※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」
☆ 寛政四年(1792)
◯『狂歌桑之弓』〔江戸狂歌・第三巻〕桑楊庵光編・寛政四年刊
(奥付)〝華渓稲貞隆書/雪山堤等琳画/尚左堂窪俊満画/彫工藤亀水〟
☆ 寛政八年(1796)
◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政八年刊)
窪俊満画『百さへつり』一帖 尚左堂窪俊満画・等琳筆・雲峰山夏部筆 後巴人亭光序 蔦屋重三郎板
☆ 寛政九年(1797)
◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政九年刊)
堤等琳画『柳の絲』一帖 等琳・鄰松・華藍・北斎宗理 浅草庵序 華渓老漁跋 蔦屋重三郎板
◯『柳の糸』〔江戸狂歌・第五巻〕浅草庵市人編・寛政九年刊
(口絵)「橋場初乗」 署名「等琳画」(堤等琳)
(挿絵)「寿老人」 署名「鄰松画」(鈴木鄰松)
「にひよし原」 署名「栄之」 (鳥文斎栄之)
「鞍馬ふごおろし」署名「等琳〔印「等琳」〕」
「鶯宿梅」 署名「華藍〔印「北峰」「紅翠斎主」〕」(北尾重政)
「江島春望」 署名「北斎宗理〔印「北斎」「宗理」〕」(葛飾北斎)
☆ 寛政年間(1789~1801)
◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
◇「寛政年間記事」2p18
〝浮世絵師 鳥文斎栄之、勝川春好、同春英(九徳斎)、東洲斎写楽、喜多川歌麿、北尾重政、同政演
(京伝)、同政美(蕙斎)、窪俊満(尚左堂と号す、狂歌師なり)葛飾北斎(狂歌の摺物読本等多く画
きて行はる)、歌舞伎堂艶鏡、栄松斎長喜、蘭徳斎春童、田中益信、古川三蝶、堤等琳、金長〟
☆ 文化六年(1809)
◯「滑稽本年表」(文化六年刊)
堤等琳画『諸国無茶修行』深川斎等琳画 山赤亭川々作 大和屋安兵衛他板①〈書誌による〉
☆ 文化十年(1813)
◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化十年刊)
堤等琳画『手ぐねふり 勝鹿図志』一冊 雪山 等琳筆 北斎筆 金堤画・編 大田元貞序
☆ 文化年間(1804~1818)
◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年(1848)脱稿・同三年刊)
◇「文化年間記事」2p58
〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、
泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸〟
☆ 文化十五年(文政元年・1818)
◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)
「深川 画家」〝雪山 法橋 号深川斎(住所空欄)堤等琳〟
☆ 文政三年(1820)
◯『増訂武江年表』2p65(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(「文政三年」この年の正月から八月の間に興行された大造の見世物記事)
〝茶番細工(浅草奥山へ出、人形多し。細工人堤深川斎)〟
◯『百戯述略』〔新燕石〕④229(斎藤月岑著・明治十一年以降成書)
〝(文政三年「見せ物」記事)茶屋番細工【浅草奥山出、浮世絵師堤等琳の工夫なり、人形多し】〟
〈三代目の等琳と見た〉
☆ 文政五年(1822)
◯『北斎骨法婦人集』関口政治郎臨写・出版 明治三十年(1897)六月刊
内題「北斎こつぽう婦人あつめ」(国立国会図書館デジタルコレクション)
(序文)※ 半角( )は本HPが施した送りかなや注記。全角( )は原文のもの
〝此絵ハ去文政五午年の春、かつしか北斎翁、根岸御形の松、雪山等林(ママ)の宅に同居せし時、婦人画を
ば種々かけり、其下画を等林弟子何某、翁より申(し)請(け)、後日一巻となせり。其後或る金満家の宝
蔵に入(る)、それをまた(ヱンヤラヤツト)で我が手にいれたり(以下略)
明治廿八年未の初春 廓津通書〟
〈文政五年(1822)春、北斎は根岸御行の松にある雪山等琳の宅に同居していた。この等琳は三代目であろう〉
◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)
1 頼政の隣の筆もかんしんし「柳多留75-18」文政5 【川柳】注「頼政鵺退治の画」
〈浅草寺本堂の扁額、高嵩谷の「源三位頼政 鵺退治」と三世堤等琳の「韓信股くぐり」共に感心する出来映えだと〉
2 韓信は小田原町の脇に這ひ「柳多留97-5」文政11【川柳】注「小田原町より寄進の大提灯」
〈本堂を見上げると日本橋小田原町寄進の大提灯に等琳の韓信の絵〉
☆ 天保四年(1833)
◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
◇「堤等琳」の項 ③319
〝堤等琳 号深川斎、江戸ノ産也、叙法橋
二代目等琳の門人なり、雪舟十三世の画裔と称す、一家の画風、骨法を自立して、雪舟流の町画工を興
せしは、元祖等琳を以て祖とす、安永、天明の比より、此画風市中に行れて、幟画、祭礼の絵灯籠は、
此画風をよしとす、当時の等琳は、画風、筆力勝れて、妙手なり、摺物、団扇交張の板刻あり、仍て此
に列す、筆の達者、尋常の板刻画師と時を同して論じがたし、浅草寺に韓信の額あり秋月と云し比、三
代目等琳に改名せし時の筆なり、今猶存す、雪舟の画法には不似(にず)異(ことなれ)りといへども、彩
色、骨法、一派の筆力を以て、三代ともに名高し、画く所の筆意、墨色の濃淡、絶妙比類なき画法なり、
末(だ)、京、大坂に此画風を学ぶものなし、門人あまたあり、絵馬屋職人、幟画職人、提灯屋職人、総
て画を用る職分の者、皆此門人となりて画法を学ぶ者多し、門人深遠幽微の画法を得てせず、筆の達者
を見せんとして、師の筆意の妙処を失ふ者多く、其流儀を乱せり、世に此画法をのみ、町絵と賤めて、
職画と云は嘆かはしき事なり、雪山は貝細工等種々の奇巧を造りて見物させし事有、【大坂下り中川五
兵衛、籠細工ノ後ナリ】諸堂社の彩色も、多く此人の請負にて出来せし所有、【堀ノ内妙法寺、ドブ店
祖師堂、玉姫稲荷、其他多ク見ユ】近世の一豪傑なり〟
◇「堤等琳」の項 ③320
「堤等琳系譜」〝等琳【三代目、別記アリ、法橋雪山、深川斎】〟〈「別記」とは前項の記事か〉
☆ 天保十三年(1842)
◯『【江戸現在】公益諸家人名録』二編「ツ部」〔人名録〕②77(天保十三年夏刊)
〝画 雪山【名等琳、字雪館、雪舟十四世筆孫】浅草大代地 堤法橋〟
〈下掲『増補浮世絵類考』の「天保の始の頃八十余歳にて終る」という欄外書き入れと食い違っているが、とりあえず
生前の資料としてあげた〉
☆ 天保十五年(1844)
◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)
(( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)
(「三代堤等琳」の項、二代目堤等琳門人)
〝堤等琳(三代目也) 寛政より天保の間の人也
始秋月、後〈雪館又〉雪山と改む。江戸の産也
始深川に住す 〈後常盤町 又米沢町河岸〉
号 深川斎と云、叙法橋〈惣髪なり 月岑按、雪舟の風にあらず、賤しき画風也〉
二代目等琳の門人也(雪舟十三世の孫と称す)一派の画風を立て、天明の頃より行れ、幟画祭礼の絵灯
籠、又摺物、団扇、交張画の刻板あり。
欄外〈天保始の頃八十余歳にて終る〉
浅草寺に韓信の額あり。秋月と云し頃、三代目等琳に改名せし時の筆也。門人数多ありて、絵馬額、幟、
提灯等の職人、総て此門に入て画ぶもの多し。諸堂社の彩色多く此人の請屓にて出来し所あり(堀の内
妙法寺、どぶ店祖師堂、玉姫稲荷其他多し)(文政中、浅草寺境内にて茶番細工といへる見せ物を工夫
して出せしなり)
按るに、東都に雪舟の画裔と称るもの多し。川島雪亭(田安侯の画師也、雪舟の画孫なり、市谷に住
し、寛政の頃より天保の今に至て存す)亦、桜井秋山(天明寛政の頃の人なり。本郷に住す雪舟の画
孫と称す。画則七冊を刻して画論を出す)長州侯の藩中に雪谷の画裔あり。当代の画を学ばずといへ
り。諸他諸国に雪舟流の画人あり、自立して其画裔と称す。近年江戸、長谷川雪旦殊に妙手なり。
因に云、長谷川等伯(始久六、叙法眼、能州七尾の人 始狩野氏の門人、後自立して、自ら雪舟五
代と書す、慶長中歿)久蔵、等伯、信春、子等伯、宗也、子等的、門人〈小野〉等林、等悦、宗宅、
等作(等伯の門人なれども画風各異也。雪舟は僧にして姓氏なし。雲谷は寺の号也。是を称号とし
て門人に与へたり。長谷川も画法筆意似たる故、雲谷と共に雪舟の画裔と混同して後世に誤るもの
也)
欄外〈桜山興〔サクラ山興〕は桜井秋山の父也。山興雪館と号す〉〟
〈「天保の始の頃八十余歳にて終る」という書き入れが欄外にあるが、前出天保十三年(1842)刊の『【江戸現在】公
益諸家人名録』や後出嘉永二年(1849)刊の『【現存雷名】江戸文人寿命付』と矛盾する。また『無名翁随筆』と
『増補浮世絵類考』は「雪舟十三世の孫」とし、『【江戸現在】公益諸家人名録』は「雪舟十四世筆孫」とするなど、
微妙に食い違いがある〉
「堤等琳系譜」〝堤等琳 三代目 法橋 雪山 深川斎 別記あり〟
〈「別記あり」とは別に一項を設けて記述という意味。上記がそれにあたる〉
☆ 嘉永二年(1849)(下記「人名録」の雪山等琳と堤等琳三代とは同人と見てここまで生前資料とした)
◯『【現存雷名】江戸文人寿命付』初編〔人名録〕②334(嘉永二年(1849)刊)
〝雪山等琳 此花よしまた人物をゑがきてはいとおもしろき君が一流 極上々吉 寿六百年 浅草黒船町〟
〈前出天保十五年の序をもつ斎藤月岑の『増補浮世絵類考』に「天保の始の頃八十余歳にて終る」とあり、それが事実
だとすると、この嘉永二年に現存する雪山等琳は別人ということになるのだが、このあたり判然としない〉
☆ 没後資料
◯『洗湯手引草』(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)
序〝嘉永四辛亥年五月 当時風来山人 向晦亭等琳しるす〟
挿絵 五ウ署名「等琳」六ウ七オ「雪山等琳〔「壽篤」印〕」
〈この向晦亭等琳と三代目堤等琳との関係がよく分からない。斎藤月岑著『増補浮世絵類考』の三代目堤等琳の項にある
欄外書き入れには「天保始の頃八十余歳にて終る」とある。しかし天保十三年(1842)刊『【江戸現在】公益諸家人名録』
二編に〝画 雪山【名等琳、字雪館、雪舟十四世筆孫】浅草大代地 堤法橋〟また嘉永二年(1849)刊『【現存雷名】江
戸文人寿命付』初編に〝雪山等琳 此花よしまた人物をゑがきてはいとおもしろき君が一流 極上々吉 寿六百年 浅
草黒船町〟という等琳の存命記事もある。『増補浮世絵類考』の書き入れと矛盾するが、この人名録の等琳は向晦亭で
はないだろう。やはり三代目堤等琳に関するものと思われる。すると、以下は憶測になるが、嘉永三年頃、三代目等琳
が亡くなり、その後この向晦亭が雪山等琳を名乗ったとも考えられる。『洗湯手引草』は湯屋の由来等を記した戯文〉
◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1407(朝岡興禎編・嘉永三年(1850)四月十七日起筆)
〝堤等琳 寛政 今按ニ文化ノ部ニ出ル、深川斎等琳同人ナルベシ、
(千虎補)[署名]「等琳」[印章]「等琳」(白文方印)〟
◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年(1868)成立)
◇「堤氏系譜」の項 ⑪186
「堤等琳系譜」〝三代目 等琳〟
◇「堤等琳 三代目」の項 ⑪206
〝始秋月、後雪山と改む。号深川斎法橋に叙す。江戸の産、始め深川に住す。後常盤町又米沢町河岸とも
云。寛政より天保年間の人、二代目等琳の門人なり。〔割註 雪舟十三世の孫と称す〕一派の画風を立
て、天明の頃より行れ幟画祭礼の行燈、又摺物団扇交張の画刻板あり。門人夥敷有て、絵馬額提灯等の
職人、総て此門に入て学ぶ者多し。諸堂社の彩色多く此人の請負にて出来所あり。文政中浅草寺境内に
て、茶番細工といへる物を工夫して出せし事有〟
☆ 明治以降
◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)
〝文化 堤等琳 深川斎と号す、始鳥居風有り、後北斎と交友し雷斗と称し、画格を変ず〟
◯『日本美術画家人名詳伝』上p92(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)
〝等琳 三代
二代等琳ノ門人ナリ、初メ堤秋月ト称ス、等琳ノ名ヲ継グニ及ビテ、浅草寺ニ韓信ノ額ヲ帰附セリ、雪
舟ノ画法ニ似ズト雖モ、貌色骨法一派ノ筆力アリ、門人甚ダ多シ、絵馬屋職人・幟職人・提灯屋職人等
総テ画ヲ用フル職分ノ者、皆此門ニ出ツト云(燕石十種)〟
◯『葛飾北斎伝』p51(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)
〝彫工勝友の話に、北斎壮年の頃、三世等琳と友たり。一日共に品川の妓楼に遊び、流畜して戯れに画き
たり。楼王二人の合筆を請ふ。等琳は車を画き、北斎は、其の上に載せたる花籃を画く。染筆絶妙なり
とぞ。今楼名を失す。惜むべし〟
〈北斎との交友については文政五年の項参照〉
◯『浮世絵師便覧』p207(飯島半十郎(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)
〝等琳(ルビなし)二世或は三世、月岡氏、俗称吟二、始め秋月、後に雪山、深川斎、法橋に叙せらる、幟
画、額画の名手、◯寛政、天保〟
〈「月岡氏、俗称吟二」まで等琳二代。「始め秋月、~法橋に叙せらる」は等琳三代の記事〉
☆ 明治三十一年(1898)
◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(42/103コマ)
〝堤等琳【寛政元年~十二年 1789-1800】
本姓は月岡、通称吟二、初号を秋月といひ、後に雪山と改め、また深川斎と号す、堤流の三世にして、
二世等琳の門弟なり、初め深川に住み、後ち常盤町に移れり、一派の異風を樹てゝ、幟画、額画また祭
礼の行燈を画き、其の名一時世に顕はる、自ら雪舟十三世の孫と称し、法橋に叙せられたりとぞ〟
◯『新撰日本書画人名辞書』下(画家門 青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年(1899)三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)43/218コマ
〝等琳 初め秋月と号す 三世の人なり 画法雪舟の風に類せざれども 筆意自(おのづか)ら逸格の力あ
りて世に鳴る門人頗る多し 画く所浮世絵に止まれり(燕石十種)〟
◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年(1899)五月刊)
◇「堤等琳系譜」p73
〝等琳 法橋雪山〟
◇「堤等琳」の項 p73
〝 堤等琳(ルビつつみとうりん)
堤等琳は初め秋月といひ、後雪山と改む、又深川に住して深川斎の別号ありしが、両国米沢町に移りて
法橋に叙せられ、自ら僧雪舟十一世の孫と称し、天明の頃、専ら行はれし、祭礼の献燈又は摺物団扇の
類を多く画きて大いに世に聞えぬ。等琳未だ秋月と称せし頃、浅草観音堂に、韓信俛出胯下図の絵馬を
画きて奉納し、世間に名を知られ、遂に三世等琳の名を嗣ぎぬ。等琳の名三代ありと雖(イエドモ)も、其
一世二世の事蹟詳(ツマビラカ)ならず。今伝聞する処の家系を左に掲て参考に供ふ。
「堤等琳系譜」
因に云ふ、当時雪舟の遠孫なりと称する画工多し。市谷に住居せる革嶋雪亭(田安侯の画師にて、雪
舟の遠孫なりと称す、尤も浮世絵師にてはあらず)桜井秋山(天明寛政年間の人にて、雪舟の遠孫と
称し、画則七冊を著す、是も浮世絵にはあらず)長州侯の藩に雲谷(原等顔の末流)の孫ありしと、
此輩みな長谷川等伯(天正年中の人なり)が雪州第五世の孫なりと自称せしにより、後数派に分割せ
し者の如し。堤氏三世の等の字を冠り来れるは、等伯信春(等伯の子なり)が遠裔なる故なるべし〟
◯「集古会」第七十六回 明治四十三年(1910)一月 於青柳亭(『集古会誌』庚戌巻二 明治44年1月刊)
〝有田兎毛三(出品者)堤等琳筆 凧絵 七枚〟〈この等琳が三代目か否か確信はない〉
◯『浮世絵』第二号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)七月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「千社札と浮世絵」扇のひろ麿(13/24コマ)
〝浮世絵として納札(千社札)に署名したのは、自分の見た所で古いと思つたのは、秋月等琳であつた〟
◯『狂歌人名辞書』p151(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)
〝堤等琳(三代)、初め秋月、又、雲(ママ)山と号せり、初代等琳門人、画風一派を為し、安永天明頃絵燈
籠張交絵等を描きて世に称せらる、後ち法橋に叙す、天明寛政頃の人〟
◯『浮世絵師伝』p127(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝等琳 三代
【生】 【歿】 【画系】初代等琳門人 【作画期】寛政~天保
堤を称す、月岡氏、俗称吟二(一説に二代の姓氏及び俗称とす)初め秋月と号し後雪山と改む、等琳は
画名にして字を雪館といふ、別に深川斎の号あり、蓋し当初深川に住せしが故ならむ、後浅草大代地に
移る、一説に常盤町或は米沢町河岸に移りしともいへり、自ら雪舟十三世の孫と称し、一派の画風を立
て、幟画、祭礼の行燈、摺物及び団扇絵(落款に「堤深川ぎんじ画」とせる例あり)等を描き、門人の
数夥しかりしと云ふ。後、法橋に叙せらる〟
◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著 日本書誌学大系35 青裳堂書店 昭和五十八年刊)
※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月)
「第一部 浮世絵の盛衰」「九 浮世絵の描法に就いて」p60
(凧絵)
〝堤等琳が工夫に成つた紙鳶の絵にも、祭礼の時に町の幅一杯に掛る大行灯の如き絵も、皆それ/\の書
方あり〟
◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
◇「寛政四年 壬子」(1792)p154
〝正月、窪俊満・堤等琳等の画ける『狂歌桑之弓』出版〟
〈桑楊庵(つぶり)光の編になる『狂歌桑之弓』の奥付には「雪山堤等琳画/尚左堂窪俊満画」とある。(『江戸狂歌
本全集』第三巻所収p282)雪山を名乗るからこの等琳は三代目である〉
◇「寛政八年 丙辰」(1796)p159
〝正月、窪俊満・堤等琳等の挿画に成れる『狂歌百さへずり』出版〟
◇「寛政九年 丁巳」(1797)p161
〝正月、北斎・重政・堤等琳の画ける『狂歌柳の糸』出版〟
△『増訂浮世絵』p187(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)
〝堤等琳
堤家は雪舟の後と称し、等の一字を付けて居るのであるから、浮世絵師ではないが、恰も浮世絵師と相
似た態度で、時様の風俗画を画いて居る。等琳と名乗つたものに、一世、二世、三世とある。三世は雪
山といひ、秋月とも号し、深川斎といふた。祭礼の献燈、又は摺物団扇の類を多くかいた。等琳の秋月
といふた頃、浅草の観音堂に韓信の図を絵馬に画いて奉納し、名声を得た。それで三世等琳を嗣いだと
いふことである。この流の内ではこの人が最も顕はれて居る〟
◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)
作品数:1
画号他:深川斎等琳
分 類:滑稽本1
成立年:文化6年
〈一点は『諸国武茶修行』(山赤亭川々作)〉