Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ くにまさ うたがわ 歌川 国政浮世絵師名一覧
〔安永2年(1773)? ~ 文化7年(1810)11月30日・38歳〕
 ※〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館 〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』   『洒落本大成』1-29巻・補巻 中央公論社    ◎は表示不能文字  ☆ 寛政十年(1798)    ◯『洒落本大成』第十七巻(寛政十年刊)    歌川国政画『郭通遊子』署名「応需 国政画」藍江作    〈「日本古典籍総合目録」は寛政九年刊とするが、解題は「序の「馬の春」から寛政十年戊午の正月板とすべきである」     とする〉    ☆ 寛政十一年(1799)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政十一年刊)    歌川国政画    『今日歌百猿一首』狂歌 一巻 国政画 春好左筆 勝春英画 俵屋宗理画              立川談洲楼焉馬編 上総屋利兵衛板    『俳優楽室通』一巻 画工一陽斎豊国 門人国政 口画 歌麿筆 式亭三馬輯 上総屋忠助板  ◯「死絵年表 寛政十一年」(本HP・Top・特集)    歌川国政画「市川団十郎(六代目)」(5月13日没・22歳)二点    1「市川団十郎追善」署名「国政画」版元不明    2「市川団十郎」署名「国政画」版元不明    ◯「日本古典籍総合目録」(寛政十一年刊)   ◇演劇    歌川国政画『役者三十二相』一冊 喜多川歌麿・歌川豊国・歌川国政画    ◯『今日歌白猿一首』(立川焉馬編・寛政十一年刊)〔目録DB〕画像    挿画「岩井半四郎・楠奥方菊水役、市川蝦藏・正行役」図 署名「国政画」    〈寛政十年十一月、中村座の顔見世興行において、二十一歳の六代目団十郎が初めて座頭を務めることのなった。その     とき、寛政八年の引退以来、成田屋七左衛門と称して隠居していた五代目が、約二年ぶりに舞台に復帰して市川白猿     の名で口上を述べた。これを江戸の人々がこぞって大歓迎し、狂歌を詠んで祝意を表した。この狂歌集はそのとき披     露された口上や白猿自身が詠んだ狂歌、また人々から寄せられた狂歌などを編集してなったもの。歌川国政もまた、     この顔見世興行(「花三舛吉野深雪」)に取材、楠正成の奥方菊水を演じる岩井半四郎と、正行役の市川蝦藏(当時     八歳)とを画くとともに、次のような狂歌を詠んでいた〉     〝中村の柱立かや三ツ扇 さも棟梁のやうななりたや 歌川国政〟    〈三ツ扇は岩井半四郎の定紋、成田屋は市川白猿(五代目団十郎)の屋号。白猿の口上が実現したのは、岩井半四郎の     たっての要望からのようだ。なおこの時狂歌と絵を寄せた浮世絵師は他に、勝川春好・勝川春英・俵屋宗理(北斎)。     狂歌を寄せたのは、左尚堂俊満・歌川豊国・勝川春潮であった〉    ☆ 寛政十二年(1800)    ◯『洒落本大成』第十八巻(寛政十二年刊)    歌川国政画『白狐通』署名「国政画」梅暮里谷峨作         『廓の癖』署名「国政画」梅暮里谷峨作    〈「日本古典籍総合目録」は『【二筋道後編】廓の癖』の刊年を寛政十一年、画工を国政とするが、第十八巻の解題に     よると、国政画は寛政十二年刊の改刻本。寛政十一年の初板本には落款がないが、前年の『傾城買二筋道』の画工・     雪華であろうという〉    ☆ 寛政年間(1789~1801)    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱445(大田南畝著・寛政十二年五月以前記)  〝国政(以下朱筆)中山富三郎似皃ヲ画テヨリ板下ヲ画く。歌舞伎役者の似顔をうつす事をよくす〟    ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
   「歌川派系図」    ☆ 文化四年(1807)    ◯『街談文々集要』p94(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化四年」記事「戯子徳治終」)   〝戯子大谷徳治、俳名馬十、道化方の名人なり、当七月十七日、上方ニおゐて死去す、戒名     徽徳俊芸信士【文化四丁卯年七月十七日】(紋所あり)     辞世 やまひにも身代りほしき切子哉     (贔屓連中が配った摺物にある追善句・過去の評判記記事あり、略)        (大谷徳次の肖像の模写あり、その中に「国政画」の落款。式亭三馬の画賛あり)     腹筋をよる/\度のしのび寐るにうき名は高くあらハれてポイ  式亭三馬〟    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝国政【甚助 豊国門人】    これもまた歌舞伎役者の似顔をうつす事を能くす〟    〈「これもまた」とは前項の歌川豊国を受けての表現。大田南畝の『浮世絵考証』の朱筆部分の「中山富三郎似皃ヲ画     テヨリ板下ヲ画く」がない。石川雅望が削除したのが、あるいは雅望が入手した『浮世絵考証』にはこの文がなかっ     たのか判然としない。俗称の「甚助」は加筆〉    ☆ 文化七年(1810)(十一月三十日没・三十八歳)    ◯『一対男時花歌川』(式亭三馬作・前編 歌川豊国画、後編 歌川豊広画・文化七年刊)    〈『一対男時花歌川』の出版の経緯は下出「一対男時花歌川」『戯作六家撰』に出ている。(本HP「浮世絵事典」の     項「一対男時花歌川(イッツイオトコハヤリウタガワ)」参照)下出の挿絵は口上の場面、肩衣に「馬」の字は三馬の門人、肩衣に     「年玉印」は歌川門の人々。いわば一門あげての和解である。豊国が中央、左右に豊広と三馬がいて、背後に双方の     弟子たちが控える。名を列記すると、三馬側は益者三友・徳亭三孝・楽亭馬笑・古今亭三鳥。歌川派は豊広の脇に倅     の金蔵、そして国貞・国丸・国安・国長・国満が控える。ただ、国貞はなぜか一人だけ離れて、三馬の門人側に座っ     ている。この挿絵は豊国が画いたのだろうが、この配置に何か意味があるのだろうか。そして挿絵の上部にやはり連     中の名の入った提灯が下がっている。右から馬笑・三馬・三孝・三鳥・三友・豊広・金蔵・年玉印だけのもの・国貞     ・国安・国政・豊国・国長・国満・国丸・国久・国房と並んでいる〉        『一対男時花歌川』前編・口上 豊国画      「一対男時花歌川」(『戯作六家撰』)    (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ☆ 文化年間(1804~1818)    ◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化年間記事」)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸。筠庭云ふ、国    丸は国貞の前にあるべし。猶古きは国政なり。瀬川富三郎が似貌は、之が書き初めたり〟     ☆ 没後資料    ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)       〝三馬按、国政俗称甚助、奥州会津ノ産ナリ。此伝別記ス〟    ◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序)   (「初代歌川豊国」の項)   「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる
   「豊国筆塚碑」    〈『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年編)「一世歌川豊国伝」所収の「豊国筆塚碑」には「国文」に     相当する位置に「国政」とある〉    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年(1833)成立)  ◇「歌川豊国」の項(初代豊国門人)③305
   「一陽斎豊国系譜」〝初代豊国門弟 国政【俗称別記ニユヅル】〟    ◇「歌川国政」の項 ③306  〝歌川国政【寛政ノ末ヨリ、享和、文化ノ始メノ人】     俗称甚助、奥会津ノ産、号一寿斎、居始芳町、堀江町、後市ヶ谷左内坂ニ住    豊国門人なり、豊国の高弟にて、二代目国政と云ふ、画はるか後に見へたれ共、板下を不見、何人か不    知、始紺屋を業とす、生質芝居を好の一癖あり、僅のいとまあれば、狂言を見物す、元より画を画り、    俳優の面を似せて画く、甚妙なり、紺屋の主豊国と交り深かりしかば、其故を物語りす、豊国傍に招き    てかゝしむ、其似するを見るに、面体の癖を似する事、豊国の不及事多し、則需に応じて門人となす、    或時、中山富三郎【世にグニヤ富と異名す】の似顔を画く、其人側に在が如く、目前に見るが如し、其    頃、専ら、似顔、半身の団扇絵流行す、団扇問屋是を見、板下にかゝしむ、市中に売る、世人始めて、    面部の似たる事奇なるをもてはやし、不計の利潤を得たりしかば、夫よりして、多く団扇画を画しむ、    師豊国是に及ざりしかば、国政が画くところを以て規矩とす、しかれども、一時風説夥しかりし故、国    政が名大に世に行れたり、師豊国、専ら役者を国政に似せてかきけり、ゆへに、世人反て国政が門人な    らんと云しとぞ、後、錦画にも多く出しが、画道に深く不入、学所拙ければ、人物全く不備、僅か三四    年にして止む、終に豊国が筆力を以て永く世に行れしなり、草双紙、絵本は不画して廃せり、後、似顔    の面を作りて、童子の為に売りけり、歿ところ不知〟    ☆ 天保十五年(1844)  ◯『紙屑籠』〔続燕石〕③72(三升屋二三治著・天保十五年成立)   (「役者似顔絵師 歌川」の項)   〝豊国門人 国政【富三郎、高麗蔵、うちは絵大首の始、二代目国政は役者絵出さず】〟    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   ◇「初代歌川豊国」の項    「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる 「豊国筆塚碑」    〈「国文」は「国政」の誤記か。『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著)の「一世歌川豊国伝」所収の「豊国筆塚碑」に     は「国文」の箇所が「国政」となっている〉    ◇「初代歌川豊国」の項(豊国門人) 「歌川豊国系譜」   〝初代 豊国門弟    国政 俗称 甚助 奥会津の産なり 中山富三郎の似顔の画より、板下をかく。其外似顔画あり。       又二代目国政あり〟     ◇「歌川国政」の項   〝歌川国政 寛政の末より享和文化の人也     俗称甚助 奥会津の産     号 一寿斎 居 始芳町 堀江丁 後市ヶ谷左内坂に居す     〈二代目国政と云画名、はるか後に見へたれども板下を不見、何人か知らず)    豊国の高弟なり、始め紺屋を業とす、生質芝居を好むの一癖あり。僅の遑あれば狂言を見物す、もとよ    り画をなし、俳優の面を似せて画くに妙也。紺屋の主某豊国と交り深かりしかば、其故を物語り門人た    らしむ。中山富三郎の(俗にぐにやとみと云)似顔を画るに、其人側に在が如く、目前に見るが如し。    其頃、専、似顔半身の団扇絵流行す。団扇問屋是を見て板下にかゝしむるに、世に行れて利潤を得たり。    師豊国も是に及ざりしかば、豊国の〈画る〉似顔を見て、世人豊国は国政が門人ならんと云しとぞ、後    錦画も多く出しが、似顔のみにて画道に深く不入故拙く、僅か三四年にして止む。草双紙、絵本は不画    して廃せり、後似顔の面を造りて売けり〟    ◯『三升屋二三治戯場書留』〔燕石〕③21(伊勢屋宗三郎著・天保末成立)   (「浮世絵師」の項)   〝寛政の末に、豊国の門人に国政といふ絵師あり、市川高麗蔵弁長、中山富三郎のお七、大首にしたる似    顔、団扇にして、其頃流行する、其錦絵など、役者の大首書たるは此時より始て覚ゆ、国政は終る、二    代目国政といふ人、しんば魚やにて松五郎といふ〟    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1399(朝岡興禎編・嘉永三年(1850)四月十七日起筆)   (「歌川豊春系譜」より)   〝(豊国)門人 国政 役者ノ似貌ヲ能写ス、中山富三郎、似貌最得意タリ、浮世絵類考
   「歌川豊春系譜」    ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年(1868)成立)   ◇「歌川氏系譜」の項 ⑪189
   「歌川豊春系譜」〝(初代豊国門人)国政〟(門人に二代目国政あり)     ◇「歌川国政」の項 ⑪226   〝歌川国政    号一樹斎、俗称甚助、奥州会津の産也。始め紺屋職たり。生質芝居を好むの一癖あり。僅に遑あれば狂    言を見物す。もとより画をなし、俳優の面を似せて画くに妙也。紺屋の主某豊国と交り深かりしかば、    其故を物語り門人たらしむ。始芳町に住し、後堀江町又市ヶ谷左内坂等に移る。豊国の高弟なり。中山    富三郎〔割註 俗にくにやとみと云〕、似顔を画るに、其人側に在る如く目前に見るが如く、其頃専ら    似顔半身の団扇流行する故に、団扇問屋これを板下にかゝしむるに、世に行れて利潤を得たり。師豊国    も是に不及。世人豊国は国政の門人ならんと云しとぞ。後錦絵も多く出せしが、似顔のみにて画道に深    く入らざる故拙く、僅三四年にして止む。草双紙絵本は画がゝずして廃せり。後似顔の面を造りて売れ    り。二代目国政と云画名はるか後に見えたれ共、板下を見ず。何人か知らず〟    ☆ 明治以降(1868~)  ☆ 明治二十二年(1889)    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   (名前のみ、記事なし)   〝東都     春川秀蝶・田中益信・泉守一・山本義信・古川三蝶・歌舞妓堂・【別人】勝川春章・勝川春常    勝川春山・勝川春扇・葛飾一扇・如蓮北昆・卍亭北鵞    東都    歌川国長・歌川国政・歌川国久・歌川国安・歌川国直・歌川秀丸・歌川月丸・北川菊丸、北川美丸    細田栄理・細田栄昌・細田栄亀〟    ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』下p303(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝哥川国政    一寿斎ト号ス、倉橋豊国ニ浮世絵ヲ学ビ、俳優ノ肖像ノ如キハ、実に飛動セントスルガ如シ、生国奥州    会津ノ染戸ナリ、後チ江戸ニ住ス、通称甚輔、寛政中ノ人也(燕石十種・扶桑画人伝)    ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『古代浮世絵買入必携』p11(酒井松之助編・明治二十六年刊)   〝歌川国政    本名 甚助    号 一寿斎   師匠の名 豊国    年代 凡八九十年前    女絵髪の結ひ方 第八図 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判多し    備考   役者絵多し〟    ◯『浮世絵師便覧』p222(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝国政(マサ)    歌川、◯俗称甚助、俳優半身の似顔画に長せり、草双紙、読本の類は画かず、一世豊国門人、◯天保〟  ☆ 明治二十七年(1894)    ◯『名人忌辰録』下巻p2(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝歌川国政 一寿斎    本姓会津氏、奥州会津の人。初代豊国高弟。此人より豊国の門人に国の字を付ることを始む。文化七年    午十一月晦日歿す、歳三十八〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   ◇「一世歌川豊国伝」p94   〝按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘    右衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に倣う。    三馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、    国満、国丸、国久、国房、を載す〟      ◇「一世歌川豊国伝」p101   (文政十一年八月、初代歌川豊国追悼の筆塚を建立。表に狂歌堂真顔の撰文、背面に当時の門人名あり)   〝碑の背面に、地本問屋仲間中、団扇屋仲間中、歌川総社中、碑営連名とありて、国政、国長、国満、国貞、    国安、国丸、国次、国照、国直、国芳、国信、国忠、国種、国勝、国虎、国兼、国武、国宗、国彦、国幸、    国綱、国花、国為、国宅、国英、国景、国近。    二代目豊国社中、国富、国朝、国久女、国春、国弘、国重、国盛、国鶴、国道、国一、国興。    国貞社中、貞虎、貞房、貞景、貞秀、貞綱、貞幸、貞考、貞歌女、貞久、貞信、貞広。    国安社中、安信、安秀、安重、安春、安常、安清、安峰。    国丸社中、重丸、年丸、輝人。    国信社中、信清、信一、信房、信与喜。    国芳社中、芳春、芳信、芳房、芳清、芳影、芳勝、芳忠、芳富(以下略す)等の名を刻してあり〟     ◇「一世歌川豊国伝」p102 〝一世豊国の門人中奇才をもて一生に賞せられしは国政、国長、国丸の三人也〟     ◇「一世歌川豊国伝」p103   〝国政は俗称甚助、一寿斎と号す。始め芳町に住し、後に市ヶ谷左内坂に住す。奥州会津の産なり。江戸    に出でて紺屋の職工となり、その業に従事せしが、性来戯場を娯むの一癖あり。職業の暇にはかならず    戯場に至り、一見するを娯楽とせり。時として俳優の似貌を画くに、頗る妙所あるがごとし。紺屋の主    人もと豊国と交る深し。一日其の故を語るに、豊国奇としてこれを招き、門人たらしむ。是より甚助愈    (イヨイヨ)画法に志し、遂に師名の国の字及び氏を称するを許され、歌川国政と云。専ら俳優の似貌を画く、    最も中村富三郎の(女形世にグニャトミという)似貌を画くに巧なり。団扇問屋某偶(タマタマ)国政をして、    俳優似貌がを画かしめ、団扇に張りて発売せしに大に行れたり。(此頃俳優似貌半身の団扇画流行せり)。    其画豊国といえども及ばざる所あり。故に人或は豊国は国政の門人ならんといいしとぞ。されど似貌画    のみにして、風俗美人画および(【以上八字「小日本」より】)艸双紙読本の類は画かざりし。似顔画    も二三年にして廃れたり。享和の末文化の初に没せり。年月詳ならず。野村氏所蔵類考の書入に、国政    後年俳優似貌の画を彫りて、これを売り生業とせし由いえり〟    ☆ 明治二十八年(1895)  ◯『時代品展覧会出品目録』第一~六 大沢敬之編 村上勘兵衛(明治二十八年六~九月)京都版   (国立国会図書館デジタルコレクション)〈「時代品展覧会」3月25日~7月17日 御苑内博覧会館〉   〝「第四」徳川時代浮世画派(182/310コマ)    一 一人美人図 一幅 歌川国政筆 上野光君蔵  東京市麹町区〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(66/103コマ)   〝歌川国政【文政元~十二年 1818-1829】    通称甚助、一寿斎と号す、奥州会津の産にて、はじめは紺屋職人なりしが、天性芝居を好む一癖あり、    僅に余暇あれば、好みて狂言を見しより、自から俳優の似顔を画くに妙を得たり、紺屋の主某、初代豊    国と交り深かりしかば、其の故を語りて門弟たらしむ。当時専ら似顔の半身の団扇絵大に行はれ、団扇    問屋某、試みに国政に画かしめて売出しゝに、世の好評を受て利潤を得たり、師の豊国も似顔絵は国政    に及ばざるにより、世人は却て豊国を以て国政の門弟のやうに思ひたりと云ふ、其の後錦絵を多く画き    しと雖も、深く画道を修行せざる故に、いと拙くして見るに足らず、文化七年十一月晦日没す、享年三    十八〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)137/218コマ   〝歌川国政 137/218コマ    通称甚助といふ 一寿斎と号す 奥州会津の人にして 江戸に住せり 豊国に師事して画法を研究し    浮世絵の名工となる 寛政年中の人にして 二代目国貞とは同名異人なり(扶桑画人伝 燕石十種)〟  ◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   ◇「歌川豊国系譜」p83
   「歌川豊国系譜」〝国政 一陽斎門人、一寿斎、俗称勘助〟     ◇「歌川国政」の項 p97   〝 歌川国政(ルビうたがはくにまさ)    国政は通称を勘助と云ひ、奥州会津の産にして紺屋の雇夫(ヤトイフ)なりと云ふ。勘助幼き頃より頻りに画    を好み、遂に業をすてゝ江戸に出(イデ)、初代豊国の門に入り浮世絵を学び、一心に業を修め俳優の似    顔絵を描くに巧みなりき、就中(ナカンズク)中山富三郎(錦車)の肖像の描に至りては、師の豊国も尚及ざ    るが如く頗(*スコブ)る世評高く、故に豊国は国政が門弟なるべしとの評ありき、文化の初めより画工を    廃し、俳優の仮面を製し鬻ぎしと云ふ。文化七年十一月晦日、病歿す、年三十八〟    ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第一輯(明治四十四年七月刊)    (絵師)   (画題)   (制作年代) (所蔵者)    〝歌川国政  「観月図」   文化頃    九鬼周造〟   ◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊)    〝歌川国政  「芸妓」    文化頃    高嶺俊夫〟  ☆ 昭和以降(1926~)  ◯『狂歌人名辞書』p69(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝歌川国政(初代)、通称佐藤甚助、一寿斎と号す、元と会津の産、俳優の似顏絵を専らとし、草双紙読    本類を描かず、文化七年十一月晦日歿す、年三十八〟    ◯「集古会」第百七十七回 昭和五年九月(『集古』庚午第五号 昭和5年11月刊)   〝出口斎吉 伊勢(出品者)国政画 御歳玉当年噺 焉馬作 一枚〟    〈この国政が初代かどうか不明〉  ◯『浮世絵師伝』p57(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝国政    【生]安永二年(1773)  【歿】文化七年(1810)十一月卅日-卅八    【画系】初代豊国門人   【作画期】寛政~文化    歌川を称す、俗称甚助、一寿斎と号す、会津の産、早く江戸に出でて紺屋の職人となりしが、天性芝居    を好み且つ俳優の似顏を写すに巧みなりしかば、豊国に認められて遂に其が門人となれり、蓋し彼は豊    国門下中、最初の入門者にして、其の作品は既に寛政七年の冬頃より行はれ、俳優似顔の大首絵に優秀    の技倆を示したり(口絵第四十六図参照)、単に錦絵のみに止まらず、肉筆美人画にも亦相当の佳作あ    り。また寛政十一年版の『俳優楽屋通』は、師豊国との合筆にして、彼が師に愛せられし一証とも見る    を得べし、其の後文化二三年頃まで、錦絵及び団扇絵などを画きしが、それより業を更め、専ら俳優似    顏の仮面を作りて自から鬻ぎしと云ふ。居所初め芳町、後ち堀江町、市ヶ谷左内坂上などに移転す〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「寛政一一年 己未」(1799)p164   〝正月、歌麿・豊国・国政三人の手に成れる『俳優楽室通』出版       国政・春好・春英・俵屋宗理の挿画ある『今日歌白猿一首』出版〟     ◇「文化七年 庚午」(1810)p179   〝十二月晦日、歌川国政歿す。行年三十八歳。(奥州会津の産にして名を甚助といへり。豊国の門人にし    て特に役者の似顔を画くに堪能なりし)〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝豊国(一世)門人〟    △『増訂浮世絵』p259(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝歌川国政    奥州会津の生れであつて、初めは紺屋の雇人で、名を甚助といつた。然し幼時より絵の道が好きで、遂    に本業を棄て、初代豊国の門に浮世絵を学び、役者の似顔絵にその特技を示すに至り、一寿斎と号した。    彼れの入門は豊国の若い時代であり、豊国の盛時にあつても、似顔絵では師と並べて、遜色のない絵を    作つてゐる。寛政十一年出版の「俳優楽屋通」は、豊国との合筆であるが、これには国政自らの個性が    現はれて、興味ある作例である。文化七年十一月晦日に、享年三十八で没した〟     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔歌川国政画版本〕    作品数:6点    画号他:歌川国政    分 類:洒落本3・演劇絵画2・歌謡1    成立年:寛政9・11~12年(5点)