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☆ きよみね とりい 鳥居 清峰 初代(鳥居家五代)浮世絵師名一覧
〔天明7年(1787) ~ 明治1年(1868)11月21日・82歳〕
(鳥居清満二代参照)
 ※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録」「国書データベース」国文学研究資料館   ②〔早稲田〕:『早稲田大学所蔵合巻集覧稿』   ⑤〔東大〕 :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』  ☆ 文化三年(1806)    ◯「国書データベース」(文化三年刊)   ◇合巻    鳥居清峰画『朧月猫の嫁入』「清峯画」南杣笑楚満人 西村屋板 ①    ☆ 文化五年(1808)    ◯「合巻年表」(文化五年刊)    鳥居清峰画    『俗言種野干拳』  鳥居清峯画 十返舎一九作 西村屋板 ①    『復仇忠孝二筋道』「清峯画」  十返舎一九作 西村屋板 ⑤     ☆ 文化六年(1809)    ◯「合巻年表」(文化六年刊)    鳥居清峰画    『聞道初音之復讎』「鳥居清峯画」山東京山作 西村屋板  ⑤    『五人女都紅粉筆』「鳥居清峰画」山東京山作 丸屋甚八板 ①    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(文化六年刊)    鳥居清峯画『田舎芝居楽屋雑談』二冊 鳥居清峯画 七文舎鬼笑作    ☆ 文化七年(1810)    ◯「合巻年表」(文化七年刊)    鳥居清峰画    『昔織博多小女郎』 鳥居清峯画 山東京伝作 丸甚板 ①    『化粧坂懐忠亀鑑』「清峯画図」 山東京山作 丸甚板 ①    『糸桜本朝文粋』  鳥居清峯画 山東京伝作 西与板 ①    ◯『糸桜本朝文粋』鳥居清峯画 山東京伝作 西村与八板(『山東京伝全集』第八巻 合巻3 ぺりかん社)   (前編見返し)   〝元祖清信五世 鳥居清峯画図〔清峯〕印〟   (二之巻 口上)   〝此絵草紙の画者清峯は 元禄の始より浮世絵並びに四芝居の絵看板をゑがき始たる 元祖鳥居庄兵衛清    信 其子二代目清倍 其子三代目清満の孫にて清長の門人なり 未だ若年にて画道未熟に候へば 御目    まだるきがちにござあるべく候へども 名家のすゑに候へば 先祖清信師匠清長の余光により 画をも    つてゆく/\鳥居の名跡を相続仕候様 御贔屓御取立のほど ひとへに/\奉希上候 此絵草紙は初舞    台同然にて うゐ/\しくござ候へば 此㕝(こと)を清峯にかはりてねがひ上候〟    ☆ 文化八年(1811)    ◯「合巻年表」(文化八年刊)    鳥居清峰画    『昔織博多小女郎』「鳥居清峯画」山東京伝作 丸甚板 ②    『劇春大江山入』 「鳥居清峯画」山東京山作 森治板 ②    『比翼紋娘女権八』「鳥居清峯画」山東京伝作 丸甚板 ①    『本調子直糸筋』  鳥居清峯画 山東京伝作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①71(式亭三馬記・文化八年四月一日)   〝〈元祖〉清信の家は、今和泉町ぬいはくやなり、清信の孫鳥居清峰、これ則ぬいはく屋の男、清長門人    なり、存在〟    ☆ 文化九年(1812)    ◯「合巻年表」(文化九年刊)    鳥居清峰画    『鸚鵡反言辞鄙取』「鳥居清峯画」柳亭種彦作 西与板 ①    『籠釣瓶丹前八橋』 鳥居清峯画 山東京伝作 丸甚板 ①〈板元は文化九年新刊目録による〉    『女鳴神名歌短冊』「清峯画」  山東京山作 丸甚板 ①    ☆ 文化十年(1813)    ◯『馬琴書翰集成』⑥323「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(2月)のこと〉    ☆ 文化十一年(1814)     ◯「合巻年表」(文化十一年刊)    鳥居清峯画『皿やしき浮名の染著』表紙「鳥居清峯画」曲亭馬琴作 鶴喜板     〈補注、本作の稿本が残っており、それによると全巻の稿了は文化九年八月五日、序には「文化十年癸酉正月発兌」      とある由。従って、刊年は文化十一年であるが、鳥居清峯の作画は文化九年とする。翌文化十年になると、清峯画      草双紙の刊本がないので、草双紙の画工としては文化九年が最後になるという。なお本書の上方版後印本に「春貞      画」の摺付表紙がある由。刊年は不記載〉    ☆ 文化十二年(1815)清峰改清満    ◯「芝居番付画像データベース」(東京大学文学部所蔵資料デジタル画像・歌舞伎関係資料)   ◇辻番付(文化十二年刊)    鳥居清長画 四月 河原崎座「(翁舞の図)」署名「鳥居清長筆」小川半助板    鳥居清峯画 六月 河原崎座「慙紅葉汗顔見勢」署名「絵師鳥居清峯筆」小川半助板    〈鳥居清長の芝居番付、四月の辻番付が最後の作品。清長はこの五月二十一日逝去。六月から辻番付は清峯に交代〉    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」(『近世文芸 研究と評論』34-36号)   ◇顔見世番付(文化十二年刊)     六月 河原崎座 署名 鳥居清峰筆 小川半助正板    十一月 中村座  署名 清峰改鳥居清満筆 村山源兵衛正板        市村座 (記載なし)        河原崎座 署名 清峰改鳥居清満筆 丸屋甚八板 二板あり        〈この年から鳥居清峰が清満を襲名して顔見世番付の作画担当となる。改名は六月から十月の間か〉    ◯『名人忌辰録』上巻p13(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝鳥居清満 五世    三代目世満の孫、然れども清長に学び、始め清峯と云ふ。文化十二年、五代目清満と改む。明治元辰年    十一月廿一日没す、歳八十二。浅草寺町(今南松山町と改)法成寺に葬る〟    ☆ 文化年間(1804~1818)    ◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化年間記事」)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸。筠庭云ふ(中    略)鳥居は清長が弟子にて、古きは清元又戯作者の振鷺亭なり。次は清忠なり〟    ☆ 文政四年(1821)    ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)   〝三馬按、三芝居看板ヲ受継タル順当ハ     元祖 庄兵衛清信     二代 清倍 清信男也  三代 清満 清倍男也      四代 清長 清満門人也  五代 清峯 清満孫也、今清満ト改ム。清長門人也。    三代清満ノ実子ハ、浮世絵ヲ学バズシテ縫箔屋ヲ業トシ、和泉町ニ住ス。仍之清長姑ク看板絵ヲ相続セ    リ。其縫箔屋ニ忰アリテ、清長門人トナリ清峯トナル。今二代目清満ト改テ三芝居番附絵、看板ヲ画ク。    是即三代清満ガ為ニハ実ノ孫ナリ〟    ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③291(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
   「鳥居清信系譜」〝清峰 清長門人〟   〝五代目 清峰【後至天保今、清満と改む、清長門人也、寛政より、享和、文化、文政、今至天保住居和    泉町】三代目清満の実子は浮世画を不画して、縫箔屋を業として、和泉町に住す、仍之、姑く看板画を    相続せり、其縫箔屋の悴有、清長門人となり、画を学び、清峰と名のる。    今二代目清満と改て、三芝居番附画、看板を画く、是則三代目清満が為には、実の孫なり〟
  〝清峰は、文化の始より文政の始め迄、凡八九年の間、錦絵草双紙【合巻と云、絵表紙の三十丁物、文化    三四年比より専ら流行す】の類、浮世美人絵等多く板刻して、世に知る処也、歌川豊国の画風に傚へり、    清長歿故して、芝居の看板、番附画を継受てより、清満と改む、板下画は悉く止たり〟    〈清峰の清満襲名に関して、「至天保今、清満と改む」とある一方「清長没故して、芝居の看板、番付画を継受てより     清満と改」ともある。襲名は天保期なのか、文化十二年の清長の没後なのか。この点に関しては、関根只誠の『名人     忌辰録』(明治二十七年刊(1894))を始めとして、明治中期以降、一致して文化十二年の襲名とする〉    ☆ 天保十五年(弘化元年(1844))    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
   「鳥居清信系譜」〝清峰 鳥居四代目清長門人〟     〝五代目 清満孫    清峰 後至天保に至て清満と改む、清長門人也。       寛政より天保に至る 住居和泉町    三代目清満の実子は浮世画を不画して、縫箔屋を業として、和泉町に住す。仍て姑く看板画を相続せり。    其縫箔屋の忰あり、清長門人となり画を学ぶ、清峰と名のる。今二代目清満と改めて、三芝居番附絵看    板を画く、是則三代目清満が為には実の孫なり    清峰は、文化の始より文政の始めまで、凡八九年の間、錦絵、草双紙(合巻ト云、絵表紙ノ三十丁物、    文化三四年頃ヨリ専流行ス)の類、浮世美人絵等多く板刻して、世に知るところなり。歌川豊国の画風    に傚、清長歿故して、芝居の看板番附画を継受てより、清満と改板下画は悉く止たり〟    ☆ 天保年間   ◯『山東京伝一代記』〔続燕石〕②424(山東京山著・成立年未詳)  “此絵草紙(筆者注、文化七年刊『糸桜本朝文粋』京伝作)の画者清峰は、元禄の始より、浮世絵ならび    に四芝居の絵看板をゑがき始たる、元祖鳥居庄兵衛清信、其子二代目清信、其子三代目清満の孫にて、    清長の門人也【中略】当時五世清満是なり、此草紙、上紙摺三冊に仕立、表紙キラに而、丹絵、漆絵、    紅絵の張外題也、袋は京山の娘の下絵にて、裏に清峰画の彩色摺をものせし也、其工風尤妙なり、此時    節は、読本廃れて、合巻大流行なりし”    ☆ 嘉永三年(1850~)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」p中1412(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝鳥居清峯 文化中〟    ☆ 慶応四年(明治元年(1868))    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪192(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「鳥居清信系譜」〝(鳥居清長門人)五代目 清峰〟     ◇「鳥居派」の項 )⑪193   〝三代目清満ノ実子ハ、画ヲ不学シテ縫箔ヲ業トシ、和泉町ニ住ス。仍之清長姑ク看板画相続セリ。其縫    箔屋ノ倅アリテ清長門人トナリ清峯ト名乗、是五代目清満ト改メテ、三芝居看板番付ヲ画ク。是三代目    清満ノ為ニハ実孫也〟
  ◇「鳥居清峰」の項 ⑪232   〝俗称庄之助といふ。文化の始より凡八九年間、歌川豊国の画風に俲、浮世美人絵草双紙の類等多く板刻    す。清長門人也。後天保に至て清満と改む。住居住吉町新和泉橋〟    ☆ 没後資料    ◯『かくやいかにの記』〔百花苑〕⑥407(長谷川元寛著・明治二年正月跋)   〝文化頃の京伝が絵草紙に清岑(ママ)画とあるは、当時の鳥居清満が事なり〟  ◯『扶桑画人伝』巻之四 古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝清峯    鳥居氏、清満ノ孫ナリ、名ハ清峯、後チ清満ト改ム。江戸和泉町ニ住ス。実ハ清満ノ女婿縫箔師何某ノ    男ニテ清長ノ門人ナリ。江戸三歌舞妓ノ絵看板及ビ番付・絵草紙等ヲ画ケリ〟    ◯『日本美術画家人名詳伝』上p99(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝鳥居清峰    鳥居派八世ノ【一ニ五世ニ作ル】画家ナリ、清満ノ孫、後名ヲ二世清満ト改タム、江戸和泉町ニ住ス、    実ハ清満ノ女婿縫箔師某ノ男、関清長ノ門ニ入リテ鳥居派ノ画ヲ学ビ、江戸三哥舞妓ノ絵看板及ビ番附    画草紙等ヲ画ケリ、文化文政中ノ人(燕石十種)〟    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝文化 鳥居清峯 清満の孫也、清長に学び、後二代を継で清満と改め、自ら鳥居五代目と称す〟    ◯『古代浮世絵買入必携』p3(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝鳥居清峰    本名〔空欄〕  号〔空欄〕  師匠の名〔空欄〕  年代〔空欄〕    女絵髪の結ひ方〔空欄〕  絵の種類〔空欄〕    備考 二代鳥居清満の初の名なり〟    ◯『浮世絵師便覧』p231(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝清峯(ミネ) 鳥居五代、後に二世清満と改む、清満の孫なり、錦画、草双紙多し、俗称庄之助、◯文化〟    ◯『名人忌辰録』上巻p13(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝鳥居清満 五世    三代目世満の孫、然れども清長に学び、始め清峯と云ふ。文化十二年、五代目清満と改む。明治元辰年    十一月廿一日没す、歳八十二。浅草寺町(今南松山町と改)法成寺に葬る〟    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(55/103コマ)   〝鳥居清峰【文化元~十四年 1804-1817】    通称庄之助、鳥居流三代目清満の孫にて、同四代目清長の門弟となり、豊国の画風に傚ひて美人絵、草    双紙を画けり、後に鳥居流五代目を相続せしが、天保の頃、更に名を清満と改む、住居(ママ)町、また新    和泉町に住めり、明治元年戊辰十一月廿一日没す、享年八十二〟  ◯『新撰日本書画人名辞書』下(画家門 青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年(1899)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)42/218コマ   〝鳥居清峰    清満の孫なり 後名を二世清満と改む 江戸の人なり 和泉町に住す 実は清満の女婿某の子なり 鳥    居派第五世と称す 画を関清長に学びて之を能くし 劇場の看板 江戸絵を画けり(燕石十種 扶桑画    人伝)〟  ◯『浮世画人伝』p27(関根黙庵著・明治三十二年(1899)五月刊)   〝鳥居清峯(ルビとりゐきよみね)    清峯は、幼名庄之助と云へり。三世清満が孫なりき。清満の子、亀次といふもの、家業を改め、刺繍の    技を職とせしが、其子は即ち清峯にて、夙くより清長の門に入り、遂に鳥居五世を相続しぬ。清長歿後    に、祖父清満の号を嗣ぎ、唯(タダ)家宝の画に妙なるのみならず、文化文政の頃は、歌川豊春の筆意に    ならひて、錦絵草紙の類を描くに、嬋娟艶美の風をなせり。此の人、明治元年までながらへて、同年十    一月の廿一日に身まかりにき。年八十二。浅草松山町法成寺に葬りて、栄昌院清真日満と謚せり、是れ    より以来、演劇の看板、および番附の類ひの絵は、むげに拙くなりにけり〟
   「鳥居清信系譜」  ◯『浮世絵の諸派』上下(原栄 弘学館書店 大正五年(1916)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇鳥居清峰 下(90/110コマ)   〝文化十二年、師清長の没後は二代清満と改め、青龍軒と号し、版画に筆らず、専ら芝居の看板及び番付    などをかいて居つた。画風は雑司ヶ谷鬼子母神祠の板面着色の大小舞図を見ても解るが、清信清倍の強    い筆意に倣つたもので、この清峰に至つて、鳥居派の画風が復古したというてよからう。この外堀之内    学堂に日蓮上人図、柴又帝釈天祠に助六の図、西新井大師堂に由良之助図、押上春慶寺に同図、深川八    幡社に朝比奈時政図等があるとのことである〟    ◯『浮世絵』第弐拾(20)号「浮世絵漫録(三)」(大正六年(1917)刊)   「小林文七氏の浮世絵」桑原羊次郎著(国立国会図書館デジタルコレクション)   〝鳥居清直 鳥居清峰 其肉筆は珍らし〟    〈小林文七所蔵の肉筆落款。下掲『罹災美術品目録』「小町図」の落款か〉  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年(1923)九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部編 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵 鳥居清峯「小町図」〈小林文七嗣子〉  ◯『浮世絵師伝』p44(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清峰 二代清満の前名〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文化一二年 乙亥」(1815)p187   〝此年十一月、鳥居清峰(俗名庄之助清満の子)五代目清満と改む。(これ清長歿し、おのれ自らも成長    して鳥居の後を継ぐに然るべき年配に達したればなり)〟    △『増訂浮世絵』p153(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝鳥居清峰    幼名は庄之助、清満の孫である。寛政七年の秋八歳から、清長の薫陶をうけた。従つて画技も上達した    ので、清峰と署名あるものには、中々見るべき作がある。文化十二年に清長が死ぬと、十一月の顔見世    から、二世清満と名乗り、青龍軒と号した。これからは版下画をかくことは稀で、専ら芝居の看板及び    番附絵のみをかき、手法も清信清倍などに倣つて、豪健の風をあらはさんとした。然し絵は漸々堕落し    て、晩年には丹青界に筆を絶つた。明治元年十一月廿一日八十二歳の高齢で没した。法名を栄昌院清貞    日満信士といふ。浅草法成寺に葬る。長子栄蔵相続し、三世清満を称した。子に清芳、清国がある。清    芳業を嗣ぐ。門人には清行、清安、清雅、清忠(三世)清貞、清種等がある。    その遺作としては、堀之内額堂の日蓮上人図、柴又帝釈天祠の助六図、西新井大師堂の由良之助図、押    上春慶寺の由良之助図、深川八幡社の朝比奈時致図、雑司谷鬼子母神祠の大小舞図などがある。なほ掛    物の大幅で、狂言の新発意を書いたものがあるが、これには六十九歳の筆とあるが、立派は出来である。    これをみるもの、かの清峰が、清長の薫陶によつえ、これ程までに上達したのかと思ふ程に、筆力に優    れて居るのである。版画をやめて、看板絵に専心力を尽したので、肉筆画に筆がのびたものとみえる。    清峰時代には、錦絵や黄表紙の挿絵を画いた。黄表紙も文化四年頃から十一年頃まで、画いてゐるが、    清長が没し、清満を名乗ると、黄表紙も錦絵もかゝない。従つて肉筆画に上達したのであらう〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔鳥居清峰画版本〕    作品数:16点    画号他:鳥居清峰・鳥居清峯    分 類:合巻15・滑稽本1    成立年:文化3・5~9・11年(16点)