Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ とうりん つつみ 堤 等琳 初代浮世絵師名一覧
〔? ~ 寛政12年(1800)6月17日・享年未詳〕
 ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③320(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
   「堤等琳系譜」〝堤等琳【元祖、俗称孫二、堤流元祖 竜耳等琳ト云】〟    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
   「堤等琳系譜」 〝堤等琳 元祖、俗称孫二 堤流の元祖 居(空白)聾等琳と云〟   ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪196(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「堤等琳系譜」〝堤等琳【俗称孫二、聾等琳ト云。堤等琳ハ堤流ノ元祖也】〟    ☆ 明治二十五年(1892)    ◯『日本美術画家人名詳伝』上p92(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝等琳 初代    姓ハ堤氏、雪舟ノ画裔ト称ス、一家ノ画風ヲ立テ、雪舟流ノ町画工ヲ興セリ、安永天明ノ頃ヨリ此画風    市中ニ行ハレテ、幟画祭礼ノ絵燈籠ハ此画風ヲ撰ベリ、筆力勝レテ妙手ナリ、摺物団扇張交ノ板刻アリ〟    ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『浮世絵師便覧』p207(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝等琳(トウリン)堤氏、俗称孫二、聾等琳といふ。堤流の祖なり、◯享保、天明〟    ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   ◇「歌川豊広伝」p117   〝従来張交画は、肉筆にあらざれば興なきことなれども、僻遠の地は名手の筆跡を請うの便よろしからず。    且肉筆の価甚だ貴ければ、この板刻の画を購いて、はりまぜとなす者多かりし也。これを画きしは、豊    広のみにあらず。堤等琳、勝川春亭、喜多川歌麿なども画きたり。一時大に行われたるものなるべし〟     ◇「歌川豊広伝」p122   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又    兵衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。    中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛    飾北斎のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時    の風俗にして、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐    なり、雪舟なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのず    から力あり。これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり〟    〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そして     それを保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その     題材故に陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけ     た「骨法筆意」があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉     守一、清長、歌麿、北斎、そしてこの文にはないが、歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという。     さて、この等琳は何代目等琳なのだろうか。「中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき」とあるのを     見れば、二代目のような気もするのではあるが、とりあえず初代においておく〉  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)43/218コマ   〝等琳 堤氏なり 一格を出し 雪舟風の浮世絵を画く筆力絶妙にして 名工と称せり 安永天明年中の    人なり(燕石十種)〟  ◯『浮世画人伝』p73(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)
   「堤等琳系譜」〝元祖 等琳 堤氏、世俗聾等琳と云ふ〟    ☆ 明治三十三年(1900)  ◯『見ぬ世の友』巻一 東都掃墓会 明治三十三年六月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 8/55コマ)   〝堤等琳墓   佐藤松民拝掃     深川 道本山霊巌寺中 松露窟に在り 総高五尺許    (表)「東琳堤先生之墓 寛政十二年 歳在庚申◎六月十有七日卒」    (裏)「寛政十二庚申年六月十七日 鶴誉雪山等琳居士        文化五戊辰年十一月十七日 瓊誉宝琳信女」    等琳は堤氏、通称孫二、雪舟派の画裔と称す、後ち一派を立て、安永天明年間より大に市中に行はれ、    幟画祭礼の燈籠画等、専ら此風を選ぶに至れり、筆力雄強にして当時町画師と称せらる、嘗て耳疾を患    ひ聴を失す、故に人呼て聾等琳と云、寛政十二年六月十七日没す、享年詳ならず、深川霊巌寺に葬る、    墓は南方総卵塔の中、孤松の下に在り     松民云、此松露窟といふは霊巌寺第二世珂山上人の弟子珂碩上人【奥沢久品仏開基】の住せし寮にて、     普通には珂碩寮と唱へしが、明治維新の後廃寮と成りて双樹寺と云に合併せり、◎等琳の家は子孫泯     滅して墓前香花絶たりと、双樹寺住職の談なり〟  ☆ 昭和以降(1926~)  ◯『狂歌人名辞書』p151(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝堤等琳(初代)、通称未詳、雪舟の画裔なりと云ふ、世人聾等琳といふ、元禄頃の人〟    ◯『浮世絵師伝』p126(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝等琳    【生】  【歿】  【画系】  【作画期】享保~天明    堤氏、俗称孫二、聾等琳といふ、堤流の祖なり〟