Top
浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ たちょう 田蝶(歌川芳兼)
浮世絵師名一覧
〔天保3年(1832)9月23日 ~ 明治15年(1882)1月25日・51歳〕
歌川芳兼
(参照)
☆ 安政五年(1858) ◯『千社札』続集
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(寄別3-3-2-1)
田蝶画
午の春(安政五年か)一巻「万字斎田蝶」「十二ヶ月の内」」 ☆ 安政六年(1859) ◯『千社札』
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(寄別3-3-2-4)
田蝶画
安政六未年 [1]上 署名「万字斎(墨念人・卍斎)田蝶」 [2]中 署名「万字」 ◯『浮世絵師伝』p118(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝田蝶 【生】 天保三年(1832)九月廿三日 【歿】明治十五年(1882)一月廿五日-五十一 【画系】国芳門人 【作画期】安政~明治 本姓里見、明治四年竹内氏と改む、幼名小八、後ち四世善次郎を襲名す、家は上総屋と称し、代々提燈 傘職を以て渡世とせり、彼は家業の関係よりして画を学ばむと欲し、十余歳の頃国芳の門に入る、即ち 師より芳兼と名づけられ、一好斎・一隣斎・玉水斎・万字斎・万字楼など数号あり、其が居所淺草田町 一丁目にありしに因みて田蝶と称し梅月と号しき、彼が最も得意とせしは、かの納札(千社札)の意匠 にして、芳兼としての錦絵よりも著名なり。居所両三度移動し、最後に淺草寿町二十八番地に自宅を構 へ、其処にて歿す、法名疎影庵釈白芳居士、浅草松清町東本願寺地中善照寺に葬る。遺子一男一女あり、 男は即ち竹内久一といひ後に彫刻を以て名を知られし人なり。(本稿は、雑誌福永版『浮世絵』第四号 所載、大曲駒村氏の「田蝶梅月」に拠る)〟 ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p89(樋口弘著・昭和37年改訂増補版) 〝田蝶(たちよう) 本姓里見、のち竹内と改む。幼名小八、のちに四世善次郎を襲名した。上総屋といい、提灯傘職を渡世 としていたので、絵を学ぼうとして国芳の門に入り、芳兼と名づけられ、田蝶、一好斎、一隣斎を号し た。その得意としたのは千社札の意匠である。天保三年生れ、明治十五年、五十一才で歿した〟