Top 浮世絵文献資料館浮世絵師総覧 ☆ とうめい つつみ 堤 等明浮世絵師名一覧 〔生没年未詳〕 ☆ 文政九年(1826) ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥121(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事) (「文政九年(1826)」記事) 〝相州箱根荒人神、回向院にて開帳、此時にや、籠細工見せ物境内に出、中は富士の牧狩、看板は時宗朝 比奈草摺引にて有しが、殊の外見事にて、是迄一田正七(ママ)以来籠細工多かりしが、この様なるは初て なり、さまで大きからぬ人形、顔手足みな籠にて形よく作りたり、是は岩井町の笊造りの作にて、彩色 は橋本町の油屋庄兵衛が二男吉之助なり【此者一度堤等琳が養子となりしとか】、此後祭礼の引物を造 り、又浅草寺奥山に見せ物出し、看板に金時山姥を作れり、是は今様に出来て一入よく、長き間見せた りき〟〈この籠細工の彩色を担当した吉之助が等明。この記事は下出『増訂武江年表』の補注者と同じ喜多村信節(筠庭)の もの〉 ☆ 天保八年頃(1837)〈参考資料。お栄の元夫・南沢等明の記事〉 ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) ◇「文政二年」2p63〈大坂下りの一田正七郎、浅草奥山において、人物鳥獣草花の籠細工を興行して大当たりをとったという記事あり。こ れについて、喜多村筠庭が次のような補注を付けている〉 〝これより遙か後、天保七年回向院に嵯峨の釈迦開帳に、亀井町籠細工師みせ物を出す。看板はしころ引 の朝比奈と時致なり。其細工もとの細工にくらべては抜群にすぐれたり。それよりまた一両年すぎて、 浅草奥山に同じ細工人の作、其のみせ物の看板は山姥と金太郎なり。是もいと花やかにて、細工は前々 と同じく、顔手足籠目あざやかに透け、指など細かい所いと能く作れり。此の細工の彩色は橋本町の水 油屋庄兵衛が忰幼名吉之助といひしが、成長して画師等琳が弟子としたりしが、画は又一風なり。北斎 が女を妻としたりしが離別したり。其の故は北斎が女絵をよくかき、芥子人形など作るに巧みなり。さ れど吉之助画を手伝はせず、其の外にはこの女針わざ縫物などはよくせず、かれこれ心にかなはずして 別れたりとぞ。右かご細工はこれが彩色なり。下絵も同じ〟〈「此の細工」とは文のながれから推測すると、天保七年の一両年後、天保八~九年のものと思われる。「北斎の女」 とはお栄(画名・応為)。前出『きゝのまに/\』の記事を参考にすると、等明は見せ物細工の下絵やその彩色を専 らにしたようである〉 ☆ 没後資料 (下出『浮世絵師伝』の作画期を参考にして、以下の資料を没後とした) ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③320(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
「堤等琳系譜」 (三代目等琳門人、名前のみ) ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本) (斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)) (「三代堤等琳」の項)
「堤等琳系譜」 (三代目等琳門人。名前のみ) ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
「堤等琳系譜」 〝(堤等琳三代門人)等明 住所不詳〟 ◯『葛飾北斎伝』p308(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)※( )は底本のルビ。〈 〉本HPの注記 〝〈北斎〉三女、名は、阿栄、南沢等明に嫁す。等明は、橋本町二丁目水油屋庄兵衛の男なり。幼名を吉 之助といふ。長じて画師等琳の門に入り、画法を学び、等明と号す。阿栄を妻とせしが、睦まじからず して、離別せり。 関根氏曰く、阿栄の挙動、北斎翁に似たれば、其の離別せらるゝも、亦宜(ウベ)ならずや。且かの 等明は、画を嗜みて画きたれど、阿栄よりは拙し。故に阿栄は、常に其の画の拙所(ツタナキトコロ)を指 して、笑ひしと。 ◯『浮世画人伝』p74(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)
「堤等琳系譜」 〝等明(等琳門人)履歴不詳〟 ◇「葛飾応為」の項 p129 〝応為は北斎の三女にして、通称を阿栄と呼びたるものなり。栄女初め橋本町の油渡世、庄兵衛の男吉之 助へ嫁せしが、障る事ありて離別となりぬ、其故は栄女が良人(オット)たる吉之助は、幼年の頃より、画 を深く好みしが、長じて堤等琳を師となし、等明と号して、一心に業を修めたり、栄女も父北斎の骨法 を得て、女絵を能く描き、また芥子人形を作るに巧なりしかば、是等の事に余念なく、更に家政を顧み ず、且針のわざ縫物などは手にさへとらぬ程なれば、かた/\舅の心に適はず、遂に不熟となりて、家 に戻りたり〟 ◯『浮世絵師伝』p126(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝等明 【生】 【歿】 【画系】三代等琳門人 【作画期】文化~文政 堤を称す、南沢氏、俗称吉之助、橋本町二丁目水油屋庄兵衛の男なり、北斎の娘お栄を妻とせしが後之 を離縁す〟