Top 「側面から観た浮世絵三名人 一世広重」樋口二葉著 その他(明治以降の浮世絵記事) ◯「側面から観た浮世絵三名人」樋口二葉著(『錦絵』第五号 大正六年八月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) ((かな)は原文のルビ。(カナ)は本HPのルビ) 〝(一世広重) 一立斎と号し安藤徳兵衛(幼名徳太郎、後重兵衛と云ひ徳兵衛は最後の俗称、火消同心二十俵二人扶 持)と云ふ。父は田中重兵衛と云ひ弓術家であつたが、火消同心の株を求め安藤氏を冒し、馬場内に於 て、寛政八年に生れしが徳太郎後の広重であるのだ。晩年大鋸(おが)町に住した頃には本姓の田中を称 した共云ふが、彼の菩提寺たる浅草清島町東岳寺の墳墓の台石に田中氏と刻みあるも、其本姓を出し其 素志を貫かさ(ママ)ん為に後継者の手向である。 三世が建碑(注1)の報条に 年(とし)甫(はじめ)て十六にして師に先立つ(ママ)云々とせしも、豊広へ 入門したは文化九年で、豊広の没年は文政十二年であるから、其間二十四(ママ)年も師事し年も三十五と なるのに、十六で師に別れるなどゝ赤嘘を平気で吐いてゐる。又『本朝画人伝』や『増補類考』などに 拠ると 岡島林斎の門に入つたとあつて、狩野派の筆意を研(キワ)め一流を創始したやうに成つてゐる が、林斎と広重とは友人であつた、殊に晩年の友であつたらしい。東錦歌川列伝(注2)にも其事を舒し 「広重は林斎と大抵同年配にして、其頃広重は剃髪して居りしが、人品賤しからざりし、林斎は友人な り」とある。で林斎に就て学びしと云ふが真相のやうに思ふ。 技術上に於ける方面の事は暫く措いて、其懐中に飛込んで見ると、広重は謹直の人であつたが、内政 は随分苦しかつた。其家の株は火消同心で二十俵二人扶持を貰つてゐたが、夫れでは一家を支へて行く 事が出来ぬ、其頃よりして駒込片町に住し、諸侯方の御金御用達を業とせし岸本久七の後援に依て纔に 立てゐたのである。四季の衣服月々の費用等も岸本よりの援助があるので、他の町絵師の如く幇間者流 を学ばずとも、門戸を張つて済して居られたのである。東錦列で中にも「広重は他の画工と異なり約束 に背きし事なし、仮令(たとへ)ば東海道五十三次を嘱托し、期日を定むれば必ず描き了りて与へたり、 而して其画料は頗る低廉なりし、豊国、国芳などは描かざる先に画料を出さしめ、而して猶描かざる事 ありて時期を失する事屡々(しば/\)なり云々」とあるも、一に後援者の確(しつか)りしたのがある為 め、悠々と済して居られたのだらうが、同心の株を後継に譲つて。自から大鋸町へ出てからは猶更のこ とだらう 其性質の恬淡な処から困る者に貸興して催促した事もない、夫れ等が一の原因とも成つて居 やうけれど夏来れば夏の衣類が家にあつた事なら 冬になれば冬の衣類を質屋より取戻すに困り、寒空 に袷一枚で閉じ籠る事もあり、偶々書画会などの交際場裡に出席せねば成らぬに望み、大旦那に打ち明 けて漸く義理を果すは、決して珍しく無かつたのである。昔時の書画会の席では浮世絵師は軽蔑された。 浮世絵師と云ふと社会から職人扱ひをされたものだが、広重は品行が賤しくない。一見識があつて常に 黒羽二重の着附で、ニューと済し先生を以て称され文人墨客と同等の交際を結んでゐたは、席画に長じ て妙所があつて平生の素行が宜しかつたからであらう。 広重は煙草も喫み酒も嗜み、好んで旅行もしたが、旅の耻(ハジ)は掻き捨てなどゝ捨て撥(ステバチ) の不品行はしなかつた。女に掛けては冷淡であつた、真摯(まじめ)な謹慎家で先生と他から呼れる敬語 に耻なかつた。そんな人だから家庭にては気むづかしい、機嫌の取り憎い捻くれ家で、三度の喰物にも 喧しい程であつたさうな。然れど重箱の隅を楊枝で穿(ほじ)くるやうにこせ付く事はなく総てが放任で あつたから、一人娘のお八重が放縦に流れ、家庭の破綻を曝露するやうな事にも成つたのであるが、左 様かと云つて家の者に対して、苦虫を咬み潰すやうな顔しても、他人に対して焼の廻つた恵比寿のやう に円満であるかと云へば座談も拙であつた、世話愛敬も甚だ乏しかつた、只だ真摯一方で機智もなく、 権謀もなく、圭角のあるやうに見えて圭角の取れた交際場裡の人であつた。要するに作物の上に於ける 彼れには定評があるが、平生から観た彼は乾し固まつた高野豆腐の如く、何の味もそつけもない固い一 方の男で、只だ真摯と云へばそれで足りる簡単なものである。(注1)明治15(1882)年4月1日付「読売新聞」〝今度画師の立斎広重が先師初代広重に由縁のある人々と謀り 同翁の 碑を向島へ建てたにつき 同人が会主にて来る十六日 同所請地秋葉神社前にて追善の書画会を催します〟 (注2)「東錦歌川列伝」とは飯島虚心著『浮世絵師歌川列伝』。引用個所は下巻の「歌川広重伝」に所収