Top         浮世絵文献資料館         『浮世絵師歌川列伝』凡例
                  「歌川広重伝」                   歌川広重は、一立斎と号す。安藤氏、幼名徳太郎後に十右衛門(【一に十兵衛】)又徳兵衛と改む。寛政    八年八代洲河岸の火消屋敷に生る。其の父の名詳(ツマビラカ)ならずといえども、定火消同心たりしことは明    (アキラカ)なり。         按ずるに、定火消は失火消防の為めに設けおきしものにて、其の屋敷は江戸城の周囲八ヶ所にあり。常     に消防夫を集めて非常を守らしむ。定火消役は、三百人扶持の俸給にして、其の下に与力六騎、同心三     十人あり。与力は百五十俵、同心は三十俵二人扶持の俸給なりし。         徳太郎幼より師なくしてよく画く。文化三年琉球人の来りし時其の行列を画きたり。時に十歳。この画今    猶伝えて其の家にあり。後に浮世画に志し一世の歌川豊国に就き学ばんとせしが、豊国の門に入り学ぶも    の日に多きをもて、入門を許されず、よって貸本屋某の紹介をもて歌川豊広の門に入らんとす。豊広また    これを拒みしが、徳太郎細に己の志を語り、頻りに乞うて止ざりしかば、豊広深く其の志の厚きに感じ、    終(ツイ)に入門を許したり。         案ずるに、本朝画人伝、および増補類考に広重は岡島林斎の門人とあるは非なり。林斎は俗称武右衛門、     素岡と号し、又梅斎半仙など号す。狩野素川の門人なり。八丁堀に住せし定火消与力なり。広重と友と     し善し。常に往来して共に画道を研究せりと。友人加藤氏は八丁堀に住し、且岡島氏と縁故あるをもて、     よく林斎を知り、又広重を知る。その言に曰く、広重は林斎と大抵同年齢にして、其の頃広重は剃髪し     て居りしが、人品賤しからざりし、林斎の友人なりと。    〈「増補類考」は斎藤月岑編『増補浮世絵類考』。〝同藩与力岡島氏(号林斎又素岡)に狩野家の画風を学び〟とある。斎藤月     岑の日記によると、毎月二日に行われた岡島素岡の例会に、月岑は天保四年から七年(1833~36)にかけて出席している。一方、     広重とは弘化三年(1846)九月三十日の初対面である。もし広重が素岡の門人だとすれば、例会には顔を見せるはずであろうし、     またその頃広重は既に一家をなしていたわけだから、出会っていれば月岑が日記に書かないはずはないと思う。おそらく当時     〝常に往来して共に画道を研究〟するような交友関係には既になかったのであろう。「増補類考」は天保十五年(1854)の月岑     序をもつ。この記事〝岡島氏(号林斎又素岡)に狩野家の画風を学び〟が、広重との交友が始まる弘化三年以降の書き込みで     あればなおのこと、また天保十五年の時点で岡島素岡から聞くかしてこの記事を書いたにしても、のちに広重自身に確認する     ことができたわけであるから、月岑は確信をもってこう記述したものと考えてよい。すると〝画風を学び〟とは素岡から影響     を受けたくらいの意味なのではあるまいか〉       文化九年九月、徳太郎歌川を称するを許され、師名広字を譲られ、広重と称す。時に十七歳。其の時の免    許状は伝えて其の家にありしが、近頃清水氏の有となる。元祖歌川豊春、同豊広印として、あとに門人広    重としるし、文化九年九月吉日と有。       按ずるに、文化九年は広重が十七歳の時なり。十七歳にして免許を得るは蓋し古来稀なる所ならん。こ     れ広重が天性画道の妙を得て、其筆力もとより尋常にあらざるを知るに足るなり。         文政三年、東里山人作音曲情の糸道三冊(【岩戸板】)を画く。これ広重が草双紙の初筆なるべし。         按ずるに、略伝に東里山人、九陽亭と号し、また鼻山人と号す。麻布三軒家に住す。細川浪次郎という。     〈京伝鼻の図あり〉此如き印章あり。俗に京伝鼻と云。山東庵の門人なり。活東子曰く、吾師無物老     人話に、浪次郎晩年漂泊して、芝の切通しにて伝授屋といいて、奇方妙術などを小さき紙にしるして売     れり。予も流離して曝書儈(バクシヨカイ)となり、ともに相隣りて活計せしが、後に江戸橋四日市の小店に     移りてより声聞せざれば、其淵瀬を知らずと云々。作者部類に、東里山人麻布に居宅せる御家人(御普     請役)、実名をわすれたり。文化四五年の頃、和泉屋市兵衛に請て、初て草双紙(当時合巻既に行わる)     を印行せられしより、年毎に此人の作出たり。然れども抜萃なるあたり作なし。その作りさま南北と相     似たることあり。前輩の旧作を剽窃して作れるものおおかり。    〈活東子は書肆・達磨屋五一の入り婿で二世達磨屋岩本活東子。写本叢書『燕石十種』の編集者としてしられている〉      同十年、江南亭唐立作筆綾三筋継棹六冊を画く。此の頃師豊広と共に草筆の墨画、即貼交(ハリマゼ)画を画    く多し。    〈「筆綾三筋継棹」は『筆綾糸三筋継棹』(文政十年(1827)刊)の誤記か〉         按ずるに、江南亭は、狂歌師なり。略伝に、通称中田慶治という。原市街に住て幼より狂歌を好み、故     十返者に従て愚者一得というとあり。         同十二年、豊広没す。広重これより独立して、師に就かず愈(イヨイヨ)勉強刻苦して、別に一機軸を出ださん    とす、一説に人あり豊広の名を継がんことをすすむれど、広重は画道未熟なりとてこれを辞したりとぞ。         按ずるに、諸書に広重師の侍にあること僅にして、師の豊広没せるよしいえり。されど文化八年広重豊     広の門に入り、翌年名とりとなり、文政十二年豊広没せしなれば、其の間に実に二十余年、師に就くこ     と二十余年の久しきに至る。これをわずかなりという謬(アヤマ)りもまた甚しからずや。     又按ずるに、一説に広重は豊広の没せし後は、師に就かずというは非なり。大岡雲峰に就き、南宗画を     学びたることは、或古老のよく知れる所也。雲峰は名は成寛、字は公栗、通称次郎兵衛、江戸の人、山     水花弁に長ぜり(【又按ずるに、一説に広重は、以下「小日本」にはなし】)         天保の初年、広重幕府の内命を奉じ京師に至り、八朔御馬進献の式を拝観し、細に其の図を画きて上る。    其の往来行々山水の勝を探り、深く感ぜる所あり。これより専ら山水を画くの志を起せりとぞ、三世広重    の話(【「小日本」の稿は、初め御馬献上にて京都に行し事を誤り解し、後の項にて訂正あり。従って次    の解説も大部分、「小日本」にはなし】)         按ずるに、御馬進献は年々幕府より馬を朝廷に進献する古例なり。天保十三年北村季文が作りて、幕府     に奉りし幕府年中行事歌合を閲するに、廿五番左、馬御進献、久堅の雲のうへまで行ものは、秋の月毛     のこまにぞありける。註に馬御進献は馬屋の中の駒を撰ばれ、八月朔日に在京の大番頭を御使にて、内     裏へまいらせらるる事なり。これらは古の駒卒のなごりにやそうろうらんとあり。駒卒のことは公事根     源などにも見えて、其の例甚だ古し、黒川真頼氏の説に、八月朔日に幕府より禁裏へ御馬を献上せらる     ることは、いつのころより献ぜらるるか詳ならず。建武年中行事、京都将軍家年中行事などに見えねば、     鎌倉幕府、足利家執政の初より、おこれることなるべし。しかおもわるるよりどころは、御水尾院当時     年中行事八朔の條に、将軍家より馬太刀進上なり。太刀はこの御所のを申出して進上の分なり。だいば     ん所の妻戸より勾当内侍より入、武家伝奏ひろうなり。もとは太刀も進上と見えたり。旧院湯殿の上日     記などに銘などしるしあり。いつの頃より申出さるる事にか、馬は右馬りょうの官人引て出朝かれいに     て御覧あり。御返しには大たかだんし十帖に、うち枝(此は蘆橘の七なりの枝なり)、勅作(薫作なり)     入て、たぶ(以上文)と見て、また後陽成院当時年中行事八朔の條に、従江戸御馬献上、左右馬寮、於     清涼殿南庭、供天覧(以上文)と見えたり。因て案ずるに、家康公の将軍宣下は、後陽成天皇の慶長八     年なれば、徳川家江戸の幕府を開かれしはじめより、八朔御馬献上はおこりしなりべし。其御使は大番     頭なり。禁中年中行事八朔御馬献上の條に、関東の御使二條大番頭のうち勤む。正徳三年まで長袴にて     勤められしが、正徳四年より衣冠にて諸太夫の間より昇殿せり。御馬は絹はから着せて、紫の手綱をつ     け、諸司代の与力と給人素袍にて御玄関へ卒(ヒ)く、御車寄に両伝奏座す。左右馬寮束帯にて下司召つ     れ、請取て平唐門より裾をおろし、清涼殿の南庭へ卒く、御簾のうちより女中簾を動かしたまうを見て     退く、清涼殿鬼の間御簾中に出御あり。此馬年替りに御附の武家へ給る。御返し将軍家へ折枝(金めっ     き橘花の枝を折さして、橘の実七ッ付、一ッずつにふたをして、たきものを入るる箱なり)、大高檀紙     一箱、銚子堤一箱を賜う。両伝奏家より諸司代関東へ遣之(以上文)と見えたり。これにて其の儀式の     概略を知るべしと。       又按ずるに、此の頃広重は既に火消屋敷を出でて大鋸町に住し、専ら浮世絵を業とせしものならん。し     かして定火消同心の株は文化の末か、文政の初人にゆずりたるもの歟(カ)。猶考うべし。     又按ずるに、此時広重は駅々の景色を写し、又日記をもしるしたり。その稿本は伝えて其家にありしが、     三世広重これを出だし裱装して二巻となし、某に譲りたりとぞ。其の所在今詳ならず。或人曰く広重が     東海道を往来せしは、唯一回のみにあらず屡(シバシバ)往来せしなり。然らざればしばしば図をかえ、出     板すること能わざるべしと。蓋ししからん。     一説に広重嘗て山水を画き、自らその真をうつす能わざるを嘆し、四方に遊び遍く山水の勝景を探らん     とせしが、旅費の給すべきなし。如何ともするあたわず、其の妻これを察し、窃かにおのが櫛笄(クシコウ     ガイ)衣服を売却し、若干の金を得て、これを旅費に供せんと請う。広重大に喜び直に懐に入れ、家を出     でて放遊すること殆ど三年、胸中既に名山勝水を貯え、江戸に帰りて山水を画く。一に意のごとくなら     ざるなし。これより画風一家をなすという。     又按ずるに、一説に広重の京師に至るや、其名詳ならざれども四條家の人に就き、四條の画風を学びた     りと、山水画中往々四條に似たる所あれば或は然らん。    〈三世広重が表装をしたという一世広重の京都行き絵日記なるもの、〝幕府の内命を奉じ京師に至り〟というからには実     際京都まで行って見た風景を描いているものと考えられる。しかし一方で、現在では、広重の上洛自体を疑問視する立     場もある。その立場からすると、三世広重の言動は不審ということになる〉         同二年、東里山人作出謗題無茶哉論六冊を画く(岩戸板)。    〈「日本古典籍総合目録」は『出謗題無智哉論』の四編とする。また文政五年(1822)刊の二編も広重とする。なお初編は     文政元年(1818)刊で歌川国直画、文政八年(1825)刊の三編は渓斎英泉が担当している〉      同三年、柳亭種彦作ふしみときは熊坂物語後編二冊を画く。前編は国貞なり(西坂板)。    この頃風俗美人画、および鳥羽絵を画く多し。    〈「日本古典籍総合目録」は『熊坂物語』の刊年を文政四年(1821)とする。角書も「ふしみときは」ではなく「義経一     代記抜萃」。前編後編の記載なく、画工は広重のみである〉         同五年、柳亭門人瓢亭吉見種繁作旗飄莵水の蓋葉六冊を画く(鶴喜板)。    〈「日本古典籍総合目録」には『旗飄菟水葛葉』(文政五年(1822)刊)〉         按ずるに、吉見種繁は、姓名詳ならず。作者部類に種繁は種彦の弟子か。天保四年の春新板に、改色団     七島(西村屋意板)という草双紙の作見えたり云々。     又按ずるに、草双紙の画は広重の長ずる所にあらず。蓋し地本問屋の依頼により、止むことを得ずして、     画きたるものなるべし。されば広重が画きし草双紙は、僅に五六部に過ぎざるなり。天保五年以来嘗て     画きしことなきがごとし。    〈「日本古典籍総合目録」は、広重画の合巻(草双紙)を十五点あげる。作画期間は文政三年(1820)~安政三年(1856)〉        同十二年四月、広重独行甲斐に赴き、山間の奇勝を探り、十一月江戸に帰る。〈天保十二年は1841年〉       按ずるに、広重が京師に赴きし時の旅日記は既に某氏の有となりたり。其の他に諸国に遊びし時の日記     ありし由なるが、今其の所在詳ならず惜しむべし。伝えてその家にあるは僅に甲斐、安房、上総へ、往     きし時の日記のみ。甲斐日記は、天保十二年四月二日より始まり、二十三日に至り中絶し、同年十一月     十三日より再び日記して、廿二日に至りて終る。今その全文を載すること左の如し。        日記の標題に、天保十年二丑とし、卯月日々の記、一立斎、としるして中に、        卯月二日。目出度発足。朝うす曇。昼頃より天気。朝五ッ時出立。丸の内より四谷新宿追分より曲がる。    此辺道甚だ悪し。四ッ谷新町、右に十二そう道あり。此所にて休。荻久保、堀之内みち、是より十八町と    いう。両側茶屋あり。休。同十町許先に、相州大山道、二子の渡しへの近道ありと、ききて戯れ近道は一    とこに二タ子三わたしへ、何程あるとここの屋でとふ下高井戸、上高井戸、石原村にて休。布田宿、此道    たいくつ。堀之内辺の人、男女三人と道連になる。おもしろからず。府中宿六社宮を拝す。日野まで二里、    甚だ長し。一休。玉河舟渡し日野の原、日野宿を過ぎ、信州諏訪の侍と連立行。休。八王子宿、八日町徳    利亀や、此屋にて断。先隣山上重郎左衛門方泊。此家甲州の武田のざんとう也。甲城の隠居鈴木氏に出会、    種々物語、奇談少々。のろけ咄しを聞、掛り合女へ遣すいやみの狂歌を代作す。右色男たびやとききてた    びの紐かたく結びし君があし、我にはとけぬそこのこゝろね、此人入船舟頭と申(モウス)狂歌師に似たり。    茶菓子馳走になる。        三日晴天。八王子千人町より、散田村というあたり、両側建仁寺垣にて、農家至てきれい。休。此辺の農    家小用所図の如し(図は略す)。此辺より先、すべてはたおる家おおし。筑前まがいのはたをおる。至て    よし。村中に流れありて、小さき水車をしかけ、尺四五寸のうすにて米をつく。水車の孫というべきか。    其図左のごとし(図は略す)。夫より小なじという宿、右側に山口という茶屋あり。至てきれい。江戸料    理番をつかいて、なんでも出来るという。此宿に高尾山へのわかれ道あり。ここより一里八町という。駒    木野御関所を越て駒木の宿、ここにも高尾へ近道あり。此所も家毎にはたをおる。この処より江戸身延参    りの三人と、道づれになる。又小なじ宿、柏屋の女房と連になり、以上五人にてはなし行。小仏峠にさし    かかる。小仏峠にて休。ここにて信州いなべ郡の者 を供につれて、峠の茶屋に休。中喰一ぜんめし。平、    きざみこんぶ、あぶらげにふきなり。甚だまずし。此所むさしさがみの境木あり。小仏の峠を下り、道に    照手姫の出生地あり。谷をへだてて、向うわずかに村あり。印ありという。坂を下りて人家あり。ここに    て道連の女にわかれる。小原の宿より、よせの宿、入口茶屋に休。あゆのすしをのぞむ。三人手つだいて、    出来上り出す。甚高直(タカネ)、其代りまずし。夫より少々近道を行て、よせの町に至る。此宿かどやとい    う茶やの脇より、まがりて近道へかかる。此道本道より、二十町程ちかしという。少々難所あり。相模川    流れ緩々たり。舟渡しあり。渡し守に川の名をとえば。さくら川といえり。此川二度渡りて、程なく吉野    の宿也。此川ふじの裾より出るなれば、不二の雪とけて此川に水ます、雪花に似たるもの故、桜川の名あ    りと里人の言なり。つゐのはなの先によし野の宿を見て、桜は川の名に流れけり吉野の宿を過ぎ、関野の    宿入口、梅沢という駅にて休む。小松屋。陰陽の石、女夫石あり。其先の茶屋にて大まんじゅう、塩あん    を喰い、関野の宿を越て境川に至る。津久井郡内の境なり。川を見はらし絶景なり。ここに茶屋三軒あり。    上の方よろし。中の茶屋に休。少々くうふくにあり、四人食事する。あゆの煮付、さくら飯、又うどん一    ぜん喰、酒一杯のむ。壱合廿四文なり。夫より諏訪の番所、すわ村すわの社、此辺よりさき家毎に機織る    なり。ぐんないじま紬もねん色々の織物売る家あり。上の原より。夫より野田尻まで一里半、山道長し。    尤も見晴らし景よし。度々休む。のた尻の駅にて泊る。ここにて江戸者三人に別れる。小松屋といえるに    とまる。広いばかりにてきたなき事おびただし。      へのやうな茶をくんで出す旅籠屋は、さてもきたなき野田尻の宿    此夜相宿となり。座敷に桑名藩中の武士、妻子をつれて下りの人居る。此武士妻子を寝かし、楽しみに居    合をぬくといいければ、我言葉を頼みて見物す。然らばとてものことに、訳を申さんとて、先流義は四天    流にて、何某の弟子なり。さて居合の抜方一々口訳す。その図あらあらしるす(図は略す)。旅中にて通    具なければ、自刃を以てす。居合立色々有て後噺になる。砲術のはなし、日本に二ヶ所に有という火術の    秘書を、所持する由なり。天文学をまなびしという。しのび術の咄しなどする。其夜の膳献立、皿(【塩    あじ半切】)、汁(菜)、平(【氷とうふいも菜】)、飯(【甲斐日記、初より此処迄「小日本」にはな    し。以下も「小日本」には諸々略しあり】)。        四日晴天。のだ尻を立て、犬目峠にかかる。此坂道ふじを見て行。座頭ころばしという道あり。犬目峠の    宿、しがらきのいう茶屋に休。この茶屋、当三月一日見世ひらきしよし。女夫共江戸新橋者、仕立屋職人    なりとのはなし。居候一人これも江戸者なり。だんご、にしめ、桂川白酒、ふじのあま酒、すみざけ、み    りんなどうる。見世少々きれいなり。犬目より上鳥沢まで帰り馬、一里十二町乗り、鳥沢にて下り、猿橋    まで行道二十六町の間甲斐の山々遠近に連り、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり。十歩二十歩行間    にかわる絶景、言語にたえたり。拙筆に写しがたし。猿橋より駒ばしまで十六町、谷川を右になし高山遠    近につらなり、近村の人家まばらに見えて、風景たといなし。さる橋向う茶屋にて中喰。やまめ焼びたし、    菜びたしなり。大月の宿、ふじ登山の追分あり。右へ行て坂を下り、大なる橋あり、谷川流れすさまじく    奇石多し。岩石のそびえ樹木のしげり、四方山にして屏風を立しごとく。山水面白くまた物凄し。この大    橋朽損じて、わきにかりに掛くとみゆる橋あり、是を渡りて道左右に分れあり、がてんゆかず、聞くべき    人家もなく、往来もたえてなく、途方にくれてしばらくたたずみいる。しばらくして山中より、材木をお    い来る人にききて、下花咲に至り、又縄手をへだてて上花ざきに至り休。かしくと云茶屋なり。初狩の手    まえにて休む。江戸品川の人四人連に逢う。上 初狩宿はずれに茶屋あり。団子四本喰う。この所の女房、    甲府八日町の生れにて、江戸へも行しとなり。且珍敷(メズラシキ)茶釜にて茶を煮る。向野宿へ一里、天神坂    をこえて宿に入る。夫よりよしが窪という所あり。ここに毒蛇済度の旧地と記せし(【以上十一字「小日    本」より】)碑あり。一丁程のぼりて、百姓勝左衛門といえる者の家に立寄り休み、右毒蛇の由来を尋れ    ば、奥より老婆出て物語る。昔此所に小俣左衛門という大百姓あり。娘およしは至て美女なれども、心悪    敷けんどん邪けんにて、ついに蛇身となる。其頃此辺に大沼あり。よなよな出で、里人をなやます。しん    らん上人来り給いて、これを教化し給いしより、此うれいやみしとなり。小俣の家今にありと。今は二里    程脇、今沢という所の一向宗の寺にて、右の縁起を出すよし、此婆々七十七八にて、去年信州善光寺より、    江戸見物、江のしま、かま倉大山へ参り帰るよし。尤も一人にてあるきしなり。其外いろいろ物語る。粉    麦の焼餅をちそうになる。此所を出て黒のだ屋扇やへ行、断故若松屋といえるに泊。此家きたなし。前の    小松屋に倍して、むさいこといわんかたなし。壁崩れゆか落ち、地虫座敷をはいて畳あれどもほこりうず    み、蜘の巣まといしやれあんどん、かけ火鉢一つ、湯呑形の茶碗のみ家に過ぎたり。黒野田泊。料理献立。    皿(【めざし四ッ、いわし】)、汁、平(【わらび、牛蒡、とうふ、いも】)、飯。皿(【牛蒡ささがき    生ゆかけ】)、汁、平(【とうふ、赤はら干物】)、飯。此日江戸品川の人三四人と、度々出会、少々は    なしする。きざあるゆえはずす。        五日晴天。黒野田を立てささご峠にかかる。半分程のぼりて休む。江戸男女姉弟連、遠州掛川の人男女三    人づれ、甲州市川禅坊主と俗壱人にあい物いう。夫より又のぼりて、矢立の杉左にあり。樹木生茂り、谷    川の音、諸鳥の声いと面白く、うかうかと峠を越て休。下りにかかる。      行あしをまたとゞめけり杜鵑    鶴瀬の宿を過ぎ、細き山道十三町行て、つるせの番所を通る。女は切手あり。此所にて飯喰う。山うど煮    付平なり。夫より横吹くという原へかかる。此辺より江戸講中一むれ連だち、右は山にて山の腰を行。左    に谷川高山に巌石そびえ、樹木しげり、向うに白根ヶ岳、地蔵ヶ岳、八ッヶ岳、高峰見えて古今絶景なり。    ここに柏尾山大ぜん寺という寺あり。門前に鳥居あり。額に(*下記)とあり。由来きかず。     (*「馬一足」「☆の一筆書き」「牛一頭」)     此辺より先、勝沼の辺まで名物葡萄を作り、棚あまた掛あり。かつ沼の宿此町長し。ここにて江戸連中と    共に、常盤屋という茶屋にて支度、玉子とじにてめし。飯安し。江戸ものは横道にはいる。此茶屋出ると、    又江戸姉弟と、市川の人にあう。此道連甚だ面白し。夫より栗原をすぎて、田中といえる所、ここに節婦    之碑としるせる(【以上九字「小日本より」】)碑あり(【図は略す】)。昔享保十三巳年此所に洪水あ    りて、一村難儀におよぶ。此時安兵衛、阿栗といえる夫婦の者あり。安兵衛らい病を煩い、其母も病に臥    し、家貧しくしてなんぎなるに、妻おくりわずかのあきない、或は袖乞して、夫と姑を介抱せしに、母は    すでにむなしくなり、安兵衛申けるは、とても全快なりがたく、此世にて人交りなりがたき、ごう病なれ    ば、川に入りて死すべし。汝は子もなく年も若ければ、ながらえて他に縁付、身を全うすべしという。妻    聞いれず、この家に嫁せしより、生(イキ)て爰(ココ)を出んとおもわず、とても覚悟を極め給わば、我も共に    死んとて、帯にて二人のからだを巻き、洪水に飛入て死す。此事上聞に達し、公より節婦のひ、という印    を御立下されたる由。夫より石和の宿に至る。入口も茶屋に、江戸講中大勢休居る。殊の外賑やか、ここ    にて、焼酎一杯、うどん一ぜん喰、江戸姉弟の道連は、浅草にて梅川平蔵、お仲をよく知る人なり。勝沼    よりこの辺平地にて、道至ってよし。夫より縄手をこえて、甲府の町にとりつく。ここに酒折の宮という    旧跡あり。御神体の図前に写す(【図は略す】)。柳町にて連にわかれて、七ッ時分、緑町一丁目いせや    栄八殿宅に着。此日入湯。髪月代(サカヤキ)す。是より伊せやに逗留。        六日晴天。朝かいや町芝居へ行。狂言伊達の大木戸二幕見ぶつ。用事これあり帰る。幕御世話人衆中に対    面す。酒盛あり。         七日晴天。朝、さの川市蔵に逢う。朝より芝居見物。知らぬ女中より茶菓子を貰う。返礼す。お俊伝兵衛    二まく、いろは四十七人新まく。         八日晴天。朝荷物到着。幕霞の色漸く(ヨウヤク)きまる。世話人衆中、竹正殿。万定殿。岩彦殿。福勇殿。辻    仁殿。岩久殿。村権殿。松弥殿。川善殿。鳴太殿。夜吉岡舎亀雄大人来、長物語。        九日晴天。細工所極る。昼過より芝居見物。狂言いろは四十七人、中幕(勧進帳の学びは、万屋生を寿ぎ    て)、ここに又安宅問答。契情阿波の鳴門一とまく打出し。夫より町々ぶらつき、一蓮寺へ行。境内稲荷    天神其外末社あり。土弓場、料理茶屋などあり。忍光寺まえ料理やにて夜食。常さん御馳走になる。        十日朝曇晴。二間に一間、鍾馗かく。幕世話人衆奥にて酒盛、少々馳走になる。夕方亀雄大人同道、一蓮    寺かし座敷にて酒盛、三桂法師同道、石橋庵にてさわぎ。         十一日曇。五尺屏風認め、鍾馗画料金二百疋。鰻一重貰う。夜役者さの川(【以上五字】「小日本」より)    市蔵と酒もり。         十二日雨天、襖四枚認め、きゅうり一かご、なまり一本、辻仁より到来。夜そば馳走になる         十三日晴天。柳町たびや、槌のや、十文宅にて、狂歌びらきへ出席。         十四日晴天。襖二枚認め、不快にて休。幕手附金五両請取。四両一分二朱江戸へ送る。         十五日晴天。朝肴町三丁目村田幸兵衛殿宅へ行、昼過より御幸祭礼見物に行。甲府町々、近郷近在の老若    男女群集。少々時候あたり、薬二帖呑(【祭礼の図あれど略す】)。夜芝居見物、桟敷なし、芝居の内屋    敷見世出る。狂言一の谷二まく勧進帳なり。         同十六日晴天夕立あり。病気全快、かきものする。村幸より手打そば貰う。極上々なり。夜祭礼の咄聞、    並祝義を出す事。         同十七日晴天。辻屋殿襖出来遣す。茶菓子到来す。二間に一間の幟孔明かきかかる。         十八日晴天。孔明のぼり出来。昼後より幕かきかかる。夜なべ。佐の衣写本。江戸状二度来る。         十九日晴天。さの衣写本出来。江戸状遣す。村幸襖四枚認め、村幸よりすし到来す。夕かた辻屋にて酒そ    ば馳走になる。夜芝居見物、岩井風呂三まく。         廿日晴曇。まくすみかき出来。唐木綿鐘馗したため、夜肴町村幸へ行。帰り芝居へよる。打出し後三階に    て酒盛。みそ漬香の物辻屋よりもらう。         廿一日晴曇。辻屋にてゆかた誂る。さの衣色さし其外だめ仕事。         廿二日同。休。         廿三日同。辻屋、小鐘馗認め。          是より日記なし。されど甲府滞在中には、御岳身延などへものぼりしと見えて別冊に御岳外道の原、鞍     掛岩、象が鼻、御岳大門、鰍沢、不二川、洗濯石、屏風岩、釜無川、早川等の図あり。裏不二の図をか     きて狂歌あり。       夢山はゆめばかりにて、聞しより目の覚る甲斐のうらふじ       かくばかり甲斐のあるじをみな人の、うらというこそうらみなりけり     又藤巻という所を画きて句あり。       夏旅や夢はどこやら朝峠     末に高尾山本社、並に勝沼の柏尾山、大善寺の図ありて、十一月十三日よりの日記あり。        霜月十三日晴天。幕すみがき。夜辻屋にて招く。肴はよし。酒そば悪し。早々帰る。夜江戸状認。         十四日晴天。よくさいしき。夜(*四字欠く)それより鳴海屋へ招かる。八日町永楽やの後家来客。         十五日晴天。まく不残(ノコラズ)出来。昼すぎより休。昼すぎより休。夜万屋にて酒。四ッ過まく張初め、夫    よりまたまた酒呑。        十六日晴天半曇。朝まく仕事少々、鳴海屋隠居所にて酒盛。市川の人きざもの万定源兵衛同道にて、うな    ぎやへ行。夜芝居二まくみる。此日大酔なり。         十七日晴天。芝居看板かきかかる。鳴海や屏風出来。夜なべ少々。夜中まくはり初。酒明がたまで、別屋    に泊。         十八日晴天。看板彩色仕立。夜別屋にて立ふるまいする。         十九日晴天。朝筆納、まく書付書。昼過ぎ皆々連中わかれ酒。夜荷物出す。鳴海屋、万屋にて夜ふけまで    酒。         廿日曇少々雪降る。朝六ッ半時頃、みどり町伊勢屋出立。松黒同道甲府はずれにて分れ、一人道をいそぎ    て、六ッ時頃上花咲問屋に泊る。此宿上々信州の人相宿也。         廿一日晴天。朝六ッ半頃出立。大目しがらき休。酒汁(*二字欠く)まずし。上の原大ちとや休。昼喰。    七ッ半頃与瀬いなりや泊。上辻屋兵助、役者川蔵相宿。上の原小沢源蔵という郷士大家のはなしきく。         廿二日晴天。朝、与瀬出立。川蔵同道。度々休。酒呑いずれも悪酒なり。暮六ッ時分、府中明神まえ松本    屋に泊。酒甚だ悪し。          按ずるに、廿三日には江戸に帰りたるものなるべし。この日の記事なし。蓋し広重が此の行は、専ら山     水の奇勝を探るにあり。芝居かん板および幕幟襖屏風など画くは、本意にあらざれども、これ生計の道     止むを得ざるに出ずるものか。そもそも甲斐の国は南は駿河に堺し、東は武蔵相模に隣り、西北は信濃     に接し、山峰四方に連なり、郡郷その間にあり、中に山水奇絶の所多し。広重が為には実に最良の臨本     なるべし。         同十三年六月十一日、両度に出でたる錦画改革の町触(三世豊国の伝に出ず)には、広重もまた大に困却    せし由なるが、蓋(ケダシ)国貞、国芳のごとく甚しからざりしならん。如何となれば広重は俳優の似貌をか    かず、且風俗美人画は其の所長にあらず。専ら山水をもて一家を起さんとするの志あればなり。されど当    時、国貞、国芳等と謀り三人合筆にて、忠孝仇討図会、小倉擬百人一首、および東海道五十三対を画きた    り。〈天保十三年は1842年〉        同十五年三月廿三日、広重上総に赴き鹿野山に登り、四月朔日江戸に帰る。〈天保十五年は1844年〉         按ずるに、広重がこの行、何の為なるを知らず。唯鹿野山に登り、眺望して帰りたるのみなるが如し。     日記り。標題に日記、天保十五年辰年弥生の末、とありて中に、         三月廿三日。夜四ッ時、江戸橋より船出、海上風なく船ひまどり、廿四日昼頃、上総木更津着。        廿四日晴天長閑なり。不計卯八殿に逢う。此人なかつかやとて荒物やなり。小泉八十郎方に休。爰(ココ)に    て昼飯仕度す。久津間道、左に海辺見晴らしよし。八ッ過頃早松清右衛門殿宅に着。夜庄兵衛殿来る。酒    盛。夜中より風雨。        廿五日雨天。風雨一日止まず退屈。        廿六日。天気昼後少々曇。仁右衛門殿宅にて麦飯、芋汁、馳走になる。八ッ頃江戸状着。        廿七日。天気。四ッ時頃より、鹿野山参詣。庄兵衛殿、勇吉殿同道、四人連、七ッ過頃鹿野山に着。    (*◯に七の字模様)泊。旅人込合、夜具不足にて、二人もやいなり。同日、箕尾天王の祭参詣。夜中相    宿。同国富津の人二人、酒盛大にさわぐ。        廿八日。天気。同所白鳥大明神祭礼にて参詣。商人群集す。帰り道南子安村、釣鐘淵池中不思議あり。木    更津二組屋にて昼食。此家少々江戸風の料理屋なり。夕七ッ時頃、久津間村に帰る。        廿九日。天気。坂戸市場、坂戸大明神の社、祭神手力雄尊。此山より海辺眺望よし。同所山中に戸隠大明    神、天の岩戸なげ給うという石有。甚左衛門殿宅立派なり。種々馳走になる。それより(*一字欠く)倉    弥兵衛殿宅に至る。又々馳走になる。此家の人僻邑のままにて、かざりなき体、真実にしてよし。勇吉殿    同道にて、夜五ッ時久津間に帰る。くるり川ふみこみ、少々めいわく、この夜大酔。        四月朔日、晴天。朝四ッ半頃、久津間村出立。勇吉殿送る。小泉にて支度、九ッ頃木更津出船、順風にて    日暮頃、鉄砲洲湊町に着。         按ずるに、鹿野山は上総の南方に秀出し、山上の眺望絶景なり。西北に武相豆駿甲信野常等の十国を見     る。十州一覧と称す。春夏の候遊人おおし。        弘化三年広重大鋸町より転じて、常盤町に移住せり。         按ずるに、綾垣氏の小伝に、広重翁は久く、大鋸町に住せしが、後に常盤町に移るとあり。広重が八代     洲河岸、火消屋敷を出でて、大鋸町に住せし年月、詳ならざれども、今久しくといえば、蓋し文化の末     か、文政の初なるべし。         嘉永二年夏のころまた、常盤町より転じて、中橋狩野新道にうつる。       同五年閏二月廿五日、広重再び上総に赴き、また狩野山に上り、安房に入り小湊誕生寺および清澄寺に参    詣し、東房州海岸の風景を眺め、更に西海岸に出でて那古、勝山、保田、鋸山の絶景を探り、四月八日江    戸に帰る。         按ずるに広重がこの行は、小湊誕生寺に参詣するを名として、専ら海岸風景の奇勝を探るにあるのみ。     日記あり。         嘉永五子年閏二月二十五日。夜四ッ時、江戸橋出舟。永代橋に掛り、是にて風待。朝六ッ頃、西北風出で    乗出す。追々風止み、舟ははかどらず。九ッ頃空あしく、雨少々降来る。舟人さわぐ。程なく雨止み、風    少し出八ッ頃木更津に着。雨ふり出す。昼飯食い、鹿野山に赴く。夕刻宿に着。房州滑谷(ヌカリヤ)村の人勘    左衛門、娘同道合宿す。翌日雨少々見合出立。道悪し。セキという所より先、山道殊の外難所、小塚にて    昼仕度、大日の手前にて、勘左衛門に別れて一人となり、大日宿はずれにて馬をとり、六ッ半ころ日高子    の宅に宿。        廿八日。晴天。一日休足。    廿九日。小湊誕生寺参詣。日高宗兵衛同道。行く道何方も絶景なり。しん坂下り道に朝日の御堂とて、日    蓮上人日りん来迎を拝し給う旧跡あり。海辺島山の眺望絶景なり。      風景は奇々妙法の朝日堂、はるかに祖師の御堂輝く     誕生寺堂前の桜の木ふり、梅によく似たるを見て、      梅の木に似たる桜のかたへには、鴬に似し法華経の声          三月朔日。清澄寺参詣。おりのぼり案内。余程の高山風景よし。登り口一の鳥居坂道、これより道法一里    登る。清澄寺門前坂道、料理茶屋多くあり。いずれも田舎めかずいきなり。境内桜多く花盛。金比羅眺望    あり。此所にて烟草のみ、しばらく休。升屋といえる茶屋にて仕度。此時向の茶屋にて、当地地頭の家来、    御奉行という人、名主二人、其外けんもんの人大勢大しゃれなり。本堂額面古代の画、武者画のがく二ッ、    其外天神記、車引の絵、おかしな風なり。この辺の町家建具屋多し。亦(マタ)在家の賤女、頭に物をいただ    きて商いに下る者たえず。老若交り風俗すこぶる風韻あり。七ッ半頃浜荻にもどる。其夜餅搗あり。草粟    米なり。雛節句のもうけとて此地の風なり。        同二日。朝少々不快、出立見合逗留。唐紙三枚かく。        同三日。雨天。伯父という人より、酒一升貰い、唐紙不二其外書物。夜床源来り酒宴。        同四日。昼頃出立。馬にて行。前原、磯村、浪太、天面、弁天島、しまの仁右衛門、庄太夫崎、江見、和    田、此辺すべて磯辺浪打岩石多く。風景尤も絶妙にて、筆に尽し難し。和田にて下馬、松田にて泊り。    (大夫崎という所に、名馬太夫黒の出たる洞穴あり。又ヒヅメの跡つきたる石おおくあり。)      ぬけ出たと穴のいはれに螺をふき    松田駅油屋泊。さんげさんげ法師ほうき売相宿。        同五日。朝画少々認め、夫より馬にて那古まで行。那古より下馬。観世音参詣。山上 風景よし。夫より    道間違にて、田舎道一里程そん。馬をやといて行。木の根坂峠の風景よし。一部の宿昼休。またまた馬に    て行く。勝山風景よし。保田羅漢寺参詣。金谷の宿泊。房州の人六人相宿。不計(ハカラズ)図画の事あり。    大勢色々の雑談あり。其夜雨朝まで降る。        同六日。雨具なく其儘(ソノママ)出立。天神山一切舟なし。大急にて木更津まで来る。一足ちがいにて舟間に    合わず。伊勢久にて昼食。長須賀屋にて泊。        同七日。天気中位。画少々認。風悪敷(アシキ)とてとめられ、舟にのらず。四艘の舟出帆を見て、大きにく    やむ。薬師堂山の桜を見に一向ふさぎ、無拠こじ付、      葉桜や木更津舟ともろともに、乗りおくれてぞ眺めやりけり      菜の花やけふも上総のそこ一里           按するに、此に至り筆を止め、八日の記事なし。蓋し八日は出舟して、恙(ツツガ)なく江戸に帰りしが、     事忙わしくて記事の暇なかりしものならん。     按ずるに小湊は、安房国長狭郡にありて、東海に面し、西山を帯ぶ。僧日蓮の生れたる所なり。      (*以下、日蓮の略伝あり。省略)          安政五年九月六日、広重虎列羅病に罹りて没す。行年六十二。浅草新寺町の浄土宗東岳寺に葬る。法名顕    功院徳翁立斎居士。辞世、東路へ筆をのこして旅の空、にしのみくにの名どころをみん。    〈安政五年は1858年〉         按ずるに此の辞世は、広重が嘗て詠みおきしものか、或いは他人の代りて咏(ヨ)みたるものか、詳なら     ず。蓋し病にかかりて後に、咏みたるにあらざるべし。此の頃東岳寺に至り、広重が墳墓を弔いしが、     其の墳墓は高さ僅に二尺余にして、甚粗末なり。正面の右に奥全院柏岩松栄信士、文化六巳年十二月廿     七日とあり。これ広重が父なるべし。又紅樹院弧月慈円信女、文化六年二月十三日とあり、これ母なる     べし。しかして左に顕功院徳翁立斎信士、安政五午年九月六日とありて、貞操院安室妙全信女、明治九     子年十月二日とあり。これ広重が後妻なるべし。敷石に田中氏を刻しており。広重は安藤なるに、田中     氏とあるは甚疑うべし他日なお考うべし。         広重の没するや、門人等深くこれを痛み、其の肖像を画きて発行し、追悼の意を表せり。画中に天明老人    の小文あり、曰く、一立斎広重子は、歌川家の元祖豊春の孫弟子にして、豊広の高弟なりけり。今の世の    豊国、国芳、ともに浮世絵師にて、此三人に肩をならぶる者なし。常に山水けしきを好み、安政三辰のと    しより、江戸百景をかき、目の前に其の景を見るごとく、又狂歌江戸名所図会の図を画き、月々に出板す。    見る人感ぜざるはなし。然る時に此菊月の六日、家のあとしきおさまり方まで書き残し、辞世を咏み、行    年六十二年を此の別れとし、死出の山路へ旅立れ、鶴の林にこもられしこそ、なごりおしけれ。天明老人、    露けき袖をかかげて筆を採る。         歌川豊国(三代)画「歌川広重死絵」(山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム 浮世絵)       按ずるに、天明老人は本田氏、俗称甚五郎、狂歌をよくし、狂歌名を尽語楼内匠という。広重の友人な     り。         明治十五年、三世広重(自ら二世と称す)、一世広重の法会を執行し、一碑を隅田川の東秋葉の社前に建    てたり。碑面に草書にて一世の像を画き、上に東路の辞世を刻してあり。この時碑面の図を一枚摺にし、    建碑の報條を載す。曰く先師立斎広重翁は、歌川家の祖豊春師の孫弟子にして、豊広翁の高弟なり。然る    に師の机辺にある、僅にして年甫十六のおり、師の先立れぬれば、夫より再び師をもとめず、独立別流の    写生におもいを焦し、山に登り谷に下り、実地を探りて真の景色一家をなせり。己れ筆鈍く才たらねど、    そが名跡を継げるまま、いかで先師が功しのほどを、とこしなえに残さばやと思いつるを、師翁に縁故あ    る硯友、松本よし延ぬしをはじめ、有志の諸君己れに力を合せて、師が辞世を石に彫り、隅田川の辺なる    秋葉の社前へ建ることとはなりたるこそ、己が喜びあまりあることなり。      明治十五年壬午のとし四月。立斎広重敬白。           按ずるに、この建碑の報條は誤り多し。信ずべからず。されど一世二世のあとを継ぎたる広重がかきた     るものなれば、世人かならず事実とせん。故に左に其の誤を正しおく也。先師立斎広重とあるは誤りな     り。一世広重は一立斎と号し、立斎と号せしことなし。かの三亭春馬が富士三十六景の目録のはじめに、     立斎とかけるは法名によりて一字を省きたるものか、しからざればこれまた誤りなり。清水氏曰く、二     世広重また一立斎と号せしが其のころ一立斎文車といえる講釈師ありて大に世に行わる。二世その己の     号と同じきをいとい、一字を省き、更に立斎と号せしなり。三世広重これを知らずして、一世を立斎と     いう。何の故を知らずと。又師の机辺にある僅にして、年甫十六のおり師の先立れぬればというは誤な     り。此の誤りはすでに前に弁じおきたれど、更にその疎漏なることをあげていわん。一世広重が文化九     年九月、師名広字を許されたる免状は、三世広重嘗てこれを裱装して、家蔵となしたり。これ余が目撃     せし所にして、今清水氏の所有となる。しかして明治二十年豊広が六十回忌の報條に、三世広重自らし     るして、師翁は文政十一年までその間十有七年なり。然るにここには自らしるして、机辺にある僅なり     といい、又年甫十六年のおり師の先立れぬればなど云所、齟齬何の故をしらず。疎漏また甚し。         広重の画の最も世に行われたるは、東海道五十三次なり。図をかえ出板せしこと、前後数回に至れり。中    に就き横画最も精妙なりし(まさの紙を横になして摺りたるものなれば、浮世絵商はこれを横画という)。    これに次ぎては木曾街道六十九次、諸国名所、江戸名所百景、富士三十六景等也。三十六景は広重が絶筆    にして、其出版を見ずして没せり。三亭春馬深くこれを悼み、目録に、小文を掲ぐ。其の文に曰く、初代    広重翁は、齢と共に筆の老い行かざる間にとく筆を絶て世の塵を払わんと言われしこと屢(シバシバ)なりし    が、終に筆の余波生前の思い出に、一世の筆意を揮われたる、富士三十六景の写本をもて来て是を彫りて    よと与え給いしは、過る秋のはじめになんありける。そが言の葉の末の秋長月上旬、某の日に行年つもり    て、六十に二ッあまれば、草津という宿の号ならで、筆草のつゆを現世へおき土産、行てかえらぬながな    がしき黄泉の旅、双六の乞目(コイメ)にあらで六道の、闇路をひとり行かれしは、実にや往事は夢のごとし。    今将思いあわすれば、過ぐる日言われし言の葉は、世の諺にいえるごとく、虫がしらししものなるべし。    さればたえたる筆のあと、そを追福のこころにて、彫摺なんども上品に、紅英堂の主人の意中を告まつる    は、楓川の辺ちかき市中に住、三亭春馬。         按ずるに三亭春馬は、何人なるを詳かにせず。一世春馬は吉原の妓楼、大文字屋市兵衛にして、狂歌名     を加保茶元成という。二世春馬は吉原の絵草紙屋蔦屋重三郎、狂歌名蔦唐丸の孫にして、弘化二年名を     改めて二世十返舎一九となる。さればこの春馬は三世ならん。猶考うべし。     英人巴徳(ハート)氏曰く、一立斎広重は、彩色板下画を作ることに妙を得たり。中に就き其東海道の図の     ごとき、遠景写法の妙を写すに至りては、爾他同時代における画工の及ばざるところなりと。         又草筆の墨画、および鳥羽絵、狂歌発句の摺もの画等を画く多し。其の最も世に行われしは、魚尽しの錦    画にして、写生最も妙なり。また肉筆は山水人物など多し。吉原の燈籠のなども画きたり。風俗美人画は、    佳なれども行われず。       按ずるに、武江年表安政五年の條に、浮世絵師歌川広重死、六十二歳、安藤氏、称徳兵衛、歌川豊広の     門人なり。普通の世態画と同じからず。よく名所山水を画き、また動物写真によし。江戸並に国々の名     所を画きて、行われし人なり。又草画もよろしとなり。     又画本類を画くおおし。中に就き狂歌江戸名所(十冊)、江戸土産(十冊)、等最も行われる。これ等     の書は閲し来れば、恰(アタカモ)其の境に入るがごとし。即一部の地理書にして、童蒙これによりて、各地     の風景を知る。其の碑益蓋し少々にあらざるなり。かの字引を用いて、漸く読み下だす小学地理の教科     書に比すれば、其の優れること万々なるを知るべし。又手引草といえる絵本あり。魚鳥など皆割り出し     寸法を示して明かなり。幼童画学の一助として最可なるものなり。     松田氏曰く、余は一世広重に面せしこと屢なり。昔時書画会の席にては、浮世絵師は軽蔑せられたるも     のなりしが、広重は他の浮世絵師と異なり、品行も賤しからざれば、文人墨客の中に入りても、常に同     等の交りを結びたり。且広重は席上画に長じ、よく画きたるが頗る妙所あるがごとし。他の浮世絵師は     多く、席上にて画くことを嫌うなり。其の浮世絵師にして席画をかきたるは、広重と玉蘭斎貞秀の二人     のみなりしと。    〈『狂歌江戸名所』は安政三年(1856)刊。『絵本江戸土産』(松亭金水解説・嘉永三年(1850)~慶応三年(1867)刊)。     『絵本手引草』は嘉永年間(1848~1854)の刊行〉          加藤氏曰く、広重は席上画に妙を得たり。時として曲画を画くに、先ず下より画きはじめ、人をして其     の何物たるを知らざらしむ。漸次に上に画き行くに従い、終に何物たるを解せしめもて一興とせり     (【加藤氏曰く、以下「小日本」にはなし】)。     地本問屋某の話に、広重は他の画工とは異なり、約束にそむきしことなし。仮令(タトエ)ば東海道五十三     次を嘱托し、期日をさだむれば其の期日にはかならず画き終わりて与えたり。しかして其の画料は頗る     低廉なりし。豊国および国芳などは画かざるさきに、画料を出さしめ、しかしてなお画かざることあり     て、時機を失いしことしばしばなりしと。     あるひといわく、広重は烟草を喫し、また酒を飲みたれども、すこぶる謹慎なりし。また戯場をこのみ     たれども似がお画をかかず。一見識あるがごとし。綾垣氏曰く、広重は其の性侠気ありて、しかも活発     なりき。筆余狂歌をこのみて、狂名を東海道歌重という。これもて狂歌の摺物等の画、おおくは翁の筆     になれり。嘗て狂歌の友尽五楼内匠が火災にあうて、呻吟せしを、家に止め、暇あるごとに、ともに狂     歌を詠じて楽みしと。其の風雅おもうべし。     按ずるに、広重は幼より画道を志し、文学はふかく修めざるもののごとし。かの旅日記中にも往々文を     なさざるところあり。且誤字多く、文字もまた甚だ拙なり。しかれどもよく狂歌を詠みたり。     広重の先妻の名詳ならず。早く死す。後妻其の名また詳ならず。一女を設く。広重の没するや、門人重     宣をこの女にあわせて家を継がしむ。これを二世広重とす。立祥といい、喜斎と号す。山水花鳥を画く     おなし。よく一世の筆意を守りて失わず。その落款一世と異なることなし。ゆえに人おおくは一世二世     を弁ずる能わざるなり。落合氏(芳幾)いわく、二世広重は好人物なり。予は屢(シバシバ)彼に出逢いし     が、性正直にして事に処する甚だ謹慎なりし。或は世事にうとき所なきにあらざれども、画道におきて     は頗る妙所あるがごとし。惜しむべしと。後に故あり家を出で横浜に赴き、再び重宣と号し、絵画を業     とせしが、幾ならずして没せしという。二世の家を出ずるや、同門重政代りて家を継ぐ。これを三世広     重とす。又よく山水を画く。嘗て伊勢、大和、大阪、京都を廻り、また常陸、下総に遊び、行々山水を     うつし、其の志し一世の工に出でんを欲せしが、不幸にして病に罹り、明治廿七年三月廿八日没す。惜     むべし。友人清水氏後事をおさむ。*       *三世広重、辞世の歌、うかうかと五十三とせの春を迎へしことのおもてふでとれば、           汽車よりも早い道中双六は月の前を飛に五十三次。俳諧師夜雪庵金羅、代りて此歌を帛紗にしる        し、三十五日にこれを旧友より配布せり。今は(明治廿七年十月三日)金羅も病にかかりて没せ        り。(此の註、「小日本」にはなし)     按ずるに、三世広重、自二世と称す。何の故を知らず蓋理由ありしならん。過ぐる日これを聞かんとて、     広重のもとに至りしに、既に病にかかり言語不通、きくによしなく、止むを得ずして帰る。遺憾なり。         無名氏いわく、広重の山水錦画は、一家の画風にして、古人のいまだ嘗て画かざるところを画く。絶妙と    称すべし。蓋しその画法は豊春、豊広、の浮画を本となし、四條および南宋の画に拠りたるものにして、    其の彩色はみずから発明するところおおきがごとし。凡(オヨソ)山水の景をうつすには、まず其の位置のよ    ろしきを撰ぶこと、もっとも肝要なり。広重はよく此の位置をえらぶことに妙を得たり。これ他人のおよ    ばざるところなり。二世広重画法をつたえてよく画きしが、家を出でて没し、三世広重継ぎて画きしが行    われずして止む。此に至り広重が山水の画法をつたうるもの、全く絶えたるがごとし。実に惜しむべきな    り。近ごろ広重の山水画、大に欧米におこなわれ、輸出日におおし。ゆえをもて現今わが国に存するもの、    はなはだ乏しきにいたれり。横画の東海道五十三次、および魚づくしの絵等、もっとも行わる。これ広重    が腕力実に超凡なるをもってにあらずや。