Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ 菱川師宣家譜(ひしかわもろのぶかふ)浮世絵事典
  〈安房平群本郷村在住の医師・渋谷元竜が、山東京伝の依頼に応えて作成した師宣の家系に関する記事と、出生地保田村    近辺に散在する師宣作品に関する記事〉  ◯「菱川師宣家譜」山東京伝輯   (『【四大奇書】集古随筆』(井口松之助編・明治三十二年刊)所収『捜奇録』巻之一)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(73/151コマ)   〝菱川七右衛門(寛文二壬寅二月十五日卒)    → 吉左衛門道茂(入道光竹 家業縫箔師)    → 吉兵衛師宣(入道友竹 家業縫箔師後画師 縫箔下絵を書候て一流之画書覚へ候由承伝候)      ・二男正之丞    → 吉兵衛(実名不分明 家業紺屋)・二男沖之丞    → 佐次兵衛重嘉(家業紺屋)・二男弥右衛門    → 佐次兵衛師壽(家業紺屋 書画共に致候得共画より書よろし)・二男三郞兵衛    → 善次郎師興(家業紺屋 画もいたし候)・二男儀助・三男友五郎      女子幼少早世之分略之      善次郎死後嗣子無之 二男儀助相続仕処 是亦嗣子無之 唯今他家より養子にて相続 血脈断絶い      たし候 女子他に嫁し候後胤之物は有之候得ども 先祖来由百年有余の事故 相分不申候    一 菱川代々卵塔 島町林海山別願院と申浄土宗の寺に有之候得共 崩滅いたし相知れ不申候 旦那寺      は隣村元名村亀幅山存林寺と申禅宗に御座候 師宣命終の年月 過去帳等にも相見不申候 道茂年      月 前書に申候通御座候 佐次兵衛重嘉以後は宝暦年間之事故 巨細に相分可申候 御入用に御座      候はゞ 法名年月追て書付差上可申候    一 吉左衛門道茂・吉兵衛師宣 何れも東都住居にて家業之由承伝候へども 百年前の事 町名何れに      住居哉相知不申候    一 縫箔師之末流白銀町大竹新七と申縁類の由 四五拾年以前此方へ尋参候由 名は笹屋新七と申候由      御尋候はゞ少しは相分可申候    一 画師之末流 両国米沢町に古山師政と申有之山(ママ)に御座候 是亦御尋候はゞ 于今存命候て画系      相分可申事に御座候    一 此辺に相残り有之もの      当町 雄誉松風上人開基 同開基当国安房郡大網村仏法山大厳院末寺         境内 洪鐘一口 別に施主書付一枚摺取遣候            周廻 七尺 厚 二寸五分 口広 二尺二寸五分 長 三尺五寸            右 菱川吉兵衛尉藤原師宣入道友竹 寄進        同寺に 善道円光両大師画像 二幅 師宣画      隣村 元名村大福山日本寺 当時千二(ママ)百羅漢山号鋸山          本尊薬師堂へ 堀川夜討絵馬 一枚 右師宣画          同寺に 中・寿老人 左・大黒 右・恵美須 三幅対掛物         元名村亀福山存林寺 菱川氏代々旦那寺也          阿弥陀三尊 是は十年ばかり以前焼失其節焼失 今は亡          右 師宣縫(髪毛にて縫たり)         吉浜村 神明社前 夜討曽我絵馬 一枚 右師宣画         船形村 小那古観音堂前 主馬判官盛久依観音経功徳刀刃断々壊之絵馬 一枚       右 保田町 元名村 吉浜村 船形村 当国平郡に御座候    一 当国長狭郡高蔵山大山寺明王院と申修験寺に(大山寺迄保田より行程四里)      富士絵 横物 一幅 日本絵菱川師宣図と有    一 同寺に 牡丹に獅子 縫物にて掛物 右保田村菱川吉左衛門と縫有    一 上総国天羽郡百首村松翕(ママ)院と申浄土宗之寺に 髪毛にて縫候涅槃像 草鳥獣蟲魚にいたる迄髪      毛 施主書付等縫候て精細に相見申候 右菱川吉左衛門    一 其他長狭郡大山寺 本尊不動堂鏡天井之龍画並壁板等 師宣画色々有之候処 本堂破壊に付 七年      亥是再建候故 唯今では無之候    一 右菱川之家に墨画龍有之候処 破れ候て廃失いたし候 外に縫候て人麿像 机に筆を持候形 ほの      /\の歌 慶安二年正月 房州保田村 菱川吉左衛門と縫有之      右菱川家苗絶候節 平群小田村十右衛門と申人持行候由にて 右十右衛門方に有之申候    一 右菱川師宣家系之義 山東京伝先生より御尋に付 送老軒え被仰越候故相糺候得ども 当年相丁百      年 元禄十六癸未十一月廿三日夜 大地震大津浪にて 当町内にても三百十九人没死候程に御座候      へば 家屋家財も流失いたし 古代之もの所持いたし候ものも無之 殊更菱川氏居宅 海岸近に有      之故 第一番に流失と相見え 我等見覚候ては何も無之様に存候 佐次兵衛師壽と申候ものは我等      母方の叔父に候得ば 少しは承伝候事ども書付申候 家系並画手本やうのものも有之覚候処 此前      十二年以前九月四日 又々安房上総下総海辺大浪にて 其節儀助存命中の事に候得共又候家財流失      候て 当時は先祖位牌も無之候て不明なることに御座候 此節画家に御用の事に推察仕候故 吉兵      衛師宣事跡相糺可申存候処 此外師宣画抔隣村近郷中存在候処も可有之候得ども見物候のみ書付候      此後見出し候はゞ書付差上可申候 此度山東先生御著作梓行にて 菱川家名 追福にも相成 且国      処の規模にも候得ば 委敷相糺度候得共 年暦程遠して不分明の事にて残念奉存候 未接芳容候得      ども 御序の節山東先生へ宜敷御吹挙奉冀候 書外面晤不宜                                   葆真斎 維民 頓首      自然菴老大人足下〟    〈この書簡の主・葆真斎は、安房平群本郷村の医師渋谷玄龍(京伝の『浮世絵類考追考』には元竜とある)という人で、     「佐次兵衛師壽と申候ものは我等母方の叔父に候」とあるから、この人の母親が菱川師寿の姪にあたるらしい。この報     告によると、元禄十六年(1703)十一月二十三日の関東大地震や寛政三年(1901)九月四日の高波によって、菱川家のお     よび師宣ゆかりの遺品が随分失われてしまったようだ。菱川家代々の墓は「崩滅いたし相知れず」、旦那寺の過去帳に     あたっても師宣の没年月は分からなかったという。なお参考までにいうと、師宣の没年月が記載されていたのは、安     房富山町(現南房総市)の浄土真宗勝善寺の過去帳で、それには元禄七年六月四日とある由である。(勝善寺は師宣の     妹ヲカマの嫁ぎ先。またこの発見は昭和三十三年とのこと(千葉県南房総市・勝善寺沿革))     不思議なことがある、記事中、保田の別願院に寄進した梵鐘の寸法記事は、京伝の「追考」記事と同じものだが、「追     考」にはあった寄進日の記述「元禄七甲戌歳 五月吉日」が、この京伝編輯の「菱川師宣家譜」にはないのである。書き     忘れたのか意図的にそうしたのか不明である。     ところで、この書簡には日付が入っていない。それに関して、水野稔先生の『山東京伝年譜稿』は、享和二年の項に     「この年、菱川師宣の家系について、安房保田在の曽孫の甥に人を介して照会することあり」と記している。つまり     その返信がこの書簡である。これはおそらく「追考」の奥書「享和二年壬戌冬十月記 山東庵」を念頭に置いての判断だ     と思われる。十月以前にこの書簡が京伝の許に届いて、梵鐘の寸法や寄進日記事を「追考」に加筆したと考えられるか     らだ。なお、送老軒や自然菴老大人なる人物は不明〉