Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
一勇斎国芳十三回忌追善碑 明治六年(1873)
 ◯「一勇斎歌川先生墓表」東条琴台撰文   (明治六年十月、国芳門人および義子田口其英等、向島三囲稲荷の絵馬堂の西に建立)   (飯島虚心著『浮世絵師歌川列伝』下巻「歌川国芳伝」所収(初出 新聞「小日本」明治27年4-7月掲載)   〈以下の書き下し文は飯島虚心の訓点に拠って本HPが行ったもの。なお明治23年6月刊『絵画叢誌』第39巻「歌川国芳の碑」    を参照した)   (表面)   〝先生諱は国芳、一勇斎と号す、又朝桜楼主人と号す、井草氏、孫三郎と称す、江戸の人、寛政丁巳十一    月十五日を以て、銀座第一坊に生る、文久辛酉三月五日、新和泉街に歿す、享歳六十五、浅草八軒街大    僊寺に葬る、先考柳屋吉右衛門、妣粕谷氏、先生幼にして聡慧、僅か七八歳、好んで絵本を見る、北尾    重政画く所の武者鞋二巻、同じく政美の諸職画鑑二巻を愛玩す、頓に人物を画くを悟る、十二歳の時、    鍾馗劔を提ぐるの図を画く、其の状貌猛壮、行筆秀勁、老成者の如し、此の時に当り、一陽斎豊国、所    謂浮世絵師の巨擘にして時に名あり、嘗て此の図を見て、竊に歎賞し以つて得易からざるの才と為す、    称揚特に厚く、先生遂に之が弟子と為る、研究年有り、是より先き、豊国の門に国政・国長・国満・国    安・国丸・国次・国直等数子有り、皆絵事に於て歌川氏と称するを許す、受くるに偏名国の字を以てす、    是に於て歌川の画技、都鄙に伝播す、豊国既に歿し、数子前後相継ぐ、凋落殆ど尽く、先生国貞と美を    済し名を斉しくす、魯の霊光巍然として長く存するが若く、其の業雁行、国貞、閨房美人・仕女婉淑の    像に巧なり、先生、軍陣名将勇士奮武の図に長じ、嬰孩童と雖も其の声価を知らざる者無し、先生斎藤    氏を娶り二女を生む、長名は鳥、早世、次名は吉、田口其英に配す、以て嗣と為る、先生梅屋鶴寿と情    交尤も密、恰も兄弟の如し、鶴寿其の業賛成し、四十年亦た一日の如し、良友と謂うべし、今茲癸酉、    十三年忌辰に正当す、其の門人及び其英相謀りて追薦会を為す、余先生と旧有るを以て、碣文を製らん    ことを請う、而して墓石限り有り、嬭縷するを得ず、余の識る所を以て、其の責を塞ぐと云う      明治六年癸酉十月 友人 東條信耕撰 萩原翬書并篆額〟    〈嬭縷の「嬭」の字、鈴木重三著『国芳』「総説」は「糸偏+爾」とする〉    (以下『国芳』「総説」p249(鈴木重三著・1992年刊)より)   (裏面)     一勇斎門人    故人 芳政 芳勝 芳艶 芳鶴 芳玉 芳丸 芳綱 芳員 芳雪 芳基 芳豊 芳信 芳房 芳為       芳重 芳形    現存 芳宗 芳藤 芳貞 芳兼 芳満 芳幾 芳春 芳広 芳年 芳彦 芳景 芳州 芳延 芳仙       芳桐 芳邨 芳豊 芳艶 芳谷 芳中 芳盛        浪花芳梅  横浜芳柳 芳柳男義松 一豊     芳宗社中 宗政 宗成 宗久     芳幾社中 幾丸 幾英 幾勝     芳春社中 春富 春中     芳年社中 年晴 年麿 年景 年次 年秀 年豊 年明 年延 年広 年種     芳景社中 景久 景虎     芳州社中 永州 州勢     芳延社中 文延     芳谷社中 谷郷     永州社中 永千代 永多代     芳柳社中 羽山芳翠 山本芳翠 月柳 柳祥 柳静 芳斎 柳秀 柳雪 柳義     芳梅社中 梅雪 芳峯 梅英 浪花芳瀧      井草其英 同芳子 同社中建之  梅素玄魚書〟    〈関場忠武著『浮世絵編年史』明治24年刊(国立国会図書館デジタルコレクション所収)を参照した〉