※〔 ~ 〕は立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演年月日等のデータ
☆ 天明七年(1787)
◯『俗曲挿絵本目録』(天明七年刊)
鳥居清元画『廿尋帯有夜睦言』(常磐津)清元画 与鳳亭述 伊賀屋板 天明七年十一月〔天明07/11/01〕
〈清元の作画期が従来の説より前になる〉
☆ 寛政元年(天明九年・1789)
◯『俗曲挿絵本目録』(寛政元年刊)
鳥居清元画『八朔梅月の霜月』(長唄)清元画 左交述 村山・沢村板〔寛政01/07/03〕
☆ 文化八年(1811)
◯『式亭雑記』〔続燕石〕①71(式亭三馬記・文化八年四月一日)
〝和泉町に住る鳥居清元といふ画工は、清満門人なれども、晩年の弟子故、後に清長に随従す、存在〟
☆ 文化十年(1813)
◯『馬琴書翰集成』⑥323「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
「文化十年刊作者画工番付断片」
〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉
☆ 文化十三年(1816)?
◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎(天童)著)
鳥居清元画
『七小町容彩四季』(清元)清元画 福森喜宇助述 金井板〔文化13/09/24〕
☆ 文政元年(文化十五年・1818)
◯「絵入狂歌本年表」(『狂歌書目集成』)(文政元年刊)
◇狂歌
鳥居清元画『以代美満寿』一冊 鳥居清元外数名 焉馬編 上総屋利兵衛板
◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)
「堺町 浮世画」〝清元 鳥居 泉町 中村金治郎〟
☆ 文政三年(1820)?
◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎著)
鳥居清元画
『月雪花名残文台』(清元)清元画 桜田治助述 大海屋板〔文政03/09/09〕
『月雪花名残文台』(長唄)清元画 桜田治助述 大海屋板〔文政03/09/09〕
☆ 文政六年(1823)?
◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎著)
鳥居清元画
『道行誰夕月』(清元)清元画 大海屋板〔文政06/01/20〕
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③292(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年(1833)成立)
(「鳥居清長」の項、清長門人)
「鳥居清信系譜」〝清元 イヅミ町〟
◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」p中1381(朝岡興禎編・嘉永三年(1850)四月十七日起筆)
「鳥居清信系譜」〝清長門人 清元【和泉町ニ住ス、金と呼べり】〟
☆ 明治以降(1868~)
◯『浮世絵師便覧』p231(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝清元(モト)
雪光斎と号す、清峯門人、一説に清満門人、又清長門人、俗称三郎助、◯文化〟
〈上記『古画備考』までの清元は、鳥居清長門人で和泉町住、金(中村金治郎)と呼ばれた点で一致しているが、この
『浮世絵師便覧』以降の諸書では、清峰門人、小梅村住、俗称三甫助、号雪光斎となっている。江戸時代と明治以降
の記述に食い違いがあり、同人とは思えないのであるが、取りあえず併記しておく〉
◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(55/103コマ)
〝鳥居清元【文化元~十四年 1804-1817】
通称三郞助、雪光斎と号す、清峰の門弟、一説に清長の門弟なりとも云ふ〟
◯『浮世画人伝』p24(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)
「鳥居清信系譜」〝清元 清峯門人、俗称三甫助〟
◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年(1911)~大正2年(1913)刊)
「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊)
(絵師)鳥居清元(画題)「道中」(制作年代)享和頃(所蔵者)高嶺俊夫〟
◯『浮世絵』第十一号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)四月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「雪光斎清元に就いて」兼子伴雨(15/25コマ)
〝 金龍山浅草寺の本堂に掲ぐる、関羽雲長の扁額がある。即ち本堂の左り、魚がしの大提灯に対して右
の方にあたる中央の欄間に懸けられたものが、それである。
筆者雪光斎清元と云ふ人は、鳥居派の画家で、按ずるに清元の画号は、鳥居派の初代清信の父の画号
である、雪光斎清元はこの画号の二代目を襲名した人で、清峰の清満門下とも云ひ、また清長の門弟で
あるとも云ふ。要するに天明文化年中に渡つた画家である。通称は三甫助、或は三郞助とも云ふ。浮世
絵類考には住所を逸して居るが、同派の社中からは小梅の三(みい)さん、と呼ばれて居たと云ふ処から
断案を下せば、本所小梅村の一隅に住居した事は明瞭である。而(そう)してなほ住所を立証すべき材料
としては、向島牛の御前の額殿に、同じ鳥居風で描ける矢の根五郎の額面が、今に保存されて居るなぞ、
愈々清元とは縁故の深い土地である事が想像される。
(古来、関羽像は額を頭巾で覆う図柄とされてきたが、清元は頭巾をかぶらない束髪(つかねかみ)で画
いた。ところが図を見た一老翁がいうには「関羽は生来前髪が非常に短かつた人なので、三軍を叱咤
する場合、大いに自身の威厳を傷つけると云ふので、常に頭巾を借りて前額を蔽ふて居たと伝へられ
る。(中略) 恐らくは其の古事を知らぬ、画家の猿智恵であらう」と云つて大笑いした)
之を後で立聞いた清元は、己の浅学寡聞なるをも顧みず 奇想放逸に奔つた構図の罪を悔ひ、それよ
り鬱々として楽しまなかつたが、終に病を得て没したと云ふ、行年は詳らかならぬが、此の額に自書し
た年齢の七十二歳とあるから之を享年と見ることも出来やう〟
◯『浮世絵師伝』p44(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝清元 二代
【生】 【歿】 【画系】清長門人 【作画期】寛政~文政
鳥居を称す、俗称三甫助また(三郎助とも)、別号雪光斎、本所小梅村に住す、七十二歳或は其れ以上
にして歿すと云ふ、浅草寺本堂に関羽雲長の扁額を掲ぐ〟
△『増訂浮世絵』p228(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)
〝鳥居清元二世
清長の門人と伝へられる。鳥居家開祖の名を継いだので、即ち二世清元である。通称は金次郎、または
三郎助とも称した。雪光斎と号す。向島牛之御前祠に、矢の根五郎の絵額を奉納したので、名を知られ
て居る。それには七十一翁と記されてゐるから、かなりの長寿の人である。また中川安蔵氏蔵の掛幅に
も矢の根五郎を画いたものがある。その描法は肉筆だけに、鳥居流の特色を発揮して、太い線で、蚯蚓
描、瓢簞足の逞しい手法を以ていしたのである。これなどは、看板絵の手法をみる面白い材料である。
鳥居流では、肉筆画と版画とで、その描法を著しくかへて居たのである〟