Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ よしみつ うたがわ 歌川 芳満浮世絵師名一覧
〔天保8年(1837)4月20日 ~ 明治43年(1910)2月18日・74歳〕
 ☆ 文久元年以降(1861~)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本) 斎藤月岑編・天保十五年(1844)序・文久元年(1861)以降の記   (「歌川国芳」の項、国芳門人)   〝一教斎芳満〟    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪189(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「歌川豊春系譜」〝(歌川国芳門人)芳満 一散(ママ)斎ト号ス〟    ☆ 明治六年(1873)  ◯「一勇斎国芳十三回忌追善碑」明治六年建立
   碑陰門人名簿〝一勇斎門人 現存 芳満〟    ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『浮世絵師便覧』p215(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝芳満(ミツ)歌川、◯一教斎、◯国芳門人〟    ☆ 明治二十七年(1874)    ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川国芳伝」p207(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   〝(国芳)門人おおし。芳宗、芳房(万延元年没す)、芳清、芳影、芳勝(俗称石渡庄助)、芳見、芳富、    芳員(俗称一川次郎吉)、芳満、芳兼(一に田螺と号す。専ら絵びらを画く。彫刻家竹内久一郎氏の父    なりとぞ)、芳秀、芳広、芳鳥、芳虎(俗称辰之助、長谷川町に住す)、芳丸、芳藤、芳綱、芳英、芳    貞、芳雪、芳為、芳梅、芳基、芳栄、芳豊、芳盛(池之端に住す)、芳近、芳鷹、芳直、芳鶴、芳里、    芳政、芳照、芳延、等にして、其の最も世に著われたるは、芳幾、芳年〟  ◯『浮世絵備考』梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(78/103コマ)   〝歌川芳満【天保元~十四年 1830-1843】一教斎と号す、国芳の門弟〟    ☆ 没後資料    ◯『墓所一覧表』(山口豊山編 成立年未詳)※(収録の最終没年は大正五年)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川芳満 明治四十三年六月(欠字)日 駒込東片町 養昌寺〟  ◯『浮世絵』第十六号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「一教斎芳満小伝」兼子伴雨   〝 芳満、姓は犬飼、幼名健吉、通称を松屋平兵衛と呼んだ 天保八年四月二十日、神田久右衛門町二丁    目代地に呱々の声を挙げたのである、親父は松屋平兵衛と云ふ上絵師で、其の四子三男に当る、芳満の    長じて幼稚の時代、指を家職の画に染めて、座右の器物から果ては武者人形なぞを描きなぐるので、嘉    永元年四年、即ち芳満の十二歳の時、浮世絵画家の巨擘一勇斎国芳の門下となつた。後年一教斎芳満と    名乗り、版下絵に筆を執つたは、実に此時に起因す、世上には一散斎と流布して居るが、是れは画類考の    誤写が転々訛伝せられたので、一教斎でなくてはならぬ。     国芳が画塾に於ける芳満は頗る茶目であつたと伝へられも、同輩には芳藤、芳艶、芳幾、芳員、芳房    なぞの茶目連時を同じうして、師匠の留守になると、芝居狂の芳満は、同趣味の兄弟子芳幾を教唆して、    能く芝居ゴツコを演(し)て遊んだとある、一日芳満の義村、芳幾の時姫、芳艶の高綱、で三代記を所演    したが、高田六郎に扮した芳藤が躓づく機会(はづみ)に壁を抜いて、施す手段がなく、師匠の帰宅後、    一同大叱言を喰つたと云ふ、逸話さへ伝へられて居る。     家職の関係もあらうが、芳満は構図よりも、彩色が上手であつて、社中芳艶と俱に併称される程の名    人であつた、壮年の頃は一枚物の版下画なぞを執筆した事は、第一図によつて証明される、後に家職を    継ぐ運命となつたので、浮世画師を断念して、晩年を上絵師で送つた、第二図に示す帛紗は即ち其の作    品である。     明治十六年九月、芳満の松平は、市村座で五代目菊五郎が『今文覚助命刺繍』で、文治と云ふ役名の    もとに、大詰瀧壺の場で子分二人を合して、文治は不動尊に、子分二人は制吒迦(せいたか)童子と矜迦    羅(こんがら)童子の宛込みの見得があり、三人が各自の肉襦袢へ、その青剳(ほりもの)のあるのを着て    登場する脚色(すぢ)なので、此の仕事を芳満が引受けた、さらぬだに芝居狂の芳満は幾日を重ねて丹精    入念に仕上げ、一見実物と些(すこし)の変る処を見出さぬ出来栄に、凝り性の五代目は舞台へ着て登場    する事が惜しくなり、複品を今一番拵へて貰つた位だと云ふ。     這麼(こんな)縁から明治十九年五月、新富座所演の『水滸伝』瓦灌寺の雪のだんまりに、九代目団十    郎の九紋龍、先代左団次の花和尚の肉襦袢も、芳満が請負つた、理窟から云へば時人綽名して九紋龍と    呼ぶほどであるから、全身に九ッの龍を描かなくつてならない道理であるが、見た眼から云へば九ッの    龍を描くは細微に渉り過る嫌ひがあるので、此の事を団十郎に謀ると、遉(さすが)に画筆を嘗(ねぶ)る    俳優だけあつて、最もだとの同意に、芳満が粗放簡略した構図は両胸へ一疋づゝ、背中へ二疋の龍を描    いて送つたが、登場した処を見ると非常に引立つので、私彼の意見が合して居た事を、時折は話柄に上    して誇つたさうな。     芳満別号を円阿弥(まるあみ)と云ふ、是れは藤沢の遊行寺へ参籠して、金屋笠仙なぞと一緒に授与さ    れた号だと云ふ、又た俳諧に遊んで孤山堂卓郎(矢倉の位)の社中に入り、唯紋(ゆもん)と呼んだ、詠    草の二三を紹介する。        明治二十九年春(旧冬)市川団洲、暫くを演ずる由をきゝて      明けまして先づ暫くと年玉をさし出す顔も赤き筋熊        明治三十年八月二十一日、森田勘弥死去を告げ来りしに      白露や田守は家を捨てて行く        団洲追討に      秋風にかれても後や名取草        此歳六十一の春を迎へて      六十を下からよめば十六の武蔵の国のわれは江戸子        墨水の昔も今は哀れにて、三囲辺の田畑は皆人家と変りて軒を並べ、芸者屋の角灯、煉瓦の煙        突立は、紺搔の草汚れ悪太郎あり、風景を汚し、只俗人の巣窟おとなり五十年の昔をこゝに悲        しみなん      かり初めの名のみや花の角田川     右の歌句を読むと、芳満はチヤキ/\の江戸子たるは勿論、風流家で、各所は破壊の憤慨家でもあつ     た、左に載せる芳満が生前の遺物『発句控』と云ふ冊子を見ると、その外題の肩に「辞世あり跡にて     読むべし」と誌し、巻中を繰ると巻末に        存命中に覚悟の辞世を詠み置くもの也       春 身ふるいをして立つ雁を旅の連れ梅も散り花も見て候穴賢       夏 短夜に見残す夢もなかりけり       秋 空と水まことの色ぞ今朝の秋       冬 まづ是れで巻納めなる暦かな    と四季の五句を誌し、子孫をして辞世のお見立を勤めさせやうと云ふ、江戸式の暢気、換言すれば八変    人式の気分があふれて、死後迄が茶気満々、得脱悟道にも這入(はい)つて居る 明治四十二年二月十八    日、行年七十三歳で没した、法名は鶴翁平林居士 駒込東片町 禅宗養昌寺へ埋葬した〟  ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝芳満 歌川氏、俗称犬飼健吉、通称松屋兵兵衛、嘉永元年、国芳門となる、一教斎又は一散斎に作る、    別号円阿弥、俳名唯紋、明治四十二年二月十八日没、享年七十三歳〟    ◯『浮世絵師伝』p214(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳満    【生】天保八年(1837)四月二十日 【歿】明治四十三年(1910)六月-七十四    【画系】国芳門人         【作画期】安政~明治    歌川を称す、犬飼氏、俗称平兵衛、一教斎と号す、父の業を守りて呉服の上絵職となる。墓所、駒込東    片町の禅宗養昌寺〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝国芳門人 芳満〟    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p93(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝芳満(よしみつ)    歌川を称す。犬飼平兵衛、一教斎と号した。国芳の門人、呉服の上絵職となった。天保八年生れ、明    治四十三年、七十四才で歿した〟