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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ よしくに のむら 野村 芳国
浮世絵師名一覧
〔安政2年(1855)~ 明治36年(1803)11月20日・49歳〕
☆ 明治十一年(1878)
<十月 器械人形(大江定橘郎)浅草奥山>
◯「見世物興行年表」(ブログ) 「十二ヶ月 大器械活動人形 口上(略)細工太夫 大江定橘郎」摺物 署名「浪花
一陽亭芳国画
」版元不明
〈東京の浅草で行われる見世物興業の摺物に、「浪花」を添えて署名しているのだから、当時は東京に滞在していたと 思われる〉
☆ 明治十三年(1880)
<正月 珊瑚珠の見世物 大阪難波新地>
◯「見世物興行年表」(ブログ) 「世界第一等大珊瑚珠 細工人玉谷秀造 玉谷佐之助 口上鎗屋正楽」摺物 署名「
芳国画
」出版人森井政太郎 ☆ 明治十五年(1882)
<六月 大人形 京都河原町元土州屋敷>
「大人形胎内巡り 西南夢物語」彩色摺物 署名「◎亭
芳国画
」版元不明 ◯『絵画出品目録』初版(農商務省編 国文社第一支店 明治十五年十月刊) (内国絵画共進会 明治十五年十月開催 於上野公園) 〝第四区 菱川・宮川・歌川・長谷川派等 京都府 野村与七 歌川派 号
芳国
都踊り・一休禅師図〟 ☆ 明治十六年(1883)
◯『【明治前期】戯作本書目』
(山口武美著・日本書誌学大系10)
◇戯作小説
(明治十六年刊)
芳国画
『久礼波乃里』一冊 芳国画 壇上強平編 京都 太田権七
〈この芳国は京都出版とあるから野村芳国か〉
☆ 明治十八年(1885) ◯『現今日本画家人名録』大阪(赤志忠七 赤志忠雅堂 明治十八年三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝歌川派 西京 人物
野村芳国
与七〟
〈凡例によると、この人名録が収録するのは明治15年・同17年に開催された内国絵画共進会に出品した絵師〉
<六月 西洋手品(梁川小蝶斎)仙台東一番丁東座>
◯「見世物興行年表」(ブログ) 「西洋手術 元祖 キリウサン改 柳川小蝶斎」摺物 二代目
芳国
画 版元不明
〈「年表」は二代目芳国とする。本HPはその当否を見極められない。ただ野村芳国(父)の没年が明治三十六年である ことから、この摺物の画工が野村芳国の可能性もあるとみる。なお「年表」の解説に拠ると、この摺物、必ずしも明治 十八年のこの仙台興行時のものとは限らないとのことである〉
☆ 明治十九年(1886)
◯「国立国会図書館デジタルコレクション」
(明治十九年刊)
野村芳国画
『絵本源平盛衰記』口絵・挿絵 野村芳国 平山菊城 佐々木慶助他(12月) 『人体道中膝栗毛』挿絵 野村芳国 三五月丸 藤井浅次郎(12月) ☆ 明治二十年(1887)
◯「国立国会図書館デジタルコレクション」
(明治二十年刊)
野村芳国画
『日本昔噺善悪桃太郎』挿絵・表紙 野村芳国 阿部直秀 福井源次郎(8月) 『恋の血染毛糸の襷』 口絵・挿絵 芳国 稲波啓太郎 高田喜之助(10月)京都版
<正月 大象の見世物 大阪千日前>
◯「見世物興行年表」(ブログ) 「生大象 太夫本吉田卯之助」摺物
笑翁画
出版人建井与兵衛
〈この笑翁は野村芳国(父)か〉
◯『京都名所案内図会』下(石田旭山編 正宝堂 明治二十年六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
40/83コマ 〝浮世画之部
野村芳国
寺町通錦小路上ル〟 ☆ 明治二十二年(1889)
<正月 生人形(大江貞橘)大阪千日前>
◯「見世物興行年表」(ブログ) 「機関人形細工司大江定橘翁・同忰良橘・太夫元山中良蔵・口上鎌屋正楽」摺物 署名「
芳国画/門人芳春
」版元未詳
〈署名「芳国画/門人芳春」の「門人芳春」の意味がよく分からない。この摺物は大阪興業用であるから、この芳春は大阪在 住の歌川(藤井)芳春と思われるが、芳国と芳春との関係が判然としない。年齢的にいえば、この芳国は安政二年生れで、 歌川(藤井)芳春の方は安政元年には既に見世物興業の摺物を画いているから、芳春の方が年上である。そうすると、芳国 が芳春の門人である可能性が高い。しかしそれではなぜ今頃になって署名に「門人」と「芳春」を添えたのであろうか。そ れとも、そもそも「芳国画/門人芳春」の解釈が間違っているのであろうか……〉
<七月 象と小人の見世物 京都新京極福井座>
◯「見世物興行年表」(ブログ) 「口上(略)田中政直(大象図)」彩色摺物
野村芳国画
版元不明
〈「年表」解説に拠ると、年代・興行場所の記載なしという〉
☆ 明治二十四年(1891) ◯『古今博識一覧』番付 大坂(樋口正三朗編集・出版 明治二十四年六月)
(東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)
〝現存日本画人名一覧流派早見一覧 歌川派 東京 生田芳春 橋本周延 長谷川春(ママ) 歌川豊重 恩田幹延 野坂年晴 大竹国房 松本芳延 安藤広重 安藤広近 荒川国周 守川周重 京都 中井芳滝
野村芳国
後藤芳景 坂本芳秋 木下広信 大坂 笹木芳光 群馬 田中芳耀 千葉 田中国信 秋田 渋谷松香〟 ◯「見世物興行年表」(ブログ) (明治24年7月7日「日出新聞」京都新京極の新築パノラマ館開業記事) 〝新京極三条下る処に新築のパノラマ館は、一昨日の日曜を以て開業式を挙行し(中略)此「パノラマ」 は米国南北戦争の図にて、京都の画工
芳国
の筆になり、図は鮫島盛、近藤徳太郎二氏の考案に係るとの ことなるが、何分建物の狭隘なる上に、僅に画料及地所建物代共合計三千円余を投じて、五十余日間に 直径四間余りの窮屈なる区域の内に数万の人物草木を仕上げたるものなりと云へば、東京、大坂等の 「パノラマ」に比すれば固より同日の論にあらねど、左り迚一概に悪口を云ふべきものにもあらず。殊 に東北の隅に大砲を引上げたる赤土の坂路あるが、是等は実物と画との接続ナカ/\巧にして、一見し て真偽を弁じ難く、次で実物と画との接続最も宜しきは停車場前の枯木、郵便局前の炮丸に打折られた る樹木等にて、而して画の出来最宜しくして殆んど実物と区別なきは麺包(パン)製造所の烟突(けむ りだし)、火薬庫破裂の烟等なり(後略)〟
〈京都パノラマ館発行のチラシに〉
〝本画ハ京都ノ画工
野村芳国
ガ日夜精神ヲ凝シ微密ニ描画シタルモノナレバ其惨状恰モ実地ヲ目撃スルノ 感アリ〟 ☆ 明治二十六年(1893) ◯『浮世絵師便覧』p216(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊) 〝芳国(クニ)京師の人、国芳門人、◯嘉永〟 ☆ 明治三十一年(1898) ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(94/103コマ) 〝野村芳国【明治元年~三十年 1868-1898】京都の人にて、歌川国芳の門弟〟 ☆ 明治三十二年(1899) ◯「見世物興行年表」(ブログ) (明治三十二年五月十九日「新愛知」名古屋榎町の愛知パノラマ館記事) 〝画工はパノラマに名を知られし京都寺町錦小路の野村芳国〟 (同年六月二十九日「新愛知」記事) 〝画は日清戦争平壌陥落事実を画工野村芳国が東京に出でて見聞し、充分実地を模写(うつし)、軍人を 始め観客(けんぶつ)をして如何もと称賛さるるやう熱心に執筆中なり〟
〈開館は九月二十日の由〉
(同年九月二十日「新愛知」記事) 〝大パノラマは京都の画家野村芳国、芳光父子の筆になる日清戦争中有名なる平壌陥落を都合五十八図に 描きしものにて、他に比類なく〟 ☆ 明治三十五年(1902) ◯『大日本絵画著名大見立』番付 京都(仙田半助編集・出版 明治三十五年十二月刊)
(東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)
〝浮世画
野村芳国
京寺町錦上ル〟 ☆ 刊年不明(明治以降)
<興行年次不明 軽業 場所不明>
◯『観物画譜』231(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収) 「女軽業 太夫 両国花女 若太夫 両国悦女 両国光女 上ノリ 両国千松」摺物 署名「芳◎改
笑翁画
」版元不明
☆ 没後資料
◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)
(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
〝芳国 国芳門人、俗称野村與七、京師人〟
〈この芳国は京都の野村芳国、下掲の大阪の芳国と同人であろうか〉
◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)
(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
〝芳国 芳梅門人、野村氏、一陽亭、後に笑翁と号す、大阪住〟 ◯『浮世絵師伝』p207(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝芳国 【生】安政二年(1855) 【歿】明治卅六年(1903)十一月二十日-四十九 【画系】芳梅門人 【作画期】明治 京都の人、野村氏、俗称与七、一陽亭・笑翁と号す、明治十八年版の「京阪名所図絵」と題する二十余 図は、彼が風景画方面の特色を見るに足るものなり、後ち専ら劇場の看板を画きたりき。居所京都寺町 通錦小路上ル西側、墓所東山西光寺〟 ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
「歌川系図」
〝一鴬斎芳梅門人 芳国〟
〈この芳国の師匠、飯島虚心は国芳とし、井上和雄・玉林晴朗は国芳の弟子である芳梅とする。この芳国は野村芳国の ことであろうか〉
△『増訂浮世絵』p209(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊) 〝(一勇斎国芳の浪花画系・芳瀧門人)芳国?(ママ)〟
〈この?は芳瀧門人?の?であろうか〉
「一勇斎国芳の浪花画系」
◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p92(樋口弘著・昭和37年改訂増補版) 〝芳国(よしくに) 野村与七、京都の人、一陽亭、笑翁と号した。大阪の芳滝の門人。清親の影響を多分に受けた洋風画の 版画の「京阪名所図会」を明治十八年頃に描き、関西の明治の版画界に特異の立場を示した。その晩年 は劇場の看板絵師となつている。安政二年生れ、明治三十六年、四十九才で歿した〟