Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ くによしもんじん 国芳門人 浮世絵師名一覧
 ◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)   (『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った。【 】は割書き ◎は不明文字     全角カッコ(~)は原本のもの 半角カッコ(~)は本HPが施した補記。    『林若樹集』(『日本書誌学大系』28 青裳堂書店 昭和五八年刊)にも同じ記事があるので参照した。こちらから     引用した場合、その部分を〔~〕で表示した)   ◇巻七(歌川国芳と弟子たち)p185   〝竹内久一氏曰 国芳といふ人は面白い人だつたネ ベランメイでネ 丸で豊国とは意気が合はない 例    へば書画会へ出て 人から先生一枚願ひ升(ます)なんかといやァ ワッチャー未だ先生にやァなりやせ    ん 先生ていふナアネ ソラあすこの隅に居る被布を着た人【豊国を指して】サ といふ按排だから     其弟子も同じくベランメイ計(ばか)り 然し師弟の情誼といふものは至極厚かつた 師匠も弟子を愛せ    ば弟子も師匠を慕つた 学問は無いが頭は中々善いし能く人を知る明があつて 一とかどの人物さ 国    芳の卅三回忌に向島に建てた時 芳虎が師匠の名をだしにして自分計り旨い汁を吸ふ ケシカラン奴ッ    だといふので 到頭除名して石には名を載せなかつた位 死んでからも皆ンナ師匠を大事にして居た     ソンナ風で人物が好いので 弟子も各々(おの/\)其特長を発揮した 工夫の旨い所は芳藤の玩具箱に    なるし 武者絵や筆意は芳宗が伝へるし 鉄砲の巣口や刀を真直に見たとこを画くといふ風は芳年に伝    はるし、一筆がきや一寸思ひつきは親父【久一氏父】芳兼に伝はつた様に 種々様々に其風を伝へて行    った    〈竹内久一は歌川芳兼の実子でこの当時は東京美術学校彫刻科教授〉    一体玩具絵といふのは絵かきの内職で 閑な時にかいといて絵双紙屋へ買つて貰ふものだが 芳藤は此    方に善い頭を持つゐて 色ざしが旨く画面にむだの無い様にかくのが名人だつたので、遂におもちや絵    で成功した 板下の安いので売り出した 所謂数でこなしたのは芳虎だ 玩具絵一枚の板下が     其頃の相場で五百から一朱までだつた    前いふ通り豊国とは肌が合はないので始終暗闘を続けてゐた それは豊国と国芳の錦絵を対照すれば     能く其消息が判る。或年広重が二人の仲を直した際に、三人合作の東海道五十三次の錦絵を出した 広    重は景色には独得の伎倆があつたが 人物は凡て国芳の筆意を模してゐた     国芳は工夫に長じてゐて 私の親父は同じく国芳の弟子で芳兼といつたが 師匠を一つ困らしてやらう    と 附地口に釘抜キを持つて行ッたら 即座に手に持つ方の二本を足に見立てゝ 足長島にして了つた    さういふ風で堀江町の附地口は終始国芳にきまつてゐた     絵かきの収入といへば 板下や地口行燈等であるが 吉原の灯籠は一種の広告故 これは身銭を切つて    画いたものだ     浮世絵師は凡て絵かきと言つて 絵かきといへば浮世絵師を指したもので 本絵の方は絵師といつたも    のだ 又粉本は種(タネ)の名でとほつてゐた    弟子の中で師匠から、さんづけにされるのは松さん【芳宗現在の人にあらず】と兼さん【久一氏父】計    り、二人共重く用ひられてゐた 一体師匠から名を買ふには二朱宛もつて行つたものだが 私の親父計    りは只で貰つた 〔それに就ては面白い話があるンだが、チット差合いがあるから廃さう〕    国芳同門は皆ベランメイ連中計りなので 名を呼ぶにも綽名で呼んでゐた 芳年は綽名をドブ/\とい    つた 師匠の国芳にヒラ/\といふ尊号を奉つてゐた これは顔が平つたいから出たので 師匠の不男    なのは自分自身でも能く承知してゐて 或年国芳模様何ンとかいふ題で 御祭の三枚つゞきを出したが    中は国芳の弟子連中をかいてあつたが 師匠計りは後向きにしてあつた いつも国芳自身をかくときは    後を向いたり 或は紙を飛ばして顔の半面をかくしたりしてある    〈三枚続きの錦絵は題は「勇国芳桐対模様」〉    其頃狂歌師で梅の屋鶴子(かくし)といふ人があつたが これは長谷川町の待合茶屋の主人で 此人が    国芳の為めには顧問になつて尽力したので 絵の方も又種の計画も 此人の采配になつたのだ だから    此梅の屋の文台披露を万八楼で開いた時は 国芳も一肌ぬいで 弟子と揃の縮緬の浴衣で出席したとい    ふ話がある    国芳の弟子でネ 狂名を「をかしかわらへ」といふ加州のかけつけの仕事師があつたが 此人は金が無    いといふので 加賀鳶の半纏をひつかけて 此会へ出て異彩を放つたといふ事もある 或時此人が日本    橋長谷川町 俚俗玄冶金店の国芳の近火へ 火消しに駆けつけると 途中でハッタと師匠に遇つた〔師    匠火はどこ迄来たッといふと 今和田平に付いた相だと至極呑気相な返事なので、師匠グヅ/\して居    ちやアイケネエじやねエかと剣のみを喰はせると、此混雑の中で「和田平が悪くはあやまりませう」と    洒落のめしたものだから、いくらなんでもこんな中で洒落どころじやアネへといつて怒つたといふので    も国芳の性分が判る、此火事には国芳の家も焼けた〕    〈「加州のかけつけの仕事師」とは加賀藩お抱えの鳶職(火消し)〉    晩年に国芳は向島に引こして汁粉屋を出したが これは一寸の間だ 朝桜楼とつけたのは其時からだ    死んだ時は矢ッ張長谷川町に戻つてからと思ふ     国芳の弟子の芳年 此人は旨いが頭は無い人で人間は極くつまらぬ男で 所謂時代の流れに乗つた人だ    だから一生の中に筆が幾度変化したか知れない つまり一生を修行に終つて 未(だ)自分といふものを    大成しずに死んで仕舞つた 此芳年の売出し頃の武者絵 維新少し前の頃は一枚八十文より百文 三枚    続二百五十文が相場で 三百文といふのは稀であつた    (「文身(ほりもの)」)    それから浮世絵師即ち彼等が仲間でいう「絵かき」の中での仕事も 前にいふ玩具絵・武者絵・美人絵    其他に 凧絵や又さしこ(刺子)絆纏(ばんてん)の絵や 一風違つて「文身(ホリモノ)」の絵をかいた    ものだ 此ほりものが面白いや ゑかきがぶつゝけに背中に筆をとるのだが 其間は大事にして彫つて    貰ふ 能く人の云ふ通り 其彫る間は〔厠の臭気に当ると腐るといつて〕便所には行けず 野屎をたれ    る 湯にははいれず 半病人の姿で仕上げを楽しむのだ 其上金がかかる 一日に僅かほかほれない     先づ畳の目三ッといざるとお仕舞とするの〔が法〕で これが一ト切りといつて二朱 辛抱強い奴は一    日に沢山ほれて 早く上がる訳サ それからほりもの師の処では大勢待つてゐるから 飯時になりやア     〔替り番こに〕飯を奢らなけりやアならずといつて 彼等の事だから鰻飯といふのが通り相場で 中々    雑用がかゝる 彫り上る迄には身分不相応の入費を使ふ だから其出来上つた彫ものを大事にすること    夥しい 先つ第一衣服を着るッたつて 表こそ木綿ものだが 〔肌につく処〕はきつと絹ものをつける    顔や手足は日にやけて真黒だが 背中だけは日に当てることなぞはめつたにない 湯に這入(はいる)つ    たつて そうつと拭くといふ始末 何垢すり? とんでもない それは/\大事にしたものサ     それから此彫物の見せ場だが 先(づ)第一お祭 これが又面白いネ 霊岸島のお祭りは 能く落語家の    いふ様に 三人つゝき(の)彫物が出たことがあつて うそじやァネェ それに其なりが面白いや 花笠    を冠つて 縮緬のふんどしを〆て 大手を振つて歩るくんだが 首ッ玉へ揃(そろい)の衣装を畳んで     結(ゆわ)へて歩くなんざァ 滑稽極るものサ それから諠譁のときァ 先づ第一片肌ぬぎて彫ものを見    せる 湯屋に行きやァ 先づ板の間へドッカとあぐらをかいて 暫く空うそぶいて背中の自慢をしたも    のサ 今の様に大きな姿見があるじやァなし 折角のほりものも 自分じやァ 一生チットも見ること    ァなし ソリャァ気の毒なものサ    それから彫物のなくつてならないものは駕籠かき これは誰でも気のつくことだが 未だ一ツ無くッチ    ャならないものがある それは鮓屋の若い衆だ 酢屋になくつてならないものは 大きなかんてらと彫    ものゝある若い衆だ これは朝酢の飯をさますとき 店頭で大きな団扇を持つて扇がせる時の用だ 国    芳の弟子で彫ものゝある奴が 金が無くなつて弱つて居ると 鮓屋へ雇はれて行け 只扇ぐ計りでいく    らかになるんだと すゝめられたいふ話がある    彫物をしない奴は無地と言つて 其仲間じやァ軽蔑したものサ 然し身体にはァ昔から毒だといつて     しまひにやァ きつとよい/\になるといつた だから国芳と私の親爺はほりものはしなかつた だが    晩年に国芳が中気になつたので 弟子中じやァ皆ンナ不審をして 師匠はほりものはほらぬし中気にな    る訳はネエ、こりやァきつとあんまり人に彫物の図をつけてやつた罰チだらう といふことに決めて了    つたのも大笑ひサ    一度国芳がほりもので失敗(しく)じつたことがある 両国の仕事師に頼まれて 頸の所に一匹の蜘を    かいて それから肩から背へかけて巣をかけた処の図だ すると其お袋が怒るまいことか 縁起でもネ    エッてんで 国芳の所へどなりこんだ 其時ァ国芳も平あやまりにあやまつたといふことサ    役者の坂東勝之助の実父で 芝口に唐草の権太といふ仕事師がゐたが これは足首まで迄唐草をすきま    なくほつたもんだ ほりものゝ会があつて 錫◎の頭に蝿を一匹ほつたのが 一等になつたといふ話が    あるが これは煙管の会に廿八文の駄きせる多用大事に持ちこんで 地金惣体に吉野紙の様に薄くなつ    たのが優等とつたといふ話と同じで 話は面白いがチット啌(うそ)らしい〟