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☆ またべえ いわさ 岩佐 又兵衛浮世絵師名一覧
〔天文6年(1578) ~ 慶安3年(1650)・73歳〕
 ☆ 慶安三年(1650)(この年没・七十三歳)  ☆ 寛政八年(1796)  ◯『好古日録』〔大成Ⅰ〕22-149(藤原貞幹著・寛政八年序)   (「岩佐又兵衛」の項)   〝又兵衛父ヲ荒木摂津守ト云、信長公ニ仕テ軍功アリ。公賞シテ摂津国ヲ予フ。後公ノ命ニ背テ自殺ス。    又兵衛時ニ二歳、乳母懐テ本願寺ノ子院ニ隠レ、母家ノ氏ヲ仮テ岩佐ト称ス。成人ノ後織田信雄ニ仕フ。    画図ヲ好テ一家ヲナス。能当時ノ風俗ヲ写スヲ以、世人呼テ浮世又兵衛ト云、世ニ又平ト呼ハ誤也。画    所預家ニ又兵衛略伝アリ〟    〈大田南畝の『浮世絵考証』「岩佐又兵衛」記事はこの『好古日録』をそのまま写している。「日本随筆大成」本は寛     政八年の藤原資同の序文と“寛政七年乙卯九月刊行”の奥付を付す。だが、この奥付は不審である。序の年紀より刊     年の方が早いからだ。因みに「国書基本DB」は寛政八年序、寛政九年刊とする。この方が自然だ。したがって、南     畝の『浮世絵考証』岩佐又兵衛記事は寛政九年以降と思われる〉    ☆ 寛政十二年(1800)  ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕(寛政十二年五月以前)   ◇「岩佐又兵衛」の項 ⑱438   〝岩佐又兵衛    又兵衛父ヲ荒木摂津守ト云。(按、名村重〈朱筆〉)信長公に仕テ軍功アリ。公賞シテ摂津国ヲ与フ。    後公ノ命ニ背テ自殺ス。又兵衛時ニ二歳、乳母懐テ本願寺子院ニ隠レ、母家ノ氏ヲ仮テ岩佐ト称ス。成    人ノ後織田信雄ニ仕フ。画図ヲ好テ一家をナス。能当ノ風俗ヲ写スヲ以テ世人呼テ浮世又衛ト云。世ニ    又平ト呼ハ誤也。画所預家ニ又兵衛略伝アリ。藤貞幹好古日録ニ見ユ。  (朱丸)◯【無仏斎ガ此説信ジガタシ、四季画ノ跋ニ越前ノ/産云々ト有ニモ不叶。疑ラクハ誤ナルベシ】  按ずるに、是いわゆる浮世絵のはじめなるべし。又大津絵も此人の書出せるなりといふ〟    〈無仏斎とは『好古日録』(寛政九年刊)の著者・藤貞幹(藤井貞幹)〉   ◇「英一蝶四季絵跋」の項 ⑱440   〝近頃越前の産、岩佐の某となんいふもの、歌舞白拍手の時勢装をおのづから写し得て、世人うき世又平    とあだ名す〟    〈南畝には、岩佐又兵衛、浮世又平、浮世又兵衛、大津又兵衛の使用例があるが、浮世又平・又兵衛を岩佐又兵衛の渾     名ととらえ同一人物視しているようだ。大津又兵衛については確証がない〉    ☆ 享和二年(1802)  ◯『浮世絵類考追考』(山東京伝編・享和二年十月記・文政元年六月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)   〝浮世又兵衛    又兵衛が略伝は、好古日録に見ゆ。按に、一蝶が四季の絵の跋に、越前の産としるしたるを見れば、越    前において成人しとおぼゆ。名字は知る人もなかりしにや、たしかにしるしたるを見ず。    又兵衛が父荒木摂津守、名は村重、家士に重郷【姓氏不知】と云者あり。俗称久蔵、后に内膳と改む。    一翁と号す。狩野松栄門人にて、画をよくす。一説に、又兵衛、始此人を師として絵を学ぶ。後に土佐    光信【明応中人】の画風に倣て一家をなす。世に光信の門人と云は誤也。時代同じからずと云。しかる    やいなやをしらず〟  ☆ 文化五年(1808)  ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝岩佐又兵衛    又兵衛父を荒木摂津守【名は村重】と云、信長公に仕へて軍功有り、公賞して摂津国を与ふ、後公の命    に背きて自殺ス、又兵衛時に二歳、乳母懐きて本願寺の子院に隠れ、母家の姓を仮りて岩佐と称す。成    人の後、織田信雄に仕へ、画図を好ミて一家をなす。能く当時の風俗を写すを以て、世人よびて浮世又    兵衛と云。世に又平とよぶは誤りなり、画所預家に又兵衛略伝あり、藤貞幹好古日録に見ゆ、是世にい    はゆる浮世絵のはじめなるべし、叉大津絵も此人の書出せるなりと云〟  ☆ 文化十年(1813)  ◯『骨董集』〔大成Ⅰ〕⑮408(岩瀬醒(山東京伝)著・文化十年成)   (「浮世袋再考」の項)※半角(かな)は原文の振り仮名   〝昔はすべて当世様(たうせいやう)をさして浮世(うきよ)といひしなるべし。これも古きことにや。能の    狂言のきんじむこといふに、舅のいへる言(ことば)に「やいくわじや、婿どのはうきよ人(じん)じやに    よつて、云々(しか/\)」といふことあり。これ当世人(とうせいじん)といふが如し。岩佐氏を浮世又    兵衛といひしも、当世様(とうせいやう)の人物を画きたるゆゑならん〟    〈狂言の「きんじむこ」近仕聟?、不明〉  ☆ 文化十五年(1818)  ◯『瓦礫雑考』〔大成Ⅰ〕②165(喜多村信節著・文化十五年刊)   (「遊女が粧(よそほひ)」)※半角(かな)は原文の振り仮名   〝いにしへの江口神崎などの遊女は皆小袿(こうちぎ)着たりと見ゆれど、後世の遊女はしからず。岩佐又    兵衛が画、その後は菱川師宣・英一蝶が画にも、なほ遊女に打かけ着たるはなし。それらの絵にも稀に    は打(うち)かけ姿かけるも見ゆれど、皆内(うち)に居る体(てい)也。外(と)に出たるは必ずうへに帯し    めたり。よりて思ふに遊女が小袖を打かけ着たるは、褻(け)のことにて晴(はれ)にはせざりしを、今は    武家の婦人の打かけのごとく礼服とせしは、粗(ほぼ)僭上(せんじやう)の儀とやいはまし〟    〈近世における岩佐又兵衛・菱川師宣・英一蝶の受容は、絵画としての鑑賞用であるとともに、風俗考証の資料として     も活用されている。彼らの絵は当世を写す浮世絵だとする了解がそこにはあったのである〉    ☆ 天保三年(1832)    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年刊・『日本画論大観』中)   〝岩佐又平、名は勝重、摂津伊丹の城主、荒木摂津の守村重の遺孽にして、越前の岩佐氏に育なわる、因    て其の姓を冒す。寛永中に平安に遊び、土佐光則を師とす、後、画を以て越前侯に仕ふ。世に称して浮    世又平と為すは即ち是なり     卓堂先生の曰く「余按ずるに、勝重を以て光則に学ぶと為るときは、則ち勝重、寛永正保年間の人に     して、今を距(サ)ること僅に百数十年、然れども其の遺蹟、幾(ホトン)ど希(マレ)なり、又、抜群傑出の     名無し。巨勢の金岡、今を距たること殆ど千年、坂本来迎寺、現に其の遺蹟を存す。中古、藤原信実、     宅間澄賀も亦、往々之を見る、其の技当代に振ひ、後世に名ある者大抵此の如し。而して勝重の名、     寥々として聞くこと無し、或は称して浮世又平なる者は傅会の説のみ」と。     梅泉曰く「世に浮世又平と称する者は、本其の人無し。然れども世、多く土佐氏の古画落款無き者を     錯認して以て又平作と為して之を珍重す。是れ戯場(シバイ)一時の作に出て、元より実事無し。世従ひ     て之を称す、豈に拠に足らんや」と〟(原漢文)    〈「勝重を以て光則に学ぶと為るときは」のあたり、文意の通じないところもあるが、要するに、勝重の名も絵も、今     に伝わらざることをもって、卓堂先生の岩佐又平評価は芳しくない。いわんや浮世又平とするのは牽強付会だと。梅     泉なるものまた然り。浮世又平は芝居からきたもので、実在の人物ではないと。この芝居とは近松門左衛門の「傾城     反魂香」をいうのだろう〉     ☆ 天保四年(1833) ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③278(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝岩佐又兵衛【土佐ノ又兵衛、浮世又兵衛トモ云】     姓藤原、荒木氏、越前産也、【一説ニ、摂津ニ住ル、拠有レバ、姑ク越前ニ従フ】    父は荒木摂津守村重と云、織田信長に仕て軍功あり、公賞して摂津を与ふ、後、公命に背て自殺す、又    兵衛時に二歳、乳母懐て本願寺の子院に隠て、母方の氏を仮て、岩佐と称す、成人の後、織田信雄に仕 ふ、画図を好て一家をなす、能当時の風俗を写すを以て、世人呼て浮世又兵衛と云、世に又平と云は誤 也、画所預家に略伝あり、 【好古日録】秀吉、信長の使として荒木村重が有岡の城に来る、河原林治冬、秀吉を殺と云しとて、秀    吉脇差を引出物として是を称す、天正元年四月、信玄卒し、義昭公信長と不和に成、将軍家譜代の臣細    川藤高、茨木の城主荒木村重両人、佐久間信盛に寄て信長に降参す、岐阜の城にて対面の時、信長刀の    切先に饅頭二ッ三ッつらぬき、我芳志なり、と指出し給ふ、村重大に口をあき、切先の饅頭を一ッ口に    くはんとす、信長笑ひ給ひ、其後摂津を与ふ、【〔傍注〕以上、類考に無之也】藤貞幹の好古目録に見    ゆ、按ずるに、是世にいはゆる浮世絵のはじめなるべし、又大津画も此人の書いだせるなりといふ、【    杏花園蔵、以上浮世絵類考】鎌倉公方持氏、時氏の比、常陸国小栗の城主小栗判官兼氏、讒者の為に身    を亡し老々【〔傍注〕浪々カ】の後、画工となり、小栗宗丹といふ、五代目の小栗大六、東照宮御在世    の時仕奉り、御使番を勤る、秀康公へ御付人に相成、領地二万石にて越前家老相勤る小栗美作守正矩是    なり始五郎左衛門と云、     追考曰、按るに、一蝶が四季の画の跋に、越前の産としるしたるを見れば、越前において成人せしと 覚ゆ、名字は知る人なかりしにや、たしかにしるしたる物を見ず、又兵衛が父荒木摂津守、名は村重、 家士に重郷【姓氏不詳】といふ者あり、俗称久蔵、後に内膳と改め、一翁と号す、狩野松栄直信元信 の長子、兄祐雪宗信の養子門人にて、画をよくす、一説に、又兵衛はじめ此人を師として画を学ぶ、 後に、土佐光信の【明応の人】画風に傚て一家をなせり、世に光信の門人と云は誤なり、時代同じか らずと云、しかるやいなやをしらず、【以上、追考、山東京伝の考】    岩佐又兵衛は、姓氏実に未詳といへり、見聞せし処、絵の土佐流の名手なり、花鳥人物共に、彩色、筆 意の絶妙、奇といふべし、就中、浮世人物に妙あり、土佐流にて、浮世の人物をさして、雛人形、雑人 物、浮世の人物、或は武者人形、大和人物などの唱へあり、土佐守門弟なりと云、【□□年間の人なり】 故有て姑く勘気を蒙り、流浪して画を以て渡世とす、【今云町絵師の如くなるべし】従来名を好まず、 業にほこらず、何くれとなく、人の求むるに応じて画くといへども、妙手なれば、自ら世に唱用られし と云へり、土佐流破門の弟子なればとて、今に至る迄、又兵衛の画に、土佐家より鑑定せず、極めを不 出、添手紙のみなり、是を折紙とす、禁裏絵所預りは土佐流なり、将軍家にて狩野氏の画を用給ふが如 し、故ありて爰にしるしがたし、前後名流の遺話甚だ多かるべし、姑く爰に闕く、あらましを記すのみ、    (以下、土佐派の画系あり、略)    又兵衛が画に名印有る物は究て少し、遊女の画などには、墨肉にて字体分明ならぬ印有も多し、世を送 るたづきとせしのみなる、生質是にてたしかなり、当世の人、虚名をむさぼり、己れが未熟にて及がた きには代筆にても名を顕し、唯花押の立派を第一として、我物顔にほこる愚昧の輩に反する事、おのづ から名人の所為備れる所の妙と云べし〟    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)  ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝岩佐又兵衛 土佐ノ又兵衛 浮世又兵衛トモ云     姓藤原 荒木氏 越前産也(一説摂津ニ作ル〔住とあり〕拠有レバ姑ク越前ニ従フ)    父は荒木摂津守村重と云。織田信長〈公〉に仕て軍功あり。公賞して摂津を与ふ。後公命に背自殺す、    又兵衛時に二歳、乳母懐て本願寺の子院に隠れ、母家の氏を仮て岩佐と称す。成人の後、織田信雄に仕    ふ。画図を好て一家をなす。能当時の風俗を写すを以て、世人呼て浮世又兵衛と云。世に又平と云は誤    なり。画所預り家に略伝あり。藤貞幹好古目録に見ゆ。按るに、是世にいはゆる浮世画の始なるべし。    又大津画も此人の書いたるなりといふ。(杏花園蔵以上浮世絵類考)     追考曰、按るに、一蝶が四季の画の跋に、越前の産としるしたるを見れば、越前において成人せしと覚   ゆ、名字は知る人もなかりしにや、たしかにしるしたる物を見ず。又兵衛父荒木摂津守名は村重、家士   に重郷(姓氏不詳)と云者あり。俗称久蔵、後に内膳と改む。一翁と号す。狩野松栄(松栄直信は元信   の長子、兄祐雪宗信の養子)門人にて画をよくす。一説に、又兵衛、はじめ此人を師として画を学ぶ、   後に土佐光信〈光弘男〉(明応の頃の人)〈大永五年五月廿日卒九十二歳〉の画風に傚て一家を成せり。   世に光信の門人と云は誤也。時代同じからずと云、然るやいなやをしらず。(以上追考山東京伝考)       岩佐又兵衛は、姓氏実に〈イ名〉未詳といへり。見聞せし処、絵の土佐流の名手なり。花鳥人物共に彩    色筆意の絶妙奇と云べし。就中浮世人物に妙あり(土佐流にては市中のさま或は花見なんど画たるをす    べて浮世人物の絵巻と云。又兵衛にのみにかぎるべからず。土佐流にて浮世の人物をさして雑人形、雑    人物、浮世の人物、或は武者人形、大和人物などの唱へあり)土佐守門弟なりと云、□□年中の人也。    故有て姑く勘気を蒙り、流浪して画を以て渡世とす(と云、町絵師の如くなるべし)従来名を好ず、業    にほこらず、何くれとなく人の求に応じて画くといへども、妙手なれば自ら世に鳴用られしと云り。       土佐流破門の弟子なればとて、今に至る迄、又兵衛の画に土佐家より鑑定せず、極メを不出、添手紙の    み也、是を折紙とす。       禁裏絵所預りは土佐流也。将軍家にて狩野氏の族を用給ふが如し、故ありて詳にしるしがたし、前浮名    流の遺脱甚多かるべし。姑く爰に闕あらましを記すのみ。       (以下、土佐派の画系あり、略)    又兵衛が画に名印有る物は究て少し。遊女の画などには墨肉にて字体分明ならぬ印有も多し。世を送る    たつきとせしのみなる生質是にてたしか也。当世の人虚名を貪り、己れが未熟にて及がたきには代筆に    ても名を顕し、ただ花押の立派を第一として、我物顔にほこる輩に反する事、おのづから名〔代〕〈人〉    の所為備れる所の妙と云べし。
   (「栗に鶉 極彩色 蔵又兵衛画縮図」「花見之図 同上 蔵縮図」     「遊女之図 又兵衛筆 所蔵」)        予が知己にてよく見たりし又兵衛が画、数種あり。悉く紙巾大なれば略す。屏風画の類多くあれども     爰にはぶく。追て好古の画譜に縮図し出せり。爰には其一二を写すのみ〟    ☆ 嘉永三年(1850)  ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   ◇「前書き」中p1363   〝奇跡考云(中略)世に伝へて、浮世又兵衛は越前の産、本姓は荒木、母の姓岩佐を冒す。よく時世の人    物を画くによりて、時の人、浮世又兵衛と称す【世にいはゆる浮世絵は、こゝに起りたり】。又平とい    ふは誤なり。享保四年、傾城反魂香といふ浄瑠璃に、土佐の末弟、浮世又平重おき、といふもの、大津    に住て、画を書きたるよしを、作れるより、妄説を伝ふる歟。或は別に大津に又平といふもの有て、書    始るか。享保の頃まで、其子孫有しといふ。予がをさむるふるき大津絵には、八十八歳又平久吉とかき    て花押あり。前の説のごとく、大津に又平いふ者有しを、浮世又兵衛が事にして、浄瑠璃に作りしより、    虚説を伝へしならんとはいへど、支考が本朝文鑑に、浮世又兵衛は大津画の元祖といふ。文鑑は享保三    年の板にて、彼の浄瑠璃より一年前なれば、其前より云伝し事かも知れず。とまれかくまれ、好古日録    にしるす、又兵衛が伝を見るに、大津にて、売画をかきし事、ありべしともおぼえず。予又考るに、古    土佐の風味、はつかに残るやうにおもはる〟    〈『近世奇跡考』は山東京伝著・喜多武清画・文化元年(1804)序。「前書き」参照〉   ◇「前書き」中p1364   〝風流鏡が池【宝永六年正月板】(中略)うき世又兵衛と云し絵師、小町を書たりしに、小町が笑貌の姿    をかきて、口をあき黒き染歯を律儀に見せて貌にゑくぼを書たりし程に、今の画にくらべては、人形に    ありしおとくじやうによく似たるあく女、これ人のごとくに書たるゆゑに不出来なりし〟    〈『風流鏡が池』は独遊軒梅吟著・奥村政信画・宝永六年(1709)刊。この部分の全文は「前書き」参照〉
   『古画備考』「前書き」  ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1365(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝岩佐光輔 字又兵衛、世称浮世又平、土佐家門人、専画当時士庶遊楽図、設色重密也。按土佐広周子有         光輔、然岩佐氏、為其流、冒之不審也 拾彙    岩佐又平、名勝重、摂津伊丹城主、荒木摂津守村重遺蘖。育越前岩佐、因冒其姓、寛永中、遊京師、師         土佐光則、後以画仕越前侯、世称為浮世又平者即是也 画乗要略    又兵衛、父を荒木摂津守と云、信長公に仕て軍功あり、公賞して摂津国を賜ふ、後公の命を背て自殺す、    又兵衛時に二歳、乳母懐て本願寺の子院に隠れて、母家の氏を継て岩佐と称す、成人の後、織田信長に    仕て、画図を好て一家をなす、能当時の風俗を写すを以て、世人呼て浮世又兵衛と云、世に又平と呼ぶ    は誤なり。画所預家に又兵衛略伝あり、藤貞幹好古小録に見ゆ 浮世絵類考    土佐又平図舞妓図 無名印、光悦筆歟    同画ニゲ唐子 唐子遊ナリ、一児ナシ、東福寺什 千春話    同画大和人物 浦賀 同人話    土佐又平重起筆、婦人之絵    岩佐又兵衛筆、繋馬二枚折屏風、京本国寺什物 都林泉名所図会    岩佐又兵衛画、人物花見之屏風、尾州宝亀山相応寺什、御寄附の品也 尾張名所図絵
   [印章]「岩佐氏」(朱文八角印)【岩佐又平、河津殿野、又平トハ違也】    [印章]「刻字未詳」(朱文丸印)【又兵衛風俗人物三幅対、津軽家蔵】    [印章]「刻字未詳)」(白文菱方印)
   浮世又平、本姓湯浅氏、諱勝 越前住人、鹿島屋印ハ勝親トアリ。張札〟    〈「拾彙」は『皇朝名画拾彙』(檜山義慎坦斎著・文政二年(1819)刊)か。『画乗要略』は白井華陽著・天保三年     (1832)刊。「千春話」の千春は絵師・高島千春であろう〉  ☆ 安政二年(1855)  ◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④160(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝岩佐又兵衛 名勝重、摂津伊丹ノ城主荒木摂津守村重ノ子ナリ。村重戦死ノ後、母氏ノ姓ヲ以テ岩佐ト    称ス。後織田信雄ニ仕フ。幼ヨリ画ヲ好ンテ善シ、終ニ一家ヲナス。能当世ノ風俗ヲ写スヲ以テ浮世又    兵衛ト云。土佐光則ヲ師トシ、益妙ヲ得、晩年越前福井侯ニ仕フ。画ク所印章ノミヲ用ル多シ。附云、    世ニ浮世又平トテ、大津画ノ妙手アリトスル者ハ、義太夫ノ浄瑠璃ニ反魂香ニ、土佐ノ末弟ニ浮世又平    重興ト云。大津画ノ妙、人ヲ作リ設ケタルヨリ、世ニ伝フノ誤ニシテ、其人実ハナシ。彼福井ニ有ル所    ノ印章ヲ今コヽニ摸出シテ其疑ヒヲ解ントス    〔印章〕「勝重」・「勝重」  ◯『歴世女装考』〔大成Ⅰ〕⑥269(山東京山著・安政二年刊)   (「唐輪髷之古図」模写あり)   〝此図は岩佐又兵衛が筆なりとて或人のもたる摸本なるを、こゝには全図を略しつ。本幅は極彩色にてい    かさま岩佐が真跡と見ゆとぞ、此画人は慶長元和を盛にへたる人なれば唐輪の髪のさま証とすべし、    此画人を俗に浮世又平と云つたふ〟  ☆ 文久二年(1862)  ◯『本朝古今新増書画便覧』「カ之部」〔人名録〕④325(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補)   〝岩佐又兵衛【世俗浮世又兵衛ト云テ、雑劇ニ謂フ所ノ吃ノ又平是也、説ニ摂州伊丹ノ城主、荒木村重ノ    遺腹ナリ、而ルニ岩佐氏ニ養ハレ、越前ノ国ニヲイテ成長シ、京師ニ出ヅ、画ヲ土佐光則ニ学フ、後越    前侯ニ仕フ】〟    ☆ 刊年未詳  ◯「本朝近世画工鑑」(番付 刊年未詳)〔番付集成 上〕    (最上段 西)    〝大関 元禄 土佐光起  関脇 天和 久隅守景  小結 天和 岩佐又兵衛〟  ◯「【中興/近代】流行名人鏡」(番付 一夢庵小蝶筆 板元未詳 刊年未詳)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (行事・勧進元)   〝谷文晁 岩佐又兵衛 古法眼元信〟  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)  ◯『新増補浮世絵類考』⑪193(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝岩佐又兵衛 土佐の又兵衛、浮世又兵衛とも云。姓藤原、荒木氏、名勝重、越前の産也。〔割註 一説 摂津に作る。拠あれど姑く越前に従ふ〕父は荒木摂津守村重と云。織田信長に仕て軍功有り。公賞して 摂津を与ふ。後、公命に背自殺す。又兵衛時に二歳、乳母懐て本願寺の子院に隠れ、母家の氏を仮て岩 佐と称す。成人の後、織田信雄に仕ふ。画を好て一家をなす。能当時の風俗を写すを以て、世人呼で浮 世又兵衛と云。世に又平と云は誤なり。画所預り、家に又兵衛伝あり。藤貞幹好古日録に見ゆ。按るに、 是世にいはゆる浮世絵の始なるべし。又大津画も此人の書出せるなりといふ。〔割註 杏花園蔵 以上 浮世絵類考〕追考曰、按るに、一蝶の四季の画の跋に、越前の産と記したる見れば、越前において成人 せしと覚ゆ。名字は知る人もなかりしにや、たしかにしるしたるものを見ず。又兵衛が父荒木摂津守、 名は村重、家士に重郷(姓氏不知)と云者あり。俗称久蔵、後に内膳と改む。一翁と号す。狩野松栄、 〔割註 松栄、直信、元信の長子、兄祐雪宗信の養子〕門人にて画をよくす。一説に、又兵衛、はじめ 此人を師として画を学ぶ。後に土佐光信〔割註 秋錦云、光信は土佐光広の男、大永五年五月廿日卒す。 九十二歳〕の画風に俲て一家を成せり。〔割註 以上、浮世絵類考追考〕世に岩佐又兵衛は姓氏実名未 詳といへり。見聞せし所、絵は土佐派の名手也。花鳥人物共に彩色筆意の絶妙奇といふべし。就中浮世 人物に妙あり。〔割註 土佐流にては、市中のさま或は花見なんど画たるを、すべて浮世人物の絵巻と 云。又兵衛のみにかぎらず、土佐流にて浮世人物をさして、雛人形雛人物、或は武者人形大和人形抔と 唱へり〕土佐守門弟なりと云。故有て姑く勘気を蒙り、流浪して画を以て渡世とす。〔割註 今云町絵 師の如くなるべし〕従来名を好ず。業にほこらず。何くれとなく人の求に応じて画くといへども、妙手 なれば自ら世に増用られしなり。土佐流破門の弟子なればとて、今に至る迄、又兵衛の画に土佐家より 鑑定せず。極メを不出、添手紙のみ也。禁裏絵預りは土佐家なり。将軍家にて狩野氏の族を用玉ふが如 し。故ありて様子しるしがたし。前後名流の遺跡甚多かるべし。昨日爰に御願ひならましを記すのみ。 是を折紙とす。又兵衛の画に名印ある物は究て少し。遊女の画などには墨肉にて字体分明ならぬ印有も、 多く世を送るたづきとせしのみなる生質、是にてたしか也。当世の虚名を貪り、己が未熟にて及びがた きには、代筆にても名を顕し、ただ花押の立派を第一として、我物顔にほこる輩に反する事、おのづか ら名人の所為備れる所の妙と云べし。〔割註 月岑子編には、大津絵の考あれども、奇跡考と同じけれ ば略す〕〟    ☆ 明治十一年(1878) ◯『百戯述略』〔新燕石〕④226(斎藤月岑著・明治十一年成立)  〝浮世絵、荒木摂津守村重が落胤にて、岩佐又兵衛と申もの、【俗に浮世又兵衛と作り候は、浄るり節 「傾城反魂香」に浮世又平と作り設けしより、誤り申候】時世の人物を画き出し候が始にて、慶長の頃    被行候哉に有之候〟  ☆ 明治十三年(1880)  ◯『観古美術会出品目録』第1-9号(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (観古美術会(第一回) 4月1日~5月30日 上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十三年三月序)   〝浮世又平 彩色人物之画 六枚(出品者)井伊直憲         手鑑     一筥(出品者)伊達宗城〟    〈下掲『観古美術会聚英』は伝岩佐又兵衛とする〉   ◇第二号(明治十三年四月序)   〝岩佐又兵衛 小屏風 一隻(出品者)高木正年〟   ◇第六号(明治十三年四月序)   〝岩佐又兵衛 屏風 四条河原遊劇ノ図 一隻(出品者)関根七兵衛〟   ◇第八号(明治十三年五月序)   〝又兵衛  鬼之図  一幅(出品者)河鍋暁斎〟〈この又兵衛が岩佐かどうか未詳〉   〝又平   画巻   一幅(出品者)河鍋暁斎〟〈岩佐又兵衛か〉   ◇第九号(明治十三年五月序)   〝岩佐又平 遊女之図 二幅(出品者)伊達宗城〟〈この又兵衛が岩佐かどうか未詳〉  ◯『観古美術会聚英』(博物局 明治13年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝浮世人物図屏風絵 伝云、岩佐又兵衛筆 井伊直憲     六枚紙本金地著色 画工落款無シ     評ニ曰ク、筆力遒健、著色鮮明、布置亦巧ミナリ。本会中ニ於テ又兵衛ノ画クト称スルモノニ就テ、     之を論スレバ是ノ画逸品ト称シテ可ナリ〟     〈『観古美術会出品目録』第1号「彩色人物之画 浮世又平筆 六枚(出品者)井伊直憲」〉  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『第二回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (第二回 観古美術会 5月1日~6月30日 浅草海禅寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十四年五月序)   〝岩佐又兵衛 美人画 一幅(出品者)三谷斧三郎          屏風  半双(出品者)松平直致〟   ◇第三号(明治十四年五月序)   〝岩佐又兵衛 屏風  二枚(出品者)安本亀八  ◯『新撰書画一覧』(伴源平編 赤志忠雅堂 明治十四年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝浮世又兵衛 岩佐氏、名勝重、摂北伊丹ノ人、荒木村重ノ男、幼キヨリ画ヲ好ミ、土佐光則ニ学ビ、終          ヒニ一家ヲ成ス、織田信夫ニ仕フ〟     〈岩佐又兵衛と浮世又兵衛とが同一人物視されている〉  ◯『明治十四年八月 博物館列品目録 芸術部』(内務省博物局 明治十五年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品(18コマ/71)    岩佐又兵衛画 福禄寿図 一幅〟  ☆ 明治十五年(1882)    ◯『第三回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治15年4月序)   (第三回 観古美術会 4月1日~5月31日 浅草本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十五年四月)   〝岩佐又兵衛 福禄寿図 一幅(田沢静雲献品)〟   ◇第二号(明治十五年四月序)   〝又平 遊女画斑竹屏風 一双(出品者)林麒一郎〟〈岩佐又兵衛か〉   ◇第三号(明治十五年四月序)   〝又平 観花図     一巻(出品者)河鍋暁斎〟〈岩佐又兵衛か〉   ◇第四号(明治十五年四月序)    岩佐又兵衛 源平一谷合戦図屏風 一双(出品者)静岡県小松啓助  ◯「内国絵画共進会(第一回)」(10月1日~11月20日 上野公園)   1『内国絵画共進会 古画出品目録』農商務省版・明治十五年(1882)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝岩佐又兵衛筆      遊女     一幅(出品者)伊達宗城出品     浮世人物屏風 六枚(出品者)井伊直政      観古美術会聚英云、紙本金地著色 画工落款無シ、評ニ曰ク、筆力遒健、著色鮮明、布置亦巧ミナ      リ。本会中ニ於テ又兵衛ノ画クト称スルモノニ就テ之ヲ論ズレバ、是ノ画逸品ト称シテ可ナリ    岩佐又平筆      小栗絵巻 十五巻(出品者)池田章政     節季候   一幅(出品者)近衛篤麿     観花図   一巻(出品者)河鍋暁斎   2『内国絵画共進会会場独案内』村上奉一編 明治十七年四月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝岩佐又兵衛 浮世画ノ祖ニシテ元和年ノ人。土佐光則ノ門人ナリ〟  ☆ 明治十六年(1883)  ◯『第四回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治16年刊)   (第四回 観古美術会 11月1日~11月30日 日比谷大神宮内)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十六年十一月序)   〝岩佐又兵衛 遊女図 双幅(出品者)岩下方平   ◇第二号(明治十六年十一月序)   〝岩佐又平  遊女  二幅(出品者)伊達宗城〟  ◯『明治画家略伝』(渡辺祥霞編 美術新報鴻盟社 明治十六年十一月版権免許)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝祖宗略象 第四区 菱川・宮川派之類    岩佐又兵衛     一ニ湯浅又平ニ作ル、越前ノ人、荒木摂津守村重遺腹ノ子ナリ、故有テ母家ノ氏ヲ仮テ、     岩佐ト称ス、土佐光則ノ門人ニシテ大津絵ノ先祖ナリ、世二所謂浮世絵ノ始メトナルベシ  ☆ 明治十七年(1884)  ◯「第二回 内国絵画共進会」〔4月11日~5月30日 上野公園〕   1『第二回絵画共進会古画出品目録』(農商務省版・明治17年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝岩佐又兵衛 山王祭 一巻(出品者)北垣泰          狂言  一帖(出品者)田中正右衛門 函館県〟   〝又平    人物  二幅(出品者)徳川家達〟〈岩佐又兵衛か〉   2『(第二回)内国絵画共進会会場独案内』(村上奉一編 明治十七年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝岩佐又兵衛 浮世画ノ祖ニシテ元和年ノ人。土佐光則ノ門人ナリ〟    ◯『第五回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治17年刊)   (第五回 観古美術会〔11月1日~11月21日 日比谷門内神宮教院〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十七年十一月序)   〝岩佐又兵衛 人物屏風 一双(出品者)松浦詮〟  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝又兵衛    岩佐氏、名ハ勝重、世ニ浮世又兵衛ト称ス、浮世絵ト唱フルノ始ナリ。父ハ荒木摂津守村重、天正七年    織田右府信長ノ命ニ背キテ自殺ス。時ニ又兵衛二歳、乳母ニ誘引セラレテ本願寺ノ支院ニ隠レ、越前ノ    岩佐氏ニ育ハル◎◎テ其ノ氏ヲ冒ス。慶長年中京師ニ出テ遊ビ、土佐光則ノ門ニ入リテ大和絵ヲ学ビ、    研究シテ後チ一家ノ風ヲナス。其ノ画ク所当時風俗ノ人物美人、或ハ遊女白拍子等遊興ノ戯画ヲ作ルニ    巧ナリ。其筆意緻密ニシテ最モ濃ヤカナリ。彩色ヲ厚クシ金泥ヲ用ヒテ艶色美麗ナルコト、人ノ称誉ス    ル所ナリ。或ル書ニ曰ク「浮世又兵衛ト云フハ名アリテ実ハ其ノ人ナシトアルハ誤リナラン。又兵衛ノ    奇画世ニ多クアルヲ見レバ、其人ト証シテ可ナリ。又諸書ニ織田信雄ニ仕フト云フモ誤リ、土佐光茂ノ    門ト云フモ亦誤リナラン。一時土佐ノ門ニハ入ルトイヘドモ、只遊戯ノ雑画を能クシテ、世俗ニ用ヒラ    レ、京師ニ遊ンデ終ニ業トナルノミナリ。寛永年中ニ没スト云フノ説ニ依レリ。明治十六年迄凡二百五    十二年       現今遺蹟著名之品     一 男女少年風俗之図  屏風  一 春秋遊園之図  屏風巻物等     一 春宵秘戯之図    巻物〟  ☆ 明治十九年(1886)  ◯『第七回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治19年刊)   (第七回 観古美術会 5月1日~5月31日 築地本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第三号(明治十九年五月序)   〝岩佐又兵衛 士女遊戯図 六枚(出品者)井伊直憲          俗ニ彦根屏風ト云フ〟   〝又兵衛   酔游図   一幅(出品者)若井兼三郎〟〈岩佐又兵衛か〉   〝又平    人物画 二曲屏(ママ) 一隻(出品者)鳩居堂〟〈岩佐又兵衛か〉  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループを代表する絵師   〝雅俗遊戯錯雑序位混淆     (岩佐又兵衛)小川破笠 友禅山人 浮世又平 雛屋立甫 俵屋宗理 耳鳥斎 英一蝶 鳥山名(ママ)燕     縫箔師珉江〟  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月10日~5月31日 上野公園列品館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古製品 第一~四号」   〝岩佐又兵衛      恵比須大黒 一幅(出品者)山中吉郎兵衛     人物屏風  一双(出品者)井伊直◎〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(吉川重俊編集・出版 明治二十二年二月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループの左右筆頭   〝雅俗遊戯    (近松門左衛門)曲亭馬琴 浮世又平 式亭三馬 十返舎一九 太(ママ)田蜀山人      英一蝶斎   耳鳥斎  宿屋飯盛 市川白猿 浅草菴 暁鐘成(岩佐又兵衛)〟  ◯『明治廿二年美術展覧会出品目録』1-6号 追加(松井忠兵衛編 明治22年4・5月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月1日~5月15日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝岩佐又兵衛      又兵衛筆人物       一帖(出品者)小川保之助     又兵衛筆屏風       一双(出品者)渋沢栄一      職人合ノ図 伝云又兵衛筆 二幅(出品者)米倉一平〟  ◯『明治廿二年臨時美術展覧会出品目録』1-2号(松井忠兵衛・志村政則編 明治22年11月刊)   (日本美術協会美術展覧会 11月3日~ 日本美術協会)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝岩佐又兵衛     美人図額面  六枚(出品者)山東直砥     婦人舞図額面 六枚(出品者)古筆了仲〟  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝大和画祖 寛永 岩佐又兵衛    名は勝重、荒木摂津守村重の遺服(ママ)也。幼より画を好み、土佐光茂の門に入て学を修し、後独立して    倭画の一派に開く、是を大和画師の始祖とす。一説光則の弟子とあるは誤りならん〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)
   浮世絵師 歴代大家番付〝浮世派諸大家 慶長 岩佐又兵衛〟  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『古今博識一覧』番付 大坂(樋口正三朗編集・出版 明治二十四年六月)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝日本画人名一覧系譜及略小伝     寛永 京都 岩佐又兵衛 (小伝不鮮明)     享保 大津 又平    (小伝不鮮明)     元禄 東京 菱川師宣  (小伝不鮮明)     享保 東京 宮川長春  (小伝不鮮明)〟  ◯『近世画史』巻二(細川潤次郎著・出版 明治二十四年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (原文は返り点のみの漢文。書き下し文は本HPのもの。(文字)は本HPの読みや意味)   〝岩佐勝重 一に光輔と曰ふ。又兵衛と称す。世人称して浮世又兵衛と為す。其れ多く風俗図を作りしこ    と、而して俗に風俗図を称して浮世絵と為すを以てなり。相伝ふるに、勝重、荒木摂津守村重の子なり。    村重死する時、勝重甫(はじ)めて二歳、乳母之を携へて本願寺の支院に匿(かく)る。以て免を得て、後    ち越前の人岩佐某と為り、養を収むる所の岩佐氏を冒す。慶長中、京師に游びて画を土佐光則に学び、    専ら風俗図を作す。用筆精緻、金碧粲爛たり。然るに或るは、其の画に落款見えざるを以て、乃ち実に    其の人無しと謂ふ。恐らくは未だ必ずしも然らず。蓋し寛永年間の人なり〟  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p7(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝岩佐又兵衛    名ハ勝重、世ニ浮世又兵衛ト称ス、故ニ此ノ人ノ画風ヲ称シテ浮世絵ト云フ、天正七年父荒木摂津守村    重、織田信長ノ命ニ背キテ自殺ス、時ニ又兵衛二歳、乳母ニ誘ナハレテ本願寺ノ支院ニ隠レ、越前ノ岩    佐氏ニ育ハルヽ、因テ其ノ氏ヲ冒ス、慶長年中京師ニ出テ、土佐光則ノ門ニ入リテ大和絵ヲ学ビ、研究    シテ後チ一家ノ風ヲ為シ、越前侯ニ仕フ、其画ク処、当時風俗ノ人物、美人或ハ遊女白拍子等遊興ノ戯    画ヲ作ルニ巧ミナリ、其筆意緻密ニシテ最モ濃カナリ、彩色ヲ厚クシ金泥ヲ用フ、人其艶色美麗ヲ称ス、    或ハ云フ、浮世又兵衛トハ其名アリテ、実ハ其人ナシト、然レドモ又兵衛ノ希画多ク世ニアルヲ見レバ、    其人ノ存スルヲ証トスベシ、織田信雄ニ仕フト云フ、土佐光茂ノ門ニ入ルト云フ説アレドモ、又兵衛、    寛永年中ニ歿スルヲ以テ観レバ、皆誤リナランカ、現今遺蹟署名ノ品ハ男女少年風俗之図(屏風)春秋    遊園ノ図(屏風巻物等)春宵秘戯ノ図等ナリ〟  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『明治廿六年秋季美術展覧会出品目録』上下(志村政則編 明治26年10月刊)   (日本美術協会美術展覧会 10月1日~10月31日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝岩佐又兵衛 美人図 一幅(出品者)小林文七〟  ◯『古代浮世絵買入必携』p1(酒井松之助編・明治二十六年刊)   〝岩佐又兵衛    本名 勝重    号〔空欄〕   師匠の名〔空欄〕   年代 凡三百年前ヨリ三百五十年迄    女絵髪の結ひ方 第一図(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 肉筆    備考   肉筆に落款のあるもの少し、土佐絵にて第一図の如きものあれば、不馴の人は間違易し。又         絵本或は錦絵の内に又兵衛の図を模写したるものあれども買入れざるを良しとす〟  ◯『浮世絵師便覧』p224(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝又兵衛(マタベヱ)    岩佐氏、浮世絵の祖、荒木村重の一子、勝重、諸説紛々詳ならず〟  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『明治節用大全』(博文館編輯局 明治二十七年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※(かな)は原文の読み仮名   「近世三十六家伝」(627/644コマより)   〝岩佐又兵衛    名は勝重、世に浮世又兵衛と称す。浮世絵の元祖なり。天正七年、父摂州伊丹の城主摂津守荒木村重、    織田信長の命に背きて自殺す。時に又兵衛二歳、乳母に誘はれて本願寺の支院に隠れ、越前の岩佐氏に    養はる。因て其の氏を冒(おか)す。慶長年中、京師に出て土佐光則の門に入りて、大和絵を学び研究し    後一家の風を為し、越前侯に仕ふ。其の画く所、当時風俗の人物・美人或は遊女・白拍子等、遊興の戯    画を作るに巧みなり。其の筆意緻密にして最も濃(こま)かなり。彩色を厚くし金泥を用ふ。人、其の艶    色美麗を称す。又兵衛は寛永年中を以て卒す〟  ☆ 明治二十八年(1895)  ◯『時代品展覧会出品目録』第一~六 京都版(大沢敬之編 村上勘兵衛 明治二十八年六~九月)   (時代品展覧会 3月25日~7月17日 御苑内博覧会館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝「第一」【徳川時代】浮世絵画派(49/310コマ)    一 元禄時代男女風俗小屏風 半双 伝岩佐又兵衛筆 菰蓬菴蔵 京都府愛宕郡大徳寺寺中   〝「第三」徳川時代浮世絵(114/310コマ)    一 乗馬ノ図 六曲金屏風 片双 伝岩佐又兵衛筆 醍醐寺蔵 京都府宇治郡     一双ノ内ノ片双ナリ。寺伝ニ又兵衛筆ト称セリ。人物ノ風姿 数馬奔逸ノ状 又兵衛時代ノ風俗ヲ見     ルベク、筆力精緻ニシテ俗ナラズ。土佐ノ^筆意アリテ尤モ佳作ナリ。又兵衛 名ハ勝重 慶長年中     土佐光則ノ門ニ入リ、終ニ一家ノ風ヲナシ、世ニ浮世又兵衛ト称セリ。寛永年中物故ス。年代凡二百     年余〟   〝「第五」徳川時代浮世絵画派之部(244/310コマ)    一 乗馬図 六曲金屏風 半双 伝岩佐又兵衛筆 醍醐寺蔵 京都府宇治郡〟  ◯『明治廿八年秋季美術展覧会出品目録』下(梯重行・長嶋景福編 明治28年11月刊)   (日本美術協会美術展覧会 10月1日~11月5日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝岩佐又兵衛 美人図 双幅(出品者)徳川篤敬  ◯『新古美術展覧会出品目録』(藤井孫兵衛編 合資商法会社 明治28年10月刊)   (京郵美術協会 新古美術品展覧会 10月15日~11月25日 元勧業博覧会場内美術館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古物品之部」    岩佐又兵衛 盆踊図 一幅(出品者)下京区 外村定次郎君蔵〟  ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『名家画譜』上中下 金港堂(12月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝上巻 目録 故岩佐又兵衛「妓女」〟  ☆ 明治三十年(1897)  ◯『読売新聞』明治30年(1897)1月26日記事)   〝浮世絵歴史展覧会の日延と外人の評    上野に開会中なる浮世絵歴史展覧会は今廿六日を以て閉会の予定なりしが 意外の好評にして絵画彫刻    職工の最も模範となるべ(ママ)のものなれば 此等の者をして充分縦覧せしむる目的を以て 来(きたる)    二月十日迄延期開会する事に決せり 又頃日同会を参観せし欧米美術家が 陳列絵画錦絵等に就て 夫    々批評せるを聞くに其大意は左の如し    <仏人ヂユンー氏>     岩佐又兵衛の画は世に稀なるを以て暫く措いて評せず 菱川師宣の筆は柔にして験簡 其人物は態容     優饒 能く心意の寛裕を現はし 人をして当時盛満の風を慕はしむ〟    〈小林文七主催の展覧会。会期1月18日-2月10日〉  ◯『読売新聞』明治30年2月15日記事)   〝浮世絵師追考(三)如来    岩佐又兵衛    (又兵衛の事蹟をめぐって、近松門左衛門の浄瑠璃『傾城反魂香』の吃の叉平や大津又平などを、岩佐     又兵衛とする諸説を紹介する。その上で、記者如来は「未だ其の確乎なるものあらず」とこれらを疑     問視する)    偶(たまた)ま米僊画伯(注1)を其居に訪ふ、談又兵衛の事に及ぶや、画伯は曾(かつ)て北越漫遊中 越    前松平家旧臣某の所蔵に係る岩佐又兵衛の伝及び其自画の肖像といふを 謄写し置かれしものを出し示    され、且つ曰く、此の伝と雖も未だ確認すべからざるものと雖も、然れども其家紋の丸に二ッ引(注2)    なるは 大いに注意すべき処なるべし云々、今之を左に録して、敢へて世間博雅の君子に問ふ。      岩佐又兵衛勝以(初代)    岩佐又兵衛は、荒木摂津守村重の末子なり、村重、織田信長に仕へて軍功あり、摂津太守と為(な)り伊    丹城に居る、後、信長の命に叛きしかば、信長父子攻城数年、村重敗れて去り、尼崎に奔(はし)つて自    殺す、此時又兵衛僅かに二歳(天正七年)乳母之を懐いて、京師本願寺中に潜居し、姓を岩佐と改む、    蓋し外戚の姓に由る也、長ずるに及んで信雄に仕ふ、性頗る丹青に耽(ふけ)り、余力あれば則ち学んで    筆を釈(お)かず、遂に妙手と為る、新たに前人未だ図せざる体を摸写し、好んて世態風流の状を画き、    別に一家を為す、世に之を称して浮世又兵衛といふ、信雄亡びし後、漂泊して越前福井に寓居せしが、    その名弥(いよい)よ籍甚、家光公の台聴に達し、召されて武城に到る(当時の木原木工允の書翰今に伝    はる)適(たまた)ま千代姫君の尾州光友公(家康孫)へ釐降(りこう)するの時に際し、又兵衛をして其    装具を画かしむ、発するに向つて福井の忠昌公(秀康二男、実に越前松平家の三世也)深く之を惜み、    家を挈(たづさ)へて去るを許さず、独り武城に淹留する年あり、又兵衛老て茲(ここ)に病みしが、自ら    其像を図し遠く寄せて 之を故郷の妻子に与ふ、慶安三庚寅の年六月廿三日 遂に武城に卒す 云々      岩佐源兵衛勝重(二代)    勝重は又兵衛の嫡子也、父の業を継いで家声を堕さず、光通公(忠昌公嫡子、越前松平家四世也)月俸    を賜ふ、寛文中福井城鶴之間及び杉戸を画く、延宝元年癸丑二月二十日卒す〟    (注1)久保田米僊 (注2)丸に二ッ引は岩佐氏の家紋  ☆ 明治三十一年(1898)    ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(16/103コマ)   〝岩佐又兵衛【慶長元~十九年 1596-1614】    (以下『讀賣新聞月曜附録』に拠るとして、上掲『読売新聞』明治30年2月15日記事をほぼそのまま引く)〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)18/218コマ   〝岩佐又兵衛     名は勝重といふ 世に浮世又兵衛と称す 浮世絵の始祖あんり 父荒木摂津守村重自殺するの時 又兵    衛僅かに二歳 乳母に誘(いざな)はれて 越前の岩佐氏に養はる 慶長中土佐光則の門に入りて 大和    絵を学び 遂に一家を風(よう)を為す 其の画く所 皆人物美人遊女白拍子等 遊興の戯画にして 筆    意緻密彩色を厚くし 金泥を用ふ 人其の艶麗を称す 此人後越前侯に仕ふ 遺蹟著名の品は男女少年    風俗の図 春秋遊園の図 春宵秘戯の図等とす 寛永年中没す(扶桑画人伝・皇国名家拾葉・画乗要略    鑑定便覧 名家全書)〟  ◯『浮世画人伝』p1(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   ※(カナ)は原文の読み仮名。(*カナ)は本HPのもの   〝岩佐又兵衛(いはさまたべゑ)    岩佐又兵衛は、名を勝重と称して、摂津守荒木村重の子なり。村重曾(かつ)て、織田信長に仕へて軍功    あり。仍(*よ)りて、摂津守に任ぜられ、此の地に又兵衛を生みてけり。其の後、命(めい)に逆ふ事あ    りて、自から剣に伏して死せり。是れ天正七年なりと云ふ。当時又兵衛、年わずかに二歳、乳母の懐に    抱かれて越前国に遁れ、長ずるに及び、其国の岩佐某に養はれて、其氏を継げりとも、又母の姓を冒し    て、然(しか)称(とな)へつとも云伝ふ。寛永の始なりけむ。京都に出でゝ、土佐光則に従ひ、絵事を学    び、後に其の風(ふう)を一変して、当時の風俗、新様の姿勢を写し、専ら美人の容姿を画き、遂に其妙    域に入りて、一家をなすに至れり。かゝれば、人渾名(あだな)して、浮世又兵衛と呼べりとぞ。一説に、    又兵衛は荒木の家臣、久蔵重郷とて、後に内膳、画号を一翁と称せる人に学びたるにて、一翁は、狩野    松栄の門生なれば、又兵衛の画は、狩野の流を汲めるにやとあれど、又兵衛の画風は土佐の筆こそあれ。    狩野のすがたならず。そも/\又兵衛は、寛永より正保の間を、年の壮りに経たる人なめれど、その閲    歴詳(つまびらか)ならず、其の画ける所も、今を距(さ)ること遠くして、たま/\その真跡を、伝ふる    も有りといへど、落款名印あるはまれなり。是れ己が画風、古来の規矩に随はず、つとめて時粧をうつ    し、新様を創せるを以て、心に憚りて然るにやとぞ。     附記 浮世又兵衛は、大津絵の元祖なりと、享保三年の刊本、東華坊『本朝文鑑』に見えたれども、     確証なし。但し大津わたりにて仏画を鬻(*ひさ)ぎける由は元禄四年、芭蕉翁が粟津の無名庵にて       大津絵の筆の始は何仏(なにぶつ)     とよめる句にて、誰も知る所なれど、尚是れよりさき、天和二年版行の井原西鶴が『一代男』にも、     大津絵の追分にて、種々の戯画を売れる事見え、近世山崎北峯翁が蔵せし、大津の古画、奴の鎗を持     てる図には、「八十八才又平久吉」とかきて、花押ありきと云へば、その伝記は詳ならねど、大津に     又平といふ、別の絵工(えかき)ありきと思はる。然るを、近松巣林子が作の院本『傾城反魂香』に、     土佐の末弟浮世又平重興といふもの、生れつき口吃(くちども)りなるが、大津に住みて、自ら画ける     戯画を售(う)り、世を渡りけるよしをかけり。おもふに、彼れ是れ同名にして、名高き画工なりしか     らに、一時附会して伝奇に、作りけるならし。是れよります/\、彼れ是れを打混じて同人とする説     も出来しならむ歟(*か)〟  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※半角(かな)は本HPの補記   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派    岩佐又兵衛(166/225コマ)     名は勝以、荒木摂津守村重の末子なり。村重信長に仕へて屡々軍功あり、摂津の太守と為り、伊丹城に    居る。後ち信長の命に畔(そむ)く。信長父子城を攻むること数年、村重委(ママ)して之れを去り(注)、尼    崎に奔(はし)りて自殺すと云ふ。此の時又兵衛年纔(わずか)二歳、乳母之を懐きて京都の本願寺に潜居    し、外戚に因りて姓を岩佐と改む。性丹青に耽り、研究多年、遂に妙手と為り、土佐狩野宋元彩色画の    特長を湊合して、世態風俗を写し、別に一家を成す。世之れを称して浮世又兵衛と云ふ。信雄亡ぶるの    後ち漂泊して越前福井に寓す。此の時に有りて名声籍甚、又兵衛を知らざるもの無きに至る。三代将軍    家光其の能工なるを聞き、召して武城に到らしむ。慶安三年六月二十二日武城に卒すといへり。彼の武    蔵国入間郡仙波村喜多院中、東照宮の拝殿に掲ぐる所の三十六歌仙の扁額は、実に疑ふべくもあらざる    又兵衛の真筆にして、裏面には朱漆をもて、寛永拾七庚辰年六月十七日、絵師土佐光信末流岩佐又兵衛    尉勝以図すとあり〟    〈川越喜多院所蔵、「岩佐又兵衛」署名入りの扁額三十六歌仙記事。(注)「委去=委(す)てて去る」〉  ☆ 昭和以降(1926~)  ◯『狂歌人名辞書』p46(狩野快庵編・昭和三年(1928)刊)   〝岩佐勝以、通称又兵衛、浮世絵派の元祖、荒木摂津守村重の末子、京都本願寺に成長し、弱冠にして織    田信長に仕ふ。性丹青を好み、終に風俗画の泰斗となる、信長亡びて後、越前福井俟に仕へ、後ち徳川    家光に徴されて江戸城に到り、適々千代姫の尾州俟に入輿するに際し婚儀の調度を描く、慶安四年六月    廿二日歿す、年七十四〟  ◯『浮世絵師伝』(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   ◇「岩佐勝以」の項 p26    〝勝以    【生】天正六年(1578)   【歿】慶安四年(1651)六月廿二日-七十四    【画系】土佐光則門人    【作画期】元和~慶安    藤原姓、岩佐氏、俗称又兵衛、又は荒木摂津守村重といひ、夙に織田信長に仕へて寵を受く、功により    て摂州伊丹の城主と成りしが、天正七年十一月、信長に背くことありて其の城を攻略せられ、隠遁して    中国辺を流浪したりといひ、或は城中に於て自殺したりきとも伝へらる、其の時勝以年僅かに二歳、乳    母と共に逃れて京都西本願寺の末寺に寄寓し、世を憚りて岩佐氏を称す、これ母方の氏なりといひ、又    乳母の氏なりとの説あり。    勝以成長の後、織田信雄に仕へしが、幾ばくもなくして之れを辞し、越前福井に流寓して、こゝに初め    て作画に従事することゝなれり、惟ふに元和、寛永年間の事なるべく、当時彼の画技に堪能なること遠    近に宣伝されしが、偶ま將軍家の召に応じて江戸に赴き、種々用命を蒙る所あり、爾来久しく江戸に滞    留して、益々作画に努力する所ありしに、不図老病を発して再び起つ能はざることを悟り、記念に自書    像を作りて妻子の許に迭りし後、遂に其の儘江戸の地に長逝せり。これより曩に、福井藩主は彼が技能    を愛するの余り、其が妻子を郷里に留めさせて、以て再び彼の帰郷せむことを切望したりしと云ふ。彼    の画系は京都の土佐光則の門に入りて、大和絵を学び當時の風俗、新樣の姿勢を写し、遂に一家を成す    に至れり。また父摂津守の家士たりし、重郷、俗称久藏、後に内膳、画号を一翁と称する狩野松栄に就    て学びしと云ふ説もあり。    武州川越の喜多院内東照宮に現存さる三十六歌仙の絵額中一図の裏面に「寛永十七年六月十七日、絵師    土佐光信末流、岩佐又兵衛尉勝以図」と朱書きしあるに由りて、土佐派の画風を習ひしこと明かなり、    彼は浮世絵の初期時代に直面し、巧に時俗を描写したるのみならず、徳川初期に江戸へ招かれて作画し    たる爲め、彼を所謂浮世絵の始祖と喧伝せられたのであらう。而して彼の作品として世に伝へられるも    のゝ内、浮世絵人物には殆ど無落款にて、僅か美濃紙位の横判(中にはスアマ形に裁切りたるものあり)    にて時代の風俗を描きしもの、諸所に分散したるものを合計しても八枚位、其画面には勝以の印章のみ    捺印しあり、其地上代の人物及び唐人物などの図には「勝以」「碧勝宮図」等の印を用ゐたり、これ蓋    し、彼が壮年時代には、種々の事情によりて落款印章等を現さず、壮年以後晩年に亘りて、多く前記の    如き画印を用ゐしものと思はる、従つて、浮世人物の図などの無落款の傑作品は、概して壮年時代の筆    に成りしものと推定するを得べし。    (武岡豊太氏藏の自画像あり)〟   ◇「又兵衛」の項 p191   〝又兵衛 岩佐勝以の俗称〟  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「慶長元年 丙辰」(1596)p1   〝此年岩佐勝以(俗称又兵衛)十九歳。    岩佐又兵衛は、浮世絵画家の鼻祖と称せらるゝ人なれば、爰に少しく略伝を載すべし。即ち又兵衛は織    田信長の臣、摂津伊丹の城主荒木摂津守村重の末子にして、父村重、信長の意に背き、自殺に当り、又    兵衛の時二歳の幼児なりしが、乳母に助けられて生長、外戚の岩佐姓を名乗り、後織田信雄に仕へたり    しが、幼より絵画を好み、遂に永く斯道に名を垂るるに至れるなり〟   ◇「寛永十七年 庚辰」(1640)p17   〝六月十七日、武州川越喜多院の額に、岩佐又兵衛勝以三十六歌仙を画く〟   ◇「正保二年 乙酉」(1645)p19   〝此年岩佐又兵衛歿し、行年六十八歳なりといふ説あり〟   ◇「慶安三年 庚寅」(1650)p21   〝六月二十二日、岩佐又兵衛勝以歿す。行年七十三歳。(又兵衛勝以、又の名は村直、荒木摂津守村重の    子。新五郎村次の男なりといふ説あり。猶慶長元年の條参照すべし。)〟  ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    作品数:2点    画号他:岩佐又兵衛・岩佐勝以    分 類:絵巻1・絵画1    成立年:記載なし    〈二点は『浮世絵手鑑』(折本)と『山中常磐』(絵巻)〉