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☆ よしかね うたがわ 歌川 芳兼(田蝶)浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
   別称 一好斎 田蝶 梅月  ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序・文久元年(1861)以降の記)   (「歌川国芳」の項、国芳門人)   〝一好斎芳兼〟    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪189(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「歌川豊春系譜」〝(歌川国芳門人)芳兼 一好斎ト号ス。後田蝶又梅月〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川国芳伝」p207(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   〝(国芳)門人おおし。芳宗、芳房(万延元年没す)、芳清、芳影、芳勝(俗称石渡庄助)、芳見、芳富、    芳員(俗称一川次郎吉)、芳満、芳兼(一に田螺と号す。専ら絵びらを画く。彫刻家竹内久一郎氏の父    なりとぞ)、芳秀、芳広、芳鳥、芳虎(俗称辰之助、長谷川町に住す)、芳丸、芳藤、芳綱、芳英、芳    貞、芳雪、芳為、芳梅、芳基、芳栄、芳豊、芳盛(池之端に住す)、芳近、芳鷹、芳直、芳鶴、芳里、    芳政、芳照、芳延、等にして、其の最も世に著われたるは、芳幾、芳年〟    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(78/103コマ)   〝歌川芳兼【天保元~十四年 1830-1843】一好斎と号し、後に田蝶、また梅月と号す、国芳の門弟〟  ◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)   (『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った。【 】は割書き     半角カッコ(~)は本HPが施した補記   ◇巻二   (歌川芳兼)p55〈明治40年頃の記事〉   〝竹内久一氏の厳父は浅草田町一丁目に住し 屋号を上総屋と呼びたる提灯屋にて傘と提灯をとひさげり    通称を兼松【代々名は善次郎といふ】といへり 提灯を書くことに於ては名人の称ありて 其伎倆普通    の職人三人分のことをなせり 紋など画くにぶん廻しなど用ゆることなし これは疾(と)くに提灯の骨    の間数を知り居りて 一見して其見当をつくることを以てなり 家は芳(ママ吉)原の傘と提灯との其三分    の二は凡て引受け居たるを以て 家道は盛なりき 幼少より画を好み 当時行はれし浮世絵の大家国芳    の錦絵を多く集め 常に摸写して楽めり 店頭の障子に金時か鯰を押へ居る図を画き置きしに 一日     国芳其前を通行して 其図の奇抜なること 其筆意己れの筆に似たることを以て 其筆者の誰なるやを    問ひて 上総屋の兼さんなることを知り 己の名を言残して去れり 夫より国芳の門に入る時に年十七    にして 先生に名を貰ふ時は 御祝儀として二百匹を出すが例なりしが 兼さんは此雅金を納めずして    芳兼の号を貰へり これは春画に就て一の批評を下せしに 国芳其着眼の奇抜なるに感じて 直に名を    与へしなり 当時国芳の弟子を呼ぶ(ママに)皆呼びすてなりしが 兼松のみは兼さん/\とさん付なり     これは家も好くつけ届もよかりし故也    (以下、堤等琳に匹敵する提灯書きとの評判をとったという記事あり)    然れども提灯屋は嫌ひなりとて 四十のとき廃業して 浮世絵にも筆を執らず 後にはビラを書きて業    となし 田蝶と呼びたり 芳兼の名を廃せしは 豊国の弟子 下谷庵国春が国芳門になりて芳盛と名乗    りし時 癪にさはるとてよりの事也 芳盛は田町二丁目に住し 手習朋輩なりし縁により 共に国芳門    に手引したるなりとぞ 芳盛は千歳といへる土手の茶屋息子なりき 以上竹内久一君より聞く〟    〈竹内久一は歌川芳兼の実子でこの当時は東京美術学校彫刻科教授。この芳盛は二代目〉  ◯『集古会誌』壬子(2)大正二年(1913)九月刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   (「会員談叢(三)」清水晴風談)   〝竹内久一さんの親爺の竹内梅月〟    〈竹内久一は明治22年、東京美術学校が開校すると彫刻科教師、同24年教授に就任。父親は提灯屋五代目竹内善次郎    (田蝶)こと歌川芳兼である〉      ◯『浮世絵』第二号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「千社札と浮世絵」扇のひろ麿(13/24コマ)   〝(文化時代から慶応末年にかけて浮世絵の納札(おさめふだ・千社札)を画いた画工)    国芳 芳艶 芳綱 芳幾 芳兼 芳藤(以下の画工名略)    芳兼は竹内梅月、万字斎田てうと云つて 現今彫刻家の名手竹内久一翁の厳父である    筆耕を兼ねる〟    〈本HP「浮世絵事典」【せ】「千社札・色札」参照。「田てう」は田蝶〉  ◯『此花』第十四号(朝倉亀三著 此花社 大正二年(1913)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「江戸時代の広告法 ビラ広告」   〝(上略)絵の方では斯道の名手で、後世ビラ絵の元祖と称せらて居るのである。続いて芳艶・芳兼・玄    魚等は何れもビラ絵を能くしたものだが(下略)〟  ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝芳兼 歌川氏、国芳門、一好斎、後に田蝶梅月と号す〟    ◯『浮世絵師伝』p207(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳兼    【生】  【歿】  【画系】国芳門人 【作画期】    歌川を称す。(田蝶の項參照)〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝国芳門人 芳兼〟    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p92(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝芳兼(よしかね)田蝶の別号。その項参照〟