Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ よしつや うたがわ 歌川 芳艶 初代浮世絵師名一覧
〔文政5年(1822)閏1月1日 ~ 慶応2年(1866)6月22日・45歳〕
 ※『観物画譜』(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)  ☆ 天保十三年(1842)    ◯「合巻年表」(〔早大〕「古典籍総合データベース」)   ◇合巻(天保十三年刊)※角書は省略    歌川芳艶画『花紅葉錦伊達傘』一栄斎芳艶画 美図垣笑顔作 蔦屋吉蔵板    ☆ 弘化元年(天保十五・1844)     <二月 見世物 曲独楽(竹沢藤次)両国西広小路>  ◯『観物画譜』48-49・51-52    歌川芳艶画    「一流曲独楽 竹沢藤次(お岩稲荷)」錦絵 署名「一栄斎芳艶画」版元印不明    「◎曲独楽  竹沢藤次(殺生石)」 錦絵 署名「一栄斎芳艶画」加藤屋岩蔵板    「一流曲独楽 竹沢藤次(怪談?)」 錦絵 署名「一栄斎芳艶画」版元印不明    「一流曲独楽 竹沢藤次(不明)」       「芳艶画」   加藤屋岩蔵板   ◯「見世物興行年表」㉖㉗(ブログ)    歌川芳艶画      「一流曲独楽 竹沢藤次(竜宮)」錦絵 署名「一栄斎芳艷画」加藤屋岩蔵板    「一流曲独楽 竹沢藤次(竜宮)」錦絵 署名「一栄斎芳艷画」加藤屋岩蔵板か?     <三月 見世物 曲独楽(奧山伝司)・からくり細工(竹田縫殿之助)浅草奧山>  ◯『観物画譜』53-55・57    歌川芳艶画    「金龍山於境内興行仕候 一流曲独楽奧山伝司(鎧)」  錦絵 署名「一栄斎芳艶画」蔦屋吉蔵板    「金龍山於境内興行仕候 一流曲独楽奧山伝司(羽子板)」錦絵 署名「一栄斎芳艶画」蔦屋吉蔵板      「金龍山於境内興行仕候 江戸の花 一流曲独楽奧山伝司(菊車)」錦絵 署名「一栄斎芳艶画」中文板    「金龍山於境内興行仕候 曲独楽奧山伝司 細工人大坂下り竹田縫殿之助・同岩治郎(菊車)」錦絵     署名「一栄斎芳艶画」村市板  ◯「見世物興行年表」⑭⑮(ブログ)    歌川芳艶画    「金龍山於境内興行仕候 江戸の花 一流曲獨楽奥山傳司(水芸)」錦絵 署名「一栄斎芳艶画」中文板    「金龍山於境内興行仕候 江戸の花 一流曲獨楽奥山傳司 細工人竹田岩次郎」錦絵二枚続     署名「一栄斎芳艶画」清水屋常次郎板    ☆ 嘉永元年(弘化五年・1848)     <六月 唐人踊り 両国回向院>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「回向院境内におゐて(かんかん踊りの歌詞あり)」錦絵 署名「一英斎芳艶画」板元未詳    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『筆禍史』「浮世絵師説諭」(嘉永三年・1850)p154(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝同年八月十五日、錦絵の認め方につき、浮世絵師数名役人の糾問を受けたる事あり、『御仕置例題集』    によりて其憐愍書の一節を左に禄す     一体絵類の内人物の不似合の紋所等認入れ又は異形の亡霊等紋所を付け其外時代違の武器取合せ其外     にも紛敷く兎角考為合買人に疑察為致候様専ら心掛候哉に相聞え殊に絵師共の内私共別て所業不宜段     入御聴重々奉恐入候今般の御沙汰心魂に徹し恐縮仕候    以下尚長々と認めて、此度限り特別に御憐察を乞ふ旨を記せり、其連名左の如し              新和泉町又兵衛店      国芳事  孫三郎              同人方同居         芳藤事  藤太郎              難鞘町六左衛門店      芳虎事  辰五郎              本町二丁目久次郎店清三郎弟 芳艶事  万吉              亀戸町孫兵衛店       貞秀事  兼次郎       南隠密御廻定御廻御役人衆中様           隠密といへるは現今の刑事巡査(探偵)の如きなり、浮世絵師数名はあやまり證文にて起訴さるゝ事も    なく、平穏に済みたるなり      〔頭注〕浮世絵師四名    いづれも歌川派の浮世絵師なり、国芳は初代一陽斎豊国の門人、芳藤芳虎芳艶は国芳の門人、貞秀は国    貞の門人なり     国芳  一勇斎 井草孫三郎     芳藤  一鵬斎 西村藤太郎     芳虎  一猛斎 永島辰五郎     芳艶  一英斎 三輪 万吉     貞秀  玉蘭斎 橋本兼次郎〟    ☆ 嘉永五年(1852)     <閏二月 曲持(鉄割弥吉・音吉・福松)西両国広小路>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「(柳下亭種員戯文)(大阪下り 太夫鉄割音吉・弥吉・福松 上ノリ鶴吉・熊吉)」    摺物 署名「一英斎芳艶画」板元未詳    ☆ 嘉永六年(1853)    ◯『筆禍史』「当代全盛高名附」(嘉永六年)p160(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝吉原細見に擬して、当時名高き江戸市内の儒者和学者俳諧師狂歌師等をはじめ諸芸人に至るまで数百人    名を列配し、其名の上に娼妓の如き位印を附けたる一小冊なり、末尾に「嘉永六年癸丑之義、玉屋面四    郎蔵板」とあり    これは吉原の細見に擬して、嘉永六年に出版した『当代全盛高名附』の一葉を原版のまゝ模刻したので    ある、曲亭馬琴、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦、初代歌川豊国、葛飾北斎、渓斎英泉等の如き大家没    後の文壇が、如何に寂寞たりしかを知るに足るであろう。    因みにいふ、右『当代全盛高名附』の作者及び版元は、吉原細見の版元より故障を申込まれ「細見株を    持てる我々に無断で、細見まがひの書冊を出版するとは、不埒至極である」との厳談を受け、結局あや    まり証文を入れて、書冊は絶版とする事で、漸く示談が附いたとの伝説がある、今日は他人の出版物に    擬した滑稽的の著作は勿論、其正真物に似せたイカサマ物を出版しても、咎められない事になつて居る    が、旧幕時代には右の伝説の如き事実があつたらしい(此花)        【吾妻】錦   浮世屋画工部    (上段)     豊国 にかほ   国芳 むしや  広重 めいしよ  清満 かんばん  春亭 花てふ     貞秀 かふくわん 国輝 むしや  芳虎    (中段)      国貞 やくしや  国盛 をんな  国綱 芳宗 芳艶 清亢 芳藤 芳玉 直政    (下段)      国麿 清重 芳員 芳雪 広近 春徳 春草 房種 芳豊      かむろ       やく者 にがを むしや めい処 けしき をんな 草そうし うちわゑ かわりゑ       すごろく かんばん     やりて        ◎◎〟    〈「日本古典籍総合目録」はこの『当代全盛高名附』の統一書名を『江戸細撰記』としている〉
    「当代全盛高名附」「浮世屋画工郎」〈早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」〉    ☆ 安政三年(1856)     <三月 生人形(南総里見八犬伝)深川八幡>  ◯『観物画譜』120-122     歌川芳艶画    「名人くらべ 八犬伝冨山の図(伏姫と神童)」 錦絵二枚続      署名「一英斎芳艶画」藤岡屋慶次郎板(改・辰四)    「名人くらべ 八犬伝冨山窟図(伏姫と金鞠大助)」錦絵二枚続      署名「一英斎芳艶画」山口屋藤兵衛板(辰四)    「名人くらべ 八犬伝丸塚山の場(浜路と犬山道節等)」錦絵二枚続     署名「一英斎芳艶画」藤岡屋慶次郎板(辰四)     <三月 見世物 大女三姉妹 深川八幡>   ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「万福長者大むすめ おまつ・おたけ・おむめ」錦絵    署名「一英斎芳艶画」岩戸屋喜三郎板(改・辰四)    ☆ 安政四年(1857)     <正月 生人形(竹田縫之助)生人形(秋山平十郎)浅草奧山>  ◯『観物画譜』166   「口上(略)太夫元治川法半三郎 御馴染細工人 竹田縫之助・人形細工人 秋山平十郎」摺物    署名「一英斎芳艶画」玉惣板     ☆ 安政五年・午(1858)     <正月 生人形(秋山平十郎・竹田縫之助)浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「口上(略)ぜんまへからくり細工人竹田縫之助、肥後熊本秋山平十郎、大道具長谷川友吉・竹田芳三郎」摺物    署名「一英斎芳艶画」森屋治兵衛板(巳十一月)    ☆ 安政六年(1859)     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇歌舞伎(安政六年刊)    歌川国貞・芳艶画『御狂言楽屋本説』初編 梅蝶楼国貞画・一英斎芳艶画 三亭春馬作 蔦屋吉蔵板      ◯「【十目視所/十指々所】花王競十種咲分」(番付・安政五~六年春刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝浮世画十個 (※年齢は番付を安政六年刊とした場合)    蘭画         五雲亭貞秀〈この年53歳〉    豪傑         一英斎芳艶〈初代、38歳〉    細密          歌川国綱〈二代目、30歳〉    武者 花に風     一寿斎芳員〈年齢未詳〉    図取 かろく来てふけ 一光斎芳盛〈初代、30歳〉    真写 酒の泡     一恵斎芳幾〈27歳〉    彩色         一松斎芳宗〈初代、43歳〉    似㒵          歌川国明〈初代、年齢未詳〉    艶絵         一麗斎国盛〈二代目、年齢未詳〉    景色         一立斎重宣〈後の二代目広重、この年34歳〉    〈彼等が、三代豊国・国芳・二代国貞に続く浮世絵の担い手を目されていたのであろう。「蘭画」以下の肩書は、絵     師ごとの特長であろう。引用句は服部嵐雪の句だが、これも浮世絵師との関係が今ひとつわからない。一立斎重宣     はこの安政六年、二代目広重を襲名する。その番付はそれ以前の発行〉     〈この番付には安政六年三月逝去の、寿海老人(七世市川団十郎)の名が見える。また、常磐津三味線の五世岸沢式佐    が実子に六世を襲名させ、代わりに五世古式部を名乗ったのがこの安政六年である。すると、この番付は安政六年春    の出版とみてよいのだろう。番付から一立斎広重の名が消えて、浮世絵界の大物は三代豊国(国貞)と一勇斎国芳を    残すのみ。その他の絵師では、二代目国貞が頭一つリードしているようだが、それに続くのがこの「浮世画十個」の    の絵師たちという見立てだ。本HP「浮世絵事典」【う】「浮世絵師番付」の項参照のこと〉     ☆ 万延元年・申(安政七年・1860)     <正月 見世物 生人形(松本喜三郎)浅草奧山>    ◯「見世物興行年表」(ブログ)    歌川芳艶画    「口上(略)御馴染肥後熊本産生木偶造官松本喜三郎 大道具竹田芳三郎」摺物 芳艶画 ゑびや林之助板    「四十八くせの内・やりてもやけでにらみ合」(右)    「四十八くせの内・しやれ尽したる旦那の顔けん 四十八くせの内・たいこもちがおもひつき」(左)     錦絵二枚続 署名「一英斎芳艶画」丸屋甚八板(改・申二)   ◯『観物画譜』185『武江観場画譜』四十八   「当世見立 生人形四十八曲 細工人松本喜三郎」錦絵四枚組 署名「一英斎芳艶画(申二)     <三月 見世物 曲独楽(博多蝶之助)讃岐金比羅宮>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「元祖 博多曲独楽 太夫本博多蝶之助 女太夫博多小蝶」摺物 芳艶画 板元未詳     <三月 見世物 猿芝居(勝見鶴之助・花之助一座)浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「口上(略)勝見鶴之助 勝見花之助 勝見小吉」摺物 署名「芳艶画」海老屋林之助板   <五月 見世物 生人形(長谷川勘兵衛)両国回向院>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「大仕掛傀儡師生木偶 口上(略)大道具細工人長谷川(勘兵衛)」摺物 芳艶画 ゑびや林之助板    ☆ 文久元年・酉(1861)     <正月 見世物 生人形(秋山平十郎・竹田縫之助)浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「口上(略)生造木偶細工人肥後隈木 秋山平十郎 紫蕨(ぜんまい)機関細工人竹田縫殿之助     大道具細工人竹田芳三郎」摺物 芳艶画 山口屋藤兵衛板(申十二月)    ☆ 文久二年・戌(1862)     <正月 見世物 生人形とゼンマイからくり(秋山平十郎・竹田芳三郎)浅草奧山>    ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「口上(略)生造木偶細工人肥後隈木秋山平十郎 大道具竹田からくり細工人竹田芳三郎・同弥吉」摺物    芳艶画 森田屋万吉板(申十二月)     <正月 見世物 駱駝 両国橋西詰>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「口上(略)(駱駝二頭図)」錦絵 署名「一英斎芳艶図」    ☆ 文久元年(1861)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序・文久元年以降の記)   (「歌川国芳」の項、国芳門人)   〝一英斎芳艶 ホリエ丁 橋場 本丁二丁メ〟     ◯「東都自慢華競(えどじまんはなくらべ)」(番付・文久元年八月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝大行燈 師道の  北二斎一鵞 〈師匠は葛飾北雅か〉    大看板 ゑふうを 一英斎芳艶〈師匠は一勇斎国芳。芳艶は慶応二年(1866)没〉    〈浮世絵師は行燈や看板の絵も請け負っていた。だが、野外の画業で消耗品だから絵は残っていないのだろう。「北     二斎」の読みは「ホクジサイ」か「ホクニサイ」か〉    ☆ 文久三年・亥(1863)     <正月 見世物 生人形(秋山平十郎)からくり細工(竹田縫之助)浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「生人形細工人龝山平十郎・からくり細工人竹田縫之助・大道具竹田芳三郎」摺物    署名「一英斎芳艶画」森田屋万吉板(戌十二月ヵ)      ☆文久年間(1861~1863)     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇絵本(文久年間刊)    歌川芳艶画『誠忠義士銘々伝』一冊 一英斎芳艶画  ☆ 慶応元年(元治二年・1865)  ◯「東都諸先生高名方独案内 元治二」元治二年刊(TOKYO DIGITAL MUSEUM)   〝蒔絵 浅艸 柴田是真    錦画 本町 一英斎芳艶    錦画 本所 一陽斎豊国    〈この豊国は三代(初代国貞)。しかし前年の元治元年十二月既に亡くなっていた。文久元年(1961)、国芳が亡くなり。     そして豊国をも失う。芳艶がいるとはいえ、彼も慶応二年、四十五歳で亡くなる〉  ◯『歳成記』(風鈴山人著 玉家如山蔵板 乙丑仲秋(慶応元年八月)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)◎は難読文字( )は本HPの注記   〈当時人気のあった浮世絵師や戯作者などを吉原細見に擬えて格付けしたもの〉   〝浮世屋絵四郎 〈浮世絵師〉    (一段目)清満 げんや店  貞秀 おふなぐら 芳虎 京ばし   芳艶 ほん丁         国貞 ほんじよ  広重 中はし   芳幾 すは丁   国周 ひもの丁    (二段目)芳藤 下や    芳年 中はし   国輝 おふなぐら 房種(不明)         芳豊 新大さか丁 芳春 あさくさ  芳盛 下や    国久 やなぎ原         国孝 やなぎ原    (三段目)国時 芳富 重次 重清 芳延 芳滝 艶豊 艶政 幾丸 幾年     やくしや/にがほ/むしや/めい/しよ/けしき/女ゑ/合くはん     かはりゑ/ゑでほん/かき入/きはもの/かんばん/あふぎ     (役者 似顔 武者 名所 景色 女絵 合巻 変わり絵 絵手本 かき入? 際物 看板 扇)     やりて せり(遣手 ?)〟     〈慶応四年(明治元年・1886)刊の同様の擬え細見では芳艶の名は消えている〉    ☆ 慶応二年(1866)    ◯『徳川昭武滞欧記録』第二巻「徳川民部大輔欧行一件付録 巻十三」p418   ◇慶応二年四月「七 浮世絵師の件町奉行より勘定奉行への照会書」(同上p418)   〝(慶応三年のパリ万国博覧会に出品する「浮世絵画帖」三帖(百五十枚)の画工に関して、町奉行池田     播磨守から勘定奉行・外国奉行等に宛てた文書)    浮世絵師重立候者名前     本町貳丁目   孫兵衛地借 万吉事  芳艶     米沢町壱丁目  重兵衛地借 幾二郎事 芳蔵(ママ)〈芳幾の誤り〉     上槙町会所屋敷 清助店   八十吉事 国周     南伝馬町壱丁目 平右衛門店 辰五郎事 芳虎     桶町貳丁目   治郎兵衛店 米次郎事 芳年〟   〈「浮世絵画帖」当初三帖作成する予定であったが、五月末の締め切りに作画(肉筆画150図)が間に合わず、結局二    帖(100図)になってしまった。ともあれ芳艶はこの年慶応二年の六月二十二日に亡くなるので、この万博に渡った    肉筆が浮世絵が彼の絶筆になろうか。なおこの件については、本HP「浮世絵事典」パリ万国博覧会の項参照のこと〉    ☆ 年代未詳(幕末)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇絵本・絵画(刊年未詳)    歌川芳艶画『瓢軍談五十四場』一帖 一英斎芳艶画〔目録DB〕     <曲独楽(博多長之助)場所不明>     ◯『武江観場画譜』十三(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)    「(曲独楽の図)博多長之助・小蝶」錦絵 署名「一英斎芳艶画」角金板    〈万延元年、芳艶は博多蝶之助・博多小蝶の興行の摺物を担当している〉     <三月中旬 生人形 浅草奧山>  ◯『観物画譜』225   「口上(略)太夫元 山本福松」摺物 署名「一英斎芳艶画」版元不明    〈口上中にある「日蓮六百年遠忌」は明治十四年(1881)。初代の芳艶は慶応二年(1866)没である。口上だけ     埋木したのであろうか。それとも二代目か〉    ☆ 没後資料    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪190(竜田舎秋錦編・慶応四年(1868)成立)   (「歌川氏系譜」の項)
   「歌川豊春系譜」(歌川国芳門人)芳艶〝一英斎ト号ス。堀江町浅草橋場後本町二丁目〟    ◯「一勇斎国芳十三回忌追善碑」明治六年(1873)建立
   碑陰門人名簿〝一勇斎門人 故人 芳艶〟    ◯『古代浮世絵買入必携』p13(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝歌川芳艶    本名〔空欄〕  号 一英斎  師匠の名 国芳  年代 凡三四十年前    女絵髪の結ひ方 第十三図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、小判、細絵、絵本、肉筆    備考〔空欄〕〟  ◯「浮世絵師追考(一)」如来記(『読売新聞』明治30年(1897)1月25日記事)   〝一英斎芳艶(いちえいさいほうえん)    芳艶は一勇斎国芳門人也。始め一栄斎と号し、後一英斎と改む。俗称満吉、本町丁目駕籠屋の悴にして、    草双紙、看板画は云ふに及ばず、中錦より大錦画を画き、殊に彩色に於ては最も妙を極む。弘化年中一    度、師匠国芳より構はれしも直に許されたり。嘉永の末年、二世豊国門人たりし貞重改名一雄斎国輝と    競争し、共に一枚摺墨仕立ての刺繍の下絵を画く。当時芳艶の兒雷也、国輝の狐忠信とて世間に喧伝せ    しが、今は両工共に去りて、忠信、兒雷也の像の空しく老人の背後にかすかに残れるを見るのみ。    慶応二年五月九日の事なり、当時の町奉行池田播磨守より異国へ絵師十人をして格一枚宛画かしむ。其    選に当りしは     芳艶・芳年・芳幾(現存)・芳員・芳虎・貞秀・国貞・国周(現存)・国輝(◯◯国輝)・立祥(二世広重)    の十名にて、当時現存する者は僅に芳幾、国周の両工のみ、而して当時此の十美人画中、好評なりしは    芳艶芳年の両名にて、特に芳艶は最も出群なりしと〟    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(88/103コマ)   〝歌川芳艶【明治元年~三十年 1868-1898】    通称万吉、始め一栄斎と号し、後ち一英斎と改む、本町二丁目籠屋の男にて、歌川国芳を師とし、草双    紙、看版絵、錦絵を画き、殊に彩色に巧みなりき、弘化の頃、師の国芳より破門せられしも直ちに許さ    れ、嘉永の末年、一雄斎国輝と競争し、共に一枚摺の下絵を画きて、一時世に喧伝せしと云ふ〟  ◯『明治人物夜話』「国周とその生活」森銑三著(明治三十一年・1898)(岩波文庫本p245)    〈黒文字は国周の発言。灰色文字は森銑三の地の文〉   〝「さてわたしが始めて世帯を持ったのは、柳島の半四郎横町で、女房はお花というんだったが、その時    分新門(シンモン)の辰五郎が幅を利かして、その子分が二丁目の芝居をてんぼうで見たことから間違いが起    こって、二丁目を荒らした。そこで京橋の清水屋直次郎という板元が、その喧嘩の絵を画いてくれろと    頼みに来たから、わたしは新門の子分を彦三郎、菊五郎、田之助の似顔に見立てて、棒を持ってあばれ    ていると、黒ン坊が向うへ逃げて行くとこを画いて出版さしたところが、新門の方では、子分どもが喧    嘩に負けて、逃げて行くとこだといい出して、大勢でわたしの家を打ちこわしに来るという騒ぎだ。そ    うしてそのついでに、五ッ目の師匠の家も、メチャメチャにこわすというんだから、わたしも驚くし、    師匠も心配した。すると師匠の弟子に、芳艶(ヨシツヤ)というのがあって、これが新門の子分だったから、    わッちが仲裁して見ますッて、骨を折ったので、まアいい塩梅に、それで和解が届いた。     ところがその時分わたしが売出しで……自分の口からそういってはおかしいが、師匠の絵よりいいと    ころがあるなんていう者があったから、このしくじりの過料に、国周という名を師匠に取揚げられてし    まった。それから仕方なしに、わたしは一写斎という名で絵を画いていると、それもならないてンで、    師匠が板元の家を、方々断って歩いた。そうこうする内、篠田仙魚という、後に員彦(カズヒコ)の名を勝    手に名乗った人が仲へ這入ってこられて、ようよう国周の名を返してもらったが、どうも一時は弱った    ね」        芳艶は、藤懸(静也)氏の著『浮世絵』に、国芳門下として、名前だけが出ている。明治六年には、    まだ健在であった。     篠田仙魚、作名員彦は、二世笠亭仙果となった篠田久次郎であろうか。それならば、『月とスツポン    チ』の発行者である。明治十七年に四十八歳で歿したことが、『狂歌人名辞書』に見えている〟      〈「てんぼう」は「伝法(デンボウ)」芝居関係の隠語で「タダ見」。「五ッ目の師匠」は三代目歌川豊国(国貞)のこ     と。その豊国門人の国周が「師匠の弟子に芳艶というのがあって」という、これだと芳艶は豊国門人になってしま     うのだが、どうなのだろうか。この浅草の大親分・新門辰五郎の子分との騒動、国周が新所帯を構えた頃とある。     参考までにいえば、天保六年(1835)生まれの国周の二十歳は、安政元年(1854)。結婚の正確な年次は分からない     が、一時的に一写斎を名乗ったのもこの頃なのであろう。なお、最初この芳艶を二代目と考えていたが、豊国三代     の没年が元治元年(1864)であること、国周の結婚時期等を勘案すると、慶応二年(1866)没の初代芳艶とするのが適     当だと思う。2011/12/11追記〉    ◯『浮世画人伝』p96(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)
   「歌川国芳系譜」〝芳艶(国芳門人)一英斎、通称万吉 本所ニ住〟    ◯『墓所一覧表』(山口豊山編 成立年未詳)※(収録の最終没年は大正五年)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川芳艶 慶応二年六月廿二日 四十五 三崎町 妙延寺 一英斎芳艶信士         甲胡万吉 本町二丁目 十ノ字と云かご屋の男〟  ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝国芳門、甲胡萬吉、一英斎と号す、慶応二年六月廿二日没、四十五歳〟    ◯『狂歌人名辞書』p244(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝一英斎芳艶(初代)、通称甲胡万吉、国芳門弟にて東都本町二丁目に住せり、慶応二年六月廿二日歿す、    年四十五〟    ◯『浮世絵師伝』p209(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳艶    【生】文政五年(1822)閏一月一日 【歿】慶応二年(1866)六月廿二日-四十五    【画系】国芳門人         【作画期】天保~慶応    本町二丁目の駕籠屋に生る。歌川を称す、甲胡氏、俗称万吉、一栄斎、後ち一英斎と改む。武者絵をよ    くせり。弘化年中故ありて師より破門せられしが、後ち間もなく許されたり。嘉永の末、一雄斎国輝と    競争して、刺青の下絵(大判錦絵)を描きしに、当時芳艶の児雷地、国輝の狐忠信とて世に持て囃され    しと云ふ。法名一英斎芳艶信士、谷中三崎町の妙延寺に葬る〟    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著 日本書誌学大系35 青裳堂書店 昭和五十八年刊)    ※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月)   「第一部 浮世絵の盛衰」「九 浮世絵の描法に就いて」p60    (暖簾絵)   〝髪結床に掛た長暖簾の武者絵は、国芳門の芳艶が殆ど専門で、如何にも勇壮な響きがあり、何人も芳艶    の暖簾には太刀打が出来なかったさうである〟  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「嘉永三年 甲戌」(1850) p228   〝宮武外骨氏の筆禍史に浮世絵師説諭と題して下の記事あり、同年(嘉永三年)八月十日、錦絵の認め方    につき、浮世絵師数名役人の糾問を受けたる事あり『御仕置例題集』によりて其憐愍書の一節を左に録    す。     一体絵類の内人物不似合の紋所等認入れ又は異形の亡霊等紋所を付け其外時代違の武器取合せ其外に     も紛敷く兎角考為合買人に疑察為致候様専ら心掛候哉に相聞え殊に絵師共の内私共別て所業不宜段入     御聴重々奉恐入候今般の御沙汰心魂に徹し恐縮仕候    以下尚長々と認め、此度限り特別に御憫察を乞旨を記せり、其連名左の如し                         新和泉町又兵衛店      国芳事 孫三郎                         同人方同居         芳藤事 藤太郎                         南鞘町六左衛門店      芳虎事 辰五郎                         本町二丁目久次郎店清三郎弟 芳艶事 万吉                         亀戸町孫兵衛店       貞秀事 兼次郎        南隠密御廻定御役人衆中様    隠密といへるは現今の刑事巡査(探偵)の如き者なり。浮世絵師数名はあやまり證文にて起訴さるゝ事    もなく、平穏に済みたるなり。と。〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝国芳門人 芳艶〟    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p92(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝芳艶(よしつや)    歌川を称す。甲胡万吉。一栄斎、一英斎と号した。国芳の門人、武者絵の他に、横浜絵をよく描いてい    る。文政五年生れ、慶応二年、四十五才で歿した〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔歌川芳艶画版本〕    作品数:9点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)      画号他:一英斎・一英斎芳艶・芳艶・歌川芳艶    分 類:合巻3・絵本2・浮世絵2・歌舞伎1・絵画1    成立年:天保13年(1点)        安政6年 (1点)        文久2年 (1点)(文久年間合計2点)   (一英斎芳艶名の作品)    作品数:6点    画号他:一英斎芳艶    分 類:絵本2・浮世絵1・歌舞伎1・絵画1    成立年:安政6年(1点)        文久2年(1点)(文久年間合計2点)    〈浮世絵とあるのは「蛮国人物図会」仮名垣魯文詞・一英斎芳艶画〉
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