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☆ えどめいしょずえ 江戸名所図会浮世絵事典
   『江戸名所図会』七巻二十冊 一~三巻十冊 天保五年(1834)刊 四~七巻 天保七年(1836)年刊     編輯 松濤軒斎藤長秋 校正 男 藤原縣麻呂 仝 縣麻呂男 月岑幸成〈斎藤月岑〉     画図 長谷川雪旦画  須原屋茂兵衛(1-7巻) 須原屋伊三郞(1-3巻) 須原屋伊八(4-7巻)  ◯『芸苑一夕話』上巻 市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)※半角カッコ(かな)は原文ルビ 全角カッコ( )は原文の注記   ◇六 長谷川雪旦(60/253コマ)     江戸名所図会と渠(かれ)〈「彼」と同義〉     曲亭馬琴が、北斎も及ばずと、其の画を褒めた長谷川雪旦『江戸名所図会』の挿絵を書いて、世に    珍重されるに至つた。     『江戸名所図会』の珍とすべきは、其の記事にありと云はんよりは、寧ろ其の挿画にあるは言ふ迄も    ない。今日の人が、此の徳川期の江戸繁昌の有様を、目のあたり見るごとき心地を起し、大に興味を感    ずるは勿論、江戸時代に於ても、都会に出ることの出来ないものは、皆此書を繙き、江戸の光景を味は    ひ、其の臥遊に供した者で、江戸に出て国へ戻る時には、必ず土産に此の書一部を購うて持帰つたもの    だ。若(も)し此の書に挿絵が無かつたならば、殊に雪旦の画の如き、趣味ある写真の細画が無かつたな    らば、此の書も決して都鄙に広まらなかつたであらう。     『江戸名所図会』二十冊は、なか/\難儀した歴史を持つて居る。此の書の編者は、神田雉子町の名    主斎藤市左衛門が、完成の頃思ひ立つて筆を執り初めたのがそも/\の初まりで、秋里籬島の『都名所    図会』に倣つたものである。此の人は諱(いみな)を幸雄と云ひ、松濤軒とも云ひ、長秋とも云うた。相    当に学問のある人であつた。然るに、其の功を果さず世を去つたので、其の子幸孝(縣麿)が親の志を    紹(つ)ぎ、編輯十数年に及んだが、これも全部脱稿に至らぬ内に歿したので、其の子幸成(月岑と号す)    が又其の志を続(つ)ぎ、終に大成して版に上すまでに至つた。即ち斎藤家三代、約四十余年の苦心を積    むで、漸く成つたのが此の名所図会である。     冠山松平定常公が、此の書の巻首に序文を書いて居る。夫れを見ると、此の書のおそく世に出でたる    を慨嘆し、若し此の書が早く世にあらはれたならば、必ず洛陽の紙価を貴からしめたであろうに、余り    に年数を経たから、その内に秋里の『都名所図会拾遺』や、大和、河内、和泉、摂津等の名所図会が続    出して、大に期を愆(あや)まり、時を失した憾みがあると云うて居る。如何にも侯は急所を道破して居    らるゝが、併し、亦一面から考へると、晩(おそ)く出たのが本書の幸ひであつたかも知れぬと云ふもの    だ。若し此の編輯を企てた月岑の祖父の時代に成つたとしたならば、設令(たとひ)挿絵があつても、雪    旦の如き名画を闕(か)いたであらう。記事の如きも乾燥無味の、所謂昔風の名所記で終つたかも知れぬ。     冠山侯は、古来名所と云ふものゝ、徒(いたづ)らに形式に流れて、動(やや)もすれば主客顛倒の弊あ    ることを論じて居る。曰く、そも/\名所の称は、元(もと)和歌者流より出で、古歌にある地名でなけ    ば、設令山秀水麗の、吟詠に足る者ありとも、其の所を称して名所と呼ばぬ習慣となつて居る。秋里の    選むだ図会の如きは、正しく此の弊に陥つたものだ。云ふまでもなく名は客で、実は主である。実質に    於て名所とするに足るものあらば、之を名所と云ふに何の差支かあらう。そも/\武蔵野の広き、江戸    の繁栄なる、古歌に詠ぜられた所は少なしとは云へ、其の実に於て名所と為すべきものは、実に少なく    無いと、名所の真意義をよく道破して居るが、『江戸名所図会』の、他の類書に優る所以は、全く侯の    指導に基づき、編者が奮つて慣例を破り、和歌などに泥(なづ)まず、自由に勝区を撰むだからである。     全体、名所図会が、昔の名所記に較べて著しく異なる点は、実用の外に趣味を加へた所にあるのだ。    昔の名所記は、地名の考証沿革などに重きを置き、甚だ無味乾燥のものであるが、これは地名の考証の    外(ほか)に、其の土地に関係ある詩や歌や俳諧や、或ひは其の地の巨人の事跡や、風俗その他に至るま    で、凡そ趣味を感ぜしむるものは、皆取り込むであるのみならず、図を挿むで、文字の及ばぬ所を補う    て居る。これが名所図会の特徴と云ふべきものである。然るに、此の特徴を、図の方面に於て幾(ほと    ん)ど極度まで発揮したものは『江戸名所図会』であらう。     既に冠山侯の所説と引いて云うた通り、名所選択の形式を打破し、苟(いやしく)も実質の於て美とし    勝とすべき名区は、皆採ることになつたから、千紫万紅、絢爛眼を眩ずる様な名所図会が出来たのであ    るが、さて雪旦の趣味ある細筆の、之を助けるものが無かつたならば、『江戸名所図会』も、類書の冠    冕(くわんべん)がる名誉を博し得なかつたかも知れぬ。〈「冠冕がる」は第一位のようにみなすこと〉     『江戸名所図会』は何人も見て居るであらうから、委しく云ふは野暮であるが、実に挿絵の豊富なも    ので、其の図が如何にも深切に精細に出来て居る。其の写実の妙は、今日の写真と雖も及ばぬ所があり、    すべて活きて居り、且つ趣味がある。試みに、其の首巻を開いて日本橋魚市の雑沓の状を見よ。又十軒    店雛市の光景を見よ。誰か入念の深く且つ厚きに驚かざるものぞ。曲亭馬琴は、其の随筆『異聞雑稿』    に左の如く評してゐる。     江戸名所図会は、その功、編者は四分にして、其の妙は画にあり。遠境の婦女子の、大江戸の地を踏     むに由なきには、これにます玩物あるべからず。(中略)画図なくば、増補改正江戸志あれば、読書     の人には珍(めづら)げなからんを、幸ひにしてこの自妙の画あり。臥遊の為、いと/\宜(よろ)し。     この画工雪旦は余も一面識あれども、かゝる細画はいまだ観ざりき。縦令(たとひ)北斎に書かすとも、     この右に出ることなかるべし。          これは、曲亭馬琴が本書二十冊の内十冊出た時の評であるが、馬琴は、本書の編制や地名の考証等に、    種々誤謬を摘出して居るけれども、図画に対しては、満腹の賞讃を与へて居る。雪旦の此の書に対する    功は、斎藤家三代四十余年の功に較べて、優るとも劣ることは無い。     江戸時代に、幾百軒の貸本屋は、必ず此の書を備へたもので、冷熱なく観客が借覧したものは、『八    犬伝』にあらざれば『江戸名所図会』であつた。さて、何の為に新しく流行つたかと云ふに、其の図画    に趣味があつたからである。今日存して居る幾百の此の書が皆垢染みて居るのは、万人の手に触れた記    念であることは云ふまでもない。さて此の名誉ある画家は、此の書の巻尾に僅かに名を刻されて居るが、    誰の序文にも、跋文にも、一言此の画家に及んでおらぬ。実は当時、此の種の画家を尊敬しなかつたの    も無理はないが、今日はその真価を認め、元来文字に対して従たる関係である挿絵が、其の位置を顛倒    することになつた。例へば、昔し狂歌師や俳人などが、愚にもつかぬ狂歌や俳諧を版に上(のぼ)すに方    (あた)り、愛敬にとて書かせた画などの内に、歌麿や祐信の様な名手の画が挿さむである為に、今は其    の書が一冊幾十百円の価を有(も)つに至り、若し此の文字無からしめば、更に可(か)ならんになど、文    字を邪魔がる様にもなつた。『江戸名所図会』の如きも又其一例である。     『江戸名所図会』二十冊の挿画は、幾枚あるか知らぬが、多分此の書全部の五分の一、即ち冊に引直    すと、四冊ほどは絵であらう。さて此の絵は一枚と雖も机上の空想で書ける者でなく、一たび其の境を    訪うて「スケツチ」を執らねば、写実でならぬものであるから、雪旦は、江戸中の市街は勿論、名所と    し云ふものは、寺でも、神社でも、行かぬ所なく、終に郊外にまで踏み出して、足跡、武蔵の全土に遍    く及んで居る。その探討の場合には月岑が連れ立ち、此処(ここ)彼処(かしこ)と差図をしたり、図案に    就いても、いろいろの註文した。月岑自筆の日記が多く存して居るが、此の人の足跡も、幾(ほとん)ど    江戸の隅から隅に及んで居つて、日々の記事は、寺社其の他探討記である。月岑が晩年相当の画家とな    ることの出来たのも、雪旦に負ふ所が少なく無かつたのだ。     さて此の挿絵全部は、幾年を経て成就したか、委しく分らんが、恐らく一生の三分の一位は、これに    打込んだものであろう。雪旦の労も、大なりと謂はざるを得ぬ。これに対し、どれほどの謝金を得たか    と云ふと、いつぞや聞いて驚いたのは、其の報酬の如何にも少ないことであつた。今はよくも記憶して    居らぬが、先づ今日未熟の青年画家が、雑誌の挿絵を書いて受取る画料よりも遙かに少なく、おまけに    各所へ出掛ける旅費も、其の少ない料金の内から弁ぜざるを得無かつた。雪旦が赤貧洗ふが如き境遇で    一生を終つたのも不思議はない     渠(かれ)の凝り性     雪旦の経歴や為人(ひととなり)は委しくわからぬ。故人香雪前田翁が和泉橋通り徒士(かち)町二丁目    に住居した頃は、雪旦は其の筋向ひ東側に住み、香雪の先代夏蔭翁存命の折も、其の後も、往来したと    云うて、其の随筆に一二の逸事を語つて居る。その謂ふ所から想像して見ると、雪旦は近眼で、風采の    揚がらぬ人で、好む道には、利益をも抛擲して顧みなかつたと云ふから、名所図会の挿絵の如きも、欲    徳で書いたものでなく、感興が乗つて一生懸命に筆を揮つたものに違ひない。彼れの凝り性に就いて、    囲碁に関する逸事が伝はつて居る。     雪旦は非常の碁好きで、碁を打ち始めると、寝食を忘れて夢中になる。その癖、余り上手では無かつ    た。所謂下手の何好きとやらの組で、相手さへあれば、画筆を抛(なげう)つて、いつまでの打つ。画を    依頼するため人が訪ねて来る。偶々対局中であると、容赦なく誰彼の別なく断る。断るもよいが、我を    忘れて大声に留守だ/\と云ふから、戸外へそれが漏れて来客の気受けを害し、毎度家族が迷惑した。    又人の家を訪ねて打つとなると、人の迷惑は一向構はず、徹夜でも構はぬ熱心家であるから、随分人を    困らせた。香雪翁の祖父知雄といふ人は、なか/\上乗の碁打であつたので、雪旦稽古と云うて度々押    しかけて、時間構はず長座をするので、いつも迷惑がられたとは、香雪翁の自ら云ふ所である。     こんな調子では、家計などはどうでもよい主義で、気が向かなければ筆も取らなかつたらう。彼の貧    乏の原因も察せられる。彼が『江戸名所図会』の挿画の様なものを担当したのは、必ず自分が感興があ    つたからであらう。こんな性格の人であるから、随分「スケツチ」を取る為にあちらこちらを歩き廻り、    興に乗じて余計な散財なしたこともあるに相違ない。そして失敗したり、滑稽を演じたり、人の誤解を    招いたりしたこともあるであらう。     泥坊と間違はる     雪旦が『江戸名所図会』の画材を採集のため歩き廻る折、ふとしたことから盗賊の嫌疑を受けた。こ    れが芸苑に隠れもない話しとなつて居る。併し、似寄りの事が画家には随分あるから、事実どうかと思    つて居つたが、前川香雪翁の父夏蔭は、現に此事に与(あづか)つたと云ふ事で、香雪翁の随筆に委しく    載つて居るから、事実は確かである。但し前田の家で此の画家の冤を雪(すゝ)ぐに種々苦心したことな    どは、世間では知らぬことであるから、翁の「後素談叢」から、此の事に関する一節を、原文の侭(まま)    左に抄録する事にする。          雪旦は、毎月三四回位、その写すべき方角へ筇(つえ)を曳き、寺社、或ひは農家、商家といはず、図     どりをなすに都合よき所にいこひて、下図を作るを常とせしが、思ひかけず、窃盗の嫌疑をうけたる     一奇談あり。聖堂より湯島円満寺辺をうつしに出たる日、疲れて水道橋際の守山といへる鰻店に入り     て独酌し、御茶の水の景色をおもしろしと思ひ、立ちつ居(ゐ)つ見廻したりしに、漸く暮近くなりし     かば、盃をさめ飯を喫して帰りしに、其の夜崖下のかたより窃盗忍び入りて、金銭、衣服など、少な     からぬ物を盗み去られぬ。此の由、その筋へ訴へ出しとき、出入の者、又は来客などに、怪しと思ふ     心当りはなきやとの尋問ありしとき、此の夕刻、年五十余の坊主の、僧とも医者とも又俳諧師などと     もみえぬが来りて、あたりを隅なく見廻り、何やらむ手帳のやうのものにかきとめ帰りたるが、いか     にも迂散(うさん)に思はれし由、給仕の下婢(かひ)の告げたるが、若し其の夜忍び入らむ為に、足場     など細かに見て、かきとめ帰りしにはあらざるか。其の夜この盗難ありしなれば、旁々(かたがた)不     審に存する由、申し立しかば、其の人相、衣類などまで委細に聞きとられしは、町奉行支配同心及び     其の手先の者なりし。然るに、雪旦は、近眼といひ、人相もなみに変りし醜面なれば、忽ちにしか/\     の所に住める画工とは突き留めたれども、只かばかりの嫌疑にて直ちに引上げることもならざれば、     如何にせむと、手先ども案じ煩ひしが、我家(前田の家)には、門人の出入りも多くあり、特にかの     画工も折々は立入る様子なりとの事を探知せし故、或る夜窃(ひそか)に来りて、己が父(夏蔭)に面     会を乞ひ、内々其の人となりを告げられたしとの事に、かゝる疑ひの掛りし者とは知らず、平常の有     様を語り、一体町方は誰の手にて探りに来りしか。我が門人には安堂、蜂谷、中村など、与力にも三     人あり、同心にも秋山など、知己のあるに、さる人より尋ねる事あらば尋ねらるべきに、足下(そつ     か)等(ら)が直ちに内(ない)聞きに来ること心得難しと語りしに、其の手先は大いに麁忽をわび、急     ぎ帰りしが、当時の与力の権勢は強大なりしこと知られて、翌朝早く安藤源之進といふがたづね来り、     全く不心得の者、率爾(そつじ)に罷(まか)り出で、御尋問申したる失敬の段、何とも申し謝すべき処     なし。愚父(源之進の養父は安藤小左衛門といへる有名なる与力なり)がお詫に罷り出づべけれど、     先とりあへず、私が参上せりと詫び入りしに、父(夏蔭)も、さばかり立腹したるわけにもあらず、     殊に此の源之進は門人にてありし故、よきほどに応答したり。          雪旦が窃盗の嫌疑を受け、前田香雪の家が同人を知る関係から、探偵吏より尋問を受けた次第、並び    に香雪翁の父夏蔭翁が、尋問に対し率爾の無礼を咎め、時の警察も非を悟つて、失礼を謝した仕末は、    右の通りであるが、尚香雪翁は、謝罪かた/\来た、与力の子で前田の門下生である安藤に応答の模様    を、左の如く語つて居る。     全体、雪旦の人物行為など取り糺さるゝは、いかなる必要あるにや。彼れは我亡父の時代より出入し     て、其の性行はよく知れるが、決して不良の所為あるものとは思はれず。併し、わが保証するを待た     ず、御支配下なる神田雉子町の里正斎藤市左衛門(江戸名所図会の編者)は、とく知り居る筈なり。     かれには、江戸名所図会の真図を写すことを頼まれ居るよし、本人より聞ける事あれば、同人を糺さ     れなば能く知らるべし。さるにても、かく取り調べらるゝは何故ぞと、押返して問へば、実はかう/\     しかじかなりとて、水道橋の守山よりの訴へに起因することを物語りしにて、初めてそれとは知られ     しとぞ。     香雪が、其の父翁(ふおう)より聞くが侭(まま)の記事は右の如くで、雪旦は勿論逮捕を免れたが、彼    れの態度や性癖は、ともすれば、斯かる誤解を生じかねなかつたと見えて、香雪翁は更に左の如く語つ    て居る。     近眼の癖とて、目をとゞむべきほどの物ならぬをも、打返しくりかへし見る癖あるゆゑ、毎度父は、     戯れに、雪旦さん、そのやうに見ると、又泥坊の疑ひを受けますぞ、といひては笑ひしとぞ     此の記事を見ると、雪旦の面目躍如たるの思ひがある。芸術家には、兎角(とかく)此の様な意外の事    のあるものだ。     序(ついで)に云ふが、雪旦の嫌疑を受けた守山と云ふ鰻店は、維新後まで存して居(を)つたが、今は    無い。此の家はお茶の水の懸崖に掛出した面白い家で、仰いでは富嶽を望み、俯しては茶渓を瞰(み)る    と云ふ風流の構(かまへ)であつた。なぜに此家一軒ぽつつりこゝに在つたかと云ふに、水道番と云ふ名    義で許されたのである。丁度此の鰻屋のあたりに水道の樋の枡があつて、此の鰻屋は此の水で鰻を養ふ    から美味(うまい)と評判され、当時繁昌したものだ。     雪旦は江戸の人で、名は宗秀、巌岳斎、一陽庵などと号し、法橋に叙せられた。天保十四年、六十六    で歿した。其の子は雪堤と云ひ、巌松斎宗一と称した。やはり画をかいたが、親には遠く及ばなかつた。    併し、雪旦の名が『江戸名所図会』で喧伝したため、其の余沢で、贔屓にする人が市中に多くあつた中    に、新川新堀辺の酒問屋に引き立てられた。此の人は父雪旦と大分性格が変つて、小心家で節倹を旨と    したから、雪旦の時代は、家政が常に困窮であつたか、息子の時代には、却つて家道が豊であつたと云    はれる〟