Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ とよきよ うたがわ 歌川 豊清浮世絵師名一覧
〔寛政11(1799) ~ 文政3年(1820)・22歳〕
 ☆ 文化七年(1810)  ◯「合巻年表」〔国書DB〕(文化七年刊)    歌川豊清画『筆始日出松』「歌川金蔵画」東西庵南北作 泉市板 ①⑥    〝(歌川豊国の口上)豊広忰金蔵は予が門弟にして 今とし十二才の半額(かんばく)ざかりなれば 画     の道は立習ひなるを 甘泉堂主人がこヽまでおいでのすゝめにより 手ばなしの三冊もの ふつゝか     な処も金ぼう/\と 私同似に御ひゐきを ねがふものはおし匠さんの豊国      似家蜂やそだつも江戸の花の影     おめみへいたしましても としがまはらぬから したがまわらぬゆへ たゞ ごひゐき/\とばかり     申上舛       十二才 金蔵 御ひゐきを御ねがひもうちまつ〟    (巻末)署名「画工 歌川金蔵」    〝世に高名の作しやをさしをき 僕がふむでにて 金ぼうが名ひろめの草紙 ふづくりしも おこがま     しけれど はん元のすゝめゆへゆるし給へ       歌川の流千すぢに雪解◎  南北〟     〈金蔵12歳、寛政11年(1799)生。豊国門人。板元の勧めがありまた師匠・戯作者が口上を述べるというずいぶん行き      届いたデビューであった。それだけ期待されていたのである〉  ◯『一対男時花歌川』(式亭三馬作・前編 歌川豊国画、後編 歌川豊広画・文化七年刊)   (三馬口上)   〝当年も何がなめづらしきしゆかう(趣向)をと、かんがへまする所に歌川豊国のぞミにしたがひ、せわ    狂言のせかいにて、かぶき芝居二日かハりのしうちになぞらへ、豊広豊国画工兄弟よりあひがきのさう    し、しかも急作につづりあはせ、御らんにいれ奉りまする。     (中略)    此所にてわけて申上まするハ、御ひいき思召あつき豊ひろ豊くに、おの/\さまがたへ御礼の口上、め    い/\に申上たうハぞんじますれども、こみあひましてかき入レの所もござりませねバ、しばらく御用    捨を希奉りまする。扨又、これにひかへましたる小せがれハ豊広せがれ歌川金蔵、つぎにひかへをりま    するハ豊国門人文治改歌川国丸、安治郎改歌川国安、これにひかへしかわいらしいふりそでは私門人益    亭三友、いづれもじやくはい(若輩)ものどもにござりますれバ、御とり立をもつて、すゑ/\大たて    ものとなりまするやう、豊ひろ豊くに私にいたるまで、ひとへに/\希奉ります、まづハ此所二日がハ    りのしん板はやり、うた川両人がつれぶしの御ひやうばん、おそれおほくも大日本国中のすミからすミ    までずいとこひねがひ奉ります。    豊国豊広口上    御礼のため、式亭歌川の惣連中御め見へいたさせまする。御ひいき御とり立御れいの口上ハ、私ども両    人ニなりかハりまして、式亭三馬口上をもつて申上奉ります。(後略)〟    〈下出の挿絵は口上の場面、肩衣に「馬」の字は三馬の門人、肩衣に「年玉印」は歌川門の人々。豊国が中央、左右に     豊広と三馬がいて、背後に双方の弟子たちが控える。名を列記すると、三馬側は益者三友・徳亭三孝・楽亭馬笑・古     今亭三鳥。歌川派は豊広の脇に倅の金蔵、そして国貞・国丸・国安・国長・国満が控える。ただ、国貞はなぜか一人     だけ離れて、三馬の門人側に座っている。この挿絵は豊国が画いたのだろうが、この配置に何か意味があるのだろう     か。そして挿絵の上部にやはり連中の名の入った提灯が下がっている。右から馬笑・三馬・三孝・三鳥・三友・豊広     ・金蔵・年玉印だけのもの国貞・国安・国政・豊国・国長・国満・国丸・国久・国房と並んでいる)       『一対男時花歌川』前編・口上 豊国画  「一対男時花歌川」(『戯作六家撰』)    (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ☆ 文化八年(1811)    ◯『おとこぞうり打』(歌川豊国画・山東京伝作・文化八年刊)(早大「古典籍総合データベース」)   (後編巻末 和泉屋市兵衛)「文化八年辛未新絵双紙目録付」    『女合法二代高尾』全六冊 歌川金蔵画 東西庵南北作   〈書名は少し違うが、南北作・泉市板は同じだから、文化9年刊『女合法恋修業者』と同本。文化8年の正月出版に間に合    わなかったのだろう〉  ◯「朝鮮人来朝行列図」署名「豊清画」   (東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)    ☆ 文化九年(1812)    ◯「合巻年表」(文化九年刊)    歌川豊清画    『女合法恋修業者』「豊清画」見返し「豊国門人歌川豊清画」東西庵南北作 壬申の春 泉市板 ①   (「豊広像 豊国画」「金蔵改豊清 豊国画」「豊国像 豊広画」)〈三人の肖像画〉   (京伝の口上)   〝歌川豊広ぬしの子息 父の業を継て画道にこゝろざし深く こたび老師豊春の翁より豊清と画名をおく    られたり 且て其指南車は豊国ぬしのみちびきなれば やがて其名も轟きぬべし その名びらきの筆は    じめにとて 東西庵南北ぬし一小冊を作りて画(ゑがゝ)しむ おのれらはらからにも 祝言をのべてよ    と需めらるゝにより やむことを得ず つたなきことの葉をそえ侍りぬ かくいふは文化八ツのとしふ    み月のはじめになん有ける       初陣に筆の鉾さきするどきはさすが二代の絵師の若武者   山東京伝      朱をときて日の出にむかふ絵の具皿若枝にしげる緑青の松  山東京山〟   (京山の口上)   〝〔豊国〕(前略)歌川豊広のせがれ すなはちこれに控えましたる金蔵義 いま◎すん◎若年ものには    ござり升が 画道ことの外執心に付 私にとり立くれ候やうにと豊広の頼みた ほかなりませぬ金蔵義    なれば辞退をも仕らず かれこれ修行も丸一年になるかならぬに 筆意の見事さ 此度 私師匠歌川豊    春より豊清と申す画名をもらひ 南北子の作せられし「女合法」と申す五冊もの 初舞台やら名弘めや    ら 当年わづかに十六才 なんと皆様まだ早いじやござりませんか 〔見物 イヨ 成田や〕ゆく/\    は大だて者とも相成候やう おの/\様のお取立 板元・作者のかた/\も ひとへに/\こひ願ひ上    げ奉り升    〔豊広〕【さも嬉しそふににこ/\と笑ひながら】ただ今豊国御披露申し上げましたるごとく せがれ    豊清義 御覧のごとき若年もの 絵草紙板下の義はたつてしたい仕りましたれども 板元はじめ南北子    も子供の所がおなぐさみ やつぱり介六をさせる気で ひらに/\とすゝめられ 未熟のせがれが初舞    台 有り難いやら嬉しいやら とても子供の義にござれは 御目まだるいはもちろんにて 下たゑさへ    ろく/\にわたくしへは見せませねば 加筆はもとより思ひもよらず わるい所は御さしづあつて た    ゞすへ長きごひいきを ひとへに/\こひ願ひ上げ奉り升 コレ豊清 御礼の口上をも申し上たく思や    らうが 肝心の本文がおそなはる お急ぎをしやれ/\ 〔ひいき イヨ かたまちの若旦那ァー〕    〔豊国〕これより本文口絵のはじまり さやうに御覧くだされませう〟    〈京伝の口上のよれば、金蔵が師匠の豊国から豊清名を授かったのが、文化8年(1811)7月。そして直ちに合巻『女合法     恋修業者』(九年正月刊)と次項の読本『絲桜春蝶竒縁』(九年十二月刊)の作画を依頼されたのであるから、十六才の     少年にしては驚くべき力量の持ち主と評価されていたのである〉    ◯「読本年表」(文化九年刊)    歌川豊広画    『糸桜春蝶竒縁』見返「歌川豊清絵画/一柳斎豊広補」曲亭馬琴著 榎本平吉他板 ⑪① 江戸     奥付「出像画工 一柳斎豊広男 歌川豊清十六歳筆」「文化九年壬申冬十二月吉日発販」     〈豊清は豊広の忰・金蔵、父子で画工を担当したようだが、奥付では豊清名のみ〉  ◯『糸桜春蝶奇縁』一柳斎豊広画・歌川豊清画 曲亭馬琴作(文化九年十二月刊)   (口絵に続く馬琴の序)   〝画工一柳斎豊広は 晨(さき)にしば/\余が著編に画(ゑがき)きつ。その子豊清年十六 嘗て画法を一    陽斎豊国に受くるといふ。又彼の歌川豊国は寛政庚戌の秋(注1)、余が戯編(注2)に画きしより 今に    至りて廿三年 余と儕類(ともどち)の義に背かず。しかはあれど この編 今茲(ことし)季秋(注3)に    及びて稿を起こすの故をもて 書肆前にあり劂人後(しりへ)にあり 画者を撰らむに遑(いとま)あらず。    よりて今試みに豊清してこれに画がゝせ 出像(さしゑ)成(いでき)て後 余熟(つら/\)これを視るに    雅俗の風韻趣(おもむき)を庖(かね) 伝神をさ/\稚(をさなし)とせず。後生実におそるべし。顧ふに    余が総角(あげまき)なりし比(ころ) 東都に浮世絵もて鳴るものは 勝川春章 北尾重政 歌川豊春     是のみ。広と国とは豊春の弟子也。おの/\師に続て 今大に行はる。吁(あゝ)この師にしてこの弟子    あり。この父にしてこの子あり。豊清亦復(また/\)師父に嗣て 必らず画名を高かうすべし。冀(こ    ひねが)はくは 巻を弄(もてあそ)ぶの看官(けんぶつがた) この少年の画才を喜(よみ)せば 書肆が    綉梓(注4)の僥倖(さいはひ)も 亦阿堵(あと 注5)の中に在らん  飯台蟫史再識〟    (注1)寛政二年(1790) (注2)寛政三年刊の黄表紙『尽用而二分狂言』(大栄山人(馬琴)作 豊国画)をいうか    (注3)文化九年九月  (注4)出版 (注5)金銭    〈「後世恐るべし」といい、春章・重政・豊春そしてその弟子の豊広と豊国など名だたる浮世絵師に名を連ねるなど、     馬琴の豊清評価は実に高い。ここには文化9年(1812)で16歳とある。これだと生年は寛政9年(1797)で、通説の寛政     11年とは異なる。生年についてはなお検証が必要〉    ☆ 文化十年(1813)    ◯『馬琴書翰集成』①7 文化十年正月十六日 歌川豊清宛(第一巻・書翰番号-6)    (宛名「(二字破損)院門前 うた川とよ清様 当用 馬琴」)     〝入り口うすゞみ入之処、少々愚意ニかなひ申さず候ニ付、又々御面倒奉願候。何とぞ、はり札ニ認候や    うに、人物ちひさく、少しとほく見せて、かげぼうしの様ニ仕度候。今一ぺん御工夫之上、御したゝめ    可被下候。此節、板元又々不快のよし。何事も使ニて行とゞき不申、彼是とひまどり候内、うり出しも    大きニ延引可致と、心痛仕候へども、このまゝニさしおき候も又残念ゆへ、もり下町の便を、直に御宅    まで上げ候。此人またせ置、何卒即座に御認め、奉願候。以上      正月十六日                                     馬琴       うた川 豊清様             当(願)用〟    〈豊清は歌川豊広の実子金蔵。寛政十一年(1799)生まれとすると、当時十五才。それにしても、この書簡はとても少年     に対するものとは思えない。馬琴は当時四十七才、敬語敬称を遣うに値する一人前の絵師として、豊清を認めている     のだ。さて金蔵から豊清への改名だが、参考までに「日本古典籍総合目録」を見ると、文化七年刊、東西庵南北作・     歌川金蔵画・合巻『筆始日出松』。文化九年、東西庵南北作・豊清画・合巻『女合法恋修業者』。曲亭馬琴作・豊清     画・読本『糸桜春蝶奇縁』。以上三点に、年代のない歌川豊清画『朝鮮人来朝行列図』。これは朝鮮通信使節の江戸     入りが文化八年であるから同年の作画と考えられる。すると金蔵から豊清への改名は文化七~八年中のことと思われ     る。なお、文化九年以降の収録作品は見あたらない。ところで、この文化十年正月の書簡で、豊清に「今一ぺん御工     夫」を求めた作品とは何であったのだろうか〉    ◯『馬琴書翰集成』⑥323「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」    〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと。豊清が十五才にして、先輩画工を     さしおき、前頭上位に位置づけられているのは、相当の腕前を評価されてのことであろう〉    ☆ 文化十三年(1816)    ◯『伊波伝毛乃記』⑥132(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日成稿)   〝(山東京伝、文化十三年九月七日)四更の比竟に没しぬ、時に年五十六、(中略)明日未の時、両国橋    辺回向院無縁寺に葬送す、法名智誉京伝信士【イ法名弁誉知海】この日柩を送るもの、蜀山人、狂歌堂    真顔、静廬、針金、烏亭焉馬、曲亭馬琴、及北尾紅翠斎、歌川豊国、勝川春亭、歌川豊清、歌川国貞等、    凡する者百余人なり〟  ☆ 文化十五年(文政元年・1818)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   (「芝」合い印「浮世画」)   〝豊清  歌川  同居(増上寺片門前)  金次郎〟       豊広子    ☆ 文政三年(1820)この年逝去    ◯「合巻年表」(文化九年刊)    歌川豊清画『契情客問答』(早大「古典籍総合データベース」画像)    巻末に「春扇画/東里山人」と「豊清画」の署名あり    〈豊清がどこまで担当したものか分からない。豊清はこの年逝去だから、版本最後の挿絵に相当するのかもしれない〉    豊清画(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)    ☆ 没後資料    ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②71(岩本活東子編・安政三年成立) (文政九年刊『梅精奇談魁双紙』(式亭三馬作、歌川国安画)に関する挿話、三馬談)   〝原この草紙のさしゑは、豊広が男豊清をして画しめたれども、彼れ不幸にして世を早うし、その画半に    も至らずとて、その画ざしの繍絵三五丁を出し見せらる、さて其後国直に画かせんとて、稍久しく彼方    へ遣し置たれども、出来ざれば、取戻したりとのはなしなりし〟   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③304(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
   「歌川豊広系譜」(豊広門人)    〝実子【俗称金蔵、号(空白)斎、豊清ハ画ヲ善ス、錦絵、草双紙、読本一二ツアリ、早世ス、可惜〟    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
   「歌川豊広系譜」(豊広門人)    〝実子 豊清 俗称 金蔵、号(空白)斎        豊清尤上手なり にしき画草双紙読本一二部あり 早世して可惜にあらずや        〈糸桜春蝶奇縁 馬琴作〉〟    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「歌川氏系譜」の項 ⑪189
   「歌川豊春系譜」〝(歌川豊広門人)豊清〟(名前のみ)
  ◇「歌川豊清」の項 ⑪223   〝俗称金蔵、豊広の実子也。錦絵草双紙読本一二部あり。上手にてありしが早世せり。惜しむべし。父并 に豊国に学んで能す〟    ◯『古代浮世絵買入必携』p12(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝歌川豊清    本名〔空欄〕  号〔空欄〕  師匠の名 豊広  年代 凡七八十年前    女絵髪の結ひ方 第十図・第十二図 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、細絵、長絵    備考〔空欄〕〟    ◯『浮世絵師便覧』p208(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝豊清(キヨ)歌川、◯豊広の子、俗称金蔵、◯寛政〟    ◯『日本美術画家人名詳伝』補遺(樋口文山編 赤志忠雅堂 明治二十七年(1894)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川豊清 豊広男 通称金蔵 浮世絵を画く 寛政頃〟  ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p121(飯島虚心著・明治二十七年(1894)、新聞「小日本」に寄稿)   〝豊広の妻、其の名詳ならず。一子あり、歌川金蔵という。後に豊清と改む。かの一対男時花歌川に、こ    れにひかえさせたる小悴は、豊広悴歌川金蔵とある、即これなり。文化七年東西菴南北作の草双紙筆初    日の出松(三冊)を画く。これを初筆として、同九年同作女合法恋の修業者(五冊)を画く。頗る才筆    なりしが惜むべし世を早うせり。没年詳ならざれども、三馬作の梅精奇談魁双紙の挿画を、かきかけて    死せし由、戯作者略伝に詳なり。文化の末か、文政の初めなるべし。豊清一子あり。豊熊と云また画を    善くせしが、父に次ぎて没せり〟    〈『一対男時花歌川』は文化七年の刊行〉  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(54/103コマ)   〝歌川豊清【享和元~三年 1801-1803】    通称金蔵、豊広の男、父に学びて上手なりしが、早世せしは惜しむべし、錦絵、草双紙、読本を画けり〟    ◯『浮世絵師伝』p132(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊清   【生】 寛政十一年(1799)  【歿】  文政三年(1820)-二十二   【画系】初代豊国門人     【作画期】文化    歌川を称す、豊広の子、俗称金蔵、初め俗称を以て画名とせしが、文化九年の春、豊春より「豊清」の    号を与へられたり。幼少より画才優れて、既に十二歳(文化七年)の時に画きし草双紙あり、又文化九    年頃の筆と覚しき『今樣美人娘合せ」といへる錦絵もあり、文政元年頃正月の摺物「四天王」と題する    七代目団十郎の似顏絵を画けり。其の技或は大成すべかりしなむも、未だ其の域に達せずして早世す〟  ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝豊国(一世)門人〟    △『増訂浮世絵』p250(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝歌川豊清    豊広の男、俗称金蔵、父及び豊国に学ぶ。文化七年十四歳にして、東西庵南北の著、筆始日出松三冊を    画いて名を得た。惜むらくは幾もなくて早世した〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔歌川豊清画版本〕    作品数:4点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:歌川豊清・金蔵・歌川金蔵    分 野:合巻2・読本1・外交1    成立年:文化7・9年(3点)     (金蔵名の作品)    作品数:1    画号他:歌川金蔵    分 類:合巻    成立年:文化7年    〈文化七年(1810)の『筆始日出松』が歌川金蔵名で初筆、実に十二才である。合巻は二作とも東西庵南北の戯作。外交     とあるのは文化八年の「朝鮮人来朝行列図」。読本の画工は文化九年刊・曲亭馬琴作の『糸桜春蝶奇縁』で、父豊広     と合作であった〉