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☆ まさのぶ きたお 北尾 政演 (山東京伝)浮世絵師名一覧
〔宝暦11年(1761)8月15日 ~ 文化13年(1816)9月7日・56歳〕
 戯作名 山東京伝 画号 北尾葎斎政演(水野稔著『山東京伝年譜稿』(p11)は「葏斎(せいさい)」とする)  狂歌名 身軽折介(みがるのおりすけ) 別称 京伝門人兎角亭(とかくてい)亀毛(きもう)  姓  岩瀬氏(一説 拝田氏) 名 醒(さむる) 字 初め伯慶 後ち酉星  初名 田臧(のぶよし) 通称 伝蔵  ※〔漆山年表〕  :『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館   〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」   〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』    〔狂歌書目〕  :『狂歌書目集成』   『黄表紙總覧』前編 棚橋正博著・日本書誌学大系48   『稗史提要』「青本之部」比志島文軒(漣水散人)編   『洒落本大成』1-29巻・補巻 中央公論社  ☆ 安永四年(1775)  ◯『山東京伝年譜稿』p11(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝この頃北尾重政に入門して浮世絵を学ぶ。画名、北尾葏斎(せいさい)政演。同門に北尾政美あり〟  ☆ 安永七年(1778)    ◯『黄表紙總覧』前編(安永七年刊)    北尾政演画    『開帳利益札遊合』「北尾政演画」「者張堂少通辺人」板元不明〈備考、画工北尾政演の初筆とする〉    〔新はん〕    「北尾政演画」         板元不明     〈『黄表紙總覧』後編「刊年未詳・補遺」備考、咄本の由。本文中の記事、善光寺開帳より安永七年刊とする〉    ◯『山東京伝年譜稿』p12(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝十一月中村座顔見世狂言『瞻雪栄鉢木』中の富本浄瑠璃『色時雨紅葉玉籬』(作者桜田治助)の正本表紙    に役者絵を画く(蔦屋重三郎板)〟  ☆ 安永八年(1779)
 ◯『稗史提要』p355   ◇黄表紙(安永八年刊)    作者の部 喜三二 桂子 通笑 文渓堂(鼎哦) 呉増左    画工の部 清経 清長 春町 重政 北尾政演    時評〝画工政演今年より出る。後に作者京伝といふ是也〟    ◯『黄表紙總覧』前編(安永八年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『大強化羅敷』  「北尾政演図」「青楼白馬戯作」板元不明(◯に「寅」)    『御利生記』   「北尾政演図」「青楼白馬戯作」板元不明(◯に「寅」)    『日本国三曲之鼎』「北尾政演画」        鶴屋板    『名取菊黄白長者』〔政演画〕か         鶴屋板    『帰咲後日花』  「北尾政演画」        松村板    ◯『黄表紙刊行年表』〔国書DB〕(安永八年刊)    北尾政演画『いきちよんちよん』政演画 版元不記載    ◯「江戸絵本番付データベース」(早稲田大学 演劇博物館 デジタル・アーカイブ・コレクション)   ◇絵本番付(安永八年刊)    北尾政演画 十一月 市村座「吾嬬森栄楠」「北尾政演画」版元不明  ◯『山東京伝年譜稿』p13(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝十一月市村座狂言『吾嬬森栄楠』中の富本浄瑠璃『色仕立紅葉段幕』の正本表紙に役者絵を画く(蔦屋    重三郎板)〟    ◯「艶本年表」(安永八年刊)    北尾政演画    『会本枩能内』墨摺 半紙本 三冊 山等州画 安永八年頃〔白倉〕    『四季の友』 小錦 十二枚組物 「北尾政演」安永八年頃〔白倉〕    ☆ 安永九年(1780)
 ◯『山東京伝年譜稿』p15(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝この年、江戸三座上演の歌舞伎狂言によって、左の役者絵(細判)を制作刊行する(鈴木重三『京伝と絵画』)    「岩井半四郎の富士が妹小ゆき」(正月中村座) 「瀬川菊五郎の羽生村かさね」  (三月市村座)    「市川門之助の一寸徳兵衛」  (五月中村座) 「岩井半四郎の奥女中あさづま」 (七月中村座)    「中村里好の中橋のおまん」  (八月森田座) 「市川団十郎のゑんやはんぐわん」(九月中村座)  ◯『稗史提要』p357(安永九年刊)   ◇黄表紙    作者の部 通笑 文渓堂 四国子 錦鱗 可笑 山東京伝 臍下逸人 窪田春満 常磐松    画工の部 清長 春町 政演 春常 北尾三次郎 春朗 闇牛斎秋童 春旭 松泉堂    時評〝山東京伝、娘かたき打に初て名を出す。或人云、おかし咄の臍下逸人も京伝の事なり、其証は文    政間に、京伝が旧作を抄集せし戯作問答の頭痛の図、おかし咄と同図なるを以て知るべしといへり〟    ◯『黄表紙總覧』前編(安永九年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『洒落模様飛羽衣』「画工北尾政演」         鶴屋板     『娘敵討故郷錦』 「画工北尾政演」「京伝戯作」   鶴屋板     〈備考、「京伝」筆名の初出とする〉    『見立御世話咄』 「北尾政演画」          鶴屋板    『能天御利生』  「北尾政演画」 「芝全交戯作」  鶴屋板    『米饅頭始』   「北尾政演画作」         鶴屋板    〔廓花扇之観世水〕「北尾政演画」 「喜三二作」   蔦屋板    『夜野中狐物語』 「画工北尾政演」「作者王子風車」 蔦屋板    『通者言此㕝』  「画工北尾政演」         蔦屋板    『艶模様曾我雛形』「北尾政演画」          松村板    『一の富見得の夢』「画工北尾政演」         松村板    『噺之画有多』  「画工北尾政演」「戯作南陀加紫蘭」松村板    『笑語於臍茶』  「北尾政演画」 「臍下辺人作」  伊勢治板     〈備考、臍下辺人は画工政演の一時の戯号とする〉    『遊人三幅対』  「画工北尾政演」         伊勢治板    『焼餅噺』    「北尾政演画」          伊勢治板    『茶呑友達』   「北尾政演画」          村田屋板    参考    『咄(はなし)の絵有多(ゑうだ)』奥付「画工 北尾政演 戯作 南咤加紫蘭」     序「安永九 子のはつ春 南咤加紫蘭」通油町 松村弥兵衛板    〈稀書複製会 第5期第5回『咄の絵有多』米山堂 昭和2年3月刊〉    ◯『洒落本大成』第九巻(安永九年刊)    北尾政演画『咄の絵有多』「画工北尾政演画」南陀伽紫蘭作    ◯『江戸小咄辞典』「所収書目解題」(安永九年刊)    北尾政演画『茶呑友達』〈作者・板元名なし〉     ☆ 安永年間(1772~1780)    ◯『黄表紙總覧』後編「刊年未詳・補遺」(安永年間刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『はつ日待』 「北尾政演画」   松村板二     〈備考、従来天明年間の刊行とされるが、安永年間とする由〉    〔新はなし〕 「画工北尾政演」  板元不明     〈備考、署名の特徴から安永年間の刊行とする〉    〔不破名護屋〕「北尾政演(一字欠)」板元不明    ☆ 天明元年(安永十年・1781)
 ◯『山東京伝年譜稿』p17(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝(三月 市村座狂言『劇場曽我万代曽我』、富本節正本三冊(蔦屋重三郎板)の表紙に役者絵を描く)    「おなつ清十郎 道行比翼の菊蝶」 「おちよ半兵衛 道行垣根の結綿」    「おはん長右衛門 道行瀬川の仇浪」    菊之丞のお夏を画いた細判錦絵もあった〟  ◯『稗史提要』p359(安永十年刊)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 通笑 芝全交 可笑 南陀伽紫蘭 是和斎 風車 蓬莱山人亀遊女    画工の部 清長 重政 政演 政美 春常    ◯『黄表紙總覧』前編(天明元年・安永十年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『敵討魚名剣』   「画工北尾政演」 〔市場通笑作〕  伊勢治板    『太郎左衛門咄』  「画工北尾政演画」         伊勢治板    『七笑㒵当世姿』  「画工北尾政演」          伊勢治板    『鎌倉三代記』   「政演画」             伊勢治板    『開運扇子花』   「北尾政演画」  「喜三二作」   蔦屋板    〈備考、前年刊『廓花扇之観世水』の改題再摺再板本〉    『一流万金談』   「北尾政演画」  「喜三二戯作」  蔦屋板    『其後瓢様物』   「北尾政演画」  「作者風車」   蔦屋板    『通人いろはたんか』「北尾政演画」  「芝全交戯作」  鶴屋板    『白拍子富民静鼓音』「北尾政演画」「不笑之亭君南子作「政演」印」鶴屋板    〈備考、「不笑之亭君南子(ワラワズシテクンナンシ)」を印章から山東京伝の仮名とする〉    『家内手本町人蔵』 「北尾政演画」「本所業平橋作者在原艶美」 鶴屋板    『敵討駿河花』   「画工北尾政演」 「可笑作」    岩戸屋板    『大津名物』    「北尾政演画」  「可笑作」    岩戸屋板    『遊客故事附太平記』「北尾政演画」  「南陀伽紫蘭戯作」松村板    『御茶あがれ』   「北尾政演画」           鶴屋板     〈『黄表紙總覧』後編「刊年未詳・補遺」備考、挿絵の屛風に「十一才書」とあり、これを政演の妹黒鳶式部の年齢と      見なし、天明四年刊『他不知思染井』に「京伝妹十四歳小女黒鳶式部」とあることから、逆算して天明元年刊とする〉    〔甚句〕      「北尾政演技」           伊勢治板     〈『黄表紙總覧』後編「刊年未詳・補遺」備考、画風より安永末天明初年の刊行とする〉    ◯「国書データベース」(天明元年刊)    北尾政演画    『有難通一字』政演画 是和斎作 松村板    『鶉白拍子』 政演画 可笑作  伊勢治板    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天明元年刊)    北尾政演画    『ゆめはんじ』墨摺 横本 一冊「政演画」天明元年頃     (白倉注「男の夢見(夢判断)をテーマにしたもの」)    『泰佳郎婦寝』墨摺 横本 一冊 政演画・作 天明元年頃〈書名「たからぶね」〉     (白倉注「『ゆめはんじ』の続編。女性の夢見を占ったもの。いままで海外でしか知られていなかったが、近年発掘」)  ◯『菊寿草』〔南畝〕⑦227(安永十年一月刊)  〝絵師之部 北尾重政 鳥居清長 北尾政演 北尾政美 勝川春常 北尾三二郎 以上〟    ☆ 天明二年(1782)
 ◯『山東京伝年譜稿』p19(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝役者絵「尾上松助の小林の朝比奈」(正月中村座)あり〟  ◯『稗史提要』p361(天明二年刊)   ◇黄表紙    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 可笑 岸田杜芳 紫蘭 宇三太 雪岨 豊里舟 三椒         魚仏 風物 古風    画工の部 清長 重政 政演 政美 春常 春朗 国信    時評〝京伝が戯作御存商売物に、はじめて画作の名を顕し、文化の末まで四十余年の間妙作多し。実に       稗史作者中の一人と称すべし〟    ◯『黄表紙總覧』前編(天明二年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『五郎兵衛商売』「画工北尾政演」   「南陀伽紫蘭作」  松村板    『教訓蚊之呪』 「政演画」      「通笑作」     松松板    『七福人大通伝』「北尾政演画」    「可笑作」     伊勢治板    『御存商売物』 「紅翠斎門人政演画作」「画工北尾政演戯作」鶴屋板    『煙草誉言葉』 「政演画」      「通笑作」     奥村屋板    『祝増福寿相』 「北尾政演」     「可笑作」     岩戸屋板    『芳野の由来』 「画工北尾政演」   「南陀伽紫蘭作」  蔦屋板    『再評判』   「政演画」   「本所業平橋在原艶美戯作」板元不明    ◯『狂言絵本年代順目録』(天明二年刊)   ◇絵本番付    五月 市村座「助六由縁江戸桜」不記名・政演風    ◯「日本古典籍総合目録」(天明二年刊)   ◇絵本番付    北尾政演画『隅田川柳伊達絹』一冊 北尾政演画    ◯『岡目八目』〔南畝〕⑦262・271(天明二年一月刊)  〝 作者之部   喜三二 恋川春町 芝全交 京伝 可笑 通笑 岸田杜芳 宇三太 南陀伽しらん   雪岨  豊里舟  魚仏  風物 古風 から井さんせう        画工之部    鳥居清長 北尾政演 北尾政美 勝川春常 春朗 国信 以上〟    〈天明二年の黄表紙で「青本惣巻軸」を飾った京伝の出世作『御存商売物』について) 〝作者京伝とはかりの名、まことは紅翠斎門人政演丈の自画自作〟    〈この当時はまだ〝紅翠斎門人〟と師匠重政の名を冠しないと格好のつかない存在だった〉    ◯「杏園余芳」〔南畝〕(月報4 巻三「南畝耕読」)  「耕書堂夜会出席者名録」(天明二年十二月十七日明記)    〈蔦屋主催のふぐ汁の会に師匠北尾重政と参加。南畝との交遊はこのあたりから始まるか。北尾重政の項参照〉    ☆ 天明三年(1783)  ◯『山東京伝年譜稿』p21(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝この年『青楼名君自筆集』の名で、大判二枚続きの遊女の錦絵、蔦屋重三郎より刊行    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇狂歌 狂文(天明三年刊)    北尾政演画『狂文宝合記』二巻 北尾葎斎政演画 北尾政美画 四方山人跋 上総屋利兵衛他板    ◯『稗史提要』p363   ◇黄表紙(天明三年刊)    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 杜芳 紫蘭 里舟 四方山人 南杣笑楚満人         奈蒔野馬鹿人・在原艶美・四方門人新社・春卯    画工の部 清長 重政 政演 政美 春潮    ◯『黄表紙總覧』前編(天明三年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『日本多右衛門』 「政演画」   「芝桜川杜芳戯作」伊勢治板     『通春歳旦開』  「政演画」   「岸田杜芳戯作」 伊勢治板    『仇名草伊達下谷』「政演画」   「南陀伽紫蘭戯作」鶴屋板    『武者工者狂話』         「芝全交作」   鶴屋板     〈備考、諸書北尾政演画とするも不明とする〉    『客人女郎』   「画工北尾政演」「京伝作」    鶴屋板?(自作自画)    『本所二十四孝』 「政演画」   「通笑作」    奥村屋板    〔草双紙年代記〕 「北尾政演戯写」「岸田杜芳戯作」 泉市板    ◯「国書データベース」(天明三年刊)   ◇黄表紙    北尾政演画    『混雑武者工者狂話』政演画? 芝全校作 鶴屋板    『鸛の者雄』    政演画  全交作  鶴屋板    『鐘は上野哉』   政演画  京伝作  西村板    ◯『狂言絵本年代順目録』(天明三年刊)   ◇絵本番付    北尾政演画    八月  市村座「けいせい帷衣辻」不記名・政演風    十一月 市村座「車懸奇軍配」 〔政演画〕    ◯『噺本大系』巻十二「所収書目解題」(天明三年刊)    北尾政演画『落咄人来鳥』「北尾政演画」清遊軒序(板元名なし)    〈〔目録DB〕は天明元年刊の黄表紙『一粒万金談』(朋誠堂喜三二作・北尾政演画)の改竄増補本」とする〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天明三年刊)    北尾政美・政演画    『狂文宝合之記』二冊 北尾政美・北尾政演画 元杢網・平秩東作・竹杖為軽編 上総屋利兵衛板  ◯『吉原細見五葉松』(蔦屋・天明三年正月刊・『江戸吉原叢刊』第七巻所収)   (巻末「耕書堂蔵板目録」)   〝青楼(セイラウ)遊君之(ユウクンノ)容貌(カタチ)    大絵 錦摺百枚続 其君の自詠を自筆にてしるす             初衣裳生うつしニ仕候       北尾政演筆 正月二日売出し申候〟    〈「青楼名君自筆集」の名で売りに出されたのがこれ。翌四年、四方山人(大田南畝)の序と朱楽館主人(菅江)の跋     を添えて折本とし『【吉原/傾城】新美人合自筆鏡』の名で売りに出される〉    △『狂文宝合記』(もとのもく網・平秩東作・竹杖為軽校合、北尾葎斎政演・北尾政美画・天明三年六月刊)   〔天明三年(1783)四月二十五日、両国柳橋河内屋において開催された宝合会の記録。主催は竹杖為軽〕   〝主品 女の髪にてよれる綱 一名糸柳    画工北尾政演事 身軽(ミガル)の織輔(オリスケ)〟   (画の説明文)〝女黒髪にてよれる綱〟〝青柳に糸よりかけゑんでむすびし綱也〟〝尺長御かもじ〟           〝京伝 素皇〟〝鴬の縫てふかさ〟   (狂文)〝此は楊柳四年たはひなき日、出口の柳と見返りの柳のえだを取、既に春風に吹きさらさせ、雪    折のなきえだをゑらび、新ン葉の枯ぬ葉をひろひて、楊枝屋の見世に於て、いやな風に五日吹せて、し    なやさしき柳腰のおゐどをふりみふらずみ五月雨の、濡にぞぬれし青柳の、そのいとしさの糸よりかけ    て、縁を結ぶの綱なれば、大象はともかくも、森羅万象亭の竹杖にすがりて知縁をむすぶの綱手縄、じ    つは花屋の柳をより、助さんといふ小間もの売のかもじ箱に入て、幸い所も柳橋、是黒髪のゑんならむ    か、と口へ出まかせ筆まかせ、もとより柳と書ちらしまいら候。よしなに御さつし下されかし。    附けていふ、うぐいすの縫てふ笠は貴家の珍蔵なるを申うけてむしろにつらぬ。記録長ければもらしつ〟    〈身軽の織助こと山東京伝・北尾政演が、主品側として「女黒髪にてよれる綱」を出品し、併せて、北尾政美とともに     『狂文宝合記』の画工をも担当することになったのは、この宝合会の主催者・竹杖為軽の引き立てによるというので     あろう。天明三年(1783)刊、平秩東作の『狂歌師細見』には、北尾政美(狂名・麦原の雄魯智)とともに、竹杖為軽     の狂歌連に所属している。ところで、この宝合会に出品参加した浮世絵師は、北尾政演、北尾政美のほかに、窪俊満     (一節千杖)、歌麿(筆綾麿)、喜多川行麿。また、浮世絵師ではないが、浮世絵を画いた絵師までいれると、恋川     春町(酒上不埒)、高嵩松(元の木阿弥)、つむりの光など名が見える〉    △「判取帳」(天明三年成)   (浜田義一郎著「『蜀山人判取帳』補正<補正>」「大妻女子大学文学部紀要」第2号・昭和45年)   〝葎斎政演画 一名身がるの折輔 (松の梅の絵)〟    〈天明三年頃は戯作者京伝より、絵師政演の方が通りがよかったのであろう〉    △『狂歌師細見』(平秩東作作・天明三年刊)   ◇「万字屋万蔵」(万象亭・竹杖すがるの狂歌連)   〝おり介 まさのふ    おろち まさよし〟    〈山東京伝(北尾政演)の狂名は身軽折輔(介)。北尾政美は麦原大蛇〉      ◇巻末「戯作之部」に続いて   〝画工之部    哥川 豊春    北尾 重政 同 政演 同 政美    勝川 春章 同 春朗 同 春常 同 春卯 同 春英 同 春暁 同 春山    関  清長      うた麿 行麿〟    ☆ 天明四年(1784)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明四年刊)    北尾政演画    『新美人合自筆鏡』前編 画工北尾葎斎政演 四方山人序 朱楽館主人跋 蔦屋重三郎板    『色摺巻紙合』  一巻 画工北尾政演 東籬園路考序 白鳳堂                校合 万象亭 恋川すき町 なる瀧音人 式柳郊    『手拭合』    一冊 画工北尾政演 校合 万象亭 恋川すき町 なる瀧音人 式柳郊               (松葉館遊女歌姫書 東籬園路考序)    ◯『稗史提要』p366(天明四年刊)   ◇黄表紙    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 杜芳 亀遊女 楚満人 四方山人 窪春満 万象亭         唐来三和 黒鳶式部 二本坊寉志芸 飛田琴太 古河三蝶 幾治茂内 里山 邦杏李          紀定丸    画工の部 清長 重政 政演 政美 春町 春朗 古河三蝶 勝川春道 哥丸    ◯『黄表紙總覧』前編(天明四年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『不案配即席料理』「まさのぶ画」      「料理人京伝「素后」印」鶴屋板(自作自画)              序「京伝妹十四歳小女 黒鳶式部述」     『天慶和句文』  「まさのぶ画」     序「京伝「素后」印」   鶴屋板(自作自画)     『廓中丁字』   「北尾政演画」      「作者京伝述「素后印」 鶴屋板(自作自画)    『跡目論嘘実録』 「まさのぶ「素后」印」   「桜川杜芳戯作」   伊勢治板」    『全盛大通記』  「葏斎まさのぶ画「素后」印」「桜川杜芳戯作」   伊勢治板     『八橋調能流』  「まさのぶ画」      「南杣笑楚満ひと戯作」伊勢治板    『さうハ虎巻』  「まさのぶ画」      「竹杖翁作」     板元不明    ◯「国書データベース」(天明四年刊)   ◇黄表紙    北尾政演画『一の富見得の夢』「画工北尾政演画」自作 松村板    ◯『洒落本大成』第十二巻(天明四年刊)    北尾政演画『二日酔巵觶』「まさのぶ画」万象亭作     ◯「艶本年表」〔目録DB〕(天明四年刊)    山東京伝画『玉の春』一冊 山東京伝画・作(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    北尾政演画『床善草』一冊 北尾政演画 朱楽菅江作?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯『四方の留粕』〔南畝〕①197(天明四年一月刊)  〝山東京伝画美人合序  花の色をうつせるものは、〈中略〉  天明四ッのとし辰の初春〟    〈南畝の京伝作品初めての序か。「山東京伝画美人合」とは北尾政演画の『【吉原/傾城】新美人合自筆鏡』     画像は国立国会図書館、デジタル化資料(古典籍資料貴重書等)でみることが出来ます 〉       ◯『【吉原/傾城】新美人合自筆鏡』(北尾政演画・蔦屋重三郎板・天明四年刊)   (朱楽館主人(朱楽菅江)の跋)   〝先に北尾重政、勝川春章互に筆を下して、往々美人の容貌を戦(タタカハ)しむ。今又北尾政演、再び毛延寿    に倣て花柳(クルハ)の名妓を画く、誠に眉は今戸の煙に似て淡く、髪は隋堤の柳に准(ナゾラヘ)て長し。其    (ソノ)神(シン)を写するに至ては、見る人いかでか心を動さざらんや。加之(アマツサヘ)かたはらに佳人の真蹟    をもつて題す。嗚呼三千の佳麗は此一帙(イチヂツ)に存し、五町の全盛は偏に筆端より生ず、爰に漏れた    る楚腰越艶は追々貌(ウツ)し、自筆を需(モトメ)ついて梅梨(バイリ)に寿(イノチナカフ)せんとす。今此蝉鬢(センビン)    を見る人、猶後の鴉黄(メワウ)を待つて心を和らげ給へともいふ〟   参考『山東京伝年譜稿』p23(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝折本一帖としての刊行は本年であるが、前年大錦倍判の「青楼名君自筆集」と名づけて刊行されたかと    思われるもの七種の集成(中略)題簽に「前編 完」とあるものもあり、後編を予定していたかと推せ    られる〟    ◯「日本古典籍総合目録」(天明四年刊)   ◇滑稽本    山東京伝画『小紋裁』一冊 山東京伝画・作    ☆ 天明五年(1785)
 ◯『山東京伝年譜稿』p26(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝この年、肉筆画「揚巻助六図」成ったか〟  ◯『稗史提要』p368(天明五年刊)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 通笑 京伝 全交 三和 恋川好町 蓬莱山人帰橋 夢中夢助 二水山人 鳴瀧         録山人信鮒    画工の部 清長 重政 政演 政美 春朗 哥丸 勝川春英 旭光 道麿 千代女 勝花 柳交    ◯『黄表紙總覧』前編(天明五年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『大悲千禄本』  「まさのぶ画」 「芝全交戯作」      蔦屋板    『江戸生艶気樺焼』「北尾政演画」 「京伝作」        蔦屋板    『殻鉄砲桃灯具羅』「まさのぶ画」 「竹杖為軽」       蔦屋板    『新義経細見蝦夷』「まさのぶ画」 「万象作」        蔦屋板    〔天地人三階図絵〕〔北尾政演画・山東京伝作〕        蔦屋板    『八被般若角文字』「まさのぶ画」 「京伝作」        蔦屋、白鳳堂合板    『侠中侠悪言鮫骨』「まさのぶ画」 「喧嘩屋五朗八子分京伝作」蔦屋板    『無匂線香』   「まさのぶ自画」「北尾政演画」「京伝作」 鶴屋板    『廓中丁子』   「北尾政演画」 「作者京伝」       鶴屋板     ◯『洒落本大成』第十三巻(天明五年刊)    北尾政演画『息子部屋』「まさのぶ画」自作・自画 恋川すき町序    ◯「咄本年表」〔目録DB〕(天明五年刊)    北尾政演画『きゝもの』北尾政演画    ◯「新吉原細見」(蔦屋・天明五年年七月刊・『江戸吉原叢刊』第七巻所収)   (巻末「耕書堂蔵板目録」)   〝【吉原/契情】新美人合自筆鑑 折本 一冊     遊君自筆の詩哥をあらはす〟    〈前年の天明四年正月刊『』を折本仕立てにしたものである〉     ◯『徳和哥後万載集』〔江戸狂歌・第二巻〕四方山人編・天明五年刊   〝みそかに思ふ事の侍りければある神のみまへに    鈴をふりてせちにいのり侍るとて  身軽折助【北尾政演】      千早ふる神のみすゞにすがりてもなるとならぬは音にきかまし〟    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天明五年刊)    北尾政演画    『艶本枕言葉』墨摺 半紙本 三冊 北尾政演画・作 天明五年           長命館主人(京伝)序 蔦屋重三郎板     (白倉注「本書は、政演の代表作であるばかりでなく、当時の文人、画師の楽屋落ちに満ちていて、彼らの私生活を窺う      に貴重な資料となっている」)    ☆ 天明六年(1786)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明六年刊)    北尾政演画『後編小紋新法』一冊 画工北尾政演 案者山東京伝 蔦屋重三郎板    ◯『稗史提要』p370(天明六年刊)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 通笑 京伝 全交 杜芳 万象 三和 三蝶 好町 帰橋 琴太 山東鶏告 芝甘交         白雪・道笑・半片・自惚山人・虚空山人    画工の部 清長 重政 政演 政美 春朗 春英 三蝶 好町 蘭徳    〈山東鶏告が山東京伝の架空の門人という説が一時行われたが、現在では別人説に傾いているようである。水野稔著     『山東京伝年譜稿』には「鶏告は山東汐風・海辺汐風等の狂号を持つ築地住のスキヤ連の狂歌師で、画才もあった。     朱翁鶏告とも称している」とある。また京伝への入門は天明五年とのことである。この戯作名は天明六~九年にか     けて七作品に使われた〉     ◯『黄表紙總覧』前編(天明六年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『両国信田染』  「政演(福山)印」「京伝門人山東鶏告作」鶴屋板    『御富興行曾我』 「まさのぶ画」 「山東鶏作」     鶴屋板    『景清塔之瞑』  「まさのぶ画」 「万象亭戯作」    鶴屋板    『明矣七変目景清』「まさのぶ画」 「山ひがし京伝作」  蔦屋板    『江戸春一夜千両』「まさのぶ画」 「京伝作」      蔦屋板    〔鐘は上野哉〕  「まさのぶ画」 「京伝作」           〈備考、諸書天明三年刊とするが、内容・画工署名等から天明六年頃の刊行と推定した由〉    『指南所』    「北尾政演画」 「桜川杜芳戯作」   榎本屋板    『釘折二度目清書』〈『指南所』の改題再摺再板本〉    『通町御江戸鼻筋』「北尾政演画」 「唐来山人作」    榎本屋板    『又繰返艶示物語』〈『通町御江戸鼻筋』の改題再摺再板本〉     『芸自慢童龍神録』「北尾政演画」 「恋川春町戯作」   板元不明     ◯『洒落本大成』第十三巻(天明六年刊)     北尾政演画『客衆肝照子』署名なし 山東京伝作・画         (稀書複製会本・国立国会図書館デジタルコレクション画像)         『北廓故実 内所図会』小金厚丸作〈安永九年刊、南陀伽紫蘭作・北尾政演画『噺之画有多』の増補解題本〉    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(天明六年刊)    北尾政演画『吾妻曲狂歌五十人一首』色摺肖像〔跡見2512〕    奥付「画図 北尾伝蔵政演」蔦屋重三郎 天明六年正月刊        △『本町文酔』(腹唐秋人著・天明六年刊)   (原漢文)   〝錦画に題す    筆を揮ふ燈篭鬢 傾城当世の身 心を動す東(アヅマ)錦画 北尾写して神の如し〟    〈燈籠鬢の遊女を写して人の心を動かすこと神の如しと称えられたこの北尾、重政、政美、政演(山東京伝)のいづれ     であろうか。天明四年、板元蔦屋重三郎は、北尾政演の画で『吉原傾城新美人合自筆鏡』を刊行している。これは当     時全盛を誇っていた遊女のうつし絵に遊女自筆の詩・歌・発句を配した彩色画帖で、天明期の豪華絢爛たる吉原文化     を今に伝える恰好の作品である。四方山人(四方赤良・後蜀山人)は序に「あづま錦絵」「時勢(イマヤフ)の粧(ヨソヲ)ひ     をつくせり」「かくうつくしきうつし絵には僧正遍昭もいたづらに心を動かしつべく」と記し、また朱楽館主人(朱     楽菅江)は「花柳(クルハ)の名妓を画く、其(ソノ)神(シン)を写するに至ては見る人いかでか心を動さゞらんや」なる跋文     を認めている。腹唐秋人が狂詩にいう「北尾」の「東錦絵」とはまさに北尾政演の『吉原傾城新美人合自筆鏡』のこ     とをいうのではあるまいか。『本町文酔』とは『本朝文粋』のもじったものだが、ここでは江戸八百八町の内、土一     升金一升の日本橋本町、そこに居住する腹唐秋人の詩文を指している。天明五年の四方山人の序と同六年の宿屋飯盛     の跋が添えてある。いずれも天明狂歌壇の大立て者である。『本町文酔』は『近世文学未刊本叢書』「狂詩狂文編」     (天理図書館司書研究部編・養徳社・昭和二十四年刊)の所収〉    △『吾妻曲狂歌文庫』(天明六年一月刊)      〈京伝、四方赤良(大田南畝)の肖像を画く〉    ◯「日本古典籍総合目録」(天明六年刊)   ◇滑稽本    北尾政演画『指面草』一冊 北尾政演画 山東京伝作 鶴屋喜右衛門板     ◯「艶本年表」〔白倉〕(天明年間刊)    北尾政演画『縁本紫草帋』墨摺 半紙本 三冊 北尾政演画 天明六年     ☆ 天明七年(1787)
 ◯『稗史提要』p372(天明七年刊)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 京伝 全交 杜芳 三和 万象 物蒙堂礼 鶴一斎雀千声 鶏告 好町 通笑    画工の部 重政 政演 政美 清長 栄之 柳郊    ◯『黄表紙總覧』前編(天明七年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『三筋緯客気植田』「政演画」  「京伝作」      蔦屋板    『芝全交智恵之程』「まさのぶ画」「芝全交戯作」    蔦屋板    『嶋台眼正月』  「まさのぶ画」「北住社楽斎万里戯作」蔦屋板    『寓骨牌』    「政のぶ画」 「京伝作」      榎本板    『世之中諸事天文』「政演画」  「物蒙堂礼」     榎本屋    『是気侭作種』  「政演画」  「物蒙堂礼改石山作」 榎本板     〈作者名「物蒙堂礼改石山作」のあとに「あまもり」の印あり〉    『名産梅枝伝賦』 「政演画」  「京伝作」      西宮板    『茶歌舞伎茶目傘』〔北尾政演画〕「芝全交戯作」    鶴屋板    『仮名手本通人蔵』「まさのぶ画」「芝桜川杜芳戯作」  西村屋板    ◯「国書データベース」(天明七年刊)   ◇黄表紙    北尾政演画『密茶太平記』政演画 杜芳作 板元未詳(注:日本小説年表による)    ◯『洒落本大成』第十三~十四巻(天明七年刊)    北尾政演画『総籬』  「山東けいこう画」山東京伝作・画         『古契三娼』「北尾政演画」  山東京伝作・画         『初衣抄』 「政演画」    山東京伝作・画    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(天明七年刊)    北尾政演画『天明新鐫百人一首 古今狂歌袋』口絵・挿絵・肖像〔跡見2504〕〔国書DB〕    巻末「画工 北尾伝蔵政演」宿屋飯盛撰 蔦屋重三郎 天明七年刊    〈京伝、四方赤良(大田南畝)の肖像を画く〉    ☆ 天明八年(1788)
 ◯『稗史提要』p373(天明八年刊)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 通笑 京伝 三和 杜芳 春町 石山人 万宝 虚空山人 山東唐洲    画工の部 重政 政演 政美 哥丸 蘭徳 春英 行麿    時評〝此頃の稗史に営中の遺事に擬して作るもの多しといふ。。按に、万石とをし、ひゐきの絵草紙な       ど、其類なるべし。是等は草葬の人のしるべきにあらざれぱ、識者に問て弁ずべし。又袋入に世       直大明神、天下一面鏡撹の梅鉢など有。是等もおなじ趣なるべき歟〟    〈「営中の遺事」つまり幕府の事柄に擬えた黄表紙と見なされたのは『文武二道万石通』朋誠堂喜三二作・喜多川行麿     画。『悦贔負蝦夷押領』恋川春町作・北尾政美画。「是等は草葬の人のしるべきにあらざれぱ、識者に問て弁ずべし」     お上のことは民間人には知り得まいから識者に聞きなさいと、評者・漣水散人(旗本家臣・比志島文軒)はいうのだ     が、そうであろうか。袋入の『天下一面鏡梅鉢』は唐来三和作・栄松斎長喜画、「世直大明神」の角書をもつ『黒白     水鏡』は石部琴好作・北尾政演画でともに翌天明九年の刊行である〉    ◯『黄表紙總覧』前編(天明八年刊)。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『小倉山時雨珍説』「まさのぶ画」「京伝作」     榎本屋板    『富士之人穴見物』「政演画」  「京伝作」     榎本屋板    『今日現金湯起請』「まさのぶ画」「山東けいこう作」 榎本屋板    『会通己恍惚照子』「政演画」  「京伝作」     西宮板    『扮接銀煙管』  「まさのぶ画」「京伝作」     西宮板    『復讐後祭祀』  「まさのぶ画」「京伝作」     鶴屋板    『頼光一代記』  「北尾政演画」「戯作南杣笑曽満人」伊勢治板    『酒宴哉妖怪会合』「まさのぶ画」「石山人作」    鶴屋板    ◯『洒落本大成』第十四巻(天明八年刊)    北尾政演画『夜半の茶漬』「京伝酔画」山東鶏告、山東唐洲作         『傾城觽』  署名なし 山東京伝作・画         『吉原やうじ』署名なし 山東京伝作・画    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天明八年刊)    北尾政演画『女夫香』色摺 小折帖 十二図「京橋の息子をやして述」序 天明八年頃     (白倉注「政演の数少ない色摺艶本の一つ」)    ◯「日本古典籍総合目録」(天明八年刊)   (『洒落本大成』に未収録の洒落本)    山東京伝画『傾城古実鏡』自作・自画    〈「著作注記」に「日本小説年表による」とあり〉    ☆ 天明年間(1781~1788)    ◯『山東京伝年譜稿』p37(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝天明中より寛政初年ごろまでに、浮世絵師北尾政演として、左の錦絵がある。    『金沢八景』(「野島夕照」「洲崎の晴嵐」「内河ぼせつ」)  ◯『黄表紙總覧』後編「刊年未詳・補遺」(天明年間刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『鎌倉栄』  「北尾政演画」「可笑作」岩戸屋板     〈備考、画風から天明年間刊とする〉    『南木三代記』「画工北尾政演(一字欠)」伊勢治板    ◯「咄本年表」〔目録DB〕(天明年間刊)    北尾政演画『初日待』北尾政演画     ◯「艶本年表」〔目録DB〕(天明年間刊)    北尾政演画    『風流四季の友』一帖 北尾政演画 天明頃刊(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ☆ 寛政元年(天明九年・1789)
 ◯『山東京伝年譜稿』p37(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝今春出版の『黒白水鏡』(石部琴好作・政演画)が当局の忌諱に触れ、画工として加わったことによって    過料に処せらる。以後政演の名をもって他作には画かず〟   〝このころまでに、「東都楓葉政演画」と署した肉筆画「桜花美人図」あり〟  ◯『稗史提要』p375(天明九年刊)   ◇黄表紙    作者の部 春町 通笑 京伝 全交 三和 鶏告 桜川慈悲成 三橋喜三二 一橋山人 陽春亭         内新好 伝楽山人 伐木丁々 美息斎象睡    画工の部 重政 政演 政美 柳郊 栄之 蘭徳 春朗 歌川豊国    時評〝鸚鵡かえし、孔子じま、太平権現など、皆当時の遺事に擬作せしなるべし。地獄一面は、袋入の       天下一面の標題を仮て、また一奇を出す。中洲咄は、土山何某と十七屋なるものゝ遺事に擬して、       中洲の繁栄の光景をうつす。(中略)安永年間に清経・吟雪などが画きし一代記の類を此頃再摺       し、錦絵摺の外題をおして版行する物多し。また青本に白紙墨摺の外題をおしたる物も、同じく       此頃の再摺なり。此頃までは黒本をも制して販出せしが、寛政の中頃より絶て見あたらず〟    〈時事を擬えたものとされたのは、恋川春町作・北尾政美画『鸚鵡返文武二道』、山東京伝作・北尾政演画『孔子縞于     時藍染』、伐木丁丁作・蘭徳斎画『太平権現鎮座始』、唐来三和作・栄松斎長喜画『天下一面鏡梅鉢』、山東京伝作     ・山東京伝作・北尾政美画『奇事中洲話』。とりわけ『奇事中洲話』はきわどい作品で「飛脚屋忠兵衛/仮住居梅川」     の角書が暗示するように、表向きは冥途の飛脚の梅川忠兵衛だが、実は忠兵衛は飛脚屋十七屋孫兵衛、梅川は吉原の     遊女・誰が袖で、ともに幕府の勘定組頭・土山宗次郎と深い関係があった人物が登場する。十七屋は土山の不正米事     件加担した科で死罪、誰が袖は土山に見請けされた吉原の遊女で、土山失脚後大文字楼に戻された。土山はこの二つ     の件、不正米による公金横領と、事件発覚後見請けした妾と逐電したという不行跡で死罪となった。天明七年(1787)     十二月のことである。『奇事中洲話』はそれを踏まえている〉    ◯『黄表紙總覧』中編(天明九年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『延寿返魂談』   「政演画」  「京伝作」 榎本屋板    『碑文谷利生四竹節』〔北尾政演画〕「京伝作」 榎本屋板    『一生入福兵衛幸』 〔北尾政演画〕「京伝作」 榎本屋板    『格子縞于時藍染』 「政演画」  「京伝作」 大和田板    『花東頼朝公御入』 〔北尾政演画〕「京伝作」 大和田板    『一百三升芋地獄』 〔北尾政演画〕「京伝作」 大和田板    『真実情文桜』   「まさのぶ画」「京伝作」 西宮板    『早道節用守』   〔北尾政演画〕「京伝作」 蔦屋板    『黒白水鏡』    「北尾政演画」「石部琴好」板元不明    ◯『洒落本大成』第十四~十五巻(天明九年刊)    北尾政演画『志羅川夜船』「京伝画」山東京伝作・画         『通気粋語伝』署名なし 山東京伝作・画         『新造図彙』 署名なし 山東京伝作・画         『廓大長』  署名なし 山東京伝作・画    ◯「艶本年表」(寛政元年刊)    北尾政演画    『艶本雙翼蝶』三冊 北尾政演画〔目録DB〕     『艶本春の曙』墨摺 半紙本 三冊 寛政元年〔白倉〕     (白倉注「その存在が確認できなかったが、最近ようやく確かめ得た作品」)    ◯『筆禍史』「黒白水鏡」(寛政元年・1789)p79(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝石部琴好の著にして、画は北尾政演の筆なり、此黄表紙も亦絶版となり、著画者は刑を受けたり、『法    制論簒』に曰く、     寛政元年の春、石部琴好と戯名せし者、『黒白水鏡』と題して、黄表紙と称する草双紙を著し、北尾     政演これを画けり、琴好は本所亀沢町に住せる用達町人松崎仙右衛門といへる者にて、政演は山東京     伝のことなり、然るに此の冊子は天明の始め、麾下の士佐野政言(善左衛門)が当時威勢熾なりし老     中田沼意次を、営中にて刃傷に及びし次第を書綴り、絵を加へたるものなるからに、忽ち絶版を命ぜ     られ、作者琴好は数日手鎖の後、江戸払となり、画工は過料申付けられたりき〟
   『黒白水鏡』 石部琴好作・北尾政演画 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ☆ 寛政二年(1790)
 ◯『山東京伝年譜稿』p41(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝この年より、京伝門人兎角亭(とかくてい)亀毛(きもう)の画名を用いる〟  ◯『稗史提要』p377   ◇黄表紙(寛政二年刊)    作者の部 通笑 京伝 全交 万宝 喜三二 信普 慈悲成 樹上石上 蔦唐丸 時鳥館    画工の部 重政 政演 政美 柳郊 豊国 亀毛 桜文橋    時評〝青砥が銭に谷風の肖像有。此書当時のさまに擬して作る。この翌年よりかゝる事を憚り、絶て作       り出さぬことゝなりたり〟    〈谷風の肖像があるという『玉磨青砥銭』は京伝作・うた麿画である〉    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政二年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『京伝憂世之酔醒』「京伝門人亀毛画」「京伝作」  大和田板     〈備考、亀毛は京伝の仮名とする〉    『行儀有良札』  「京伝門人亀毛画」「京伝作」  大和田板?    『花芳野犬斑』  「政演画」    「京伝作」  榎本屋板    『冷哉汲立清水記』〔北尾政演画〕  「京伝作」  鶴屋板    『照子浄頗梨』  「政演画」    「京伝酔中作」蔦屋板     〈備考、本文の内容から寛政二年刊とする〉    ◯『洒落本大成』第十五巻(寛政二年刊)    北尾政演画『繁千話』    「京伝画」山東京伝作・画         『傾城買四十八手』「京伝画」山東京伝作・画         『京伝予誌』   署名なし 山東京伝作・画    ◯「日本古典籍総合目録」(寛政二年刊)   ◇滑稽本    山東京伝画    『小紋雅話』一冊 山東京伝画・作 蔦屋重三郎板     ☆ 寛政三年(1791)
 ◯『山東京伝年譜稿』p44(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   〝三月、洒落本三部を表袋に教訓読本と記して蔦屋重三郎より出版、制禁を犯した科によって、板元・地    本問屋行事とともに町奉行所に召喚されて吟味を受け、手鎖五十日の刑に処せられる。板元は身上半減    の闕処、行事は商売お構え追放となる〟  ◯『稗史提要』p378(寛政三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 全交 万宝 慈悲成 新好 夜道久良記 大栄山人 秋収冬蔵 荒金土生    画工の部 重政 政演 政美 柳郊 豊国 蘭徳 文橋 春英 菊亭    時評〝北尾政演が青本と画く事、此年にして止む〟    〈「日本古典籍総合目録」は画工の部の菊亭を山東京伝とする。下掲『黄表紙總覧』の『世上洒落見絵図』参照〉    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政三年刊)    北尾政演画    『世上洒落見絵図』「菊亭主人画〔山・東〕印」「山東京伝識于菊亭」蔦屋板    『人間一生胸筭用』「自画」 「山東京伝戯作」蔦屋板    『語染廓色揚』  「京伝画」        ふじ白屋板     〈備考、安永九年刊『噺之画有多』の絵入の部分を黄表紙仕立てにした再板本〉    ◯『箱入娘面屋人魚』(山東京伝作 歌川豊国画 蔦屋板 寛政三年刊)   (国書データベース)   〝(巻頭 板元蔦唐丸の「まじめなる口上」)    (前略)作者京伝申候は たゞ今までかりそめに つたなき戯さく仕り 御らんに入候へとも かやう    のむゑきの事に日月および筆紙をついやし候事 さりとはたはけのいたり 殊に去春なぞは 世の中に    あしきひやうぎをうけ候事 ふかくこれらをはぢ候て 当年よりけつして戯作相やめ可申と わたくし    方へもかたくことはり申候へ共 さやうにては御ひいきあつきわたくし見世 きうにすいびに相成候事    ゆへ ぜひ/\当年ばかりは作いたしくれ候やう 相たのみ候へば 京伝も久しきちいんのわたくしゆ    へに もだしがたくぞんじ まげて作いたしくれ候 すなはちしやれ本およびゑざうししんぱん出来候    間 御好人さまはげだいもくろく御らんの上御求可被下 ひとへに奉希候〟    〈「去春なぞは 世の中にあしきひやうぎをうけ候事 ふかくこれらをはぢ候て」とあるのは、寛政元年三月の黄表紙     『黒白水鏡』の筆禍をいう。これで作者の石部琴好は江戸払い、画工の京伝は過料に処せられた。蔦屋の口上による     と、京伝はこれに懲りて断筆まで覚悟したという。しかしそれでは見世が立ちゆかなくなると思った蔦屋は、そこは     まげてと京伝を説得して、洒落本と黄表紙を世に送り出したというのである。これを額面通り受け取ってよいものか     どうかは分からない。ただ下掲の通りこの年の三月、今度は洒落本で筆禍に遭ったのは皮肉なことである〉    ◯『洒落本大成』第十六巻(寛政三年刊)    北尾政演画『仕懸文庫』口絵「山」「東」印 山東京伝作・画         『錦之裏』 口絵「山」「東」印 山東京伝作・画         『娼妓絹籭』署名なし 山東京伝作・画     ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥60(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)    (寛政三年三月)   〝作者山東京伝御咎にて、手鎖にて町内預と成、そのころ大かた古き作者うせて此者専ら戯作をなす、殊    に洒落本と唱ふる小冊多く作り、錦の裏仕懸文庫など大いに行はれたり、専ら此御咎也、【京伝子予ニ    語て曰く、封印改ニ出る度、腰掛より人の往来を見るに羨しく、身にことなくばのどけかるべき春の日    をとおもへり、手がねに逢ひし者のひそかにはづすやう有など教けるが。おそろしくおほへて慎み居た    り、と云しは実情なるべし】(以下、北尾政美の画く『近世職人尽絵詞』の記事(退役した白河侯(松    平定信)から吉原深川の詞書きを依頼されたという記事)へと続く。政美の項参照)〟    〈二行割り書きにある「予」とは『きゝのまに/\』の記者・喜多村(筠庭)信節〉    ◯『筆禍史』「仕懸文庫、錦の裏、娼妓絹籭」(寛政三年)p81(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝明和安永頃より洒落本又は蒟蒻本といへる、遊里遊女遊客等の状態を細写せる小冊物流行し、戯作者山    東京伝(浮世絵師北尾政演)の如きも亦其時弊に投じて著作したるもの少からざりしが、前項所載の取    締令の発布ありしにも拘らず、本年も亦重ねて此三種(各一冊)の蒟蒻本を出版せしががめ、版元蔦屋    重三郎は財産半没収、著者京伝は戯作者界に前例なき手鎖の刑を受けたり、其吟味始末書に曰く       新両替町一丁目家主伝左衛門忰    伝蔵 亥 三十一歳     右之者儀親伝左衛門手前に罷在、浮世絵と申習し候絵を認め、本屋共へ売渡渡世仕候処、五六年以前     より不計草双紙読本の類作り出し、右本屋共へ相対仕、作料取て売渡来候に付、当春も新板の品売出     可申と、去年春頃より追々作り置候仕懸文庫と申す外題の読本其外、錦之裏、娼妓絹籭と申読本、右     三部の内仕懸文庫と申は御当地深川辺料理茶屋にて、遊興致候体を合含、并古来より歌舞伎芝居にて     狂言仕候曾我物語の趣向に当地の風俗を古今に準(ナゾラ)へ書つゞり、錦之裏と申は前々より浄瑠璃本     に有之摂津神崎の夕霧と申遊女、伊左衛門と申町人と相馴染(ナジマ)る趣、并に娼妓絹籭の儀は是亦浄     瑠璃本に有之候大阪新町の梅川と申遊女、忠兵衛と申町人に相馴染候趣を御当代新吉原町の体に準へ     相綴り、同七月中右三部共、前々取引仕候草双紙問屋蔦屋重三郎(蔦屋)方へ売遣候、対談にて相渡     作料画工共紙一枚に付代銀一匁づゝの割合にて、三部代百四十六匁、金に直し金二両三分銀十一匁の     内、其節為内金金一両銀五匁請求候処、同十月の町触に(云々中略)申渡有之承知致罷有候上は其以     前重三郎方へ渡置候読本も同人より行事改更へ可仕儀差図候得共、右三部は遊女の放埒の体を書綴り     候本に候得ば、行事共へ改為請候に不及、右の段早速重三郎方へ申談じ、売買為致間敷儀に候処、重     三郎儀は前書町触以前右本の板木出来致候に付、摺取、同十二月廿日草双紙問屋行事共方へ持参り改     更候処、売捌候ても不苦候旨差図致候由にて、三部共可売出段、其砌重三郎申聞、右に付当春已以来     右本重三郎方より売出候処、此度呼出有之、吟味に相成候旨申候、此者去年中重三郎より受取候作料     残金の儀は右三部共当春より重三郎方にて売捌の売高の多少に寄り代金増減仕、追々受取の積り、兼     ての対談に付、右残金は未請取不申罷在候旨、右の外去年より当年に至り、読本等作出売渡候儀無之、     畢竟余分売捌の儀専一心掛候故、寓言而已を重に致、書綴り候儀有之旨申候に付、書物の類の儀前々     より厳敷申渡候趣も有之、殊に去年猶又町触も有之候処、等閑に相心得放埒の読本作出候て、重三郎     へ売捌の段不埒の旨吟味受無申訳誤入候旨申候間、五十日手鎖申付候       亥三月        初鹿野河内守      〔頭注〕蔦屋重三郎    同人に対する吟味始末書は、京伝と略ぼ同一にして管々しきにより省く、言渡は「身上半減の闕所」と    いへるなり〟
   『仕懸文庫』 『青楼昼之世界錦之裏』 『娼妓絹籭』 山東京伝作・画    (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨266(水野為長著・寛政三年三月記)   〝京伝も入牢仕候よしのさた〟    ☆ 寛政四年(1792)    ◯『稗史提要』p380   ◇黄表紙(寛政四年刊)    作者の部 京伝 全交 慈悲成 楚満人 万宝 井上勝町 気象天業 信夫䟽彦 黒木    画工の部 重政 政美 豊国 蘭徳 清長 春英 井上勝町    ◯『吉原細見年表』(寛政四年刊)   『吉原細見』寛政四年春 縦中本 蔦屋重三郎板      署名「京伝画    〈山東京伝が吉原細見に挿画に署名入りで画いたのはこれが唯一である〉    ☆ 寛政五年(1793)
 ◯『稗史提要』p382(寛政五年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 全交 三和 石上 楚満人 曲亭馬琴 鹿杖真顔 桃栗山人 畠芋助    画工の部 重政 政美 春朗 豊国 清長    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政五年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    北尾政演画    『江戸生浮気蒲焼』「北尾政演画」「京伝作」 蔦屋板    『早道節用守』  〔北尾政演画〕「京伝作」 蔦屋板    〔戯話春乃山〕   北尾政演画 〔蔦唐丸作〕蔦屋板     〈作者・画工の署名はなし。天明五年刊『新義経細見蝦夷』の改竄増補板〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(寛政五年刊)    北尾政演画『どうれ百人一首』一冊 北尾政演画 鹿都部真顔撰 蔦屋重三郎板     ◯「日本古典籍総合目録」〔目録DB〕(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(寛政五年刊)    北尾政演画『松魚智恵袋』一冊 山東京伝画・作 蔦屋重三郎板    ◯『南畝集 九』〔南畝〕④141(寛政五年九月下旬)(漢詩番号1898)  〝聞京伝生新開煙袋舗賦贈   児童走卒識京伝 更掲高標列百鄽 煙火神仙製煙袋 風流不譲薛涛牋 〟    〈京伝の煙草屋開店は弟京山の『山東京伝一代記』によれば同年四月、京橋銀座一丁目に店開きとある。南畝が民間人     の商売に関して漢詩を寄せることは極めて珍しい。特別の思い入れがあったと見てよいのだろう〉    ☆ 寛政六年(1794)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政六年刊)    山東京伝画『絵兄弟』一冊 山東京伝著并画 蔦屋・鶴屋板    ◯『稗史提要』p384(寛政六年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 全交 森羅亭 石上 慈悲成 真顔 馬琴 式亭三馬 千差万別 本膳亭坪平          築地善好    画工の部 重政 政美 春朗 春英 豊国  ◯「国書データベース」(寛政六年刊)   ◇黄表紙    山東京伝作『箕間尺参人酩』画工未詳 京伝作 鶴屋板    ◯「咄本年表」〔目録DB〕(寛政六年刊)    北尾政演画『紙鳶』北尾政演画    〈天明七年刊の黄表紙『嶋台眼正月』(北尾政演画・社楽斎万里作)の改竄増補本〉    ☆ 寛政七年(1795)    ◯『稗史提要』p385(寛政七年刊)   ◇黄表紙    作者の部 通笑 森羅亭 三和 楚満人 慈悲成 馬琴 善好 坪平 十返舎一九 黄亀    画工の部 重政 政美 栄之 豊国 春朗 二代目春町 長喜 一九    ☆寛政八年(1796)
 ◯『稗史提要』p387(寛政八年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 石上 馬琴 一九 善好 宝倉主 誂々堂景則、楽山人馬笑 春道草樹    画工の部 重政 豊国 一九 春朗   ◯「国書データベース」(寛政七年刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画    『徳若水縁起金性』歌川豊国画 樹下山人作  板元未詳    『桃太郎大江山入』「豊くに画」桜川慈悲成作 西村屋板    ◯「日本古典籍総合目録」(寛政八年刊)   ◇滑稽本    山東京伝画『京伝工夫小紋形』一冊 山東京伝画・作    ☆ 寛政九年(1797)
 ◯『稗史提要』p389(寛政九年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 石上 慈悲成 唐丸 馬琴 三馬 一九 馬笑    画工の部 重政 豊国 一九 春朗    時評〝京伝の作、今年四部いづれも教訓を専にして、戯作の体にあらず。是より年々勧懲を事とす〟  ◯『正月故事談』重政画 京伝作 鶴屋板(寛政九年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (京伝の序に続けて)   〝京伝作と申ふれ 大道を売あるき候一枚摺のゑ 一切京伝作にては無御座候 草紙類の儀も名前并ニ印    ン御見分御求可被下候 はんもと つるや〟    〈京伝の人気に乗じて京伝作を騙る一枚絵や草双紙の類が横行していたのだろう〉    ☆ 寛政十年(1798)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(寛政十年刊)    北尾政演画『男踏歌』一冊 鳥文斎栄之・窪俊満・北尾政演・歌麿・北斎宗理画  ◯『稗史提要』p390(寛政十年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 三和 楚満人 石上 慈邪成 馬琴 三馬 一九 唐丸 恋川春町遺稿          壁前亭九年坊 傀儡子 聞天舎鶴成    画工の部 重政 豊国 可候 清長 業平榻見 栄昌 春亭    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政十一年刊)    北尾政演画    『無間鐘梅枝伝譜』「政演画」「京伝作」西宮板     〈天明七年刊『◎梅枝伝譜』の改刻改題再板本〉  ◯「日本古典籍総合目録」(寛政十年刊)   ◇風俗    北尾政演画『四時交加』北尾政演画 山東京伝作    ☆ 寛政十一年(1799)
 ◯『稗史提要』p392(寛政十一年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 慈悲成 石上 馬琴 三馬 一九 鉦扈荘英 蘭奢亭香保留    画工の部 重政 豊国 一九 春亭 豊丸  ◯「国書データベース」(寛政十一年刊)   ◇黄表紙    北尾政演画『無間鐘梅枝伝譜』「政演画」京伝作 板元未詳(注:名産梅枝伝譜の改題本)    ☆ 寛政十二年(1800)
 ◯『稗史提要』p394(寛政十二年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 慈悲成 馬琴 一九 石上 鈍々亭和樽 色主 可候 蘭奢亭香保留    画工の部 重政 可候 豊国 子興    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱444(寛政十二年五月以前記)   〝(北尾重政)弟子  同政演 【京橋山京(ママ)屋伝蔵、所謂京伝なり/葎斎と云。戯作に名高し】      擁書漫筆に岩瀬醒字ハ田蔵トアリ。  (朱丸・以下二行分朱筆)【姓岩瀬、名田蔵、字伯慶、号醒世老人/一号山東、江戸深川木場丁産、                 幼名甚太郎】                【本文朱注恐ラクハ誤ナルベシ。尚後人ノ考ヲ俟ノミ】〟    〈凡例にあるように「(朱丸)擁書漫筆」以下の記述は南畝以外の注記。なお小山田与清の『擁書漫筆』は文化十四年     の刊行。与清と京伝は極めて交渉が頻繁で、様子は文化十三、四年の与清の日記「擁書楼日記」に詳しい〉    ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)   〝西川(ママ)重長門弟  大伝馬町四丁目        武者名人  北尾重政【重長門人ニアラズ師ナシ】        当代絵双し 銘人 重政門人 京伝事 政演                       へつついかし 政美〟    ◯『増補武江年表』2p17(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「寛政十二年」の項目)   〝「浮世絵類考」成る、写本一巻(山東京伝著。笹や「邦教追考」をあらはす。又式亭三馬書入の本有り、    近頃渓斎英泉増補して三巻とす。抑(ソモソモのルビ)浮世絵は大津又兵衛、英一蝶、宮川長春等を始祖とし、    江戸に名人多し。又天明寛政の頃より劂人(ホリニンのルビ)刷人(スリニンのルビ)の上手出て巧を尽し、次第に美    麗の物出来て、方物の第一となれり。諸国にまねぶものあれど及ばず。◯筠云ふ、「浮世絵類考」はも    と杏花園の輯録にて、又浮世絵始系といふものは、本銀町縫箔屋新七がしるせるなり。それを附録にし    て、杏花園が跋を書けるは庚申の中夏とあり、山東京伝その追考を書きたるは、享和二年壬戌十月なり。    「浮世絵類追考」といへり)〟    〈斎藤月岑はなぜ「浮世絵類考」の原作者を大田南畝(杏花園)ではなく京伝とし、「追考」のほうを京伝でなく笹屋     邦教としたのであろうか。もちろん、喜多村筠庭の補正記事が正しい。ただし「浮世絵類追考」とあるのは「浮世絵     類考追考」の誤記であろう。「庚申の中夏」は寛政十二年五月である。また、渓斎英泉の『無名翁随筆』(増補浮世     絵類考)は天保四年の成立〉    ☆ 寛政年間(1789~1800)    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政年間刊)    山東京伝画『春興帖』一帖 京伝・宗理画 森羅万象編    ◯『梅翁随筆』〔大成Ⅱ〕⑪12(著者未詳・寛政年間記事)   〝山東京伝が事    此頃山東京伝といふて、当世本草双紙などの作をなして名高し。此もの二三年前より、京橋へ煙草入店 を出しけるが、寛政七年卯年五月二十四日、芝愛宕の縁日に、山内にて安売の引札口上を、画と文字と を交ぜて認め、はんじものにして配りたるが、大に世に行はれて、そのすり物に包みて煙草入を商ひし 故、すり物を見んとて、京伝がたばこ入を遠方よりも買にやりて大に繁盛せしなり。其後よりも、いろ いろ画にて絵解したる草紙など数多出たり。京伝が口上書、此作の要なり。いにしへより芳月書と書く 事あり。全く夫より思い付なるべし。或としの暮に京伝が、   来年は/\とて歳暮かな〟    ◯『増訂武江年表』2p18(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「寛政年間記事」)   〝浮世絵師 鳥文斎栄之、勝川春好、同春英(九徳斎)、東洲斎写楽、喜多川歌麿、北尾重政、同政演    (京伝)、同政美(蕙斎)、窪俊満(尚左堂と号す、狂歌師なり)葛飾北斎(狂歌の摺物読本等多く画    きて行はる)、歌舞伎堂艶鏡、栄松斎長喜、蘭徳斎春童、田中益信、古川三蝶、堤等琳、金長〟    ☆ 享和元年(寛政十三年・1801)
 ◯『山東京伝書簡集』(竹垣柳塘宛・享和三年五月)   (『近世の学芸』所収 肥田晧三記・三古会編・八木書店・昭和51年刊)   (この書簡に関する肥田晧三の解説に次のような記事がある)    〝この画幅(江口君図)の外函の蓋裏には「浮世又兵衛美人閲牘図 山東窟清観」底裏に「享和元年辛酉夏    六月購之」と京伝が自署しているよし、後年、この画幅は三村竹清氏の蔵するところとなったよし『洗    雲亭清賞』の解説に見える〟  ◯『稗史提要』p396(享和元年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 慈悲成 馬琴 三馬 一九 傀儡子 可候 和樽 竹塚東子 香保留         福亭三笑 玉亭     画工の部 重政 可候 豊国 春亭 子興 歌川豊広    ☆ 享和二年(1802)
 △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世      北尾重政 紅翠斎 花藍  蕙斎政美  葎斎政演  (他派の絵師は省略)〟
   『稗史億説年代記』 式亭三馬自画作 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)     〝青本 青本大当りを袋入に直す。表紙の白半丁に口のりをつけぬ事起る    画工 春好、続いて似顔絵を書出す。俗にこれを小つぼと称す。但し役者、角力也    同  蘭徳斎春道一たび絵の姿かはる。春朗同断。此頃の双紙は重政、清長、政よし、政のぶ、春町    同  【政よし、政のぶ】絵の姿一変する。勝春英、役者、角力の似顔絵をかく。    作者 通笑、全交、喜三二、三和、春町、万象、杜芳、いづれも大当りある〟     〝画工名尽【これは来くさざうし/板下を休の部】    鳥居 関 清長  勝川九徳斎春英    喜多川 歌麻呂  北斎 辰政    北尾 政演    蕙斎 政美〟    〈この画工たちは来年(享和三年)出版予定の板下を担当しないというのだろう〉     ◯『稗史提要』p398(享和二年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 三馬 一九 新好 通笑 馬笑 傀儡子 石上 慈悲成 感和亭鬼武         木芽田楽 一麿    画工の部 重政 豊国 歌丸 豊広 長喜 春喬 菊丸    時評〝京伝作銭光記より大悲利益まで四部を四季に名付て出板す。最初上紙摺三冊合巻にして、表紙も       上の黄表紙に犬を墨摺にしたり。是合巻の権輿とも云べき歟〟  ◯「国書データベース」(享和二年)   ◇黄表紙    山東京伝    『通気智之銭光記』京伝画・作  鶴屋板    『御慶礼者集』  京伝画・作? 板元不記載    ◯『浮世絵類考追考』(「大曲本」・享和二年十月明記)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)       〝享和二年壬戌冬十月記  山東庵〟    〈京伝による浮世絵師に関する考証『浮世絵類考追考』成る〉   参考資料   (房州保田町医師渋谷元竜が、山東京伝の依頼に応えて作成した師宣の家系に関する記事と、保田近辺に散在する師宣作品    に関する記事)    「菱川師宣家譜」(国立国会図書館デジタルコレクション)    ☆ 享和三年(1803)    ◯「絵本年表」(享和三年刊)    山東京伝画    『山東京伝戯画』一冊 山東京伝〔目録DB〕    『京伝戯画』  一冊 山東京伝〔目録DB〕    『奇妙図彙』  一巻 山東庵主人戯墨 須原屋市兵衛板〔漆山年表〕    ◯『稗史提要』p399(享和三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 三馬 一九 可候 鬼武 三笑 石上 虚呂利 板本舎邑二 楓亭猶錦         萩庵荻声 徳永素秋 薄川八重成    画工の部 重政 豊国 可候 豊広 長喜 一九 春亭 秀麿 一九門人ゑい女    ◯『黄表紙總覧』後編(享和三年刊)    北尾政演画    『絵本東土産』三編「画図 北尾政演」「著述 山東京伝子」蔦屋他三板元    ◯『細推物理』〔南畝〕⑧346(享和三年一月十九日明記)   〝狂歌堂真顔・吾友軒米人・山東京伝・曲亭馬琴来。馬蘭亭の息・及柳長、かほる、吉田やおますを携へ    来りて、三線をひかしむ〟    〈南畝宅での狂歌会。豪華な参加者である。柳長は酒泉亭柳屋長二郎。かほるは蘭奢亭薫。吉田屋お益は芸者だが、狂     歌師・人真似小真似のわすれがたみと南畝は言う〉    ◯『細推物理』〔南畝〕⑧351(享和三年閏一月二十五日明記)  〝馬蘭亭会。狂歌堂真顔・山東京伝・曲亭馬琴・烏亭焉馬・吾友軒米人等来。六樹園 五老・島田氏の女・    為川氏も又来れり〟    〈馬蘭亭での例会。前項の顔ぶれに六樹園(五老・宿屋飯盛)が加わる。「島田氏の女」とは芸者お香、南畝の妾にな     る人〉    ◯『細推物理』〔南畝〕⑧361(享和三年四月十日明記)  〝山東京伝をとひ、酒くみかはし、所著の骨董集をみる〟    〈京伝著『骨董集』の出版は後年の文化十二年。南畝は文化十年冬に序を認めている〉    ◯『細推物理』〔南畝〕⑧364(享和三年五月十五日賦)  〝亀沢別業の会。烏亭焉馬・狂歌堂真顔・山東京伝・馬蘭亭高彦来、八重川勾当来弾筝   曲裏薫風可解慍 月臨亀沢又黄昏 請看第二橋頭水 交淡談清酒一樽 〟    〈次項参照。竹垣柳塘の別荘での会。南畝を始めいつもの顔ぶれ。琴を弾く八重川勾当は、この頃の宴席に頻りに登場     する〉    ◯『南畝集 十三』〔南畝〕④263(享和三年五月十五日明記)(漢詩番号2286)  〝五月望、馬蘭亭・狂歌堂・山東窟・烏亭と同じく竹柳塘の亀沢別業に集ふ。瞽八重川勾当筝を鼓す〟    〈詩は前項に同じ〉  ◯『山東京伝書簡集』(竹垣柳塘宛・享和三年五月廿七日付)   (『近世の学芸』所収 肥田晧三記・三古会編・八木書店・昭和51年刊)   〝菱川絵巻物 御貸被遊、難有ずいぶん大切に致し拝借仕候、僕蔵浮世又兵衛美人之図一幅、おりう絵一    幅、破笠なぞ/\の絵一幅、右御使へ御渡し申上候、ゆる/\御一看可被遊候    菱川御一軸 奥書拝見仕候所、杏園先生小子考を御書被遊、好古のほまれと大喜奉存候、菱川没年再考    仕候所、元禄七年にて御座候、右御軸の奥書へ御加筆被下候様相願候、後世へ伝へ申度候、欽白      五月廿七日     柳塘公子     京伝〟    〈柳塘公子は竹垣庄蔵。文化五年(1808)の『武鑑』には「御普請方」とある。父・竹垣三右衛門は代官であるから、公子と     呼んだのである。その柳塘から菱川の絵巻物を借りた返礼として、京伝は自ら所蔵する浮世又兵衛画の「美人図」・山崎     お龍および小川破笠の掛軸をお目にかけたいというのである。さてその拝借した菱川の巻物には、「杏園先生」こと大田     南畝(蜀山人)の認めた奥書があって、そこには「小子考」すなわち京伝の考証事が記されていたので、大変光栄に思った     と喜んでいる。加えて師宣の没年を再考したところ、元禄七年と知れたので、それを後世に伝えるべく奥書に書き加え     てほしいと依頼したのである。それにしても京伝は師宣の没年を何に拠って知ったのであろうか。京伝の考証、前年享     和二年の『浮世絵類考追考』には「元禄七甲戌歳 五月吉日」とあるものの、これは師宣が安房保田町別願院に鐘を寄進     した年次日付であって、忌日ではなかった。したがって、京伝の「追考」をそのまま引いた無名翁(渓斎英泉)の『無名翁     随筆(続浮世絵類考)』(天保三年序)も、斎藤月岑の『増補浮世絵類考』(天保十五年序)も没年を正徳年中としている。     元禄七年説が出てくるのは嘉永年間の『古画備考』からと思われるが、これは師宣作品の序に拠ったもので、京伝説と     は無関係のようだし、明治二十六年、飯島虚心の『浮世絵師便覧』に「正徳四年死、七十七、一説に元禄七年に死せり     と」とはあるものの、これはおそらく『古画備考』に拠ったに違いない。つまり享和三年の時点で、山東京伝は師宣の     没年を元禄七年と認めていたにも関わらず、世に伝わらなかったのである。なお、現在、師宣の没年月日は元禄七年六     月四日と明らかになっているが、これは実に昭和三十三年の発見であった。(千葉県南房総市・勝善寺沿革)  ☆ 文化元年(享和四年(1804))     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化元年刊)    北尾政演画『戻理道外百人一首』一冊 政演画 重政 山東京伝序 鶴屋喜右衛門板    ◯『稗史提要』p401(文化元年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 石上 馬琴 一九 東子 赤城山家女 待名斎今也    画工の部 重政 豊国 春亭 豊広 長喜 月麿 北岱    時評〝かたき打の本、いよ/\行はれ、京伝・馬琴、此年より始て敵打の作あり。今年の新刻かたき打       三分の二にして、其余わつかに戯作あり〟    ◯「日本古典籍総合目録」(享和四年刊)   ◇滑稽本    山東京伝画『紺名小紋集』 一冊 山東京伝画・作    ◯『近世奇跡考』〔大成Ⅱ〕(山東京伝著・文化元年(1804)刊)   ◇「大津絵の考」の項 ⑥301   〝世に伝へて、(大津絵を)浮世又兵衛がかきはじむといへども、たしかなる証なし。案るに、浮世又兵 衛は、越前の産、本姓は荒木、母の姓岩佐を冒(ヲカスのルビ)。よく時世の人物を画によりて、時の人浮世 又兵衛と称す〔割註 世にいはゆる浮世絵は、こゝにおこる歟〕又平といふは誤りなり。享保四年〔傾 城反魂香〕といふ浄瑠璃に、土佐の末弟、浮世又平重(シゲのルビ)おきといふ者、大津に住て絵をかきた るよしをつくれるより、妄説を伝ふる歟。或は別に大津又平といふ者ありて、かき始む。享保の頃まで 其子孫ありしと云。予がをさむる、ふるき大津絵に、八十八歳又平久吉とかきて花押あり。前の説のご とく、大津に又平といふ者ありしを、浮世又兵衛が事にして、かの浄瑠璃につくりしより、虚説を伝へ しならん。さはいへ、支考が〔本朝文鑑〕に、浮世又兵衛は大津絵の元祖といふ。〔文鑑〕は享保三年 の板にて、彼浄瑠璃より、一年まへなれば、其前より云伝へし事かもしれず。とまれかくまれ。〔好古 目録〕にしるす。又兵衛が伝を見るに、大津にて売画をかきし事、あるべしともおぼえず。予又兵衛が 正筆ををさめて、其画風を見るに、大津絵をかくべき風にあらず〟    〈京伝は「浮世又兵衛」を岩佐又兵衛の異名とする。しかし「浮世又平」の方は近松の浄瑠璃『傾城反魂香』の虚構が     生んだものとする。そして大津絵の元祖説については、各務支考の『本朝文鑑』(「国書基本DB」享保二年自序・     三年跋)の説はあるものの、「予(京伝)又兵衛が正筆ををさめて、其画風を見るに、大津絵をかくべき風にあらず」     とする。浮世絵師・北尾政演としての直感である。ところで、京伝が見た「又兵衛が正筆」とは次項の「江口君図」     であろうか〉     ◇「浮世又兵衛江口君図」の項 ⑥352   〝【紙中長二尺七寸五分横一尺五分/縮図シテアラハス 山東軒清翫】     (模写あり)     かけ衣朱。ひつたの鹿子。うは衣黒。地紋金泥。したかさね銀泥。帯緑青。鱗形金泥〟  ☆ 文化二年(1805)
 ◯『稗史提要』p403(文化二年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 石上 馬琴 三馬 一九 素速斎 東紫 新好 鬼武 萩声 赤城山人          面徳斎夫成    画工の部 重政 豊国 豊広 月麿 石上    ◯『筆禍史』「近世奇跡考」(文化二年)p106(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝山東京伝作「此書文化元年に印行するや、雅俗倶に賞鑑して多く売れべき勢いなりしに、第五巻に英一    蝶の伝記をしるし、朝妻舟の歌の考証したるより、一蝶の末派一蜂(三世か)怒りて理不尽にも、京伝    方へ六ヶ敷掛合に及びしかば、京伝大に驚き、異議もなきよしを、板元大和田安兵衛に告知らせて其板    を摧きけり、京伝は寛政の初め洒落本の咎ありしより、をさ/\謹慎を旨としたれば、当時冊子の稿本    を町年寄に提出して免許を乞ひし折なれば、故ありて奇跡考は板元自ら絶版すといふよしを、大和田安    兵衛書林行事と共に役所へ届出たりといふ」(無聲雑簒)    予の蔵本『近世奇跡考』を見るに、其第五巻に出せる英一蝶伝の「俳号を暁雲又和央と云ふ」の下二行    半ほど削り去りて無し、一蜂が厳談に及びし点は、此所の記事なりしならんか、其板を摧きて絶版とな    りしなるべし、其後右の原版本を入手せしが、奥書に「文化改元甲子十二月云々、江戸大伝馬二丁目大    和田安兵衛梓」とあり、翻刻本に削去あるは「俳号を暁雲又和央と云」の次     元禄十一年十二月【元禄八年トスルハ非ナリ】呉服町一丁目新道に住し時。故ありて謫せらる。時に     年四十七。謫居にある事十二年。宝永六年九月【宝永四年トスルハ非ナリ】帰郷して後。英「一蝶と     称し云々」に続ける二行半なり        〔頭注〕削去の歌    再刻本には朝妻舟の歌の中、    一蝶謫居の自詠と見るべき左の一章をも削去しあり     うきをかたらん友さへなくて。なぐさめかねつわが心あらうつゝなや。     すぎしつたへのその水ぐきの、くろみしあとを見るにつらさのいやますなみだは。     あはれとそでもとらへかし〟    ☆ 文化三年(1806)
 ◯『稗史提要』p404(文化三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 一九 石上 鬼武 慈悲成    画工の部 重政 豊国 豊広 国長 春亭 国丸 北馬    ◯「書簡 135」〔南畝〕⑲198(文化三年八月十五日明記)  (本所の近藤重蔵正斎寓居にて月見の宴。以下当日の参加者)  〝京伝・馬琴・焉馬・飯盛・馬蘭亭・唐画人芙蓉(阿波ノ臣)・柳橋歌妓お増・大橋歌妓・義太夫ぶし手   妻遣も有之、中村勘三郎座へ出候歌うたひ等来〟    〈芙蓉は鈴木芙蓉。南畝とは安永以来の交渉あり。この日の亭主は近藤重蔵だが、参加者はおそらく南畝の招集に応じ     たもの。芸者に下座の者、義太夫手妻とあるから相当にぎやかな中秋の宴である〉    ☆ 文化四年(1807)
 ◯『馬琴書翰集成』文化四年十二月十四日 馬琴宛・山東京伝(第六巻・書簡番号-来8)⑥220    (貼紙)   〝「山東京伝文化四年十二月来簡」    (表書「曲亭先生 京伝」)    (時候の挨拶、馬琴の歳暮に対する返礼、略)先日御咄申上候「作者番附」之儀、昨夜焉馬・三馬参り、     絶板いたさせ度と申候ニ付、私・京山一同ニ右板元へ参り、板木けづらせ、摺本不残受取、きりさき     申候。右ニ付、和談取あつかひ候御座候て、摺本紙代として、金三分遣し申候。右金子、当時渡世ニ     仕候作者・画工へ割付、壱人づゝ出し申候。貴君之分者寄合之席ニ鶴屋金助殿をられ、立かへ出され     申候間、御ついでの節、鶴金へ銀五匁御かへし被遣可被下候。為念、きりさき候ばん附、御目ニ懸申     候。万々拝顔、取込乱筆御免可被下候。頓首      十二月廿四日〟    ☆ 文化五年(1808)    ◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   〝京伝風俗画巻    京伝画ける風俗画巻一巻、一々人物に小がきして、其風俗を記せり、武岡豊太郎氏蔵、美術協会にて一    見      以上すへての人のよく知る事にしあれば 事あたらしうしるすにおよばずといへども もし百年の      後に残りて人の見んときのためにとてしるしつけぬ  京伝〔印〕    と奥にしるしたり、印は京伝の二字〟    〈この「風俗画巻」は文化5年の京伝序を有する『江戸風俗図鑑』である。上掲、竹清が書き留めた「以上(云々)」は巻末の     奥書だが、竹清はなぜ序文の存在に全く言及しなかったのだろうか、不思議である〉  ◯『馬琴書翰集成』文化五年刊「江戸戯作画工新作者附」断片(第六巻・書翰番号-来130)⑥322    (文化四年十二月十四日、山東京伝の馬琴宛書翰参照(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-来8))    (貼紙「文化四年卯十二月、京橋辺の貸本屋藤六とやらんいふ者、作者・画工の番附を彫刻して専ら鬻     ぎしを絶板させ、摺たるを悉く切りさきたるを、一二葉この来簡に附けて継ぎ合せ、爰に載せおきつ」)    〈辰春(文化五年)板元東邑閣から売り出される予定だった「番付」の分明ならざる断片が⑥322に載っている〉    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年(1808)補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝同(北尾)政演    【京橋山東屋伝蔵、京伝なり、姓 岩瀬、拝田、葎斎、酔世老人・山東庵・身軽折助、重政門人】    しゃれ本・草双紙の戯作をもつて名高し〟    ☆ 文化七年(1810)
 ◯『柳亭種彦日記』p139 文化七年(1810)正月廿一日     〝談州楼咄し初メ、北嵩子と同道、三馬子京伝子京山子豊国月まろ、夢楽談笑子等にあふ、玉豕子来〟    〈談洲楼焉馬の咄会。賑やかな顔ぶれである。蘭斎北嵩、式亭三馬、山東京伝・京山兄弟、初代歌川豊国、月まろは喜     多川月麿か、落語家は初代夢楽、初代立川談笑、漢学者柏菴玉豕〉     ☆ 文化八年(1811)
 ◯「書簡 163」〔南畝〕⑲227(文化八年三月三日明記)  〝去上巳山東京伝、京山に内会いたし曲水にかへ申候。珍書珍画会いたし、来月より月々二日と相定、神   田明神前雲茶店と申候茶店之楼上へ、二百年来の古物、青楼、戯場其外之俗ナル古物を持ちより申候。   尤大連成候へばあしく候間十人迄に限り、一人五品を限り申候。素見物は禁じ申候。御閑暇に候はヾ御   出会奉待申候。近隣書肆青山堂雁がねや発起に御座候。俗物は一切入不申、小連に限り申候。京伝、京   山は是非来るよしに候〟    〈竹垣柳塘宛。上巳三月三日、京伝・京山と「雲茶会」のことを相談したのであろう。凡例および次項以下、四月二日・     五月二日の会参照〉    ◯『一話一言 補遺参考編一」〔南畝〕⑯91(文化八年四月二日)   (「雲茶会」初集、京伝の出品。凡例参照)  〝一 万治高尾自筆色紙   揚屋さし紙二張 高尾 うす雲  一 延宝年間よし原の図 菱川師宣筆  一 雛屋立圃作美少年人形〟    ◯『一話一言 補遺参考編一」〔南畝〕⑯107・108(文化八年五月二日)  (「雲茶会」二集、京伝の出品三品) 〝海西子休甫戯筆〟    〝(京伝の識語)休甫ハ泉州堺ノ俳諧師也。貞徳ト時ヲ同ジウセリ。〈中略〉則此絵ハ寛永正保ノ比ノ     モノ也。画者詳ナラズトイヘドモ六尺袖紫足袋ノ古風ヲミルニタレリ〟
〝蒔絵香合考〟  〝(京伝の識語)是寛永時代の蒔絵也。洛北修学寺村或は松ケ崎等の題目踊の図なるべし。〈後略〉〟
〝新撰御ひいながたの序 瓢水子 〈序文省略〉 于時寛文六年七月吉日 山田市郎兵衛開板 絵様以上二百 寛文六丙午年八月吉日 寺町通二条上ル町 山田市郎兵衛板〟  〝(京伝の欄外注)瓢水子ハ浅井了意ノ号也〟    ☆ 文化九年(1812)
 ◯「松楼私語」〔南畝〕⑩12(文化九年記)      〈「松楼私語」とは、南畝の妾しづ(賎)が吉原・松葉屋内の年中行事や風俗・習慣について語ったものを、南畝が筆     記したもの。筆記は天明七年の春のことであった。しづはもと松葉屋の新造・三穂埼。天明六年七月十五日、南畝が     身請けした。この筆記を文化八年、南畝が清書し、翌九年、京伝が一覧した。天明七年春と言えば、この年出版の京     伝作・洒落本「総籬」も松葉屋が舞台であった。京伝は当時二十五才、この筆記を読んで青春時代が彷彿と蘇った違     いない。それかあらぬか、京伝は「総籬」の主人公・仇気屋艶次郎ならぬ〝艶示老人〟の名で識語を書いている。と     ころで「松楼私語」は、南畝自ら〝一切他見無用〟(書簡211⑲一一)と言う秘本であった。それを見ることができ     た京伝は、やはり南畝にとって特別な間柄であったのだろう〉    ☆ 文化十年(1813)
 ◯『狂歌関東百題集』〔江戸狂歌・第八巻〕鈍々亭和樽編・文化十年序    挿絵「京伝筆」     ◯「序跋等拾遺」〔南畝〕⑱556(文化十年冬明記)    〈南畝、京伝の『骨董集』(文化十一年刊)に序。序文は省略〉   〝文化癸酉冬日 杏園主人書于緇帷之林下〟  ☆ 文化十一年(1814)  ◯『楽屋雀』合巻(東里山人作 歌川美丸画 岩戸屋喜三郞 文化十一年刊)   (国書データベース)(8/20コマ)   〝山東京伝店 口上の哥    〽きれ紙地 しんがたきせるたばこ入 画さん(賛)あふぎ(扇)にはりまぜ(張交)の書ぐわ(画)    〽どくしよぐわん(読書丸) ならびに小児むびやう(無病)丸 きおうぐわん(奇応丸)まで     ほかにるい(類)なし    〽とり次の所は京山てんこく(篆刻)の水しやう(晶)銅ゐん(印) おこのみしだい〟    〈京伝店(京橋銀座一丁目)の商品、切れ紙・新形煙管に煙草入れ・画賛扇・張交ぜ書画、読書丸・小児無病丸・奇応丸、     加えて弟山東京山の篆刻による水晶・銅印を取り次いだ〉    ☆ 文化十三年(1816)
◯『一話一言 巻五十』〔南畝〕⑮346(文化十三年三月明記)    〈南畝、京伝宅に「琉球雛」を見る〉  ◯『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥131(曲亭馬琴・文政二年十二月十五日成稿)   〝十三年丙子の秋、京山、其母屋の向ひに別に書斎を造れり、此新書斎を開くとて、七日の夕、舎兄京伝    を請待し、真顔、静廬を相客とす、この日、京伝は明春出板の草冊子を創して、初更に及べり、京山が    使しぱ/\来るを以、遂に筆を投て其家に趣きつ、間僅に二町許なるべし、真顔、静塵等と清談し、且    旧時を語て、酒食常の如く快く喫し、三更に及て、辞して家に帰らんとす、真顔は脚痛あるをもて、先    だちて帰去りぬ、因て、京伝は静塵と共に、京山が書斎を去て、一町ばかりにして、俄頃に胸痛すと云    て進まず、静廬驚て、其木履を脱しめ、扶掖て其家に送り、深更なるをもて辞して去ぬ(静廬記事省略)    百合(京伝妻)、驚憂ひて介抱し、急に小厮を走らせて京山に告ぐ、京山走り来て、百合と共に薬を勧め、    自ら隣町なる医を迎へて診せしむ、医の云、是乾脚気なり、救ふべからず、強て療治を乞ふに及て、二    帖を調剤し,灸治をすゝめて去りつ、鍼灸の効あるに及て、厠に登らんと云ふ、即ち扶けて趣しめ、便    快く通じたりと間て、又扶けて臥房に入れて臥しめしに、呼吸急にして、言ふことを得ず、四更の比及    竟に歿しぬ、時に年五十六(便通の記事省略)明日未の時、両国橋辺回向院無縁寺に送葬す、法名智誉    京伝信士、この日枢を送るもの、蜀山人、狂歌堂真顔、静廬針金、烏亭焉馬、曲亭馬琴、及北尾紅翠斎、    歌川豊国、勝川春亭、歌川豊清、歌川国貞等、凡弔する者百余人なり〟    〈会葬者は蜀山人(大田南畝)・鹿津部真顔・網破損針金(博識家北静廬)・落語再興の烏亭焉馬・戯作者馬琴(但し京伝の     弟・京山の証言では馬琴本人ではなく嫡子宗伯の由)、そして浮世絵師としては、京伝(北尾政演)の師匠である北尾重     政・初代豊国・春亭・豊清は豊広の実子金蔵(将来を嘱望されたが文政3年22歳で夭折)・初代国貞〉    ◯『丙子掌記』〔南畝〕⑨599(文化十三年九月七日明記)  〝丙子九月七日暁、醒々老人山東京伝 岩瀬氏頓滅。翌八日葬于本所廻向院無縁寺 歳五十六 法号智嶽    恵海(欄外注、法号、墓石の事等略)    六日の夜、弟京山のやどに狂歌堂真顔北静廬などヽともに円居して物くいなどし、子の刻すぐるまで物    語せしが、狂歌堂は久しくやめるのちなれば、竹輿にのりて帰り、京伝は静廬とヽもに家に帰る道すが    ら心地あしければ、下駄ぬぎてゆかんといふにまかせて、静廬かた手に左の下駄をもち、京伝を肩にか    けて帰りしが、わづか道に三たびばかりもやすみ、やうやうやどに帰りてなやみつよく、つゐに丑の刻    半すぐる比に息たえぬ。脚気衝心とかやいふなる病なるべしと静廬ものがたりしを、八日廻向院にてき    けり。  七日の夕、児定吉、柳原の書攤にて京伝か作の小本三部并青本数巻を得てかへれり〟    〈以下省略。南畝の嫡子定吉が購入して来た小本(洒落本)名および南畝所蔵の京伝作・洒落本名あり。しかし不思議     にも青本(黄表紙)の方は記載ない。これは京伝作に限らない。南畝の蔵書目録にも黄表紙作品は一切ない。不思議     である。南畝が京伝の臨終の様子を聞いた北静廬は、国学者としても著名な京橋住の伊勢屋勝助。狂名を網破損針金     という。南畝とは天明三年以来の旧知である〉    ☆ 刊年未詳    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(刊年未詳)   ◇狂歌    山東京伝画    『時鳥三十六歌仙』一冊 俊満・京伝・辰斎等 淮南堂撰 催主 不尽亭員俊     〈〔目録DB〕の同名本は「六樹園・鈍々亭・淮南堂編 勝川春暁等画 天保二年刊」とある〉    ◯「艶本年表」(刊年未詳)    北尾政演画〔目録DB〕    『箱入娘双居』二冊 北尾政演画?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『会本何賦枕』三冊 北尾政演画 (注記「艶本目録による」)    『枕の夢』  一冊 北尾政演画?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    北尾政演画〔日文研・艶本〕    『泰佳郎婦寐』墨摺 横本 一冊 序「新発士 色情亭流述」    「欠題艶本」 墨摺 横本 一冊    ☆ 没後資料    ☆ 文化十四年(1817)    ◯『一話一言 補遺参考編一』〔南畝〕⑯154(文化十四年二月以前)   〝京伝机塚碑文相願候に付口上之覚〟    〈山東京山、兄の「京伝机塚」建立を計画。記事は碑文を南畝に依頼する口上書の写し。書面及び京伝自身の「古机の     記」は省略〉    ◯「序跋等拾遺」〔南畝〕⑱646(文化十四年二月明記)   〈南畝、弟京山の依頼にて「京伝机塚」(浅草寺境内現存)を撰す。碑文は省略した〉    〝文化十四年丁丑春二月 江戸南畝覃撰〟    〈浮世絵師の中で、南畝が一番親密だったのは山東京伝であった。交渉は南畝が天明二年の黄表紙評判『岡目八目』で     京伝作を激賞して以来のもの。文化十四年の南畝撰「京伝机塚」碑文にも〝余識翁三十余年〟とある。黄表紙・洒落     本・読本等の〝稗史作者〟京伝を高く評価するとともに、『近世奇跡考』や『骨董集』のような考証物についても、     〝考拠精確、可以補小史矣〟と南畝は高く評価していた。ただ絵師としての評価に直接言及したものを見ない。やは     り文芸の人・京伝なのだろう〉    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)
 ◯『馬琴書翰集成』①29 文化十五年二月三十日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-14)   〝むかし、雪中の事思召立せられ、京伝子へ御かけ合の後、彼人とかく埒明不申、既ニ出来もいたしかね    候様子ニ付、野生方へ被仰下、著述可致様、御たのミ候へども、京伝子とハ懇意の事故、横合より引取    候様ニ被存候てもきのどくニ存、及御断候キ。然ルニ、とかく京伝子ニてハ出来不申ニ付、京都玉山遊    歴之節是へ御かけ合、既に玉山著述いたさるべきつもりの処、彼人死去いたし候ニ付、是又画餅ニ相成    り、其後芙蓉子遊歴の節、亦復御かけ合被成候へバ、是又御同意之処、帰府後、芙蓉子も遠行ニ付、終    に年来御苦心がいもなく、今に埒明不申よし、去月玄鶴様御物語、逐一承知仕候。尚又此度、もし野生    著述もいたすべく哉と被仰下、右「雪話」の図説、あらまし御かき立の分、その外雪舟・橇下駄等雛    (ヒナ)形共、一箱ニ被成被遣、委細御書中之趣承知、御風流御執心のしからしむる事とハ存ながら、さて    /\多年の御苦心、万事のほゐなさ、落涙いたし候までに感佩仕候。つら/\事の因縁ヲ按ズルニ、最    初京伝子、埒明かね候ニ付、野生方へ被及御掛合候ハ、はや十六七年の昔なるべし。それより玉山・芙    蓉と、だん/\人ハかハれども、竟に成就する事なく、亦復野生方へ、その図説・雛形等の、まわり/\    て来つる事、是天のしからしむるもの歟。京伝子、既に黄泉の客となられ候へバ、誰に遠慮いたすべき    よしもなし。かくまで因縁ある事なれバ、今ハ辞退すべきにあらず、いかにも御たのミにまかせ、とも    かくも可仕と存候也。    (以下、鈴木牧之の『北越雪譜』の出版に関して、三つ問題点あげ、時節を待つよう記す。省略)〟    〈出版まで紆余曲折を辿った「雪話」(『北越雪譜』)の文政元年時点までの経緯。鈴木牧之は最初、山東京伝に出版     の仲介を依頼したが、埒があかないというので、馬琴へ話を持ち込んだ。馬琴は京伝への依頼を横合いから奪うよう     なことは出来ないと断る。これは文政元年時点で十六七年前というから享和元~二年(1801~2)の頃の話。その後の     状況も相変わらずで一向に埒があかない。そこで京都の岡田玉山に打診する。すると同意は得られた。しかし出版す     るまでには至らず、玉山は文化四~五年(1807~8)頃死去する。(『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」没     年による)次に文化九年、越後塩沢に遊歴した江戸の鈴木芙蓉に、牧之は依頼する。しかしこれも日の目を見ること     もなく、文化十三年(1817)、芙蓉は逝去する。馬琴はこの経緯を、文政元年正月、玄鶴(越後の医師黒田玄鶴)から     聞くとともに、再び仲介を頼まれたのである。今度は以前と違い、京伝は既に亡く(文化十三年没)、もはや遠慮す     る必要が無くなっていたので、馬琴は依頼を引き受けた。だが八犬伝等の執筆に追われ、しかも売れ行きに自信を持     てなかったので、馬琴はなかなか出版に取りかかれない。出版には遅れに遅れ、『北越雪譜』初編は実に天保七年     (1836)のことであった。それも馬琴の仲介ではなく、馬琴とは犬猿の仲とでもいうべき山東京山(京伝の実弟)とそ     の男・京水(挿画を担当)の仲介・協力によるものであった。結果は馬琴の予想に反して、大ベストセラーになった。     馬琴はその際、手許に長年留めておいた原稿を、鈴木牧之に返却しなかったという。そのため牧之は最初から原稿を     書き直さざるを得なかったと伝えられる。仁義礼智を標榜する馬琴作品とは、およそ似つかわしくない人間馬琴の所     行というほかあるまい〉    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)    「京橋 古人・戯作者・狂歌師・浮世画」〝京伝(空欄)銀座一丁目 京屋伝蔵〟  ☆ 文政二年(1819)
 ◯『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   ◇ ⑥120   〝其ころ(弱冠)より、北尾重政を師として、浮世絵を学びしが、画も亦得意ならず、終に行るべからず    と知て、中途にして廃にき【京伝、画名を北尾政演といへり、天明の末に画きたる紅絵に、政演画とし    るせしもの、今も稀にあり】〟   ◇⑥132   〝(山東京伝、文化十三年九月七日)四更の比竟に没しぬ、時に年五十六、(中略)明日未の時、両国橋    辺回向院無縁寺に葬送す、法名智誉京伝信士【イ法名弁誉知海】この日柩を送るもの、蜀山人、狂歌堂    真顔、静廬、針金、烏亭焉馬、曲亭馬琴、及北尾紅翠斎、歌川豊国、勝川春亭、歌川豊清、歌川国貞等、    凡する者百余人なり〟    ☆ 文政六年(1823)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文政六年刊)    山東京伝画    『狂歌笛竹集』二冊 京伝・三馬・種彦他画  六樹園撰 五側社中    ☆ 天保四年(1833) ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③301(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝北尾政演【重政門弟 文化中歿す】     俗称京屋伝蔵、住居京橋南伝馬町二丁目、姓岩瀬、本姓拝田、名伝蔵、字伯慶、号葎斎、又号醒世老     人、作名山東庵京伝、戯作の名なり、幼名甚太郎、江戸深川木場之産、両国回向院に墓碑あり、浅草     寺なる筆塚の碑名は、家弟京山人選文、    山東京伝は書画ともに善す、戯作に高名なるは、世に知る所なれば、爰にしるさず〟    ☆ 天保五年(1834)
△『近世物之本江戸作者部類』p36(曲亭馬琴著・天保五年成立)   〝山東京傳」    江戸京橋銀座壱町目の家主岩瀬伝左衛門【本姓ハ灰田也】の長男にて、実名を伝蔵といふ。名ハ田臧    (ノブヨシ)、字ハ伯慶、後に名を醒(サムル)、字を酉星と改め、山東庵と号し、醒々老人と称す、嘗画を北    尾重政に学びて北尾政演といひけり。しかれども画ハ得意にあらざりけれバ、棄て多く画かず。天明中    初てかたき討のくささうしを著す。【二冊物この書名を忘れたり】是その初作也。自然と滑稽の才、世    に勝れたりけれバ、寛政中より文化に至るまで、この人の作いたく行はれて、当時第一人と称せらる。    就中『心学早染草』又その後編『人間一生胸算用』共に善玉悪玉の趣向、尤時好に称ひて、今なほ人口    に膾炙す。【大伝馬町大和田安兵衛板三冊物、後編続編は蔦重板也】この他年々あたり作多し、枚挙に    遑あらず。是世の人に知る処なり。文化十三年丙子の秋九月七日の暁、脚気を患ひて暴(ニハカ)に没す。    享年五十六歳、九月八日本所回向院に葬る。法号智誉京伝信士と云    附ていふ。昔は臭草紙の作者に潤筆をおくることハなかりき。喜三二、春町、全交抔は毎歳板元の書賈    より新板の絵草紙錦絵を多く贈りて、新年の佳義を表し、且その前年の冬、出版のくささうしにあたり    作あれバ、二三月の比にいたりて、その作者を遊里へ伴ひ、一夕饗応せしのミなりしに、寛政に至て、    京伝馬琴に両作のミ殊に年々行れて、部数一万餘を売るより、書賈蔦屋重三郎・鶴屋喜右衛門と相謀り    て、初てくささうしの作に潤筆を定めたり。こは寛政七八年の事にて、当時ハ京伝馬琴の外に潤筆を受    る作者はなかりしに、後々に至りてハさしもあらぬ作者すら、なべて潤筆を得る事ハ、件の両作者を例    にしたるなり。是等の事をよく知るもの稀なれば、後世に至りてハ、誰か亦かゝる事ありとしもいふも    のあらんや。当時の流行おもふべし。さばれ当時といへども名の世に聞えざる素人作者ハ入銀とて多少    の金を板元の書賈に遣して、その作の草紙を印行さするも多かりき。今もなほさる作者も稀にあるべし〟    ☆ 天保十二年(1841)
 ◯『馬琴書翰集成』⑤325 天保十二年十一月十六日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-94)   〝(九月十六日、歌川国貞来訪して馬琴の肖像を写す由の記事に続いて)昔年、豊国が京伝没後に肖像ヲ    画き候ハ写真ニ候ひき。是ハ日々面会之熟友なれバ也〟    〈初代豊国の筆による京伝肖像のできばえが良いのは、二人の間に親密な交友があったからだと、馬琴は見ていたので     ある〉    ◯『戯作者撰集』(石塚豊芥子編・天保末~嘉永年間に成立)   〝山東京伝    京橋銀座一丁目に住居す、烟管煙草入并家製読書丸其外製薬を鬻ぎて業とす。諱ハ醒、字酉星、号醒々    斎、又山東庵菊花亭の号もあり、俗称を京屋伝蔵といふを以て京伝と呼ト云、画を北尾紅翠斎に学て、    北尾政演葎斎といふ、狂歌に身軽折助の名あり、文化十三丙子九月七日病て没ス、両国回向院に葬ス     法号 辨譽智海京傳 行年五十六才     吸付煙草の雲となり     居続日和の雨となり     夜着のうち蒲団のうへ     一生の歓会代金三万  京伝    右ハ本町庵三馬所蔵 屏風張交ノ内    (以下略)〟    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)
 ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   ◇「北尾重政」の項
   「北尾重政系譜」(重政門人。名前のみ)     ◇「北尾政演」の項   〝北尾政演 重政門弟 (空白)年中の人     俗称 京屋伝蔵 京橋南壱町目、     姓 岩瀬 本姓 拝田 名 蔵 字伯慶      号 葎斎 一に醒世老人     一号 山東庵京伝 戯作の名也 三歳の童子も不知はなし     幼名 甚太郎 江戸深川木場の産 両国回向院に墓碑あり、     浅草寺〈人丸社辺〉に筆塚の碑石立之(家弟京山人筆記)    京伝は書画ともに善す。〈双紙(ママ)画作又他人の作の指絵あり〉戯作に高名なる事は世に知る所なれば、    爰に誌さず。文〔政〕〈化〉十三子九月七日五十六歳にして卒、回向院に葬す。    〈京伝が事は曲亭の撰いはでもの記に詳なり)〟    〈「曲亭の撰いはでもの記」は曲亭馬琴の『伊波伝毛乃記』(文政二年成立)〉    ☆ 嘉永三年(1850)
 ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1396(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝山東京伝 北尾重政門人、名政演、俗名伝蔵、住京橋銀座町、洒落本、草双紙、戯作其名高し、文化十         三子年九月七日死、号宝山、狂名身軽折助(ミカルノオリスケ)〟    ☆ 嘉永七年(1854)
 ◯『扶桑名画伝』写本(堀直格著 嘉永七年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇北尾政演([34]巻十之六 雑家 47/138コマ)   〝政演 姓しられず 岩瀬氏 また北尾氏【本氏拝田】名は政演 或は醒 字は酉星 山東庵 醒々斎     醒世斎 醒斎 京伝 鼯鼠翁等の諸号あり 通称京屋伝蔵 或は由蔵 冊子の戯作に名あり また図絵    をよくし画風一家をなす 文化十三年九月七日死す 年五十六    (以下『異本諸家人名録』『和漢書画集覧』『江都名家墓所一覧』『文苑名家紀年大成』『古今墨跡鑒定便覧』記事    本HP所収記事と同様なので省略)  ☆ 安政二年(1855)
 ◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④246(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝北尾政演【京伝又醒々斎ト号ス、戯作ヲ以テ其名高シ、画風又一家ヲ成ス】〟    〔印章〕「山東」・「政演之印」・「巴山人」・「京伝」・「白珎」    ☆ 安政三年(1856)
◯『戯作六家撰』〔燕石〕②58(岩本活東子編・安政三年成立)   〝山東京伝     名は醒、字は酉星、醒々斎と号す、又山東庵、菊花亭等の号あり、通称を京屋伝蔵といふ、京橋銀座一    丁目に住して、烟管、煙包、並に家製の読書丸、其余製薬をひさぎて業とす、初め北尾政美に学びて、    画に葎斎政演と名のり、又、狂歌をよみて、身軽の折助と名のる。後、著述を専らとせり、中興戲作者    中の翹楚也、文化十三年丙子九月七日、病て没す、年五十六、両国回向院に葬る、     法号 弁誉智海京伝   (以下、浅草寺境内、柿本人丸祠の傍らの碑(文化十四年二月建立。表面に京伝の狂文、裏面に大田南 畝の漢文)・本所回向院の墓誌(文化十三年十月、文政五年六月十五日付、共に弟・山東京山の撰書) は省略。その他、門人のこと、戯作上の挿話、自画賛のこと等の記事あるも省略。「香蝶楼国貞画」 の京伝肖像画あり)〟    〈「北尾政美に学びて」は誤り。『戯作者撰集』も同内容だが、この箇所は正しく〝画を北尾紅翠齋に学て〟となって     いる。転写の際の誤記か〉    ☆ 安政六年(1859)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(安政六年刊)    北尾政演画    『本化高祖累歳録』五冊 法眼雪旦 堤等舟筆 蘭泉画 鄰松画 山本春重画 長谷川雪堤                北尾政演 東牛斎蘭香行年七十歳画 長谷川雪瑛 春英画 法橋関月                寛政甲寅原版歟 深見要言輯 広岡屋幸助求版    〈寛政甲寅は寛政六年。〔目録DB〕は寛政五年刊とする。但し画工名はなし〉    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)
 ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「北尾氏系譜」の項 ⑪186
   「北尾重政系譜」     ◇「北尾政演」の項 ⑪211   〝北尾政演    名は醒(初名は田蔵)、字は伯慶、後字を酉星、姓灰田氏、又岩瀬とす。山東菴、甘谷菊亭醒斎、醒々 老人等数号あり。京伝とは戯作の名なり。性書画ともよくす。戯作に高名なる事は世の知る処なり。文 化十三丙子年九月七日歿す。年五十六歳。本所回向院に葬す。法名知誉京伝信士〟    ☆ 明治十四年(1881)  ◯『新撰書画一覧』(伴源平編 赤志忠雅堂 明治十四年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝北尾政演 名ハ政演、通称京屋伝蔵、山東又醒々斎ト号ス、江戸ノ人、戯編一家成、頗妙也、又狂歌俗         画ヲ善クス〟  ☆ 明治十七年(1884)  ◯『内国絵画共進会会場独案内』(村上奉一編 明治十七年四月刊)   (第二回 内国絵画共進会 4月11日~5月30日 上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝北尾政演  京伝或ハ山東ト云。一宗ヲ成シ、文政(ママ)十五年五十六歳ニテ卒ス〟    ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝京伝    岩瀬氏、名ハ政演、葎斎又醒世、京伝ト号ス、字ハ伯慶、幼名甚太郎、通称ヲ京屋伝蔵ト云フ、江戸ノ    人。北尾重政ノ門人ナリ。又草双紙ノ戯作ニ巧ニシテ、世人ノ能ク知ル所ナリ。著書多ク伝播セリ。文    化十三年九月七日没ス。明治十六年迄六十八年〟  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループを代表する絵師   〝狂歌戯画    (牡丹花省柏) 式亭三馬 十反舎一九 太田蜀山人 加茂季鷹 宿屋飯盛 曲亭馬琴 山東京伝 暁鐘成〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝享和 北尾政演    通称京伝、山東菴、猩々斎等の号有り。戯作を以て世に知られ、傍に雑画を能す。其筆意頗る妙也。重    政門人。文化十三歿〟    ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『古代浮世絵買入必携』p16(酒井松之助編・明治二十六年刊)   〝北尾 政演    本名 京伝  号 葎斎  師匠の名 重政  年代 凡八十年前より百年迄    女絵髪の結ひ方 第八図 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、小判、細絵、長絵等    備考  〔空欄〕〟    ◯『浮世絵師便覧』p224(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝政演(ノブ)    岩瀬氏、名は、醒、重政門人、戯作の大家、山東京伝と称し、自画作の草双紙多し、文化十三年死、五    十六〟    ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p114(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   〝案ずるに、この浮牡丹全伝刊行のことにつき、板元住吉屋政五郎が遂に破産せしよしは、細に作者部類    に載せて、暗に京伝がおこたりの罪をせめたり。はじめ板元政五郎が浮牡丹著作を依頼するや、京伝は    承諾しながら、稿本をかかずして、先ずさし画を豊広に画かせたり。従来さし画は、稿本を熟読して後    に画くにあらざれば、其の真趣を写すこと能わざるものなり。然るに豊広は板元の請により、止むこと    を得ず、稿本を見ずして画きしが、其の実は甚だ迷惑せしならん。しかして此のごとく苦慮して画きた    るさし画は、既になるといえども、京伝はなお稿本をかかずして、三年をうち過ぎたり。尋常の画工な    れば、かならず憤りて、彼がおこたりの罪をせむべきに、豊広はさらにいかれる色のなかりしにや、よ    く人の非を数(カゾ)うる部類中にも、其の事見えざれば、彼は板元の依頼に対し、約束のごとく画き終    わりて、他を顧みざるもののごとし。これ豊広の人となり、寛闊にして、小事に区々たらず。その見識    卓然として、争う所なき一班を伺うに足る也〟    ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『名家画譜』上中下(金港堂 12月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝中巻 目録 故北尾政演「天明年間吉原所見」〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(40/103コマ)   〝北尾政演【寛政元年~十二年 1789-1800】    姓は岩瀬、本姓は拝田、名は醒、自伯慶、また酉星、山東庵と号し、京伝と称す、醒斎、醒世老人等の    別号あり、通称京屋伝蔵、幼名甚太郎、宝暦十一年辛巳八月十五日、深川木場町の質店伊勢屋に生る、    長じて後、京橋銀坐二丁目に住みて、煙管煙草入を鬻ぎ、又製薬を売りて生業とす、初め画を北尾重政    に学びて、葎斎政演と称し、狂歌を詠みて、戯名を身軽の折助と呼ぶ、年十九にして稗史を作り初めし    より、上梓するもの百五十余編に及び、京伝の名は海内に鳴りぬ、晩年に至りて絵を廃し、専ら書述を    なせり、世に京伝をもて、戯作者中興の翹楚と呼ぶ、文化十三年丙子九月七日病て没す、享年五十六、    遺骸は両国回向院に葬る、法号弁誉智海京伝     (本伝は『戯作者小伝』『新編稗史通』『浮世絵類考』等に拠る)〟  ☆ 明治四十一年(1908)  ◯「集古会」第七十回 明治四十一年十一月 於青柳亭(『集古会誌』己酉巻一 明治42年6月刊)   〝磐瀬浅々(出品者)山東京伝 芸妓夕涼画賛     来る秋と残る暑のうわさして戸の立てられぬ人の門口 一幅〟  ☆ 大正年間(1912-25)  ◯「集古会」第九十三回 大正二年(1913)五月(『集古会志』癸丑之四 大正4年7月刊)   〝佐藤鞠南 (出品者)広重・京伝等合作書画 東の手ふり 一幅〟  ◯「浮世絵漫録(一)」桑原羊次郎(『浮世絵』第十八号 大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝(明治四十二年十月十七日、小石川関口町の本間耕曹を訪問して観た北斎ほかの作品リスト)    本間氏蔵の浮世絵 但し本間翁没後他に散逸せしやに聞く    山東京伝筆「団扇二枚張」画題は大津絵にて出来よし〟  ◯「集古会」第百三十二回 大正十年(1921)三月(『集古』辛酉第三号 大正10年4月刊)   〝永田有翠(出品者)     京伝画 傾城買廓大帳 自作 寛政元年     同   傾城觹    自作 天明八年〟  ◯「集古会」第百三十五回 大正十一年(1922)一月(『集古』壬戌第二号 大正11年2月刊)    三村清三郞(出品者)     京伝自画賛 盲人狗子 一幅     黄表紙 京伝画 花芳野犬斑 一冊〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵〈小林文七嗣子〉    北尾政演「青楼十二時図巻」(十二図の内六段)  ◯「集古会」第百五十三回 大正十四年(1925)十一月(『集古』丙寅第一号 大正14年12月刊)   〝三村清三郞(出品者)政演画 艶模様曽我雛 安政九〟  ◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   〝京伝忌    大正五年十月八日 両国回向院にて図画刊行会・国書刊行会の催にて山東京伝百年祭あり、肖像いくつ    も出陳されたれど、其紋丸に木瓜なるあり、巴山人の印面なるあり、輪なし抱茗荷あり、また其外にも    ありたりと覚ゆ、輪なし抱茗荷よきやうに思はれたり、山東正舗の木彫横看板、いと面白く覚えぬ、引    首印に老人邨、名印に藤承之印、道号印に玄斎主人とあり、青山の殿様でもあるにや、蜀山人懐紙幅、    曰く、二代山東京伝子を祝して        万歳のつゝみも二代うちつゝくむかしの京伝今の京伝 △印    印は例の三角の中に蜀山とあるものなり。二代の京伝 予は知らず〟    〈予は竹清。これらは大正12年の大震災の禍に遭ったか〉  ☆ 昭和以降(1926~)  ◯「集古会」第百六十回 昭和二年(1927)三月(『集古』丁卯第三号 昭和2年4月刊)   〝三村清三郞(出品者)山東京伝自画賛 盲人 一幅〟  ◯「集古会」第百六十一回 昭和二年(1927)五月(『集古』丁卯第四号 昭和2年8月刊)   〝三村清三郞(出品者)京伝作 諺下司話説 一冊 寛政八年〟〈〔国書DB〕画工は北尾重政〉  ◯「集古会」第百六十四回 昭和三年一月(『集古』戊辰第二号 昭和3年2月刊)   〝三村清三郞(出品者)龍に因む黄表紙     京伝画作『無間鐘梅枝伝』天明八年 /同左 三馬序 再刻本〟  ◯『狂歌人名辞書』p210(狩野快庵編・昭和三年(1928)刊)   〝北尾政演、山東京伝の画号、初め重政に就て浮世絵を学ぶ(京伝を看よ)〟    ◯「集古会」第百七十三回 昭和四年十一月(『集古』庚午第一号 昭和4年12月刊)   〝狩野快庵(出品者)山東京伝自画賛 松に鶴 扇面 一帽      雲助の駕籠より安く仙人を乗せかへて背を休む友鶴 京伝画賛〟  ◯「日本小説作家人名辞書」(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   ◇「山東京伝」p752   〝山東京伝    灰田田蔵、字は伯慶、幼名を甚太郎といひ、後伝蔵といふ。又岩瀬醒と改め字を西生といふ。通称は京    屋伝蔵、山東庵、醒斎、甘谷、菊軒、醒々翁、葎斎等のほか醒、菊を使つた号が多くある。狂名を身軽    折助といふ。宝暦十一年八月十五日に生れ、京橋の銀座二丁目に住む。袋物商及び売薬を業とした。青    年期にあらゆる方面に憧れを持ち、長唄と三味線を堺町の松永某に習ひ、絵を北尾重政に学んだ。北尾    政演はその画名である。文化十三年九月七日歿、享年五十六。両国の回向院無縁寺に葬る〟
  ◇「山東唐洲」p752   〝山東唐洲    山東京伝の別号〟    〈水野稔著『山東京伝年譜稿』は「京伝門人山東唐洲」とし、かつては京伝の架空の門人と考えられてきたが、やはり     門人の山東鶏告と同じように実在の人物と見るべきであるとしている〉     ◇「匀張堂少通辺人」p807   〝匀(ママ)張堂少通辺人    山東京伝の初号と云はれて居る。「開帳利益札遊合」(安永七年(1778)刊)の作者〟    〈「日本古典籍総合目録」は「者張堂少通辺人」とする。水野稔著『山東京伝年譜稿』は「作者らしい「者張堂少通辺     人」の名が二丁表に見える。これを政演すなわち京伝の匿名とする説も行われているが、なお疑問は残る」とする〉    ◯『浮世絵師伝』(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   ◇「京伝」p46   〝京伝  政演の項にあり〟
  ◇「政演」p187   〝政演    【生】宝暦十一年(1761)  【残】文化十三年(1816)九月七日-五十六    【画系】重政門人      【作画期】安永~文化    北尾を称す、本姓拜田、故ありて岩瀬を氏とす、名は醒(サムル)(初名田臧)、字は伯慶、後に酉星(一    に有儕)と改む、幼名を甚太郎といひ、後に伝蔵と称す。父の代より京橋銀座一丁目に住し、商業を営    み家号を京屋と云へり。彼は後に、其が新案に係る煙管及び煙草入などを売りし事あり、世人彼を呼ん    で京伝と云ひしは、京橋の京と俗称伝蔵の伝とを取りしものとも、又は京屋伝蔵の略称なりとも伝へら    る。按ずるに、初めは他称なりしを後に自から雅号として用うるに至りしものならむ。彼が居所は恰も    楓葉山の東に当れるよりして、山東庵・山東居・山東窟・山東軒・山東人・山東亭・瑚洞散士などの号    を用ゐ、其他、葎斎・醒斎・醒々斎・醒々・醒世・世醒老人・宝山・素石・鼯鼠(ムササビ)翁・臍下逸    人・洛橋陳人・甘谷・菊亭(後ち菊軒と改む)・菊花亭等の諸号あり、又狂歌名を身軽折輔(初め織輔)    と云へり。彼は、安永七年(十八歳)に『お花半七・開帳利益札遊合』といふ黄表紙に挿画す、これ即    ち彼が処女作なりと伝へられたるものなり。同九年版の草双紙評判記『菊寿草』に彼を画工の部に加へ    たるを見れば、当時既に斯界に相当の位置を占め居りしものと察せらる。爾後年々歳々自作或は他作の    黄表紙に挿画し、其の間、錦絵に役者絵、美人画などの作あり、就中天明四年版の『吉原傾城・新美人    合自筆鏡』(特大倍判錦絵七枚の帖)、及び大判錦絵「当世美人色競」の数図(口絵第三十五図参照)    等は、彼の傑作として有名なり。蓋し其の頃よりして、彼の画技は益々円熟の域に進みしが、一方には    山東京伝の号を以て、黄表紙・洒落本などに軽妙洒脱の文を綴りしかぼ、画名文名並び称せらるゝに至    りしも、彼は自己を知るの明ありて、徐々に文壇に地歩を進むると同時に、自然的に浮世絵界を退くこ    とゝはなりにき。即ち寛政三年春発行の『早染草後編・人間一生胸算用』其他同年発行の黄表紙類は、    彼が政演としての最後の筆と認むべきものにして、恐らくは、此の年より其が画名(政演)を廃し、従    来文学上にのみ使用せし「山東京伝」の号を作画上にも併用したるなり。彼の晩年を記念すべきものは、    幾多の戯作と、肉筆の自画賛と、今一つは、『浮世絵類考追考』(写本、享和二年編)・『近世奇跡考』    (文化元年版)・『骨董集』(文化十二年版)等の著書なり、曾て蜀山人が彼の肖像画(鍬形蕙斎筆)    に賛して曰く「しやれ本は皮と肉にて書のこす骨董集ぞまことなりける」と、其の名著『骨董集』の続    稿を執筆半ばにして、彼は卒然長逝(脚気衝心ならむと云ふ)せり、法名弁誉智海京伝信士、両国回向    院墓地内先塋の側らに葬る。彼の詳伝は、大正五年宮武外骨氏の編纂に係れる『山東京伝』につくされ    たれば、こゝには、単に画家としての彼を紹介するにとゞむ。(栄里の錦絵に彼の肖像画あり、口絵第    四十九図参照)〟    〈黄表紙『心学早染草』は寛政二年の刊行で山東京伝作だが、画工は北尾政美。『人間一生胸算用』の方は翌三年の刊     行で最終丁に「京伝戯作・自画」とあるものの、政演の署名はない。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」に     よれば、黄表紙では寛政二年刊の二点『花芳野犬斑』と『冷哉汲立清水記』が政信画の最後のようである。それ以降     となると、次の二点しかない。一点は寛政六年刊の咄本『紙鳶』だが、これは天明七年刊行の『島台眼正月』(黄表     紙・社楽斎万里作・北尾政演画)「改竄増補本」とあるから、政演の署名が政演の了解のもとで使用されたか分から     ない。もう一点は寛政十年刊行の狂歌本『男踏歌』(浅草市人撰)。いずれにせよ『浮世絵師伝』が言うように、政     演画の署名は寛政二年ごろまでの使用と見てよいのではないか。もっともこれは画工から身を引いたという意味では     勿論ない。山東京伝作・画の作品は寛政三年以降も見られるからである〉    ◯「集古会」第百九十四回 昭和九年一月(『集古』甲戌第二号 昭和9年月刊)   〝三村清三郞(出品者)山東京伝自画賛 大津絵狗と盲人 一幅     秋来ぬと目にはみえねど桐の下駄のひとはかくるにおどろきやせん 京伝筆〟  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「安永七年 戊戌」(1778)p134   〝此年、北尾政演十八歳の画として処女作『おはな半七開帳利益札遊合』あり。蓋し青本なり〟
  ◇「天明三年(癸卯)」(1783)p139   〝七月、北尾政演(山東京伝)と北尾政美の画ける『狂文宝合記』出版〟    此年、大阪の丹羽桃渓の画ける『みをつくし』出版〟
  ◇「天明四年 甲辰」(1784)p140   〝北尾政演、此年二十四歳にして六枚続きの錦絵『吉原傾城新美人合自筆鑑』を画く。    六月、北尾政演『色摺巻紙合』を画く〟
  ◇「天明五年 乙巳」(1785)p141   〝政演の挿絵としての傑作洒落本『令子洞房』出版〟
  ◇「天明六年 丙午」(1786)p143   〝此年、北尾政演『後編小紋新法』の著あり〟
  ◇「天明八年 戊申」(1788)   〝此年、京伝の画作『夜半の茶漬』等の洒落本あり〟
  ◇「寛政元年(正月二十五日改元)」(1789)p149   〝此年、青本の絶版の命を受けたるもの多く、一は北尾政演画、石部琴好の『黒白水鏡』、    天明年間、佐野善左衛門が、老中田沼意知を刃傷に及びしを戯作せしもの(云々)〟
  ◇「寛政三年 辛亥」(1791)p153   〝三月、山東京伝(北尾政演)其著洒落本『錦の裏』『娼妓絹篩』『仕掛文庫』の三部の表に特に教訓読       本と記せし段不埒なりとて手鎖五十日の刑に処せられ、板元蔦屋重三郎は身上半減闕所に処せら       れたり〝
  ◇「寛政六年 甲寅」(1794)p156   〝正月、山東京伝(北尾政演)の『絵兄弟』出版〟
  ◇「享和二年 壬戌」(1802)p168   〝此年、山東京伝『浮世絵類考』の追考を著す〟
  ◇「享和三年 癸亥」(1803)p169   〝正月、山東京伝(北尾政演)の『奇妙図彙』出版〟
  ◇「文化三年 丙寅」(1806)p174   〝三月四日、芝車町より出火、北尾政演の銀座の家宅類焼せり〟
  ◇「文化一三年 丙子」(1816)p189   〝九月七日、北尾政演歿す。行年五十六歳。(政演は即ち軟派の著述家として有名なる山東京伝の浮世絵    師としての号なり。本姓岩瀬氏、京屋伝蔵と称して、京橋に袋物屋を営みて生業とせり。絵を北尾重政    に学び、葎斎政演と号せり。其の技倆を窺うに足る好材料は天明四年出版の『吉原傾城新美人合自筆鑑』    にして実に政演二十四歳の作なり。政演多能にして後一流の著作者になりてよりは又往日の如く浮世絵    を画かずになりしは惜むべし)〟  △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五(1940)年刊)   「本所区」回向院(東領国二ノ二)浄土宗   〝山東京伝(戯作者)本名岩瀬醒、通称京屋伝蔵、醒斎の別号あり。絵を北尾重政に学び政演といひてよ    くすまた狂歌にも巧なり。黄表紙、洒落本、読本を著はすこと二百余種、戯作者として重きをなせり。    最も好評を博せしもの、稲妻表紙、本朝醉菩提、骨董集、近世奇跡考などあり。文化十三年九月七日歿。    年五十六。弁誉智海京伝居士。指定史跡〟    △『増訂浮世絵』p181(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝北尾政演     政演は浮世絵師としても、当時の一名家であつたが、山東京伝の名、戯作者として、その生涯が著しく    世に知られてゐる。氏を灰田、又は岩瀬と云ひ、通称を甚太郎或は伝蔵と呼ぶ。京伝と号したのは、京    橋の近く住みて、屋号を京屋といつたのに因つたのであつて、著作上の別号には、山東庵その他、種々    異なつたものを用ひて居る。初め北尾重政に就いて浮世絵を学び、葎斎政演と号した。可なり早くから    錦絵及び黄表紙の挿絵等、版画を多く製作したが、後に著作の方が忙しくなつてからは、あまり絵筆に    親しまなくなつた。錦絵は、最初は師風を摸した中判ものを多く作つたが、後には大錦判で、自分の特    色ある優れた作品を出すやうになつた。錦絵には、遊女の風俗が多く取扱はれてゐるが、それの代表作    と見るべきものは、天明四年に完成された『青楼美人合自筆鏡』である。此は大形の画帖で、天明二三    年頃に画かれ、大門に居つた頃の蔦屋から出版されたものである。政演は若年頃から、多くの日を青楼    に送つた人であるから、かうした社会の風俗を描写するには、頗る適当した腕を有つてゐる。然し大体    からいふと、彼の作品には、師重政の画風が可なり著しく現はれて居る。(中掠)    肉筆画にも、中々技術の優れたものがある。筆力を見るべき材料としては、もと屏風であつて、今掛幅    いなつて居る紙本粗画の美人画に自賛したものがあるが、中々達筆のものである。また(中掠)風俗通    といふのは、文化五年に画いたものであるが、其の時の風俗を写して百年の後の参考に供しやうとした    もので面白い。文化五年といへば、京伝四十八歳である。既に文学者として名をなして、画筆を取る暇    もなかつたのであらうが、時々彩管をとつたのである。    (「京伝と草紙類」の記事、省略)    政演は文化十三年九月七日、享年五十六歳にて没した。法号を弁誉智海京伝居士と称し、江戸本所の回    向院に葬つた。墓石には岩瀬醒墓として、弟京山が撰文をなし、且つその文を書してゐる〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔北尾政演画版本〕    作品数:134点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:北尾政演    分 類:黄表紙103・咄本9・艶本6・洒落本6・狂歌4・絵画2・絵本番附1・滑稽本1・        風俗1    成立年:安永5成(天明年間刊)(1点)安永7~9年(17点)        天明1~8年(84点)(天明年間合計92点)寛政1~2・6・10年(12点)      〈安永五年(1776)成立の作品は芝全交作の黄表紙『能天御利生』で、出版は天明年間という。ただ、水野稔氏の『山     東京伝年譜稿』(1991年・ぺりかん社刊)には安永五年の項目にこの件に関する言及はない。やはり、画工として     の初作は安永七年の黄表紙『開帳利益札遊合』とみてよいのであろう。寛政期は十二点あるが、そのうち九点が寛     政元年(1789)から二年かけてのもので、黄表紙が八点、艶本が一点である。しかしそれ以降、政演が黄表紙の画工     を担当することはなかった。寛政六年十年の作品は咄本・狂歌・『四時交加』という風俗絵本である。寛政初年、     つまり寛政の改革以降、京伝は画工・北尾政演としてより著作者・戯作者・山東京伝として歩みはじめたのである。     なお、「日本古典籍総合目録」は「別称」として「岩瀬・醒・田蔵・菊亭主人・鶏告・山東舎主人・者張堂・少通     辺人・醒斎・醒世山人・有済・岩瀬醒・者張堂少通辺人・山東けいこう・山東鶏告・京伝・岩瀬有済・けいこふ・     山東けいこふ・山東鶏告・岩瀬田蔵・山東庵主人・岩瀬醒斎」をあげている〉