Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ としのぶ おくむら 奥村 利信浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』  ☆ 寛延二年(1749)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛延二年刊)    奧村利信画『疱瘡除』「鶴月堂奧村文全利信」  ☆ 刊年不明    ◯「日本古典籍総合目録」(刊年不明)   ◇絵本・絵画    奥村利信画『北野々やしろ/咲分の梅』三冊 鶴月堂奥村文全利信画 寛政1頃か    ◯『草双紙事典』(刊年未詳)    奥村文全利信画『狼に衣』刊年未詳    ☆ 没後資料     ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱442(寛政十二年五月以前記)   〝奥村文角政信、同利信 江戸通垣(ママ)町本屋なり。瓢箪の印をせり。漆絵に多し〟    〈名前の後に続く〝江戸通垣町〟以下の文は政信と利信二人に対する説明なのか、それとも政信のみの説明なのか未詳〉   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③292(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (名前のみ、記事なし)    ◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序)   〝奥村利信 一枚絵あり〟    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1381(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝元祖清信門人    奥村文角政信【日本画師、号芳月堂、一号丹蔦(ママ)斎、江戸通塩町本屋也、瓢箪ノ印ヲ捺ル漆画ニ ┐           多シ、枕画上手、鍾馗名人、一云、浮世画紅摺始メ、志道軒ノ絵上手】      │    ┌────────────────────────────────────────────    └ 同 利信    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪203(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝奥村利信(一枚画あり)〟    ☆ 明治以降(1868~)  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝利信 奥村氏、名ハ利信能ク邦俗ノ浮世絵ヲ画カケリ〟  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p137(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝奧村利信 浮世絵ヲ善シテ邦俗ノ人物等ヲ画ケリ(人名辞書)〟    ◯『古代浮世絵買入必携』p6(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝奥村利信    本名〔空欄〕  号 文全  師匠の名 政信  年代 凡百七八十年前    女絵髪の結ひ方 第四図(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 丹絵、漆絵、一枚絵、長絵、細絵、紅絵、絵本、肉筆    備考 〔空欄〕〟    ◯『浮世絵師便覧』p208(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝利信(トシノブ)奥村、◯政信門人、鶴月堂、文全と号す、◯享保〟    ◯『日本美術画家人名詳伝』補遺(樋口文山編 赤志忠雅堂 明治二十七年(1894)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝奥村利信 鶴月堂文全と云ふ 政信門人 享保年間 浮世絵画く〟  ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(26/103コマ)   〝奥村利信【享保元~二十年 1716-1735】鶴月堂、文全等の号あり、政信の門弟にて、一枚絵を画けり〟  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二(1899)年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(143/218コマ)   〝奥村利信 邦俗の浮世絵を能くし 世に称誉せらる(扶桑画人伝)〟  ◯「集古会」第六十九回 明治四十一年(1908)九月 於青柳亭(『集古会誌』戊申巻五 明治42年6月刊)   〝林若樹(出品者)奥村利信 三枚続 漆絵 左遊女・中若衆・右娘風〟  ◯『奥村政信画譜』(宮武外骨編 雅俗文庫 明治四十三年(1910)四月刊)    『奥村政信画譜』(門人 利信・政房)  ◯「日本小説作家人名辞書」p715(山崎麓編『日本小説書目年表』所収 昭和四年(1929)刊)   〝奥村利信    文志と称し、政房、鶴月堂とも号す。奥村政信門人。江戸の浮世絵家、「疱瘡除」(寛延二年・1749)刊    赤本)の作者〟〈「日本古典籍総合目録」の分類は黒本〉    ◯『浮世絵師伝』p130(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝利信    【生】  【歿】  【画系】政信門人  【作画期】享保~寛延    奥村氏、鶴月堂、文全と号す、美人画及び役者絵を巧みにし、享保八九年頃より寛保年間に亘りて、数    多の漆絵(紅絵)を発表せり。彼に就ては従来三種の説あり、即ち一は政信の子として、宝永六年に生    れ寛保三年に三十五歳を以て歿すといふ。説(米人フィツケ氏が某書に拠りしものか)、二は政信の弟    ならむとして、夭折を肯定したる説(落合直成氏)、三は政信の門人なるべしとして、元文或は寛保の    初め頃に歿せしかと云へる説(藤懸静也氏)なり。三説いづれも確証を有する所にはあらざれども、今    彼の作品と政信の作品とを比較せし結果によれば、第三の政信門人説を以て最も妥当と認むべきが如し。    但し、其が歿年に就てに、今少しく後年に延長するの要あり、そは寛延年間に、尚ほ彼が作品(青本)    の発表ありしを見ても知るべし。初め彼の細判漆絵(紅絵)は、版元より出版せしが、享保十三年に至    りて、彼の役者絵を奥村屋より出だすと同時に、従前の版元の或る特定の者を除くの外は、殆ど出版関    係を断ちしものゝ如く、其後は、専ら奥村屋によつて出版さるゝことゝなれり。一例として、享保十七    年春、市村座「松竹梅根元曾我」に於ける瀬川菊次郎の八百屋お七(お七五十年忌記念)の役を画きし    もの(口絵第十四図参照)を挙ぐれば、版元即ち奥村屋の家標たる瓢箪の印ありて、落款の肩書には    「東武大和画工」とせり、肩書は尚ほ他の図に「大和絵師」・「大和画工」或は「日本画工」とせる例    もあり。これ等の肩書は、皆政信に倣ひしものにして、画印には「奥邨」とせり。彼の細判漆絵(紅絵)    として、最後に近き寛保年間の作には、「【なつまやう/ねむあけ】三幅対」おどり子ふうなどゝ題す    るものあり。ついで延享年間の黒本『高砂十帰松』三册、寛延二年版の青本『【編木三八】疱瘡除』二    册、同じく寛延年間の青本『作(ダテ)奴化物退治』三册等を以て、彼の作は終れり。されば、それ以    後幾ばくもなくして他界せしものならむか。如上の作画年代より推考すれば、彼は政信門下に於ける最    初の入門者にして、其が技倆に於ても頗る優秀なる點あり。就中、彼が享保十年頃の作なる竪大判の漆    絵「八百屋お七対鏡の図』の如きは、彼が全作品中の代表的傑作と称するに足るものなり〟    ◯『浮世絵年表』p94(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   「寛保二年 壬戌」(1742)   〝奥村利信歿す。行年三十五(利信は漆絵を多く画ける浮世絵師なれども、其伝記詳ならず、蓋し政信の    子なるべし)〟    △『増訂浮世絵』p93(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝奧村利信    政信の子と伝へられ、早死したものであらうとの説が、一般に行われ居る。天才的の版画家で、漆絵を    重に画いた人であるが、丹絵の作も存在するので、旧来の説より少し製作期を長く見てもよからう。松    方氏の旧蔵品中には傑出してものが少くないのに徴して、頗る将来のあつた作家といふべきである。ま    た福岡市相浦真三郎氏所蔵の大判掛物絵は漆絵中の珍物で、丹絵版を以てし、構図も色も面白い。利信    の年齢については宝永六年に生れ寛保三年に没し、三十五歳であるとの説もあるが明かでない。然し未    だ紅摺絵の作を見ないから、大凡元文か若しくは寛保の初め頃に没した人であらう。落合直成氏は利信    は或は政信の弟ではないかと疑つて居た。一説として考ふべきである。    なほ利信の版画の板元を調べて見ると奧村屋以外に、諸所で出版して居る。例へば富士まき狩や鷹図、    及び廓一谷夢中の敦盛などは江見屋から、鶴に乗つ遊女はいづみや権四郎から、聞香の美人は近江屋か    ら、浮世歌念仏は小松屋から、難波のあしや釜は中島屋から、なほ役者絵を伊賀屋から出版して居る。    かやうな数例によつて見ると、政信の子弟かであるならば、何故に奧村屋から多く出版しなかつたかと    いふことの疑問を懐くのである。或は単なる弟子で奧村を菱川や宮川と同じやうに画名として用ひて居    るのかも知れない〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    作品数:4点  画号他:奥村利信 分 類:黒本2・黒本青本1・青本1    成立年:寛延2年(1点)    〈『疱瘡除』   (黒本青本・寛延二年(1749)刊)     『高砂十帰松』 (黒本・成立年記載なし)     『ふくじん』  (黒本・成立年記載なし)     『作奴化物退治』(青本・成立年記載なし)〉