癖はキス。.... 佐久間學

(05/6/1-05/6/16)

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6月16日

BARTOK
Concerto for Orchestra etc.
H.Kärkkäinen, P.Jumppanen(Pf)
L.Erkkilä, T.Ferchen(Perc)
Sakari Oramo/
Finnish Radio Symphony Orchestra
WARNER/2564 61947-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11883(国内盤)

「これがオラモ!?」と一瞬目を疑ってしまったのが、このジャケットのポートレートです。1998年にサイモン・ラトルの後継者としてバーミンガム市交響楽団の首席指揮者、さらに翌年には音楽監督に就任した時には、誰もその名前を知るものはいなかったというオラモですが、その頃ERATOからリリースされたアルバムからうかがい知れる風貌は、「オタクっぽいとっちゃん坊や」というものでした。眼鏡をかけたちょっと小太りのサエない男が、あの、飛ぶ鳥を落とす勢いでベルリン・フィルのシェフという玉の輿に乗った指揮者の後任とは、と、誰しもが思ったことでしょう。しかし、オラモのその後の活躍ぶりはご存じの通り、ERATOレーベルが消滅してしまった後でも、しっかりWARNERのメイン・アーティストとして安定した地位を獲得しています。さらに、2003年には、以前から准首席指揮者を務めていたフィンランド放送交響楽団の首席指揮者に就任、複数のオーケストラの最高責任者という、「一流指揮者」の仲間入りを果たしたのです。そして、仕上げがヴィジュアル面での改造、眼鏡を取ったこの爽やかな「顔」が、これからのオラモの看板になっていくことでしょう。10月にはこのコンビで来日も予定されていますしね。
そんな「新生」オラモが取り上げたのが、バルトークです。指揮者によって様々に異なるイメージを与えてくれるバルトークですが、ここではなぜか、この爽やかな外見と全く違和感のない音楽が聞こえてきたのには、嬉しくなったものです。数々の演奏が市場を賑わしている「オーケストラのための協奏曲」、聞き所は満載ですが、ここでは決して熱くならない全体を見据えた視線がすがすがしく感じられます。「序章」でいきなり耳に入るフルートソロ(日本公演では、武満作品でソロを吹くペトリ・アランコでしょうか)の感触が、そんなすがすがしさを代弁しているようです。「対の遊び」では、ソロ(ソリ)を取っている管楽器よりも、まわりのパートの細かい「仕掛け」が手に取るように分かるという、絶妙なバランスがたまりません。「エレジー」も、タイトルから予想される「暗さ」とはあまり縁のない、各楽器の粒立ちの良さが光ります。ここで重要なソロを披露しているピッコロのちょっと不思議な音色も、聞き物です。「中断された間奏曲」では、例の、ショスタコーヴィチのテーマをからかったコミカルな部分と、ヴィオラのパートソロで始まるメランコリックな部分との対比が見事、それが最後にもう一度繰り返される時の緊張感も、なかなかのものです。そして「終曲」では、決して過剰に煽り立てることのない冷静さが、逆に巧まざる高揚感を招くという素敵な仕上がりになっています。
もう一つの「協奏曲」は、あの有名な「二台のピアノと打楽器のためのソナタ」のバックに、控えめにオーケストラを上塗りしたという「二台のピアノと打楽器のための協奏曲」です。オリジナルの「ソナタ」の鋭角的なイメージに慣れている人にとっては若干物足りなさも伴うピアニストたちですが、それだからこそ、この「協奏曲」バージョンの持つキャラクター、すなわち、モノクロームの「ソナタ」に施された鮮やかな彩色という一面が、際だって伝わってくるのかもしれません。そして、このようなシチュエーションだからこそ、最終楽章のあまりに楽天的なテーマも、なぜか全面的に許されてしまうのでしょう。

6月15日

DVORÁK, SCHUBERT, FRANCK
Flute Works
János Bálint(Fl)
Zoltán Kocsis(Pf)
HUNGAROTON/HCD 32280


ドヴォルジャークのソナチネ、シューベルトの「しぼめる花による序奏と変奏」そしてフランクのソナタという、フルート界では馴染みのあるプログラムのアルバムです。もっとも、ドヴォルジャークとフランクはもともとはヴァイオリンのための曲をフルート用にアレンジしたものです。演奏しているフルーティストは、ヤーノシュ・バーリントという、歌も歌えそうな(それは「バリトン」)名前の方、1961年生まれの中堅で、ハンガリー国立フィルの首席奏者を務めています。楽器は、日本の「パール」を使っているそうです。そしてピアノが、そのハンガリー国立フィルの音楽監督、つまり指揮者としての活躍も最近ではめざましいゾルタン・コチシュです。
ドヴォルジャークのソナチネでは、まず、誰が編曲をした楽譜なのか、というのが問題になります。かつてはランパルによるものが主流でしたが、これはちょっと地味、というか、ヴァイオリンパートをそのままフルートに置き換えただけのものなので、最近ではゴールウェイによるもっとフルートが目立つ編曲の方が人気があるようになっています。ここでバーリントが選んだのが、アラン・マリオン版、初めて聴くものですが、基本的にはランパル版と殆ど変わらないもののようです。その編曲の選択からも分かるように、バーリントの演奏はとても堅実というか、はっきり言ってかなり地味、終始コチシュのピアノが主導権を握っているという印象はぬぐえません。
シューベルトになると、その印象はさらに強まります。もちろんこれはオリジナルのフルートとピアノのデュオですから、フルートパートもかなり技巧的、どう吹いてもフルートが「勝てる」場面はいくらでもあるのですが、それがことごとくピアノに「負けて」しまっています。そもそも最初のテーマの歌い方からして、ピアノの序奏でコチシュが放つ細やかなニュアンスが、全くフルートに受け継がれないという具合で、表現における力の差が歴然としているものですから。まあ、それはそれで「フルートのオブリガートが付いたピアノソロ」といった趣を楽しむのも、一興かもしれません。
フランクの場合は、ライナーの表記に誤りがあります。「ロベール・カサドシュによる編曲」とあるのは間違いで(確かにピアノパートの校訂は行っていますが)、フルートパートの編曲をしたのはランパルです。ただ、ここでバーリントは、第4楽章のカノンのテーマを、最初は1オクターブ下げて演奏しています。途中から唐突にオクターブ上げるのも異様なのですが、ただでさえ目立たないフルートをこんなに埋没させてしまうなんて、この人はどこまで卑屈なのでしょう。
主役はフルートであるはずのアルバムですが、聴き終わってみると、久しぶりに味わったコチシュのピアノばかりが印象に残ってしまいました。フルートの伴奏に徹しているところもありますが、いざソロがまわってきた時の生き生きとした弾けようには圧倒されます。言ってみれば、格の違う演奏家と組んでしまったフルーティストの悲劇、でしょうか。
録音場所が、ブダペストの「フェニックス・スタジオ」、どこかで聞いたことのある名前だと思ったら、瀬尾和紀さんがNAXOSホフマンの協奏曲を録音したところでした。別になんの関係もありませんが。

6月13日

CANTELOUBE
Chants d'Auvergne
Véronique Gens(Sop)
Jean-Claude Casadesus/
Orchestre National de Lille
NAXOS/8.557491


かつて、カントルーブ−オーヴェルニュ−ダヴラツ・・・という、まるで暗号のような言葉が1セットで語られていた時代がありました。今でこそジョセフ・カントルーブが作った「オーヴェルニュの歌」という曲は誰でも知っている有名なものになっています。正確には「作曲」ではなく「編曲」になるのでしょう、カントルーブ自身が採取したフランスのオーヴェルニュ地方の素朴な民謡をソロで歌わせ、そのバックを色彩的なオーケストレーションで彩るという趣向、1924年から1955年にかけて5集27曲から成る曲集が作られました。その全曲を1963年に最初に録音したのが、ネタニア・ダヴラツというソプラノです。その録音(VANGUARD)が発表された頃には、そんな、どれが作曲者でどれがタイトルか分からないような状況は、確かにあったのです。そして、皮肉なことに、このセットがあまりに強烈に 当時のリスナーに刷り込まれたせいか、カントルーブという作曲家の作品は「オーヴェルニュ」以外には完璧に知られることはありませんし、ダヴラツも、この曲以外の録音を耳にすることは殆どなくなっています。クラシック界の「一発屋」、言ってみれば、さとう宗幸の「青葉城恋唄」といった趣でしょうか。
そのダヴラツ盤を聴き慣れた耳には、今回のジャンスの新しい録音は、とても洗練された、どこか別の次元にジャンプしたものに思えてしまいます。なんでもジャンス自身がこのオーヴェルニュ地方の出身だということですが、そのような「ご当地」の鄙びた味をここに求めるのは、ちょっと見当はずれなのかもしれません。彼女がここから導き出したものは、いたずらにローカリティを強調した「民族性」とか「土着性」といったものとは無縁の、もっと普遍的な音楽の魅力だったのです。もっと言えば、そこから聞こえてくるものは、殆どオペラと変わらないほどのドラマティックな説得力を持つものだったのです。有名な「バイレロ」の、極めて単純な旋律の中に、ジャンスはどれほどの細やかな情感を込めていることでしょう。「牧場を通っておいで」の「Lo lo lo」というだけの歌詞から、なんと深みのある意味を見出していることでしょう。何よりも好ましいのは、こういったものを演奏する時にありがちな過剰な「崩し」(中には、それをある種の芸としてありがたがる向きもありますが)が殆ど見られないということです。例えば、第1集の「3つのブレー」などでは、一歩間違えばくさい演技がむき出しになるところを、しっかり端正にコントロールされた「表現」として、私たちには伝わってきます。
改めてこの曲を聴いてみて強烈に感じられたのが、オーケストラの異常とも言える饒舌さ。カントルーブのオーケストレーションは、初めて聴く時にはおそらくかなりのインパクトを与えられるもので、それが心地よい印象となって好感を持たれることになり、これだけのポピュラリティを獲得することになったのでしょうが、じっくり聴いてみるとかなりの点で表面的な効果をねらったものであることが分かります。ピッコロを頂点とした木管群の強烈なオブリガートは、下手をしたらただの騒々しい雑音にも聞こえかねません。そんなオケをバックにした時、ジャンスほどの芯の強さを持たないことには、到底音楽的な主張を伝えることなど出来ないのかもしれませんね。

6月11日

Jazzkonzert in der Philharmonie Berlin
Thomas Quasthoff(Bar)
The Berlin Philharmonic Jazz Group
IPPNW/CD 49


今までも何回かとりあげたIPPNW、つまり「International Physicians for the Prevention of Nuclear War」日本語だと「核戦争防止国際医師会議」となる団体が主催しているコンサートのCD、今回は、2004年の9月にベルリンのフィルハーモニーという、あのベルリン・フィルの本拠地で行われたジャズのコンサートのライブ録音です。昔だったらオーケストラのコンサート会場でジャズとは、と、眉をしかめる人もいたかもしれませんが、今時そんなことを言ったりしたら笑われてしまいます。なにしろ、そのベルリン・フィルでさえ、大晦日のコンサートではジャズシンガーをゲストに迎えてガーシュインをやったりしているのですからね。その、ダイアン・リーヴスが参加した2003年の「ジルヴェスター・コンサート」の時に、ヴィオラ奏者の人が本格的なソロを聴かせてくれたのには驚いてしまいましたが、それもそのはず、彼は他のベルリン・フィルのメンバーと一緒に、プロフェッショナルな「ジャズ・バンド」を作っていたのですよ。そう、種明かしをしてしまえば、その「ベルリン・フィルハーモニック・ジャズ・グループ」のコンサートが、このCDのコンテンツだったのです。
ヴァイオリン(トランペットと持ち替え!)、ヴィオラ、ヴァイブ(もちろん「ビブラフォン」。他のものを想像した人っ?)、そしてドラムスとベースというユニークな編成、その2本の弦楽器のユニゾンが、ちょっと他では聴けない独特な持ち味を醸し出しています。その、かなりクールなジャズも大いに楽しめるのですが、このコンサートではもう一人、ものすごいゲストが登場します。それはヴォーカルのトーマス・クヴァストホフ。ご存じ、リートや宗教曲、そして最近ではオペラでも大活躍のあのバリトンが、ジャズ・ヴォーカルを披露してくれるというのですから、これは楽しみです。しかし、それは「楽しみ」などという生やさしいものではありませんでした。この名バリトンが別のジャンルで見せてくれた才能には、心底から脱帽させられてしまったのですから。
「ミスティ」や「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」のようなスローバラードでの、彼のなめらかな甘い歌声はどうでしょう。ここには「クラシック」の押しつけがましさなど微塵もない、完璧な「ジャズシンガー」の姿があります。サッチモのだみ声を真似したり、ソロのトランペットに合わせてバズィングをしたりという余裕すら。「ソング・フォー・マイ・ファーザー」でのスキャットも、堂に入ったものです。しかし、本当に驚かされたのは、「ソロインプロヴィゼーション」というタイトルの、彼自身の曲です。クヴァストホフがたった一人の「ソロ」で繰り広げたものは、こんなことはこの人にしか出来ないのでは、と思っていたあのボビー・マクファーレンの神業の世界だったのです。ブルース・コードに乗ったスィンギーなベースラインを歌いながら、ありとあらゆるテクニックを駆使して聴かせてくれる「インプロヴィゼーション」、しかも、会場のお客さんのリアクションを聴いても分かるように、それは完璧なエンタテインメントでもあったのですよ。
それに続くジョビンのボサ・ノヴァ、「波」や、最後のナンバー、軽快なジャズ・ワルツにアレンジされた「サマータイム」を聴く頃には、すっかりこの超辛の「ジャズシンガー」のファンになってしまっていました(タバスコ豊富)。もし映像があったなら、特に「ソロ」はぜひ見てみたいものです。

6月9日

BEETHOVEN
Symphony 4 & Symphony 7
Philippe Herreweghe/
Royal Flemish Philharmonic
TALENT/DOM 2929 100(hybrid SACD)


まさにたった今、すみだトリフォニーホールでベートーヴェン連続演奏会の真っ最中のヘレヴェッヘとロイヤル・フランダース・フィルの、そのベートーヴェン全集の劈頭を飾るアルバムが手元に届きました。ヘレヴェッヘのベートーヴェンと言えば、1998年にHARMONIA MUNDIに録音した「第9」がありましたね。その時のオーケストラはオリジナル楽器の団体であるシャンゼリゼ管でしたが、今回は彼が音楽監督を務めるベルギーのモダン・オーケストラ、レーベルもベルギーのTALENTです。もちろん、ハワイではありません(それは「フラダンス」)。
このような、オリジナル楽器の団体と深い関係を持っていた指揮者とモダン・オーケストラという組み合わせでは、古くはジンマンとチューリッヒ・トーンハレ、最近ではノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団というコンビが注目されていましたね。いずれも、現代のオーケストラにオリジナル楽器特有の奏法を用いさせたり、一部の楽器はオリジナルそのものを使用したりして、古典派、ロマン派のレパートリーをよりその当時に近い形で演奏するという試みを行っていました。その結果、あまりにも恣意的で大方の賛同を得ることはついに叶わなかったジンマンのような失敗例はありますが、ノリントンたちのように、その確かな音楽性を以て、今まで誰もなしえなかった新鮮なベートーヴェン像を送り届けることに見事に成功した団体もあったのです。もちろん、ノリントンの場合でも、極端に従来とかけ離れたテンポ設定や、唐突な表現などには多少の違和感がなかったとは言えませんが、それは彼のもたらす生命力あふれるエモーションで充分にカバーできたことでしょう。
そして、今回のフランダースです。まず耳を惹くのは、ガット弦による弦楽器の美しさ。単に音色だけではなく、多くの弦楽器が同時に弾かれた時の「マス」としての存在感が、とても素敵。それは、オリジナル楽器の素朴さと、モダン楽器の華麗さの良いところだけをとって精製したような、独特の「フワフワ感」を持つものでした。管楽器も極力ビブラートを押さえて、見事にこの弦楽器との調和を保っています。そこへ、おそらくかなりオリジナルに近い楽器だと思われるティンパニが加わります。このティンパニ、その粗野な響きは「ピュア」な弦と管の中にあって、確かなアクセントとして機能しています。トゥッティでの華やかさはもちろんですが、例えば「4番」の第2楽章で少し堅めのバチを用いて叩かれるソロなどは、とても魅力的です。
ヘレヴェッヘの指揮は、以前ブルックナーで感じたものと同じ、至るところで彼の持ち味である流れるような「歌」を存分に楽しむことが出来ます。彼の合唱でのキャリアを持ち出すまでもなく、そこにあるのは人間の生理に逆らわない自然な音楽です。その好例は「7番」の第2楽章。「ミー、ミ、ミ、ミーミー」という無機的なテーマに、彼はなんという「歌」を込めているのでしょう。中間部の木管は、まるでよく訓練された合唱団のように、均質な響きで迫ってきます。ここには、モダン、オリジナル、といった範疇を超えた、真に「美しい」音楽が、最高の形で息づいています。
楽譜についてはライナーにはなんのコメントもありませんが、ベーレンライター版を用いているのは明らかです。個々の楽器の粒立ちが見事に聞こえてくる卓越した録音のおかげで、それは容易に確認することが出来ます。というより、ことさら言及しなくてもすでにこのエディションは心ある演奏家の間ではすでにスタンダードとなっているのだと受け止めるべきなのかもしれません。

6月8日

LLOYD WEBBER
Phantasia
Sarah Chan(Vn)
Julian Lloyd Webber(Vc)
Simon Lee/
The London Orchestra
EMI/558043 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55730(国内盤 7月13日発売予定)

つい最近映画版「オペラ座の怪人」(あのオープニング、埃にまみれたセットはすごかったですね・・・「オペラ座の灰燼」)のサントラ盤をご紹介したばかりですが、これはその副産物のような企画です。2004年、この大ヒットミュージカルの映画化に当たって、その華麗なサウンドを担うべくコンサート・マスターのピーター・マニングの許に集結したロンドンの腕利きのオーケストラ・プレーヤーたちは、2005年2月、再び、今度は全く異なるアプローチの「オペラ座の怪人」を作り上げるために、スタジオに集まったのです。もちろん、指揮を担当したのは、サントラと同じサイモン・リー、そして、今回はソロとして「天才少女」サラ・チャンのヴァイオリンと、作曲者アンドリューの弟、ジュリアン・ロイド・ウェッバーのチェロが加わります。つまり、この「ファンタジア」という作品は、ヴァイオリンとチェロをそれぞれこのミュージカルの登場人物の2人、クリスティーヌとファントムに見立てた二重協奏曲という体裁を持つものなのです。ちなみに、この編曲を行ったのは、ハリウッドでオーケストレーターとして活躍しているジェフリー・アレクサンダー、アンドリュー自身は、魅惑的なメロディーを作り出す才能には長けていますが、このような「サウンド」を作り出す能力はありません。
オープニングは、映画でおなじみ、「Masquerade」のオルゴールバージョンです。そして、型どおりオーバチュアである「The Phantom of the Opera」の半音階のイントロへと続きます。ただ、ここでソリストたちが行っているのは、テーマに重ねてひたすら技巧的なパッセージを紡ぎ出すこと、あの心地よいメロディーに浸りきりたいというリスナーの望みには、しばし辛抱が伴うことになります。そのあとには、殆ど意味のないカデンツァまでも披露されるのですから。しかし、「Think of Me」、「Angel of Music」と続く頃には、甘く歌い上げるヴァイオリンやチェロの調べに酔えるだけの余裕も出てくることでしょう。「Don Juan」の無機的な全音音階にその空気が打ち破られるまでは。何しろ、このアレクサンダーの編曲はとても一筋縄ではいかない凝ったもの。オリジナルのミュージカルのことは出来れば忘れて欲しいと言わんばかりの、ひねくれた挿入と、そしてソリストたちの執拗なまでの技巧のひけらかしの連続です。
しかし、名曲「All I Ask You」ともなれば、いくら何でもコテコテに歌い上げないわけにはいきません。チェロはひとときラウルに成り代わったように、愛のデュエットが繰り広げられます。そのまま「Masquerade」に移ったあたりが「第2部」でしょうか、またもや2人のソロによる長大なカデンツァが披露されたあと、なんと聞こえてくるのは映画のために新たに作られた「Learn to Be Lonely」ではありませんか。最初からそこにいたような顔をして、しっかりその存在を主張するふてぶてしさは、ある意味見事です。「The Point of No Return」に続いて、エンディングは「The Music of the Night」、この、ファントムのクリスティーヌに寄せる思いのたけを綴った、悲しいほどに美しいナンバーが最後に控えているのは、このミュージカルのファンにも、そしてヴァイオリニストとチェリストのファンにも決して満足のいくことのない中途半端な編曲の罪滅ぼしにさえ感じられる、心を打つ配慮です。
カップリングの「ウーマン・イン・ホワイト組曲」では、そのようなストレスから離れて、この2004年に公開されたばかりの最新作のエキスが、ローレンス・ロマンの素直な編曲によって存分に楽しめることでしょう。

6月6日

CASTELNUOVO-TEDESCO
Naomi and Ruth
Ana Maria Martinez(Sop)
Neville Marriner/
Academy and Chorus of St. Martin-in-the-Fields
NAXOS/8.559404


マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコという、長ったらしいラストネームを持つ作曲家については、ギターとフルートのアンサンブル曲で知っていただけ、ギターの作品がかなり多いこともあって、スペインの人かと本気で思っていたものでした。実はイタリア生まれのユダヤ人、第二次世界大戦中に、迫害を逃れてアメリカへ移住、晩年はハリウッドで映画音楽の仕事にも携わっていたことも、初めて知りました。そんなわけですから、彼にこんな合唱作品があったことなども、このCDでやはり初めて知ったことになります。
もう一つ、初めて知ったのは、このタイトル曲「ナオミとルツ」の「ナオミ」というのは、「直美」や「尚美」とは無関係、旧約聖書の中に登場するキャラクターだったと言うことです。「ナオミ・キャンベル」や「ナオミ・ワッツ」は、だから日本とはなんの関係もないことを今更ながら知ったということで。この曲は、その「ナオミ」と、その息子の嫁である「ルツ」の物語(と言っても、恩返しに機は織りません・・・それは「ツル」)、旧約聖書の「ルツ記」からテキスト(英語)が取られている、ごく短いオラトリオです。ナオミの言葉がソプラノ・ソロによって歌われ、その他の物語が合唱で語られます。しかし、そんな、ある種堅苦しいイメージなど、曲が聞こえてきたらどこかへ吹っ飛んでしまいました。それは、まるでミュージカルのような、心を打つメロディーの宝庫だったのです。一度聞いたらすぐ覚えてしまいそうなその平易な旋律は、控えめのハーモニーと、シンプルなカノンで彩られて、とても素直に耳に入ってくるものです。ソプラノソロの「アリア」も、そのままヒット・チューンとして使えそうなキャッチーな肌触り、これを歌っているマルティネスの張りのある声も素敵です。これで、合唱(女声合唱)の、ぶら下がり気味の音程と、主体性のない発声がなかったら、さぞかし素晴らしいものになっていたことでしょう。
これは1947年の作品ですが、1960年に作られた「死者のための追悼式」という作品からの抜粋を、最後に聴くことが出来ます。これも、曲自体のテイストは「ナオミ」と全く変わらないメロディアスなもの、特に、3曲目の「Shiviti」のしっとりとした味わいは、なかなかのものです。ただ、テキストがヘブライ語であるのと、ソロを担当するのがブルーベックの時にも登場したユダヤ教の司祭「カントール」ですから、ちょっとしたコブシの具合で、「ナオミ」とは全く異なった泥臭い印象が与えられるのが面白いところでしょう。
もう1曲、「シナゴーグの聖典礼」という、15の短い曲を集めたものがあります。バリトンとテノール独唱に合唱、オルガン伴奏という編成の、特にバリトンがなかなか雄弁に語る曲ですが、この合唱(「ナオミ」とは別の団体)がちょっとお粗末で、聴く気をそがれてしまったのは残念です。そもそも、オルガンとピッチが全然合っていないのですから。
このCDにはオルガン独奏の曲も収録されています。「我が祖父が書いた祈り」というタイトル通り、カステルヌオーヴォ=テデスコのお祖父さんが亡くなった時に遺品の中にあった楽譜に書かれていた祈りのメロディーを元に作られた曲です。ここからは、あくまでその素朴な「祈り」を生かすために全精力を傾けて編曲したであろう作曲家の「心」が痛いほど伝わってきます。そこにあるのは祖父への純粋な愛、これほど無防備に心をさらけ出せる作曲家がいたことを知って、ちょっと感動しているところです。

6月4日

C.P.E.BACH
Matthäus-Passion 1781
Karl-Friedrich Beringer/
Windsbach Knabenchor
Deutsche Kammer-Virtuosen Berlin
RONDEAU/ROP2027


C.P.E.BACH
Matthäus-Passion 1785
Joshard Daus/
Zelter-Ensemble der Sing-Akademie zu Berlin
CAPRICCIO/60 113


大バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハの「マタイ受難曲」です。1767年に、彼の「ゴッドファーザー」であったゲオルク・フィリップ・テレマン(「フィリップ」をもらったのですね)の後継者として、ハンブルクの5つの大きな教会のカントールとなったバッハ(あ、もちろん「エマニュエル」ですが)は、1769年から1789年まで毎年、新約聖書の4つの福音書に基づく受難曲を作ったということですから、全部で21曲の「○○受難曲」が残されていることになります。彼は1788年には亡くなっているので、きちんと次の年の分まで作っていたということになりますね。その中に「マタイ」は6曲ありますが、そのうちの1781年と1785年のものが、このたび「世界初録音」ということで華々しく登場しました。
作られてから200年以上も経ったものが、今頃「初録音」というのはちょっと奇異な感じがしますが、それには訳があります。これらの楽譜はハンブルクを離れて、例のメンデルスゾーンによる「マタイ」(これは大バッハ)の蘇演で有名な、ベルリンの「ジンクアカデミー」のコレクションとなっていたのですが、第二次世界大戦の末期に、ソ連軍の手によって全て持ち去られていたのです。それがやっと、2001年になって晴れてベルリンに返還され、校訂の手が施されてこのように初演以来初めて「音」として聴くことが出来たというわけなのです。
大バッハの「マタイ」は、演奏に3時間以上もかかるという膨大なものなのですが、それから60年近くの時を経て、場所もライプチヒからハンブルクへ変わると、この曲を演奏する環境が大きく変わることになります。何しろ、そこでは5つの教会(場合によってはさらに他の教会で演奏されることもありました)で同じものを演奏しなければなりませんし、他の礼拝と一緒にされてしまうということもあって、せいぜい1時間程度の長さしか与えられないようになるのです。今回のCDも、もちろんどちらも1枚だけで全曲が収まってしまうという、コンパクトなものになっています。
少年合唱の初々しさが心地よい1781年ものを演奏しているベリンガー盤、そして、いかにも「大人」の演奏を聴かせてくれる1785年もののダウス盤、いずれの曲も、ちょっと聴いてみるだけですぐ分かるのですが、大バッハ版「マタイ」からの引用が数多く見られます。殆どのコラールは聴いたことがあるものですし、劇的な場面で使われる合唱も、あの印象的なフーガがそのまま使われているのですから。そして、どちらの曲でも、最後はあの印象的な受難コラール「O Haupt voll Blut und Wunden」で締めくくられるというもの。まさに大バッハ版のダイジェストといった趣です。思い切り痩せたと(それは「ダイエット」)。ベリンガー盤のライナーにはきちんと注釈があるのですが、その間の合唱やアリアなども、実は殆どエマニュエルのオリジナルではなく、別の作曲家の引用であることが分かります。しかし、ここぞというところに、紛れもなくエマニュエルの個性がしっかり表れたアリアなどが挿入されているのは、嬉しいものです。
想像するに、この頃の受難曲では、大昔に作られた大バッハのものが「型」として延々受け継がれていたのではないでしょうか。誰でもそれを聴けば安心できるという、ある種「懐メロ」、その中に、様式的にはまさにモーツァルトと同時代の音楽が潜んでいても、誰も目くじらを立てたりはしなかったのでしょうね。
いずれ全貌が明らかになるであろう、エマニュエルの受難曲の世界、楽しみです。

6月3日

American Angels
Anonymous 4
HARMONIA MUNDI/HMU 807326(hybrid SACD)


このCDのジャケットには、「キルト」がデザインされています。このタイトルに使われているのは、緑の山々が連なる何とものどかな光景が1枚だけですが、CDケースを開けてCDを取り出すと、その後ろには同じような肌触りのキルトが9枚現れます。そして、ブックレットの最後では、それらも含めた全部で36枚のキルトが所狭しと並んでいるのです。そんな素朴なキルトの写真を眺めているだけで、すでに、いかにも古き良きアメリカと言った佇まいがひしひしと伝わってきます。
中世から現代まで、様々な音楽を彼女らなりの手法で紹介してくれてきた「アノニマス4」の新しいアルバムは、そんなぬくもりあふれるアメリカの伝承歌を集めたものになりました。元々は中世の音楽を演奏するために結成されたこの4人組の女声ヴォーカル・グループは、現代のアカデミックな発声からは距離を置いた、素朴とも言える響きによって、そんな時代を表現するにはうってつけの世界を繰り広げています。ここで紹介されているのは、もちろん時代的にはもっと先の18世紀から19世紀のものですが、ここでの彼女らの演奏を聴くと、例えば楽譜では書き表せないような微妙な音程や装飾という、いわば「口伝え」で伝えられるような性質の表現には、時代が変わっても共通するものがあることがよく分かります。ハーモニーでも、まるでオルガヌムのように5度で響き合うことが多いのも、そんな印象を助長するものなのかもしれません。
そんな中で、よく知られたゴスペル・ソング、「Sweet By and By」や「Shall We Gather at the River」あたりは、洗練されたハーモニーと、対位法的な処理も見られるという、聴き応えのあるものになっています。ただ、ここで取り上げられている伝承歌から見えてくる「アメリカ」というのは、あくまで、最初にこの地に移住してきた、いわゆる「アングロ・アメリカン」の範疇にあることは、注意しておかなければならないでしょう。もう少し時代が下がると、「アメリカ」にはそれまでのヨーロッパとは別の起源を持つ音楽が入り込んでくることになります。いうまでもなく、それは「アフリカ」の音楽。現在ではそのアフリカ系の音楽、ブルース、ジャズ、ソウル、そしてヒップ・ホップが、アメリカだけではなく、全世界を支配しているのは、言うまでもありません。
そんな、逞しいばかりのパワーを持った勢力によって、殆ど歴史の片隅に押しやられてしまったか弱い「天使」たち、巷ではかの「勢力」の持ち歌であるあの「Amazing Grace」が圧倒的な力で迫ってくる中では、この歌の元となったであろう「New Britain」は、いかにも頼りなさげに聞こえます。しかし、アノニマス4の、決して「澄み切った」とは言えないようなクセのあるハーモニーで歌われたとき、これらの歌は本来持っていたはずの力強さを取り戻すことが出来たのかもしれません(頼みますよ)。リーダー格のマーシャ・ジェネンスキーのちょっとだみ声に近いソプラノを聴けば、その思いはさらに強まることでしょう。

6月1日

XENAKIS
La légende d'Eer
Gerard Pape(Remix)
MODE/MODE 148


クセナキスが1978年にパリのポンピドゥー・センターのオープニングのために作ったテープ作品、「エールの伝説」が、新しいリミックスで登場しました。以前にもこの作品はCDで出ていたそうなのですが、あいにく私は聴いたことがありません。ですから、これが初めての「エール体験」となるので、以前のミックスと比較は出来ませんが、各チャンネルの分離が明確で、ヒスノイズのないクリアな音は、かなり高いクオリティのものであることはよく分かります。ただ、この作品のオリジナルは7チャンネルのテープを11個のスピーカーで再生するもの、しかも、演奏の際は作曲家自身がコンソールを操作したのでしょうから、それを他の人が2チャンネルにトラックダウンした時には、自ずと別のものが生まれることになります。機会があれば、別ミックスのCDも聴いてみたいものです。
建築家(ル・コルビュジュの弟子)でもあったクセナキスは、「建築と音楽のコラボレーション」という、とてつもないコンセプトを打ち立て、1958年のブリュッセル万博での「フィリップス館」で、それを実現させました。パヴィリオンの設計はもちろんクセナキス自身が行い、その中では光とシンクロさせたテープ音楽「コンクレPH」が演奏されます。そして、その音楽の中には、建築設計の時の数学的なデータが変換されて入っているという、ちょっと人間の知覚の限界を超えるような「仕掛け」が施されているのです。これが後に「ポリトープ」と呼ばれるようになり、1967年のモントリオール万博のフランス館では、テープではなく4つのオーケストラの生音が、パヴィリオンの中に響き渡ったのでした。
このポンピドゥー・センターで行われたものも、その「ポリトープ」の系譜に属するものですが、ここでは「ディアトープ」と、ビールを飲ませるフーゾク(それは「ビアソープ」)みたいに呼ばれています。連続する、全部で6つの部分から成る50分弱のテープ音楽、その中には、もちろん数学的な意味を持つ電子音も含まれていますが、多くは実際の楽器や「モノ」から出る音をサンプリングして、それに様々な加工を施すという、いわゆる「ミュージック・コンクレート」の手法が使われています。
最初の「第1部」では、およそクセナキスらしからぬ静謐な世界が広がっているのに、まず驚かされます。ここでは、虫の音のような非常に高い周波数の音が、微細音程で重なり合って、まるで脳の中枢に直接働きかけられるような、ちょっとアブない体験を味わえるかもしれません。「宇宙の始まり」といった趣でしょうか。それに続く部分は、徐々に音のスペクトルが低周波へシフト、水の音や石を擦り合わせる音といった「具体音」のクラスターが所狭しとスピーカーの間を踊り廻る生命力あふれるパートとなります。「第4部」あたりは、まるでディストーションのかかったギターのような暴力的な電子音が登場、殆どヘビメタの領域に入っていく感じすら。そして「第5部」は、かなりソフィストケートされた、まるでスティーヴ・ライヒのようなテイストに支配されます。最後の「第6部」は、「第1部」の再現、鳥のさえずりのようなリズムの単音が果てしなく繰り返され、全ては闇の中へと収束していきます。
本来は、もちろんおびただしい数のレーザー光やフラッシュライトが醸し出すイメージの中で聴かれる音楽、しかし、それはデータが残っていないために永遠に再現不能なものですから、逆に想像を働かせて音の海に身を任せるのも、ちょっと素敵な体験かもしれません。

おとといのおやぢに会える、か。


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