Top 浮世絵文献資料館浮世絵師総覧 ☆ としのぶ やまざき 山崎 年信浮世絵師名一覧 〔安政4年(1857) ~ 明治19年(1886)・30歳〕 別称 山崎年信 応斎 仙斎 南斎 扶桑園 呑海 通称 山崎徳三郎※〔東大〕:『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』 『【明治前期】戯作本書目』(山口武美著・日本書誌学大系10) 「近代書誌・近代画像データベース」(国文学研究資料館) 角書は省略 ☆ 明治十年(1877) ◯二月、師・芳年のもとから逐電) 〈経緯については、下掲・島田筑波著「山崎年信 上」(『浮世絵』第十四号・大正5年7月刊)参照〉 ◯『【明治前期】戯作本書目』 (明治十年刊) ◇歴史戦記 山崎年信画 『鹿児島実記一夕話』三号三冊 年信画 山崎徳三郎編 大倉孫兵衛版〈徳三郎は年信の俗称〉 『鹿児島征討実記』十二号十二冊 山崎年信画 飯田定一編 錦寿堂〈1-5号は芳年、6-12号が年信〉 『鹿児島大激戦記』六編六冊 としのぶ画 山崎徳三郎編 上村清右衛門版(合巻) 『近世鹿児島軍記』四編一冊 巻末「画工松山改早川帰誠」小林鉄次郎編 延寿堂版 見返し「門人松山画」口絵「年信画」 五編一冊 巻末「画工山嵜年信」 『鹿児島軍記』 二編二冊 年信画 細島晴三編 松村甚兵衛版(合巻) 〈初編のみ見返し「年信画」巻末「年延画」とあり〉 『薩摩軍記』五編五冊 山嵜年信画 小林鉄次郎編 延寿堂版(合巻) 三編表紙「応斎年信」◯「国立国会図書館デジタルコレクション」 (明治十年刊) 山崎年信画 『西郷隆盛一代話』1-3号 挿絵 山崎年信 篠田久治郎 弘売堂(12月) ◯『明治十年内国勧業博覧会出品目録』4(内国勧業博覧会事務局) (内国勧業博覧会 明治10年(1877)8月21日~11月30日・於上野公園)(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝追加 第二区 第五類 錦絵 三枚継 扶桑高名人物集 画山崎徳三郎 彫 渡辺栄蔵 摺 水浦熊次郎 (出品者)吉川町 松本平吉〟 ◯『懐中東京案内』二編(福田栄造編 同盟舎 明治十年十月届)(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝廿三 有名の画家 浮世画山嵜年信 浅草北富坂町〟〈他に暁斎・芳年・永濯・国周・広重・芳虎・周延の名がある〉 ☆ 明治十一年(1878)◯「合巻年表」 (明治十一年刊) 年信(山崎)画 『近世会津軍記』二冊「年信画」小林鉄次郎作 小林板〈初版の明治十一年は推定〉 ◯『【明治前期】戯作本書目』 (明治十一年刊) ◇戯作小説 山崎年信画 『近世桜田講談』上下二冊 年信画 小林鉄次郎編 小林鉄次郎(合巻) 下巻末「画工山嵜年信」〈早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」画像〉 ◇歴史戦記 (明治十一年刊) 山崎年信画 『鹿児島征討実記』二冊 山崎年信画 飯田定一編 錦寿堂◯「国立国会図書館デジタルコレクション」 (明治十一年刊) 山崎年信画 『木内宗五郎一代記』 中尾捨吉 口絵・挿絵年信 ? 大倉孫兵衛(3月)〈口絵の落款印を年信と読んだ〉 ◯ 錦絵版『朝野新聞』明治十一年三月創刊(『大衆紙の源流』土屋礼子著 世界思想社) 林吉蔵(蔦屋)版 画工山崎年信 記者 不明 11年3月 ☆ 明治十年代前半 ◯「立版古考」肥田晧三著(『浮世絵芸術』12 1966年)⑨ 〝この時期(明治八年~明治十五年頃まで)の大阪の立版古作者として他に年信、年梅、芳光、芳権、二 代小信等があるが作品の数は多くない〟 ☆ 明治十三年(1880)◯『【明治前期】戯作本書目』 (明治十三年刊) ◇戯作小説 山崎年信画 『近世七小町』二編六冊 年信画 佐橋富三郎編 大阪・東京堂 表紙「山崎年信画」◯「近代書誌・近代画像データベース」 (明治十三年刊) 山崎年信画 『近世七小町』初編 山崎年信 佐橋富三郎 演劇雑誌社(6月序) 二編 山崎年信 佐橋富三郎 東京堂 (11月序)◯「国立国会図書館デジタルコレクション」 明治十三年刊(国立国会図書館) 山崎年信画 『江戸紫徳川源氏』年信 吉田慶 静雲堂(1-3編 12月) ◯『皇国名誉書画人名録』番付 東京(北尾卯三郎編集・出版 明治十三年一月届)(東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース) 〝浮世画 山嵜年信 浅草北富坂町〟(他に暁斎・永濯・芳年・国周・広重Ⅲ・周延・芳幾・芳藤・芳虎・梅堂国政・芳春・房種) ☆ 明治十四年(1881)◯『【明治前期】戯作本書目』 <(明治十四年刊) f1> ◇戯作小説山崎年信画 『春霞筑波曙』四編四冊 年信画 宇田川文海校閲 大阪・和田喜三郎◯「国立国会図書館デジタルコレクション」 (明治十四年刊) 年信画 『江戸紫徳川源氏』口絵・挿絵 年信 吉田慶 静雲堂(4編 4月) ☆ 明治十五年(1882)◯『【明治前期】戯作本書目』 (明治十五年刊) ◇戯作小説 山崎年信画 『雁信壺廼碑』三編三冊 宇田川文海編 京都・駸々堂本店◯「国立国会図書館デジタルコレクション」 (明治十五年刊) 山崎年信画 『偐紫田舎源氏』挿絵・表紙 年信 柳亭種彦 駸々堂(初編 11月) 『三津廼白浪』 挿絵 よし峰・表紙 年信 林市平 岡島真七(12月)◯「近代書誌・近代画像データベース」 (明治十五年刊) 山崎年信画 『朝鮮伝信録』1-3編 口絵・挿絵 年信 広根至宣著 広根至宣(8-10月) (二編挿絵の署名「年信」) ☆ 明治十六年(1883)◯『【明治前期】戯作本書目』 (明治十六年刊) ◇戯作小説 山崎年信画 『奇縁井出の下帯』 一冊 年信・芳景画 宇田川文海校 京都・駸々堂本店 『汗血千里駒』前後続三冊 芳年・年信画 板垣鳴々道人原稿 攝陽堂(合巻) 『汗血千里駒』 一冊 年信画 鳴々道人稿 京都・駸々堂本店◯「国立国会図書館デジタルコレクション」 (明治十六年刊) 山崎年信画 『偐紫田舎源氏』挿絵・表紙 山崎年信 柳亭種彦 駸々堂(2編 4月) 『汗血千里駒』 挿絵 年信・表紙 旭亭芳峰 坂崎鳴々道人 駸々堂(初編 5月)(角書き「天下無双人傑海南第一伝奇」) 〈表紙の画工名芳峰は下掲6月刊『三保の浦風』初編の見返し広告による〉 『汗血千里駒』 口絵・挿絵・表紙 年信 摂陽堂(前編 7月) 挿絵 年信・表紙 芳年 摂陽堂(後編 7月)〈前編は5月刊『汗血千里駒』の挿絵の数を減じて流用。後編は新たに作画し芳年の表紙を添えた〉 『奇縁井出の下帯』挿絵・表紙 仙斎年信 内藤久人 駿々堂(10月)◯「近代書誌・近代画像データベース」 (明治十六年刊) 山崎年信画 『絵入人情/美也子新誌』1-5 駿々堂(4-6月) 「復讐滋賀の浦波 (1-5)」挿絵年信 「橋岡甚三郎の履歴(1-5)」挿絵年信 「浪華異聞大潮余談(1-5)」挿絵年信 ※(明治15年4月創刊) ☆ 明治十七年(1884)◯「国立国会図書館デジタルコレクション」 (明治十七年刊) 年信画 『筑波水滸伝』 菊亭静 口絵・挿絵 年信 今古堂 螢雪堂他(11月) ☆ 明治十八年(1885)◯『【明治前期】戯作本書目』 (明治十八年刊) ◇戯作小説 年信画 『御伽話因果小車』一冊 年信画 関屋孝橘編 金桜堂(合巻) ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」 (明治十八年刊) 年信画 『筑波水滸伝』 口絵・挿絵 扶桑園年信 菊亭静 螢雪堂(上中下 1月)〈前年17年の『筑波水滸伝』の再版。上巻見返しに「扶桑園年信画」とあり〉 『御伽話因果小車』口絵 治明・挿絵 治明 年信 関屋孝橘 金桜堂(3月) ☆ 明治十九年(1886)◯「国立国会図書館デジタルコレクション」 (明治十九年刊) 年信画 『東下錦土産』口絵・挿絵 年信 年景 大橋真理 西野文栄閣(11月) ☆ 明治二十年(1887)◯「国立国会図書館デジタルコレクション」 (明治二十年刊) 扶桑園南斎画 『通俗絵本漢楚軍談』口絵 扶桑園南斎・挿絵 芳年 編者不詳 今古堂(11月) ☆ 明治初年(1868~) ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」 (野崎左文著・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕) ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p83 〝 芳宗、国松等に次いで、新聞の絵を書いたのは仙斎(センサイ)年信(トシノブ) (通称山崎信次郎(ノブジラウ)) であつた。此人は芳年 門下の秀才で画道の研究にも頗(スコブ)る熱心であつた。同氏の机の抽斗(ヒキダシ) や文庫には新古絵画の粉本または写生帖あ一ぱいに詰(ツマ)つて居る外に硝子写しの写真が百枚も二百枚 も貯へてあつたが、是れは自身度々(タビ/\)浅草公園内の写真屋に赴(オモム)きシヤツ一枚となつて種々 (イロ/\)の姿勢を撮らせたもので、下絵に取掛る時は必ずこの写真を取出し注文に敵する姿のものを写 生するのが例であつた。夫れ故にやいつも同氏の描く人物には肥満なのが無くて皆自身同様痩躯の人ば かりであつた。惜し事には酒の為め屡々(シバ/\)身を誤り又芳年氏の許諾を経ずして或る粉本を持去 つたとか云ふ罪で、師匠から破門せられて大阪の魁新聞を経て土佐に赴き、一年ばかり土陽(ドヤウ)新 聞の挿画を担当して居たが、田舎では絵画の研究が出来ぬとあつて都恋しくなり、復(マ)た東京へ帰つ て来たが其時の道中は大阪へ着した時懐中剰(アマ)す所僅かに五十銭、夫れから汽車を横目で見ながら東 海道をテク/\歩いての上京中途中で帽子を売り蝙蝠傘を売り単衣(ヒトヘ)を売り、或夜は辻堂に寝たり して、ヤツと東京に着(チヤク)した時身に付いて居るものはシヤツとズボン下(シタ)ばかりであつた。殊に 一番困つた事はと本人自身の話に拠れば、静岡県に入(イ)つた時或る川に出水後仮橋が架つて居て橋銭 (ハシセン)一銭を徴せられるのだが、その持合せが無い為に一二里ほどブラ/\と元来(モトキ)し道へ立戻り、 夜更けて橋番の寝込んだ頃を見すまして其橋を駈抜けたとの事である。こんなに貧苦に迫りながら少し でも金が手に入ると何事を措いても直に夫れで参考書を買込むといふ風で、其後私と京都南紺屋町の下 宿屋に同棲して居た頃私が地方新聞社から送つて来た続き物潤筆料の郵便為替を同氏の外出の序(ツイデ) に受取つて来て呉れよと頼んでやると、やがて十冊ばかりの絵本を携へ帰りこれは誰の風俗画、これは 誰の花鳥画譜みんなで八円とは余り安いから買つて来たといふ。シテ其金はと問返せば、イヤ待ち給ヘ オゝそれは君の潤筆料を暫時流用したのだと平気な処などは、頗る仙人風を帯びて居る突飛な挙動があ つたに拘はらず少しも憎気(ニクゲ)のない人であつた。又同じ頃私が製図上の参考として持つて居た西洋 の遠近法(Perspective Drawing)をその原書に就て図解の説明をした時は非常に歓んで、たうと う原書中の図を悉く写し取り、夫れから後は屋台又は背景などを描く時は、此遠近法の書き方に随ひ下 絵を朱線だらけにして苦しんで居た事もあつた。そして其頃はいろは新聞へ魯文翁が高野長英の続き物 を書いて居て其の挿画の筆を執つて居たが、翌年ごろ京都の日之出新聞へ転じてから師宣とか春章とか いふ古い処の筆意を学び、画風は一変したものゝ却て自家の本領を失ひ、評判前日の如くならずして、 十九年ごろ同地で歿したが、其の門人には曾て万朝報(ヨロヅテウホウ)の画家であつた藤原信一氏や二世田口 年信 氏などがある〟 ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p88 〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信 、新井芳宗、 歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景 (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富 岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期 に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟☆ 没後資料 ☆ 明治二十三年(1890)◯「国立国会図書館デジタルコレクション」 (明治二十三年刊) 扶桑園呑海画 『黒手組戸沢助六』挿絵 信一 扶桑園呑海 春錦亭柳桜 駸々堂(6月)〈信一は藤原信一。扶桑園呑海は山崎年信の別号とされるが、没年は明治19年である。年信の遺稿に門人の信一が 手を加えて成ったものであろうか〉 ☆ 明治二十七年(1894) ◯『新撰年中重宝記』大阪(千葉胤矩編集・出版 明治二十七年一月)(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝現今各派画家(21/98コマ) 大阪 鈴木雷斎 稲野年恒 武部北涯 歌川国峰 石川石陰 赤井恒茂 宮崎鎗八 三谷貞広 井上芳洲 岡本景暉 木下日峰 田口年信 長谷川貞信 歌川芦国 筒井年峰 長谷川小信 歌川国松 山口愚仙 藤原信一 前野一広 槙岡恒房扶桑園仙斎 扶桑園春香 林基春〟〈扶桑園・仙斎・春香は山崎年信の別号とされる。しかし山崎年信は明治19年没。そうだとするとなぜ「現今各派画家」に、 しかも二名分のスペースをとって収録されているのか分からない〉 ☆ 明治三十一年(1898) ◯「月岡芳年翁之碑」明治三十一年五月 芳年七回忌 向島百花園に建立 〝芳年社中故門人 山崎年信 (故人)〟 ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) (88/103コマ) 〝仙斎年信【明治元年~三十年 1868-1898】 通称信次郎、三世豊国の門弟なりしが、後に大蘇芳年を師とす、出藍の誉れありしも、故ありて芳年に 破門せられ、土州の某新聞社に入、また大阪に住めりと云ふ、明治十九年野頃没す〟 ☆ 大正以降(1912~) ◯「山崎年信」上 島田筑波著・下 胡蝶園著(『浮世絵』第十四・十八号 酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)七月刊・同六年十一月刊) 山崎年信 上・下 島田筑波著・胡蝶園著 ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー) 〝年信 三世豊国門人、後に芳年門人、山崎氏、通称信二、大阪にては田口徳三郎と称す、名は勝洗、仙 斎と号す〟 ◯『狂歌人名辞書』p148(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊) 〝仙斎年信、通称山崎信次郎、東京の人、画を芳年に学びて出藍の誉あり、土陽新聞、日之出新聞の挿画 をゑがく、明治二十年京都に於て歿す、年三十五〟 ◯『浮世絵師伝』p128(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝年信 【生】安政四年(1857) 【歿】明治十九年(1886) 【画系】芳年門人 【作画期】明治 山崎氏、一に斎藤氏、俗称徳三郎、南斎・呉園・扶桑園・呑海等数号あり、後ち師(芳年)に憚る所あ りて、年信を仙斎春香と改む。彼れ幼より画を好みしが、父の家計裕かならざりし爲め、十一歳の秋提 燈屋の小僧と成り、稲荷祭の神事行燈などを画くうち、偶然芳年に認められて其の門に入る、時に明治 三年(十四歳なり)、爾後師家に寄寓して修技に怠らざりしに明治十年故ありて師の許を出奔し、(十 年九月出版の西南戦争錦絵には淺草北富坂町三十二番地とあり其の前には駒形町二十五番地)関西地方 に赴き、諸新聞に挿画を執筆せしが、其の間一度東京に歸り、(十一年版の錦絵に蛎殻町三丁目とあり) 居ること久しからずして復た京都に赴き、遂に彼の地にて歿せしなり、其の生涯甚だ曲折に富み、奇聞 逸話亦一にして足らず、菩提所は京都新京極西光寺なれど墓石は現存せざる由〟 ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
「歌川系図」 〝月岡芳年門人 年信〟 ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p90(樋口弘著・昭和37年改訂増補版) 〝年信(としのぶ) 山崎氏、始め斎藤氏、俗称徳三郎、南斎、扶桑園、呑海の号があつた。芳年の門人。新聞挿絵を画き、 その生活は奇行に富んでいた。安政四年生れ、明治十九年、三十才で歿している〟