年六十六。雪旦の子息 は雪堤〉
◯『異聞雑考』〔続燕石〕②246(滝沢馬琴・天保五年二月二十四日記事) 〝江戸名所図絵は、その功、編者は四分にして、其の妙は画に在り、遠境の婦女子の、大江戸の地を踏む に由なきには、これにます玩物あるべからず、(中略)この画工雪旦は、予も一面識あれども、かゝる 細画はいまだ観ざりき、縦北斎に画かするとも、この右に出ることかたかるべし〟 ☆ 天保六年(1835) ◯『馬琴書翰集成』④42 天保六年三月二十一日 小津桂窓宛(第四巻・書翰番号-11) 〝
『江戸名所図会』
後編ハ、去春うり出しの節、来秋出板のよし、丁子や申候へども、当秋出板、心もと なく候。右画工
雪旦
ハ、老人ニ候而没し候。
雪旦
忰、細画をよくいたし候間、続て画せ候よし〟
〈雪旦の病死記事は、昨年十一月朔日、殿村篠斎宛(第三巻・書翰番号-55)と同内容。『江戸名所図会』の板元は 丁子屋ではなく、須原屋茂兵衛・須原屋伊八〉
◯『馬琴書翰集成』④88 天保六年閏七月十二日 殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-21) 〝(「長州の前の大夫人で何がしの宮様」)野生作のよミ本、御愛観被成候よし。(中略)
『江戸名所図 会』
の画者
雪旦
の忰、今の
長谷川雪旦
ハ、長州の御画師のよし、
『江戸名所図会』
の画を、ことの外御 賞美のよし。右
雪旦
を案内ニ被成候て、蔽屋へ御出被成度よしなど聞え候間、尤恐入、貴人と申、殊ニ 御夫人ぇ拝顔之事抔、甚いとハしく奉存候間、此義ハ何分宜く御断り下候へとわび候て、帰し候也〟
〈長州毛利家の前の夫人が馬琴作の読本愛好家で、長谷川雪旦の案内で馬琴への面会を求めたが、馬琴はこれをきっぱ り断ったというエピソード。不審なのは「『江戸名所図会』の画者雪旦の忰、今の長谷川雪旦」の記事。「江戸名所 図会の画者雪旦の忰」は長谷川雪堤のように思うのだが「今の長谷川雪旦」とある。馬琴は天保五年十一月朔日付の 殿村篠斎宛書翰(第三巻・書翰番号-55)で雪旦の病死を報じているから、この当時雪堤が雪旦を襲名したと思っ ていたのかもしれない。三月二十一日、小津桂窓宛書翰(番号-11)参照〉
☆ 天保七年(1836)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(天保七年刊)
長谷川雪旦画
『江戸名所図会』四-七編 十冊 画面長谷川法橋雪旦 松濤軒斎藤長秋編 須原屋茂兵衛他板 『東都名家苑』 一冊 文晁・法橋雪旦・雪堤
〔漆山年表〕
『とふの菅薦』 一冊 香蝶楼国貞・後素園国直・朝桜楼国芳・柳川重信・葵岡北渓・ 法橋雪旦・雲峯・行年六十翁可庵武清筆 梅多楼藏板 ◯「大江都名物流行競」(番付 金湧堂 天保七年以前)
(早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 番付「ちり籠」所収)
〝芸能長者 筆◎ 明ジン下 屋代輪池/丹誠 トリコヘ 江戸名所
雪旦
〈斎藤月岑編・長谷川雪旦画『江戸名所図会』は1-3巻が天保5年刊、4-7巻が同7年刊〉
◯『【江戸現在】公益諸家人名録』初編「ハ部」〔人名録〕②35(天保七年刊) 〝画 雪旦【名宗秀、号巌岳斎、叙法橋、会日十三日】下谷三枚橋 長谷川雪旦〟 ◯『滝沢家訪問往来人名録』下128(曲亭馬琴記・天保七年八月七日) 〝同(丙申(天保七年)八月七日)右同所(下谷三枚橋辺)
長谷川雪旦
〟 ◯『馬琴書翰集成』④221 天保七年(1836)八月十四日 馬琴、古稀の賀会、於両国万八楼 (絵師の参加者のみ。天保七年十月二十六日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)④221参照) 〝画工 本画ハ 長谷川雪旦 有坂蹄斎【今ハ本画師になれり】 鈴木有年【病臥ニ付名代】 一蛾 武清 谷文晁【老衰ニ付、幼年の孫女を出せり】 谷文一 南溟 南嶺 渡辺花山 浮世画工ハ 歌川国貞【貞秀等弟子八九人を将て出席ス】 同国直 同国芳 英泉 広重 北渓 柳川重信 此外、高名ならざるものハ略之〟
〈古稀を記念して画いた長谷川雪旦の肖像画と馬琴の自詠をあげておく〉
巌岳斎雪旦画「滝沢馬琴肖像並古稀自祝之題詠」
(早稲田大学「古典籍総合データベース」)
☆ 天保八年(1837)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(天保八年刊)
長谷川雪旦画
『江戸名所花暦』四冊 長谷川雪旦画図 岡山鳥編(初版は文政十年、再版なるべし) 『百名家書画帖』二冊 文晁七十五翁 雪旦長谷川巌岳斎 可庵武清筆 他 一貫堂蔵板 ☆ 天保九年(1838)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(天保九年刊)
長谷川雪旦画
『東都歳事記』四巻 東都長谷川雪旦図画 男松斎雪堤補画 斎藤月岑編 千鍾房・青藜閣合板 ☆ 天保十一年(1840)
◯「絵本年表」
◇絵本
(天保十一年刊)
長谷川雪旦画
『佐賀八景』長谷川雪旦 同雪堤画 田喜庵護物編 ☆ 天保十三年(1842) ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序) ◇天保十三年(1842)奉納 (画題記さず。月岑識語に「土佐坊 弁慶」とあり) 落款 〝
長谷川法眼雪旦宗秀
六十五歳画〟 識語 「湯島天満宮 弁慶 土佐坊 天保中納る所也」「文久二壬戌冬縮図之」
〈弁慶が土佐坊昌俊を義経の堀川館に連行する場面か。雪旦六十五歳は天保十三年(1842)にあたる〉
『武江扁額集』
(土佐坊 弁慶)
長谷川雪旦画
(国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」)
◇奉納年未詳 (画題記さず。絵柄未詳) 落款 〝
長谷川法眼雪旦
〔印章不明〕〟〝◯◯◯◯敬白〟 識語 「湯島天満宮 ◯◯ 文久三ノ災後ナシ」
『武江扁額集』
(画題未詳)右図
長谷川雪旦画
(国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」)
☆ 天保十四年(1843) ◯『藤岡屋日記 第二巻』p314(藤岡屋由蔵・天保十四年記) 〝正月廿八日 画人
長谷川法橋雪旦
卒、六十六、名宗秀、厳丘斎、一陽等之号在、浅草幸龍寺ニ葬ス〟 ◯『増訂武江年表』2p100(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) (「天保十四年」) 〝正月二十八日、画人長谷川法橋雪旦卒す(六十六歳、名宗秀、厳岳斎、一陽庵等の号有り。浅草幸龍寺 に葬す)〟 ☆ 天保年間 ◯「江戸自慢 文人五大力」(番付 天保期)
(東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)
〝胸裏貯五岳 画家 横田汝圭 五十嵐竹沙 鈴木噌々 長谷川雪旦 鈴木鳴門〟 ☆ 刊年未詳
◯「絵入狂歌本年表」
〔目録DB〕
◇狂歌
(刊年未詳)
長谷川雪旦画
『狂歌立待集』一巻 雪旦画 芍薬亭編
☆ 没後資料
☆ 弘化三年(1846) ◯「古今流行名人鏡」(番付 雪仙堂 弘化三年秋刊)
(東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)
(東 二段目) 〝名句 宝永 宝井其角 画師 文政 長谷川雪旦 似顔 文化 一陽斎豊国 戯作 文化 山東京伝 落噺 文化 三笑亭可楽 冊紙 文化 柳亭種彦(ほか略)〟 ☆ 嘉永三年(1850)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(嘉永三年刊)
長谷川雪旦画
『義士肖像賛詞』後素園国直 蹄斎北馬 秀旭斎蘭暎〔政直〕 雪旦 武清 北渓 月岑斎 柳川重信 ◯『古画備考』三十上「近世二」中p1278(朝岡興禎編・嘉永四年四月二日起筆) 〝
長谷川雪旦
名宗秀、号巌岳斎、叙法橋、会日十三日、居下谷三枚橋、諸家人名禄 天保十四年正月廿八日、長谷川法橋雪旦卒、六十八歳、一陽菴ト号、浅草幸龍寺ニ葬【武江年表】 画会 当日拙画五百枚書、御来臨之諸君へ呈上、其外【諸名家諸先生】席上揮毫 来ル三月廿七日、湯島天神社内、於松金屋定七方相催候間、晴雨共御光来奉希候、 長谷川雪旦 (補)江戸名所図絵挿画筆者、雪旦ある日、水道橋の畔なる鰻鱺店、森山の真景を写さんとて、同店に 小酌して、家居のたゝずまひ園林の趣を、いくそたび見めぐりて、図を按じて帰りぬ、其夜たま/\、 森山店に盗難ありしかば、家人思ふやう、昼間来し一人の客の、家のすみ/\、園のはし/\、くまな く見あるきしさまこそ、あやしまるれど、雪旦遂に嫌疑者とはなれり、後に全く名所図絵の、図按のた めなりしこと、明白たちて、後々まで一笑柄とはなりぬ、かくも心を用たればこそ、何れの景色も、其 真を見るが如く、写しなせるなりけめ、 (補)[署名]「雪旦筆」[印章]「刻字未詳」(朱文丸印) (補)[署名]「長谷川雪旦」[印章]「雪旦之印」(白文方印)〟 ◯『増補浮世絵類考』〔『温知叢書』第四巻所収・斎藤月岑編・博文館・明治二十四年刊〕④90
〈ケンブリッジ大学本『増補浮世絵類考』はこの記事なし〉
〝彫物大工 後藤茂右衛門(文化より天保の今に至る)雪旦の子 聖旦(神田) 俳名 五楽 江戸の人なり 始め狩野家の門人となり、雪舟の画風を学ひて一家をなす、浮世絵にあらずと云へとも、一蝶の画風を 或は唐画の筆意も能す、按に長谷川等伯(始久六、法眼に叙し、雪舟五代と書す)の画裔を続しものな るべし、画法一家をなして、板刻の絵本多し殊に江戸名所図会勝れてよし、摺物絵に艸筆のもの多く画 けり、一派の名手なり 雪旦-----男 雪堤 按るに、東都に雪舟の画裔と称するもの多し、川島雪亭(田安侯の画師なり、雪舟の画孫なり、雪舟と 少し異なれども名手なり。寛政の頃より天保に今に至て存す)、又桜川秋山と云人あり(天明寛政の頃 の人なり、雪舟の画孫と称す)本郷に住す(画則も冊を板刻して画論を出せり)。長州侯の藩中に雲谷 と画裔有り、当代は不学画といへり。町絵師に堤等琳と云うものあり。雪舟十三世の画裔と称す、画法 大ひに異なり、別に記す。各混同して誤伝ふ。其外諸国に雪舟流の画を慕ふもの有り、自立して其画裔 と称す。元祖雪舟(雲谷軒等揚)稀代の名画なれば、其英名を慕ふが故に、類族多きなるべし(仏家に やゝもすれば、空海の作仏恵心の作仏と云あるが如し)。此雪旦翁は一派の妙手なり、俵屋宗達光琳の 筆意に倣ふて画きしものあり、明画体に写せし山水なども見ゆ。其善きを採て画くは、名人の所為なり。 浮世画に列するものにあらずといへども、板刻の画多くあれば姑く爰に載す。法橋玉山の類なり〟
〈ケンブリッジ大学本は「彫物大工 後藤茂右衛門」から「雪旦-----男 雪堤」までを削除して、「按るに」以 下を「堤等琳」の項目に入れている。月岑はなぜこの記事を削除したのであろうか。また、なぜ「長谷川雪旦」の項 目を立てず「彫物大工 後藤茂右衛門」という項目を立てたのであろうか。「雪旦の子」とあるのも不審である。斎 藤月岑と長谷川雪旦は『江戸名所図会』の編者と画工の関係ということもあって『月岑日記』から窺えるように親密 な交友関係にあった。月岑にどのような配慮が働いてこのような項目立てや削除が行われたものか、未詳である〉
☆ 安政六年(1859)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(安政六年刊)
長谷川雪旦画
『本化高祖累歳録』五冊 法眼雪旦 堤等舟筆 蘭泉画 鄰松画 山本春重画 長谷川雪堤 北尾政演 東牛斎蘭香行年七十歳画 長谷川雪瑛 春英画 法橋関月 寛政甲寅原版歟 深見要言輯 広岡屋幸助求版
〈寛政甲寅は寛政六年。〔目録DB〕は寛政五年刊とする。但し画工名はなし〉
◯『書画薈粋』二編〔人名録〕④517(畑銀雞編・安政六年三月序刊) 〟 〝画家【名雪旦、字宗秀、号厳岳斎】浅草元鳥越 長谷川雪旦。江戸ノ人、雪舟翁◯三世ノ画裔、雪嶺ハ 翁ノ門ナリ、画ニ巧ナルコト江戸名所図会ヲ見テモ知ルベシ、其高名ナル、スデニ法橋ニ任ズ〟 ☆ 刊年未詳(幕末) ◯「本朝近世画工鑑」(番付 刊年未詳)〔番付集成 上〕 (世話人) 〝享保 西川祐信 同 菱川師宣 寛文 懐月堂 享保 宮川長春 享和 竹原信繁 天保 長谷川雪旦〟 ☆ 明治三年(1870)頃 ◯『睡余操瓢』〔新燕石〕七巻附録「随筆雑記の写本叢書(七)」(明治三年頃・斎藤月岑書留) ◇p5 〝日本武尊像 土佐光芳画 享和三癸亥年三月、長谷川雪旦子摹本を縮図す 上部に広幡大納言言長忠の筆あり〟
◇p7 〝雪旦子話 英一蝶、師宣か画る婦人の張り物する図の傍に柳を画て 洗濯の相手にたゝぬ柳哉 一蝶〟
〈雪旦子とは斎藤月岑の『江戸名所図会』の挿絵を担当した長谷川雪旦。月岑との関係は親密であった。菱川師宣の画 に、一蝶が柳の画と発句の賛を添えたのである〉
☆ 明治十七年(1884) ◯『石亭雅談』〔続大成〕⑨206(竹本石亭著・明治十七年七月刊) 〝吏は盗賊かと疑ふ
長谷川雪旦
江戸本郷一勝地を御茶の水と称す。鰻亭(うなぎや)あり、守山と呼。一客来りて酒飯を命じ、鰻を啗 (くら)ふ。深く亭榭の結構と山川の位置とを観、悉く写して去る。其夜亭に賊あり。主人意中以て昼間 図をなし去ものゝ所為となす。他日その客又来る。主人之を捕吏に訴ふ。吏鉄棍(じつて)を揮ひ踏入り 将に之を縛せんとす。客駭然をして大に驚く。吏中客を知るものありて曰、是老画師長谷川雪旦なり。 雪旦生平篤実謹厚、何ぞ賊を為者ならんや。乃ち問て曰、叟何を以て屡来て此家を窺ふや。答曰、頃者 (このごろ)友人斎藤氏、江都名所図絵を編す。其附図を余に嘱す。故に来て勝地をうつすのみと。乃ち 稿本(したゑ)を出して示す。吏の意解然(とける)、主人之を聞て深く其粗忽を謝す。満坐一大笑をなし て別る。曾て聞、此図絵一たび世に出て紙価頓に貴きに到る。其功雪旦に有と云。雪旦名は宗秀、号は 巌岳、法橋に叙す。男雪堤亦画を能す。為人実篤温柔能父に似たりと云。 東都歳事記又雪旦の図する所也。男雪堤多くこれを補画すと云〟 ◯『扶桑画人伝』巻之二(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝
雪旦
長谷川氏、名ハ宗秀、巌岳斎又一陽菴ト号ス、江戸ノ人。画ヲ以テ法橋ニ叙ス。此家累代長谷川ヲ唱ヘ 雪舟ノ画譜ヲ慕フ。雪旦ニ至リテコトニ其風ヲ能シ、時ニ江戸名所図絵ヲ画クニ因テ一時ニ称誉セラル。 天保十四年正月二十八日没ス、六十六歳。明治十六年迄四十一年〟 ☆ 明治十九年(1886) ◯『香亭雅談』下p4(中根淑著・明治十九年刊)
※(読み)(意味)は本HPのもの
〝文政中、斎藤月岑東都名所図会を稿す、長谷川雪旦其の図を草し、月岑と雪旦及び同志一二人と、日々 諸名勝を探り、僧寺及び故家に就きて、其の事跡を質し、聞に従ひ録に従ふ、独り雪旦或いは坐し或い は立ち、出入徘徊して、其の真景を摹す、後本所羅漢寺に至り、以謂(おもへ)らく、許多(あまた)の仏 像蒼卒に(慌ただしく)写し畢(お)はるべからずと、因りて僧に乞て、堂中に投宿す、夜半眠り醒め、首 を昂(あ)げ灯を挑(かか)ぐるに、明暗中、忽ち五百の応真(らかん)、臂(うで)を攘(はら)ひ足を翹(あ) げ、形勢獰悪、引き去らんと欲するが如きを見る、雪旦悸(おそ)れて被(掻い巻き)を蒙(かぶ)りて屛息 し(身を縮めて)、以て天明を遅(ま)つ、後毎(つね)に此を言ひ以て笑いの資となす。雪旦、碁伎拙劣、 然し嗜好甚だ深く、毎に門人に勧む、画を以てせずして碁を以て人と局に対す、寝食偕(とも)に廃す、 或は客の門に踵(いた)る有れば、則ち家人を顧みて、大呼して曰く、賓(客)に謝せ、雪旦在せずと、而 れども其の声、早已(すで)に客の耳辺に達す〟
〈『江戸名所図絵』に載せるため五百羅漢寺を訪れた時のエピソード。腰を据えて写生しようと投宿したのはよいが、夜半、 次々に浮かびあがる五百羅漢の奇怪な姿にすっかり怖気づいて、朝までじっとしていたというのである。雪旦の囲碁好き は相当なものだったらしい。が「碁伎拙劣」とあるから、謂わば「下手の横好き」の類なのだろう〉
☆ 明治二十四年(1891) ◯『近世画史』巻二(細川潤次郎著・出版 明治二十四年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(原文は返り点のみの漢文。書き下し文は本HPのもの。(文字)は本HPの読み。
茶文字は訓読出来なかった箇所)
〝長谷川雪旦 雪堤 長谷川雪旦 名宗秀、巖嶽斎・一陽菴等の号有り。江都の人なり。家世画を以て業と為す。雪舟風に傚 ひて、雪旦尤も顕(あらは)る。法橋に叙位せられ。江戸名所図絵、即ち其の画く所なり。天保十四年正 月歿、年六十六。 子雪堤、名宗一、又梅紅・松斎等の号有り。
画比其父、未多譲
曾て調布玉川図を作し、鏤板(版本)世 に伝ふ。尾張侯に仕ふ〟 ☆ 明治二十五年(1892) ◯『日本美術画家人名詳伝』上p31(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊) 〝長谷川雪旦 名ハ宗秀、巌岳斎、又一陽菴ト号ス、法橋ニ叙セラル、此家累代長谷川氏ヲ唱ヘ雪舟ノ画風ヲ慕フ、雪 旦ニ至リテ特ニ其風ヲ能クス、天保中斎藤月岑ノ江戸名所図絵ヲ稿スルニ当リテ、雪旦其図ヲ草シ、月 岑及ビ同志一二人ト日々ニ諸名勝ヲ探リ、僧寺及ビ故家ニ就キテ其事跡ヲ質シ、随テ聴ケバ従ヒテ録ス、 独リ雪旦或ハ坐シ或ハ立チ出入徘徊、其風景ヲ摸ス、後チ深川羅漢寺ニ至リ、以謂ラク、数多ノ仏像倉 卒ニ写シ竟ハルベカラズト、因テ僧ニ乞テ、堂中ニ投宿ス、夜半眠リ醒メテ首ヲ昂ゲ燈ヲ挑グルニ、明 暗中忽チ五百応真ノ臂ヲ攘ケ足ヲ翹ル形チ、獰悪引キ去ラント欲スルガ如キヲ見、雪旦悸レテ被ヲ被リ テ屛息シ、以テ天明ヲ竢ツ、後チ毎ニ此ヲ言ヒテ以テ、笑ヒヲナスト云、本郷ノ一勝地ヲ御茶ノ水ト称 ス、鰻亭アリ、守山ト呼ブ、一客来リテ酒飯ヲ命ジ鰻ヲ啗テ、深く亭榭ノ結構ト山川ノ位置トヲ観、悉 ク写シテ去ル、其夜亭ニ盗アリ主人思ヘラク、昼間図ヲナシ去ルモノヽ所為ナリト、他日其客又来ル、 主人之ヲ捕吏ニ訴フ、吏鉄棍ヲ揮ヒテ入リ、将ニ之ヲ縛セントス、客駭然トシテ大ニ驚ク、吏中客ヲ識 ル者アリテ曰ク、是レ画師雪旦ナリ、平生篤実謹厚何ゾ賊ヲナス者ナランヤト、乃チ問テ曰ク、叟何ヲ 以テ屡々来テ此家ヲ窺フヤ、答テ曰、頃日友人斎藤氏江戸名所図絵ヲ編シ、其附図ヲ余ニ嘱ス、故ニ来 リテ勝地ノ眞景ヲ写スノミト、乃チ稿本ヲ出シテ吏ニ示ス、吏ノ意解然、主人之ヲ聞キテ深く其粗忽ヲ 謝ス、満坐一大笑ヲナシテ別ルト、江戸名所図会ノ一タビ著ルヤ声聞大ニ藉ク、天保十四年正月廿八日 歿ス、年六十六〟 ☆ 明治二十六年(1893) ◯『浮世絵師便覧』p240(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊) 〝雪旦(タン) 長谷川氏、名は宗秀、一陽斎、又巌岳亭と号す、後藤氏、俗称茂右衛門、江戸名所図会を画く、天保十 四年死、六十六〟 ☆ 明治二十七年(1894) ◯『名人忌辰録』上巻p10(関根只誠著・明治二十七年刊) 〝長谷川雪旦 一陽庵 名宗秀、一号厳岳斎、天保十四卯年正月廿八日歿す、歳六十六。浅草田圃幸龍寺に葬る〟 ☆ 明治三十年(1897) ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都 (木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊)
(東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)
〝近代国画名家
〈故人と現存とを分けている〉
※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。
〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉
Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山 伊藤若沖 Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦 Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢 浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷 蔀関月 Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻 英一蜂 佐脇嵩之 高田敬甫 西川祐信 橘守国 嵩渓宣信 英一舟 葛飾為斎〟
〈江戸時代を代表する絵師としての格付けである〉
☆ 明治三十一年(1898) ◯『高名聞人/東京古跡志』(一名『古墓廼露』)(微笑小史 大橋義著 明治三十一年六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(21/119コマ)
※(原文は漢字に振り仮名付だが、本HPは取捨選択。半角括弧(かな)で示す)
〝長谷川雪旦 (浅草)田圃 幸龍寺 名は宗秀、一に一陽菴とも云、斎藤彦麿の頼みを受け、江戸名所の図を画くを請(うけが)ひ、諸所真景 写しあるきし内、御茶水の景には最も心を用ひ、同所の鰻屋守山の二階にて、良(やや)久く図を取り帰 りしに、其夜同家に盗賊の難ありしかば昼の客人こそ怪しけれと、早速訴へたるまゝに、忽ち縄にかゝ りて番屋に引れしが、こは真景縮写の為めなりと、段々訳を述しかば、漸く赦さる事になれり、されば 鰻屋守山方にては、大に気の毒の思ひを為(な)し、為めに一日同楼にて、盛んなる会を開きしとぞ、正 面に長谷川氏代々之墓として左右に五つ戒名ある内、初めに巌岳斎長谷川法眼雪旦としてあり〟
〈「斎藤彦麿」は斎藤月岑が正しい。お茶の水の鰻屋の挿話は嘉永3年(1850)起筆の『古画備考』や明治17年(1884)刊『石亭雅 談』が伝えている。戒名「巌岳斎長谷川法眼雪旦居士」〉
◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(71/103コマ)
〝長谷川雪旦【文政元~十二年 1818-1829】 名は宗秀、通称後藤茂右衛門、岳斎、一陽斎、巌岳斎等の号あり、板本の『江戸名所図会』を画きて其 の名高し、天保十四年正月廿八日没す、享年六十六〟 ☆ 明治三十二年(1899) ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(22/218コマ)
〝長谷川雪旦 名は宗秀といふ 巌岳斎 一陽菴等の号あり 江戸の人なり 法橋に叙せらる 此家累代長谷川を唱へ 雪舟の画風を慕ふ 雪旦に至りて 殊に其の風を能くし 世に称せらる 後江戸名所図会を画き 名声 忽ち一時に顕はれ 人以て当時の大家となす 天保十四年正月二十八日没す 年六十六(香亭画談 石 亭画談 扶桑画人伝 書画薈粋)〟 ◯『浮世画人伝』p77(関根黙庵著・明治三十二年五月刊) 〝長谷川雪且(ママ)(ルビはせがわせつそ(ママ)) 雪且、名は宗秀、巌岳斎、また一陽菴と号す、後法橋に叙せられ、等伯が末流(バツリュウ)なるを以て、長 谷川と称せり。雪舟の画風に、宗達光琳の骨法(コッポウ)を折衷して一家をなせり、文政天保の間に『江 戸名所図絵』『東都歳時記』等を画きて妙手の聞えありき。天保十四年正月廿八日歿す、享年六十六歳、 浅草圃幸龍寺に葬れり〟 ☆ 明治三十九年(1906) ◯「集古会」第五十九回 明治三十九年九月 於青柳亭
(『集古会誌』丙午巻之五 明治39年12月刊)
〝林若樹(出品者)
長谷川雪旦
江戸名所図会画稿 一冊 両国辺より本所辺の図多し 長谷川雪堤 下総旅行図稿 一冊〟 ◯「集古会」第九十回 大正元年(1912)十一月
(『集古会志』癸丑之一 大正3年5月刊)
〝林若樹(出品者)長谷川雪旦下画 京橋茅場町辺図 一枚〟 ☆ 大正十一年(1922) ◯『芸苑一夕話』上巻(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年五月刊) ◇六 長谷川雪旦(60/253コマ)
〈『江戸名所図会』エピソード〉
江戸名所図会
(国立国会図書館デジタルコレクション)
☆ 大正十二年(1923) ◯『罹災美術品目録』(国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊) (大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)
長谷川雪旦画
村越庄左衛門所蔵(田原屋 長谷川町) 「春秋遊山図」金地大和絵 屏風 屏風 一双 ☆ 昭和以降(1825~) ◯『狂歌人名辞書』p112(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊) 〝長谷川雪且、名は宗秀、厳岳斎、又、一陽庵と号す、江戸の人、天保年間、斎藤月岑の「江戸名所図会」 を編むに当り其図を描きて声誉を博す、天保十四年正月廿八日歿す、年六十六〟 ◯『浮世絵師伝』p112(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝雪旦 【生】安永七年(1778) 【歿】天保十四年(1843)一月廿八日-六十六 【画系】 【作画期】文化~天保 長谷川を称す、後藤氏、名は宗秀、俗称茂右衛門、一に長之助、一陽庵・巌岳斎・岳斎等の号あり、も と彫刻大工にして、俳諧を好み俳名を五楽と云へり、晩年法橋に叙せらる、下谷三枚橋に住す。挿画せ るもの『利運談』(文化十三年版)・『江戸名所図会』二十册(天保四・七年版)・『東都歳時記』 (春夏秋冬に分けて五册、天保九年版)其他尚ほ数種あり、男雪堤後を継ぐ。墓所、浅草幸龍寺〟 ◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊) ◇「夷曲同好筆者小伝」p444(昭和六年九月十六日記) 〝雪旦【長谷川宗秀、一曰後藤茂右衛門】号巌岳斎、一陽庵、住下谷三枚橋、天保十四年癸卯正月廿八日 没、年六十六、葬浅草田圃幸竜寺【住本郷日陰町、小笠原佐州藩(方角分)】〟 ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕) 「発端」p15 〝(*鉄砲洲稲荷神社)祖母がまだ生家にいた頃の神社は、今より北へ寄った稲荷橋の南袂、大川の河口 に近く、諸国の廻船が出入する船着場の河岸に在ったと云う。現地に移った時期はまだ訊いていないが、 三代目豊国と、二代目広重の合作「江戸自慢三十六興」という組物の錦絵には、旧地の風景と、境内の 富士祭での土産と見える麦藁の蛇を提げた町娘が画いてある。豊国の落款に喜翁とあるので、それが文 久二年の作と解る。鉄砲洲の稲荷と普通には呼ばれているが、「江戸名所図会」には湊稲荷となってい る。
雪旦
の細密な写生による挿絵を見ると、この神社の景観がいかに勝れていたかが窺われて、眼のあ たりこの実景に接することの出来なかったのが残念に思える。殊に境内の富士から、湊口に碇泊する数 多の巨船や、佃を越して遠く、鹿野山や、鋸山を見晴らす景色が、「助六」ではないが、浮絵のように 見えたのであろう〟 ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊) ◇「文化七年 庚午」(1810)p179 〝正月、辰斎・北鵞・北馬・北尾重政・長谷川雪旦等の画ける『狂歌千もとの華』出版〟
◇「文化九年 壬申」(1812)p182 〝六月、長谷川雪旦の『古画要覧』出版〟
◇「文政一〇年 丁亥」(1827)p203 〝正月、長谷川雪旦の画ける『江戸名所花暦』出版〟
◇「天保四年 癸巳」(1833)p211 〝此年、長谷川雪旦の画に成れる『江戸名所図会』梓行。奥附に天保五年甲午孟春とあれば、天保五年の 條に載すべきものなれども、著者斎藤月岑、武江年表に自ら天保四年の條に載せあれば此に掲ぐ。序文 は又亀田長梓・松平冠山公・片岡寛光等にていづれも天保三年なり。此を以て見れば天保四年中には全 く成りて天保五年春より市中に出だせるなり。為に出版物の前後は一二の間は争ひがたきものなるを知 るに足るなり〟
◇「天保七年 丙申」(1836)p215 〝正月、長谷川雪旦の画ける『江戸名所図会』四巻より七巻出版〟
◇「天保八年 丁酉」(1837)p216 〝正月、長谷川雪旦の画ける『江戸名所花暦』出版〟
◇「天保九年 戊戌」(1838)p217 〝正月、長谷川雪旦父子の画ける『東都歳時記』出版〟
◇「天保一四年 癸卯」(1843) 〝正月二十八日、長谷川雪旦歿す。(行年六十八歳)〟 △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序) 「世田谷区」幸龍寺(烏山町二二六七)日蓮宗(旧浅草新谷町) 〝長谷川雪旦(画家)名宗秀、通称後藤茂右衛門、巌岳斎、一陽庵と号し、法橋に叙せらる。斎藤月岑の 江戸名所図会に挿画を描きて名声揚る。天保十四年一月二十八日歿。年六十六。巌岳斎長谷川法眼雪旦 居士〟 △『増訂浮世絵』p187(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊) 〝長谷川雪旦 雪旦は浮世絵流の人ではなく、等伯の末流といふので、長谷川を名乗つて居る。文政天保の間に、江戸 名所図会、東都歳時記等を画いて名をあらはした。天保十四年正月二十八日、享年六十六歳で没し、浅 草幸龍寺に葬つた〟
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
〔長谷川雪旦画版本〕
作品数:26点
(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)
画号他:雪旦・長谷川雪旦・宗秀・長谷川宗秀 分 野:絵画12・地誌(名所図絵)5・狂歌3・魚介図2・風俗(歳時記)1・動物図1・縁起1 成立年:寛政10年(1点)文化9年(1点) 文政6~8・10・12年序(5点)(文政年間合計6点) 天保2・4~7・9・11年(5点)
(長谷川宗秀名の作品)
作品数:2点 画号他:長谷川宗秀 分 類:魚介図2 成立年:記載なし
〈長谷川宗秀の画号は一時的に魚介図だけに使用したようである〉
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