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山崎年信 上・下(『浮世絵』14・18号)浮世絵師名一覧
〔安政4年(1857) ~ 明治19年(1886)・30歳〕
 ◯『浮世絵』第十四号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「山崎年信 上」島田筑波(11/24コマ)   〝△「年信国芳を崇拝す」     年信は東京の人で、父は元千住の青物問屋山崎何某と云ふものであつたが、段々家運の零落した結果、    遂に同所の裏長屋に逼塞してゐた。年信の生れたのは恰度この窮居時代で、俗称を信二と云つて、痩ぎ    すの小男で、何処やら五代目の尾上梅幸に酷似(そつくり)であつたそうな、父は根からの千住ッ児であ    つたが、母は日本橋小田原町辺から嫁に来た人で、実家の姓を井草を云はれた、井草といふ姓は余り世    間に多く聞ない。それについて思ひ出すのは、彼の歌川国芳(一勇斎)これが通称をたしか井草孫三郞    と云つたと聞く、それやこれやを考へ合はすと、どうも年信の母方の実家は国芳の家に縁故のあつたも    のではあるまいかと思はれる、殊に偶然かは知らぬが、年信は平生深く国芳崇拝であつたことも、何処    やら其の間に因縁を引いてゐはしまいかと思はれる。    △「年信提灯屋の小僧となる」     年信は幼い時から武者絵が大好物であつた、寺子屋へ学問をさせるために通はして置くと、いつも手    習草紙へ牛若や弁慶ばかり描いてゐて、一向読書や習字を励まぬので、屡々師匠から父の処へ小言が出    た、父からも、また厳しく小言を云ふべけれども、平気であらためない、そこで父も遂に我を折つて、    それほど画が描きたければ、提灯屋にでも成つて仕舞へと、年信が十一歳の慶応三年の秋に、ぢき近所    の提灯屋へ小僧にやられたのであつた、年信はこゝで足掛け四年奉公して、提灯の紋や祝牌(びら)の画    などの手伝をしてゐたが、その頃年信第一の企望といふのは、毎年二月の初午に稲荷祭りに掛る神事行    灯の画を描くことであつた、或年の初午に掃部宿(かもんじゆく)の若い者に。こつちから頼み込んで、    横六尺の大行灯へ例の国芳流の筆勢に倣ふて、川中島の信玄謙信一騎打の図を描いたのであつた、提灯    屋の主人を始め若い者までが、これは素敵にうまく出来たと称めそやされた、この時たま/\芳年が千    住掃部宿を通つて、不図この大行灯を見てゐると、側にゐた若い者が自慢半分に、どうだいこの絵はま    だ十四の小僧が描いたんだ、偉いもんだらうと云つた、芳年は心中大いに此の少年に望みを属し、其れ    から帰宅後 人を以て提灯屋に交渉して、終に貰受けて門下生の内に加へ 号を年信と命じたのであつ    た。    △「浮世絵の手本は往来を行く人」     年信はその頃芳年の住まつてゐた新橋日吉町の寓所に寄食することゝなつて、芳年が指導の下に孜々    として丹青の業を修めてゐた、芳年は常に錦絵を描くに、先づ其の人物の骨格と姿勢とに重きを置いて、    主にこれを写生から取つてゐた、それは芳年の錦絵を見るとすぐ気のつく事で、描かれた人物いづれも    躍々として活きてゐるのは、蓋し其の用意に基づくのであらう、又芳年がつねに年信に教ゆるに、何で    も活きた人物を描こうとするには、あらゆる写生をやらなくちやいかん、浮世絵の手本は外にない、い    くらも往来を歩いてゐるのがそれだと云はれた、それで年信はその頃しきりに写生を励んだ、劇場、相    撲、撃剣、柔道、能楽、踊、其の他芸妓娼妓は勿論 目に触るもの悉く写生帖の材料としたのであつた、    芳年は年信のこの熱心なるを見て深く愛し、年信の写生帖をば常に其の手許に置いて、一種の興味を以    て眺めてゐたのであつた。    △「年信師家を逐電す」     芳年の家では毎年の二月、庭中に勧請してある稲荷さんの為に初午祭りを催すのが例であつた。当日    は平生得意にする錦絵問屋の主人、錦絵の彫刻師(ほりし)、刷絵師(すりし)などを始めて、懇意の人々    数十名を招待して大盤振舞をするのであつた。いつも主人の芳年は御自慢の清元を聞かせる、客人の中    から交はる代はる種々の隠し芸が出て盛んに賑ふ、門下生等は今日に限り無礼講とあつて、上戸は羽目    外して呑み、下戸は箍を緩めて喰ふと云ふのが家例に成つてゐた、然るに明治十年の二月初午の日、如    何(どう)した機会(はづみ)か年信は大酔へべれけと成て、平生の気質にも似ず某客に対して舌戦など開    てゐたが、後に飄然として師の家を浮れ出した、而(そう)して三日も五日も更に消息(たより)がない、    芳年を始め家人や門下生等は甚だ心配して、直ちに年信の実家は勿論心あたりを詮索したが一向に明ら    かでない、後に芳年は其の机辺を見ると、曾て芳年が丹精に書集めた写生帖が見へない、扨ては彼れは    兼ねてから逃亡の意があつて、写生帖を懐裡(ふところ)にして逃亡したのであらうと芳年は性急の江戸    子だけ、非常な立腹であつた。    △「年信師家逐電の告白」     年信が後になつて、その当時の逐電事件に関して、或人に告白した話を聞いたが、かう云はれてゐた、    実にあの時の失敗は恩師へ対して何とも申し様のない不始末でした、別に何の金望も目的も有つた訳で    はありません、全たく大酔の上の無分別からでした、然し師匠の写生帖を持つて出たのは、取返しのつ    かぬ失策で、それがために師匠の下へ帰参することが出来ず、とう/\出奔して京阪に放浪することに    なつたのですと。    △「年信始めて新聞画工となる」     東京を出奔した年信は大阪に赴いて宇田川文海の厄介成つてゐた、恰度その時(明治十年)大阪に浪華    新聞と云ふ絵入小新聞が発行される事になつたので、年信は同社に雇はれて、小説の挿絵を担任するこ    とゝ成つた、抑(そも)そも大阪に於ける新聞の発行はこの浪華新聞を以て嚆矢と称すべく、年信 婉曲    なる挿画は、当時大阪の人士に尤も歓迎されたのであるが、惜い哉時来らず、とう/\この新聞は僅か    一年計りで廃刊してしまつた、この時宇田川文海は浪華新聞と一通の信書とを東京の大蘇芳年の許へ贈    つて、懇々と年信の過失を陳謝されたけれど、芳年からは何の返事もなかつたといふことだ。    △「年信魁新聞の画工となる」     浪華新聞は不幸にして廃刊の悲運に接したけれど、年信の伎倆は幸ひにも、この新聞によつて始めて    関西の人士に認識されたのであつた、それからしばらくして明治十二年に魁新聞といふ新しく絵入ふり    がなの一大新聞を発行することに成つた、主筆は津田貞、記者は宇田川文海、若菜蝴蝶園、小宮山圭介、    半井桃水の諸士で、画工は即ち山崎年信であつた、この時は年信の尤も油の乗つた時代で、一生懸命に    奮励されて、毎回新意匠を練り奇想を凝らして、曾て師の訓導によつて得たる例の写生風の密画を作つ    て、これを木彫家として知られた藤村某の手により、精巧なる木版として、新聞に組入れたので、第一    に其の画の美麗なるのが何よりの評判となつて、発行当時の印刷高は殆ど万を以て数へる程であつたの    は、当時としては実に盛況の有様であつた、以て当時に於ける年信の得意思ふべしである、年信はこの    時主筆の津田聿水から仙斎といふ号を与へられ、仙斎年信と称した、その頃年信の描いた画看板が、現    に大阪東区淡路町の立志堂といふ薬屋に残つてゐる〟  ◯『浮世絵』第十八号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「山崎年信(下)」胡蝶園(18/25コマ)   〝△「年信の洒落」     年信は元来無口の男で、平生めつたに無駄口を利かぬ男であつた、信(のぶ)さんお早うと人が云へば、    お早うと挨拶する、好い天気ですネ、と云へば、好い天気ですネ、と鸚鵡がへしに返事をする、信さん    この酒は上等だらうと云へば、イヤ上等ですと同じことをいふ、甚だ無愛想なやうに聞えるけれど、其    顔や眼口に何ともいへぬ愛嬌のあるので、謂はぬは謂ふにまさるほどの人徳を具へてゐました。或日烏    森の一筆庵可候の家で例の如く画を描いてゐると、俄に大夕立が降つて来た、つゞいて雷鳴が轟ろいて、    雷光がぴか/\と閃いて来た、一筆庵の妻君は元来の雷ぎらひで、ソレ信さん雷さまが鳴るぢやないか、    早く線香を立て蚊帳を釣つておくれよ、といふので、年信先生起て夜具戸棚を探(たづ)ねたれど更に蚊    帳の姿が見へぬのである、一筆庵先生は自若として、信さん蚊帳はそこには無いよ、余処(よそ)の土蔵    に預けてあるのだ、といふト、年信曰く、それでは蚊いぶしを焚きませう。    〈蚊帳が雷除けなら、同じく蚊を追い払う蚊いぶしだって雷除けにならないはずはないというのである。一筆庵可候は     明治の戯作者。年信がこの人の作品の画工を担当したかどうかは未確認〉    △「年信の扇面美人」     ある日津田聿水(いつすゐ)氏の曾根崎の別荘に諸文士の小宴を開かれたことがあつた、年信も其の席    に侍して盛んに玉盃を傾むけた、宴は酣(たけなは)になつておの/\隠し芸などの賑はひがあつたが、    年信はたゞ大盃を献酬するばかりであつた、津田の奥さんは一巻の白練を携へて年信の前へ来りて、年    信さん是れへ何か描いて下さいよ、と願ふた、満引辞せず酒気勃々の年信、忽まち水筆を呵して、一個    の背面美人を映し出したのであつた、これを見た聿水氏は非常に其の筆勢の清楚にして艶雅なるを嘆称    して、更に玉盃を挙げて氏にすゝめて、自からも筆を執つて左の如き讃字を記されました。     「この女をこちら向したら嬉しからうナア、否(い)や、こちら向ひたら庫の家根に雨が洩る、よし      や世の中それとても誰れに近江の床の山、泣いて別れのきぬ/\に、朝妻船のこがれ/\れ、袖      に浪こす折もありなん、エヽまゝよ余所(よそ)の恋じやもの        見かへらん笑はゞ国もかたむけむ たゞこのまゝが如菩薩の慈悲」     〈津田聿水は『大阪朝日新聞』(明治12年1月創刊)の編輯主幹〉    △「年信祇園の玉龍に愛せらる」     年信が大阪の『魁新聞』に筆を執つてゐたころ、京都の加茂川の納涼(すゞみ)の光景を見て来たいと    飄然京都に遊びに出かけました、氏は始めて四條あたりの納涼の光景を見て、其の掛茶屋の結構や、芸    子や舞子の華奢(きやしや)な優美な風俗を写生せんものと、自分も河原の掛茶屋に腰を掛け頻りに彩筆    を運(めぐ)らしてゐますと、其の臨席の掛茶屋に芸子と共に納涼んで居た客はそれとも知らず、何か怪    しい者と思つたのか、大の男二人は跳(おど)りかゝつて年信を引とらへ、無(む)二無三に打擲に及んだ、    而(そう)して年信は無残や河原の流れの中へ突き倒されたのです、此時その隣りの掛茶屋に納涼んで居    たのが 玉龍といふ土地で姉さん株の芸子が此の体裁を見て気の毒に思ふて、其の夜 氏を自分の屋形    へ伴(つ)れて帰つて 厚く手当を与へて介抱されました、氏は玉龍の厚意を謝して、二三日同家に養生    して後 大阪へ立戻り、更に極彩色の美人画を描き、此を礼物代りに玉龍の許へ贈つた、これより氏は    玉龍とは非常の懇意を結びて 屡々(しば/\)玉龍の許に出入し、殆ど旧知のやうに氏を奨(すゝ)めて    数帖の美人画を描せては 是れを懇意の料亭や芸子の友達に頒けては数十金を作り、氏の一杯の料に充    (あ)てたといふことである。今も尚ほ祇園先斗町辺の料亭には 折りに触れては年信の美人画を見るこ    とがあると 某人の語られたことがあつた。    〈『魁新聞』は明治13年8月創刊、翌14年8月廃刊〉    △「年信土陽新聞に雄渾の筆を揮ふ」     土佐の高知に発行された土陽新聞は、当時板垣退助の薫陶の下に経営された自由党の機関新聞であつ    て、所謂自由民権の唱道者と自任し、其の勢力は四州を圧する程の概があつたのでした、土陽紙の記者    阪崎紫瀾氏は土藩の志士にして 天下の奇傑と呼ばれた坂本龍馬の伝を記すについて、前の魁新聞の画    士として世に聞えた仙斎年信を聘して、其の挿画を担任させたいと頼んで来た、氏はこの時大阪に在つ    て例の如く浪人生活の境遇であつたから、直ちに其の聘に応じて高知に赴任することゝ成つた、氏の高    知に到着するを俟つて 紫瀾氏は土陽新聞紙上に『汗血千里之駒』と題して、坂本龍馬の伝を連載され    た、その文の痛快なる其の画の雄渾なる、人咸(み)な双絶を以て喝采されました、氏は大いに土陽社の    為めに愛遇せられて、高知に滞留するこ稍や二年有余で、再び大阪に舞もどつて、例の如く宇田川文海    氏の居候となり、晩酌一杯に舌鼓を打つて快哉を叫んで居たのでありました。    〈『汗血千里之駒』(坂崎紫瀾著)の『土陽新聞』連載は明治16年1月24日~9月27日まで〉    △「年信の画料一百円」     仙斎年信が得意のうち、節季に押つまつた年の暮れに、年信は祇園の玉龍に招かれて京都へ出かけた、    玉龍の屋形に予てから年信が来るであらうと 奥の間には雪のやうな白縮緬の長襦袢の えば縫ひに為    (し)たのが、其の数十枚麗々しく床脇に飾つてあつた、玉龍は例のやうに年信に酒肴を侑(すゝ)めてか    ら「信さんこの長襦袢は僉(みん)な あたい達の春着どすエ、この内三枚は墨絵の龍、その外はあんた    のお好みで宜しいのよ、旨(うま)う書いてお呉やす」といふ註文であつた、年信は玉盃を傾けながら    「よーがす」で快諾(うけあつ)て四五日の後、墨痕陸離たる雲龍の図を描いてやつた、玉龍はこれを見    て大いに歓んで、金一百円を封じて、氏の潤筆に贈つた、年信は其の一封を懐裡(ふところ)にして、飄    然蛸薬師町の都せんべいの見世に立寄つて、ハイこれは御歳暮です〟