Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重浮世絵師名一覧
〔寛政9年(1797) ~ 安政5年(1858)9月6日・63歳〕
 ※〔漆山年表〕  :『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」   〔早稲田〕   :『早稲田大学所蔵合巻集覧稿』 〔東大〕  :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』   〔早大〕    :「古典籍総合データベース」  〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』   〔中本型読本〕 :「中本型読本書目年表稿」   〔切附本〕 :「切附本書目年表稿」   〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」   〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』    角書は省略  ☆ 文化三年(1806)  ◯「琉球人行列図」一巻 肉筆素画   「文化三寅年十一月吉日 広重幼名徳太郎十歳之図」  ☆ 文化九年(1812)(画号・広重の誕生)  ◯『歌川列伝』下巻「歌川広重伝」(飯島虚心著・新聞『小日本』・明治二十七年(1894)掲載)   (『浮世絵師歌川列伝』飯島虚心著・玉林晴朗校訂・畝傍書房・昭和十七年刊)   〝文化九年九月、徳太郎歌川を称するを許され、師名広字を譲られ、広重と称す。時に十七歳。其の時の    免許状は伝えて其の家にありしが、近頃清水氏の有となる。元祖歌川豊春、同豊広印として、あとに門    人広重としるし、文化九年九月吉日と有     按ずるに、文化九年は広重が十七歳の時なり。十七歳にして免許を得るは蓋し古来稀なる所ならん。     これ広重が天性画道の妙を得て、其筆力固より尋常にあらざるを知るに足るなり〟  ☆ 文政二年(1818)    <七月 見世物 籠細工(細工人 亀井町笊籠師・酒呑童子等)両国広小路>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「江戸の花 大江山酒呑童子」錦絵三枚続 「広重画」岩戸屋喜三郎板    ☆ 文政三年(1819)    ◯「合巻年表」(文政三年刊)    歌川広重画『音曲情糸道』「広重画」表紙「浮世絵師 歌川広重画」東里山人作〔早大〕    <二月 見世物 貝細工 浅草奧山・麦藁細工 浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)    「浅草奧山 貝細工」錦絵三枚続 「廣重画」    ☆ 文政四年(1821)    ◯「合巻年表」〔東大〕(文政四年刊)    歌川広重画『くま坂物がたり』(画)歌川広重(著)柳亭種彦 西村屋与八板    ☆ 文政五年(1822)    ◯「合巻年表」〔目録DB〕(文政四年刊)    歌川広重画『出謗題無智哉論』二編 歌川広重画 東里山人作 岩戸屋喜三郎板    ☆ 文政七年(1824)    ◯「合巻年表」〔目録DB〕(文政七年刊)    歌川広重画『白井権八』歌川広重画・作    ☆ 文政八年(1822)    ◯「合巻年表」〔目録DB〕(文政八年刊)    歌川広重画『義経千本桜』歌川広重画・作    ☆ 文政九年(1826)     ◯「合巻年表」〔目録DB〕(文政九年刊)    歌川広重画『再建/御膳浅草法』歌川広重画 十返舎一九作 岩戸屋喜三郎           (注記「御膳浅草法の改題本」とあり)    ☆ 文政十年(1827)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政十年刊)    歌川広重画    『洒落口の種本』二冊 けだゐ広重画 酔野兀頂自題 伊藤与兵衛板     〈「けだゐ」は「外題」の意か〉    『宝船桂舧柱』狂歌 二冊 一遊斎歌川広重画 十返舎一九作 岩戸屋喜三郎板     ◯「合巻年表」(文政十年刊)    歌川広重画〔東大〕    『筆綾糸三筋継棹』(画)歌川広重(著)江南亭唐立 伊藤与兵衛板    歌川広重画〔目録DB〕    『宝船桂帆柱』一遊斎広重画 十返舎一九作 岩戸屋喜三郎板    『職人尽』  広重画 十返舎一九作 森屋治兵衛板(注記、『宝船桂帆柱』前編の改題本)    ◯「読本年表」〔中本型読本〕(文政十年刊)    歌川広重画『丹波与作関の小万春駒駅談』広重画 柳泉亭種正作    ◯「日本古典籍総合目録」(文政十年刊)   ◇人情本    歌川広重画『春駒駅談』歌川広重画 柳泉亭種正作    ☆ 天保元年(文政十三年・1830)    ◯『滝沢家訪問往来人名録』下121(曲亭馬琴記・文政十三年閏三月七日)   〝庚寅(文政十三年)閏三月七日来訪 八重洲河岸火消同心隠居安藤鉄蔵事 古人豊広門人 画工広重〟    ☆ 天保二年(1831)    ◯「合巻年表」〔早大〕(天保二年刊)    歌川広重画『出謗題無智哉論』四編 歌川広重画 東里山人作 岩戸屋喜三郎板    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(天保二年刊)    歌川広重画『狂歌山水奇鑑』四冊 広重画 桧園梅明編    ☆ 天保初年(1830~)
 ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②309(天保初年刊)   〝東都画 池田英泉・鳥居清満・立斎広重・勝川春亭・葛飾北斉(ママ)・歌川国貞・歌川国芳・歌川国直・        柳川重信・柳川梅麿・葵岡北渓・静斎英一〟    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(天保頃刊)   「有楽道中寿古録」「歌川広重筆」有田屋清兵衛 天保頃 ⑥  ☆ 天保三年(1832)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保三年刊)    歌川広重画『狂歌恋百首』一冊 広重画 芍薬亭他撰    ◯「天保三年壬辰日記」③36 二月十六日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工歌川広重来ル。廿三日、両国柳橋大のし富八楼にて、書画会いたし候よしニて、右すり物一枚持参。    口上申述、帰去〟    〈二月二十三日、馬琴がこの書画会に出席した形跡はない。また広重が馬琴作品の挿画を担当することもなかった。     『滝沢家訪問往来人名録』によると、二年前の文政十三年(1830)閏三月七日、広重は馬琴宅を訪れている。今回はお     そらくそれ以来の来訪と思われるが、この間もそして今後も、天保七年(1836)の馬琴の古稀を祝う書画会に参加した     以外、私的な交渉は両者の間にはなかったようだ〉    ☆ 天保四年(1833)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保四年刊)    歌川広重画『狂歌墨田川余波』一冊 肖像 広重 昌平庵編    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保四年刊)    歌川広重画『狂歌隅田川余波』一冊 歌川広重画 昌平庵撰 漢江社中   ◯『無名翁随筆』③304(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)  (「歌川豊広」の項、豊広門人)
   「歌川豊広系譜」〝八代洲川岸住、武士近藤徳太郎、文政ノ末ヨリ天保ノ今専画ク、錦画、草双紙多シ〟    ☆ 天保五年(1834)    ◯「合巻年表」〔東大〕(天保五年刊)    歌川広重画『旗飄莵水葛葉』(画)歌川広重(著)吉見種繁 鶴屋喜右衛門板    ☆ 天保六年(1835)    ◯「絵入狂歌本年表」(天保六年刊)    歌川広重画    『狂歌百人一首』一冊 広重画 一榎庵沖面詠〔目録DB〕    『一字題百首』 三冊 広重画 芍薬亭長根編 麗日園〔狂歌書目〕    ☆ 天保七年(1836)    ◯「絵本年表」(天保七年刊)    歌川広重画    『百人一首鐘声抄』一冊 一立斎広重筆 篶垣真葛撰〔漆山年表〕     〈『百人一首鐘声抄』は『狂歌鐘声百人一首』の別称〉    『狂歌百八人首』 一冊 歌川広重画  竹内真葛編〔目録DB〕    ◯「合巻年表」〔早大〕(天保七年刊)    歌川広重画『東国奇談月夜桜』一勇斎国芳画 表紙広重画 五柳亭徳升作 佐野屋喜兵衛板    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(天保七年刊)    歌川広重画『狂歌鐘声百人一首』色摺肖像〔跡見1913〕    巻末「一立斎広重筆」篶垣真葛撰 序「ひのえさるのとしさつき」天保七年五月    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(天保七年刊)    歌川広重画    『狂歌鐘声百人一首』一冊 広重画 篶垣真葛編    『狂家百八人首』  一冊 広重画 竹内真葛編    ◯『馬琴書翰集成』④221 天保七年(1836)八月十四日 馬琴、古稀の賀会、於両国万八楼   (絵師の参加者のみ。天保七年十月二十六日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)④221参照)   〝画工 本画ハ     長谷川雪旦 有坂蹄斎【今ハ本画師になれり】 鈴木有年【病臥ニ付名代】     一蛾 武清 谷文晁【老衰ニ付、幼年の孫女を出せり】 谷文一 南溟 南嶺 渡辺花山    浮世画工ハ     歌川国貞【貞秀等弟子八九人を将て出席ス】 同国直 同国芳 英泉 広重 北渓 柳川重信      此外、高名ならざるものハ略之〟    ☆ 天保八年(1837)    ◯「合巻年表」〔早大〕(天保八年刊)    歌川広重画『鞍馬山源氏之勲功』歌川広重画 表紙 国貞 西村屋与八板 楚満人二世作    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇俳諧(天保八年刊)    歌川広重画『俳諧三十六句撰』一冊 一立斎広重画 神通菴木化・ 燈下坊呑亀評    ☆ 天保十年(1839)    ◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎著)    歌川広重画    『花翫暦色所八景』(長唄)歌重画 丸屋板     〔天保10/03/11〕    『花娣十二月所候』(長唄)歌重画 丸屋板 天保十年〔天保11/03/21〕〔花娣十二月所作〕     〈〔~〕は立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演データ〉    ☆ 天保十一年(1840)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保十一年刊)    歌川広重画『興歌六々集』一冊 広重 芍薬亭他撰    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保十一年刊)    歌川広重画    『俳諧歌再発集』一冊 広重画 白鶴翁撰 緑庵版    『興歌六々集』一冊 北渓・広重画 芍薬亭撰 鳳鳴閣版    ☆ 天保十二年(1841)    ◯「合巻年表」〔東大〕(天保十二年刊)    歌川広重画『児雷也豪傑譚』二編(画)香蝶楼国貞(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板         袋画工 魚屋北渓 国貞 広重 谷文晁    ☆ 天保十三年(1842)    ◯『【江戸現在】公益諸家人名録』二編「ア部」〔人名録〕②84(天保十三年夏刊)   〝画 広重【名重広、号一立斎】中橋大鋸町 安藤徳兵衛〟    ☆ 天保十四年(1843)    <三月>  ◯『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」第一七件 五八 p105   「卯三月廿九日、佐兵衛月番之節画師共相呼、近頃絵柄風俗不宜候ニ付厳敷申渡、証文取置候事」     〈佐兵衛は村田佐兵衛、新両替町名主、絵草紙掛り。以下、絵師連名の請書〉   〝私共儀錦絵・艸双紙絵類重立相認候ニ付、今般左之通被仰渡候    一 禁忌・好色本之類    一 歌舞妓役者ニ似寄候類    一 遊女・女芸者ニ似寄候類    一 狂言趣向紛敷類    一 女子供踊大人ニ紛敷類    一 賢女烈婦伝・女忠節之類    右の廉々、其筋渡世之者又ハ素人より頼請候共、賢女烈婦伝之類、絵柄不相当今様姿ニ一切書申間敷候、    其外都て男女入交り風俗ニ拘り候絵は勿論、聊ニても役者・女芸者ニ紛敷躰無之様、厚心附可申旨被仰    渡奉畏、為後日仍如件     天保十四年卯三月廿九日               坂本町壱丁目 太右衛門店 英泉事 画師 善次郎(印) 家主 太右衛門(印)               田所町久兵衛店      国芳事 画師 孫三郎(印) 家主 久兵衛 (印)               亀戸町友三郎店      国貞事 画師 庄 蔵(印) 家主 友三郎 (印)               同町金蔵店        貞秀事 画師 兼次郎(印) 家主 金 蔵 (印)               大鋸町長七店       広重事 画師 徳兵衛(印) 家主 長 七 (印)               柳町鉄右衛門店 亀次郎伜 芳虎事 画師 辰二郎(印) 家主 鐵右衛門(印)     〈以下は「下ヶ札」〉   〝錦絵類并団扇絵共近頃不宜風俗画候間、当三月、私月番節画師共相呼、本文之通證文取置申候、然ル処、    当四月月番品川町名主(竹口)庄右衛門・同五月月番高砂町名主(渡辺)庄右衛門改済之絵柄不宜候間、    掛り名主共一同申合売買差留、右掛り館市右衛門方え差出置申候   名主 佐兵衛〟     〈好色本や役者や遊女・芸者の似顔絵など風俗に拘わるものはもちろん、賢女烈婦伝や女忠節の類も当世風に画かないこ    とを誓約させられた。英泉・国芳・国貞・貞秀・広重・芳虎、六人連名の証文である。しかし「下ヶ札」をみると、四    月、五月の改(アラタメ)(検閲)済みのものにも依然として絵柄の宜しからざるものがあり、それらを売買禁止にしたとあ    る。『大日本近世史料』の頭注に「前ニ請書ヲ取ルモナホ宜カラザル品」とあり、絵師を咎めるような文面である〉    ☆ 天保年間(1830~1843)
 ◯『増訂武江年表』2p102(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「天保年間記事」)   〝浮世絵師国芳が筆の狂画、一立斎広重の山水錦絵行はる〟    ◯「絵本年表」〔目録DB〕(天保年間刊)    歌川広重画    『遊興肖像集』七巻 歌川広重画 桧園梅明編    『浮世画譜』 三編 立斎広重画 和泉屋市兵衛板    ◯「絵入狂歌本年表」(天保年間刊)    歌川広重画〔狂歌書目〕    『伊呂波節用集』二冊 一立斎広重画 桧園梅明編 桧垣連    『狂歌新節用集』二冊 広重画    桧園梅明編 春友亭版    『俳諧歌新玉集』一冊 其一・是真・広重等画 燕栗園撰 燕門連    『狂歌くらべ馬』一冊 広重画    桧園梅明編    『狂歌清渚集』 一冊 一立斎広重画 茅舎千寛編 四方側    『狂歌新葉集』 四冊 広重画   桧園梅明編 桧垣連    歌川広重画〔目録DB〕    『俳諧歌花鳥集』一冊 広重画  真葛・結城亭撰 繁の門版    『狂歌分類集』 一冊 一立斎広重画 桧園梅明編 春友亭版    『狂歌十題集』 一冊 歌川広重画 花咲庵・梅屋編    『遊興肖像集』 七冊 歌川広重画 桧園梅明編    『狂歌拾葉集』 一冊 広重画   竜廼門梅明編    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(天保年間刊)   「有楽道中寿古録」「歌川広重筆」有田屋清兵衛 天保頃 ⑥   「狂詠江戸のはな」北渓・香蝶楼国貞・広重・貞秀・英泉・一勇斎国芳・京水・よし虎 天保頃 ②    ◯「日本古典籍総合目録」(天保年間刊)   ◇人情本    歌川広重画『天性奇妙談』五湖亭貞影・一立斎広重画 文福茶釜作   ◇辞書    歌川広重画『三才図会天之部』広重画  ☆ 天保十四年~弘化四年(1843-47)〈改印:名主単印時代〉    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(天保十四年~弘化四年刊)    歌川広重画    「おさな遊び正月双六」「広重画」    有田屋清右ヱ門 改印「田中」⑥    「春興手習出精双六」 「広重画」    伊場屋仙三郞  改印「村田」⑤①⑩    「四季詠名吟双六」  「一立斎広重画」 若狭屋与市   改印「渡」 ① 大垣園東岡作    「新板道中双六」   「広重画」    三河屋     改印「米良」②    〔奥勤奉公双六〕   「広重画」    有田屋清右衛門 改印「村」 ①    〔年中行事双六〕   「一立斎広重画作」有田屋清右衛門 改印「村」 ②    「諸国祭礼尽」    「広重画・一立斎」有田屋清右衛門 改印「田中」⑨    「稽古出情振分双六」 「広重画」    伊場屋仙三郎 (名主単印)⑥    「娘諸芸出世双六」  「広重画」    山城屋甚兵衛 (名主単印)⑥  ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(弘化元年刊)    歌川広重画『新法狂字図句画』一冊 一立斎広重画 万亭応賀作    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(天保十五年刊)    歌川広重画『百人一首操文庫』口絵・肖像〔跡見1029〕    口絵「これより八丁口画 広重画」西村源六板 天保十五年刊〈肖像は貞房画〉    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   ◇「歌川豊広」の項(豊広門人)
   「歌川豊広系譜」     〝八代州河岸定御火消屋敷同心近藤徳太郎後十兵衛 狩野家をも学ぶ。文政の頃より天保の今にいたる迄    専ら画く錦画草双紙多し 分て近頃五十三次の錦画を工夫し 夫より江戸名所続画等数多出して世に行    れたり 写真の魚鳥草花もよし〟     〝一立斎広重(前にもいへり)〈後徳兵衛〉      俗称 近藤十兵衛〈イ安藤〉(火消同心)〈太田新道〉              後大鋸町に住す。弘化三年より常盤町に住す             〈嘉永二酉夏より中橋の狩野新道へ移る〉     同藩与力岡島氏(号林斎又素岡)に狩野家の画風を学び、又豊広に学びて浮世画を画く。東海道五十三    次、都名所〈又安政三辰年より〉江戸名所百景〈ケイ〉等、一枚摺続画夥しく板行し〈天保以来〉世に行    れたり(魚尽しの一枚画写真にして殊によし)薙髪して後〈安政五午年八〈九〉月六日六十二歳にして    歿す〉      〈江戸土産  中本   艸〈筆〉画譜 (空白)冊〉      〈東路へ筆をのこして旅の空西のみくにの名どころを見む 広重〉    欄外 門人(空白)二世の広重となる 後に立祥と号す〟    ◯「【当世名人】芸長者華競」(番付・弘化元~二年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝万画 北斎 卍    稀人 曲亭馬琴〟   〝浮世 香蝶楼 〈国貞〉    程吉 一勇斎〟〈国芳〉   〝画景 一立斎広重    画作 一筆庵英泉〟     〈この番付には「甲乙なし」とあるが、字の大きさや配置からすると、一番格上なのが北斎、次ぎに香蝶楼国貞と一      勇斎国芳、そして広重・英泉のようである。広重の肩書は「画景」、風景画が良いという評価だ〉    ☆ 弘化二年(1845)    ◯「絵本年表」〔目録DB〕(弘化二年刊)    歌川広重画『絵本忠臣蔵』二冊 一立斎広重画(仮名手本忠臣蔵の絵入解題本)    ☆ 弘化三年(1846)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(弘化三年刊)    歌川広重画    『菅原伝授手習鑑』一立斎広重画 竹田出雲作 三河屋喜兵衛板    『三樹集』 一冊 広重筆 桧園梅明編 春友亭蔵板    ◯「絵入狂歌本年表」(弘化三年刊)    歌川広重画    『狂歌作者細見』 一冊 広重画 有観堂等編 大阪岡田茂兵衛板〔狂歌書目〕    『狂歌三樹集』  一冊 広重画 桧園梅明等編〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(弘化三年刊)   ◇地誌    歌川広重画『江都近郊名勝一覧』一冊 一立斎広重画 松亭金水作 弘化三年序  ◯「古今流行名人鏡」(雪仙堂 弘化三年秋刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (東 四段目)   〝画工 中バシ 歌川広重  人形 アサクサ 化物目吉(ほか略)〟    ☆ 弘化四年(1847)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(弘化四年刊)    歌川広重画『江都近郊名勝一覧』一冊 画工一立斎広重 金水老人撰 三河屋善兵衛板(安政五年再版)    ◯『翟巣漫筆』〔新燕石〕①附録「随筆雑記の写本叢書(一)」p7(斎藤月岑書留・弘化四年記)   〝山の端にかたふく迄はかたふけむよにおもしろき月の盃 游清     右一立斎広重子烟包へ、本間游清子書付られし歌也〟    ☆ 弘化年間(1844~1848)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(弘化頃刊)   「五十三駅東海道富士見双六」「一立斎広重画」和泉屋市兵衛 弘化頃 ②  ☆ 弘化四年~嘉永五年(1843-52)(改印:名主二印時代)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(弘化四年~嘉永五年刊)    歌川広重画    「東海道五十三駅道中記細見双六」 「一立斎広重筆」山本平吉  改印「吉村・村松」⑤②⑩    「東海駅路狂歌寿娯録」      「一立斎広重筆」春友亭蔵板 改印「福・村松」 ⑤②⑩    「東海道五十三駅名所図会風景双六」「一立斎広重画」丸屋清次郎(名主二印)②    「東海道五十三駅道中記細見双六」 「一立斎広重筆」山本平吉 (名主二印)②    「いろは譬神仏名所寿語六」    「一立斎広重画」丸屋久四郎(名主二印)②    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(弘化四年~嘉永五年刊)    歌川広重画「百人一首下の句ゑいり」(一~四)〔跡見1342〕    「広重画」佐野屋板 名主二印「福(島)・村松」    ◯「日本古典籍総合目録」(弘化四年~嘉永五年刊)    歌川広重画『地口絵手本(ぢぐちゑでほん)』一立斎広重狂画 笠亭仙果戯書     永楽屋東四郎板 改印「衣笠・福」  ☆ 嘉永元年(弘化五年・1848)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永元年刊)    歌川広重画『立斎艸筆画譜』初編 広重筆(一立斎)柳下亭種員序 須原屋茂兵衛他板     ☆ 嘉永二年(1849)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永二年刊)    歌川広重画    『東海道名所図絵』一冊 画工一立斎広重 檜園梅明撰 十返舎一九序 春友亭板    『百人一首女訓抄』一冊 広重画 口画八丁 外五十一丁半(英泉画歟)本屋又助板    『新撰狂句図絵』 初編 一立斎広重画 万亭応賀序             二編 一立斎広重画 雞告亭夜宴序    『武勇芸能名誉』 一冊 一立斎広重 口画柳川重信 寿山翁序 平林堂他板    ◯「合巻年表」(嘉永二年刊)    歌川広重画〔目録DB〕    『武勇芸能名誉』 一立斎広重・柳川重信画 寿山翁正恵 平林庄五郎他板     〈本文の挿絵は『武勇芸能名誉』のみ、あとは見返しと袋の絵である〉    歌川広重画(見返し・袋の画工担当)〔東大〕    『五色染苧環冊子』二編(画)一やうさいとよくに 見返し 立斎画(著)しきてい小さんば 藤岡屋慶次郎板    『龍王太郎英雄譚』六編(画)一陽斎豊国 見返し 立斎画(著)式亭小三馬 藤岡屋慶次郎板    『教草女房形気』 七編(画)豊国 見返し 門人国貞画 袋 立斎(著)京山 山田屋庄兵衛板    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(嘉永二年刊)    歌川広重画『東海道名所図絵』一冊 一立斎広重画 桧園梅明編    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永二年刊)    歌川広重画『百人一首女訓抄』口絵・挿絵・肖像    口絵「これまで八丁口絵 広重画」山田常典 頂恩堂本屋又助 嘉永二年正月再刻〔目録DB〕    (書誌のみ)広重画 頂恩堂本屋又助 嘉永四年正月再刻〔跡見2123〕    (書誌のみ)広重画 頂恩堂本屋又助 安政五年刊〔跡見2034〕〈原本未確認〉    ◯「【俳優画師】高名競」嘉永二年刊(『浮世絵』第十八号  大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(21/25コマ)   (番付西方)最上段    〝兼ル 一勇斎国芳 景色 一立斎広重 櫓下 鳥居清満  画本 柳川重信 合巻 玉蘭斎貞秀〟    〈相撲番付でいえば、国芳と広重が最高位の大関格。本HP「浮世絵事典」【う】「浮世絵師番付」嘉永二年の項参照〉  ◯『【江戸時代】落書集聚』中p292(鈴木棠三、岡田哲校訂・東京堂出版・昭和五九年刊)   「嘉永二年の流行物」   〝広重・国芳の見立て錦絵は往来の足を止ゞめ、続き物の草双紙は御娘様の御側さらずの御伽をいたし〟    ◯「日本二千年袖鑑 一~十」(番付 藤岡屋慶次郎 嘉永二酉年刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)    署名「広重画」(七 西本願寺・妙法寺境内図)    〝日本国中万物の時代をしるし当年までの年数を早速に知る書也〟     例 七〝元禄五 蔵前八幡 百五十八年ニナル〟    〈同シリーズの「六~十」には「広重」の署名あり。「一~五」は無署名だが広重画と思われる。なお「十一」(嘉永4     年刊)から門人の重宣が作画を担当する〉  ☆ 嘉永三年(1850)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永三年刊)    歌川広重画    『絵本江戸土産』広重画 初編金水道人序  二編松亭漁父序 三編金水道人序 菊屋幸三郎板                四編一立斎広重序 五編金水陳人序 六編松園主人序                 七編金水道人序       『名所発句集』二編 一立斎広重画図 永楽屋丈助板     〈〔目録DB〕は『東海道名所発句集』嘉永四年刊とする〉    ◯「日本古典籍総合目録」(嘉永三年刊)   ◇風俗    歌川広重画『琉球解語』一立斎広重画 富岡手暠校    ◯「合巻年表」〔東大〕(嘉永三年刊)    歌川広重画(見返し・袋の画工担当)    『八犬伝犬の草紙』 八編 一陽斎豊国画 見返し「立斎画」笠亭仙果作              九編 一陽斎豊国画 見返し「立斎筆」袋「立斎写」笠亭仙果作              十編 一陽斎豊国画 見返し「立斎画」袋「立斎写」笠亭仙果作             十一編 一陽斎豊国画 見返し「立斎筆」袋「立斎写」笠亭仙果作             十二編 一陽斎豊国画 (不明)             十三編 豊国画    見返し 立斎画 袋「立斎画」笠亭仙果作    『釈迦八相倭文庫』十四編 一陽斎豊国画 見返し「門人国政画」袋「立斎画」万亭応賀作              十五編 一陽斎豊国画 見返し「門人国政画」袋「立斎画」万亭応賀作             十六編 一陽斎豊国画 見返し「門人国政画」袋「立斎画」万亭応賀作    『聖徳太子大和鏡』 発端 一陽斎豊国画 袋「立斎筆」万亭応賀作     〈本文の挿絵は全て三代目豊国、広重の担当は見返しと袋の絵である〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(嘉永三年刊)    歌川広重画『興歌漫詠集』一冊 広重画 葦園正名詠 大葦連板    ◯「【高名時花】三幅対」(番付・嘉永三年五月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   (最上段、西筆頭から五番目・相撲番付でいうと前頭)   〝出藍 カメ井ト 一陽斎豊国 ・真景 中ハシ 一立斎広重 ・狂筆 コク丁 一勇斎国芳    〈師の初代豊国を超えた亀戸の大御所、三代豊国(国貞)。実景を写すに優れた中橋住の広重。自在に戯画を画く国     芳は「コク丁」で日本橋石町住か。東方で同格なのは、「親玉 サルワカ 市川白猿」猿若町の八代目団十郎、「本玉      一丁目 玉楼薄雲」吉原江戸町一丁目玉屋の抱え遊女・薄雲、「力玉」剣山(相撲の大関)浮世絵師と役者・遊女・     力士の組み合わせ。遊女と役者と相撲、いずれも浮世絵にとっては稼ぎの大黒柱、これなくして生業は成り立たな     いものばかり、腑に落ちる三幅対である〉    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1402(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝一立斎広重 天保年間、国芳が筆の狂画、一立斎広重の山水錦画行はる、武江年表
   (補)[署名]広重[印章]「安藤氏印」(白文方印)助六図     (補)[署名]立斎[廣重](朱文方郭丸印)富士絹彩    (補)[署名]広重[印章](方印二顆刻字未詳)鬼女図〟    ☆ 嘉永四年(1851)    ◯「絵本年表」(嘉永四年刊)    歌川広重画〔漆山年表〕    『東海道風景図会』 二冊 一立斎広重筆 藤岡屋慶次郎板    『東海道名所画帖』 一帖 一立斎広重筆 東魁堂板     〈〔目録DB〕は『東海道名所発句集』の改題本とする〉    『奇特百歌僊』初編 一立斎広重ゑかく 緑亭川柳作 山口錦耕堂板    『立斎百図』 初編 広重筆 柳下亭種員序 吉田屋源八板(『艸筆画譜』四編と同じ)    歌川広重画〔目録DB〕    『東海道名所発句集』二冊 安藤広重画 双雀庵氷壺編    ◯「合巻年表」(嘉永四年刊)    歌川広重画〔目録DB〕    『教訓迷子札』 四巻 一立斎広重画 春水(二世)作    歌川広重画〔東大〕(見返し・袋担当)    『春の文かしくの草紙』五編 一陽斎豊国画 袋「立斎」     山東庵京山作    『八犬伝犬の草紙』 十五編 一陽斎豊国画 見返し・袋「立斎画」笠亭仙果作              十六編 一陽斎豊国画 見返し「立斎画」  笠亭仙果作              十七編 一陽斎豊国画 見返し・袋「立斎画」笠亭仙果作    『教草女房形気』   十編 豊国画    袋「立斎」     京山作    『琴声美人録』    六編 歌川豊国画  袋「立斎画」    山東庵京山作    『英雄五大力』    四編 一陽斎豊国画 袋「立斎」     万亭応賀作    『葛葉九重錦』    五編 一陽斎豊国画 袋「立斎」     万亭応賀作    『白縫譚』      四編 一陽斎豊国画 袋「一立斎画」   柳下亭種員作    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永四年刊)    歌川広重画『竒特百歌撰』初編 口絵・挿絵〔目録DB〕〔跡見104〕    見返し「さくしや 緑亭川柳 一立斎広重ゑかく」川柳の序に「嘉永四辛亥」とあり    奥付「緑亭川柳作 一立斎広重画」山口錦耕堂板 嘉永四年刊    ◯「艶本年表」(嘉永四年刊)    歌川広重画    『はるの夜半』三冊 広重画 玉門舎具二留・夜毎庵好重作〔目録DB〕         (注記「改題本に「春の世和」あり、日本艶本目録(未定稿)による」)    『春の世和』色摺 半紙本 三冊 女好庵主人(松亭金水)作の狂歌一首 嘉永四年頃〔白倉〕     (白倉注「上巻の作者、玉門舎具二留。中巻は夜毎好重で、下巻が夜毎庵好重。これが広重の隠号らしい。数少ない      広重の艶本の一つ。初摺本外題は『はるの夜半』か。他に『波留乃世和』もある」)    ☆ 嘉永五年(1852)(改印:名主二印・子月)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永五年刊)    歌川広重画『岐蘇名所図絵』三編 広重画 龍廼門石の屋梅明編 春友亭蔵板    ◯「合巻年表」〔東大〕(嘉永五年刊)    歌川広重画(見返し・袋の画工担当)    『釈迦八相倭文庫』二十二編 一陽斎豊国画 袋「立斎」       万亭応賀作             二十三編 一陽斎豊国画 袋「立斎」       万亭応賀作    『八犬伝犬の草紙』 十八編 一陽斎豊国画 袋「立斎画」      笠亭仙果作              十九編 一陽斎豊国画 下冊見返し・袋「立斎画」笠亭仙果作             二十三編 国貞画    袋「立斎画」      仙果作    『教草女房形気』  十一編 豊国画    袋「立斎」       山東庵京山作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(嘉永五年刊)   「東海道遊歴双六」「一立斎広重画」恵比寿屋庄七 改印「(名主二印)・子十二」②⑨⑩   「東海道遊歴双六」「一立斎広重画」丸屋鉄次郎  改印なし ⑤②   〈以上、図様を同じだが、板元が異なり、丸屋板には改印がない〉  ☆ 嘉永六年(1853)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永六年刊)    歌川広重画『迷子札』一冊 一立斎広重画図 為永春水 松林堂〈初版は嘉永四年〉    ◯「合巻年表」〔東大〕(嘉永六年刊)    歌川広重画(見返し・袋の画工担当)    『春の文かしくの草紙』七編 国貞画    袋 立斎   京山作      『釈迦八相倭文庫』二十四編 歌川国貞画  袋 立斎   万亭応賀作             二十五編 歌川国貞画  袋 立斎   万亭応賀作             二十六編 歌川国貞画  袋 立斎   万亭応賀作    『八犬伝犬の草紙』二十五編 梅蝶楼国貞画 袋 立斎   笠亭仙果作             二十六編 国貞画    見返し 立斎 仙果作    『英雄五大力』    五編 一猛斎芳虎画 袋 立斎   万亭応賀作    ◯「絵入狂歌本年表」(嘉永六年)    歌川広重画    『狂歌江都花日千両』三冊 歌川広重(上巻) 井草国芳(中巻) 一陽斎豊国(下巻) 天明老人撰〔目録DB〕             「日本橋之部 画工歌川広重先生」(嘉永六-安政元刊)    『岐蘇名所図会』  二冊 広重画 梅廼屋・龍廼屋撰 春友亭板〔狂歌書目〕    『山水奇鑑』二冊 広重画 梅明撰 桧垣連板〔狂歌書目〕〈〔目録DB〕は天保二年序〉    ◯『藤岡屋日記 第五巻』p237(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)   ◇板木没収   〝東海道五十三次、同合之宿、木曾街道、役者三十六哥仙、同十二支、同十二ヶ月、同江戸名所、同東都    会席図絵、其外右之類都合八十両(枚カ)是も同時ニ御手入ニ相成候。    右絵を大奉書へ極上摺ニ致し、極上品ニ而、価壱枚ニ付銀二匁、中品壱匁五分、並壱匁宛ニ売出し大評    判ニ付、掛り名主村松源六より右之板元十六人計、板木を取上ゲられ、於本町亀の尾ニ、絵双紙掛名主    立会ニて、右板木を削り摺絵も取上ゲ裁切候よし。       東海で召連者に出逢しが         皆幽霊できへて行けり     右之如く人気悪しく、奢り増長贅沢致し候、当時の風俗ニ移り候、是を著述〟     〈大奉書を使い極上摺の極上品が一枚銀二匁(機械的に1両=60匁=6500文で換算すると約217文)、中品一枚が一匁     五分(約163文)、並一枚一匁(約108文)とこれもかなり高価。        「東海道五十三次」は誰のどの「東海道五十三次」か未詳。     「同合之宿」も未詳。     「木曾街道」は一勇斎国芳画「木曾街道六十九次」か。     「役者三十六哥仙」は三代豊国画「見立三十六歌仙」か。     「同十二支」は一勇斎国芳画「東都名所見立十二ケ月」か。     「同十二ヶ月」は一勇斎国芳狂画「【身振】十二月」か。     「同江戸名所」は三代豊国画「江戸名所図会」(役者絵)か。     「同東都会席図会」は三代豊国画・初代広重画(コマ絵)「【東都】高名会席尽」か。     以上はすべて嘉永五年の刊行〉      〈ネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、嘉永五年の銀・銭相場は1両=64匁=6264文とのこと。すると小売値、     極上品の二匁は195文、中品の一匁五分は147文、並の一匁は98文。「東海道五十三」は嘉永五年の刊年から、三代目     豊国のものと見た。2010/3/16追記〉
   「東都高名会席尽 藤屋」 豊国・広重画(国立国会図書館・貴重書画像データベース)    ◯『筆禍史』「当代全盛高名附」(嘉永六年・1853)p160(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝吉原細見に擬して、当時名高き江戸市内の儒者和学者俳諧師狂歌師等をはじめ諸芸人に至るまで数百人    名を列配し、其名の上に娼妓の如き位印を附けたる一小冊なり、末尾に「嘉永六年癸丑之義、玉屋面四    郎蔵板」とあり    これは吉原の細見に擬して、嘉永六年に出版した『当代全盛高名附』の一葉を原版のまゝ模刻したので    ある、曲亭馬琴、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦、初代歌川豊国、葛飾北斎、渓斎英泉等の如き大家没    後の文壇が、如何に寂寞たりしかを知るに足るであろう。    因みにいふ、右『当代全盛高名附』の作者及び版元は、吉原細見の版元より故障を申込まれ「細見株を    持てる我々に無断で、細見まがひの書冊を出版するとは、不埒至極である」との厳談を受け、結局あや    まり証文を入れて、書冊は絶版とする事で、漸く示談が附いたとの伝説がある、今日は他人の出版物に    擬した滑稽的の著作は勿論、其正真物に似せたイカサマ物を出版しても、咎められない事になつて居る    が、旧幕時代には右の伝説の如き事実があつたらしい(此花)    【吾妻】錦   浮世屋画工部    (上段)     豊国 にかほ   国芳 むしや  広重 めいしよ  清満 かんばん  春亭 花てふ     貞秀 かふくわん 国輝 むしや  芳虎    (中段)      国貞 やくしや  国盛 をんな  国綱 芳宗 芳艶 清亢 芳藤 芳玉 直政    (下段)      国麿 清重 芳員 芳雪 広近 春徳 春草 房種 芳豊      かむろ       やく者 にがを むしや めい処 けしき をんな 草そうし うちわゑ かわりゑ       すごろく かんばん     やりて        ◎◎〟    〈「日本古典籍総合目録」はこの『当代全盛高名附』の統一書名を『江戸細撰記』としている〉
   『当代全盛高名附』〔『筆禍史』所収〕    ☆ 嘉永年間(1848~1853)    ◯「絵本年表」(嘉永年間刊)    歌川広重画    『比為記廼姿美』一冊 安藤広重画〔目録DB〕    『絵本手引草』 初編 一立斎広重筆 柳下亭種員序 笑寿屋庄七板〔漆山年表〕    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(嘉永年間刊)    歌川広重画『狂歌東西集』一冊 広重画 梅廼屋・月花園編 本町連板    ◯「艶本年表」〔白倉〕(嘉永年間刊)    歌川広重画『東都十二景』小錦 十二枚組物 嘉永期     (白倉注「佃島、洲崎、両国、浅艸、上野、日本橋、吉原、不忍、品川、他三点」)  ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)(改印:改・寅月)    ◯「絵本年表」(安政元年刊)    歌川広重画    『扶桑蓬莱百首狂歌集』一冊 一立斎広重画 檜園梅明撰 春友亭〔漆山年表〕    『紅梅百人一首』一巻 広重画 〔目録DB〕    『狂字図句画』 一冊 一立斎広重画 万亭応賀撰 山崎屋静七板〔目録DB〕    ◯「合巻年表」〔東大〕(安政元年刊)    歌川広重画(見返し・袋の画工担当)    『八犬伝犬の草紙』二十九編 梅蝶楼国貞画 袋 立斎   笠亭仙果作             三十一編 一寿斎国貞画 見返し 立斎 笠亭仙果作             三十二編 一寿斎国貞画 袋 立斎   笠亭仙果作    『釈迦八相倭文庫』二十七編 歌川国貞画  袋 立斎   万亭応賀作             二十八編 歌川国貞画  袋 立斎   万亭応賀作             二十九編 歌川国貞画  袋 立斎   万亭応賀作    ◯「絵入狂歌本年表」(安政元年刊)    歌川広重画    『扶桑蓬萊百首狂歌集』一冊 広重画 桧園梅明編 〔目録DB〕    『狂歌江都名所図会』 八冊 広重画 天明老人撰 小槌側〔狂歌書目〕     (注記「本書は嘉永末年の創刊にて、第一より第七まで(六冊)嘉永年度の刊記あり、それから以後は安政初年に続刊し      前後十四冊の多きに達してゐる」)  ◯『追善春の霜』一冊 宝市亭・琴通舎等 嘉永七年刊〔国書DB〕   (絵馬屋額輔追善)口絵額輔像「立斎」    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(安政元年刊)   「神仏納手拭」「一立斎広重・一陽斎豊国画」板元未詳 改印「改・寅十」②    ☆ 安政二年(1855)(改印:改・卯月)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政二年刊)    歌川広重画    『狂歌四季人物』初編 画工立斎広重先生 天明老人尽語楼撰 六朶園序    『茶器財画像集』一冊 口絵一立斎広重先生 画像一猛斎芳虎先生 龍廼門梅明等編    『利根川図志』 六冊 葛飾北斎二代・素真・玉蘭亭貞秀画・湖城喜一写・立斎写・宗旦写            赤松宗旦義知著 山田屋佐助他板    ◯「合巻年表」〔東大〕(安政二年刊)    歌川広重画(見返し・袋の画工担当)    『八犬伝犬の草紙』三十三編 一寿斎国貞画 見返し 立斎 袋 広重 笠亭仙果作    『釈迦八相倭文庫』 三十編 一寿斎国貞画 袋 立斎 万亭応賀作              三十一編 歌川国貞画  袋 立斎 万亭応賀作              三十二編 歌川国貞画  袋 立斎 万亭応賀作             三十三編 歌川国貞画  袋 広重 万亭応賀作             三十四編 歌川国貞画  袋 立斎 万亭応賀作    ◯「絵入狂歌本年表」(安政二年刊)    歌川広重画    『狂歌茶器財画像集』一冊「口絵 一立斎広重先生/画像 一猛斎芳虎先生」安満の門等撰 清流亭蔵版〔東洋文庫画像DB〕     刊記「安政二乙卯歳五月二十八日、橋場於別荘開巻 寄歌四千五百余首、作者五百五十余人 清流亭蔵」    『狂歌四季人物』初四編 歌川広重画 天明老人編〔目録DB〕     〈〔狂歌書目〕は『狂歌倭人物』とする〉    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(安政二年刊)    歌川広重画    「伊勢参宮膝くりげ道中寿語録」「広重狂画」   山城屋甚兵衛 改印「改・卯五」②⑩    「浮世道中膝栗毛滑稽双六」  「一立斎広重狂画」恵比寿屋庄七 改印「改・卯五」①②  ◯『浮世絵』第弐拾四(24)号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)  〝◇「初代広重の匿画名」(7/24コマ)     蛤形の輪廓内に楷書にて「色重」としたるもの、是れ初代広重の匿画名を小印したる也、蓋し公表を憚    れる小形の略画大小暦(竪二寸二横三寸七)に見る所にして、大二五六八九十等の数字と、紙端に「乙卯」    とあれば、正に安政二年の版行なり〟  ☆ 安政三年(1856)(改印:改・辰月)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政三年刊)    歌川広重画    『狂歌江戸名所図会』初-十六編 立斎広重・重宣画 天明老人内匠撰    『義経一代記図会』 一冊 倭絵師一立斎広重画 戯作者鈍亭魯文作    『初かうむり』   一冊 立斎筆・錦朝楼芳虎画 都竜序    ◯「合巻年表」(安政三年刊)    歌川広重画    『義経一代記』一冊 一立斎広重画 松園梅彦編〔目録DB〕     (袋の画工担当)。出典はすべて〔東大〕    『釈迦八相倭文庫』三十五編 歌川国貞画 袋 立斎 万亭応賀作             三十六編 歌川国貞画 袋 立斎 万亭応賀作    ◯「読本年表」〔切附本〕(安政三年刊)    歌川広重画『義經一代記圖會』倭繪師 一立齋廣重画 松園梅彦畧傳\鈍亭魯文作    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(安政三年刊)    歌川広重画『初かうむり』一冊 広重画 梅秀編 安政三序    ◯「艶本年表」〔白倉〕(安政三年刊)    歌川広重画『春情仮の恋』色摺 半紙本 三冊 弥二楼嬉多八三世(十字亭三九)作     (白倉注「吉原の仮宅を素材としたもの」)    ☆ 安政四年(1857)(改印:改・巳月)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(1857年)   ⑤「広重写」(書斎 経書、鉢梅、文机に文房具、暦書)     句賛〈大小月漢数字で明示。羽州山形の文房雑貨商・崑崙堂の制作〉    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政四年刊)    歌川広重画『扶桑名所名物集』六冊 芳虎画 広重画 春友亭蔵板    ◯「合巻年表」〔東大〕(安政四年刊)    歌川広重画(袋の画工担当)    『釈迦八相倭文庫』三十七編 歌川国貞画 表紙 豊国 袋 立斎 万亭応賀作    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(安政四年刊)    歌川広重画    『狂歌扶桑名所名物集』三冊 広重・芳虎画 檜園梅明撰 春友亭蔵板               (十九巻十九冊、安政四-七刊)    『狂歌やまと人物』  七冊 歌川広重画 天明老人編     〈〔狂歌書目〕は安政二年刊とする〉    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(安政四年刊)    歌川広重画    「稚遊道中双六」    「広重画」  団仙堂寿梓 改印「改・巳九」 ①②    「参宮上京道中一覧双六」「広重製図」 蔦屋吉蔵  改印「改・巳十一」①    「福々双六」「広重筆・又平福禄豊国画」図仙堂   改印「改・巳十一」②⑨    ☆ 安政五年(1858)(改印:午月)    ◯「絵本年表」(安政五年刊)    歌川広重画〔漆山年表〕    『浅草名所一覧』初編 一勇斎国芳 一梅斎芳晴 芳綱画 広重 素真 笠亭仙果画               菁々其一 十一才てい女 窻鵞 風翔写 千春 遅日庵不老撰    『狂歌四季遊』 四冊 広重画 夏の部 二代広重 秋の部 国芳画なり 天明老人撰 尽語楼蔵板    『養生手引草』 二冊 一立斎広重画 山東庵京山 山田屋庄次郎    歌川広重画〔目録DB〕    『山海見立相撲』一帖 歌川広重画 山田屋板    『富士三十六景』一帖 歌川広重画    ◯「合巻年表」(安政五年刊)    歌川広重画    『西行法師一代記』一巻 立斎広重画 柳亭種彦作 松林堂板〔目録DB〕     (袋の画工担当)    『娘庭訓金鶏』二編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 袋 立斎 山東庵京山作〔東大〕    ◯「読本年表」〔切附本〕(安政五年刊)    歌川広重画『新撰西行物語』立齋広重画 柳亭種彦作〈刊記はないが、午八月の改印あり〉    ◯「絵入狂歌本年表」(安政五年刊)    歌川広重画    『狂歌文茂智登理』一冊 一立斎広重画 天明老人編 尽語楼版〔目録DB〕     〈〔狂歌書目〕の書名は『百千鳥百人一首』〉    『狂歌四季遊』四冊 歌川広重画 天明老人等編 小槌側版〔狂歌書目〕    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(安政五年刊)    歌川広重画『狂歌文茂智登理(きょうかももちどり)』色摺肖像〔跡見2508〕〔国書DB〕    内題「天明老人内匠校 狂歌百人一首 立斎広重画」板元未詳 安政五年刊    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(安政五年刊)   「仁義五常振分双六」「豊国・国芳・広重・玄魚画」山本平吉 改印「午九」②⑨    ◯「出放題集三幅対(でたらめよせてみつぐみ)」(番付・安政五年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝画工 ぱつとハ    立斎広重 〈初代広重〉    結城 せぬが     あゐみぢん〈藍(アイ)微塵(ミジン)の結城紬〉    俳優 いひふんのない 坂東彦三郎〈五世彦三郎〉    〈初代の広重は、この年の九月、猛威を振るったコロリ(コレラ)で死亡する。この番付はそれ以前のものである。井     上和雄の『浮世絵師伝』に、嘉永三年頃、広重は一立斎の号を講談師文庫(ママ)と云へる者に与えて、以降、立斎と     号したとあるが、上掲「講談」の「一立斎文車」がその当人なのだろう。それにしても「ぱつとハせぬが」といい、     坂東彦三郎との組み合わせといい、下掲の「年はよつてもまだ/\」の評と、七世市川団十郎との組み合わせで     ある三代目豊国に比べると、当時の人々の広重評価は現代とは大分違っている〉     〝白猿 年はよつても 市川寿海老〈七世団十郎(五世海老蔵・俳号白猿)、この年67歳、翌安政六年没〉    狂歌 まだ/\   天明老人 〈広重画『狂歌江戸名所図会』の編者。この年78歳〉    画工 しやんとこい 豊国老人〈三世豊国はこの年73歳〉     〈三人ともみな高齢だが、まだまだ矍鑠として、存在感を示していたとの評である〉    ◯「三幅対衢占語葉(さんぷくつゐつじうらことば)」(番付・安政五年夏刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝風景      立斎広重    風流 いきだよ 宇治柴文 〈一中節の三味線方の名跡という。この年、安政5年の2月に亡くなった〉    風雅      守村抱義〟〈江戸蔵前の札差。俳諧・詩文・絵などの趣味に生きた〉    ◯『増訂武江年表』2p168~9(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「安政五年」記事)   〝此の頃有名の人にして此の病(編者注、コロリ)に罹り物故せるは(中略)浮世絵師一立斎広重〟   〝九月六日、浮世絵師一立斎広重死す(六十二歳、安藤氏、称徳兵衛、歌川豊広の門人なり。普通の世態    画に同じからず。善く名所山水を画き、又動物の写真によし。江戸并びに国々の名所を画きて行はれし    人なり。又草画もよろし)〟    ◯「立斎広重死絵」三代目歌川豊国画   〝立斎広重子は歌川家の元祖豊春の孫弟子にして、豊広の高弟なりけり。今の世の豊国国芳ともに浮世絵    にて此三人にかたをならぶる者なし。常に山水のけしきを好み、また安政三辰の年より江戸百景をかゝ    れ、目の前に其けしきを見る如く、猶又狂歌江都名所図会を選み、此図を頼みしより、其月/\にあら    はす出板摺本の図取見る人、筆のはたらきを感吟せり。然る所この菊月の六日、家の跡しき納り方迄書    残し、辞世までよみおかれ、行年六十二を此世の別れ、死出の山路へ旅たゝれ、鶴の林にこもられしこ    そなごりをしけれ     東路へ筆をのこして旅のそら西のみ国の名ところを見む  広重     書 天明老人露けき袖をかゝげて筆をとる      (肖像あり)     思ひきや落涙ながら 豊国画(印)〟
   立斎広重死絵 豊国(三代)画(山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム)    ◯「【十方世界三仏乗主/菩提手向三服追善】冥途旅蓮台道連(よみぢのたびのみちづれ)」    (番付・安政五年九月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)     (安政の疫病(コレラ)で亡くなった著名人を追悼する摺物)   〝悼広重(紀おろか詠)     極楽の景色を頓に画くらん影薄墨ときえし後まで〟     〈これからは極楽の景色を画くのだろうと思いやった〉     〝狂句 かへすがへすも 柳下亭種員 〈戯作の他に雑俳でも知られた存在か。享年52歳〉    景画 おなごり    一立斎広重 〈享年62歳〉    狂歌 おしい     燕栗園千寿〟〈書肆文会堂・山田佐助。享年55五歳〉     (参考 安政五年のコレラで亡くなった著名人を追悼する錦絵)
   「蓮台高名大一座」画工・版元不明(日本芸術振興会「文化デジタルライブラリー」)    ◯『【江戸時代】落書集聚』中p359(鈴木棠三、岡田哲校訂・東京堂出版・昭和五九年刊)   「【十方世界三仏乗主/菩提手向三服追善】冥途旅蓮台道連(ヨミヂノタビノミチヅレ)」     〈安政五年七月中旬より流行した疫病コロリにて死亡した各界著名人の追悼文〉   〝景画【かへす/\もおなごりおしい】一立斎広重      悼広重    極楽の景色や頓に画くらん      影うす墨ときえし後まで〟    ☆ 安政年間(1854~1859)  ◯「江戸の花当時の雷名 七福人従他賞誉 初集」(番付 春亭主人撰 金湧堂 安政年間刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝浮世七画    合巻 孟斎芳虎  半身 一鴬斎国周  武者 一英斎芳艶  家元 一寿斎国貞    景画 一立斎広重 全身 一蕙斎芳幾  銅板 玉蘭貞秀〟    〈安政5年9月6日、広重がコレラで死亡。したがってこの番付はそれ以前の出版と思われる〉    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政年間刊)    歌川広重画『鎌倉名所記』一冊 応需広重筆 常陸屋伊三郎板     ◯「日本古典籍総合目録」(安政年間刊)   ◇地誌    歌川広重画    『鎌倉名所記』一冊 歌川広重画 常陸屋伊三郎板     ◯「艶本年表」〔目録DB〕(安政年間刊)    歌川広重画『枕拍子』三冊 歌川広重画? 安政頃刊(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ☆ 刊年未詳    ◯「日本古典籍総合目録」(刊年未詳)   ◇絵本・絵画    歌川広重画    『観世音霊験記』一帖 歌川豊国・歌川広重画    『忠臣蔵』   一冊 安藤広重画    ◯「読本年表」〔切附本〕(刊年未詳)    歌川広重画『幸岡政美録』口絵廣重画・外題国郷画 柳条亭種長作    ◯「絵入狂歌本年表」(刊年未詳)    歌川広重画〔目録DB〕    『狂歌色紙小倉形』一冊 「蹄斎」「立斎」六樹園・淮南堂編    『狂歌画像太平記』一冊 歌川広重画  淮南堂編    『俳諧歌花鳥集』 一冊 一立斎広重画 篶垣翁・結城亭雛機    『俳諧歌月波集』 一冊 一立斎広重画 生花斎照道撰    『四季恋雑混雑』 一冊 歌川広重・北馬画    『英名輸贏集』  一冊 一立斎広重画 桧園梅明撰    『狂歌十体集』  一巻 広重画    桧集園明居編    『文台雅調』   一冊 一立斎画 竜廼門梅明等撰    歌川広重画〔狂歌書目〕    『樹梯再興集』  一冊 歌川広重画    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(刊年未詳)    歌川広重画    『道歌百人一首』肖像 歌川広重画 紀賎丸著 板元未詳 刊年未詳〔跡見76 異種〕    〈肖像画は下掲『新刻道歌百首』と同じ。賎丸序・落款・刊記なし〉    『新刻道歌百首』挿絵・肖像 広重画 亭紀賎丸序〔目録DB〕     序「百首を撰り広重うしが肖像のうへにおきて(云々)」藤岡屋慶次郎板 刊年未詳     ◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎(天童)著)    歌川広重画    『七字の花在姿絵』(長唄) 歌重画 丸屋板〔文化03/02/08〕    『手ならひ子』  (音曲雑)歌重画 丸屋板〔文化03/02/08〕原板 沢村屋利兵衛     〈〔~〕は立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演データ〉  ◯「今昔雑記」島田筑波著(『島田筑波集』下 日本書誌学大系49・2)   (「長唄の正本と浮世絵師」)   〝歌川広重 対面花春駒 沢村屋〟    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(刊年未詳)    歌川広重画    『春の世和』三冊 広重画 玉門舎具二留 夜毎庵好重作                (注記「はるの夜半の改題本、日本艶本目録(未定稿)による」)    『五ツ雁金』三冊 安藤広重画(注記「広重」による」)  ☆ 没後資料    ☆ 安政六年(1859)    ◯「絵本年表」   ◇絵本(安政六年刊)    歌川広重画『富士見百図』初編 広重筆 柳々仙果序〔漆山年表〕    (広重自序)   〝葛飾の卍翁、先に富嶽百景と題して一本を顕す。こは翁が例の筆才にて、草木鳥獣器財のたぐひ或は人    物都鄙の風俗、筆力を尽し絵組のおもしろきを専らとし、不二は其(の)あしらひにいたるも多し。此図    は夫と異にして、予がまのあたりに眺望せしを、其侭にうつし置たる艸稿を清書せしのみ。小冊紙中も    せはければ極密には写しかたく、略せし処も亦多けれど、図取は全く写真の風景にて、遠足障なき人た    ち一時の興に備ふるのみ。筆の拙なきはゆるし給へ              立斎誌〟    (メトロポリタン美術館所蔵本・ARC古典籍ポータルデータベース画像より)     序 「己未新春 あさ草の 柳々仙果」(笠亭仙果、安政六年正月の序あり)     改印「改」「巳十一」(安政四年十一月)    〈広重が採り上げた冨士の景勝地は以下の通り〉     武蔵  「本牧」「神奈川海上芒村横浜」「小金井堤」     東海道 「大森縄手」「南護之松原左り不二」(南湖・茅ヶ崎)「箱根湖水」     木曽街道「塩尻峠」     信州  「諏訪湖」     東都  「隅田堤夕景」     駿州  「美保之松原」(清水)「駿河不二の沼」(沼津)     甲斐  「犬目峠」(上野原)「大月の原」     相州  「三浦秋屋の里」(秋谷海岸)     下総  「藤塚桃園」「堀江猫実」(浦安)     上総  「鹿楚山鳥居崎」(富津 鹿野山)「天神山海岸」(富津)「木更津」     安房  「保田海岸」    〈自序に「予がまのあたりに眺望せし」とあるから、広重がこれらの景勝地を訪れたのは確かなのであろう。ところで     明治22(1889)年、「初代一立斎広重」の作画として『富岳真景』(初-二編)なるものが世に出る。それに際して、版     元の大倉孫兵衛はこの『富士見百図』をそっくりそのまま組み入れて初編とし、さらに次のような土地を加えて二編     とした。伊豆・清見潟・藤沢・江ノ島・七里浜・戸塚・保土ヶ谷・小田原(酒匂川)・薩埵峠(由比)・富士川・草加・     下総小金原・国府台・黒戸(畔戸)の浦(木更津)で、すべて初編の範囲内に収まる。江戸から一番遠いところを見てい     くと、甲州・木曾街道方面では信濃の塩尻、東海道方面では駿河の美保の松原、房総方面では安房の保田、三浦半島     方面では相模の秋谷。そして奥州街道沿いではごく近場で千住のさきの草加までである。広重の作画における行動範     囲がここに現れていると思うのだがどうであろうか〉    ☆ 文久元年(万延二年・1861)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文久元年刊)    歌川広重(一世)画『絵本江戸土産』八編 広重画 松亭迂叟序 菊舎幸三六    ☆ 元治元年(文久四年・1864)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文久四年刊)    歌川広重画    『絵本江戸土産』九編 広重筆 柳廼門主人春水記            十編 前広重立祥筆 広重筆 菊屋幸三郎    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)
 ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「歌川氏系譜」の項 ⑪189
   「歌川豊春系譜」      (歌川豊広門人)
  ◇「一立斎広重」の項 ⑪223   〝一立斎広重    八代洲河岸定御火消屋敷同心也。俗称安藤徳太郎、後十右衛門、又、徳兵衛と改む。同藩与力岡島林斎 〔割註 又素岡と称す武右衛門〕に狩野家の画風を学び、又豊広の門に入りて浮世絵を画く。居住大鋸 町弘化三年常盤町へ移り、又嘉永二酉年夏の頃、中橋狩野新道へ移住す。東海道五十三次、都名所、又 安政三辰年より江戸名所百景一枚摺続絵〔割註 下谷魚栄板小田屋栄吉といふ〕夥しく板行し、天保以 来世に行れたり。後薙髪す。安政五午年九月六日歿す。六十六歳。浅草新寺町東岳寺に葬す。辞世     東路へ筆を残して旅の空西のみくにの名どころを見む〟  ☆ 明治十一年(1878) ◯『百戯述略』〔新燕石〕④226(斎藤月岑著・明治十一年成立)   〝豊春の門人豊広が弟子に、一立斎広重【近藤十兵衛】是は、山水、名処、一枚絵に画出し、世に被行申 候〟  ◯「読売新聞」(明治15年4月1日)   〝今度画師の立斎広重が先師初代広重に由縁のある人々と謀り 同翁の碑を向島へ建てたにつき 同人が    会主にて来る十六日 同所請地秋葉神社前にて追善の書画会を催します〟  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月10日~5月31日 上野公園列品館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古製品 第一~四号」   〝歌川広重 江ノ島図 一幅(出品者)若井兼三郎〟  ☆ 明治二十二年(1889)    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十二年刊)    一立斎広重画『富岳真景』初-二編 一立斎広重 大倉孫兵衛(12月)   〈初編は初代広重の自序を有する安政6年刊の『富士見百図』と同じ。二編の版下がすべて初代のものかどうかは不明〉  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝天保 歌川広重    一立斎と号す、歌川豊広に業を受け、其名遂に師の右に出る。殊更景色真図を写すに妙を得て、世に称    誉せらる。二代広重有り〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊))   〝浮世派諸大家     安政 一立斎広重〟 浮世絵師 歴代大家番付    ☆ 明治二十四年(1891)  ◯「読売新聞」(明治24年8月2日付)   〝五十三次の錦絵(初代広重筆)は例の浅草駒形の児玉又七方より発売せり 今回は桑名・新居・由井・    沼津・石薬師・関の六枚にして 筆力の妙は更にも云はず 印刷また美事なり〟    〈これは竪版の「五十三次名所図会」。余白に「原板は蔦屋吉蔵 求板大橋堂」(大橋堂は児玉又七の屋号)とあるか     ら、児玉又七が蔦屋からこの板株を購入して板木を入手したのである。なお蔦屋板は安政二年の出板〉  ◯「読売新聞」(明治24年8月20日付)   〝浮世絵研究会起らんとす    近来の絵双紙は大抵豊国一門の占領する所となりしが 昨今に至り初代広重の遺墨世に珍重され 富士    三十六景 名所六玉川の如きは再び上梓されんとするに至り 価格も亦甚だ高しとて 豊国一門の画工    中には 私(ひそか)に其の技量の衰へしを嘆息し 大いに絵画研究の方法を設けんと計画しつゝあり〟    〈明治版「富士三十六景」の版元は児玉又七。原板はやはり蔦屋吉蔵板で安政六年(1859)の出版。「名所六玉川」は     井上吉次郎版「諸国六玉川」か。こちらの原版は丸九(丸屋久四郎)板で安政四年の出版〉  ◯「読売新聞」(明治24年9月21日付)   〝富士三十六景    浅草駒形町の児玉又七方にては 先きに初代広重筆の五十三次を再刷して 大いに好評を博したりしが    今度は同じく広重の丹精に成る富士三十六景を刊行する由にて 此程本牧・御茶の水・鴻の台・小金井    ・三浦海上の五枚を売出せり〟  ◯「読売新聞」(明治24年10月28日付)   〝富士三十六景    例の浅草駒形町児玉又七方より 初代広重筆の富士三十六景中、上総鹿野山・武蔵多摩川・武蔵越が谷    在・東都駿河町・伊勢二見が浦の五番を此頃売出せり〟  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯「読売新聞」(明治25年1月8日付)   〝近江八景    初代一立斎広重の妙筆に成る近江八景(八枚)は浅草駒形町四十二番地児玉又七方より売出せり〟  ◯「読売新聞」(明治25年3月19日記事)   〝江戸四十八景    初代広重筆の「選出江戸四十八景」の中、猿若町夜の景、愛宕下藪小路、筋違(すぢかひ)内(うち)八ッ    小路、浅草川首尾の松、羽田の弁天、両国の花火、深川木場等の八枚を 浅草駒形町四十二番地の児玉    又七方より発売せり〟  ◯「読売新聞」(明治25年7月14日記事)   〝広重筆江戸四十八景 の内逆井の渡し・三つまたわかれの淵・御厩河岸の三葉は 浅草駒形町四十二番    地児玉又七より発売せり〟  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p20(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝一立斎広重    江戸ノ人、通称安藤徳太良、後十右衛門、又徳兵衛ト改ム、狩野風ノ画風ヲ学ビ、岡島林斎ニ習フ、又    豊広ノ門ニ入リテ浮世絵ヲ画ク、東海道名処、江戸名処等ノ一枚画ヲ多ク板行シテ、天保以来大キニ行    ナハレリ、安政五年九月六日ニ歿ス、年六十六〟  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『古代浮世絵買入必携』(酒井松之助編・明治二十六年刊)   ◇「歌川広重」の項 p11   〝【初代】歌川広重    本名 徳太郎  号 一立斎  師匠の名 豊広   年代 凡四十年前より七十年前    女絵髪の結ひ方 第十二図・第十三図 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、小判、細絵、二枚つぎ、絵本、肉筆等    備考   広重は景色及花鳥に妙を得、女絵は甚だ拙なく、故に女絵は二代豊国、国貞等の価に同じ〟     ◇「図柄」p21   〝花鳥及び景色は凡て美人其の他の風俗画に比して凡(オヨ)そ半額くらい廉価なり。又広重、国芳、英泉、    及び国貞の如きは風景、花鳥の方却って高価なり〟  ◯『浮世絵師便覧』p238(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝歌川豊広門人、一立斎と号す、安藤氏、幼名徳太郎、後に十右衛門、又徳兵衛、山水錦画に妙なり、東    海道五十三次を画きて、其名著はる、安政五年死、六十六〟  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯「読売新聞」(明治27年6月18日記事)   〝墓跡考  山口豊山子    一立斎広重 浅草北松山町 禅宗南昌山東岳寺 総卵塔の中にあり 碑の高さ三尺余り 上に丸に花菱    の紋所あり 正面に四名の法名並びに没年等を彫りたり 広重の法名は     顕巧院徳翁立斎信士 安政五戊午年九月六日    と記し 台石に田中氏と彫りたり 広重は通称安藤徳太郎 後十右衛門 又徳兵衛と改む 八代洲河岸    定火消組同心にて 同組与力岡島武右衛門(素岡又林斎)に狩野家の画法を学び 又歌川豊広の門に入    り浮世絵を画く 後大鋸町に転居し 弘化三年常盤町に移り 嘉永二年の夏 中橋狩野新道に卜居す    東海道五十三次 都名所 又安政三年より江戸名所百景を始め 諸地の景色を画て大いに名高し 享年    六十六にて没す 辞世は「東路へ筆を残して旅の空西のみくにの名所を見ん」二世広重之を石に彫り    明治十五年四月 向島秋葉の社内に建てゝ永く記念とす〟  ◯『名人忌辰録』上巻p2(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝一立斎広重 立斎    通称安藤徳兵衛。幕府の小吏なり。歌川豊広の門人にして浮世絵を能くす。安政五午年九月六日歿す、    歳六十二。浅草松山町東岳寺に葬る〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   ◇「歌川豊広伝」p123   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又    兵衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。    中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛    飾北斎のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時    の風俗にして、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐    なり、雪舟なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのず    から力あり。これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり。惟歌川家にいたりて    は、其の本をすててかえりみざるもののとごし。元祖豊春、鳥山石燕に就き学ぶといえども、末だ嘗て    土佐狩野の門に出入せしを聞かざるなり。一世豊国の盛なるに及びては、みずから純然独立の浮世絵師    と称し、殆ど土佐狩野を排斥するの勢いあり。これよりして後の浮世絵を画くもの、また皆本をすてて    末に走り、骨法筆意を旨とせず、模様彩色の末に汲々たり。故に其の画くところの人物は、喜怒哀楽の    情なく、甚だしきは尊卑老幼の別なきにいたり、人をしてかの模様画師匠が画く所と、一般の感を生ぜ    しむ。これ豈浮世絵の本色ならんや。歌川の門流おなじといえども、よく其の本を知りて末に走らざる    ものは、蓋し豊広、広重、国芳の三人あるのみ。豊広は豊春にまなぶといえども、つねに狩野家の門を    うかがい、英氏のあとをしたい、終に草筆の墨画を刊行し、其の本色を顕わしたり。惜しむべし其の画    世に行われずして止む。もし豊広の画をして、豊国のごとくさかんに世に行われしめば、浮世絵の衰う    ること、蓋(ケダシ)今日のごとく甚しきに至らざるべし。噫〟    〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そして     それを保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その     題材故に陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけ     た「骨法筆意」があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉     守一、清長、歌麿、北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉     ◇「歌川広重伝」p153
   「歌川広重伝」     ◇「歌川国芳伝」p208   〝無名氏曰く、画は真を写すを要とすといえども、筆意を添えざれば、唯これ真を写すのみにて画に非ざ    る也。画は筆意を要すといえ共、真を写さざれば、唯これ筆意を示すのみにして、画に非ざる也。写真    と筆意と二つながら、其宜敷を得て始めて、画と称すべし。一立斎広重、嘗て絵事手引草を著し、其序    文に謂て曰く、画は物の形を本とす。故に写真をなして、筆意を加うる時は即画也。と至れる哉言や〟     ◇「歌川国芳伝」p209   〝歌川家の画法における、元祖豊春以来西洋の画法により、写真を主とし刻出し、寸法を専とせしが、其    弊終(ツイ)に筆意を顧ざるに至り、かの人物の骨相、衣服の模様、及び彩色の配合等の如きは、頗る精巧    の域に至るといえ共、筆軟弱にして生気甚乏しき所あるが如し。嘗歌川家画く所の板下画を見るに、屡    (シバシバ)削り屡補いて恰(アタカモ)笊底の反古の如し。筆意のある所を知らざる也。又嘗人物を絹本に画く    を見るに、屡塗抹して屡これを補理す。恰かの油画を画きし者の屡塗て屡改め画くと一般にして、常に    筆意を顧ざるものの如し。是豈(アニ)絵画の本色ならんや。〈中略〉唯豊広、広重、国芳、三人は超然、    歌川の門牆をこえて、普く諸流を伺い、専ら筆尖の運動に、注目せるものの如し〟  ☆ 明治三十年(1897)  ◯「浮世絵師追考(二)」如来記(『読売新聞』明治30年2月1日記事)    (玉蘭斎貞秀記事より)   〝国貞の二世豊国を改めしや、国芳は之をいやしみて、再び之と交はらず、是時より更らに歌川を名のら    ずして、単に一勇斎国芳と号して、盛に其筆を揮へり。其頃国貞豊国の世評宜しからざりしは、彼の    「歌川をうたがはしくも名のりえて 二世の豊国にせ(偽)の豊国」といふ狂句にても知らるべく、尚誰    人の口すさみにか       応(すゞろ)なく葭に竿さすわたし守    とあり。葭とは国芳、わたし守とは豊国の事をいひしなるべし。其後一立斎広重の仲裁にて両人和睦し、    其記念にとて画きしは広重・国芳・豊国三名合筆の彼の有名なる東海道五十三次の画なり。渡辺華(ママ)    山は一度国芳の門に入りて学ぶ所あり、三遊亭円朝亦幼少の時国芳に就て浮世絵を稽古せしといふ事を    耳にせり、如何〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (明治美術会展 創立十年記念・明治三十一年三月開催・於上野公園旧博覧会跡五号館)   〝一立斎広重 雪景 墨画〟  ◯『高名聞人/東京古跡志』(一名『古墓廼露』)(微笑小史 大橋義著 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(32/119コマ)   〝立斎広重 (浅草)松山町 東岳寺    本名は安藤徳兵衛と云し由なるが、台石には田中とあり、何せよ浮世画にて真景をかき初めし人とて、    折々尋ぬる者ありと見へ、札を建て表しあり、戒名四つ並べし中、顕功院徳応(ママ)立斎信士と云が是也〟    〈戒名正しくは「顕功院徳翁立斎信士」〉  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(66/103コマ)※半角カッコの(よみ)は本HPが施したもの   〝歌川広重【文政元~十二年 1818-1829】    安藤氏、幼名は徳太郎、のち十右衛門と改め、また徳兵衛と改む、江戸の人にて旧幕府八代洲河岸定火    消屋敷同心なり、幼時より画心あり、別に師とする者無けれども、其の画く所まゝ見るべきものありき、    文化三年十一月、琉球人来聘せしをり、広重は十歳なりしが、其の行列を見て直ちに之れを写せり、而    してしてその配置着色の巧みなるは、幼者の筆としも思はれず、爾来画道に心を潜めて、岡島林斎を友    とし善し、十五歳の時始めて師をとらむと欲し、初代豊国の家を訪ひて、其の門に入らむとせしに、豊    国は門人多くして、世話行届かずとて辞せり、されども広重は思ひ立ちしことなれば、やがて常に出入    せる貸本屋某の紹介に因り、芝片門前町なる歌川豊広の許に往きて、切に望みて漸くに入門の許しを得    たり、その後幾程もなく、師の豊広の没せしより、独立の志を起して師を求めず、而して師の孫豊熊の    幼年なるを扶けて、其の後見をなしぬ、当時豊国の女絵のみ世に行はれて広重の画風は兎角に行はれざ    れば、大に苦心せしが、会々(たまたま)幕府に於て八朔御馬進献のことあり、これに供して京都に上り    往来する所の山水景色を見て、心にふかく感ずるところあり、帰東の後意匠を運らし、始めて景色画を    描き出せしに、時好に投じて頗る好評を得たり、これより一家を興し、前人の未だ図せざる所の景色画    を画けりと云ふ、また狂歌を好みて、戯名を東海道歌重といひ、狂歌の摺本をも多く画けり、久く大鋸    町に住みしが、後に常盤町に移り、更に中橋狩野新道に転ぜり、安政五年戊午九月六日、流行病に罹り    て没す、享年六十二、浅草新寺町東岳寺に葬る、法号顕巧院立斎徳翁居士、辞世の狂歌に      東路に筆を残して旅の空 西の御国の名どころを見む     広重の画ける一枚摺続絵の、主なものは左の如し      『東海道五十三次』『諸国名所』『江戸名所百景』    (本伝は『浮世絵考』『楽雅記』等に拠る)〟   〈広重が幕府の「八朔御馬進献」に随行して京都に上ったという記事、梅本塵山は「『浮世絵考』『楽雅記』等に拠る」    とするが、『浮世絵考』は不明、『楽雅記』は国立国会図書館デジタルコレクションに「何の誰先生」著・明治22年・    金桜堂刊のものが収録されているものの、広重の記事は見当たらない〉  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯「集古会」第十九回 明治卅二年一月(『集古会誌』明治32年6月刊)   ◇課題 七福神     天幸堂(出品者)広重筆 宝船 一枚〟  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)137/218コマ   〝歌川広重    名は元長といふ 一立斎と号す 俗称十兵衛 後徳兵衛と改む 安藤氏の男にして 江戸の人なり 中    橋に住す 初め岡島林斎に師事して 画法を研究し 後歌川豊広に就きて 益々励精し 当時の名工と    称せらる 此の人最も景色の図を画くに妙を得たり 安政五年九月六日没す 年六十二(扶桑画人伝)〟    ◯『浮世画人伝』p99(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝一立斎広重(ルビいちりふさいひろしげ)    一立斎広重、俗称は安藤徳太郎、後に十兵衛、また徳兵衛と改む、幕府の小吏なりき。初め大鋸町に住    居し、後に常盤町に転ぜり。広重は初代豊国の門に、入らんとせしかど、門生満員をもて謝絶せられ、    更に豊広が門に入りて、技芸熟し大に画格を変案して、遂に広重流を創意し、名所の真景を描くに妙を    得たりき。増補浮世絵類考に、広重は同僚の士、岡島林斎に就きて、狩野家の絵画を、学ぶとあるは非    なり。    さて広重が物せしうち、最も佳作の聞えあるは、東海道五十三次、諸国百景、江戸百景等の錦絵是れな    り。又草筆の画譜類数部を板行す。皆世に行はれたり。広重剃髪せしは、天保年中なりき。安政五年九    月六日、時疫(ジエキ)に罹(カカ)りて歿す、時に六十二歳、浅草松山東岳寺に葬る、法名顕功院徳翁立斎    居士、明治十五年四月、門人等相謀りて、碑を墨江須崎村秋葉神社境内に建立す。三世広重其背面を草    筆に写し上に、      東路(アヅマヂ)に筆をのこして旅の空にしのみくにの名所を見む    こは広重が辞世の句なり、あるは云ふ、後人の作ならんと〟    ☆ 明治三十三年(1900)  ◯「集古会」第二十九回 明治三十三年十一月(『集古会記事』明治33年12月刊)   〝上島銀次郎(出品者)江戸めくり    広重画板  一舗    鈴木政徳 (出品者)江都近郊名勝一覧 歌川広重画 一帖  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※半角(~)は本HPの補記   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(169/225コマ)    安藤広重(169/225コマ)    初め岡島林斎に就きて狩野風を学び、後ち豊広の門に入りて浮世絵を学びて、殊に彩色の風景画に巧な    り。東海道五十三次、都(ママ江戸か)名所百景等を上梓して、大に世に行はる。遠景写法の妙に至りては    他画工の及ばざる所なり。安政五年六十二にて没す〟  ☆ 明治三十五年(1902)  ◯『病牀六尺』(正岡子規著・底本岩波文庫本)   ◇「十九」明治三十五年五月三十一日   〝立斎広重は浮世画家中の大家である。其の景色画は誰も外の者の知らぬ処をつかまへて居る。殊に名所    の景色を画くには第一に其実際の感じが現はれ、第二に其景色が多少面白く美術的の画になつて居らね    ばならぬ。広重は慥にこの二箇條に目をつけて且つ成功して居る。この点に於て已に彼が凡画家でない    ことを証して居るが、尚其外に彼は遠近法を心得て居た。即ち近いものは大きく見えて、遠いものは小    さく見えるといふことを知つて居た。これは誰でも知つて居るやうなことであるが、実際に画の上に現    はしたことが広重の如く極端なるものは外にない。例へば浅草観音の門にある大提灯を非常に大きくか    いて、本堂の向ふの方に小さくかいてある。目の前にある熊手の行列は非常に大きくかいてあつて、大    鷲神社は遙かの向ふに小さくかいてある。鎧の渡しの渡し船は非常に大きくかいてあつて、向ふの方に    蔵が小さくかいてある。といふやうな著しい遠近大小の現しかたは、日本画には殆どなかつたことであ    る。広重は或は西洋画を見て発明したのでもあらうか。兎に角彼は慥に尊ぶべき画才を持ちながら、全    く浮世絵を脱してしまふことが出来なかったのは甚だ遺憾である。浮世絵を脱しないといふことは其筆    に俗気の存して居るのをいふのである〟    〈子規が見ているものは『名所江戸百景』のうちの「浅草金竜山」「浅草田圃酉の町詣」「鎧の渡し小網町」である。     子規は広重の画才を称えながら、その俗気を遺憾とする。しかし世俗に題材をとるところに浮世絵の本領がある。江     戸はもともと人為的に造られた都市である。それが年月を経るに従っていつの間にか、もとからそうであるかのよう     に自然化した。『名所江戸百景』はいわばその第二の自然とでも呼ぶべき市井に漂う詩趣をスケッチしたのである〉     ◇「二十」明治三十五年六月一日   〝広重の草筆画譜をいふものを見るに蕙斎略画式の斬新なのには及ばないが、併し一体によく出来て居る。    今其草筆画譜の二編といふのを見付出して初めてから見て行くと多少感ずる所があるので必しも画の評    といふ訳ではないが一つ二つ挙げて見よう。(中略)    (女郎花の画き方について)これは極めて珍しい画き方と思ふが果して広重の発明であろうか。或ひは    光琳などでも画いて居る事があらうか、或ひは西洋画からでも来て居るのであらうか。    同じ本に大月原と題する画がある、これは前に突兀たる山脈が長く横はつて其上に大きな富士が白く出    て居る所である。富士の画などは兎角陳腐になり又嘘らしくなるものであるが、此画の如く別に珍しい    配合も無くして却て富士の大きな感じが善く現はれて居るのは少ない。(以下略)〟    〈『草筆画譜』は一立斎広重画・嘉永元~四年(1848~51)刊。『蕙斎略画式』は鍬形蕙斎画・寛政中期刊〉      ◇「二十二」明治三十五年六月三日   〝大阪の露石から文鳳の帝都雅景一覧を贈つて呉れた。これは京の名所を一々に写生したもので、其画に    雅致のあることはいふ迄もなく、其画が其名所の感じをよく現はして居ることは自分の嘗て見て居る処    の実景に比較して見てわかつて居る。他の処も必ず嘘ではあるまいと思ふ。応挙の画いた嵐山の図は全    くの写生であるが、其外多くの山水は応挙と雖も、写生に重きを置かなかつたのである。其外四條派の    画には清水の桜、栂の尾の紅葉などいふ真景を写したのが無いでは無いやうであるが、併しそれは一小    部分に止つてしまつて、全体からいふと景色画は写生でないのが多い。然るに文鳳が一々に写生した処    は日本では極めて珍しいことといふてよからう。其後広重が浮世絵派から出て前にもいふたやうに景色    画を画いたといふのは感ずべき至りで文鳳と併せて景色画の二代家とも言つてよからう。たゞ其筆つき    に至つては、広重には俗は処があつて文鳳の雅致が多いのには比べものにならん。併し文鳳の方に京都    の名所に限られて居るだけに其画景が小さいから、今少し宏大な景色を画かせたら其景色の写し工合が    広重に比して果してうまくいくであらうかどうであらうか。文鳳の琵琶湖一覧といふ書があるならば、    それには大景もあるかも知れんが、まだ見たことがないからわからん〟    〈露石とは俳人水落露石。『帝都雅景一覧』は前編(竜川清勲編・文化六年(1809)刊)後編(頼山陽編・文化十三年     (1816)刊)〉    ◇「三十五」明治三十五年六月十六日   〝広重の東海道続絵といふのを見た所が其中に何処にも一羽の鳥が画いていない。それから同人の五十三    駅の一枚画を見た所が原駅の所に鶴が二羽田に下りて居り袋井駅の所の道ばたの制札の上に雀が一羽と    まつて居つた〟    〈「東海道続絵」とは『東海道五十三次続絵』。「五十三駅」とは一番著名な保永堂版『東海道五十三』。病床六尺に     臥す子規には、こういった発見もまた視覚上の快楽の一つであったに違いない〉  ◯「集古会」第三十九回 明治三十五年九月(『集古会記事』明治35年11月刊)   〝清水晴風(出品者)名家肖像下書 初代一立斎広重筆 一帖〟  ☆ 明治三十六年(1903)  ◯「集古会」第四十三回 明治三十六年五月(『集古会誌』巻之三 明治36年9月刊)   〝清水晴風(出品者)初代広重手記旅行日記 二冊 /封筒帖【初代広重草稿二冊/版行一冊】三冊    林若吉 (出品者)初代広重 五十三駅錦絵 一冊〟  ☆ 明治三十七年(1904)    ◯「集古会」第四十八回 明治三十七年五月(『集古会誌』甲辰巻之四 明治37年9月刊)   〝清水晴風(出品者)初代広重鉄炮州稲荷奉納行燈の下絵 五冊〟  ☆ 明治三十八年(1805)    ◯「集古会」第五十五回 明治三十八年(1905)十一月(『集古会誌』丙午巻之一 明治39年1月)   〝清水晴風(出品者)    初代広重筆錦画  大名行列図    初代広重十才の筆 琉球人来朝行列図 一巻〟  △『絵本江戸風俗往来』p132(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   (「六月」)   〝軒の燈籠    この晦日より江戸市中至る所、提燈或いは切子燈籠を毎戸毎夕ともすは、亡き魂の供養の燈火とかや。    提燈は長形・丸形・上ひらきて下細りたる形の三種なり。皆大中小ありて無紋なるあり、紅画・藍画に    て山水・花鳥・人物のかた美しく、切子燈籠は絶えて品よく、細工の技倆勝れたるより、費もまた多し。    無紋の長形大提燈へ題目または名号、或いは先祖代々など書きつけるあり。何れも皆今日より八月七日    頃迄は夜毎ともすものとしける。燈籠は細工物を出し、または画を出す。画は当時の浮世画工豊国・国    芳・広重の三画工競うて技倆を表し、新案妙図を工夫せるより、見物の人士夜毎に群集す。細工物に引    き替えるや、この細工人もまた画に劣らじとて工夫をこらして、見物の目を驚かする、山水・人物の作    りよく出来たり〟    〈この豊国は三代目、すなわち国貞であろう〉  ☆ 明治三十九年(1906)  ◯「集古会」第五十七回 明治三十九年三月(『集古会誌』丙午巻之三 明治39年5月)   〝林若樹(出品者)初代広重 勧進能写生帖 一冊 同」    右は天保十三年幸橋御門外に於て興行せし観世太夫勧進能の際 初代広重の観覧して写生せし帖なり〟  ◯「集古会」第五十八回 明治三十九年五月(『集古会誌』丙午巻之四 明治39年9月)   〝村田幸吉(出品者)団扇絵見本帖 広重 国芳筆   〝清水晴風(出品者)初代広重草稿 衣紋雛形 四冊〟  ◯「集古会」第五十九回 明治三十九年九月(『集古会誌』丙午巻之五 明治39年12月刊)    林若樹 (出品者)     広重初代・二代・三代名所画稿 一帖     初代広重 東海道図五葉・二代 東都富士見十二月 十二葉・三代 物産図会十六葉    村田幸吉(出品者)広重筆   東海道五十三次錦絵〟    大橋微笑(出品者)初代広重筆 観月図  一幅  ☆ 明治四十年(1907)  ◯「集古会」第六十四回 明治四十年九月(『集古会誌』丁未巻之五 明治41年3月刊)   〝吉田久兵衛(出品者)一立斎広重 旅行日記 覆本一冊〟  ☆ 明治四十一年(1908)  ◯「集古会」第六十七回 明治四十一年三月(『集古会誌』戊申巻三 明治42年3月刊)   〝清水晴風(出品者)初代広重名義許之一札並歌川派書画会ちらし 安藤広重遺物 合奨一幅   ◯「集古会」第七十回 明治四十一年十一月(『集古会誌』己酉巻一 明治42年6月刊)   〝和田千吉(出品者)広重筆 江戸名所道戯尽 一帖〟  ☆ 明治四十二年(1909)  ◯「集古会」第七十三回 明治四十二年五月(『集古会誌』己酉巻四 明治43年6月刊)   〝大橋微笑(出品者)是真・広重 富士真景合装 一幅〟  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第一輯(明治四十四年七月刊)   (絵師)   (画題)   (制作年代) (所蔵者)   〝歌川広重  「大名行列図」 天保頃    東京帝室博物館〟  ◯「集古会」第八十五回 明治四十四年十一月(『集古会誌』壬子巻一 大正2年4月刊)   〝大橋微笑(出品者)双六 四種      豊国画 源氏双六/貞秀画 道中双六/広重画 江戸名所双六/松浦多気四郎 蝦夷双六〟  ☆ 大正以降(1912~)  ◯「集古会」第八十九回 大正元年九月(『集古会誌』壬子巻五 大正3年5月刊)   〝川喜田久太夫(出品者)広重筆 大伝馬町図 三枚続   〝村田幸吉  (出品者)広重筆 日本橋図 横二枚 /広重筆 越後屋図 横一枚  ◯「集古会」第九十回 大正元年十一月(『集古会志』癸丑之一 大正3年5月刊)   〝清水晴風(出品者)初代広重 手写船之図 一枚    林若樹 (出品者)初代広重手控 京橋鉄砲洲稲荷行燈下画 一冊 嘉永二年酉並同五年分  ◯「集古会」第九十三回 大正二年(1913)五月(『集古会志』癸丑之四 大正4年7月刊)   〝佐藤鞠南(出品者)広重・京伝等合作書画 東の手ふり 一幅〟  ◯「集古会」第九十六回 大正三年(1914)一月(『集古会志』甲寅二 大正4年10月刊)   〝竹内久一(出品者)広重狂画 伊勢参宮膝栗毛双六〟  ◯『浮世絵』第二号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「千社札と浮世絵」扇のひろ麿(13/24コマ)   〝(文化時代から慶応末年にかけて浮世絵の納札(おさめふだ・千社札)を画いた画工)     英泉  広重 二世広重 三世広重  国芳(以下略)〟    〈本HP「浮世絵事典」【せ・色札】「千社札」参照〉  ◯『浮世絵』第五号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十月刊)   国立国会図書館デジタルコレクション   ◇「浮世絵手引草(一)」(19/25コマ)   ・広重竪絵「江戸百景」(百十八枚)の内には二世広重筆約十枚あり   ・広重の「近郊八景」横絵に狂歌の賛あるもの初版にして後摺はこれを削る   ・初代広重の肉筆は晩年書多くありて若年書(わかがき)至つて少なし、若年書は英泉風也  ◯「集古会」第百二十七回 大正九年(1920)三月(『集古』庚申第二号 大正9年4月刊)   〝野崎左文(出品者)  ◯「集古会」第百二十九回 大正九年(1920)九月(『集古』庚申第五号 大正9年10月刊)   〝林若樹(出品者)初代広重 東海道々中写生帖 一冊〟  ◯『読売新聞』(大正5年(1916)9月8日)   〝広重忌    去る六日は恰も広重の五十八年後の祥月命日に当るを以て、有志の追善忌が、その菩提所浅草北松山    町の東岳寺で営まれたのは予報の如くである。そこの集つた好事家の中には広重研究家として有名な    ハツパー氏などもあり、各得意の品を持寄つたが、就中、元安藤家に保存されて居(を)つたといふ、    広重十歳の時になる琉球人来貢の図が一巻出品されて、今は林若樹氏の手に渡つて居る事が知れ、広    瀬氏の浮世絵師画会の摺物等を貼つた掛物で、広重は既に十六七頃画会をやつた事がわかつたりした。    また中村辰次郎氏の持つて来た木曾街道三種は皆それ/\違つたもので、美泉(ひせんママ)広重の合作    で伊勢利と竹内保永堂との共板の分もあり、その一種は矢張出席して居た某氏が広重から直接頒けて    貰つたものとかで、「殊(こと)に遇ふやうな気がする」とその人は懐かしさうに飽かず眺めて居た。    コレラで死んだ広重がコレラ流行の年に盛んな供養をされるのも不思議な運命である。なほ来年は広    重の大展覧会を催す筈であるさうだ〟  ◯「浮世絵漫録(一)」桑原羊次郎(『浮世絵』第十八号 大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝(明治四十二年十月十七日、小石川関口町の本間耕曹を訪問して観た北斎ほかの作品リスト)    本間氏蔵の浮世絵 但し本間翁没後他に散逸せしやに聞く    広重筆「羽田旭図」立斎の印あり    広重筆「玉川柳塘に月図」立斎の印あり是は審美書院より出版ありたる者にて、初代広重なりとの事        なれども、予は筆力の上より二代広重なりと当時思考せしものなり〟  ◯『読売新聞』(大正6年(1917)9月11日)   〝広重の関して(上) 野口米次郎     広重は同一の題材を幾十回となく取り扱つて居るが決して繰返したのでない 実際(先週此紙上で    書したトウロウも同じ仕事を繰越すのを耻辱とした)を顧みて、此処(ここ)僕も六日 高島屋で遣つ    た講演と同問題に関係するのだが、問題の主人公のした仕事と同様に、僕は僕の講演で語つたことを    繰返さない積(つもり)である。僕の講演に洩れて居る広重に対するの僕の感想や 異見の数箇条を此    処で書く     聊(いささ)か個人的に渡るけれども 僕はかういふことを考へる--僕が英語の詩を書き初めてか    ら今日に至る二十年間に何程の仕事をしたか。数の点からいふと僅か百篇以上は無い(トウロウに肖    (あやか)つて仕事の僅少を誇るので無い、実際これ以上に出来なかつたのである)然るに広重の数へ    切れない程なる風景がを思ふと、仮令(たとへ)彼の時代が多作を許したにもせよ、彼は滾々(こん/\)    と尽る所を知らぬ泉水のやうな、如何に鮮新な生気に満ちて居たかを驚かざるを得ない。実に彼の芸    術的努力(時には彼が自分の力を適当に制限したならば 彼は更に異大な画家であり得たろうと思ふ    けれども)の旺盛さは 彼が芸術上の浪費を何んとも思はなかつた点からも知ることが出来る。僕自    身でいへば同一な題材は取扱ひたくない、一度書けば之が最初で又最後である。然るに広重は同場所    を幾回も皆な夫れ/\に異つた新しい興味と目的で描いて居る--慥に其処(そこ)が広重が画家とし    て偉い所だ。僕が広重の心を推察すると、彼は胸にこみ上げて来る抒情的芸術品を吐出して仕舞ふの    が先決問題で、場所其物は彼に対しては第二のものであつたに相違ない。云ひ替へると彼が芸術的感    興に動かされた場合には、同一の場所が彼の眼には全然異つたものと映したに相違ない。彼は同一の    場所を漫然と構図したのでなく、異つた抒情的気分を同一の場所を借りて発散し尽したのであらう。    故に彼の風景画には種々様々な変化があつて言葉で説明出来ぬ詩的な空気が漲つて居る。我々は彼の    絵で彼のパーソナリチーに接触する。して我々は彼から場所の写真を見やうとするもので無い。特に    西洋人には、絵の一枚/\の下に夫れ/\名前が書いてあつてそれが同一の場所としるされて居ても、    必(きつ)と異つた風景画として受取られるであらう。又板画であるから、摺師の手加減一つで絵の具    に深浅がある 又時の拍子で出来具合に善悪があつて、同一の画でもまた非常な相違がある。それで    同じ広重の東海道五十三次や江戸名所を所有して居るとても、皆な銘々異つた--善悪の区別は別問    題として--絵を握つて居ると云はねばならぬ。此処の点が日本の世界に有名な『浮世絵』の面白い    所で、或人に持つて居る絵が一枚百円して、同一の絵であるからとて他の人が持つて居るものに同一    の価値が有るとは云へぬ。浮世絵は肉筆と異つて数が多いからとて、その価値を軽減しやうとするの    は一種の俗論以上でない。特に広重の風景画--出版者の乱暴な所行から随分粗末なものが世に出て    居るので--は皆な異つたもので、同一の絵が百枚あつても、唯一枚だけとして見るのを至当とせね    ばならぬ。此点を良く飲込むと浮世絵が珍重されて来る〟  ◯『梵雲庵雑話』p417「富士」(淡島寒月著・大正八(1919)年八月『新興美術』第三巻第八号)   〝昔から、この不二の山ほど、世人にもてはやされた山も少ない。それだけ、富士を好んだ人も多いので    あるが、中んずく、富士党で有名なのは、さきにもいった、西行法師、不二行者とさえ云われた大雅、    百富士に有名な北斎、東海道五十三次で有名な広重なぞは、その尤(ユウ)なるものであろう〟  ◯「集古会」第百二十七回 大正九年(1920)三月(『集古』庚申第二号 大正9年4月刊)   〝野崎左文(出品者)広重略画 狂歌百人一首 一名百千鳥 天明老人撰 一冊〟    ◯「集古会」第百三十二回 大正十年(1921)三月(『集古』辛酉第三号 大正10年4月刊)   〝林若樹(出品者)広重 吉原仲之町図板木 一枚 江戸名所の内〟  ◯「集古会」第百三十六回 大正十一年(1922)三月(『集古』壬戌第三号 大正11年5月刊)   〝林若樹  (出品者)初代広重 色紙 東海道下画 五枚    三村清三郞(出品者)初代広重 役者絵六郷渡図 三枚 /横絵 日本橋雪晴 一枚〟  ◯「集古会」第百三十七回 大正十一年五月(『集古』壬戌第四号 大正11年8月刊)   〝浅田澱橋(出品者) 広重 錦絵 魚尽  十二枚    三村清三郞(出品者)広重 錦絵 稲荷橋 二種〟  ◯「集古会」第百四十六回 大正十三年(1924)五月(『集古』甲子第四号 大正13年8月刊)   〝浅田澱橋(出品者)広重筆 錦絵三枚続 二組 浅草金龍山 / 市谷八幡前    貫井青貨堂(出品者)広重 江戸名所四十八景 一冊 /広重 江戸風景三十六見附 二冊〟  ◯「集古会」百五十六回 大正十五年五月(『集古』丙寅第四号 大正15年9月刊)   〝三村清三郞(出品者)広重 錦絵 江島参詣道中記 三枚〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)    歌川豊国三世画(◇は所蔵者)   (三谷氏は区内の旧家にして、襲蔵の美術品も少からざりし由なるが、殊に氏の祖父母即ち七代目長三郎といふが浮世絵    を好みて、国貞の後援者となり、又自ら錦絵を出版せしを以て、当時の板下しのまゝに保存せられたるもの少からず、    主として国貞・国芳・広重の作品にして総数約一万枚を算する程ありしが、偶帝室博物館に寄托中なりし十五帖が残り    しのみにて、他は挙げて祝融氏(注)に奪はれたりと云ふ)※(注)「祝融氏」とは火災の擬人化   ◇植草甚助 豊国広重等浮世絵版画 六十冊約五千枚    (三世豊国広重の主要作品は殆ど網羅したるものなりしと云ふ)   ◇大畑多右衛門「お茶水両岸図」横物 絹本淡彩   ◇諏訪松之助 「富士清見寺、三保松原図屏風」一双 紙本淡彩   ◇別府金七  「多摩川夜景図」絹本淡彩 巾一尺五寸三分 立一尺一寸七分(国華)   ◇牛島神社  「神輿渡御図」額   ◇小林亮一〈小林文七嗣子〉     諸国風景図 二十九幅 絹本淡彩 巾一尺三寸 立三尺五寸    (其大部分は天童藩内に伝来せるものにして猿橋雪景などあり、凡そ落款の上へ金字にて名勝の名を題せり)    「両国花火図」屏風 一双  ☆ 昭和以降(1926~)  ◯「集古会」第百六十四回 昭和三年一月(『集古』戊辰第二号 昭和3年2月刊)   〝中沢澄男(出品者)龍頭宝船 七枚     北寿・国安・貞秀・広重・芳虎 大正元晴風翁贈宇都宮製、其他    浅田澱橋(出品者)広重 今日の出芸者双六〟〈何代目か不明〉  ◯『狂歌人名辞書』(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   ◇「歌重」の項 p27   〝東海堂歌重、通称安藤徳兵衛、東都浮世絵の名手、初代歌川広重、狂歌を天明老人に学ぶ、歌重と号す、    安政五年九月六日歿す、年六十二、浅草新寺町東岳寺に葬る〟     ◇「広重」の項 p188    〝歌川広重(初代)、一立斎と号す、通称安藤徳兵衛、東都浮世絵の大家、狂歌の号を東海堂歌重といふ、    安政五年九月六日歿す、年六十二(歌重を看よ)〟    ◯「日本小説作家人名辞書」p710(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   〝歌川広重    一世歌川広重、通称は安藤徳兵衛、一立斎と号し、狂名を東海道歌重と称した。幕府の小吏、歌川豊広    門下の浮世画家、特に風景画に長じた。狂歌は天明老人下手内匠に学んだ。安政五年(1858)九月六日歿、    年六十二、浅草新寺町東岳寺に葬る。「白井権八」(文政七年(1824)刊)、「義経千本桜」(文政八年    刊)の作者〟    〈「日本古典籍総合目録」の『白井権八』『義経千本桜』は共に『日本小説年表』の書誌データ「歌川広重自画」に拠     って、自作自画としている。共に合巻〉  ◯「集古会」第百八十二回 昭和六年九月(『集古』辛未第五号 昭和6年11月刊)   〝大橋微笑(出品者)広重画 小形東海道五十三次 一揃〟〈初代か否か不明〉  ◯「集古会」第百八十三回 昭和六年十一月(『集古』壬申第一号 昭和7年1月刊)   〝相良顕三 横浜(出品者)広重画 錦絵 牛乗天神 二枚 竪二枚つぎ    出口斎吉(出品者)広重画 錦絵 神剣草薙焼夷賊図 一枚 本朝年歴図会の五 上金板〟  ◯『浮世絵師伝』p157(井上和雄編・渡辺庄三郎校・渡辺版画店・昭和六年(1931年)刊)    広重(国立国会図書館デジタルコレクション参照)  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著 日本書誌学大系35 青裳堂書店 昭和五十八年刊)    ※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月)   「第一部 浮世絵の盛衰」「五 最大隆盛期」p36   〝書画会の席などでは浮世絵師は軽蔑されたものであるが、広重は席上画に長じ頗る妙所があつたので、    文人墨客も敬意を払ひ同等の交際を結んだと云ふにも、其の人格の高かったことも知れよう。又当時浮    世絵師の中で席画を画いたは、広重と玉蘭斎貞秀のみであつたとは泉竜亭是正といふ戯作者が能く話し    てゐた〟〈泉竜亭是正は明治十年代前半の合巻作者〉  ◯「集古会」第百八十四回 昭和七年一月(『集古』壬申第二号 昭和7年3月刊)   〝上羽貞幸(出品者)一立斎広重 板画 甲斐猿橋図 一枚    中沢澄男(出品者)広重 板画 七福神かけもの絵 一枚〟  ◯「集古会」第百八十九回 昭和八年一月(『集古』癸酉第二号 昭和8年3月刊)   〝浅田澱橋(出品者)     広重画 芝山門雪景図   一枚 /比丘尼橋雪景 一枚 江戸名所百景    (広重?)湯島天神阪上眺望 一枚    山田一(出品者)     豊国広重合作 東源氏雪の庭 一組〟  ◯『明治の東京』(鏑木清方著)   ◇「築地界隈」p83(昭和八年三月記)   〝鉄砲洲の湊稲荷、今もその社は繁昌であるが、前の社司甫喜山(ホキヤマ)氏は私の祖母の生家、江戸累代の    家筋であった。学校が近くなので私は毎日ここに寄って、御蝋(オロウ)、と呼ぶ人があると小さい蝋燭を    上げる御宮番の手伝いをしたりして遊んでいた。祖母がまだ生家にいた自分、一立斎広重が御宮を信心    で、御祭礼に燈籠をかいたという話を聞いたことがある。ところが二、三年前、稀書複製会本に、広重    の鉄砲洲稲荷燈籠の下図の綴込(トジコミ)が複製されたのを手にして、祖母の話に聞いたのがそれである    ことを知った。(中略)    維新前まで、湊稲荷は入江に沿って佃島に相対(アイタイ)していたので、今の稲荷橋の畔にあったという、    二代広重もよくかいている。境内の富士が画題に取扱われていた〟
  ◇「広重と安治」p184(昭和十八年一月)    (広重画の版本『絵本江戸土産』(嘉永三年(1850)刊)と、井上安治画の小判錦絵、東京風景百枚画帖     (明治十二、三年(1879、8)刊)を取り上げた随筆)   〝槍を立てさせ、供ぞろいをして馬上の侍が通るところを写している広重の絵と、汽車が走り、鉄道馬車    の通っているのを洋風技術で写生した井上安治とは三十年違うだけで、その時分にはあっぱれ近代風景    の実写であったろうと思われる東京新名所の絵が、今日では江戸と東京のひらきに倍する年齢を距(ヘダ)    つるに至ったのだから、明治時代が古い昔になったのに不思議はない。    広重の名所絵、何もこと『江戸土産』ばかりではないが、繁華な江戸の町を画いても、その画面にはい    つも埃が立たない、また都会の雑音が聞こえない。人の神経を焦立(イラダ)たせたり、癇癪を起させ、不    愉快になるような現象は毛筋ほども窺(ウカガ)われない。なんぼ住み善(ヨ)かった江戸だといっても、年    が年中小春日和のような気もちのいい日ばかり続いていたわけでもあるまい。うそ寒い曇り日も、夜っ    ぴで眠れないような空(カラ)っ風の吹き荒(スサ)む時節もあったに違いないのだが、広重のかいた江戸の景    色を見ていると、おまつりにも御縁日にも一向騒々しい物音はせず、サイレントの美しい映画を見てい    るようで、魚河岸の朝市でも、吉原、芝居町の賑わいでも、人は大勢右に左に歩いていて、それがいか    にも物静かで、火事と喧嘩は江戸の華だといわれた血の毛の多い群集とはどうしたって思われない。    私は勿論江戸の町の空気を直接に身に触れたわけではないけれど、井上安治の東京風景は私の生れた一、    二年の後に世に出ている。随(シタガ)ってそこに示された人里(ヒトザト)、木立(コダチ)、野なり川なり、そ    のたたずまいは私みずからの親しく触れて来た、というよりはこの風土が善から悪しかれ今日の私をつ    くりあげたのは、生きものでも、草木でもその土に適(カナ)うものその土にのみ生きる。安治の錦絵には    赤煉瓦の洋館も、鉄の橋も写されているけれど、象外(ショウガイ)に脈々として伝わるのは、広重以来の情    緒がどんな外界の変革に遇(ア)っても、ちっとも本質を変える事なくそのままに残されている。殊(コト)    によったら家康が江戸開府の時の俤(オモカゲ)さえ、何処にか姿を留めていたのかも知れない。(中略)    『江戸土産』の日本橋を見る。早朝なのだろう、橋上を往来するのは魚屋ばかりで、頭に置手拭をして、    背中にずらして小風呂敷の包を負うた男と、行商の一人がいる他は、河岸から買出しがえりの棒手振    (ボテフリ)が早足に魚の荷を担いでゆくのがうちつづく。西河岸には白い並蔵(ナミクラ)、一石橋を越して千    代田の御城が見え、中空に富士がかかっって、よくある図だが、いくら朝早くでもこの日本橋の静かな    ことよ。安治画(エガ)く日本橋夜景を見る。これは西河岸の方から見たところで、橋の上には鉄道馬車    が通り、橋の南袂(タモト)には高い洋館に燈火あかく、三菱の倉庫七棟連(ツラナ)って、その外(ハズ)れに白    々と大きい満月がさしのぼっている。油のような水面に月影は流れて、舫(モヤ)った舟は黒く、月に浮    かれてか行人の数も尠(スクナ)くはない。しかし静かな眺めである。    朝と夜との日本橋、大都会の中心を写したこの二つの景色の、広重は橋西を、安治のは橋東をそのまま    画いただけながら同じような静けさは、明治の東京そこここにいくらも接することの出来た風致であっ    た。    その後国運が進歩したのだからといえばそれまでだが、私などには広重から安治へと続いて来たむしろ    素朴な東京の、早春、梅花の薫るに似た、寂しく床(ユカ)しい都会風景、併せてその生活が懐かしい〟    〈清方の目には、井上安治の画く東京風景の中にも、広重以来の静謐な江戸情緒が絶えることなく漂い続けているよう     に見えたのである〉    ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   「発端」p16   〝 私に草双紙の絵ときをしてくれた鍋屋のばばや祖母の姉妹たちがまだ里にいた時分には、山東京伝や、    初代の広重も、御宮(鉄砲洲稲荷)へいつも御参詣に来て居て、京伝の妹(黒鳶式部)は鍋屋のばば    と稽古朋輩だったことや、御稲荷さまの初午祭に、広重が燈籠をかいて納めたことも、祖母の話に聞い    ていたが、後年稀書複製会本にその下絵が、半紙横綴に殆ど原形のままらしいのを見出して奇遇を悦び    ながらも、若し祖母が在世でこれを見たらどんなに悦んだかと残念やるかたもなかった。     その小下画帳で見ると、画題は専ら江戸年中行事に拠る横物で、大きさは明らかではないが、弘化四    年とあくる嘉永元年の二年続いて、初午祭に掲げたことがわかる。他にやや小さく思える竪形が各三枚    ずつあって、それはどれも正月のものをかいている。     横物は、弘化の分に二十九枚、嘉永のが三十枚ある。十二ヶ月に配してあるが、正月が四つあるのに、    六月は三つ、九月は一つしかないといったふうに月配りはまちまちなので、この凡べてをかいたものか    元来控のことだから、適宜に選んで十二枚かいたものか、そのへんは不明である。併(シカ)し人物を主に    して略図の筆趣味に優れ、どれ一つを選んでも素描画い逸品として迎えられるであろう。     広重は安政五年に六十二で没しているから、弘化四年は五十一になる。私にその燈籠の話をしてくれ    た天保三年生れの祖母はちょうど十六七の娘であったわけである〟    △『絵本江戸風俗往来』p285(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   〔平凡社 東洋文庫版・鈴木棠三解説〕   〝〈遠藤金太郎氏の『広重絵日記』より〉「広重は定火消同心の子に生まれ二十七歳まで定火消同心でい    たのだから、火事の錦絵を描いていそうなものだが、一枚もない。当時火事の絵は発禁だから出版しな    い。よく消防展覧会に、広重落款の火事絵巻物が出ている。それを広重筆と思う人があるが、あれは四    代広重の菊池貴一郎氏の筆。四代広重は火事が好きで、その絵が得意だった」〟    ◯「集古会」第百九十二回 昭和八年九月(『集古』癸酉第五号 昭和8年11月刊)   〝森金治郎 鶴岡(出品者)一立斎広重画 教訓迷悟札 一冊 為永春水作 松林堂板 嘉永六年    秋田収翁 鳥取(出品者)広重戯筆 狂戯芸尽 五枚続一組    三村清三郞(出品者)錦絵江戸名所     広重画 吉原桜の図 /亀戸梅屋敷 /五百羅漢 /日本橋雪晴 /金龍山之図(佐野喜板・山甚板)         上野東叡山 /鉄砲州   /湊神社  /霞ヶ関   /佃島住吉祭 /筋違内八ッ小路      (小判絵)神田駿河町越後屋 神田明神雪景 高輪秋月  州崎弁天  永代橋       真乳山雨中  目黒不動  亀戸天神   浅草金龍山 御茶水有景  ◯「集古会」第百九十三回 昭和八年十一月(『集古』甲戌第一号 昭和9年1月刊)   〝鈴木好太郎(出品者)     一立斎広重画 猫の一枚摺 一枚 猫が肴をくわえてゆくを追駆ける画上に      「そりや猫といふ間に九人前になり 広重戯曲」とあり〟  ◯「集古会」第百九十四回 昭和九年一月(『集古』甲戌第二号 昭和9年月刊)   〝浅田澱橋(出品者)広重筆 錦絵 本所回向院之図 一枚 門前に双狗戯るゝの絵あり〟  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文化三年 丙寅」(1806)p174   〝此年、琉球人来朝、安藤広重十一歳にて其行列を写生せるありといふ〟
  ◇「文化八年 辛未」(1811)p181   〝此年、一立斎広重十五歳にして歌川豊広の門に入る〟
  ◇「文政三年 甲辰」(1820)p194   〝正月、安藤広重の処女作『音曲情糸道』出版。東里山人の作なり。広重時に二十四歳なり〟
  ◇「文政一〇年 丁亥」(1827)p203   〝正月、広重の画ける『洒落口(ヂグチ)の種本』及び合巻『宝船桂帆柱』出版。蓋し地口の種本は表紙の    画のみ広重画なり。時に広重三十一歳なり〟
  ◇「天保元年(十二月十日改元)庚寅」(1830)p208   〝此年八月、安藤広重始めて東海道を往還す〟
  ◇「天保四年 癸巳」(1833)p211   〝此年、広重相州江之島岩屋の図三枚続の錦絵を画く〟
  ◇「天保五年 甲午」(1834)p213   〝此年、一立斎広重、竹内保永堂の東海道五十三次横絵の錦絵を画く〟
  ◇「天保七年 丙申」(1836)p215   〝五月、一立斎広重の画ける『百人一首鐘聲抄』出版〟
  ◇「天保一〇年 己亥」(1839)p218   〝此年、一立斎広重の画ける相州江島弁財天開帳参詣群集図三枚続の錦絵あり。又岩屋の図、七里浜の図    等あり〟
  ◇「天保一一年 庚子」(1840)p219   〝広重の画ける『興歌六々集』出版〟
  ◇「天保一二年 辛丑」(1841)p219   〝此年四月、一立斎広重甲州に行く〟
  ◇「弘化元年(十二月十三日改元)甲辰」(1844)p223   〝三月、一立斎広重上総鹿野山に登る〟
  ◇「嘉永二年 己酉」(1849)p228   〝五月、一立斎広重の画ける『東海道名所図会』出版〟
  ◇「嘉永三年 甲戌」(1850)p228   〝正月、渓斎英泉と一立斎広重の画ける『名所発句集』出版。    七月、一立斎広重の『草筆画譜』及び『絵本江戸土産』初編より四編出版〟
  ◇「嘉永四年 辛亥」(1851)p230   〝正月、一立斎広重の『東海道風景図会』及び『略画立斎百図』初編、奇特百歌僊』『艸筆画譜』四編出       版〟
  ◇「嘉永五年 壬子」(1852)p231   〝此年、広重上総房州地方に再遊せり〟
  ◇「安政元年(十二月五日改元)甲寅」(1854)p233   〝八月、一立斎広重の画ける『扶桑蓬莱百首狂歌集』出版〟
  ◇「安政二年 乙卯」(1855)p235   〝三月、二代北斎、素真、貞秀、広重等の画に成れる『利根川図志』出版〟
  ◇「安政二年 乙卯」(1855)p235   〝三月、二代北斎、素真、貞秀、広重等の画に成れる『利根川図志』出版。    四月、一立斎広重と一猛斎芳虎の画ける『茶器財歌集』出版〟
  ◇「安政三年 丙辰」(1856)p235   〝三月、一立斎広重の『義経一代記図会』出版〟
  ◇「安政四年 丁巳」(1857)p236   〝正月、広重の画ける『狂歌もゝちどり』出版〟
  ◇「安政五年 戊午」(1858)p237   〝九月六日、一立斎広重歿す。享年六十二。(或はいふ六十一歳と)此年夏より虎列刺病流行し、広重も    此の病にて歿せりといふ。其他知名の人にて同じく虎列刺にて歿せるは山東京山、柳下亭種員、楽亭西    馬、五代目川柳、鈴木其一等なり。(広重は安藤氏、俗称徳太郎、又徳兵衛といひ。江戸八重洲河岸定    火消屋敷の同心安藤徳右衛門の子なり。十五歳にして歌川豊広の門に入り、一幽斎、一遊斎等の号あり。    文政も末一立斎と改め、又立斎とも号し『立斎百画』などもあれど多くは一立斎と号し、単に立斎と号    せるは二代広重なり。    七月、国芳、広重、芳晴、芳綱等の画ける『浅草名所一覧』出版〟
  ◇「安政六年 己未」(1856)p238   〝此年、広重の門人重宣、師家の養子となりて二代広重と名乗る。時に歳三十四〟    正月、広重の『富士見百図』出版〟    ◯「集古会」第百九十九回 昭和十年一月(『集古』乙亥第二号 昭和10年1月刊)   〝浅田澱橋(出品者)一立斎広重筆 同 明治十年西国動中記 三枚続〟  ◯「集古会」第二百回 昭和十年三月(『集古』乙亥第三号 昭和10年5月刊)   〝中沢澄男(出品者)広重画 横絵 江戸名所 吉原夜の桜 一枚〟  ◯「集古会」第二百一回 昭和十年五月(『集古』乙亥第四号 昭和10年5月刊)   〝和田千吉(出品者)広重画 絵本手引草 初編 一冊 巻中に鯉の絵あり〟  ◯「集古会」第二百二回 昭和十年九月(『集古』乙亥第五号 昭和10年10月刊)   〝中沢澄男(出品者)広重画 江戸土産袋 二枚〟  ◯「集古会」第二百五回 昭和十一年(1936)三月(『集古』丙子第三号 昭和11年5月刊)   〝中沢澄男(出品者)一立斎広重画 絵本江戸土産  三編 一冊 金幸堂梓    鈴木南陵(出品者)一立斎広重画 絵本江戸めぐり 一冊 松亭金水撰    斎藤治兵衛 鶴岡(出品者)広重筆 錦絵 七里ヶ浜図 一枚・江島遊覧図 一枚・二見ヶ浦図 一枚〟  ◯「集古会」第二百八回 昭和十一年十一月(『集古』丁丑第一号 昭和12年1月刊)   〝浅田澱橋(出品者)広重画 錦絵 真土山の図 一枚・浅草金龍山の図 三枚続・金龍山之図 三枚続    中沢澄男(出品者)広重画 絵封筒 四枚 白牡丹・白兎・白梅・白藤 松平確堂侯遺品〟    〈確堂は美作津山藩8代藩主松平斉民(明治24年没・77歳)。この広重は初代と思われるが未確認〉  ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊)   ◇「絵双六の話 道中双六」p154   〝道中双六は貞享ごろに作り出したものだちうと柳亭種彦がいっているが、宝永ごろのものを私は見た覚    えがある。    近藤清春(?)の正徳ごろのがまず古い方で、時代が降って、お馴染の北斎には「新板往来双六」とい    う優れたものがあり、広重には「東海道富士見双六」「諸国名勝双六」「東海道木曽振分道中双六」等    がある〟  ◯「集古会」第二百十三回 昭和十二年十一月(『集古』戊寅第一号 昭和13年1月刊)   〝中沢澄男(出品者)絵封筒 八枚 広重 国直〟  ◯「集古会」第二百十六回 昭和十三年五月(『集古』戊寅第四号 昭和13年9月刊)   〝浅田澱橋(出品者)一立斎広重画 錦絵 川崎図 一枚 小判 ・錦絵 神奈川図 一枚    木村捨三(出品者)広重画 安政改正新刻鎌倉名所記 一冊 鎌倉常陸屋伊三郞板〟  ◯『集古』戊寅第五号 昭和十三年十一月刊)   〝林若樹所蔵の草稿     立斎広重筆 東海道五十三次 錦絵下絵 四枚      一枚の内に五駅ツツ書しあり、普通のものとは違へり     広重写古図写 骨董集其他のうつしものにて参考書なり     広重 能の写生図 初めに能舞台、能にては石橋・張良・難波・道成寺・玉の井・項羽・熊坂。狂言        は三人片輪・二人大名・悪太郎・水掛聟・瓜盗人・花折・鎌腹・鬼槌、勧進能でも見たるなら        んか〟  ◯「集古会」第二百二十一回 昭和十四年五月(『集古』己卯第四号 昭和14年9月刊)   〝和田千吉(出品者)     一立斎広重画 絵本手引草 初編 中本一冊 柳下亭種員序 嘉永版     一立斎広重画 横絵しま鯛に図 一枚      賛「包丁のさしみの波にかひしきのをこのこけむす沖のしま鯛 閑春楼主人」  ◯「集古会」第二百二十二回 昭和十四年九月(『集古』己卯第五号 昭和14年10月刊)   〝宮尾しげを(出品者)広重画 錦絵 浄瑠璃町繁花の図 一枚 明智が瓢箪を売るを久吉が求める所〟  ◯「集古会」第二百二十八回 昭和十五年十一月(『集古』辛巳第一号 昭和16年1月刊)   〝中沢澄男(出品者)広重画 封筒 唐﨑・膳所 二枚〟  △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「浅草区」東岳寺(北松山町五五)曹洞宗   〝安藤広重(画家)名徳太郎、一立斎と号す。歌川豊廣門人、浮世絵山水を得意とし東海道五十三次の錦    絵最も名高し。外に江戸名所百景、富士三十六景、木曾街道等あり。狂歌も巧みにて狂歌を東海道歌重。    安政五年九月六日歿。年六十二。顕功院徳翁立斎信士。指定史跡      辞世 東路へ筆を残して旅の空西の御国の名どころを見ん〟  ◯「集古会」(第二百三十一回) 昭和十六年五月(『集古』辛巳第四号 昭和16年9月刊)   〝森潤三郞(出品者)双六     歌川豊国(人物)・歌川広重(風景) 江戸名所書分双六 佐野屋富五郎〟  △『増訂浮世絵』p265(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝一立斎広重    広重は安藤氏、幼名徳太郎、後に重右衛門また徳兵衛と称す。江戸八重洲河岸、定火消屋敷の同心、安    藤徳右衛門の男である。文化八年十五歳の時、歌川豊広の門に入つて、浮世絵を学び、文化九年に歌川    広重の名を与へられた。一幽斎又は一遊斎と号した。文政十二年に一遊斎を改めて、一立斎と号した。    天保四五年頃から、一立斎又は単に立斎とも称することゝなり、嘉永頃から専ら立斎となつた。東海道    歌重といふのは、その狂歌名である。    当時の浮世絵師の誰も努めたやうに、黄表紙類の挿絵を画いたり、風俗絵を画いたりしてゐたが、競争    者の多い中に立つて、嶄然頭角を現はさんとするのは容易ではなかつた。    広重の風景画    広重に取つて極めて好い機会が来た。それは天保の初めの或年の八朔に、御馬進献の使が上洛する際、    その随行の一人に加はり、東海道五十三駅を往返したことであつた。若い芸術家が燃え立つ翹望の対象    であつた自然の風光の変化を、駅路に送り迎へた折の感激は、如何であつたらう。見る所の景色悉くを、    己が画想中に収めねば止まなかつたであらう。    慧眼なる広重は、従来の浮世絵版画界で、まだあまり開拓されてゐなかつた風景画の方面に着目したの    であつた。北斎とは違つて、静的で、自然景の有りのまゝに親しみ得る性格が、自からさやうな風に赴    いたのであらうが、兎に角、此の新しい考は、広重が浮世絵界に高名を成す第一歩であつた。    其の後、幾程もなく、保永堂から横絵東海道五十二次揃物が出版された。その後に続々刊行された他種    類の五十三次の中で、最も優れてゐるのは、此の保永堂版である。自然と人事とを巧みに配合して、全    体としても統一ありて、然かも変化に富んだ傑作品である。雪、雨、霧、朝夕の空の景色など、諸の天    象をとり/\の景に配して、最も素直に取扱つてゐる。彫摺の上にも充分注意を加へ、発達し来つた当    時の技術を巧みに応用して、完全な効果を収めてゐる。    広重は爾後、幾酒類もの東海道図を作つてゐる。隷書東海道、行書東海道を始として、狂歌入、中判も    の、人物東海道、蔦屋版の竪絵などがあり、その外にも極く小判のもの等、それぞれ趣をかへて、多様    の描写を試みてゐる。併し同一の駅路を、かやうに様々変つた方面から画かうとしたのであるから、後    年に至つて成つ東海道図には、構図や取材に大変困つたらしい痕が見える。酒類の異なつたものを比較    すると、似よつた図が屡々目に着く。    広重は又江戸名所をも沢山画いた。ずつと早い頃に、俗に幽斎書きと云つてゐる東都名所十枚揃を出版    したが、これは全くの風景本位で、中に小さい点景人物さへもゐない図があるくらゐで、風景のみが極    く静かに画き出されてゐる。江戸近郊八景や、大小多種の江戸名所揃物の外に、一枚摺で江戸の名所を    幾つも画いたものがあり、異なつた種類が多数にある。最もおそく刊行された竪絵の名所江戸百景は、    あらゆる方面から、殆ど描写し尽した江戸の名所を、更に意匠を凝して画いたもので、往々無理な構図    もあり、広重には不似合なほど誇張した画面もあるが、中には気の利いた面白い図柄もあり、広重なら    ではと、思はせらるゝものもある。    東海道と江戸名所とに、その天才を発揮した筆は、諸国の名所にも及んでゐる。京都名所、木曾街道六    拾九次、近江八景、金沢八景、浪花名所の揃物や、六十余州名所図会七十枚揃がある。甲陽猿橋、富士    川雪景は竪二枚継掛物仕立になつたもので、殊に猿橋は名品として世に知られてゐる。その他晩年の金    沢の月夜 阿波の鳴門、木曽雪景などの大錦三枚続も名高い。    挿図(『増訂浮世絵』所収」)としては、京都名所之内祇園社雪中と木曽街道六拾九次内洗馬の二図を    収めた。共に有名な図で、雪景と月夜とを表はしたもので、その表現の手法は広重の独壇上のものであ    るが、この二図の如きは、特に優れてゐるものである。洗馬の月夜の感の如き、我が国の風趣を最もよ    あらはしたもので、版画にして、始めてあらはし得る境地なのである。    又風景画以外にも、諸種の題材に亘つて多くの作品を成してゐる。竪横二種の義経一代記、曽我物語な    どの揃物あり、その外にも歴史に題材を採つた作品が多い。美人画はあまり得意な方でなく、特色はな    かつたが、三枚続や一摺で、当時の歌川流の作に見るやうな、いはば、世間並の美人風俗を画いてゐる。    高名会亭尽と題して、其の頃の江戸で名高い料理店を画いたものがある。芸者や若い女など人物を出し    て、背景としての建物を可なり重んじて画いてあつて、風景と人物とを巧みに調和した作例である。そ    の外、道化絵や、諷刺画など、あらゆる題材に筆を取つてゐる。絵本、草双紙の類にも可なり作例が多    く見られる。    郷土芸術と広重    取材の範囲の広いことに於ては、広重も北斎に譲らず、殊に花鳥画には最も優れてゐて、その作例も多    いが、北斎の絵が活動性に充ちてゐるのとは正反対に、広重の作の特色とする処は、静止を主調として    ゐることである。事前を忠実に写して、素直に取扱つてゐるので、北斎に見るやうあ誇張や、不自然に    過ぐる描写は、大体に於て見受けない。土の芸術とまでいはれる広重の絵画は、郷土味の豊かなもので    あつて、風景を描くに際しても、従来の漢画や文人画系の作家に、支那的に扱はれてゐた吾が国の山水    が、彼の筆によつて、真に純日本的趣味に観察され、描写されたのである。広重の風景画は、啻に浮世    絵版画の上に、一大発展を示したばかりでなく、吾が風景画の発達上に一時期を画したものといはなけ    ればならぬ。      広重の肉筆画    版画が盛んになつて、浮世絵師が版画家になつてからは、彩筆を揮つて、紙や絹に立派に画き上げるこ    との出来るものが、至つて少くなつた。北斎は驚くべき健筆家であるが、広重も亦筆を執つては、肉筆    画に優麗淡雅な絵を作つた。版画に見るのとは、全く趣かはつたものである。    広重の肉筆画は大抵風景であるが、なほ美人画もある。また風景画中に美人を配した図もある。また花    鳥画も肉筆画に面白いものがある。墨画の孔雀の大幅、泉谷寺の杉戸四枚の極彩色の桜花図などは、特    に注目すべきものである。    なほ広重の肉筆画にも色々あつて、所謂ドロ絵式の油絵風のものもある。その内では薩埵峠は面白い。    またこれと反対に淡彩で、瀟洒な風のものでは、天童藩の為めに画いた掛物絵がある。これは天童藩織    田氏が領内の富豪に御用金を仰せつけ、その挨拶に贈つたものである。金高は一様ではないが、十両二    十両三十両とそれ/\献金して居るが、それに対幅の山水画が贈られたのである。今でも昔の箱がその    まゝに残つて居て、御用金の金高の記されて居るのがある。挿図とした東都洲崎朝景と東都高輪夜景は    その例である。絹本着色で、版画とは全く異り、肉筆画としての広重の特色を最もよく表現してゐる。    また掛行燈に可なり多くの筆を揮つて居るが、その内に面白いものが少くない。要するに、広重は筆が    達者であるから、他の浮世絵師とは違つて肉筆絵が画けたのである。    広重の死と其襲名者    広重は、安政五年九月六日、流行の悪疫に罹り、享年六十一歳で没した。浅草北松山町の禅宗東岳寺に    葬る。法号を顕功院徳翁立斎居士といふ。門人の重宣が、翁の女と婚したが、後に故ありて離縁となつ    て、同門の重政が三代を名のることゝなつた。重政没して後、暫く画系が絶えてゐたが、同好の人々相    議つて菊池貴一郎に四代広重を継がせることゝしたのである。二代広重は安藤家を去つて後、喜斎立祥    と号して、多少の作品を遺してゐるが、時恰も錦絵の衰頽甚しい折に向つたので、以後の作品に観るべ    きものが少ない〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔歌川広重画版本〕    作品数:137点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:一幽斎・一遊斎・一立斎・立斎・広重・広重一世・歌川広重・一遊斎広重・一立斎広重・        立斎広重・安藤・安藤広重・安藤広重一世・安藤徳兵衛    分 野:絵画37・狂歌36・合巻15・地誌(名所図絵等)6・絵本5・艶本5・浮世絵3・        雑俳3・人情本2・魚介2・紀行2・遊戯2・咄本1・物産図会1・和歌1・俳諧1・        赤本1・叢書1・義太夫1・百人一首1・辞書1・狂句1・便覧1・医学1・風俗1・    成立年:文政3~5・7~10年   (11点)        天保2・4~8・11・15年(14点)(天保年間合計26点)        弘化1~4年        (6点)        嘉永1~7年        (20点)(嘉永年間合計23点)        安政1~7年        (19点)(安永年間合計22点)           〈一幽斎名の版本は収録なし〉   (一遊斎名の作品)    作品数:1点    画号他:一遊斎広重    分 類:合巻1    成立年:文政10年         〈『宝船桂帆柱』合巻・十遍舎一九作・一遊斎広重画・文政十年(1827)〉   (立斎名の作品)    作品数:1点    画号他:立斎広重    分 類:絵画    成立年:天保年間         〈『浮世画譜』三編三冊・絵画・渓斎英泉(初・二編)、立斎広重(三遍)画・天保年間〉   (一立斎名の作品)    作品数:29点    画号他:一立斎広重    分 類:絵画8・狂歌6・絵本2・人情本1・俳諧1・地誌1・浄瑠璃1・狂句1・合巻1・        和歌1・雑俳1・咄本1・医学1・風俗1    成立年:天保8年    (1点)(天保年間合計5点)        弘化1~3年序 (3点)        嘉永1~4年  (9点)        安政1・3・5年(6点)