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宮武外骨・浮世絵記事奥村政信画譜(おくむらまさのぶ がふ)浮世絵事典
 ◯『奥村政信画譜』(宮武外骨編 雅俗文庫 明治四十三年(1910)四月刊)   (『浮世絵鑑』第二巻所収・国立国会図書館デジタルコレクション)   ※△は他書の引用文 ◯は不明文字 全角(~)は原文のもの 半角(~)は本HPの注記   △〔好古類纂〕   〝奥村政信は源六と称す書肆なり、兼て浮世絵を能くす、初め志道軒と号し、後芳月堂と改む、又丹鳥    斎文角と号す、画は初代清信の門人にして、江戸通塩町に住し、能く邦俗の浮世絵を画き、多く草双    紙等を発行せり、又初めて紅絵をゑがく、当時の上手といふ、享保年中の人なり、或は云ふ、元禄十    七年刊『養老瀧』といふ稗史に政信の款あり、然ればその頃よりの人なるべしとぞ    〈『養老瀧』は〔目録DB〕には見えず。また〔目録DB〕によれば『好古類纂』は東京の好古社、明治37年刊とあ     るが、未見。なお奥村政信と講釈師深井志道軒を同人とする説は明治17年刊の『扶桑画人伝』の拠るのであろう。     政信は志道軒の容姿を巧に写したという江戸時代の記事があるので混同したものと思われるが、無論別人である。     本HP奥村政信の項参照〉   (宮武外骨曰)   〝政信が芳月堂文角梅翁と号せしは松月堂不角千翁(立羽氏)の俳諧門人たりしに拠るなり。『浮世絵    本鶴の嘴』の序に「松月堂法眼不角千翁行年九拾壹歳の影像を写画く、寔に筆の命毛鶴の千歳と楽し    み清風儀の発句付才なき智恵より絵本鶴の嘴と題して二巻に桜木の栄を永日の御慰る種と侍り、鶴の    嘴筆の命毛千代の春、芳月堂奥村文角政信画」と記して師の寿像を出せるにて知るべし、立羽不角は    宝暦三年六月に九十二歳にて没せしなれば『鶴の嘴』は宝暦二年の版本ならん。    政信は書肆(絵本問屋)にして画工を兼ねたりしなれども、そは享保初年度の事なるべし、宝永正徳    頃に出せし政信画作の浮世草紙、六段本等の版元は、いづれも皆自家にあらざりしにて知るべし、又    政信が浮世草紙、六段本等の挿画を描きしは「享保の頃より」にあらずして「正徳の頃より」なるこ    とも、上欄「版本」の項を見て知るべし    英人アンデルソン氏の著『日本美術全書』に「西川祐信氏は狩野永納の門人なりといふ、或は土佐派    の徒なりと云ふもあり、氏は其力を挿画に用ふるには奥村政信に模倣し、其画風も一体に狩野又は土    佐よりも一層政信に似たり」とあれども、十九歳の年長者たる祐信が、政信に模倣することはなかる    べし、いづれも菱川師宣に模倣せしがため相似るに至りしなるべし〟   〝其門派    奥村政信の門人としては、『増補浮世絵類考』に「奥村利信、鶴月堂文全と号せり一枚絵あり」とい    へると、奥村政房、文志と号す一枚絵双紙等多くあり」といへるのみにて 其詳細なる事との無きは    勿論、此他に同門人として記せるもの一もなし、予が憶測を以て同派ならんと認めしは、勝村輝信と    いへる者なり、同人の一枚絵を見るに、其筆甚だ政信に似たる所あり、尚豊嶋貞和といへる俳人は政    信の門人にあらざりしとする、大の模倣者たりと見るべき版画多し〟   △『浮世絵派画集』大村西崖著   〝奥村派は政信の後に利信、政房の二人あるに過ぎず、利信は鶴月堂文全と号し、遺品に一枚絵ありと    云ふ事の外、諸書に所見なし、『古画備考』には系図に利信を以て政信の子と為し、『浮世絵編年史』    及び『浮世絵備考』には門人と為せり、孰れに従ふべきやを詳かにせず、然れども利信の挿画を作れ    る黒本『高砂十婦松』(三冊)等の表紙外題に「通塩町奥村」と記し、又政房が自から「芳月堂弟子」    と肩書きを署したるに反して、利信の落款にはさる肩書きあるを見ざるのみならず、政信と同く自ら    「日本絵師」とい記したるより考ふれば、利信を以て政信の子とする『古画備考』の所見蓋し是なら    む、利信の画ける黒本は尚少からざるべしと雖も、今之を明かにせず、僅かに『高砂十婦松』の中、    歌人藤原奥風の酒宴に 侍女椀久の所作事を踊る図を出だして 之を示すことを得るのみ、利信の年    暦に関しては、『浮世絵編年史』に之を寛延頃の画人と為し、寛延二年の新版に疱瘡除(黒本ならむ)    ありし事を記せるに過ぎず、黒本赤本の一変したる黄表紙に 利信の画あることを聞かざるより考ふ    れば、其の行はれ始めたる安永の中頃には、利信既に世を去りしに非ずやと想はる、而して利信の一    枚絵は政信と同じく漆絵多し、こも亦利信の政信の生存久しからざりし一證とも見るべし、奥村政房    は文志といふ、政信の門人なり、画中の落款に多く「芳月堂弟子」又は「文角門人」の肩書きを署し、    多く一枚絵及び草子類の挿画を画けり、延享四年版の黒本に『盛景両面鏡』あり、然れども利信と同    じく黄表紙に其の画なきより見れば、没年亦恐らくは安永以後に在らざるべし、政房の黒本尚『年玉    ひまち噺』『鶴竹情の商人』(二冊)等あり、見るべし、政信の後奥村の一派終に長く振はざりしを、    憶ふに利信、政房等の後、奥村の家は絵本問屋の本業を専らにして画を能くする者 出でざりしなら    む、されば安永以後にも天明六七年まで、奥村源六の名は『青本年表』の版元の暦名に見えたり、其    の後は終に明かならず、名家の後復た名家を出ださゞること、豈独り政信の後のみなら(ん)や〟   〈「其の行はれ始めたる安永の中頃」、黄表紙の嚆矢とされる恋川春町作・画の『金々先生栄花夢』は安永4年(1775)刊〉   〈本HP所収の『稗史提要』や「版本年表」所収の「黄表紙年表」に拠ると、黄表紙出版の地本問屋・奥村の名は、天明    6年(1786)までで、同7年以降は見えない〉   (宮武外骨曰)   〝予 昨秋来上京の際毎に、利信 政房等の挿画に成れる版本を捜索したれども、前記大村氏が参照用    とせられたる利信の『高砂十帰松』と政房の『鶴竹情の商人』及び『年玉ひまち噺』と外に『栄華義    経蝦夷錦』といへる黒本を獲たるに過ぎざりし、されば、大村氏が記述されたる事の外、予は何等説    くべき事を発見せず〟