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☆ きよみつ とりい 鳥居 清満 二代(鳥居家五代)浮世絵師名一覧
〔天明7年(1787) ~ 明治1年(1868)11月21日・82歳〕
(鳥居清峯初代参照)
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」   「江戸顔見世番付諸板一覧」『近世文芸 研究と評論』34~36号  ☆ 文化八年(1811)    ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①71(式亭三馬記・文化八年四月一日)   〝(元祖)清信の家は、今和泉町ぬいはくやなり、清信の孫鳥居清峰、これ則ぬいはく屋の男、清長門人    なり、存在〟    ☆ 文化十年(1813)    ◯『馬琴書翰集成』⑥323 文化十年(1813)「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」    〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉    ☆ 文化十二年(1815)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文化十二年刊)    六月  河原崎座 署名 鳥居清峰筆 小川半助正板    十一月 中村座  署名 清峰改鳥居清満筆 村山源兵衛正板        市村座 (記載なし)        河原崎座 署名 清峰改鳥居清満筆 丸屋甚八板 二板あり        〈この年から鳥居清峰が清満を襲名して顔見世番付の作画担当となる〉    ☆ 文化十三年(1816)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文化十三年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        桐 座  署名 鳥居清満筆 山本重五郎正板         河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八板   三板あり    ☆ 文化十四年(1817)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文化十四年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        都 座  署名 鳥居清満筆 山本重五郎正板        河原崎座 (記載なし)    ☆ 文化年間(1804~1818)    ◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化年間記事」)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸。筠庭云ふ(中    略)鳥居は清長が弟子にて、古きは清元又戯作者の振鷺亭なり。次は清忠なり〟    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文政元年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板        玉川座  署名 鳥居清満筆 山本重五郎正板 二板あり        河原崎座 (記載なし)    ☆ 文政二年(1819)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文政二年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板        玉川座  署名 鳥居清満筆 山本重五郎正板        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八正板  二板あり    ☆ 文政三年(1820)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文政三年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        玉川座  署名 鳥居清満筆 山本重五郎正板         河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八板   二板あり    ☆ 文政四年(1821)    ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)      〝三馬按、三芝居看板ヲ受継タル順当ハ       元祖  庄兵衛清信      四代  清長  清満門人也       二代  清倍  清信男也   五代  清峯  清満孫也、今清満ト改ム。清長門人也。       三代  清満  清倍男也      三代清満ノ実子ハ、浮世絵ヲ学バズシテ縫箔屋ヲ業トシ、和泉町ニ住ス。仍之清長姑ク看板絵      ヲ相続セリ。其縫箔屋ニ忰アリテ、清長門人トナリ清峯トナル。今二代目清満ト改テ三芝居番      附絵、看板ヲ画ク。是即三代清満ガ為ニハ実ノ孫ナリ〟    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文政四年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板         市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八板   三板あり    ☆ 文政五年(1822)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文政五年刊)    十一月 中村座 署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        市村座 署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        森田座 署名 鳥居清満筆 小川半助正板    ☆ 文政六年(1823)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文政六年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛板 二板あり        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八正板 三板あり    ☆ 文政七年(1824)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文政七年刊)    十一月 中村座  (記載なし)        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八 小川半助板 四板あり    ☆ 文政八年(1825)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文政八年刊)    十一月 中村座  (記載なし)        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  三板あり        河原崎座 (記載なし)    ☆ 文政九年(1826)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文政九年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 (記載なし)    ☆ 文政十年(1827)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文政十年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正銘板 五板あり        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板   二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八正銘板  二板あり    ☆ 文政十一年(1828)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文政十一年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正銘板 二板あり        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板   二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八板    三板あり    ☆ 文政十二年(1829)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文政十二年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正銘板 二板あり        市村座  署名 鳥居清長(ママ)筆 福地茂兵衛板 二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八正板   二板あり    ☆ 天保元年(文政十三年・1830)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保元年刊)     八月 河原崎座 署名 鳥居清満筆 小川半助板    二板あり    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正銘板 二板あり        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八板    二板あり    ☆ 天保二年(1831)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保二年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        市村座  絵師 署名なし  福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八正板  二板あり    ☆ 天保三年(1832)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保三年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 四板あり        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八板   二板あり    ☆ 天保初年(1830~)    ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②309(天保初年刊)   〝東都画 池田英泉・鳥居清満・立斎広重・勝川春亭・葛飾北斉(ママ)・歌川国貞・歌川国芳・歌川国直・        柳川重信・柳川梅麿・葵岡北渓・静斎英一〟    ☆ 天保四年(1833)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保四年刊)    十一月 中村座 署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        市村座 署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        森田座 署名 鳥居清満筆 小川半助正銘板 二板あり    ◯『芝居秘伝集』(三升屋二三治著・岩波文庫『舞曲扇林・戯財録』所収)   〝一 三津五郎梅の由兵衛    或る年、市村座にて、三津五郎梅の由兵衛、玉三郎長吉、二人立の釣看板を、帳元橘屋治助未だ作者よ    り注文の下絵出ぬ先に鳥居清満へ誂へ出来して、此の看板に掲げたりしが、三津五郎是を見て早速帳元    治助を呼付け、以ての外の立腹にて、「未だ名題にも乗らぬ王三郎をなぜ釣看板に出したるぞ。外の人    の思惑も恥かし。早速直して下さい」と色を変へて言ふ。治助心には、内縁ある玉三郎故定めし悦ぶな    らん、と御馳走の心で出したのを飛んだ事をしたとつぶやき乍ら看板を下し、翌日三津五郎一人立の絵    に画直したり。    名人の清長(鳥居)はよく故例を知り是を守りたる人なれば、譬へ下絵をやつた迚、恐らくは画くまじ。    親疎の隔てなき三津五郎の心は感すべき事なり〟    〈天保四年三月、市村座の「勝見憧頃由兵衛」興行。三津五郎は梅の由兵衛を勤めている。この挿話はこの時のものか。     鳥居清満には気の毒な挿話であるが、三升屋二三治にすれば、歌舞伎界の仕来りに精通した清長ならば、たとえ帳元     の頼みであろうと、画かなかったであろうというのである。この挿話は「三十四 三津五郎釣看板」にも出ている〉     〝(三津五郎は帳元の橘屋治助に次のように云って画き直しを懇願した)「己が養子の玉三郎なれば、外    聞へ聞えても済まぬ事なり。まだ名題にもならぬ玉三郎の身分を釣看板に出すとは、面目ない事なり。    なぜ一応話して出さぬ。是では、座頭があつても無きが如し。早々看板を引くとも画直すとも致すべし」    といふ。帳元面目を失ひ、看板一日出して、夕方に又下し、一人立の由兵衛にて、月明りに書置をかざ    して見て居る絵組に取りかへたり〟    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③291(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
   「鳥居清信系譜」〝五代目清峰 清長門人〟   〝五代目 清峰【後至天保今、清満と改む、清長門人也、寛政より、享和、文化、文政、今至天保住居和    泉町】三代目清満の実子は浮世画を不画して、縫箔屋を業として、和泉町に住す、仍之、姑く看板画を    相続せり、其縫箔屋の悴有、清長門人となり、画を学び、清峰と名のる。    今二代目清満と改て、三芝居番附画、看板を画く、是則三代目清満が為には、実の孫なり〟
  〝清峰は、文化の始より文政の始め迄、凡八九年の間、錦絵草双紙【合巻と云、絵表紙の三十丁物、文化    三四年比より専ら流行す】の類、浮世美人絵等多く板刻して、世に知る処也、歌川豊国の画風に傚へり、    清長歿故して、芝居の看板、番附画を継受てより、清満と改む、板下画は悉く止たり〟    〈清峰の清満襲名に関して、「至天保今、清満と改む」とある一方「清長没故して、芝居の看板、番付画を継受てより     清満と改」ともある。襲名は天保期なのか、文化十二年の清長の没後なのか。この点に関しては、関根只誠の『名人     忌辰録』(明治二十七年刊(1894))を始めとして、明治中期以降、一致して文化十二年の襲名とする。文化十二年     の顔見世番付に「清峰改鳥居清満筆」とある〉    ☆ 天保五年(1834)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保五年刊)    十一月 中村座 (記載なし)        市村座 (記載なし)        森田座 署名 鳥居清満筆 小川半助正銘板 二板あり    ☆ 天保六年(1835)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保六年刊)    十一月 中村座 署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        市村座 (記載なし)        森田座 署名 鳥居清満筆 小川半助正銘板 四板あり    ☆ 天保七年(1834)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保七年刊)    十一月 中村座 (絵組なし)   村山源兵衛正銘板        市村座 (記載なし)        森田座 絵師 署名なし    ◯「大江都名物流行競」(番付 金湧堂 天保七年以前)   (早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 番付「ちり籠」所収)   〝文雅遊客    招画 イツミ丁  鳥居清満/看板 アサクサ 小田切図南    〈招画は招牌画で看板絵〉  ☆ 天保八年(1837)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保八年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板          河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八正銘板    ☆ 天保九年(1838)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保九年刊)    十一月 中村座  (記載なし)        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八正銘板 二板あり    ☆ 天保十年(1839)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保十年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八板   二板あり    ☆ 天保十一年(1840)    ◯『狂言絵本年代順目録』(漆山又四郎著・日本書誌学大系33『近世の絵入本』所収)   ◇絵本番付(天保十一年刊)    三月 河原崎座「勧進帳」鳥居清満筆    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保十一年刊)    十一月 中村座  (記載なし)        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八正銘板 二板あり    ☆ 天保十二年(1841)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保十二年刊)    十一月 中村座  (記載なし)        市村座  (記載なし)        河原崎座 (記載なし)    ☆ 天保十三年(1842)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保十三年刊)    十一月 中村座  (記載なし)        市村座  (記載なし)        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八板    ☆ 天保十四年(1843)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(天保十四年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 三板あり        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八正銘板    ☆ 天保十五年(弘化元年(1844))    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
   「鳥居清信系譜」〝鳥居四代目清長門人〟     〝五代目 清満孫    清峰 後至天保に至て清満と改む、清長門人也。       寛政より天保に至る 住居和泉町    三代目清満の実子は浮世画を不画して、縫箔屋を業として、和泉町に住す。仍て姑く看板画を相続せり。    其縫箔屋の忰あり、清長門人となり画を学ぶ、清峰と名のる。今二代目清満と改めて、三芝居番附絵看    板を画く、是則三代目清満が為には実の孫なり    清峰は、文化の始より文政の始めまで、凡八九年の間、錦絵、草双紙(合巻ト云、絵表紙ノ三十丁物、    文化三四年頃ヨリ専流行ス)の類、浮世美人絵等多く板刻して、世に知るところなり。歌川豊国の画風    に傚、清長歿故して、芝居の看板番附画を継受てより、清満と改板下画は悉く止たり〟    ☆ 天保年間(1830~1844)   ◯『山東京伝一代記』〔続燕石〕②424(山東京山著・成立年未詳)  “此絵草紙(筆者注、文化七年刊『糸桜本朝文粋』京伝作)の画者清峰は、元禄の始より、浮世絵ならび    に四芝居の絵看板をゑがき始たる、元祖鳥居庄兵衛清信、其子二代目清信、其子三代目清満の孫にて、    清長の門人也【中略】当時五世清満是なり、此草紙、上紙摺三冊に仕立、表紙キラに而、丹絵、漆絵、    紅絵の張外題也、袋は京山の娘の下絵にて、裏に清峰画の彩色摺をものせし也、其工風尤妙なり、此時    節は、読本廃れて、合巻大流行なりし”    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(弘化元年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八板     ☆ 弘化二年(1845)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(弘化二年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  三板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八正銘板 二板あり    ☆ 弘化三年(1846)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(弘化三年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八板   二板あり    ◯「古今流行名人鏡」(雪仙堂 弘化三年秋刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (西 三段目)   〝戯作 イイダ丁 曲亭馬琴  女画 カメイド 二代目豊国  画一流 ケンヤタナ 鳥居清満    印刻 京バシ  山東京山(ほか略)〟    ☆ 弘化四年(1848)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(弘化四年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正板 二板あり        市村座  (記載なし)        河原崎座 署名 鳥居清満筆 丸屋甚八正銘板 三板あり    ☆ 弘化四年~嘉永元年(1847~48)    ◯『実見画録』(長谷川渓石画・文 明治四十五年序 底本『江戸東京実見画録』岩波文庫本 2014年刊)   〝玄冶店歌川国芳の住居、間口は凡二間半、奥行は四、五間なりし。    鳥居清満の処は此側にて、是より四、五軒離れ、格子作りにて、室内は身えざりし。此道路巾 凡二間    位〟〈幕末から明治初年にかけての見聞記〉  ◯『旧聞日本橋』p363(長谷川時雨著・昭和四~七年(1929~1852)刊)   (著者・長谷川時雨の父・長谷川深造(天保十三年(1842)生)、六七歳(弘化四年~嘉永元年)の少年時    代を回想して)   〝(玄冶店の歌川国芳の家の記事に続いて)国芳の家の二、三軒さきに、鳥居清満が住んでいた〟    〈玄冶店は現在の日本橋堀留町辺りをいう地名〉    ☆ 嘉永元年(弘化五年)(1848)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(嘉永元年刊)    十一月 中村座  絵師 署名なし   村山源兵衛正板 二板あり        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 山崎屋権三郎板 二板あり    ☆ 嘉永二年(1849)  ◯「【俳優画師】高名競」嘉永二年刊(『浮世絵』第十八号  大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(21/25コマ)   (番付西方)最上段    〝兼ル 一勇斎国芳 景色 一立斎広重 櫓下 鳥居清満  画本 柳川重信 合巻 玉蘭斎貞秀〟    〈この清満は二代目。櫓下とは絵看板をいう〉    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(嘉永二年刊)    十一月 中村座  (記載なし)        市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 (記載なし)    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯「【高名時花】三幅対」(番付・嘉永三年五月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   (上から三段目、東筆頭から二番目)   〝招画 ムロ丁 鳥井(ママ)清満 ・画工 ネギシ 柳川重信 ・山水 アカサカ 葵岡北渓    〈招画は招牌画で絵看板、芝居看板の鳥居清満は日本橋室町住。根岸の柳川重信は二世重信。赤坂住魚屋北渓の「山     水」とは漢画の山水ではなく、現在の風景画に近いニュアンスなのだろう〉    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(嘉永三年刊)    十一月 中村座  絵師 署名なし   村山源兵衛正板           市村座  署名 鳥居清満筆 福地茂兵衛板  二板あり        河原崎座 署名 鳥居清満筆 山崎屋権三郎板 二板あり    ☆ 嘉永四年(1851)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(嘉永四年刊)    十一月 中村座  絵師 署名なし   村山源兵衛正板 二板あり        市村座  (記載なし)        河原崎座 署名 鳥居清満筆 小川半助正銘板 二板あり    ☆ 嘉永五年(1852)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(嘉永五年刊)    鳥居清満画『翫雀追善はなしとり』二冊 豊国 素真 清満 一勇斎国芳 隣春等画 琴通舎蔵板    ◯『翫雀追善はなしとり』(平野雅海編・嘉永五年(1852)二月刊「霞亭文庫」)   〝(四代目中村歌右衛門追善 似顔絵)署名「清満筆」     春雨や膠かわかぬそでの紋 鳥居清満〟    〈嘉永五年二月十七日没、初代中村翫雀(四代目中村歌右衛門)追善狂歌集〉    ☆ 嘉永六年(1853)    ◯『筆禍史』「当代全盛高名附」〔嘉永六年(1853)〕p160(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝吉原細見に擬して、当時名高き江戸市内の儒者和学者俳諧師狂歌師等をはじめ諸芸人に至るまで数百人    名を列配し、其名の上に娼妓の如き位印を附けたる一小冊なり、末尾に「嘉永六年癸丑之義、玉屋面四    郎蔵板」とあり    これは吉原の細見に擬して、嘉永六年に出版した『当代全盛高名附』の一葉を原版のまゝ模刻したので    ある、曲亭馬琴、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦、初代歌川豊国、葛飾北斎、渓斎英泉等の如き大家没    後の文壇が、如何に寂寞たりしかを知るに足るであろう。    因みにいふ、右『当代全盛高名附』の作者及び版元は、吉原細見の版元より故障を申込まれ「細見株を    持てる我々に無断で、細見まがひの書冊を出版するとは、不埒至極である」との厳談を受け、結局あや    まり証文を入れて、書冊は絶版とする事で、漸く示談が附いたとの伝説がある、今日は他人の出版物に    擬した滑稽的の著作は勿論、其正真物に似せたイカサマ物を出版しても、咎められない事になつて居る    が、旧幕時代には右の伝説の如き事実があつたらしい(此花)        【吾妻】錦   浮世屋画工部    (上段)     豊国 にかほ   国芳 むしや  広重 めいしよ  清満 かんばん  春亭 花てふ     貞秀 かふくわん 国輝 むしや  芳虎    (中段)      国貞 やくしや  国盛 をんな  国綱 芳宗 芳艶 清亢 芳藤 芳玉 直政    (下段)      国麿 清重 芳員 芳雪 広近 春徳 春草 房種 芳豊      かむろ       やく者 にがを むしや めい処 けしき をんな 草そうし うちわゑ かわりゑ       すごろく かんばん     やりて        ◎◎〟    〈「日本古典籍総合目録」はこの『当代全盛高名附』の統一書名を『江戸細撰記』としている。この豊国は三代目。     「武者」の国芳、「名所」の広重、ここまではよく引用されるところ。「看板」の清満は初名清峯を名乗った二代     目〉
   「当代全盛高名附」「浮世屋画工郎」〈早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」〉    ☆ 安政四年(1857)    ◯「【諸芸】大都会無双(おほえどにふたつないもの)」(番付・安政四~五年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝似顔 こヽんむるいで二つない   一陽斎豊国〟〈古今無類、肖像画の第一人者〉   〝傭書 きやうなふでさき二つない  宮城玄魚〟 〈器用な筆先、筆耕の第一人者〉   〝武者 ぐわさいのいきぐみ二つない 一勇斎国芳〟〈勢いのある絵を画く能力の第一人者〉   〝古風 しばゐのかんばん二つない  鳥居清満〟 〈芝居看板は鳥居家の務め〉    ☆ 安政六年(1859)      ◯「【十目視所/十指々所】花王競十種咲分」(番付・安政五~六年春刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝当世十大家    画聖      松本交山   〈谷文晁に師事、酒井抱一に学ぶ、江戸琳派〉    博俳      真実庵抱義  〈守村抱義、浅草蔵前の札差、俳人〉    文晁      小野永海   〈谷文晁門人なら佐竹永海か〉    倭絵 奈良七重 一陽斎豊国  〈倭絵の肩書を与えられた浮世絵師は他に国貞のみ〉    俳優 七堂伽藍 寿海老人   〈七世市川団十郎、安政6年3月没、享年69歳〉    声曲 八重桜  常磐津豊後大掾〈四世常磐津文字太夫〉     一流      鳥居清満   〈芝居看板絵〉    三弦      岸沢古式部  〈常磐津三味線、五世岸沢式佐、上掲豊後大掾の相方、万延元年豊後と不破になり解消する〉    俳僊      孤山堂卓郎  〈国芳門人・歌川芳満。呉服の上絵師。俳諧も能くした〉    俳学      為誰庵由誓〝 〈俳人豊島由誓〉    〈芭蕉の句を引いて、奈良の堂々たる大寺を当世の大家に見立てた。三代目豊国と芝居看板の鳥居清満、当時の浮世     絵師の中では別格扱いなのである。また歌川芳満は浮世絵師としての評価より、俳人・孤山堂卓郎としての評価の     方が高いようだ〉     〈この番付には安政六年三月逝去の、寿海老人(七世市川団十郎)の名が見える。また、常磐津三味線の五世岸沢式佐    が実子に六世を襲名させ、代わりに五世古式部を名乗ったのがこの安政六年である。すると、この番付は安政六年春    の出版とみてよいのだろう。番付から、昨年コレラで亡くなった一立斎広重の名が消えて、浮世絵界の大物は、世襲    のような鳥居清満を除くと、三代豊国(国貞)と一勇斎国芳を残すのみとなった。本HP「浮世絵事典」【う】「浮世    絵師番付」の項参照のこと〉     ☆ 文久元年(万延二年・1861)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(万延二年刊)     一月 中村座  絵師 署名なし   村山源兵衛正板 二板あり        市村座  (記載なし)        守田座  署名 鳥居清満筆 小川半助正銘板 三板あり    ◯「大江戸当盛鼻競 初編」(番付 金湧堂 文久元年初秋刊)(番付集成 下)   「雷鳴遊客」   〝似顔 かけがひのない 香蝶楼豊国    看板  お人じやぞへ 鳥居清満〟    〈役者似顔絵の三代目豊国(初代国貞)と芝居看板絵の鳥居清満、ともに斯界の第一人者で余人に代え難いという評である〉  ☆ 文久三年(1863)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」   ◇顔見世番付(文久三年刊)    十一月 中村座  署名 鳥居清満筆 村山源兵衛正銘板 二板あり        市村座  (記載なし)        河原崎座 (記載なし)    ☆ 元治元年(文久四年・1864)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕   ◇絵本(文久四年刊)    鳥居清満画『水魚連狂歌双六』一冊 歌川国芳・鳥居清満画 桃の本鶴廬著    ☆ 慶応元年(元治二年・1865)     ◯「絵本年表」   ◇俳諧絵本(慶応元年刊)    鳥居清満画    『花吹雪』二冊 一恵斎芳幾画・藍泉画・是真・一葉斎幾年女画・山東庵京水筆・梅恵斎幾丸            鳥居清満筆・梅素・鈍阿弥魯文・芳春・ちかはるゑかく等画            一葉舎主人編〔漆山年表〕  ◯『歳成記』(風鈴山人著 玉家如山蔵板 乙丑仲秋(慶応元年八月)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)◎は難読文字( )は本HPの注記   〈当時人気のあった浮世絵師や戯作者などを吉原細見に擬えて格付けしたもの〉   〝浮世屋絵四郎 〈浮世絵師〉    (一段目)清満 げんや店  貞秀 おふなぐら 芳虎 京ばし   芳艶 ほん丁         国貞 ほんじよ  広重 中はし   芳幾 すは丁   国周 ひもの丁    (二段目)芳藤 下や    芳年 中はし   国輝 おふなぐら 房種(不明)         芳豊 新大さか丁 芳春 あさくさ  芳盛 下や    国久 やなぎ原         国孝 やなぎ原    (三段目)国時 芳富 重次 重清 芳延 芳滝 艶豊 艶政 幾丸 幾年     やくしや/にがほ/むしや/めい/しよ/けしき/女ゑ/合くはん     かはりゑ/ゑでほん/かき入/きはもの/かんばん/あふぎ     (役者 似顔 武者 名所 景色 女絵 合巻 変わり絵 絵手本 かき入? 際物 看板 扇)     やりて せり(遣手 ?)〟     〈清満は筆頭の格付。なお慶応四年(明治元年・1886)にも『歳成記』が出版されたが、清満の名は消えている〉    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)(十一月二十一日没・八十二歳)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「鳥居氏系譜」の項 ⑪192
   「鳥居清信系譜」〝(鳥居清長門人)五代目 清峰〟
  ◇「鳥居派」の項 )⑪193   〝三代目清満ノ実子ハ、画ヲ不学シテ縫箔ヲ業トシ、和泉町ニ住ス。仍之清長姑ク看板画相続セリ。其縫    箔屋ノ倅アリテ清長門人トナリ清峯ト名乗、是五代目清満ト改メテ、三芝居看板番付ヲ画ク。是三代目    清満ノ為ニハ実孫也〟
  ◇「鳥居清峰」の項 ⑪232   〝俗称庄之助といふ。文化の始より凡八九年間、歌川豊国の画風に俲、浮世美人絵草双紙の類等多く板刻    す。清長門人也。後天保に至て清満と改む。住居住吉町新和泉橋〟  ◯『歳成記』風雷山人著 玉家如山蔵板 戊辰仲冬(明治元年十一月)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)※◎は難読文字   〈上掲慶応元年の『歳成記』には清満の名は筆頭にあったが、この年の『歳成記』にはない。この年、清満は亡くな    っているので、それが反映しているのであろう。清満の死は11月21日とされる。一方『歳成記』の序や巻末には「仲冬」    あるいは「仲冬正」とあって、「正」の意味が今ひとつ分かりかねるが、これまた11月の出版である。版木を修正した    跡もなさそうなので、半信半疑ながら、実に迅速な対応というべきほかない。2018/07/30記〉  ☆ 年次未詳  ◯『浮世絵』第八号 所収(酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)一月刊)   ◇「歌川豊春と彼一代の傑作 龍口御難図額 上」相見香雨楼   〝押上春慶寺の普賢堂の扁額     鳥居清満筆 五代目坂東彦三郞 大星由良之助図〟    〈清満が二代目か三代目か未詳〉    ☆ 没後資料    ◯『かくやいかにの記』〔百花苑〕⑥407(長谷川元寛著・明治二年正月跋)   〝文化頃の京伝が絵草紙に清岑画とあるは、当時の鳥居清満が事なり〟    ◯『古代浮世絵買入必携』p5(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝【二代】鳥居清満    本名〔空欄〕   号〔空欄〕   師匠の名 清長    年代 凡六七十年前    女絵髪の結ひ方 第十図・十一図・第十二図 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、小判、細絵等    備考   始め清峰と称し、後に清満と改む。鳥居家の五代目なり〟    ◯『名人忌辰録』上巻p13(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝鳥居清満 五世    三代目世満の孫、然れども清長に学び、始め清峯と云ふ。文化十二年、五代目清満と改む。明治元辰年    十一月廿一日没す、歳八十二。浅草寺町(今南松山町と改)法成寺に葬る〟    ◯『浮世画人伝』p27(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   〝 鳥居清峯(ルビとりゐきよみね)    清峯は、幼名庄之助と云へり。三世清満が孫なりき。清満の子、亀次といふもの、家業を改め、刺繍の    技を職とせしが、其子は即ち清峯にて、夙くより清長の門に入り、遂に鳥居五世を相続しぬ。清長歿後    に、祖父清満の号を嗣ぎ、唯(タダ)家宝の画に妙なるのみならず、文化文政の頃は、歌川豊春の筆意に    ならひて、錦絵草紙の類を描くに、嬋娟艶美の風をなせり。此の人、明治元年までながらへて、同年十    一月の廿一日に身まかりにき。年八十二。浅草松山町法成寺に葬りて、栄昌院清真日満と謚せり、是れ    より以来、演劇の看板、および番附の類ひの絵は、むげに拙くなりにけり〟
   「鳥居清信系譜」    ◯「集古会」第五十七回 明治三十九年(1906)三月(『集古会誌』丙午巻之三 明治39年5月)   〝林若樹(出品者)     五代目鳥居清満筆 暫の下絵    一枚 〈鳥居家5代目、2代目清満〉     六代目清満筆   曽我対面絵看板 大一枚〈鳥居家6代目、3代目清満〉  ◯『読売新聞』(大正4年(1915)7月6日)   〝五月雨日記(四)長谷川時雨    (玄冶店の)国芳の家の二三軒さきに鳥居清光が住んでゐた〟  ◯『浮世絵』第弐拾(20)号「浮世絵漫録(三)」(大正六年(1917)刊)   「小林文七氏の浮世絵」桑原羊次郎著〈小林文七所蔵の肉筆落款〉   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝清満八十歳筆とせし者あり〟〈八十歳は慶応二年(1866)に当たる〉   〝鳥居亀次郎十二歳筆と落款せる者あり〟    〈亀次の通称は知られるが亀次郎は他に例を見ない。これが二代清満だとすると、天明八年生まれだから、十二歳時は     寛政十一年(1799)にあたる〉  ◯『狂歌人名辞書』p59(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝鳥居清満(五代)、通称亀次、青龍軒と号す、初号清峰、初代清満の孫、晩年耳聾せしも八十二の高齢    を以て、明治元年十一月十一日歿す〟  ◯『浮世絵師伝』p43(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清満 二代    【生】天明八年       【歿】明治元年十一月廿一日-八十一    【画系】清長門人      【作画期】文化四~弘化    鳥居氏、幼名庄之助、後ち亀次と改む、初代清満の孫なり、年甫めて八歳(寛政七年)にして清長の門    に入り、将来鳥居家の相続着たるべきを以て、特に懇篤なる指導を受く(清長の項参照)、初め清峰と    号し、文化十二年清長の歿後、二代清満を襲名し、別号を青龍軒、また言唇窩とも云へり、即ち鳥居家    第五代目なり。文化三年以降屡々草双紙に挿画し、又美人画の錦絵(口絵第五十四図参照)を描き、往    々優秀の作品を発表せしが、改名以後は草双紙を画かず、錦絵も多く作らず、専ら世業の芝居看板絵及    び番附に筆を執りたり。新和泉町(俗に玄治店と云ふ)に居住し、晩年には耳聾して悩みし由なるが、    よく八十一歳の天寿を全うしたりき、法名を栄昌院清真日満信士といひ、菩提所法成寺に葬る。彼に二    男二女あり、長男亀治三代清満を襲名し、鳥居家六代目を継ぐ、次男和三郎は清国と号せしが二十歳に    して夭折せり〟    ◯「集古会」第百九十八回 昭和九年十一月(『集古』乙亥第一号 昭和10年1月刊)    浅田澱橋(出品者)清満画 錦絵 市川流十八番摺物 一枚〟  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文化一二年 乙亥」(1815)p187   〝此年十一月、鳥居清峰(俗名庄之助清満の子)五代目清満と改む。(これ清長歿し、おのれ自らも成長    して鳥居の後を継ぐに然るべき年配に達したればなり)〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「豊島区」法成寺墓地(駒込六ノ七五六)寺は浅草松山町(顕本法華宗)   〝鳥居清満(画家)五代、明治元年十一月二十一日歿。年八十一。栄昌院清真日満〟    〈『原色 浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」は享年を八十二歳とする〉